ご託身の理由

 

贖う

 

 

 

1.ご託身には多くの理由がある

2.神の働きは秩序を通して進む

3.地獄に近づくため・悪魔を亡ぼすため(手紙類から)

4.人間に恐れを感じさせないため。焼き尽くさないため

5.人の苦しみを実体験されるため

6.十字架に釘づけられたのは罪人たちに回心の時を与えるため

7.手本を示すため

8.わたしたちに祈ることを教えようとして祈られた

9.主は聖言に対する教会の状態を表象された

10.人間的な自分自身のものに神的な天的な自分自身のものを結合された

11.見えない神とは如何なる交わりもない・・・主のご人性を通して

12.人類の傲慢を滅却するため

13.主は霊的な者を救うために来られた

14.もし主がその神的慈悲の中に来られなかったならば、地上の全人類は滅んでしまったであろう

15.主は相応によって御自分から悪を退けることによって天界の秩序を回復された

16.その他

17.ルイザ・ピッカレータ

18.主がその神的な人間的なものの方面で神的な光となられ、かくて天界全体と世全体とを明るくされるため

19.聖母から司祭へ

20.神自身を拝しはしないことのないように

21.マリア・ワルトルタ

22.人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られた

23.アグレダのマリア

24.善と真理の中にいる者たちがこうした悩ます者らから解放されるために、主は世に来られた

25.マリア・ワルトルタ

27.サンダー・シング

 

 

 

 

マタイ9・13

 

わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。

 

 

 

マタイ10・34−39

 

わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。人をその父に、娘を母に、嫁をしゅうとめに。こうして、自分の家族が敵となる。

わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。

 

 

 

マタイ20・25−28

 

そこで、イエスは一同を呼び寄せて言われた。「あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。人の子が、仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのと同じように。」

 

 

 

マルコ1・38

 

イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」

 

 

 

マルコ2・17

 

イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」

 

 

 

マルコ10・45

 

人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。

 

 

 

ルカ4・42−44

 

朝になると、イエスは人里離れた所へ出て行かれた。群衆はイエスを捜し回ってそのそばまで来ると、自分たちから離れて行かないようにと、しきりに引き止めた。 しかし、イエスは言われた。「ほかの町にも神の国の福音を告げ知らせなければならない。わたしはそのために遣わされたのだ。」 そして、ユダヤの諸会堂に行って宣教された。

 

 

 

ルカ5・31−32

 

 イエスはお答えになった。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」

 

 

 

ルカ19・10

 

人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。

 

 

 

ヨハネ9・39

 

イエスは言われた。「わたしがこの世に来たのは、裁くためである。こうして、見えない者は見えるようになり、見える者は見えないようになる。」

 

 

 

ヨハネ10・10

 

盗人が来るのは、盗んだり、屠ったり、滅ぼしたりするためにほかならない。わたしが来たのは、羊が命を受けるため、しかも豊かに受けるためである。

 

 

 

ヨハネ12・47

 

わたしの言葉を聞いて、それを守らない者がいても、わたしはその者を裁かない。わたしは、世を裁くためではなく、世を救うために来たからである。

 

 

 

ヨハネ12・27

 

「今、わたしは心騒ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

 

 

 

ヨハネ15・23−25

 

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。だれも行ったことのない業を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。

 

 

 

ヨハネ18・37−38

 

そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。ピラトは、こう言ってからもう一度、ユダヤ人たちの前に出て来て言った。「わたしはあの男に何の罪も見いだせない。

 

 

 

 

1.ご託身には多くの理由がある

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教84

 

神は人間性を取り給うことなくしては、人類を贖うこと即ち、彼らを堕地獄と地獄から救い出すことが出来ない多くの理由がある。

 

 

 

 

2.神の働きは秩序を通して進む

 

 

アタナシウス信条P25

 

以下の結論を可能な限り明白に述べよう、それは、神の働きはことごとく、最初のものから最後のものへと、凡ゆる秩序を通して進み、そこに働きかけられるためである。なぜなら最後のものの中に凡ゆるものが同時に存在するからであり、そのために以下のことが示されているのである、

 

 

 

天界の秘義2077

 

主の情愛または愛は全人類に対するものであって、それは神的なものであり、主はその人間的な本質をその神的な本質に結合されることによって全人類を御自身に完全に接合させ、永遠にかれらを救おうと望まれたのである(この愛については1735を参照されたい。この愛から主はいくたの地獄と絶えず戦われた、1690,1789,1812、また主はその人間的なものをその神的なものに結合されたことにおいて、神的なものを人類と連結させること以外には何ごとをも顧みられなかったのである。

 

 

 

 

3.地獄に近づくため・悪魔を亡ぼすため(手紙類から)

 

 

ヘブライ2・14−15

 

 ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは死をつかさどる者、つまり悪魔をご自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。

 

 

 

ヨハネ1・3・8

 

悪魔の働きを滅ぼすためにこそ、神の子が現れたのです。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ(ロスキーニ「聖母マリア」)/エピソードで描くマドンナの肖像/天使館/霊のパン/2008.10/3号/P55

 

しかし、サタンによってアダムとその子孫に注入された欲望のすべてを贖う必要があった。これを成就するためには、あなたたちのすべての過ちのために生贄となるものは、あなたたちと同等の特性を持つ必要があった。

 

 

 

天界の秘義581

 

『ネピリム』により自分自身が高尚であることと卓越していることを確信し、そこから聖い真のものを尽く軽視した者が意味されていることは前後に述べられていることから明らかである。すなわち、かれらは信仰の教義的なものを己がいくたの欲念の中に浸してしまったのであり、そのことが『神の子らは人の娘達の所へ入って、かの女らはかれらに子を生んだ』により意味されているのである。自己とその諸々の幻想に関わる信念はその中に入って来る夥しい物に応じてまた増大し、ついにはそれは消滅しなくなり、それに信仰の教義的なものが附加されると、その時かれらは最も強固な信念の原理から聖い真のものをことごとく軽視して、ネピリムとなるのである。洪水以前に住んだ種族はその最も恐るべき幻想により(それはかれらから有毒な窒息させるスフィアとして注ぎ出されるのであるが)凡ての霊を殺し、これを窒息させるといった底のものであって、そのため霊達は考える力を全く剥奪され、半ば死んだようにも感じるが、主が世に来られて霊達の世界をその有毒な種族から解放されなかったならば、何人もそこに存在することはできなかったのであり、従って主により霊達を通して支配されている人類も死滅してしまったであろう。それゆえかれらは今は地獄の謂わば霞んだ濃い色の岩のようなものの下に、左足の踝の下におかれており、かれらもまたそこから上に登ろうとは些かも企てはしていない。かくして霊達の世界はこの最も危険な一味から解放されているのであるが、かれらとその最も有毒な信念のスフィア[霊気]については主の神的慈悲の下に今後述べよう。これらが『ネピリム』と呼ばれ、聖い真のものを凡て軽視するやからである。聖言には更にかれらについて記されているが、しかしその子孫は『アナキム』、『レパイム』と呼ばれたのである。かれらが『アナキム』と呼ばれたことはモーセの書から明らかである―

 

 わたしたちはまたアナクの息子ら[子孫]、ネピリムの息子ら、ネピリムをそこに見た、わたしたちはわたしたち自身から見ると蝗のようであり、また彼らの目にもそのように見られた(民数記13・33)。

 

 かれらは『レパイム』と呼ばれたこともモーセの書に明らかである―

 

エミ人が前にモアブの地に住んだ、この民は偉大で数多く、丈が高く、アナク人のようであった。この民はまたアナク人のように、レパイムと呼ばれたが、モアブ人はこれをエミ人と呼んだ(申命記2・10、11)。

 

(中略)

 

 あなたは死んだ者にくすしいことを示されましょうか。レパイムは起きて、あなたを告白しましょうか(詩篇88・10)。

 

 これも同じくレパイムの地獄について語っており、かれらは起き上がって、その信念の非常に恐るべき毒を霊たちの世界のスフィアに感染させることができないことを語っている。しかし人類はもはやこうした恐るべき幻想と信念に感染しないように主により定められている。洪水以前に生きた人々は、未だ知られていない理由からそれに感染することができる性質と資質とをもっていたのであるが、そのことについては主の神的慈悲の下に今後述べよう。

 

 

 

 

天界の秘義1573[7]

 

同じように説教者たちは主もまた人類の不法と悪を負われたと普通語っているが、しかし主が遺伝的な方法によらなくて、御自身の中に不法と悪とを許容されることは全く不可能である、なぜなら神的なものは悪を受けることはできないからである。それゆえ主は御自身の力により悪を征服されるために―これはたれ一人行うことはできなかったのであり、またはできもしないのであるが―かくて主のみが義となられるために、主はすすんで他の人間のように生まれたもうたのである。このことがなかったならば、主が生まれたもう必要はなかったであろう、なぜなら主は最古代教会から見られたもうたとき、また同じく予言者から見られたもうたとき、ときおり(人間から)生まれなくて、人間の本質をとられたように、人間の本質をとりたもうたことはできたからである。しかし主は悪を身につけて、それを征服し、かくして御自身の中に神的な本質を人間的な本質に連結しようという付加的な目的から世に来りたもうたのである。

 

 

 

天界の秘義1577

 

「ねがわくは、わたしとあなたとの間に争いがありませぬように」。これはその二つのものの間に不一致があってはならないことを意味していることはすでに言ったことから明白である。内なる人と外なる人との一致または結合にかかわるアルカナは到底語りつくせない。主のみをのぞいて、いかような人間のもとにも内なる人と外なる人は決して結合されてはいないのであり、また結合されることもできないのであり、そうした理由からまた主は世に来られたのである。再生した人間のもとではそれらは結合しているかのように見えるが、しかしこれらは主にぞくしている、なぜなら一致しているものは主のものであるが、しかし一致していないものは人間のものであるからである。

 

 

 

天界の秘義2795[]

 

 ここではわたしたちはたんに、主は神的なものそれ自身の中におられた時は些かも試みられる筈はなかったと言っておこう、なぜなら神的なものは試練そのものを無限に超越しているからであるが、しかし主はその人間的なものの方面で試みられたもうことができたのである。これが、主が最も痛ましい、また最も内なる試練を受けられねばならなかったとき、3節に記されているように、御自身に、先在した[前の]人間的なものを、すなわち、その人間的なものの合理的なものと自然的なものとを接合された理由であり、またこの節に言われているように、主が後に御自身をこれらのものから分離されたが、しかしそれにも拘らず主が試みられたもうことができる手段となるものを依然保持されていた理由であり、またそれがここに『わたしの息子イサク』とは言われないで、『その少年』と言われている理由であり、その『少年』によりこのような状態にある神的な合理的なものが意味されており、すなわち、最も痛ましい、また最も内なる試練の争闘に対し準備された真理の状態におかれている神的な合理的なものが意味されているのである(2793番参照)。神的なものそれ自身も神的な人間性もまた試みられるはずはなかったことは、天使たちすらも神的なものには近づくことができないし、まして試練をもたらす霊どもは近づくことはできないし、いわんや地獄はそれに近づくことはできないという事実のみからでも各人に明白であるにちがいない。ここから主が世に来られて、弱さをまとうた人間的な状態そのものを着けられた理由が明らかである。なぜなら主はそのようにしてその人間的なものの方面で試みられたまい、その試練により地獄を征服し、一切のものをことごとく服従と秩序とに帰し、至高の神的なものからそれ自らをかくも遠くに遠ざけてしまった人類を救われることができたからである。

 

 

 

天界の秘義9315[]

 

主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―

 

わたしと父とは一つである(10・30)。

 

 イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしの信じなさい(14・7、9,11)。

 

 わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。

 

 

 

 

天界の秘義8273

 

当時地獄の大半が開かれ、他生に入って来る凡ゆる者を攻撃して、これを征服しようと努めた。かくも地獄が猛り狂ったのは、天界を通り過ぎる神的なものが、かくも増大した悪と誤謬とには無力であったからである。

 

 

 

天界の秘義10152

 

「父」と呼ばれる神的なものそれ自体は「子」と呼ばれる神的な人間的なものなしには、このこと(地獄と天界を秩序づけること)を遂行することが出来なかったのである。

それは人類が神的なものからそれ自身を全く離反させてしまったときは、神的なものそれ自体は神的な人間的なものなしには人間に達することは出来ず、天使にさえも達することは出来ないためである。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P369

 

いまから、私は人間の姿をして父のところへ行きます。天国は、人間の姿を持つ勝利者を見るべきです。なぜなら、それでもって人間の罪に打ち勝ったからです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/天使館第1巻P744注

 

アダムを傷つける。

 

MVはタイプ原稿のコピー上で次のように注記する。「人=神の子であるアダムはすでに傲慢と不従順によって傷つけられた。動物的人間にとどまり、恩寵を失ったので、肉欲によって傷つけられ、自然的な人間として罪を犯した。イエズスは“神”であり、“人”であった。“神”だから触れることができないものである。それゆえ“人”としてのみサタンによって試みられることが可能であった」と。

