新しいエルサレム
1.新しいエルサレム
2.新しい天
3.新しい地
4.地震
5.新しい天と新しい地とを創造する
6.都
7.都に上る歌・詩篇より
8.真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結する
9.許しは今や与えられたり(Nunc licet)
10.「新しいエルサレム」とは新しい「教派」を意味するのか
11.ヴァッスーラ
19.その他
20.マリア・ワルトルタ
21.天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると一つの都が現れてくる
22.新しい教会の最初のもの
23.今から後は基督教会と呼ばれなくてはならない
24.教義の方面の新しい教会
25.聖母から司祭へ
26.新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない
27.純粋な真理の教義は主から天界を通して私たちのもとへ来るのであって、他のいかような源泉からも来ない
28.主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている
29.『ミカエル』は新しいエルサレムの教義を支持する者たちを意味している
30.この教会は前の凡ゆる教会の冠である
31.主の母マリアは後に教会を表象した
32.一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしない
33.今から後は基督教会と呼ばれなくてはならない
34.主として主が来られた時以来亡くなったところの、全世界から来ている凡ての幼児により構成されている
35.或る国民には多くの希望を持っている
36.諸国民の或る所で、天界から或る啓示が起り初めている
37.今取り扱われている教会も同じく(使徒ヨハネのように)他にもまさって愛されているため
38.主を天地の神として承認し、十戒の戒めに従って生きるという、その教会のかの二つの本質的なもの
39.主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する、主の御国への愛は隣人への愛の完成
40.もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見る
41.神殿
1.新しいエルサレム
イザヤ54・1
喜び歌え、不妊の女、子を産まなかった女よ。
歓声をあげ、喜び歌え
産みの苦しみをしたことのない女よ。
夫に捨てられた女の子供らは
夫ある女の子供らよりも数多くなると
主は言われる。
イザヤ62・1−3
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で
彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
諸国の民はあなたの正しさを見
王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。
イザヤ66・10−14
エルサレムと共に喜び祝い
彼女のゆえに喜び躍れ
彼女を愛するすべての人よ
彼女と共に喜び楽しめ
彼女のために喪に服していたすべての人よ。
彼女の慰めの乳房から飲んで、飽き足り
豊かな乳房に養われ、喜びを得よ。
主はこう言われる。見よ、わたしは彼女に向けよう
平和を大河のように
国々の栄えを洪水の流れのように。
あなたたちは乳房に養われ
抱いて運ばれ、膝の上であやされる。
母がその子を慰めるように
わたしはあなたたちを慰める。
エルサレムであなたたちは慰めを受ける。
これを見て、あなたたちの心は喜び楽しみ
あなたたちの骨は青草のように育つ。
主の御手は僕たちと共にあり
憤りは敵に臨むことが、こうして示される。
エゼキエル47・1−10
彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。
彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。
更に一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は膝に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。
彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。
川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、魚も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。
漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、網を広げて干す所とする。そこの魚は、いろいろな種類に増え、大海の魚のように非常に多くなる。
ガラテヤ4・26−27
他方、天のエルサレムは、いわば自由な身の女であって、これはわたしたちの母です。なぜなら、次のように書いてあるからです。
「喜べ、子を産まない不妊の女よ、
喜びの声をあげて叫べ、
産みの苦しみを知らない女よ。
一人取り残された女が夫のある女よりも、多くの子を産むから。」
黙示録3・12
勝利を得る者を、わたしの神の神殿の柱にしよう。彼はもう決して外へ出ることはない。わたしはその者の上に、わたしの神の名と、わたしの神の都、すなわち、神のもとから出て天から下って来る新しいエルサレムの名、そして、わたしの新しい名を書き記そう。
黙示録7・16−17
彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、
太陽も、どのような暑さも、
彼らを襲うことはない。
玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、
命の水の泉へ導き、
神が彼らの目から涙をことごとく
ぬぐわれるからである。
黙示録21・1−2
わたしはまた、新しい天と新しい地を見た。最初の天と最初の地は去って行き、もはや海もなくなった。更にわたしは、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために着飾った花嫁のように用意を整えて、神のもとを離れ、天から下って来るのを見た。
黙示録21・3−4
そのとき、わたしは玉座から語りかける大きな声を聞いた。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」
黙示録21・9−14
