新しいエルサレム

1.新しいエルサレム

2.新しい天

3.新しい地

4.地震

5.新しい天と新しい地とを創造する

6.都

7.都に上る歌・詩篇より

8.真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結する

9.許しは今や与えられたり(Nunc licet)

10.「新しいエルサレム」とは新しい「教派」を意味するのか

11.ヴァッスーラ

19.その他

20.マリア・ワルトルタ

 

1.新しいエルサレム

 

ガラテヤ4・26−27

 

 他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。

「喜べ、子を産まない不妊の女よ、

喜びの声をあげて叫べ、

産みの苦しみを知らない女よ。

一人取り残された女が夫のある女よりも、多くの子を産むから。」

 

 

イザヤ54・1

 

 喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。

歓声をあげ、喜び歌え

産みの苦しみをしたことのない女よ。

夫に捨てられた女の子供らは

夫ある女の子供らよりも数多くなると

主は言われる。

 

 

イザヤ66・10,13

 

エルサレムと共に喜び祝い

彼女のゆえに喜び躍れ

彼女を愛するすべての人よ

彼女と共に喜び楽しめ

彼女のために喪に服していたすべての人よ。

エルサレムであなたたちは慰めを受ける。

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質についてしらべられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教648

 

 前の教会の信仰は黙示録(12章)に竜によって表わされ、新しい教会の信仰は陽に囲まれ、頭に十二の星の冠を戴いた婦人によって表わされている。

 

 

真の基督教700

 

 然し真の基督教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。それ故、この教会は洗礼と聖餐なる二つの秘蹟の真の用と益とを受けるために、主は聖言の霊的な意義を示すことをよしとし給うた。この用と益とは人が理解を以てまたは霊の眼を以てその中に含まれている聖さを認め、これを主がその聖言に於て教え給うたように受ける時、受けられるであろう。

 

 

 

静思社/神学論文集P100

 

ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から

 

「かいばおけ」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「かいばおけ」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられるしるしとなりましょう、あなたらはかいばおけに寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。

 

ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。

 

 

天界の秘義5236

 

『若者』が罪のないこと[無罪性]を意味している理由は、内意では『小さな子供』は無垢なものを意味しているということである、なぜなら聖言に『乳のみ児[乳児]』『小さな子供』、『若者』(または子供)と記されているが、かれらにより三つの度の無垢が意味されており、『乳のみ児』により第一の度のものが、『小さな子供』により第二の度のものが、『子供[若者]』により第三の度のものが意味されるからである。しかし『子供[若者]』のもとに無垢が脱ぎ捨てられ初めるため、かれにより『罪がないこと[無罪性]』と呼ばれるかの度の無垢が意味されている。この三つにより三つの度の無垢が意味されているため、天的な愛と霊的な愛とは、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈とは無垢の中にのみしか存在しえない(中略)、しかし乳のみ児、小さな子供、子供の無垢はたんに外なるものにすぎないのであり、内なる無垢は人間が新しく生まれる後までは、すなわち、再び、いわば、乳のみ児、小さな子供、子供になる後まではかれの中にありえないことを知らなくてはならない。聖言にこの三つのものにより意味されているものはこの状態である。

 

イエスは一人の子供を取られて、これをかれらの真中におかれた。かれはかれを腕にかかえられると、かれらに言われた。わたしの名においてこのような子供たちの一人を受ける者はすべてわたしを受けるのである(マルコ9・36,37、ルカ9・47,48)。

 

ここの『子供』により無垢が表象されており、これを受ける者は、主は無垢のすべての源泉であられるため、主を受けるのである。たれでも『主の名において子供を受けること』は文字通りに子供を受けることではないことを認め、かくて天界的なものがそれにより表象されているにちがいないことをみとめることができるのである。

 

子供たちは神殿の中で叫んだ。ホサナ、ダビデの子に。祭司らは怒った。それでイエスはかれらにいわれた。あなたらは、あなたはみどり児、乳のみ児の口から賛美を全うされた(という聖言)を、一度も読みませんでしたか(マタイ21・15,16、詩篇8・2)。

 

子供たちが『ホサナ、ダビデの子に』と叫んだことは、無垢のみが、すなわち無垢の宿っている者のみが主を承認して受け入れることを表象することであった。『みどり児と乳のみ児の口からあなたは讃美を全うされた』により讃美は無垢を通してのみ主のもとにたっすることが意味されているのである、なぜならそれによってのみ交流のすべてが、また流入のすべてが行なわれ、従って接近が行われるからである。

主が以下のように言われているのはこうした理由によっている―

 

 あなた方は回心して、子供のようにならないかぎり、天国に入りはしない(マタイ18・3)。

 

[5]以下の記事においてもまた『若者』または『子供』により無垢が意味されているのである。ゼカリア書には―

 

 都の街路はその街路に遊んでいる若者と娘たちで満ちるであろう(8・5)。

 

 これは新しいエルサレム、または主の王国を語っている。

 

 

天界の秘義1458

[3]エゼキエル書には―

 