 

 

 

真の基督教691

 

 モーゼはエホバに語った、「汝の栄光を我に示し給え、エホバ言いたまわく、汝は我が面を見ること能わず、我を見て生くる人あらざればなり。視よ汝磐の上に立つべし、我が栄光彼処を過る時に我汝を磐の穴にいれ、我が過る時にわが手をもて何時を蔽わん、而してわが手を除る時に汝わが背後を見るべし、我が面は見るべきにあらず」(出エジプト記33・18−23)。何人も神を見て生くる事は出来ない。それは神は神的な愛それ自体にて在し、天使達によって太陽として見られ、我々の世界の太陽が我々から離れているように、彼らから離れているからである。もし、その太陽の最中に在す神が天使達に近づき給うならば、丁度我々の太陽が我々の近くに来ると、我々は死滅するように、彼らも死滅するであろう。この理由からその愛の燃ゆる熱により、天使達は焼き尽くされないように、それは絶えず和らげられ、調節されている。それ故主が天界に在ってさらに赫々と輝き給う時、天界の下に在る邪悪な者共は死の苦悶を嘗め、そのため洞穴と岩の割け目の中へ逃れ入り、「我らの上に倒れよ、而して我々を王座に座する者の面より隠せ」(黙示録6・16。イザヤ2・19、21)と叫ぶのである。主御自身は降り給わない、しかし天使がその愛のスフィアに囲まれて降って来る。彼が近づくや、邪な者は絶望に駆られ、恰も死を逃れるかのように地獄に向って飛び込むのを私は見たのである。

 イスラエルの子等はエホバがシナイ山に降り給う前の三日間備えをし、山の周囲に柵をはって、人を近づいて死なせまいとした(19章)神の指により二枚の石板の上に記された十誡は櫃の中に安置され、贖罪所を上にシロ、二人のケルビムによって守られた、それは何人もエホバの聖さに触れたり、またはこれを見たりしないためであった。アロン自身が一年に一度これに近づき得るのみであり、しかもそれは自らを犠牲と燻物とによって浄めない中は許されなかったのである。数千の数にのぼるエクロンとベテシメシの住民は単に櫃を眺めたのみで死滅した(サムエル前5・11、12、6・19)。同様にアザもこれに触れたために亡くなった(サムエル5・6、7)。

 この僅かな例は、ユダヤ人の若干が、人間の形を取り給うた神エホバにて在ますメシヤを受けるために、ヨハネのバプテスマによって準備されなかったならば、ユダヤ人は如何なる呪いと破滅とを以て打たれたであろうかを示している。而して、これと同様の事が、彼が人間性を取り給わないで、自らを示し給うたならば、起ったであろう。彼らの準備とは、その名を天界に記されて、メシアの来り給うを待ち望んでいる人々の中に数えられることであり、彼らはかくして守護天使によって守られたのである。

 

 

 

 

4.人間に恐れを感じさせないため。焼き尽くさないため

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P226

 

創造主でありながら、その被造物を自分の愛へと引きつけるために、また、彼らに恐れを感じさせないために小さな幼子の姿をとるのです。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国1.P228

 

わたしの神性そのものの本質を隠すために、わたしは人間の姿を取りました。そうでなければ、わたしの愛と一致したいとのぞむ被造物にとって、愛より恐れを呼び起こすでしょうから。

 

 

 

天界の秘義2332

 

「あなた方の足を洗ってください」。これは、かれの自然的なものに適合されることを意味していることは前章に言われたことから明白であって(2162番)そこにはこれと同じ言葉が見られるのである。前の時代では、かれらがエホバの天使を眺めたとき、自分たちはすぐにも死ぬであろうと信じたのであるが(出エジプト記19・12、21、24、20・19、士師記6・22、23、13・22、23)、それは神的な聖いものが人間のもとにある汚れたものに流れ入ると、その神的な聖いものはそれを滅ぼしつくし、焼きつくしてしまう火になるといった効果をもっていたためであり、それで主はたれかの目に、または天使の目にさえも、御自身を示されるときは、その者たちが主から発しているその聖いものに堪えることができるように、主はその聖いものを調節し、和らげられるのであり、またはそれと同一のことではあるが、主は御自身をかれらの自然的なものに適合させられるのである。それでこのことがロトが天使たちに言った以下の言葉、『あなた方の足を洗ってください』によりその内意で意味されている事柄である。そしてこれが内意の性質のいかようなものであるかを示している、なぜならこれがその意義であることは文字の意義からは認められることはできないからである。

 

 

 

 

5.人の苦しみを実体験されるため

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P278

 

人の痛みに対する主のご理解は神の性質からくるばかりか、人として苦しまれたときの実体験からきているので、苦しみの中にあるどのような人々にも完全な助けと憐れみをかけることができるのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1/P141

 

「ユダ、私は人間のために来たのであって、天使たちのためにではない。天使に先生は要らない。天国で神を見て生きています。天使たちでも人間の邪欲を知らないわけではない。というのは、天使たちの命である知恵はすべてを知らせるけれど、霊的なものであるがゆえに一つの罪しかあり得ない。天使の中の一人はその罪のために堕落し、愛がそれほど強くなかった他の天使を引きずり込みました。それは傲慢でした。これによって、すべての大天使の中で最も美しいものであったルチフェルがゆがめられ、深淵をのぞき見るようなおぞましい怪物となりました。私は天使たちのために来たのではありません。天使たちはルチフェルの堕落の後、傲慢の亡霊に脅かされています。しかし、私が来たのは人間を天使にするためです。

人間は創造の世界で最も完全なものでした。天使のような霊をもち、動物的また道徳的に完成された美しさをもっていました。人間と比較できるものは他に何もない。神が天の王であると同じように、人間は地上の王でした。だが、サタンは天使・人間の翼を引き抜き、その代わりに、野獣の爪と不浄の欲望とを与え、ただの人間よりも、人間・悪魔の名にふさわしいものとしました。私はサタンの醜悪さを消し、天の国に入れる王の位に戻したい。人間が望むならば、それができます。王また天使とに戻れることができると、私は言えます。私がおまえたちにできないことを言うはずがありません。私は実行不可能な教えを教える修辞学者の一人ではない。私は肉体の経験によって人間の誘惑が何であるかを知ることができるようにと、まことの肉体を帯びています」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P22

 

教える側に立つには、その前に学ぶ側に立たねばならない。私は神として、すべてを知っているから、神の知恵によって、人間にある戦いを理解させることができた。だが、単にそうしていたら、ある日、あわれな人間がこう言ったかも知れない。『あなたには、人間としての感覚と情緒を持つことがどんなことか、分からないだろう』と。あるいはそうだったかも知れない。私がそこに行ったのは、自分の使命を準備するだけでなく、誘惑にも備えるためだった。サタンの誘惑に。

 

私に対して、何の力も持っていないサタンが私に近づいたのは、神と私との孤独な一致が終わった時だった。その時、私は、肉体の弱さを持つ“真の肉体”を持っていると感じた。私は、飢え、疲れ、渇き、寒さを感じ、肉体の欲望も知った。私は自分の意志によって、頭をもたげるすべての悪い欲望を抑え、踏みつけ、聖なる欲求だけが成長するのを許した。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P23

 

 私が来たのは、人間に、神に倣って生きることを教え、神の子らの王国を取り戻すためである。神には肉欲はないのだ、ユダ。だが私は、人間であっても邪欲を忘れて生きられることを示したかった。人間でも、私が教える通りに生きられるのだと教えたかった。そのためには、誘惑をも感じる人間の肉体を取らねばならなかった。『私のようにせよ』と教えるためだった。

 

 

 

ヘブライ人への手紙2・18

 

 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。

 

 

 

 

6.十字架に釘づけられたのは罪人たちに回心の時を与えるため

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P69

 

 十字架につけた者たちを、その十字架の上から罰することは、イエズスの使命とそのあわれみにはふさわしくないことも分かるであろう。イエズスは軽蔑され、拷問され、十字架につけられた者であったが、同時に彼は救い主であった。彼の体は十字架に釘づけられていたが、その意志と霊とは自由であった。彼が血をしたたらせつつ十字架上に踏み止まったのは、罪人たちに回心の時を与えるためであった。冒涜の叫びを上げていた者を、後悔の泣き声に変えるためであった。

 

 

 

 

7.手本を示すため

 

 

マタイ3・15

 

今は、止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。

 

 

 

マタイ16・24

 

それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

 

 

 

マタイ23・8−10

 

だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。

 

 

 

ヨハネ13・13−15

 

 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

 

 

ヨハネ13・34

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P100

 

私は“こうしなさい”と言うだけではなく、“私のするようにせよ”と言う。私は敵さえも愛し祝福する。なぜなら、彼らによって彼らのために私の友人である、あなたたちのところに戻ることができたからです。あなたたち皆の上に平和がありますように

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P64

 

おまえたちの伝道旅行で悪人に出会ったなら、ファリサイ人のような態度は取らないように。ファリサイ人たちはすぐに皆を軽蔑するが、まず心が腐っている自己を軽蔑するようなことはしない。悪人でも大きな愛をもって迎えなさい。“限りない愛をもって”と言いたいほどです。(中略)

 

“人間の心を変えるのは、おまえたちがどのように話しているかではなく、どのように愛しているかによって決まります”罪人たちに会う時は、この人たちを愛しなさい。迷った弟子たちのことで苦しむこともあるでしょう。愛をもってこの人たちを救うよう努め、迷える羊のたとえを思い出しなさい(おお、これは何世紀にもわたって罪人に聞かせる実に優しい呼びかけとなるはずです)。

 

(中略)

どのように愛すべきか、私が模範となります。おまえたち、また、おまえたちの後に続くすべての人は、私のとおりにすべきです。新しい時代がやってきます。愛の時代が。私は、この灯を人間の心にともすために来ました。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P52

 

「(前略)私とても・・・いと高きお方の律法を忠実に守ることを免除されているわけではないからです」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P56

 

さらに王子は、皆にとって一番大事な教訓は正義の法典に従って生きることであり、その手本を与えようと考えた。心の正しい人たちは、王子の言葉だけでなく、その行いにも倣って正しく生きようと心がけたけれども、正義の法典の文字だけにこだわって、その精神を忘れてしまっていた色々な州では、王子がこうするようにと勧めていることをすれば、今まで自分たちは法典の文字を知りながら、その精神を知らなかったのだと分かり、今までやってきた自分たちの偽善がますます明らかになっては困ると考えた。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P57

 

私が模範として与える、この完全な正義に集まるように。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P90

 

私のするようにしなさい。そうすれば間違うことはありません“

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P94

 

「教えを宣べる?もし私が自分の教えに反することをしたなら、どうして真実を教えられよう。神の御旨に従いなさいと教えながら、その反対のことをし、他人への愛を教えながら実際は人を愛することをせず、肉体と世俗を捨てなさいと教えながら、自分の肉体の欲と世俗の栄達を望み、人のつまずきにならないようにと教えながら、人間だけではなく天使たちさえもつまずかせる者となるなら、それは何の教え、何の教師であろう。(後略)」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・12・2

 

 かれはその十字架を取ってあなたの先に行き、あなたのために十字架の上で死にたもうたが、それはあなたにも十字架を負い、十字架の上で死ぬことを望ませるためであった。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P330

 

最初の“主の祈り”は、ナザレトの庭の中で唱えられた。マリアの悲しみを慰めるために、“私たちの”意志を永遠なるお方にささげるために、この“意志”にとって、大きくなるばかりの犠牲の時期が始まり、私にとって命をささげる、マリアにとって子供をささげるという頂上に至る、ちょうどその時に唱えられたのである。

 

 私たちには、御父にゆるしてもらいたいことは“何も”なかったにしても、罪のない私たち二人は、謙遜のために、私たちの使命をふさわしく迎えるために、どんな小さな欠点の影でもゆるされるように、父のゆるしを願ったのである。これは、神と一致して神の聖寵を豊かに持てば持つほどその使命は祝福され、豊かな実を結ぶことをあなたたちに教えるため、神への尊敬と謙遜とを教えるためであった。神なる父のみ前に“男”と“女”としての、わたしたちの完全ささえも空しく感じ、そして、ゆるしを請うた。“毎日のパン”を願うのと同じように。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P95

‘00・4・28

 

そして神が その都市のうちにいるなら、それは陥落することはない。 今日、この危機に際し、悪霊はその全ての仲間を集めてあなたに歯向かわせ、高貴な生まれの者に 侮辱をあびせているが、私もまた我が選びの者たちを呼び集める、教会を発展させて押し進め、多くの我が子どもたちをその中で 栄光に入らせるのが 私の目的であるゆえ、私自身が苦しみをくぐり抜け 将来私につき従い我が骨からの骨、肉からの肉となって 兄弟姉妹のために贖いつづける者たちの 最初の模範となるのが正しいことに思えた。

 

 

 

ファニー・モイスィーバ/垣間見た永遠の世界/P58

 