さて、最後の七つの災いの満ちた七つの鉢を持つ七人の天使がいたが、その中の一人が来て、わたしに語りかけてこう言った。「ここへ来なさい。小羊の妻である花嫁を見せてあげよう。」この天使が、“霊”に満たされたわたしを大きな高い山に連れて行き、聖なる都エルサレムが神のもとを離れて、天から下って来るのを見せた。都は神の栄光に輝いていた。その輝きは、最高の宝石のようであり、透き通った碧玉のようであった。都には、高い大きな城壁と十二の門があり、それらの門には十二人の天使がいて、名が刻みつけてあった。イスラエルの子らの十二部族の名であった。東に三つの門、北に三つの門、南に三つの門、西に三つの門があった。都の城壁には十二の土台があって、それには小羊の十二使徒の十二の名が刻みつけてあった。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58
新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。
真の基督教648
前の教会の信仰は黙示録(12章)に竜によって表わされ、新しい教会の信仰は陽に囲まれ、頭に十二の星の冠を戴いた婦人によって表わされている。
真の基督教700
然し真の基督教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。それ故、この教会は洗礼と聖餐なる二つの秘蹟の真の用と益とを受けるために、主は聖言の霊的な意義を示すことを良しとし給うた。この用と益とは人が理解を以てまたは霊の眼を以てその中に含まれている聖さを認め、これを主がその聖言に於て教え給うたように受ける時、受けられるであろう。
静思社/神学論文集P100
ベイエル博士に宛てたイマヌエル スエデンボルグの第六番目の手紙から
「飼い葉桶」は、らばと馬とが聖言を理解することを意味しているため、聖言から与えられる教えを意味しており(「啓示による黙示録解説」、297番を参照)、「飼い葉桶」はそれらの食物を含んでおります、宿屋に部屋が無かったことはエルサレムには教える所が無かったことを意味しており、それで、来るべき教会を意味している羊飼いたちに、「このことがあなたらに与えられる印となりましょう、あなたらは飼い葉桶に寝かされている赤児を見つけるでしょう」(ルカ伝2・12)と言われています。
ヨハネの洗礼は、神御自身がユダヤ人の間に降臨されるとき、ユダヤ人たちが存続するようにと諸天界を備えたのです。ヨハネは主と主の降臨とについて言われた旧約聖書の凡ゆる予言を意味したのであり、同じくエリアも、予言者たちの首頭であったため、そのことを意味したのです。
天界の秘義5236
『若者』が罪のないこと[無罪性]を意味している理由は、内意では『小さな子供』は無垢なものを意味しているということである、なぜなら聖言に『乳のみ児[乳児]』『小さな子供』、『若者』(または子供)と記されているが、彼らにより三つの度の無垢が意味されており、『乳のみ児』により第一の度のものが、『小さな子供』により第二の度のものが、『子供[若者]』により第三の度のものが意味されるからである。しかし『子供[若者]』のもとに無垢が脱ぎ捨てられ初めるため、彼により『罪がないこと[無罪性]』と呼ばれるかの度の無垢が意味されている。この三つにより三つの度の無垢が意味されているため、天的な愛と霊的な愛とは、すなわち、主に対する愛と隣人に対する仁慈とは無垢の中にのみしか存在しえない(中略)、しかし乳のみ児、小さな子供、子供の無垢は単に外なるものにすぎないのであり、内なる無垢は人間が新しく生まれる後までは、すなわち、再び、いわば、乳のみ児、小さな子供、子供になる後までは彼の中に有り得ないことを知らなくてはならない。聖言にこの三つのものにより意味されているものはこの状態である。
イエスは一人の子供を取られて、これを彼らの真中に置かれた。かれは彼を腕にかかえられると、彼らに言われた。わたしの名においてこのような子供たちの一人を受ける者はすべてわたしを受けるのである(マルコ9・36,37、ルカ9・47,48)。
ここの『子供』により無垢が表象されており、これを受ける者は、主は無垢のすべての源泉であられるため、主を受けるのである。たれでも『主の名において子供を受けること』は文字通りに子供を受けることではないことを認め、かくて天界的なものがそれにより表象されているに違いないことを認めることが出来るのである。
子供たちは神殿の中で叫んだ。ホサナ、ダビデの子に。祭司らは怒った。それでイエスは彼らに言われた。あなたらは、あなたはみどり児、乳飲み児の口から賛美を全うされた(という聖言)を、一度も読みませんでしたか(マタイ21・15,16、詩篇8・2)。
子供たちが『ホサナ、ダビデの子に』と叫んだことは、無垢のみが、すなわち無垢の宿っている者のみが主を承認して受け入れることを表象することであった。『みどり児と乳飲み児の口からあなたは讃美を全うされた』により讃美は無垢を通してのみ主のもとに達することが意味されているのである、なぜならそれによってのみ交流のすべてが、また流入のすべてが行なわれ、従って接近が行われるからである。
主が以下のように言われているのはこうした理由によっている―
あなた方は回心して、子供のようにならない限り、天国に入りはしない(マタイ18・3)。
天界の秘義5236[5]
以下の記事においてもまた『若者』または『子供』により無垢が意味されているのである。ゼカリア書には―
都の街路はその街路に遊んでいる若者と娘たちで満ちるであろう(8・5)。
これは新しいエルサレム、または主の王国を語っている。
天界の秘義1458[3]
エゼキエル書には―
神の幻の中に神はわたしをイスラエルの地につれてこられ、非常に高い山の上に置かれた、その上には南の都の建物のようなものがあった(40・2)。
これは新しいエルサレムまたは主の王国にかかわっており、それは知恵と理知の光の中にあるため、『南』に存在しているのである。ダビデの書には―
エホバはあなたの義を光のように、あなたの公正[審判]を真昼のようにもち出されるであろう(詩篇37・6)。
さらに―
あなたは夜の恐怖のために、昼飛び来る矢のために、暗闇の中を歩む疫病のために、真昼の時に(または南の中で)荒らす破壊のために恐れはしない(四篇1・5,6)。
『南の中で荒らす破壊のために恐れはしないこと』は知識の中にいるものの、それを歪める者らに臨んでくる堕地獄のために恐れはしないことを意味している。エゼキエル書には―
人の子よ、あなたの顔を南の方に向け、南にむかって(あなたの言葉を)洩らし、南の森に予言し、南の森に言いなさい、南から北に至るまで凡ての顔はその中で焼かれるであろうと、(20・46、47)。
『南の森』は真理の光のにいて、それを消滅させる者を意味し、かくて教会の中にいるこのような性格の者らを意味している。
天界の秘義1458[4]
ダニエル書には―
かれらの中の一人から小さい角が一つ突き出して、南の方へ、東の方へ、美の方へ非常に大きくなって、天の軍勢にさえも大きくなった(8・9,10)。
これはいくたの善と真理とに反抗して戦う者らを意味している。エレミア記には―