  神の幻の中に神はわたしをイスラエルの地につれてこられ、非常に高い山の上に置かれた、その上には南の都の建物のようなものがあった(40・2)。

 

 これは新しいエルサレムまたは主の王国にかかわっており、それは知恵と理知の光の中にあるため、『南』に存在しているのである。ダビデの書には―

 

  エホバはあなたの義を光のように、あなたの公正[審判]を真昼のようにもち出されるであろう(詩篇37・6)。

 

 さらに―

 

  あなたは夜の恐怖のために、昼飛び来る矢のために、暗闇の中を歩む疫病のために、真昼の時に(または南の中で)荒らす破壊のために恐れはしない(四篇1・5,6)。

 

 『南の中で荒らす破壊のために恐れはしないこと』は知識の中にいるものの、それを歪める者らに臨んでくる堕地獄のために恐れはしないことを意味している。エゼキエル書には―

 

  人の子よ、あなたの顔を南の方に向け、南にむかって(あなたの言葉を)洩らし、南の森に予言し、南の森に言いなさい、南から北に至るまで凡ての顔はその中で焼かれるであろうと、(20・46、47)。

 

 『南の森』は真理の光のにいて、それを消滅させる者を意味し、かくて教会の中にいるこのような性格の者らを意味している。

 

[4]ダニエル書には―

 

  かれらの中の一人から小さい角が一つ突き出して、南の方へ、東の方へ、美の方へ非常に大きくなって、天の軍勢にさえも大きくなった(8・9,10)。

 

これはいくたの善と真理とに反抗して戦う者らを意味している。エレミア記には―

 

 あなたらの神エホバがそれを暗くされないうちに、あなたらの足が薄明かりの山々の上でつまづかないうちに、かれに栄光を与えよ[栄えをきしまつれ]、あなたは光を求めるが、かれはそれを死の蔭に変えられる、かれはそれを暗闇にされるであろう、南の都は閉じられて、それを開く者は一人もいない(13・16、19)。

 

 『南の都』は真理と善の知識を意味している。オバデア書には―

 

 セパラドにいるエルサレムの捕らわれたものは南の都を嗣ぐであろう(20節)。

 

 『南の都』も同じく真理と善とを意味し、そこからかれらがその相続者となる真理と善そのものを意味しており、主の王国がここにとり扱われている。

 

 

天界の秘義2830[5]

 

『新しい神殿』と『新しいエルサレム』により特に主の霊的王国が意味されているが、しかし『シオン』により天的王国が意味されているのである。

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心7

 

神の聖なる都であるマリア

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48

 

“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」

 

 

グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48

 

世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。

 

 

愛の炎P84

 

<新しい聖霊降臨>

「この洪水は、聖霊の力を全世界に注いだ最初の聖霊降臨のものと比べることができます。全人類は、この大きな奇跡に気づかなければなりません。それは、聖母マリアの愛の炎の輝きです。信仰が薄くなっているこの世は、今、闇に落ちようとしていますが、信仰に立ち返る前に大きな混乱状態があるでしょう。このことが信仰の力で新しい世界を築くことになります。信仰の中にある信頼は、その心の中に根を下ろし、地の表は新しくされるでしょう。みことばが人となったとき以来、そのような恵みの洪水はありませんでした。今、苦しみで満ちているこの世界の刷新は、聖母マリアの力づよい取りつぎによっておこなわれることでしょう。」

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P29

 

しかし、その間、一人の母を有する喜びのために、イスラエルの希望を含んでいた神殿の薄暗さの中で、ふしぎなことばがささやかれたが、その神殿は、もはや存亡の極限に立っていた。なぜなら、一つだけの民のための希望を含むのではなく、この世が存在するかぎり、世々に“全地”の民のための希望をもってくる新しい神殿が生まれるところであった。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P191

 

 この世の最後の日、永遠のエルサレムの最初の日が来るだろう。

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P269

 

永遠のエルサレムの市民を作るために

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P123

 

「そうです。だが人を罪から救っても、悪魔という永遠の敵はまた攻撃に出て来るに違いありません。楽園から神の声が聞こえたとあります。『私はおまえと女との間に敵対をおく・・・女はおまえの頭を踏み砕き、おまえは女の踵を襲うだろう』それは“女”にとって軽い責めに過ぎない。なぜなら“女”は敵に打ち勝つ力を内に持ち、そして存在の初めから贖う者です。目には見えなくとも、その贖いの力はすでに働いています。近いうちにこの世にも見えるように、その力は現れ、女たちが“彼女”において強められます」

 

「あなたが世を贖われることは、それはよいとしても、女にそれができるとはどうも考えられません」

 

「トビアを覚えていますか、その詩を」

 

「覚えています。エルサレムについて話していますが」

 

「エルサレムは、神の聖櫃をまだ持っているといえますか。栄光の神が、そこから神殿の中で行われる罪を見ておられないと思うのですか。もう一つの聖櫃、迷う人々をいと高き御者に立ち戻らせる星が必要です。それは救いに協力する“女”にあります。この女は代々に贖われた人々の母であることを喜ぶでしょう。それは贖いの協力者に対する真の讃歌です。