 人びとの中にはこのように言うかもしれません。「真に神が憐れみ深いなら、可哀相な人間の魂をどうして永遠の地獄に突き落としたりするだろうか。」

 神ご自身が、このような災いから魂を救うために、天からお降りになったことを、人びとは忘れて、こうした言葉を呟くのです。主が地上に降りられたのは、サタンを打破る十字架のしるしによって、神の輝かしい栄光の国へ至る道を示すためでした。

 

 

 

 

8.わたしたちに祈ることを教えようとして祈られた

 

 

マリア・ワルトルタ24・9/天使館P197

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

子らよ、わたしのの言葉で祈りなさい。あなたたちの敵のために祈り、『よ、彼らを赦してください』と言いなさい。あなたたちの過ちに怒った父がご自分を隠されたら、『よ、よ、どうしてわたしをお見捨てになったのですか?わたしは罪人です。でも、あなたがお見捨てになれば、わたしは滅びるのです。聖なるよ、わたしが自分を救うためにお戻りください』と言いなさい。

 

あなたたちの霊を悪魔から無傷に守ることのできる唯一の御者に信頼して任せなさい。『よ、み手にわたしの霊を委ねます』。おお!あなたが謙遜に、心からの愛を込めて、に自分の霊を委ねるなら、小さな子を導く父親のようにはあなたたちの霊を導き、それに害が及ぶことは何一つ放置しておかれません。

 

イエズスはその数ある死の苦しみにおいて、祈ることをあなたたちに教えようとして祈られました。この受難節の日々に、わたしはそれをあなたたちに思い出させます。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P330(天使館版44・13)

 

最初の“主の祈り”は、ナザレトの庭の中で唱えられた。マリアの悲しみを慰めるために、“私たちの”意志を永遠なるお方にささげるために、この“意志”にとって、大きくなるばかりの犠牲の時期が始まり、私にとって命をささげる、マリアにとって子供をささげるという頂上に至る、ちょうどその時に唱えられたのである。

 

 私たちには、御父にゆるしてもらいたいことは“何も”なかったにしても、罪のない私たち二人は、謙遜のために、私たちの使命をふさわしく迎えるために、どんな小さな欠点の影でもゆるされるように、父のゆるしを願ったのである。これは、神と一致して神の聖寵を豊かに持てば持つほどその使命は祝福され、豊かな実を結ぶことをあなたたちに教えるため、神への尊敬と謙遜とを教えるためであった。神なる父のみ前に“男”と“女”としての、わたしたちの完全ささえも空しく感じ、そして、ゆるしを請うた。“毎日のパン”を願うのと同じように。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/天使館42・9第1巻P378

 

 泣いているあなたたちよ、習いなさい。死にゆくあなたたちよ、習いなさい。死ぬために生きているあなたたちよ、習いなさい。ヨセフにわたしが言った言葉に値するよう努めなさい。それは死と闘うあなたたちの支え、慰めとなるでしょう。習いなさい。死に臨んだあなたたちよ。イエズスに傍らにいてもらいたいなら、それにふさわしくなりなさい。そして、あなたたちがたとえふさわしくなくても、敢えてわたしを傍らに呼んでほしい。わたしは来るだろう。

 

 死は、もしわたしの両腕の中で迎えるなら、凡ゆる苛烈さ、刺々しさを失う。それを信じよ。わたしは死を廃止することはできない。だが、わたしにすべてを委ねて死ぬ者の死を耐え易くします。

 

キリストは、十字架上で、それをあなたたち皆のために言ったのです。『父よ、わたしの霊をみ手に委ねます』と。キリストはそれを自分の臨終の時に言ったが、あなたたちの臨終、あなたたちの恐怖、あなたたちの不安、心配、神から赦されたいという渇望を思いつつ言ったのです。槍で脇腹を刺し貫かれる前に、物理的なそれよりも精神的な拷問真っ二つに引き裂かれた心で、それを言ったのです。というのも、わたしに思いを馳せつつ死んで行く者たちの臨終が、主によって和らげられ、その霊が死から永遠の生命へと、苦しみから喜びへと移って行くためでした。

 

 

 

 

9.主は聖言に対する教会の状態を表象された

 

 

スウェーデンボルグ/主イエス・キリスト15

 

これらの事柄から予言者は教会の状態を、また聖言を表象したことは明白である、なぜなら教会は聖言から存在し、聖言を生命[生活]と信仰とに受け入れることに順応しているため、教会を表象する者は聖言を表象するからである。それで予言者は、その二つの聖書の中に記されているところでは、常に聖言から発している教会の教義を意味しており、最大の予言者としての主により教会そのもの、聖言そのものが意味されている。

 

 

 

スウェーデンボルグ/主イエス・キリスト16

 

 []主御自身は、最大の予言者として、聖言に対する教会の状態を表象されたことはその受苦の凡ゆるものから明白である、例えばかれはユダによりうら切られたもうた、かれは祭司長と長老に捕らえられて、罪に定められたもうた、彼らはかれを打った、彼らはかれの頭をあしで打った、彼らはかれを十字架につけた、彼らはかれに酢を飲むように与えた、彼らはかれの脇腹を刺した、かれは葬られたもうた、かれは三日目に復活された(ことから明白である)。

 

 

 

[]かれがユダにより裏切られたもうたことは、かれが当時聖言を与えられていたユダヤ民族により裏切られたもうたことを意味した、なぜならユダはその民族を表象したからである。かれが祭司長と長老とにより捕らえられて、罪に定められたもうたことは、かれが全ユダヤ教会によりそのように扱われたことを意味した。彼らがかれをむちうち、その御顔につばを吐きかけ、かれを打ち、その頭をあしで打つことは、その凡てに主が取扱われている聖言の神的諸真理にそれと同じようなことが為されたことを意味した。彼らがかれに茨の冠をかむらせたことは、彼らがその諸真理を誤謬化し、不善化したことを意味した。彼らがかれの上着を分け、その下着のためにくじを引いたことは彼らは聖言の真理をすべて消散させてしまったが、その下着の意味している聖言の霊的意義は消散させなかったことを意味した。彼らがかれを十字架につけたことは、彼らが聖言全体を破壊し、冒涜したことを意味した。彼らがかれに酢を飲むように差出したことは凡ゆる物が誤謬化され、また誤謬となったことを意味したのであり、それでかれはそれを飲まないで、そのとき、それは終ったと言われたのである。彼らがかれの脇腹を刺したことは、彼らが聖言の真理の凡てを、またその善の凡てを完全に消滅させたことを意味した。かれが葬られたもうたことは、母から来た人間的なものの残りのものを斥けられたことを意味した。かれが三日目によみがえられたことはかれの栄化を意味したのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P319

 

 預言者たちのそれぞれの生涯は、将来“私の時”に起こることを前もって示しています。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P78

 

 「人々はイエズス様の受難のことを、『すべて』外的な傷そのものとして話しますが、主の内的なおん傷について考える人が少ないことです!もしこの手記を読む人にとって何か有益なことができるとしましたら、私は無理解の傷ということについてあえて書きたいと思います。主は、ご自分の僕たちによっておん身体に、或いは被造界において空中や地上に造り出される外的な表示のすべてを利用して、苦悩全体、すなわちその『道徳的、霊的』そして身体的苦悩を全て含めて理解されることを望んでおられるのです。

しかし、ああ悲しいことに、私たちは非常に度々、鞭打ち、茨の冠、そして十字架上での死で終わるイエズス様の身体的苦痛の玄義のみに留まってしまいます。しかし主のもっとも痛むおん傷とは、人々から理解されず、模倣されることもないということからくるものだということを、いったいいつになったら私たちは理解するでしょうか!

 私は、神父様、修道女、信徒達などが、血の涙、ご出現、奇跡、などの現象について、それに関するまことの思索や反省をすることなく、それらの意味について議論しているのを聞いたことがあります。

全能の神様は、ご自分の子供達が神様について抱いている間違った概念によって毎日心が傷つけられておいでになります。なぜなら多くの人々は神について、それは小さな罪も罰し、『涙の谷』で人が死ぬままに放置し、人類から分離して天上にただ座っておられる神、という観念を抱き、つまり神の本質を偽りの観念の中にはめ込んでいるからです。

 聖なるおん父はそこで、その果てしない愛を特別な出来事によって確証を与え、慰め、新たに許すことによって仲介しにきてくださいます。このようなおん父とは、いったいなんと良い父親なのでしょう!このような創造主の愛とは、なんという愛なのでしょう!

 神様は常に手を差し延べておられ、そのみ心は常に注意深く、またあれこれと世話をやいてくださるお母さまでもあられ、永遠の存在、とご自分を呼ばせることにふさわしい唯一の方でいらっしゃいます! 」

 

 

 

10.人間的な自分自身のものに神的な天的な自分自身のものを結合された

 

 

天界の秘義256

 

信仰のみでなく主御自身が『女の裔』と呼ばれたもうのは、主のみが信仰を与えられ、かくて信仰であられるためであり、また主は生まれることを良しとされたからである。実に主は自己と世への愛により奈落の悪魔的な自分自身のものに全く陥ってしまった教会の中へ生まれることを良しとされたからであるが、それはその神的な力によりその人間的な本質の中に人間的な自分自身のものに神的な天的な自分自身のものを結合し、かくして主の中にその二つのものが一つのものとなるためであったのであり、この結合が行われなかったならば、全世界は全く死滅したに相違ない。主はかくて女の裔であられるため、『それは』と言われないで、『かれは』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義1587

 

「エホバがソドムとゴモラとを滅ばされた前で」。これは悪の欲念と誤謬の確信[信念]により破壊された外なる人を意味していることは以下から明白である、すなわち『ソドム』の意義は悪の欲念であり、『ゴモラ』の意義は誤謬の確信[信念]である、なぜならこの二つのものは外なる人を破壊して、それを内なる人から分離するものであり、またこの二つのものは洪水以前の最古代教会を破滅させたものであったからである。悪の欲念は意志にぞくし、誤謬の確信[信念]は理解にぞくしていて、この二つのものが支配するとき、外なる人はすべて破壊され、そしてそれが破壊されると、それはまた内なる人から分離してしまうのである。霊魂または霊は身体から分離するのではなく、善と真理とが人間の霊魂または霊から分離されて、遠方からしか流入しなくなるのである。この流入については主の神的慈悲の下に他のところで述べよう。そして外なる人が人類の中にそのように破壊され、その外なる人と内なる人との、すなわち、善と真理とのきずなが破壊されてしまったため、主はその外なる人を内なる人に、すなわち、人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られたのである。

 

 

 

天界の秘義1894[]

 

エホバまたは主はただ一人の人間であられることは、また人間たちは自分たちが人間と呼ばれていることを主から得ていることは、また一人の人間は他の一人の人間よりもさらに人間となっていることは、前に(49、288、477、565番に)見ることができよう、そしてそのことはまた、エホバはまたは主は最古代教会の父祖たちには人間として現われたまい、後にはまたアブラハムと予言者にも人間として現われたもうたという事実からも認めることができよう、こうした理由からまた主は、地上にもはや人間が存在しなくなった後で、または人間の間にもはや天的な霊的なものが存在しなくなった後で、自らを卑しうして、他の人間のように生まれたもうことにより、人間の性質を取られて、その性質を神的なものにすることをよしとされたのであり、このようにして主はまたただ一人の人間であられるのである。さらに、天界全体は、それは主御自身を示しているため、主の前には人間の映像を示しているのである。このことから、天界は巨大人と呼ばれており、しかもそのことはとくに主はそこではすべてにおけるすべてのものであられるという事実から発しているのである。

 

 

 

天界の秘義1902

 

 もし人間が何ら遺伝的な悪に浸透されていないなら、内なる人の天的なものとその霊的なものとの結婚から合理的なものはそのときすぐに生まれ、またそのとき知る能力はその合理的なものを通して生まれ、かくて人間は世に入って来ると直ぐに人間自身の中に理性の能力と知る能力をことごとく持つであろう、なぜならこれは以下の事実から推測することができるように、流入の秩序に順応しているからである、すなわち、動物はことごとく、それがいかようなものであっても、その性質は秩序に順応しているため、食物と安全と住居と繁殖を確保する上に必要で有益であるところの知る能力そのものの中へ生まれてきているからである。それなら人間は秩序が人間の中に破壊されてしまっているという理由でないかぎり、なぜその中へ生まれていないのか、なぜなら人間のみがいかような知識の中へも生まれていないからである。

 

 

 

[]かれがそのように生まれている原因はかれの父と母から受けついだ悪である。こうした理由からかれの能力はことごとく善と真理とについては反対の方向に向けられており、それで主から天的なものと霊的なものとが直接に流入することによって相応した形になることはできないのである。これが人間の合理的なものが全く異なった過程により、すなわち、異なった方法をもって、すなわち、感覚を通して導入された知識により、かくて外なる道をとって流れ入り、それで転倒した秩序をもって流れ入る知識により形作られねばならない理由である。人間はこのようにして奇蹟的な方法をもって主により合理的なものにされるのである。このことが『女中[下婢]のもとに入ること』により意味されており、そのことにより内なる人が外的な人と連結することが意味されており、またそれは『アブラムがサライの声に耳を傾けたこと』によっても意味されており、それはそれが他のいかような方法によっても為されることができなかったことを意味しているのである。