あなたらの神エホバがそれを暗くされないうちに、あなたらの足が薄明かりの山々の上でつまづかないうちに、かれに栄光を与えよ[栄えをきしまつれ]、あなたは光を求めるが、かれはそれを死の蔭に変えられる、かれはそれを暗闇にされるであろう、南の都は閉じられて、それを開く者は一人もいない(13・16、19)。
『南の都』は真理と善の知識を意味している。オバデア書には―
セパラドにいるエルサレムの捕らわれたものは南の都を嗣ぐであろう(20節)。
『南の都』も同じく真理と善とを意味し、そこからかれらがその相続者となる真理と善そのものを意味しており、主の王国がここにとり扱われている。
『新しい神殿』と『新しいエルサレム』により特に主の霊的王国が意味されているが、しかし『シオン』により天的王国が意味されているのである。
新エルサレムの教義1
内なる、または霊的な意義では、『新しい天と地』は諸天界と地上の新しい教会を意味しており、それについては今後さらに特に述べよう。『神から出て天から降ってくる都エルサレム』はその天界的教義を意味し、(ともに)等しい『長さ』、『幅』、『高さ』はその教義の凡ゆる善と真理との結集したものを意味している。
新エルサレムの教義1
『エルサレム』は教義の方面の教会を意味している(402、3654、9166)。『都』は教会と宗教とに属した教義を意味している(402、2449、2712、2943、3216、4492、4493番)。『都の壁』は誤謬を防ぐ教義の真理を意味している(6419番)。『都の門』は教義に導き入れるところの、また教義を通して教会へ導き入れるところの真理を意味している(2943、4477、4492、4493番)。
新エルサレムの教義2
新しいエルサレムとその教義とを取扱う前に、新しい天と新しい地について少し述べよう。過ぎ去った『最初の天と最初の地』により意味されたことは「最後の審判とバビロンの滅亡」を取り扱った小著に示されている。その事件の後、即ち、最後の審判が成就された後直ぐに新しい天[天界]が主により創造され、または形作られたのである。この天界は主が来られた時から現在まで、信仰と仁慈との生活を送った者の凡てによって形作られたのである。それは信仰と仁慈のみが天界の形であったからである。
このことにより主が御自身をエルサレムの神殿と呼ばれた理由が明らかにされたのである(ヨハネ2・19、21)(*3)、即ち、それは神殿は主の神的な人間的なものを表象したためであった。また新しいエルサレムが純金から成り、その門が真珠から成り、その基礎が宝石から成っているのが見られた理由も明らかにされたのである(黙示録21)―それは新しいエルサレムは今後建設されねばならない教会を、十二の門は善に導く諸真理を、基礎はその教会設立の基となる諸真理を意味しているからである。(*4)
*3 神の家はその最高の意味では主の神的な人間的なものの神的善を意味しているが、神殿はその神的真理を意味し、それに関連した意義では教会の善と真理とを意味している、3720。
*4 エルサレムは純粋な教義を持った教会を意味している、402、3654、9166。門は教会の教義へ入れることと教義を通して教会へ入れられることを意味している、2943、4777。基礎は、天界、教会、教義の基礎となる真理を意味している、9643。
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心7
神の聖なる都であるマリア
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48
“マリア”という名の「ソロモンの神殿」「神の都」
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心48
世界終末の夕べ、全世界の人が、父なる神のふところに帰っていくため、また神の義への飢えかわきをいやすため、犬のようにほえ、食をもとめて、うろつきまわる“町”とはマリアという名の町です。マリアは聖霊から“神の町”“神の都”(詩篇87・3)と呼ばれているからです。
詩篇59・7
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
詩篇59・15−16
夕べになると彼らは戻って来て
犬のようにほえ、町を巡ります。
彼らは餌食を求めてさまよい
食べ飽きるまでは眠ろうとしません。
愛の炎P84
<新しい聖霊降臨>
「この洪水は、聖霊の力を全世界に注いだ最初の聖霊降臨のものと比べることができます。全人類は、この大きな奇跡に気づかなければなりません。それは、聖母マリアの愛の炎の輝きです。信仰が薄くなっているこの世は、今、闇に落ちようとしていますが、信仰に立ち返る前に大きな混乱状態があるでしょう。このことが信仰の力で新しい世界を築くことになります。信仰の中にある信頼は、その心の中に根を下ろし、地の表は新しくされるでしょう。みことばが人となったとき以来、そのような恵みの洪水はありませんでした。今、苦しみで満ちているこの世界の刷新は、聖母マリアの力づよい取りつぎによっておこなわれることでしょう。」
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P29
しかし、その間、一人の母を有する喜びのために、イスラエルの希望を含んでいた神殿の薄暗さの中で、ふしぎなことばがささやかれたが、その神殿は、もはや存亡の極限に立っていた。なぜなら、一つだけの民のための希望を含むのではなく、この世が存在するかぎり、世々に“全地”の民のための希望をもってくる新しい神殿が生まれるところであった。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P191
この世の最後の日、永遠のエルサレムの最初の日が来るだろう。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P269
永遠のエルサレムの市民を作るために
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P123
「そうです。だが人を罪から救っても、悪魔という永遠の敵はまた攻撃に出て来るに違いありません。楽園から神の声が聞こえたとあります。『私はおまえと女との間に敵対をおく・・・女はおまえの頭を踏み砕き、おまえは女の踵を襲うだろう』それは“女”にとって軽い責めに過ぎない。なぜなら“女”は敵に打ち勝つ力を内に持ち、そして存在の初めから贖う者です。目には見えなくとも、その贖いの力はすでに働いています。近いうちにこの世にも見えるように、その力は現れ、女たちが“彼女”において強められます」
「あなたが世を贖われることは、それはよいとしても、女にそれができるとはどうも考えられません」
「トビアを覚えていますか、その詩を」
「覚えています。エルサレムについて話していますが」
「エルサレムは、神の聖櫃をまだ持っているといえますか。栄光の神が、そこから神殿の中で行われる罪を見ておられないと思うのですか。もう一つの聖櫃、迷う人々をいと高き御者に立ち戻らせる星が必要です。それは救いに協力する“女”にあります。この女は代々に贖われた人々の母であることを喜ぶでしょう。それは贖いの協力者に対する真の讃歌です。