天子たちも、もう天からこのことを歌っている・・・新しい天のエルサレムは彼女をもって始まります。これが真実です。世間はこれを知らず、目がくらんだラビたちも知らない・・・」イエズスは思いをこらすように黙る。

 

「だれについて話しておられるのだろう」と、ケリオットのユダが、そばにいるフィリッポに聞く。

 

フィリッポが答える前に、テーブルにチーズと黒いオリーブの実を持って来たエリーザが厳しい口調で言う。

 

「ご自分の母上のことを話していらっしゃるのが分からないのですか?」

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義/3216

 

天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると、そのときそれに相応している霊たちの社会が存在している低いスフィア[領域]の中に時折、一つの都またはいくたの都の形またはパターンが現れてくるが、その中には色々な相をした家は言わずもがな、宮殿があって、それは建築の点で技術そのものがそこにその生まれた家の中にいると言われるほどにも驚嘆すべき技能を示しているのであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、すべてこれらのものの中には全般的にも個別的にも、最小の点でも、または目に見える粒子でも、何か天使の観念と言葉を表象していないものはないのであり、それでこれらのものの中にはいか程無数のものが含まれているかが明白であり、また聖言の予言者により見られた都により何が意味されているか、同様に聖い都または新しいエルサレムにより何が意味されているか、予言的な聖言における都によって何が意味されているかが明白であり、すなわち、仁慈と信仰との教義的な事柄が意味されていることが明白なのである。

 

 

スウェーデンボルグ/主イエス・キリスト/65

 

黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ意外の何ごとも意味していない。この教義は前の教会には存在しなかったものであり、その理由はもしそれが存在したとしても、それは受け入れられはしなかったであろうということである。

 

 

スウェーデンボルグ/真のキリスト教/188

 

しかし真のキリスト教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。

 

 

スウェーデンボルグ/真のキリスト教/700

 

この天界に新しいエルサレムなる地上の主の教会は結合されるであろう。

 

 

スウェーデンボルグ/真のキリスト教/108

 

主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P161

 

 「上から一つの声が下り、私の中で叫ぶ。『神の古の民は、新しい歌を歌うことはできない。彼らは、救い主を愛していないからである。新しい歌を歌う人々は、すべての国の救われた人々、主キリストの新しい民であって、私のことばを憎む人たちではない』恐ろしいことだ」

ここで彼女は絶句する。

 

 

 

天界の秘義40

 

しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―

 

 

スウェーデンボルグ/霊界日記6070

 

ハーグに一人の説教家がいた。かれは信仰のみの教義を奉じていた。かれは他の者たちには全く竜のように現れ、いわば、子供を生み出そうとしている一人の女の前に立って、その子供が生まれるとき、それを食いつくそうとしているように見えた。新しいエルサレムである主の教会は表象的にはその女により示され、その教義はその子供により示されたのである。

 

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P36

 

子どもたちよ、あなたがたは新しいエルサレムです。けれども我が子の忠実な僕たちにとって、今はまだ栄光のときではありません。あなたがたのために、苦しみを通してなされる浄化の時があるでしょう。

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P73

 

我が子ら、我が教会よ、あなたがたは私の遺産、間もなく刷新されようとしている私の聖なる町である。

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P155

 

私のヨハネが最初の観覧者であった天上の事柄を明白にする前に、私はあなた方の真中に私の王国を築くために来よう。まもなくあなた方の真中に新しいエルサレムがくだって来る。私の計画とは、あなたや他の道具となる霊魂たちを通して、私の間もない再臨にそなえて世界を準備することである。

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P148

 

イエズス:

「私の聖なる母とは、『・・・聖なるエルサレムが天から下ってきて、人々の住まいの間に居を定めるのを見た・・・』と記されているあの文章を形成する方である。:,,,調和と均衡を失った家々に住まう神の聖なる町とは、彼女のことである。

 あなたがたの家庭のいろり端に喜びを取り戻してくださるのは、彼女である。

人間が神と和解することができるように、私たち聖三位の愛が選んだのも彼女である。全ての天使はこの出来事を知っており、あなたがた、私の憐れみの愛の小さな子らも、聖なるマリアの共贖のわざの使命について知ることを、私は望んでいる。」

 

デボラ:

「私たちは聖母を愛しており、本当に大好きです。」

 

イエズス:

「彼女を誉め崇めることが必要である!余りにも多くの人が彼女を侮辱し、卑しめている!」

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P197

 

ああ、もっとも聖なるおとめよ、ああ、栄光のマリアよ、ああ、おん母よ。あなたこそは、天国の門、いのちの源、主の聖殿、聖霊のもっとも愛される聖所です。

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教137

 

我々に於けるこの信仰はエルサレムの城壁の宝石(黙示録21・17〜20)のように数多い宝石で飾られた王妃に似ております。

 

 

スウェーデンボルグ/新しいエルサレムの教義297

 

主の中に三一性の在ること、すなわち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ[秘義]であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。

 

 

2.新しい天

 

静思社/スウェーデンボルグ/最後の審判とバビロンの滅亡2

 