 

 

 

[3]主は、他の人間が生まれるように生まれたまい、また母から受けついだ性質は持たれたため、いくたの知識により合理的なものが奇蹟的に形作られることについてもまた他の人間のようであられたのは、主がいくたの試練の争闘と勝利とによりあらゆるものを秩序に帰したもうためであったのである。それで主の合理的なものも他の人間の場合と同じ方法をもってみごもり、生まれたのであるが、しかし以下の相違があったのである、すなわち、主のものであったあらゆるものの中にはその最内部には全般的にも、また個別的にも、神的なものが、すなわち、エホバが存在され、かくて全人類に対する愛の生命が存在したのであり、主は全人類のためにまた全人類の救いのためにそのあらゆる試練において戦われたのである。

 

 

 

天界の秘義2016[]

 

 今わたしたちがとり扱っている節は神的な本質に結合されることになっていた主の人間的な本質をとり扱っているが、善と真理とはことごとくそのことにより主の神的な本質から主の人間的な本質を通して人間に来ることは、神のアルカナであるが、そのことが把握されないため、僅かな者しかそれを信じていない、なぜならかれらは神的な善は主の人間的なものが神的なものに結合しなくても人間に到達することができると考えているからである、しかしこのことがなされることはできないことは、以下の意味の僅かな言葉をもってすでに示したところである(1676、1990番)、すなわち、人間は自らを欲念の中に惑溺させてしまい、その欲念により、また誤謬をもって自分自身を盲目にしてしまい、その誤謬により、至高の神的なものから自分自身を甚だしく遠ざけてしまったため、主が御自身の中にその神的なものにけつごうされた人間的なものを通さなくては、人間の心の合理的な部分の中へ決して神的なものは全く流入することができないのである。主の人間的なものを通して、伝達が行われているのである、なぜならそれにより最高の神的なものが人間のもとへ来ることができたからである。このことを主は多くのところに明らかに言われている、なぜなら主は御自分が『道』であり、『たれ一人かれによらなくては父のみもとへ来はしない』と言われているからである。それで以下のことがここに主張されているものである、すなわち、主から、すなわち、神的なものに結合された人間的なものから、善のことごとくが、また真理のことごとくが発しているということである。

 

 

 

天界の秘義3030[4]

 

 内なる方法により形作られるところの、合理的なものの善それ自身は、土地そのものであるが、しかし真理はこの土地に播かれねばならぬ種子である。純粋な合理的なものはそれ以外のいかような方法によっても決して生まれはしない。それが主のもとでも同じ方法で発生して、主御自身の力により神的なものになされるために、主は世に来られたのであり、他の人間が生まれるように生まれることが主の意志であったのである。もしそうでなかったなら、主は、古代でしばしば行われたように、出産[出生]なしに人間的なものをつけたもうたであろう。

 

 

 

天界の秘義9315[]

 

主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―

 

わたしと父とは一つである(10・30)。

 

 イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(14・7、9,11)。

 

 わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(17・10)。

 

 

 

 

11.見えない神とは如何なる交わりもない・・・主のご人性を通して

 

 

天界の秘義5110[3]

 

 にも拘らず人間は抽象的なものについては、感覚を通して世から入ってきた自然的なものを接合させない限り、思考の観念を全く何一つ持つことが出来ないため(なぜならこうした自然的な物がないなら、彼の思考は深淵の中に死滅するようにも死滅して、消滅してしまうからである)、それで人間が身体的な物に全く浸されるとき、神的なものが彼の中に死滅しないように、またその神的なものがたれであれそのもとに残っている者のもとで、それが不潔な観念により汚されないように、また神的なものと共にそこから派生している天的なものと霊的なものも死滅しないように、エホバは御自身をその実際あるがままに、その天界で現れ給うままに、即ち、神的な人間として示されることを良しとされたのである。なぜなら天界の凡ゆる物は、人間の凡ゆる物が天界である巨大人と相応していることについて諸章の終りに示されたことから認めることが出来るように、人間の形を目指して共力しているからである。この神的なものが、または天界におけるエホバのこの神的なものが、永遠から存在される主である。その神的なものを、主はまた、主御自身の中の人間的なものを栄化されたとき、または神的なものになされた時、御自身の上に取られたのであり、そのことは、主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に御姿を変えられた時、その示されたその御形から(マタイ17・1、2)、また時折予言者に現れられた折のその御形からも明らかである。このことからたれでも神的なものそのものを人間を考えるように考えると同時に、神的なもののすべてを、また完全な三一性を宿されている主を考えることが出来るのである。なぜなら主の中には神的なものそのものは父であり、天界におけるこの神的なものは子であり、そこから発出している神的なものは聖霊であるからである。主御自身が教えられているように、この三つのものは一つのものであることはここから明らかである。

 

 

 

真の基督教98(太字は当方による)

 

父と子、即ち神性と人間性とは霊魂と身体とのように主の中に合一していることは、実に信仰箇条として教会により認められ、また聖書に一致しているが、しかし百人の中五人もこれを真理として認めていない。是は信仰のみによる義認の教義のためであり、この教義に、名誉と富とのために学問上の名声を得ようと熱中している者達が自らを非常な熱意を以って捧げ、遂にその心はその教義に取り憑かれるに至るのである。而してそれは、アルコルと呼ばれる酒精のように、彼らの思考を酔わせてしまったため、彼らは教会のこの最も本質的な信条を―エホバなる神が降り、人間性を取り給うたことを理解することが出来ないのである。にも拘らず、これのみが神との交わりによる人間の救いを可能ならしめるものである。

 

 

 

真の基督教786

 

 しかし上述したように、見えない神とは如何なる交わりも在り得ない。而して見えない神が単に人間を贖うのみではなく、また見ゆる神になり給うために、世に来り、人間性を取り給うた、何故ならかくしてのみ神との交わりが在り得るからであろうということは未だ知られていない。

 

 

 

真の基督教787

 

 この教会は前の凡ゆる教会の冠である、それは一人の見える神を―この神の中に霊魂が身体の中に在るように見えない神が在し給う―礼拝するからである。かくしてのみ神と人との間に交わりが在り得るのである、それは人間は自然的であり、従って自然的に考え、交わりは思考と情愛の交わりでなくてはならず是は人間が神を人間として考える時にのみこれは可能となるからである。見えない神との交わりは宇宙の涯しの無い拡がりを見るようなものであり、または太洋の真中に在って涯しなく拡がっている空と水とを見るようなものである。

 

 

 

真の基督教538

 

救い主に在す主なる神に近づかなくてはならぬ。それは彼は天地の神、贖罪者、救い主にて在し、彼に全能、全智、偏在、慈悲、義が属し、人間は彼の被造物であり、教会は彼の羊の檻であり、且つ彼は新約聖書に幾度も、人間は彼に近づき、彼を礼拝し、彼を崇めなくてはならないと宣言し給うたからである。

 

彼のみに近づかねばならぬことは、ヨハネ伝の以下の語によって宣言されている。

「まことに誠に我汝らに告ぐ、羊の檻に門より入らずして、他の道より越ゆる者は盗人なり強盗なり。門より入る者は羊の牧者なり。我は門なり、我によりて、入る者は救われ、草を得べし。盗人のきたるは、盗み、殺し、亡ぼさんとするの他なし、我が来るは羊に生命を得しめ、かつ豊かに得しめんためなり。我は善き牧者なり。」(10・1,2,9−11)

 

人間は他の道より越ゆるべきでないということは彼は父なる神に近づくべきでないことを意味する。それは彼は目に見えず、近づき得ず、また彼との結合も在り得ないからである、それ故彼御自ら単に人間が救われんがために、世に来り、自らを目に見ゆる者となし、これに近づき得る者となし、これと交わることの出来る者と為し給うたのである。

 

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給うたのである。

 

何故なら、彼は聖霊により至高者の力によって懐胎せられ、かくして彼の人間性は処女マリアから生まれたからである。

この事から―神は不可分離の方である故―彼の霊魂は父と呼ばれる本質的な神性であったこと、そこから神の子と呼ばれる父なる神の人間性が生まれたことが推論される(ルカ1・32、34、35)。而して更に救い主に在す主なる神

に近づくことは、父なる神にもまた近づくことであることが推論される。それが主が御父を示すようにと願ったピリポに「我を見し者は父を見しなり、如何なれば我らに父を示せと言うか、我の父の居り、父の我に居給うことを信ぜぬか。我は父に居り、父は我に居給うとの我が言を信ぜよ」(ヨハネ14・9−11)との答えを与え給うた理由である。しかし、この主題については、更に多くの事が神、主、聖霊及び神的三一性に関する章の中に見られるであろう。

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P200

 

「愛の渇きを満たすために、神は人に理解できる存在の形をとられたのである。こうして、神は人となった。それは、子供たちがあらゆる聖なる御使いとともに彼を見、歓ぶためである。わたしをみた者は父をみたのである、とわたしが言ったのはそのためである。わたしは、人の形をとっている間は、“子”と呼ばれるが、永遠の父である。わたしと父と聖霊は一つである。」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P79

(天使がサンダー・シングに語ります)

 

「天のすべての住民は神が愛であることを知っている。しかし、神が罪人を救うために、時に人となり、彼らを清めるために十字架上で死ぬほどの驚くべき愛をお持ちになっていることは、永遠の昔から隠されてきた。神がこのようにお苦しみになったのは、虚無に従っている人と全被造物を救うためだった。こうして、神は人となり給うことによって子供たちに御心をお示しになった。それ以外の方法をもってしては、神の無限の愛は永遠に隠されたままに終わっていただろう。」

 

 

 

サンダー・シングの講演より/イエス・キリスト封印の聖書/P340

 

「この盲人(マルコ8・22)と似たような人々は今もいます。目は開いていても、彼らの視力は半分しかありません。すべてをはっきり見ることができずにいます。人々が木のように見えたこの盲人と同じく、多くのクリスチャンはキリストが神であることを知らずにいます。(中略)多くの人は、イエス・キリストが今も実在すること、主が救い主であり神であることを理解してはいません。」

 

 

 

サンダー・シングの講演より/イエス・キリスト封印の聖書/P381

 

「イエス・キリストとともに生きている人々は、キリストこそが父であることを知っています。『父を見せてください』とピリポから尋ねられたときに、キリストは『ピリポよ、これほど長くあなた方とともにいるのに、まだあなたはわたしを知らないのですか』とお答えになりました。

 

キリスト抜きで父の元に行けたという人が一人でもいれば、わたしはこの説を受け入れても構いません。父を見たこともないのに、父の元に行ける人が、いったいいるであろうか。かつてのわたしは、主を預言者と思い込んでいました。わたしは主の中に父を見ることができませんでした。ただ、イエス・キリスト、生けるキリストだけが、わたしに父を啓示することができたのです。イエス・キリストが誰かを知らないでいる人は、主を単なる人間と考えます。」

 

 

 

金井為一郎/サンダー・シング全集/サンダー・シングの生涯と思想/P92

 

神の受肉(インカーネーション)

『生命の言(ロゴス)が肉体をとった。言が肉体の中に来た。私は以前、神が肉体をとり、人間の形体をとる処の必要は何処にあるだろうと考える事が時々あった。私が未だ基督信者とならぬ前はこの教理をいつも批評した。世には受肉の教理を困難なく信じ得る何万の人もある。然し多く何の必要があって、肉体にまでなり給うたかを解しない。然し時々彼は、神を見たいとの深い要求に動かされる。人間は自然の要求として神を見たいと願う。我等は拝する処の神を見ようと試みるが然し神は無限である、私は偶像崇拝者に向い何故偶像を拝するかと問うと、「神は無限である、我らはこの偶像によって心を集中する為の手段として礼拝する事を学び、そこに何物かを理解する事が出来るのだ」と答える。愛する神を見、神と語ろうと我らは願うのだ、然し困難な事には、神は無限であって我等は見る事が出来ない。何時か我らが無限の者となった時には神を見る事が出来よう。然し此処に於いて現在我らは我らの創造者にして父、生命の賦与者なる神を見る事が出来ぬ。これが彼の受肉せられた理由である。彼は制限ある人の形をとり、かくして人間は彼を見る事が出来るようになった』。