天使たちも、もう天からこのことを歌っている・・・新しい天のエルサレムは彼女をもって始まります。これが真実です。世間はこれを知らず、目がくらんだラビたちも知らない・・・」イエズスは思いをこらすように黙る。
「だれについて話しておられるのだろう」と、ケリオットのユダが、そばにいるフィリッポに聞く。
フィリッポが答える前に、テーブルにチーズと黒いオリーブの実を持って来たエリーザが厳しい口調で言う。
「ご自分の母上のことを話していらっしゃるのが分からないのですか?」
スウェーデンボルグ/天界の秘義/3216
天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると、そのときそれに相応している霊たちの社会が存在している低いスフィア[領域]の中に時折、一つの都またはいくたの都の形またはパターンが現れてくるが、その中には色々な相をした家は言わずもがな、宮殿があって、それは建築の点で技術そのものがそこにその生まれた家の中にいると言われるほどにも驚嘆すべき技能を示しているのであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、すべてこれらのものの中には全般的にも個別的にも、最小の点でも、または目に見える粒子でも、何か天使の観念と言葉を表象していないものはないのであり、それでこれらのものの中にはいか程無数のものが含まれているかが明白であり、また聖言の予言者により見られた都により何が意味されているか、同様に聖い都または新しいエルサレムにより何が意味されているか、予言的な聖言における都によって何が意味されているかが明白であり、すなわち、仁慈と信仰との教義的な事柄が意味されていることが明白なのである。
スウェーデンボルグ/主イエス・キリスト/65
黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何ごとも意味していない。この教義は前の教会には存在しなかったものであり、その理由はもしそれが存在したとしても、それは受け入れられはしなかったであろうということである。
スウェーデンボルグ/真のキリスト教/188
しかし真のキリスト教は明け初めている。而して黙示録の新エルサレムによって象徴され、父なる神、子、聖霊はそれが一人格の中に在るが故に一つとして認められている新しい教会を、いまや主は設立し給いつつあるのである。
真の基督教188
この天界に新しいエルサレムなる地上の主の教会は結合されるであろう。
スウェーデンボルグ/真のキリスト教/700
この天界に新しいエルサレムなる地上の主の教会は結合されるであろう。
スウェーデンボルグ/真のキリスト教/108
主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P161
「上から一つの声が下り、私の中で叫ぶ。『神の古の民は、新しい歌を歌うことはできない。彼らは、救い主を愛していないからである。新しい歌を歌う人々は、すべての国の救われた人々、主キリストの新しい民であって、私のことばを憎む人たちではない』恐ろしいことだ」
ここで彼女は絶句する。
天界の秘義40
しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―
霊界日記6070
ハーグに一人の説教家がいた。彼は信仰のみの教義を奉じていた。彼は他の者たちには全く竜のように現れ、いわば、子供を生み出そうとしている一人の女の前に立って、その子供が生まれるとき、それを食いつくそうとしているように見えた。新しいエルサレムである主の教会は表象的にはその女により示され、その教義はその子供により示されたのである。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P36
子どもたちよ、あなたがたは新しいエルサレムです。けれども我が子の忠実な僕たちにとって、今はまだ栄光のときではありません。あなたがたのために、苦しみを通してなされる浄化の時があるでしょう。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻下P73
我が子ら、我が教会よ、あなたがたは私の遺産、間もなく刷新されようとしている私の聖なる町である。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P155
私のヨハネが最初の観覧者であった天上の事柄を明白にする前に、私はあなた方の真中に私の王国を築くために来よう。まもなくあなた方の真中に新しいエルサレムがくだって来る。私の計画とは、あなたや他の道具となる霊魂たちを通して、私の間もない再臨にそなえて世界を準備することである。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P148
イエズス:
「私の聖なる母とは、『・・・聖なるエルサレムが天から下ってきて、人々の住まいの間に居を定めるのを見た・・・』と記されているあの文章を形成する方である。:,,,調和と均衡を失った家々に住まう神の聖なる町とは、彼女のことである。
あなたがたの家庭のいろり端に喜びを取り戻してくださるのは、彼女である。
人間が神と和解することができるように、私たち聖三位の愛が選んだのも彼女である。全ての天使はこの出来事を知っており、あなたがた、私の憐れみの愛の小さな子らも、聖なるマリアの共贖のわざの使命について知ることを、私は望んでいる。」
デボラ:
「私たちは聖母を愛しており、本当に大好きです。」
イエズス:
「彼女を誉め崇めることが必要である! 余りにも多くの人が彼女を侮辱し、卑しめている!」
トマス・ア・ケンピス/マリアにならう/P197
ああ、もっとも聖なるおとめよ、ああ、栄光のマリアよ、ああ、おん母よ。あなたこそは、天国の門、いのちの源、主の聖殿、聖霊のもっとも愛される聖所です。
スウェーデンボルグ/真の基督教137
我々に於けるこの信仰はエルサレムの城壁の宝石(黙示録21・17〜20)のように数多い宝石で飾られた王妃に似ております。
スウェーデンボルグ/新しいエルサレムの教義297
主の中に三一性の在ること、すなわち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ[秘義]であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。
2.新しい天
天界の秘義5577
そこでは『新しい地』によっては新しい外なる教会以外のものは何ら意味されてはおらず、『新しい天』によっては新しい内なる教会以外のものは何ら意味されてはいないのである
静思社/スウェーデンボルグ/最後の審判とバビロンの滅亡2
私は新しい天と新しい地とを見た。なぜなら最初の天と地とは過ぎ去ったからである(黙示録21・1)