私は新しい天と新しい地とを見た。なぜなら最初の天と地とは過ぎ去ったからである(黙示録21・1)

 

これらの記事では、「新しい天」により目に見える天が意味されるのでなく、人類が集められる天それ自身が意味されている。何故なら天は基督教会が始まったときから生きている凡ての人類から形成されたが、しかしそこに居た者たちは天使ではなくて、色々な宗教を奉じた霊であり、この天が亡ぶべき「第一の天」により意味されているからである。

 

 

3.新しい地

 

最後の審判とバビロンの滅亡3

 

「新しい地」により地上の新しい教会が意味されていることは、現在まで知られていない。というのは、凡ての者は聖言の「地」により地を理解したからであるが、事実は、それにより教会が意味されているのである。

 

 

4.地震

 

最後の審判とバビロンの滅亡3注

 

地震は教会の状態の変化である(天界の秘義3355)。

 

 

5.新しい天と新しい地とを創造する

 

最後の審判とバビロンの滅亡4

 

聖言の霊的な意義の「創造する」もまた、形作る、設立する、再生させることを意味している。それゆえ「新しい天と新しい地とを創造すること」により、以下の記事から明らかなように、天と地に新しい教会を設立することが意味されている。(中略)

かくて人間の「新しい創造」はその改革(リフォメイション)である。なぜならかれは新しく、すなわち、自然的なものから霊的なものになされるからであり、かくて「新しく創造られた者」は改革された人間である。

 

 

同・最後の審判とバビロンの滅亡4注A

 

「創造する」は新しく創造する、または、改革し、再生させることである(天界の秘義1688、10373、10634)。「新しい天と新しい地とを創造する」は新しい教会を設立することである(10373)。創世記第一章の「天地創造」により、その内意では、最古代教会である天的教会の設立が記されている(8891,9942,10545)。

 

 

6.都

 

詩篇87・5

 

シオンについて、人々は言うであろう

この人もかの人もこの都で生まれた、と。

 

 

7.都に上る歌・詩篇より

 

詩篇122

 

主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。

エルサレムよ、あなたの城門の中に わたしたちの足は立っている。

エルサレム、都として建てられた町。

そこに、すべては結び合い そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。

主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。

そこにこそ、裁きの王座が ダビデの家の王座が据えられている。

 

エルサレムの平和を求めよう。

「あなたを愛する人々に平安があるように。

あなたの城壁のうちに平和があるように。

あなたの城郭のうちに平安があるように。」

 

わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。

「あなたのうちに平和があるように。」

わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。

「あなたに幸いがあるように。」

 

 

8.真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結する

 

黙示録講解732

 

[2]

新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後にはさらに多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するにはいくたの理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることはできないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることができるのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。

 

第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることはできず、そこから受け入れられることはできないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。

 

 

[3]

第三の理由は地上では新しい教会はその教会が霊たちの世界において増大することに従って成長するということである、なぜならかの世界から霊たちは人間のもとにおり、かれらは地上に生きていた間はかれらの教会の教義の中にいた者らから来ていて、これらの者の中一人として、真理に対する霊的な情愛を抱いていた者たちを除いては、その教義を受け入れはしないのであり、真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結するのであり、かれらが人間に天界を連結させるのである。これらもまた主が世を去られた後、キリスト教会がヨーロッパにおいて極めて遅々としてしか成長せず、時代が経過する迄はその充全な状態に達しなかった理由であった。

 

 

9.許しは今や与えられたり(Nunc licet)

 

真の基督教508

 

私は更に近づくと、門の上に「許しは今や与えられたり(Nunc licet)と記されているのを眺めた、これは信仰の秘義を明白に理解すべき許しが今や与えられたことを意味していた。

 

 

10.「新しいエルサレム」とは新しい「教派」を意味するのか

 

真の基督教784

 

新しいエルサレムすなわち新しい教会がその天界から降って来るのであり、それ故これは一瞬に生ずることは出来ない。前の教会の諸々の虚偽が先ず取り除かれなくてはならない。何故なら新しい真理は古い虚偽が根こそぎにされない中は入ることは出来ないからである。而してこれは先ず教職者達の間に生じ、彼らを通して平信徒の間に生じなくてはならない。何故なら主は以下のように語り給うたからである、「誰も新しき葡萄酒をふるき皮袋に入れず、もし然せばその袋はりさけ、葡萄酒ほとばしり出でん。新しき葡萄酒は新しき皮袋に入れ、かくて二つながら保つなり」(マタイ9・17、マルコ2・22、ルカ5・37、38)。

 

 

天界の秘義40

 

しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―

 

 

黙示録講解732

 

[2]

新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後にはさらに多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するにはいくたの理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることはできないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることができるのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。

 

第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることはできず、そこから受け入れられることはできないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。

 

 

[3]