バリオル・カレッヂの講堂で彼は印度に於ける経験から二つの例を引用した。

『私がヒマラヤ山の中に於いてストレジ河を渡ろうと思った事がある。然し橋がない。私は之を泳ぎ越す事は出来なかった。どうしようかと考えていた時に、一人の人が来たので私は彼に云った。「この河を渡りたいけれども橋も舟も何もなくて困っていると」と。彼は「それは何でもない、風向きがいいから空気が君をあちらの岸へ渡してくれる」と答えたので私は驚いた。私は空気を呼吸する事が出来る、然し空気は私を彼方の岸へ運ぶ事は出来ない。然し彼は一つの獣皮を出してその中へ空気を満たした。そしてその上に私がすがる様にと云った。その様にして水の上を易々と浮かんで対岸に達した。空気は皮袋の中に閉じ込められる事によってのみ私を運ぶ事が出来た様に、神は人を助けようとして受肉し給うたのである。生命の言(ロゴス)が肉体となって、この世の河を横切って天に達しようと願う者を運び給う。「我を見た者は父を見たのだ」、我等はイエス・キリストの受肉の中に生ける父を見る事が出来る』。

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝9章・6(P100)

 

私は、ただ聖主をそのご人性において考えることだけができました。

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝12章・2(P130)

 

私たちは精神的にキリストの尊前(みまえ)に身をおき、その聖なるご人性に対する最大の愛に少しずつ燃え立ち、常に彼のおそばに侍(はべ)り、彼に語り、私たちの必要とすることをお願いし、悲しみにあっては彼に向かって嘆き、慰めにあっては彼とともに喜び、幸運にあっては彼を忘れないよう警戒し、複雑な祈祷文など求めず、自分の望みや、必要を打ち明ける単純な言葉でお話するようにしましょう。これこそ短時日で進歩させるすぐれた方法です。

 

このように、とうとい伴侶とともに生活することに専心し、そこから最大の利益を引きだすべくつとめ、私たちがこれほどご恩をこうむっているこの聖主に対する真剣な愛を、そこからくみだす者こそ、念祷の道に進歩した者であると私は断言します。

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22章・1(P253)

 

神父様、もしあなたがよいとお思いになれば、私にはたいへん重要と思われる一つのことについてお話したいと思います。それは参考になりますし、またあなたのために必要となることもあり得ますから。なぜなら念祷について書いてあるある種の書物のなかに、次のようなことが説いてあります。(中略)

 

こういう著者たちは、物体的なすべての形象を遠ざけて、神性の観想に上るようにしきりに勧めています。なぜならこういう形象は、たとえ聖主のご人性のそれであろうとも、このように高い状態に達した者にとっては、最も完全な観想のためにじゃまであり、妨害であるからと、彼らは申します。そして自分たちの考えのよりどころとして、救い主が天にふたたびのぼられるにあたって、聖霊のご降臨を使徒たちにお告げになった時おっしゃったお言葉を引き合いにだします。(ヨハネ16・7参照)

 

私の考えではもし使徒たちが、キリストは人であると同時に神であるということを、聖霊降臨後と同じように、その時かたく信じていたのでしたら、主の聖なるご人性は彼らにとって妨げとはならなかったことでしょう。ですから、御母は使徒たちのだれよりも、もっと多くの愛を主に対していだいていらしたにもかかわらず、主はこの言葉を御母にはおおせられませんでした。こういう著者たちにとっては、観想はまったく霊的なわざであるので、物体的形象は、どんなものでもこれを乱し、あるいは妨げることができると思うのです。

 

こういう方法は、私にも時としてはよいもののように思われます。しかし、キリストからすっかり離れ、その神聖なご肉体を、私たちのみじめさ、あるいは、被造物のいずれかと同一視するということは、私にはがまんできません。どうか主のお助けによって、私の言うことをわかっていただけますように!

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22・2(P255)

 

 私はこういう著者たちに反対するわけではありません。彼らは学識もあり、霊的な人々で、自分たちの言うところを知っていますから。それに神は人々の霊魂をいろいろ異なった道や手段によってお導きになります。私はここではただ神が、私の霊魂をお導きになった道についてお話し(他のことに口だしはいたしません)本のなかで読んだことに従おうとしたために陥った危険を示そうと思うのです。

一致の念祷に達し、それ以上には行かない人、つまり、恍惚、幻視、そのほか神が与えられる、この種の恩寵に達しない者は私自身もそうでありましたように、これらの著者たちの言うことがいちばんよいと思うでしょう。しかし、もしも私がいつもこういう考えに従っておりましたなら、ただいまいる状態に、私は決して達しなかったと思います。なぜなら私の考えでは、それは一つの誤謬ですから。誤っているのは私かもしれませんが、とにかく私に起ったことを申しましょう。

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22・6(P259)

 

 私たちはただ聖主の聖なるご人性によってしか神のみ心に適うことができず、このご人性を通じてのみ、神は私どもに著しいお恵みをくださろうとなさるのです。

神は御自らおおせられたように、そのうちに楽しみをおいていらっしゃいます。私は非常にたびたびそれについて経験をいたしましたし、聖主御自らも私にそうおっしゃいました。

もしもいと高き御者に大いなる秘密を打ち明けていただきたいなら、私たちが通るべき門はこれだということを私ははっきりわかりました。

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22・8(P260)

 

たぶん物体的なものをすべて捨て去るのはよいことに違いありません、このように霊的な人々がそう断言するのですから。しかしそれは非常に進歩した霊魂の場合でなければならないと思います。なぜなら、それまでは霊魂は明らかに、被造物によって造物主を求めるべきですから。それにこういうことはすべて主が各々の霊魂にお与えになるお恵みによります。そしてこれは私が口だししたくない問題です。

私がわからせたいこと、それはキリストのいと聖なるご人性は、遠ざけるべきものの数に、はいるべきではないということです。この点をよく理解していただきたいので、私ははっきり説明したいと思います。

 

 

 

イエズスの聖テレジア(アヴィラのテレサ)自叙伝22・9(P261)

 

(前略)

しかし私たちのほうからこの聖なるご人性の現存を常に保つことを(どうか私たちがこのご現存をいつも保ったのでありますように!)避けようとしてくふうしたり、気をつかったり、努力したりすること、それが、繰り返して申しますが、私にはよいとは思えないのです。

こういう道を歩む霊魂は、いわゆる空を歩んでいるのです。

なぜなら、どんなに神に満たされていると自分では信じていても、支えを欠いているように見えますから。この地上に生活している間、そして人間である私たちにとって、聖主のご人性について考えることはたいへんたいせつなことで、私が言ったもう一つの不都合とは、この点をないがしろにすることです。

 

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/4巻P250

 

「我が娘よ、罪は神を侮辱し、人を傷つける。罪は人間によって犯される神への侮辱なので、その完全な償いを得るためには、人間と、それを償う神を必要とした。それで私は、約三十年間ほどの人間としての私の生涯のあいだ、世界の三つの年齢、つまり自然、契約、恩恵という三つの異なった律法の年代を償い、そして少年期、青年期、老年期という人間各自の異なる年代についても償いのわざを行なった。私はすべての人のために償い、獲得し、懇願した。私の人間性は、天に登るための階段として役に立ったのである。もし人間が、自己の徳の修練によってこの階段を登らないならば、それは空しく天に登ろうとするようなものなので、私の働きを自分自身で無益なものとすることになる。」

 私は、罪という言葉を聞きましたので申しました。

「主よ、おっしゃってください。霊魂があなたのお気を悪くした時にそれを悲しむとき、なぜあなたはとても喜ばれるのであるか?」

「罪とは霊魂全体を害する毒であり、霊魂から私の似姿を消してしまうほどそれを変形させてしまう。しかし痛みはこの毒を破壊し、霊魂に私の似姿を返してくれる。だから本当の痛悔は、解毒剤となる。心の苦痛が毒を打ち壊すので、それは霊魂の中に空洞を創り、この空洞は恩恵のよって満たされる。これは私の喜びとなる。私は、苦痛という私の贖罪の働きを通して、霊魂が復活するのを見るからである。」

 

 

 

 

マーリン・キャロザース/あなたはいま幸せになれる/P259

 

 人間は実際に見たこともない人を愛することなどできないのを、神さまはよくご存知でした。そこで、完全なご計画を考え出されたのです。ご自身が御子イエスとして、この世に来られるご計画を。

 あるお方が、私たちの益となることのために苦難をお受けになったと知れば、その人を愛することは容易になります。そしてさらにこのお方が、あるがままの姿の私たちを愛してくださるのがわかれば、私たちもまたこの方を愛したいと望むようになるでしょう。

 

 

 

 

12.人類の傲慢を滅却するため

 

 

マリア・ワルトルタ26・7/天使館1巻P214

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

もしわたしが極みまで謙遜でなかったならば、わたしがヨセフに言ったように、人類の傲慢を滅却するために、人となる屈辱を甘受し、ご自身を空しくされた御者を胎内に宿すには値しなかったでしょう。

 

 

 

 

13. 主は霊的な者を救うために来られた

 

 

天界の秘義2661

 

主は天的な者を救うために世に来られたのではなく、霊的な者を救うために来られたのである。「人間」と呼ばれた最古代教会は天的なものであった。もしこの教会がそのもとのままに止まったならば、主は人間として生まれたもう必要はなかったのである。しかし、この教会が衰え始めるや否や、主は天的な教会が全く世から死滅することを予見されたのであり、そうした理由からそのとき主が世に来られることについて予告がなされたのである(創世記3・15)。その教会の時の後ではもはや天的な教会は存在しなくなって、霊的教会が存在したのである、なぜなら洪水以後に存在した古代教会は―この教会については第一部にいくども語ったのであるが―霊的教会であり、この教会は、すなわち、その霊的教会にぞくした者たちは主が世に来られなかったならば、救われることができなかったからである。このことがマタイ伝の主の御言葉により意味されているのである。―

 

 すこやかな者は医者を必要としない。病んだ者がかれを要するのである。わたしは義しい者をまねくためでなく、罪人をまねいて悔改めさせるために来たのである(マタイ9・12、13)。

 

またヨハネ伝の以下の言葉によっても意味されているのである―

 

 そしてわたしにはこのおりのものでない他の羊がいる。かれらもまたわたしは連れて来なくてはならない。かれらはわたしの声を聞くであろう。かくて一つの群と一人の羊飼いがいるであろう(ヨハネ10・16)。

 

またマタイ伝18・11−13の百匹の羊のたとえによっても意味されているのである。

 

ハガルの息子とその息子の母とにより霊的な教会が表象された。

 

 

 

天界の秘義2716

 

もし至高の神的なものそれ自身が、記述されたような、すなわち、かくも多くの悪と誤謬とにより汚されている善にかりにも流れ入るとするなら、それは受け入れられることはできないであろうし、もし何かがそのような善を持っている人間により受け入れられるなら、その者は奈落の呵責を感じて、かくて死滅してしまうのである。しかし主の神的な人間的なものは、太陽が密雲の中へ照り入って、朝まだきその雲を暁の華麗な色彩に変えてしまうように、このような人間のもとにも流れ入って、そのような善を明るくすることができるものの、それでも主はかれらの前には太陽の光として現われたもうことはでいないで、月の光として現われておられるのである。ここから主が世に来られた原因は霊的な者が救われるためであったことが明白である(2661番参照)。

 

 

 

 

14.もし主がその神的慈悲の中に来られなかったならば、地上の全人類は滅んでしまったであろう

 

 

天界の秘義637

 

 『わたしは彼らを地と共に滅ぼそう』は教会と共に人類が滅びるであろうということを意味しているのは以下のためである、即ち、もし主の教会が仮にも全く地上に消滅してしまうならば、人類は決して生存することは出来ないいで、ことごとく死滅してしまうのである。教会は前に言ったように心臓のようなものであり、心臓が生きている限り、近くの内臓と各々の器官は生きることが出来るが、しかし心臓が死ぬとすぐに、それらはことごとく死んでしまうのである。地上の主の教会は心臓のようなものであり、そこから人類は、人類の中で教会の外にある部分でさえも、生命を得ているのである。その理由はたれにも知られていないが、しかしそのことが多少なりとも知られるために以下のことを述べてよいであろう、すなわち地上の全人類は色々な部分をもった一つの身体のようなものであって、その中に教会は心臓のようなものとなっており、そして主が天界と霊たちの世界を通して、心臓に結合するように、結合し給うことが出来る教会が存在しない限り、分離が起こり、そしてもし人類が主から分離するなら、それは直ちに死滅してしまうのである。このことが人類が最初に創造されて以来常に何らかの教会が存在していて、教会が死滅し始めるといっても、依然それはたれかのもとに存続した理由となっている。

 

 

 

天界の秘義637[2]

 

このことがまた主が世に来られた理由であった。もし主がその神的慈悲の中に来られなかったならば、地上の全人類は滅んでしまったであろう、なぜなら教会はその時その最後の末端に達していて、いかような善も真理もほとんど生き残ってはいなかったからである。人類は天界と霊たちの世界を通して主と連結していない限り生きることが出来ない理由は、人間はそれ自身において認められるならば、獣よりも卑しいということである。もし彼は彼自身の自由に委ねられるならば、彼は彼自身と凡ゆる物の破滅へ突っ込むであろう、なぜなら彼は彼自身と凡ゆる物の破壊をもたらすもの以外の何物をも欲していないからである。人間の秩序は人間は自分自身のように他の者を愛さなければならないということでなくてはならない。しかし今は人間各々は自分自身を他の者よりも愛しかくて凡ての者を憎んでいるのである。しかし獣の場合は全く異なっており、その秩序はそれに従って獣が生きているものである。かくて獣はその獣がその中に置かれている秩序に応じて生きているが、人間は全くその秩序に反して生きているのである。それで主が人間を憐れみ、天使たちを通して人間を御自身に連結させられないということが仮にもあれば、人間は一瞬も生きることが出来ないのである、しかしこのことを人間は知ってはいない。