これらの記事では、「新しい天」により目に見える天が意味されるのでなく、人類が集められる天それ自身が意味されている。何故なら天は基督教会が始まったときから生きている凡ての人類から形成されたが、しかしそこに居た者たちは天使ではなくて、色々な宗教を奉じた霊であり、この天が亡ぶべき「第一の天」により意味されているからである。
3.新しい地
最後の審判とバビロンの滅亡3
「新しい地」により地上の新しい教会が意味されていることは、現在まで知られていない。というのは、凡ての者は聖言の「地」により地を理解したからであるが、事実は、それにより教会が意味されているのである。
4.地震
最後の審判とバビロンの滅亡3注
地震は教会の状態の変化である(天界の秘義3355)。
5.新しい天と新しい地とを創造する
最後の審判とバビロンの滅亡4
聖言の霊的な意義の「創造する」もまた、形作る、設立する、再生させることを意味している。それゆえ「新しい天と新しい地とを創造すること」により、以下の記事から明らかなように、天と地に新しい教会を設立することが意味されている。(中略)
かくて人間の「新しい創造」はその改革(リフォメイション)である。なぜならかれは新しく、すなわち、自然的なものから霊的なものになされるからであり、かくて「新しく創造られた者」は改革された人間である。
同・最後の審判とバビロンの滅亡4注A
「創造する」は新しく創造する、または、改革し、再生させることである(天界の秘義1688、10373、10634)。「新しい天と新しい地とを創造する」は新しい教会を設立することである(10373)。創世記第一章の「天地創造」により、その内意では、最古代教会である天的教会の設立が記されている(8891,9942,10545)。
6.都
詩篇87・5
シオンについて、人々は言うであろう
この人もかの人もこの都で生まれた、と。
7.都に上る歌・詩篇より
詩篇122
主の家に行こう、と人々が言ったとき わたしはうれしかった。
エルサレムよ、あなたの城門の中に わたしたちの足は立っている。
エルサレム、都として建てられた町。
そこに、すべては結び合い そこに、すべての部族、主の部族は上って来る。
主の御名に感謝をささげるのはイスラエルの定め。
そこにこそ、裁きの王座が ダビデの家の王座が据えられている。
エルサレムの平和を求めよう。
「あなたを愛する人々に平安があるように。
あなたの城壁のうちに平和があるように。
あなたの城郭のうちに平安があるように。」
わたしは言おう、わたしの兄弟、友のために。
「あなたのうちに平和があるように。」
わたしは願おう わたしたちの神、主の家のために。
「あなたに幸いがあるように。」
8.真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結する
黙示録講解732[2]
新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後には更に多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するには幾多の理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることは出来ないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることができるのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。
第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることは出来ず、そこから受け入れられることは出来ないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。
黙示録講解732[3]
第三の理由は地上では新しい教会はその教会が霊たちの世界において増大することに従って成長するということである、なぜならかの世界から霊たちは人間のもとにおり、彼らは地上に生きていた間は彼らの教会の教義の中にいた者らから来ていて、これらの者の中一人として、真理に対する霊的な情愛を抱いていた者たちを除いては、その教義を受け入れはしないのであり、真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結するのであり、彼らが人間に天界を連結させるのである。これらもまた主が世を去られた後、キリスト教会がヨーロッパにおいて極めて遅々としてしか成長せず、時代が経過する迄はその充全な状態に達しなかった理由であった。
9.許しは今や与えられたり(Nunc licet)
真の基督教508
私は更に近づくと、門の上に「許しは今や与えられたり(Nunc licet)と記されているのを眺めた、これは信仰の秘義を明白に理解すべき許しが今や与えられたことを意味していた。
10.「新しいエルサレム」とは新しい「教派」を意味するのか
最後の審判とバビロンの滅亡73
今後の世界の状態は現在までの状態と全く同じであろう。なぜなら霊界で起った大きな変化も自然界の外なる形には何ら変化を起こさないからである。それゆえ、この後も前のように民事が在り、前のように平和や、条約や、戦争が在り、全般的にもまた個別的にも社会に属する他の凡ての事が在るであろう。主は以下のように言われた。
最後の時に戦争が起り、国民は国民に抗って、王国は王国に抗って立ち上がるであろう。色々な所に飢饉、疫病、地震が在るであろう(マタイ24・6,7)。
これはこうした事が自然界に存在するであろうことを意味するのではなく、それに相応した事が霊界に存在するであろうことを意味している。なぜなら聖言はその予言では地上の王国を取扱わず、またそこの飢饉や、悪疫や、地震も取扱わず、それらに相応した霊界の物を取扱うからである。これらの物は如何ようなものであるかは、「天界の秘義」に説明されており、その主題に関係した記事を集めたものは下に見ることが出来よう。(略)しかし教会の状態については、その状態こそ今後相違するものである。それは実際、その外見では同じであるが、内部では異なるであろう。外見では、これまでのように、分離した諸教会が在り、その教義はこれまでのように教えられ、そして今と同じような諸宗教が異邦人たちの間に存在するであろう。しかし今後は教会の人は、霊的な自由が彼に回復されている故、信仰の事柄については、引いては、天界に関わる霊的な事柄については、更に自由に考える状態に在るであろう。なぜなら天界と地獄との凡ての物は今や秩序に復し、神的な事に関わる、また神的なものに反抗した考えの凡てはそこから流れ入り、即ち、天界からは神的なものに調和した考えの凡てが、地獄からは神的なものに反抗したものが凡て流れ入るからである。しかし人間は自分自身の中のこうした状態の変化に気づかない。なぜなら彼はそのことについて反省もしないし、また霊的な自由や流入については何ごとも知らないからである。にも拘らずそれは天界で認められており、またそれは人間自身によりその死後認められるのである。霊的自由が人間に回復されたゆえ、聖言の霊的意義は今や明らかにされ、それにより内的な神的真理が啓示されたのである。なぜなら人間はその前の状態ではそれを理解しなかったであろうし、それを理解した者は、それを冒涜したであろうから。人間は天界と地獄との均衡により自由を持つこと、人間は自由にいない限り改良され得ないことは、「天界と地獄」の著作(597の終り)に見ることが出来よう。