第三の理由は地上では新しい教会はその教会が霊たちの世界において増大することに従って成長するということである、なぜならかの世界から霊たちは人間のもとにおり、かれらは地上に生きていた間はかれらの教会の教義の中にいた者らから来ていて、これらの者の中一人として、真理に対する霊的な情愛を抱いていた者たちを除いては、その教義を受け入れはしないのであり、真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結するのであり、かれらが人間に天界を連結させるのである。これらもまた主が世を去られた後、キリスト教会がヨーロッパにおいて極めて遅々としてしか成長せず、時代が経過する迄はその充全な状態に達しなかった理由であった。

 

 

真の基督教846

 

 聖言に基礎づけられ、今やその終りに在る基督教会が再び生き、その霊を主により天界を通して新たにするためにそのことが行われたのであると彼らは語った。

 

 

愛の炎P84

 

<新しい聖霊降臨>

「この洪水は、聖霊の力を全世界に注いだ最初の聖霊降臨のものと比べることができます。全人類は、この大きな奇跡に気づかなければなりません。それは、聖母マリアの愛の炎の輝きです。信仰が薄くなっているこの世は、今、闇に落ちようとしていますが、信仰に立ち返る前に大きな混乱状態があるでしょう。このことが信仰の力で新しい世界を築くことになります。信仰の中にある信頼は、その心の中に根を下ろし、地の表は新しくされるでしょう。みことばが人となったとき以来、そのような恵みの洪水はありませんでした。今、苦しみで満ちているこの世界の刷新は、聖母マリアの力づよい取りつぎによっておこなわれることでしょう。」

 

 

マルト・ロバンの面影P74

 

フィネ神父は語っている。

 

「最初の一時間のあいだ、マルトは聖母マリアについてしか話さなかった。かの女は、神秘に満たされた人のように、神秘と親密にまじわっている人のように、聖母マリアについて話した。

 

 第二時間目は印象深かった。マルトは、権威ある語調で、本を読んでいるかのように、歴史のなかに展開するに違いない『諸事件』について話してくれた。これらの事件のうち、あるものはきわめて重大で、きわめて辛いものであった。他の事件は希望と美とに満ちたものであった。大変よく記憶しているのは、『教会のなかに愛のペンテコステ(聖霊降臨)がおこなわれるでしょう』と言ったことである。かの女はまた、教会は『信徒によって若返るでしょう』とも言った。

 

 マルトは、このかなり新しい『信徒』という語に力を入れた。そして、『信徒』は未来の教会のなかで主要な役割りを果すにちがいないと、繰り返し話してくれた。そう話しながら、喜びに満たされていた。かの女はまた、教会は刷新されるとも言った。そのうえ、信徒について話したとき、この信徒を養成する手段を見出すことが焦眉の急であることを強調した」。

 

 

マルト・ロバンの面影P143

 

決して特別な形で考えているのではありません。平和なもの、ゆるやかなものとして考えています。それは、少しずつ、徐々におこなわれると思います。すでにはじまっているとさえ考えています。将来については、いろいろな考えを提供されます。しかし、なにも知りません。ただ一つのことを除いては。それは、将来とはイエスだということです。

 

 

第二の聖霊降臨とは

(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)

 

一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。

 

もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。

 

さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか?まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。

 

そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。どういう意味かをひと言で説明しましょう。主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。

 

第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう?そこには違いがあるのです。

 

第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。

こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。

 

 

 

コンソラータ/P113

 

−イエズス−

 

「コンソラータ、あわれな罪深い人類のために、あなたがゆるしを願いなさい。そして私の愛の勝利を願いなさい。新しい聖霊降臨において、燃えさかる神の愛の火が、人類の多くの罪を清めるよう願いなさい!神の愛のみが、背教者を使徒に、汚れた百合を潔白無垢に、敵意に燃えて反逆する罪人を、愛の獲物に変化することができる!あなたのため、また今、地上にあるものと、世の終わりまで存在するすべての霊魂のために、私の愛の勝利を願いなさい。あなたの絶え間ない祈りによって、私の聖心と愛が、全世界に勝利を占めるよう、準備しなさい。」(1935年12月16日)

 

 

11.ヴァッスーラ

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223

‘88・5・16

 

イエス?

 

私です、聖書を未だ理解していないすべての霊魂のために祈りなさい この人びとはあまりにも多くの部分の解釈を間違え 光を与える可能性のある箇所全体を切り落し 照らされる可能性のある豊かな部分を剃り落としてしまう。 聞いて理解するよう努力しなさい:「ある時 巨大な畑を整地している種蒔きがいた、この人は蒔くのに一番上質の種を選び ♡ 最良の麦を収穫するはずであった! さて 刈り入れ時になったとき、そしてそれは何と豊かな収穫だったか! 敵が一群の烏を畑に送り込んだ、この畑は、非常に大きな愛と犠牲によって 汗水流して準備されたもので 国全体を養い、誰も飢えることのないであろう、豊かな収穫が約束されていた、ところが、敵によって送り込まれた烏は収穫からほうぼうを摘んでは、少しでも多くを平らげ 荒らしていった ♡ この種蒔きが一部始終を見ていて 烏を追い払うために召使いたちを送らなかったなら、収穫全体が食い尽くされていたであろう」 ♡ 

 

主よ では説明して下さいますか?