 

 

 

天界の秘義1266

 

 死滅した洪水以前の者らは左足のくびすの下の或る地獄の中にいる。一種の霧のような岩があって、その岩でかれらはおおわれているが、それはかれらの恐るべき幻想と信念から放出されているものであり、それによってかれらは他の地獄から分離され、また霊たちの世界からも遠ざけられているのである。かれらはそこから這い出そうと絶えず努力はしているが、ただ努力するのみで這い出すことはできない、なぜならかれらは、もし万が一にも霊たちの世界へ入りこみでもするなら、その恐るべき幻想によりその信念の発散物と毒気とにより、善良な者を除いては、その出会う凡ゆる霊たちから、考える能力をとり去ってしまうといった性質をもっているからである。そして主が、肉の中へ来られることによって、霊たちの世界をこの極悪の一味から解き放たれなかったならば、人類は死滅してしまったことであろう、なぜならそのときはいかような霊も人間のもとにいることはできなかったであろうし、しかも霊たちと天使たちとが人間のもとにいないなら、人間は一瞬も生きることはできないからである。

 

 

 

天界の秘義1587

 

「エホバがソドムとゴモラとを滅ばされた前で」。これは悪の欲念と誤謬の確信[信念]により破壊された外なる人を意味していることは以下から明白である、すなわち『ソドム』の意義は悪の欲念であり、『ゴモラ』の意義は誤謬の確信[信念]である、なぜならこの二つのものは外なる人を破壊して、それを内なる人から分離するものであり、またこの二つのものは洪水以前の最古代教会を破滅させたものであったからである。悪の欲念は意志にぞくし、誤謬の確信[信念]は理解にぞくしていて、この二つのものが支配するとき、外なる人はすべて破壊され、そしてそれが破壊されると、それはまた内なる人から分離してしまうのである。霊魂または霊は身体から分離するのではなく、善と真理とが人間の霊魂または霊から分離されて、遠方からしか流入しなくなるのである。この流入については主の神的慈悲の下に他のところで述べよう。そして外なる人が人類の中にそのように破壊され、その外なる人と内なる人との、すなわち、善と真理とのきずなが破壊されてしまったため、主はその外なる人を内なる人に、すなわち、人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られたのである。

 

 

 

天界の秘義1673[2]

 

 最も恐るべき誤謬の信念は洪水以前に生きた者らのもとに、とくに『ネプリム』と呼ばれた者らのもとに存在したのである。これらのネプリムは他生ではその接する霊たちから考える能力をその信念によってことごとく奪い去ってしまい、そのためその霊たちはその霊たち自身にはほとんど生きていないように思われ、まして真の事柄を何ら考えることができないようにも思われるといった性質をもっているのである。なぜなら、前に示したように、他生には凡ての者の思考は伝達されていて、それでこのような説きつけるものが流れ入ってくると、それは他の者の中に考える力をことごとくいわば殺してしまわないわけにはいかないのである。こうした者らが主がその子供時代の最初期にそれに反抗して戦われて、しかもそれを征服されたところの邪悪な種族であったのであり、そして主が世に来られることによりかれらを征服されなかったならば、現今地上には一人の人間も残されなかったのである。なぜなら人間はことごとく主により霊たちを通して支配されているからである。

 

 

 

天界の秘義1676[3]

 

それで人間には以下のことは永遠の真理であると知るのみで充分であり、またそれは永遠の真理であるために、そのことを信じるのみで充分なのである、すなわち、主が世に来られて、主御自身に許容されたいくたの試練により地獄を征服されなかったならば、人類は滅んでしまったであろうし、またそうでなかったならば、最古代教会のときからさえもこの地上にいた者たちは決して救われることができなかったのである。

 

 

 

天界の秘義1990[]

 

これらの記事から、エホバなる無限のエッセ[存在者]は人間的な本質を通さなくては、かくて主を通さなくては人間に決して明らかに示されることはできなかったことが、それでそれは主のみを除いてはたれにも明らかに示されてはいないことを認めることができよう。人間が神的なものから自分自身を完全に遠ざけてしまって、自分自身を醜悪ないくたの欲念に沈めてしまい、かくして単に身体的な地的なものの中にのみ沈めてしまった後、かれは[その無限なるエッセは]また人間のもとに臨在して、人間と連結するために、現実に人間的な本質そのものを出生によりとられたのであるが、それはかくしてかれ[その無限なるエッセ]は今やかくも遠く離れ去った人間にその無限なる神的なものを尚も接合するためであったのであり、もしそれが行われなかったならば人間は呪われた者の死をもって永遠に滅亡してしまったであろう。

 

 

 

天界の秘義2034

 

「あなたとあなたの後の裔」。これは主を信じるすべての者との連結が主から存在していることを意味していることは、『裔[種]』の意義が、前にいくども話された信仰であることから、また『あなたの後の』の意義が、(前の2019番に説明された)主に従うことであることから明白である。神的な本質が人間的な本質と結合し、人間的な本質が

 

[]により、前に示されたように、仁慈の信仰が意味されているのである。(1025,1447、1510番、信仰は仁慈そのものであることは第一部に見ることができよう、30−38、379、389、654、724、809、916、1017、1076、1077、1162、1176、1258、1798、1799、1834、1844番)

 

 

 

[]さらに主は御自身の父との結合を話されておられるとき、すぐ間をいれないで、御自分が人類と連結されることを語っておられ、それはそのことがヨハネ伝に明白であるように、結合の原因であったためである。

 

  父よ、あなたがわたしの中におられ、わたしがあなたの中におりますように、かれら凡ての者が一つのものとなるためであります。かれらもまたわたしたちの中で一つのものとなるためであります。あなたがわたしに与えられた栄光をわたしはかれらに与えました、わたしたちがまことに一つのものであり、わたしがかれらの中におり、あなたがわたしの中におられますように、かれらも一つのものとなるためであります。わたしはかれらにあなたの御名を知らせました、またそれを知らせましょう。あなたがわたしを愛されたその愛がかれらの中にもあるためです(17・21、22、26)。

 

 このことから、主が御自身を父に結合させられたことのうちに御自身を人類に連結させることを目標とされていたことが、また主はそのことを、それが主の愛であったため、心に抱かれていたことが明白である、なぜなら連結はことごとく愛により遂行され、愛は連結そのものであるからである。

 

 

 

[]さらに同じ福音書に―

 

  わたしが生きているために、あなたらもまた生きるでしょう、かの日あなたらはわたしは父の中におり、あなたはわたしの中にわたしがあなたらの中にいることを知るでしょう、わたしの戒めを抱いて、それを守る者、その者こそわたしを愛する者である(14・19−21)。

 

 このことから同じく以下のことが明白である、すなわち主はその人間的な本質をその神的な本質と結合させられることにおいて御自身を人類と連結させることを目標とされていたのであり、それが主の目的であり、またそれが主の愛であり、その愛は、人類の救いが、すなわち、御自身を主の父と結合させられることにおいて眺められる人類の救いが主には最も深い喜びであられたほどのものであったのである。ここにまた結合させるものが、すなわち、主の戒めを心に抱いて、それを行い、そのことによって主を愛することが記されているのである。

 

 

 

[]さらに―

 

  父よ、あなたの御名を栄化してください[あなたの御名に栄光を与えてください]、それで天から声が来た、わたしはそれを栄化しました、さらにそれを栄化しましょう。イエスは言われた、この声が来たのはわたしのためではなく、あなたたちのためである。しかしわたしが地から上げられるとき、凡ての者をわたしの後に引きよせよう(12・28、30、32)。

 

『栄化[栄光を与えること]』により、前に言ったように、結合が意味されており、そして主は御自身を父と結合させられたことにおいて御自身を人類と連結させることを顧慮されていたことは、『わたしは上げられるときは、わたしはすべての者をわたしの後に引きよせよう』という御言葉の中に明らかに言われているのである。

 

 

 

[5]無限なるものを、または至高の神的なものを人類と連結させることは、神的なものとなされた主の人間的なものを通して行われたことは、またこの連結が主が世に来られた原因であったことは多くの者が心の中に問いかけるアルカナであり、かれらはそれを把握しないため、それを信じはしないのである、そしてかれらは把握しないという理由から信じていないため、それはかれらには嘲笑の材料となり、またはかれらをつまずかせるものとなっている。それがそうであることをわたしは他生に入ってくる者たちから多くの経験から知ったのである。これらの者の中極めて多くの者は―世では有能な者であった者らのほとんど大半の者らは―主が人間となられ、外なる形では他の人間のようであられ、苦しまれた、それでも主は宇宙を支配されていることを単に考えるのみで、たちまちそのスフィア[霊気]を嘲罵で満たしてしまうのである、なぜならそうしたことは身体の生命の中ではかれらには嘲笑の材料となり、またはかれらをつまづかせるものであったからである―たとえ当時は[身体の生命の中にいた頃は]そのことについてはかれらは一言も洩らしはしなかったし、外面的には恭々しく主を崇めていたのではあるが。なぜなら他生では内部が開かれて、そこから辺りにひろがってくるスフィアによりそれが明らかにされるからである(このことは第一部1048、1053、1316、1504番にとり扱ったところである)。このことからかれらはいかような信仰を持っていたかまた主についていかようなことを考えていたかが明白に認められるのである。

 

 

 

[6]それがそうであるからにはこの事柄をさらに少しく説明した方がよいであろう。人間における天的なものがことごとく、すなわち、主に対する愛がことごとく死滅してしまい、かくて善の意志がもはや存在しなくなってしまった後では、人類はそのとき神的なものから引き離されてしまったのである、なぜなら愛以外には何ものも連結を遂行しないからである、そしてそれが絶滅してしまったとき、分離が起ったのであり、分離が起ると、そのとき破滅と根絶とが続いて起ってくるのである。それでそのとき主が世に来られて、その人間的なものを神的なものに結合し、この結合により御自身の中に愛の信仰と仁慈により人類を連結させることを遂行されるにちがいないという約束がなされたのである。

 

 

 

[7](創世記3・15に語られた)その最初の約束のときから来られるにちがいない主に対する愛の信仰が連結を生んだのである。しかし全世界にもはや愛のいかような信仰も残らなくなったとき、そのとき主は来られて、その人間的な本質を神的な本質に結合され、かくてそれらはともに結合したのであり、そのことは主は明らかに言われているのであるが、同時に主は真理の道を教えられたのである、すなわち、主を信じる者はたれでも、すなわち、主を愛し、主のものである事柄を愛し、全人類に対する愛である主の愛の中におり、かくて隣人に対する愛の中にいる者たちは連結し、救われるにちがいないことを教えられたのである。

 

 

 

[8]主の中に、人間的なものが神的なものになされ、神的なものが人間的なものになされたとき、その結果人間のもとへ無限なるものが、または至高の神的なものが流入したのであり―そうしたことはそれがなかったならば決してありえなかったのである―さらにその結果、霊たちの世界に満ち溢れていたところの、またその世界に世からやってくる霊魂のために絶えず満ち溢れていたところの、またその正解に世からやってくる霊魂のために絶えず満ちていたところの恐るべき誤謬の信念と恐るべき悪の欲念とが消散させられ、その信念と欲念の中にいた者らは地獄に投げこまれて、そのことにより分離されてしまったのである。このことが行われなかったならば、人類は滅亡してしまったであろう、なぜなら主は霊たちにより人類を支配されるからである。かれらはまた他のいかような方法によっても消散させられることはできなかったであろう、なぜなら(そのときは)神的なものは人間の合理的なものを通して内なる感覚の事柄へ働きかけることは全く不可能であったからである、なぜなら内なる感覚の事柄は至高の神的なものがそのように結合していないときはその至高の神的なものの遥か下に存在しているからである。さらに深いアルカナは割愛しよう、それらはいかような人間にも把握できるようには説明することはできないのである。(前の1676、1990番に述べられたことを参照されたい、すなわち、天的な天使たちの天界には主は太陽として現われ、霊的な天使たちの天界には主は月として現れたもうている、陽は主の愛の天的なものであり、月はその愛の霊的なものである、1053、1521、1529−1531番、あらゆるものは全般的にもまた個別的にも主の視野の下におかれている、1274、1277番)。

 

 

 

 

天界の秘義2321

 