真の基督教784
新しいエルサレムすなわち新しい教会がその天界から降って来るのであり、それ故これは一瞬に生ずることは出来ない。前の教会の諸々の虚偽が先ず取り除かれなくてはならない。何故なら新しい真理は古い虚偽が根こそぎにされない中は入ることは出来ないからである。而してこれは先ず教職者達の間に生じ、彼らを通して平信徒の間に生じなくてはならない。何故なら主は以下のように語り給うたからである、「誰も新しき葡萄酒を古き皮袋に入れず、もし然せばその袋張り裂け、葡萄酒ほとばしり出でん。新しき葡萄酒は新しき皮袋に入れ、かくて二つながら保つなり」(マタイ9・17、マルコ2・22、ルカ5・37、38)。
しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―
主なるエホバは私に言われた、東の境に流れ、海へ導かれて海に向って流れて来るこの水、その水は癒えるであろう。川の水が流れる所は何処でも、這い出る生きものは凡て生きるようになるであろう。その水はそこに流れるため、おびただしい魚があるであろう。彼らは癒えるであろう。川の流れる所には凡てのものが生きるであろう。漁師はエンゲディからエンエグライムまでその上に立ち、網を拡げるであろう、その魚はその種類に従って、大きな海の魚のように、甚だ多くなるであろう(エゼキエル47・8−10)。
『網を拡げて』、『エンゲディからエンエグライムに至る漁師』は自然的な人に信仰の諸真理を教える者たちを意味している。
黙示録講解732[2]
新しいエルサレムと呼ばれているこの新しい教会は最初は僅かな者たちのもとに初まるであろうが、後には更に多くの者たちの間に在り、ついに充分な状態に達するには幾多の理由が在るのである。先ず、その教義は―それは主に対する愛と隣人に対する仁慈の教義であるが―以下の者たちを除いては承認され、かくて受け入れられることは出来ないのである、以下の者たちとは真理により内的に心を動かされる者であり、諸真理を認める能力を持っている者たちのみが諸真理により内的に心を動かされることが出来るのであり、己が知的能力を培って、それを自己を求め、世を求める愛により破壊しなかった者たちが、諸真理を認めるのである。
第二の理由はその教会の教義は信仰のみにおける教義により、同時に信仰のみにおける生活によりそれを自らに確認しなかった者たちを除いては承認されることは出来ず、そこから受け入れられることは出来ないということである。教義のみによる確認は受け入れることを妨げはしないが、しかし生活によってもまた確認することは妨げるのである、なぜなら、そうした者らは主に対する愛とは何であるかを知らず、隣人に対する仁慈とは何であるかも知らず、また知ろうとも欲しないからである。
黙示録講解732[3]
第三の理由は地上では新しい教会はその教会が霊たちの世界において増大することに従って成長するということである、なぜならかの世界から霊たちは人間のもとにおり、彼らは地上に生きていた間は彼らの教会の教義の中にいた者らから来ていて、これらの者の中一人として、真理に対する霊的な情愛を抱いていた者たちを除いては、その教義を受け入れはしないのであり、真理に対する霊的な情愛を抱いている者たちのみがその教義が存在する天界に連結するのであり、彼らが人間に天界を連結させるのである。これらもまた主が世を去られた後、キリスト教会がヨーロッパにおいて極めて遅々としてしか成長せず、時代が経過する迄はその充全な状態に達しなかった理由であった。
真の基督教846
聖言に基礎づけられ、今やその終りに在る基督教会が再び生き、その霊を主により天界を通して新たにするためにそのことが行われたのであると彼らは語った。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pviii
ヴァッスーラ:そうですね、マリア様からの強い一致の呼びかけがあります。そのメッセージをお読みする前に、一般的な「一致」の解釈には同意できないと申し上げたいのです。ギリシャ正教では時々、兄弟のローマ・カトリックが、ギリシャ正教になるなら一致が実現すると言います。そしてカトリックでは時々、皆がローマ・カトリックになるのを期待しています。これが人間の考え方です。天国ではこうした考え方ではありません。天国では一致を、一人ひとりの心のうちに築くものと見ています。私は今でもギリシャ正教です。ギリシャ正教徒のままです。ギリシャ正教を実践していますが、カトリックの兄弟のもとに行っても壁をつくりません。この方がたの教会に行きます。イエスはどこへでも私をお遣わしになるのです。ギリシャ正教のもとだけでなく。心のうちに、心をもって一致すべきです。
今は廃墟となっている教会の上に、イエスが建てると仰っている教会について、それは、いわば分派のように、全く新しい教会を造るのではなく、「初代教会に似せて、唯一であり 一致し、愛と謙遜という基礎の上に築く」と言っておられます。 ― 互いを受け入れ、イエスに向かって一緒に、祈りを捧げるのです。
ではマリア様が話しかけられておられる箇所を読みます:
「反逆は兄弟の間で一致を妨げます。心の不誠実は神の杯をさらに満たしていくことになります。彼らは我が子のからだをねじ曲げ、分裂させ、手足を切り落し、麻痺させてしまいました。思い出させましょう あなた方は皆 主を通して、唯一の霊のうちに、御父のみもとにいたる自分の道があるのです、ですのに我が子の名のもとに 別れたままでいます。一致と平和をあなた方は口にしますが、それを実践する人びとに対しては罠を仕掛けます。神は欺かれません、あなた方の理屈に納得もされていません。
神の国は口にのぼる言葉だけにとどまりません。神の国は 心のうちにある愛、平和、一致と信仰、それは心の中で一つに一致している主の教会なのです。一致の鍵は愛と謙遜です。イエスはあなた方の分裂をお勧めになったことはなく、ご自分の教会の分裂は イエスのお望みではありませんでした。心と声をもって一致し 我が子の初代教会を心の中に再び築いて下さるようにお願いします。我が子の初代教会と申しているのは、その教会が愛、素朴、謙遜と、信仰に基いていたからです。改めて新しい組織を造り上げるのではなく、心の中の組織を造り直すようにと申しています。心の中にある古い煉瓦、不一致、不寛容、不実、赦しの拒み、愛の欠如という煉瓦を壊して、我が子の教会を 和解によって造り直すのです。非常に大きな霊の貧しさと 溢れるほど豊かな寛容が 要求されます、そして屈まなければならないと理解するまでは、一致できないでしょう。」(ノート54、‘91・9・23)
