刑罰代償説

あがなう

 

 

1.聖書

2.贖罪の意味

3.キリストの功績と義の転嫁は不可能

4.転嫁の意味

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記24・16

 

父は子のゆえに死に定められず、子は父のゆえに死に定められない。人はそれぞれ自分の罪のゆえに死に定められる。

 

 

 

出エジプト23・7

 

わたしは悪人を正しいとすることはない。

 

 

 

エレミヤ31・30

 

人は自分の罪のゆえに死ぬ。だれでも酸いぶどうを食べれば、自分の歯が浮く。

 

 

 

エレミヤ33・11

 

わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。

 人の子よ、あなたの同胞に言いなさい。正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち帰るときには、自分をつまずかせることはない。

 

 

 

 

マタイ16・27

 

わたしはそれぞれの行いに応じて報いるのである。

 

 

 

黙示録20・12、13、15

 

それは命の書である。死者たちは、これらの書物に書かれていることに基づき、彼らの行いに応じて裁かれた。死と陰府も、その中にいた死者を出し、彼らはそれぞれ自分の行いに応じて裁かれた。その名が命の書に記されていない者は、火の池に投げ込まれた。

 

 

 

黙示録22・12

「見よ、わたしはすぐに来る。わたしは、報いを携えて来て、それぞれの行いに応じて報いる。」

 

 

 

 

 

1. 贖罪の意味

 

真の基督教640

 

基督の功績と義とによって意味されている所を、理解することが先ず必要である。救い主、我らの主の功績は、贖罪であり、贖罪は諸々の地獄を征服し、諸々の天界を秩序正しく排列し、その後教会を設立することであった(114、133番)。

 

かくして、それは純粋に神的な業であった。贖罪によって主は、主を信じ、主の誡命に従う者達を再生し、これを救う能力を身に帯び給うた。それ故、贖罪なくしては何人も救われることは出来なかった。贖罪は主のみによる純粋な神的な業であり、これが主の功績である故、それは宇宙の創造と維持と同様に人間に帰せられ、または転嫁されることが出来ないことが推論される。実に、贖罪は或る意味において天界と教会の新しい創造であったのである。(後略)

 

 

 

主イエス・キリスト15

 

不法[罪]を負うことは甚だしい試練に堪えることを意味し、またユダヤ人に彼らが聖言を扱ったようにかれを扱うままにさせることを意味している―彼らがそうしたことを為したのは、かれは聖言であられたからである。

 

 

2.キリストの功績と義の転嫁は不可能

 

真の基督教641

 

基督の功績と義とは純粋に神的なものであって、純粋に神的な物が人間に注ぎ込まれるならば、彼は立ち所に死ぬであろう。何故なら、彼は太陽に投げ込まれた丸太のように燃え尽くされ、かくしてその灰すらも殆ど残らないからである。それ故主は天使と人間の能力に応じて和らげられ調節される光と熱とによって、その神性の中に在し給いつつ彼らと交わり給うのである。(中略)

 

主の功績と義とは、純粋に神的なものである故、到底それは転嫁によって如何なる天使にも人間にも移譲されることは出来ない。神的な火花の閃光でも、彼等に触れるならば、立ち所に彼らは死の苦悶の中に死ぬであろう。ここから、何人も神を見て生きることは出来ないというイスラエル教会の宣言が生まれている。

 

 

3.転嫁の意味

真の基督教643

 

<転嫁は存在する。しかしそれは善と悪との転嫁であり、同時に信仰の転嫁である>

 

聖言に転嫁が記されている箇所では、善と悪との転嫁が意味されている。これはその中の無数の言によって明白である、そのある言は既に引用した。各人に納得させるために、以下の付加的な記事を引用しよう。

 

「人の子は来たらん、その時おのおのの行為に随いて報ゆべし」(マタイ16・27)

「善をなしし者は生命に甦り悪を行いし者は審判に甦るべし」(ヨハネ5・29)

「生命の書なる書展かれたり、各々その行為に随いて審かれたり」(黙示録20・12、13)

「見よ、われ報いをもて速やかに到らん、各人の行為に随いてこれを与えん」(黙示録22・12)

「我は彼の道に従いて罰し、彼にその業を報ゆべし」(ホゼア4・9。ゼカリヤ1・6。エレミア25・14,32・19)

「その審判の顕るる怒りの日に神は各々の所作に随いて報ゆべし」(ロマ2・5,6)

「我らはみな必ずキリストの審判の座の前にあらわれ、善にもあれ、悪にもあれ各々その身になしたる事に随いて、報いを受くべければなり」(コリント後5・10)。

 

 教会の初期には、これ以外の転嫁の法則はなかったし、終りにもこれ以外のものは無い。教会の初期については、アダムとその妻とは善悪を知るの木の実を食らったために罪に定められた(創世記2及び3)。教会の終わりについて、主は語り給う、「人の子はその栄光をもて来る時、その栄光の座位に座し、右におる羊に言わん、我が父に祝せられたる者よ来たりて世の創より汝らの為に備えられたる国を継げ、そは我が飢えしとき、汝らは食わせ、渇きしときに来りたればなり。」(マタイ25・31、33、34、35,36)然し、彼の左手の山羊に対しては、彼らは如何なる善をも為さなかったために、「汝ら呪われし者どもよ、我を離れて、悪魔とその使いのために備えられし永遠の火に入れ」(マタイ25・41)と語り給うている。これらの記事は明らかに善と悪との転嫁のあることを示している。

信仰の転嫁もまた存在する、それは善に関わる仁慈および真理に関わる信仰は良き業の中に結合されており、両者がそのように結合されない限り、業は善ではないからである(373−377番)。それ故、ヤコブは語っている。「我らの父アブラハムはその子イサクを祭壇に捧げし時、行為によりて義とせられたるに非ずや。なんじ見るべし、その信仰、行為と共にはたらき、行為によりて全うせられたるを。またアブラハム神を信じ、その信仰は義として彼に転嫁されたりと言える聖書は成就されたり。」(ヤコブ2・21−23)。