 審判は主の神的な人間的なものと発出している聖いものに属しているという事実については実情は以下のようである、すなわち、主が世に来られて、その神的な本質をその人間的な本質に結合されなかったならば、もはや人類は救われることができなかったのである、なぜなら主の人間的なものが神的なものになされなかったなら、救いはもはや人間に到達することはできなかったからである(1990、2016、2034、2035番)。主の人間的なものから発出している聖いものそれ自身は悪い者を善い者から分離するものである、なぜなら悪い者は主の聖いものには近づくことはできないので、各々自分の中にある冒瀆性に応じて、そこから自分の地獄へ逃げ去って行くほどにも、それを恐れ、またそれにふるえ上がっているからである。

 

 

 

 

15.主は相応によって御自分から悪を退けることによって天界の秩序を回復された

 

 

アタナシウス信条についてP75

 

母から密着している人間的なものは自然に密着している虚弱なものであったのであり、それは悪であるため、地獄に相応していたのである。これが放逐されると、そのときは神的なものに調和しており、それに相応しているものが続いて起こってくるのである。

なぜなら身体は人間の霊魂または霊に相応しているものにすぎないからであり、かれが遠ざけられるに応じ、天界と相応しているものが存在し、それ故、また新しいものがそれに代わって植えつけられ、かくて人間は再生し、霊的なものとされ、天使とされるのである。

 

 

 

主の聖言11

 

自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。すなわち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間とともになっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、かれらは絶えず共になっているのである。

なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいないかぎり一瞬間も生きることはできないし、霊もまた天使も人間とともにいないかぎり一瞬間も生きることはできないからである。

その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。

天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続はありえないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。

 

 

 

天界の秘義3637

 

 人間に関連しては、巨大人は主の全天界であるが、しかしその最高の意義では巨大人は主のみである、なぜなら天界は主から発し、その内の一切のものは主に相応しているからである。悪の生命とそこから必然的に生まれてくる誤謬の確信[誤謬をかたく信じこむこと]により人類は全く歪められてしまったため、かくて人間の低い物が高い物を支配し始め、または人間の自然的な物が霊的な物を支配し始め、かくしてエホバまたは主はもはや天界である巨大人を通して流れ入って、彼らを秩序づけることができなくなったため、その結果必然的に主が世に来られねばならなかったのである、それはそのことによって主は人間的なものを着けられ、それを神的なものになし、そのことにより秩序を回復するためであり、かくて天界全体は、悪の中にいてそこから誤謬の中にいる者らは巨大人の足の下に斥けられ、かくして巨大人から斥けられて、只一人の人間としての主に関係を持ち、主のみに相応するためであったのである。ここから諸天界の中にいる者たちは主の中に、その御身体の中にいると言われている、なぜなら主は天界の凡てであられ、主の中に凡ての者は、また各々の者はその領域と任務とを割りあてられているからである。

 

 

 

 

16.その他

 

 

真の基督教270

 

かくプロテスタントと改革派の持つ聖言は霊的な伝達によって凡ゆる国民と民族とを照示するのである。主は、聖言が読まれ、それによって主を知らしめる教会が常に地上に存在するように配慮し給う。それ故、聖言が殆どロマ教会により抑圧された時、主の神的摂理によって改革が起こり、これによって聖言は、謂わば、隠蔽所から取り出されて再び用に持ち返されたのである。聖言がユダヤ国民によって全く虚偽化され、汚辱され、謂わば無効になった時、主は天界から降り、且つ言として来り、これを成就することを良しとし給うた。かくして彼は「暗黒に歩める民は大いなる光を見、死蔭の地に座せる者の上に光てらせり」(イザヤ9・2、マタイ4・16)との御言に従いそれを更新し、回復し、地上に住む人々に再び光を与え給うたのである。

 

 

 

黙示録講解1087[]

 

このことが主が世に来られ、またその人間的なものを神的なものとされた主要な理由であったのである、

 

 

 

天界の秘義1587

 

「エホバがソドムとゴモラとを滅ばされた前で」。これは悪の欲念と誤謬の確信[信念]により破壊された外なる人を意味していることは以下から明白である、すなわち『ソドム』の意義は悪の欲念であり、『ゴモラ』の意義は誤謬の確信[信念]である、なぜならこの二つのものは外なる人を破壊して、それを内なる人から分離するものであり、またこの二つのものは洪水以前の最古代教会を破滅させたものであったからである。悪の欲念は意志にぞくし、誤謬の確信[信念]は理解にぞくしていて、この二つのものが支配するとき、外なる人はすべて破壊され、そしてそれが破壊されると、それはまた内なる人から分離してしまうのである。霊魂または霊は身体から分離するのではなく、善と真理とが人間の霊魂または霊から分離されて、遠方からしか流入しなくなるのである。この流入については主の神的慈悲の下に他のところで述べよう。そして外なる人が人類の中にそのように破壊され、その外なる人と内なる人との、すなわち、善と真理とのきずなが破壊されてしまったため、主はその外なる人を内なる人に、すなわち、人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られたのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P322

 

 ケリオットのユダ:

「ご託身がどうして行われなければならなかったのか、そこのところをもう少し詳しくお聞かせ願いたい。神だけに贖いの力があるのは、もちろん私も疑ってはいないが、みことばは、普通の人間が生まれるように生まれ、いろいろと不自由だった幼児体験をするほど自分を卑下する必要はなかったのではありませんか。みことばは、大人の人間の姿として現れることはできなかったのですか。それに、どうしても母の存在を望むのなら、父と同じように養母を選ぶことはできなかったのですか。このことはいつだったか、イエズスに聞いたことがあると思いますが、その時はっきり答えをもらったかどうか、もう覚えていない・・・」

 

 

 

 

17.ルイザ・ピッカレータ

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P108

 

 私が採用した人間性が物質の形を取ったのは、すべてにおいて人間に似た者となり、このような物質をどのようにして霊的なものにするかという完全な模範をあなた方に与えたいと思ったからである。霊魂は、自分の中に全てを精神化し、あたかも純粋な霊であるかのようになるまでに到達しなければならない。霊魂が私の意志とただ一つのものとなったとき、物質的なものは、彼女の中ではもはや存在しないかのようになって消え去り、見えなくなってしまう。実際に、あるものが目に見えないとき、それは他のものに吸収されてしまったからであるということが起こる。二つの物から一つだけのものを造りたいと思ったら、一方が自分の形をなくすことが必要である。そうでなければ決して一つだけになることはできない。もしあなたが自分自身を滅ぼして自分を見えないものとし、まったく神性な形態を受けることができたとしたら、あなたにとってそれはなんという幸いであろうか! あなたは私に吸収され、私はあなたに吸い込まれて、たった一つの存在を造り上げるので、あなたの中に神の源泉を持つことになる。さらに私の意志は、存在する限りのあらゆる善を含有しているので、あなたは全ての善、全ての賜物と恵みを有することになり、他の場所にそれらを捜し求める必要はなく、ただあなた自身の中に、見いだせばよいのである。

 

 

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P124

 

 イエスはなかなかおいでになりませんでしたので、私は鞭打ちの玄義について黙想することに努めていました。するとすっかり傷におおわれ、血にぬれたイエスを見ました。主は私に言われました。

 

「我が娘よ、天はすべての被造界とともに、あなたに神の愛を指し示す。この傷だらけの私の身体は、あなたに隣人愛を示すのである。私の人間性はまったく私の神性に一致しているので、この二つの本質はただ一つの人格を取ったのである。私の中では二つの本質は分かれがたく、私はそれを通して神の正義を満足させたのみでなく、人類の救いのわざをも行なったのであった。すべての人々が神と人を愛するという義務を会得することができるようにと願って、私は単に一つの義務を行っただけではなく、まことに唯一神聖な義務を行なったのである。まことに私の傷と血は、各々の人に互いに愛すること、隣人の救いについて心をくだく義務について教える多くの言葉なのである。」

 

 このあと、さらに苦しげな様子になられて言い加えられました。

 

「愛とは、私にとってなんという情け容赦ない専制君主であろうか! 私は十字架の上で血を流しきって死ぬまでの一生涯を、絶え間ない犠牲として捧げたのみでなく、聖体の秘跡の中に、私自身を生けにえとして残すことさえした。さらにこれに加えて、私の愛する肢体のすべても、人々の救いのために継続する苦しみの生きた犠牲である。これら多くの者の中の一人として、私の愛と人々のために捧げるためにあなたを選んだ。そうだ、もし誰かを見つけないとしたら、私の心には静けさも休息もないだろう。ところが人はどのようにしてこれに答えるだろうか? 限りない忘恩をもってである!」

 

 

 

 

18.主がその神的な人間的なものの方面で神的な光となられ、かくて天界全体と世全体とを明るくされるため

 

 

天界の秘義4180[5]

 

主が世に来られる以前は、神的なものそれ自身が全天界に流れ入っており、その時天界は大半天的な者たちから、すなわち、愛の善の中にいた者たちから成っていたため、この流入を通して、神的全能により、諸天界に存在する光がもたらされ、それにより知恵と理知とがもたらされたのである。しかし人類が愛と仁慈との善からそれ自らを遠ざけてしまった後は、かの光はもはや天界を通して生み出されることができなくなり、従って人類に浸透する知恵と理知もまた生み出されることができなくなったのである。こうした原因から、かれらが救われる必要から、主は世に来られて、御自身における人間的なものを神的なものとされたが、そのことは主がその神的な人間的なものの方面で神的な光となられ、かくて天界全体と世全体とを明るくされるためであったのである。永遠から主は光そのものであられたのである、なぜならかの光は神的なものそのものから天界を通して発していたからである。そしえ人間的なものを身に着けて、それを神的なものになされたものは神的なものそれ自身であったのであり、それが神的なものになされると、そのとき主はそれにより天的な天界そのもののみでなく、霊的な天界をも明るくされることができたのであり、また同様にヨハネ伝に明らかなように、善の中に、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈の中に神的真理を受け入れたところの人類をも明るくされることができたのである―

 

 かれを受け入れた者にはことごとく、かれの御名を信じる者たちには、かれは神の子となる力を与えられた、かれらは血から生まれたのではなく、また肉の意志からも、また人の意志からも生まれたのではなく、神から生まれたのである(ヨハネ1・12、13)。

 

 

 

 

19.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ

1986年8月8日 ルッビオ(ヴィチェンツァ)

 

人性をまとわれたがゆえに、神としてはなし得なかったことを行うことができたのです。すなわち、苦しみ、痛みを感じ、死を味わうことができ、これによって、おん父に完全なつぐないと捧げ、おん父の正義にふさわしい正しいあがないが捧げられたのです。

 

 

 

 

20.神自身を拝しはしないことのないように

 

 

天界の秘義4733[2]

 

 自分は最高の存在を承認していると言ってはいるが、その存在については何ら認識の観念[考え]をもってはいない者らの大半は神を全く承認してはおらず、その代わりに自然を承認している、なぜならかれらは自然を把握するからである。基督教徒の間の学者たちの非常に多くの者はこのようなものであるが、そのこともまたかれらが主の人間的なものが神的なものであることを信じないためである。それで人間が神的なものから自らを甚だしく遠ざけてしまい、形体的なものになってしまって、木や石を拝さないように、また人間をたれかその死後拝し、かくてその人間の下に悪魔をたれか拝し、神をいかような方法によっても認めることができないため、神自身を拝しはしないことのないように、かくて教会の凡ゆる物が滅んで、教会とともに人類も滅んでしまわないように、神的なものそれ自身が人間的なものをとって、それを神的なものにしようとされたのである。それで学者たちは主の人間的なものを考えると同時に、それが神的なものではないと信じないように注意されたい、なぜならそのようなことを為すことにより彼らは自ら躓くものを作って、遂には何ごとも信じなくなってしまうからである。

 

 

 

 

21.マリア・ワルトルタ

 

 

聖母マリア/マリア・ヴァルトルタによるマドンナの生涯/上巻/天使館/P13

 

 あなたたちは『わたしたちは神がどのような方であるか知らない』と言うことはもう出来ない。あなたたちの鈍重さをもってしては霊を愛するには不十分なので、わたしは、あなたたちが愛することの出来るを有するように、となった。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/P12

 

 あなたたちは生きている今を嘆いている。しかしあなたたちはそれを不当だと思っているのか? そのきびしさはあまりにも酷だと思うのか? いいや。それは正当であり、あなたたちに価するものよりも軽いものだ。

  わたしはあなたたちを救い、数えきれない方法で再び救い、あなたたちの犯した七千回の罪を赦し、更に七千回赦した。わたしはあなたたちに生命とを与えるためにわざわざやって来た。わたし、世のは、あなたたちの闇のなかに言葉をもたらすためにやって来た。わたしはもはや渦や火を通して、また預言者たちの口を介して、あなたたちに語りかけなかった。いいや。わたしわたし自らやって来たのだ。わたしはあなたたちと共にわたしのパンを割き、あなたたちと粗末な寝床を分け合った。わたしは労苦において、あなたたちと共に汗を流し、あなたたちに福音を述べ伝えるためにわたし自身を使い果たし、あなたたちのために死に、わたしの言葉によって律法に関するあらゆる疑問を吹き払い、わたしの復活をもってわたしの本性についてのあらゆる疑問を吹き払い、を与えるのに適した、あなたたちの霊的食物となるように、わたしわたし自身をあなたたちに残した。それなのにあなたたちはわたしに死を与えたのだ。