愛の炎P84
<新しい聖霊降臨>
「この洪水は、聖霊の力を全世界に注いだ最初の聖霊降臨のものと比べることができます。全人類は、この大きな奇跡に気づかなければなりません。それは、聖母マリアの愛の炎の輝きです。信仰が薄くなっているこの世は、今、闇に落ちようとしていますが、信仰に立ち返る前に大きな混乱状態があるでしょう。このことが信仰の力で新しい世界を築くことになります。信仰の中にある信頼は、その心の中に根を下ろし、地の表は新しくされるでしょう。みことばが人となったとき以来、そのような恵みの洪水はありませんでした。今、苦しみで満ちているこの世界の刷新は、聖母マリアの力づよい取りつぎによっておこなわれることでしょう。」
マルト・ロバンの面影P74
フィネ神父は語っている。
「最初の一時間のあいだ、マルトは聖母マリアについてしか話さなかった。かの女は、神秘に満たされた人のように、神秘と親密にまじわっている人のように、聖母マリアについて話した。
第二時間目は印象深かった。マルトは、権威ある語調で、本を読んでいるかのように、歴史のなかに展開するに違いない『諸事件』について話してくれた。これらの事件のうち、あるものはきわめて重大で、きわめて辛いものであった。他の事件は希望と美とに満ちたものであった。大変よく記憶しているのは、『教会のなかに愛のペンテコステ(聖霊降臨)がおこなわれるでしょう』と言ったことである。かの女はまた、教会は『信徒によって若返るでしょう』とも言った。
マルトは、このかなり新しい『信徒』という語に力を入れた。そして、『信徒』は未来の教会のなかで主要な役割りを果すにちがいないと、繰り返し話してくれた。そう話しながら、喜びに満たされていた。かの女はまた、教会は刷新されるとも言った。そのうえ、信徒について話したとき、この信徒を養成する手段を見出すことが焦眉の急であることを強調した」。
マルト・ロバンの面影P143
決して特別な形で考えているのではありません。平和なもの、ゆるやかなものとして考えています。それは、少しずつ、徐々におこなわれると思います。すでにはじまっているとさえ考えています。将来については、いろいろな考えを提供されます。しかし、なにも知りません。ただ一つのことを除いては。それは、将来とはイエスだということです。
第二の聖霊降臨とは
(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)
一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。
もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。
さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか?まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。
そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。どういう意味かをひと言で説明しましょう。主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。
第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう?そこには違いがあるのです。
第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。
こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。
コンソラータ/P113
−イエズス−
「コンソラータ、あわれな罪深い人類のために、あなたがゆるしを願いなさい。そして私の愛の勝利を願いなさい。新しい聖霊降臨において、燃えさかる神の愛の火が、人類の多くの罪を清めるよう願いなさい! 神の愛のみが、背教者を使徒に、汚れた百合を潔白無垢に、敵意に燃えて反逆する罪人を、愛の獲物に変化することができる! あなたのため、また今、地上にあるものと、世の終わりまで存在するすべての霊魂のために、私の愛の勝利を願いなさい。あなたの絶え間ない祈りによって、私の聖心と愛が、全世界に勝利を占めるよう、準備しなさい。」(1935年12月16日)
11.ヴァッスーラ
第二の聖霊降臨とは
(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)
「一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。
もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。
イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。
さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。
その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか?まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。
どういう意味かをひと言で説明しましょう。
主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。
第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう?そこには違いがあるのです。
第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。
こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P223
‘88・5・16
イエス?
私です、聖書を未だ理解していないすべての霊魂のために祈りなさい この人びとはあまりにも多くの部分の解釈を間違え 光を与える可能性のある箇所全体を切り落し 照らされる可能性のある豊かな部分を剃り落としてしまう。 聞いて理解するよう努力しなさい:「ある時 巨大な畑を整地している種蒔きがいた、この人は蒔くのに一番上質の種を選び ♡ 最良の麦を収穫するはずであった! さて 刈り入れ時になったとき、そしてそれは何と豊かな収穫だったか! 敵が一群の烏を畑に送り込んだ、この畑は、非常に大きな愛と犠牲によって 汗水流して準備されたもので 国全体を養い、誰も飢えることのないであろう、豊かな収穫が約束されていた、ところが、敵によって送り込まれた烏は収穫からほうぼうを摘んでは、少しでも多くを平らげ 荒らしていった ♡ この種蒔きが一部始終を見ていて 烏を追い払うために召使いたちを送らなかったなら、収穫全体が食い尽くされていたであろう」 ♡
主よ では説明して下さいますか?