 

♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ 愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠-という−ベルトで あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは ヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)! 皆を一致させる ♡

 *聖書のこと

 **21・15−17

 ***イエスはここでは断固としておられました。

 

イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。

 

そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、

 

はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン

 

指をあなたの心に置かせなさい 我が祭壇が燃え立ったままであるように、全くの無に等しいながら 私 神は、あなたを愛している、あなたを遣わしたこの使命を、達成するに必要な力を与えよう、気を落さないで、忍耐を持ちなさい、まもなくあなたは我が家に帰って来る、私のもとに、私たちのところに(*)、平和を受け、教会が通るであろう刷新のために祈りなさい、私 主は、皆を愛している ♡ 「私たち」!

    聖マリアもご一緒で、十歳か十一歳の頃に受けた私の幻視が思い出されました。

 

はい、主よ、永遠に。

 

♡ 来なさい。

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P184

‘90・7・8

           

書くように 我がヴァッスーラ: そして今日も養い続けている ということを。 我が救いの約束にたいして私が卓越し 忠実であるのに気づき 理解しなさい。 あなた方の世代に 何一つ秘密として隠してはおかない、間もなく開かれた本道を描き出すからです、それは汚れなく、開いた聖櫃にまで連なり 私が: 聖なる道 と呼ぼう、ジャッカルたちのねぐらはこれまで! 闇の中を徘徊するのも これまでです! 私 主は、すべてを明るみに出そう、二度と闇は訪れない、永遠に私の光が皆の上に輝くからです、そう、この開かれた本道には我が知識をくりひろげ そこへと導くために指標を置こう。 道の指標はしっかりと示そう。 そしてあなた方の神 私を熱心に拝する霊を授け 放蕩息子や放蕩娘たちを熱い愛をもって腕の中に連れ戻そう、それで彼らも我が光のうちに生き、こうして天全体がその立ち帰りを祝うであろう。 誰も:「わたしたちの主はどこか?」とは言わないであろう 心に深く我が掟を印すからです、この約束は私の眼前に刻まれ、私は旧い煉瓦の上にエルサレムを築く。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P130

‘91・6・2

 

侵入者(*2)は我が砦(*3)の多くを奪い、あなた方のうちに 死に至らせる忌むべきもの(*4)をお仕着せ あなた方のうち(*5)から我が永遠の生けにえを追放し(*6) その代りにつまらない模倣(*7)、我が聖性を汚す(*8)生身の人間像、を打ち立てた ♡

 

*2サタン

*3私ども

*4無神論とつながるニューエージなどのセクト、物質主義、合理主義。

    5ダニエル書11・31−39、黙示録13・14−18、黙示録21・1−27を読むように。

    6ひとたびこの人びとがこうしたセクトや無神論に陥ると、永遠の生けにえであろう御聖体も受けなくなります。(ダニエル書11・31)

    7セクト: 神のみことばを模倣したもの。

    8イエスは涙を流しておられました。

 

     あなたは 私の聖なる町(*)、

 

*イエスは大変厳かにこう言われました。(黙示録21・2)

 

そして川のように(*)、我が聖霊があなた方のうちに流れるのを許してくれたあなた方は、私の新しいエルサレム(*2)であり、我が初穂(*3)、まさに変わらない心で 信仰を守った者たち(*4)。

 

    エゼキエル書47・1−12、黙示録22・1−2を読むように。

    2黙示録21・2。

    3黙示録14・4。

    4黙示録13・10。

 

そして多くの不毛な心には 我が口から発せられた露、草にしたたる雨の雫のように、希望を置こう、それは 我が心の栄えある輝きをあなた方に反射させ、透き通ったダイヤモンドのような貴い宝石のように あなた方をキラキラと輝かせよう(*)。

*黙示録21・11.

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・5巻P134

‘91・6・2 前のメッセージの続き

 

私の初穂は皆を感嘆させよう、そして少しずつ古い世界は消滅し(*) 衣服のようにほころんでいく(*2)。あと少しばかりで 覆われていたすべては取り除かれ 隠されていたすべては 目の前で明らかになろう。 我が新しいエルサレムよ! あなた方は私の愛の初穂、新しい愛の歌によって聖霊が誘い、私が娶った者たち、国たみのもとに出て行って 新しい我が愛の讃歌(*3)を 彼らにも歌って聞かせなさい。

 

 *黙示録21・4.   *2ヘブライ書1・11。  *3黙示録14・3。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P138

‘91・6・6

 

こう書きなさい: 「仔羊の婚姻の晩餐に招かれた者は幸いである」(黙示録19・9)と。 私の支配はすでに多くの霊魂のうちに始まった。 私はこれらの霊魂たちを娶り 新にした(*)、

    黙示録21・5: 「今、私はすべてのものを新しくする。」に言及。

 

そしてまことに言う: 真理の霊は被造物全体に襲いかかって 町から町(*)へと制圧し、その中に見い出すであろうあらゆる淫らな、罪咎や不浄を、私は、自らの手で一掃する。 天から送る火によって、愚かさの植えつけたあらゆるものを 焼き払う ♡ 娘よ、先の天と先の地は消え去り(黙示録21・1) あなた方一人ひとりが我が聖霊の愛によって 新しくされよう、私はこの世界のおもてを変える。

    神は:霊魂を次々にと言っておられます。

 

教会に刷新、私どもの刷新とはこのことでしょうか、私たち自身が教会ですから? 新しいエルサレムですから?