 わたしはあなたたちに言葉を与え、あなたたちは言葉に対して耳を塞ぎ、に対して魂を閉ざし、わたしのを冒涜した。

 一人の預言者の指で書かれた二枚の石板と、僅かなマンナが置かれていた古の幕屋を、わたしから降った真のパンと、わたしではなく、あなたたちが壊している愛の契約が書かれたわたしのが置かれた新しい幕屋に代えた。

あなたたちは『わたしたちは神がどのような方であるか知らない』と言うことはもう出来ない。あなたたちの鈍重さをもってしては霊を愛するには不十分なので、わたしは、あなたたちが愛することの出来るを有するように、となった。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/126・3/2卷P504

 

はわたしに言われた。『あなたは人になるだろう。に。わたしはすでに一人を創った。わたしがなすことはすべてそうであるように完璧な人を。彼には甘美な生活、無上に甘美な眠り、幸福な目覚め、わたしの天上の楽園での永遠の至福な逗留が予め定められていた。しかし、あなたの知る通り、楽園には堕落したものは入ることができない。なぜなら、そこは三一なるわたし−わたしたちの王座があるからだ。その前には聖なるものしか入ることが適いません。わたしは在る。わたしは在るという者だ。わたしの神性、神秘的なわたしたちの本質は、汚れの無い者たちによってしか知られ得ない。今人は、アダムのうちに、アダムによって、汚れている。行きなさい。人を清めなさい。わたしはそれを望む。今から後、あなただろう。長子だ。なぜなら、罪の無い死ぬべき肉と、原罪無き霊魂をもって、最初にここに入るであろうから。地球上においてあなたに先立った者たちと、あなたに従うであろう者たちは、贖罪主であるあなたの死によって生命を得るであろう』と。生まれた人以外死ぬことはできなかったのです。わたしは生まれました。そしてわたしは死ぬでしょう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷P110/444・7

 

さて、は努力する必要がないことを知っていますね。完全で、無限ですから。けれども、人間である神は、無限の本性から、限りある人間にへりくだることによって、努力することができます。のうちにおいて、人間の本性は欠けているのでも、比喩的なものでもなく、実在しますが、それに打ち勝ちます。あらゆる感覚、感情、受難と死の可能性に、自由意志で打ち勝つのです。

 死を愛する人はいません。とりわけ、それが苦痛を伴い、早過ぎ、不当なものであれば。誰も死を愛しません。けれども、誰もが死ななければなりません。ですから、死を迎えるすべての生き物を見るのと同じ平静さで、死を見なければなりません。よろしい。わたしは、わたしの人間に死を愛させましょう。そればかりでなく、人類のために死ねる命を選びます。このようにして、わたしは人間である神という状態で、のままでいたならば得られなかった功徳を得ます。そして、その無限の功徳によって、わたしはとしてばかりでなく、人間としても無限の力を得るでしょう。なぜなら、その功徳が得られるのは、神の本性が人間の本性に加わるからであり、わたしがそれにふさわしい服従の徳によって自分を差し出すからであり、わたしのであるに受け入れていただくよう、わたしの心に、堅忍、正義、自制、賢慮の、あらゆる徳を積むからです。わたしはすべての人のために自分を犠牲にします。これこそ、無限のです。それは功徳を得られる犠牲です。犠牲が大きければ大きいほど、功徳も増します。完全な犠牲に完全な功徳。最上の犠牲に最上の功徳。それは、その犠牲者の聖なる意志の通りに用いられます。が、『おまえの望むようにしなさい!』とおっしゃるからです。犠牲者はと隣人とを、はかりしれないほど愛しています。

 

 

 

 

22.人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られた

 

 

天界の秘義1587

 

「エホバがソドムとゴモラとを滅ばされた前で」。これは悪の欲念と誤謬の確信[信念]により破壊された外なる人を意味していることは以下から明白である、すなわち『ソドム』の意義は悪の欲念であり、『ゴモラ』の意義は誤謬の確信[信念]である、なぜならこの二つのものは外なる人を破壊して、それを内なる人から分離するものであり、またこの二つのものは洪水以前の最古代教会を破滅させたものであったからである。悪の欲念は意志に属し、誤謬の確信[信念]は理解に属していて、この二つのものが支配するとき、外なる人はすべて破壊され、そしてそれが破壊されると、それはまた内なる人から分離してしまうのである。霊魂または霊は身体から分離するのではなく、善と真理とが人間の霊魂または霊から分離されて、遠方からしか流入しなくなるのである。この流入については主の神的慈悲の下に他のところで述べよう。そして外なる人が人類の中にそのように破壊され、その外なる人と内なる人との、すなわち、善と真理とのきずなが破壊されてしまったため、主はその外なる人を内なる人に、すなわち、人間的な本質を神的な本質に連結し、結合するために世に来られたのである。

 

 

 

天界の秘義2077

 

主の情愛または愛は全人類に対するものであって、それは神的なものであり、主はその人間的な本質をその神的な本質に結合されることによって全人類を御自身に完全に接合させ、永遠に彼らを救おうと望まれたのである(この愛については1735を参照されたい。この愛から主は幾多の地獄と絶えず戦われた、1690,1789,1812、また主はその人間的なものをその神的なものに結合されたことにおいて、神的なものを人類と連結させること以外には何ごとをも顧みられなかったのである、2034番)。

 

 

 

 

23.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P38

第六章

原罪の汚れなき受胎

 

 神の御意志が全被造物の不可欠な源です。万物の存在の条件も状況も神の御命令通りになっています。何事も神意から外れません。万物は、神(父)と人となられた御言葉の光栄のために造られました。神が人間のレベルに降下し、人間と共に住むようになることは最初から神の計画されていたことです。その計画は、人間が神の方に引き上げられ、神を知り、畏怖し、求め、仕え、愛し、讃え、神のおそばにいることを永遠に喜ぶべきことを設定しています。その時機が到来したことは三位なる神の次のような御言葉からはっきり判ります、

 「今こそ我らの秘儀を始める時である。純粋な被造物を造り、他のいかなる被造物よりももっと高い位を与えよう。恩寵の偉大なる宝を与えよう。その他のあらゆる人間は、恩を忘れ、反逆し、人祖と同様に我々の計画を邪魔しようとしているから、全く聖にして完全な女を造ろう。原罪の汚れが全くない女である。我々の全能の仕事を完成し、創造の最後に冠を飾ろう。人祖の自由な意志と決定のため、あらゆる人間が罪人となった(ロマ5・12)が、彼女は人間が失ったものを取り戻す。天使や人間に与えられた元々のあらゆる特権と恩寵は彼女のものである。この第一の命令は違反されることなく、我々の選んだただ独りの人間が実行することになる(雅歌6・8)。死ぬ運命にある人間が服すべき普通の法律によって彼女を縛らない。蛇は彼女に手出しすることができない。私が天より降り、彼女の体内に入り、彼女から人性をもらうからである。」

 

 

 

 

24.善と真理の中にいる者たちがこうした悩ます者らから解放されるために、主は世に来られた

 

 

天界の秘義8321

 

それで善と真理の中にいる者たちがこうした悩ます者らから解放されるために、主は世に来られたのであり、主は世におられた時、御自身に許容された不断の試練により、またその試練における不断の勝利により、こうした霊を凡て征服され、その後その臨在により彼らを地獄へ投げ込まれるようにされたが、そこに彼らは彼ら自身の悪と誤謬とに取りつかれて、永遠に戒められたままに置かれるのである。

 

 

 

25.マリア・ワルトルタ

 

 

イエズス―たそがれの日々/P59

 

私はこの世に光と道を、真理と命を与えるために来たのに、世間は私を迎えようとしない。私の光は、その世間にとって闇に変わる。それは私を望まない人々の罰になるからです。

 

 

 

イエズス―たそがれの日々/P59

 

神が人間になったのも、その完全な愛によって人間を救うためであって、自分自身をあわれな人間のところまで下げることはできない。

 

 

 

イエズス―たそがれの日々/P136

 

「今日、偶然あなたに会えるとは!」

「偶然? なぜ神のおかげと言わないのですか」

「ヘブライ人の神が真の神であるというわけですか。だれからも愛されていないヘブライ人のような神だったら、負傷者もあわれんでくださらないでしょう」

「真の神はヘブライ人と同時にローマ人、ギリシャ人などすべての人たちの神です。存在するのは唯一の神だけなのに、多くの人はそれを知らないし、知ろうともしません。それを知っていれば、互いに兄弟のようになれるから、憎みも、ざん言も、仇討ちも、淫乱も、盗みも、人殺しも、姦通も、詐欺もあるはずはありません。真の神を知っている私は、その神を知らせるために来たのです」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/10卷上P56/604・7

 

「おお、祭司よ! イスラエルは新しい教えで溢れている。エッセネ派はエッセネ派の、サドカイ派とファリサイ派はそれぞれの教えを。だれもが、秘密の教えを信奉している。ある者は快楽、ある者は黄金、ある者は権力を。だれもが偶像を持っている。わたしは違う。わたしは、わたし永遠の黄金が踏みつけにされていたのを取り戻した。そして、十戒の教えを分かりやすく言い換えるために来た。それらをもはや知らない者たちの心に入るために、喉を嗄(か)らした」。

 

 

 

 

26.父なる神は人間をあがない救うために、天界から降られて、人間性を取られた

 

 

天界の秘義9315[3]

 

主が人間として生まれることをよしとされた理由は、主は人類を救うために、人間的なものを現実に着けられて、それを神的なものとするためであった。それゆえ主は人間の形をとられたエホバ御自身であられ、または父であられることを知られたい、このことをまた主御自身ヨハネ伝に教えておられるのである―

 

わたしと父とは一つである(ヨハネ10・30)。

 

 イエスは言われた、これから後は、あなたらは父を知り、また見ている、わたしを見た者は父を見たのである。わたしは父の中におり、父はわたしの中におられるというわたしを信じなさい(ヨハネ14・7、9、11)。

 

 わたしのものであるものはことごとくあなたのものであり、あなたのものはことごとくわたしのものであります(ヨハネ17・10)。

 

 

 

結婚愛118(2)

 

 主と主の父は霊魂と身体とが一つのものであるように一つのものであること、父なる神は人間をあがない救うために、天界から降られて、人間性を取られたこと、その人間性は世に遣わされた子と呼ばれているものであることは「啓示された黙示録」に充分しめされている。

 

 

 

27.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P362

 

「聖パウロになさったように、なぜキリストは今の時代にご出現ならないのか」

「主は今の時代にも、必要な人にはご出現になります。人間の必要はどこでも同じですが、一人一人の状態はかなり異なります。そこで、人間一人一人の心をご存じの神は、各々の状態と必要に応じて、真理の探求者に自らをお示しになるのです」

 神は、知恵と力と栄光を、天地にわたる大業の中にうたい上げている。だが、ある意味で自然界の言葉というべき人間は、沈黙したままだ。神の知恵と力は被造物を通して現わされているが、神ご自身を現わすにあたっては、人となることによってのみそれは可能だった。そして、今の時代にも、神は、神の現存の中に住みご自身も住まわれる人々を通して、失われた人類に自らを現わ現われされているのである。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P343

 

何年か前に、わたしは数百頭の羊を所有する男と、ヒマラヤ山中で出会いました。彼は沢山の羊が逃げてしまったため、使用人たちに探させようとしましたが、彼らは野獣を恐れて、出て行こうとはしませんでした。怖がってばかりの使用人たちを見て、主人は自分で羊たちを救うことにしました。彼はこういいました。「自分がこのままの姿で出かけても、羊は受け入れてはくれまい。番をしていた使用人たちならわかるだろうが、わたしのことは知らないからだ。羊の格好をしよう。そうすれば受け入れてくれる」。それから、彼は奇異な行動に出ました。大きな羊皮をとり、それを被って出かけて行ったのです。彼が羊のように見えたため、羊たちは怖がりませんでした。そこで、彼は迷い出た羊たちをみな洞窟に戻すことができました。そして、大喜びで、羊の皮を脱ぎました。仲間だと思っていたのが人間だったのですから、羊たちはさぞ驚いたに違いありません。彼は、羊たちを愛するがゆえに、自ら羊となって助けに行きました。同じように、イエス・キリストは神であります。主は迷い出た人々を救うために人となられたのであります。霊的な目を持たない人々は、主がただの人間だと思っていますが、単なる人間ではなく、人を救うために人となられたことを知るときが近づいています。彼らは、最後の日にそれを知ることになるでしょう。しかし、祈りの時を費やすならば、この世においてそれを知ることができるのです。たとえ、人のように見え、人のようにパレスチナで生きたとしても、主が神であられたことを、彼らは知ることでしょう。世は彼を知ることはない。だた祈りの人のみが知るのです。