 

教え子よ、よく言った。 あなた方は皆私の教会、我が聖所であり砦(*)、私の領分、町、我が嗣業の地、エルサレム ♡ 私の愛の火で  町々(**)を次々と新にしてゆこう。

    ダニエル書11・31、同上12・11、マタイ福音書24・15。

    *私ども。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P171

‘91・8・4

 

一人ひとりの心に一致が花ひらこう・・・そして我が聖なる都、エルサレムは、一つのまとまった全体として、我が誉れとなろう ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P261

‘93・5・30

 

私とあなたは一致している、私と一致している誰であろうと 私がたどったと同じ道、カルワリオにいたる道をたどる。 至高なる生けにえに従って行く誰であろうと その生けにえの部分となる。 あなたは私の一部、私のからだに残された部分・・・いのちを贖いとして捧げ ともに死の谷(*)に入ってきなさい、その場所で我が霊を注ぎ出す、その場所で我が愛を注ぎ出し どの枯れた骨も生き返らせよう。

    イエスはあらゆる霊的に死んだ人たちがいるはずの場所をおっしゃっています。

その谷が あなたの仕事場です ヴァッスーラ。 いのちの川を そこに溢れさせる。 復活 そしていのちなる私は、その谷に散らばる枯れた骨を 花咲かせるつもりです、私は我が思いやりと愛を現し 死者をその墓から引き上げ 私と一緒に我が家まで連れ帰ろう、その食卓は豊かに満ち溢れ、私はその杯を満たし溢れださせる そして我が聖心が 彼らの聖なる仲間となろう。 今は死の谷に散らばって横たわる あのすべての枯れた骨から ただ一つのからだを造り上げる ♡ そう、エゼキエルのヴィジョン(*)のように、私も同じ質問をする:「これらの骨は 生き返ることができるか?」

    エゼキエル書37・1−10

 

いいえ。あなたが介入なさらなければ。いのちをその中に入れて下さらないなら、わが主よ。すっかり枯れていて、いのちの気がありませんから。

 

私が生き返らせる。

         私は 復活。

私は腱をおき、散らばった骨の上に筋をはり、こうしてそれらは一つに繋がる(*) 次に肉がもりあがる、私はそれを皮膚でおおい、いのちを持つように 息を与える。

それらが(**)一つのからだとなるように造り上げよう・・・そして再びいのちを呼び戻す。

 *主は私どもの分裂を語っておられたのです、教会の分裂を。私どもを枯れて散らばった骨に譬えて。 **骨。

 

私は聖霊を送り その(*)鼻から非常に強い息を吹き込んで生き返らせる 再び立ち上がって私を讃えるように。私は玉座から水晶のように澄んだ水(*1)を あなた方(*2)の上に注ぎ すべての汚れから清める、そしてそのさ中で暮らすように 我が聖霊を注ぎ出す。

 *からだの。  *1黙示録22・5。

 *2神は、そのからだおよび、ご自分の教会、私ども皆にも、話しかけておられます。

 

私は聖霊を与え それはあなたの心となる。 次に、私自身でこのからだを聖別する ♡ そしてあなたの目(*1)に注ぐ私の光は、我が輝かしい栄光(*2)から発する、私自身の神的光、こうして私が松明(*3)となって あなたの前を歩き、道を照らすがゆえ あなたは勇士のように雄々しく歩もう。

 *1イエスはご自分の教会、その刷新、新しいエルサレムのことを話されています。

 *2黙示録21・23。  *3黙示録21・23。

 

私自身があなたの明り(*)となるので、もはやランプの明りを持たないでもよくなる。

他のすべての国たみ(*1)はあなたの美しさを見て 跡を慕って来る、そして宝と富をたずさえ 自分の身も合わせて捧げるようになる。

 *黙示録21・23。  *1「他のすべての国たみ」とは、誰もが最後にはキリストを神の子として認識し、こうしてイエスの祈りが成就するのを意味します。  *2黙示録21・26。

 

私はあなた(*)の手に鉄の笏を持たせ 荘厳と輝きを纏わせる・・・

 *神は新しくなった教会のことを言っておられます。

 

やがて(*1)こうして あなた方一人ひとりを我が霊は一致させて下さる そして誰もが 私(*2)を送ったのが御父だったと信じ、誰もが 私を生けにえの仔羊(*3)として認識しよう ♡

 *1黙示録6・15−17   *2ヨハネ福音書7・21。

 *3黙示録6・6(世界がキリスト教に改心すること)。

 

 

19.その他

 

天界の秘義1083

 

『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。

 

人間が教会となる以前、すなわち、かれが再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、かれが再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。

 

 

[2]古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生けにえ、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。

 

基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いておこったのである。すなわち、生けにえとそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。

 

 

[3]古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することはできない。

 

そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しないかぎり、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、かれは聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。

 

こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、かれらは外なる礼拝の中にかれら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主はかれらの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、かれらの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。

 

仁慈をもっていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。かれらは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかしかれらは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝をもっているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。

 

 

天界の秘義1098

 

『セム』により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。

 

内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。

 

内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。

 

内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。

 

 

天界の秘義1799

 

[3]教会の外なるものとは何であるかは前に述べたところである(1083、1098、1100、1151、1153番参照)。前に言ったように、教義に関わるものがそれ自身では外なるものを作るのではない、ましてや内なるものを作るのではない、また主にあってもそれが諸教会を相互に他から区別するのではなく、それを行うものは教義的なものにしたがった生活であり、その教義的なものはすべて、それが真のものでありさえするなら、その根元的なものとしては仁慈を目標としているのである。教義は人間が如何ように生きねばならぬかを教えるものでなくて何であろう。

 

[4]基督教界では教会を区別しているものは教義的なものであり、その教義的なものから人間は自分自身をロマ・カトリック教会、ルーテル派、カルビン派または改革派、福音派などと呼んでいるのである。かれらがそのように呼ばれているのは教義的なもののみによっているのであって、こうしたことはもしかれらが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを信仰の第一義的なもの[主要なもの]とするなら、決して存在はしないであろう。そうした場合教義的な事柄は信仰の諸々の秘義に関わる種々の見解であるにすぎなくなり、真に基督教的な人間ならそれらをたれでもその者の良心にしたがって抱くままにさせて、その心の中に、人間が基督教徒として、すなわち、主が教えられているように、生活するときは、真に基督教徒であると言うであろう。かくて互に異なっている諸教会のすべてから一つの教会が形作られ、教義のみから生まれているあらゆる分離は消滅してしまうであろう、実に相互に他に抱き合っている憎悪もことごとくたちまち消散して、主の王国は地上に臨むであろう。

 

[5]洪水直後の古代教会は多くの王国に拡まっていたけれど、それでもこうした性格を持っていたのである、すなわち、人々は教義的な事柄についてはかれらの間では非常に異なっていたのであるが、それでも仁慈を第一義的なものとしたのであり、礼拝を、信仰にかかわりをもった教義的なものから眺めないで、生命[生活]にかかわりをもった仁慈から眺めたのである。このことがかれらはすべて一つの唇を持っており、その言葉も一つであったと言われているところに(創世記11・1)意味されているのであり、そのことについては前に言ったことを参照されたい(1285番)。

 

 

20.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P76

 

 反キリストの先駆者たちの後に、反キリスト自身が到来するだろう。十本の角―サタンを王と信じている十人の従者で、その中の3本(この数を銘記せよ)は捥ぎ取られ、虚無のうちに、すなわちの存在しない、したがって、一切であるの対極にあるである深淵に投げ込まれるであろう―で武装したに象徴される反キリスト的時代は、十一本目の角が誕生し成長し最大の力を発揮するまでに頂点に達するであろうが、三人の先駆者と真の反キリストの本拠の失墜の理由である、十一本目の角は、人の子が誰一人決してしなかったやり方で、を冒涜し、の聖人たちを踏み躙り、キリストの教会を拷問にかけるだろう。悪魔的傲慢と人の淫乱との交接で生まれた子であるがゆえに、『時代と法を変え、偉大なことをなし得る』と信じ込むだろう。そして三年半、世界を支配する恐怖となるだろう。

 

 ついで聖なる人々の『偉大な言葉のざわめき』によってにわき起る大合唱を前にしてが言うだろう、『そこまでだ』と。すると意地悪なは殺され、深淵のなかに投げ捨てられ、それといっしょに、すべての小物の獣たちもそこに放りこまれ、彼らの産出者サタンとともに永遠にそこにとどまるだろう。

 

 そのときわたしは、信仰宣言に言われている通り、『生ける者たちと死せる者たちとを裁く』ために、と呼ばれるであろう。そして『生ける者たち』、恩寵信仰を燃やし続けた人々は、『の国、その権力と壮麗さ』を相続するであろう。霊魂における死者たちは、彼らの意志が受けることを選択した永遠のを受けるだろう。

 

 そしてそこにはもう地球はなく肉の人はいないだろう。そこには、あらゆる苦痛から解き放たれた『の子供たち』しかおらず、最早罪はなく、闇はもうなく、恐れはもうないだろう。ただ、よろこび、よろこび、果てしない、永遠の人間の考えもしないようなよろこびしかないだろう。それはを見るよろこびであり、を所有し、神の思惟と愛を理解するよろこびである。

 

 人々よ、生命のに来なさい。わたしはその水源をあなたたちに開く。そこから汲み、試練において大胆不敵となるために、その中であなたたちを強め、またその中に、至福の水源であるわたしの中に、わたしのがあなたたちのために創造し、そこには唯一なるの三重の愛と、『わたしたちの』純潔があなたたちを待ち、彼らと共に、信仰者であったがゆえにすでに命を得ている者たちが待つすばらしい天国の中に、完全に全身を浸すに至るために」。