♡ さあ、種蒔く人は主である私、収穫はみことば(*)、敵はサタン、烏はサタンの影響を受けた霊魂たちで、長年にわたって、時折り みことばで大事なところを食って摘んでしまった。 しかし、主なる、私、イエス・キリストは、それらの欠けた要素をあなたのために取り戻そうと 何度でも自らを顕す 私の教会を美しく飾り 修理して ♡ 被造物よ 愛している ♡ 教会全体が新にされるであろう、取り戻されたこれらの要素によって教会は美しく飾られ 完成するであろう、しかしまず、我が−仔羊たちの−ペトロ という名を与え その名を保つであろう、ペトロに 冠を授ける。 地上にいた時と同じように 我が神殿に入るなら 完全無欠-という−ベルトで あのペテン師たちをすべて打ち、力をもって入場し 金銭を崇拝する者を皆倒す ♡ 私は「エルサレム」に入り 新しいエルサレムが見えてくるよう その到来を告げ、障害を払いのけて 道を切り開く、これは ヴァッスーラ 我が教会の大艱難として知られるようになろう ♡ その後 ペトロの手には私の羊たちを護る鉄の笏を置く、そして「どうして道案内など 必要か?」をまだ知らず 自問する人たちに対しては このように言う: 羊飼いを持たない羊の群れを見たり聞いたりしたことがあるか? 私は天の羊飼い そして戻るまで仔羊たちを護るようにペトロを選び、その責任を与えて、ではなぜこのように議論するか、空しい論争を? 我が言葉を未だ知らないすべての人たちは、それについて聖書で読むように、私の弟子ヨハネの福音書の中にある(**)、 ♡ それから我が教会を一致させ 一つの群れとなるよう 腕の中に包み込む、今日はこのように散らされ あまりに多くの共同体、分裂したセクトを作り出している、私の身体はあなた方に引き裂かれているが こうあってはならない(***)(This CANNOT BE!)! 皆を一致させる ♡
*聖書のこと
**21・15−17
***イエスはここでは断固としておられました。
イエスはローマ・カトリック、東方教会とプロテスタントを一致させるおつもりです、けれどそのほかに他のグループ、セクトさえもと仰っています。主はペトロのもとに私たちを呼び寄せられるか、ペトロが私たちのところに来て下さるでしょう。
そうなったらペトロとともに働き、我が隠された領域を顕し、神秘の多くを彼に示して 我が子たちに教えられるようにする この教えをもとにあなた方は新しい天と 新しい地を見るであろう ♡ 私 主は 我が聖所の壁を新たにする、ああ ヴァッスーラ! 修復が何と必要か! あなたを使わせてくれるように、
はい 主よ、どうぞ必要な力をお与えください アーメン
指をあなたの心に置かせなさい 我が祭壇が燃え立ったままであるように、全くの無に等しいながら 私 神は、あなたを愛している、あなたを遣わしたこの使命を、達成するに必要な力を与えよう、気を落さないで、忍耐を持ちなさい、まもなくあなたは我が家に帰って来る、私のもとに、私たちのところに(*)、平和を受け、教会が通るであろう刷新のために祈りなさい、私 主は、皆を愛している ♡ 「私たち」!
* 聖マリアもご一緒で、十歳か十一歳の頃に受けた私の幻視が思い出されました。
はい、主よ、永遠に。
♡ 来なさい。
神のうちの真のいのち/3巻P8
‘88.8.17
私の贈り物は(**)天から降る、それは輝ける新たなエルサレム、純正で聖なる、刷新された教会、前にも在り、今在り これからも存在する私がそのさ中に その魂の真っ只中に、生きるであろうから、あなた方は皆その魂を感じるであろう、我が聖心がその中で鼓動し、それが生き生きと脈打つのを。
**何十万の天使たちが、大皿を支えるようにして、新しい都市を乗せ、天から降って来る知的幻視を与えられました。天から新しい聖なる教会が降りてきたのです。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P184
‘90・7・8
書くように 我がヴァッスーラ: そして今日も養い続けている ということを。 我が救いの約束にたいして私が卓越し 忠実であるのに気づき 理解しなさい。 あなた方の世代に 何一つ秘密として隠してはおかない、間もなく開かれた本道を描き出すからです、それは汚れなく、開いた聖櫃にまで連なり 私が: 聖なる道 と呼ぼう、ジャッカルたちのねぐらはこれまで! 闇の中を徘徊するのも これまでです! 私 主は、すべてを明るみに出そう、二度と闇は訪れない、永遠に私の光が皆の上に輝くからです、そう、この開かれた本道には我が知識をくりひろげ そこへと導くために指標を置こう。 道の指標はしっかりと示そう。 そしてあなた方の神 私を熱心に拝する霊を授け 放蕩息子や放蕩娘たちを熱い愛をもって腕の中に連れ戻そう、それで彼らも我が光のうちに生き、こうして天全体がその立ち帰りを祝うであろう。 誰も:「わたしたちの主はどこか?」とは言わないであろう 心に深く我が掟を印すからです、この約束は私の眼前に刻まれ、私は旧い煉瓦の上にエルサレムを築く。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P130
‘91・6・2
侵入者(*2)は我が砦(*3)の多くを奪い、あなた方のうちに 死に至らせる忌むべきもの(*4)をお仕着せ あなた方のうち(*5)から我が永遠の生けにえを追放し(*6) その代りにつまらない模倣(*7)、我が聖性を汚す(*8)生身の人間像、を打ち立てた ♡
*2サタン
*3私ども
*4無神論とつながるニューエージなどのセクト、物質主義、合理主義。
* 5ダニエル書11・31−39、黙示録13・14−18、黙示録21・1−27を読むように。
* 6ひとたびこの人びとがこうしたセクトや無神論に陥ると、永遠の生けにえであろう御聖体も受けなくなります。(ダニエル書11・31)
* 7セクト: 神のみことばを模倣したもの。
* 8イエスは涙を流しておられました。
あなたは 私の聖なる町(*)、
*イエスは大変厳かにこう言われました。(黙示録21・2)
そして川のように(*)、我が聖霊があなた方のうちに流れるのを許してくれたあなた方は、私の新しいエルサレム(*2)であり、我が初穂(*3)、まさに変わらない心で 信仰を守った者たち(*4)。
* エゼキエル書47・1−12、黙示録22・1−2を読むように。
* 2黙示録21・2。
* 3黙示録14・4。
* 4黙示録13・10。
そして多くの不毛な心には 我が口から発せられた露、草にしたたる雨の雫のように、希望を置こう、それは 我が心の栄えある輝きをあなた方に反射させ、透き通ったダイヤモンドのような貴い宝石のように あなた方をキラキラと輝かせよう(*)。
*黙示録21・11.
ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・5巻P134
‘91・6・2 前のメッセージの続き
私の初穂は皆を感嘆させよう、そして少しずつ古い世界は消滅し(*) 衣服のようにほころんでいく(*2)。あと少しばかりで 覆われていたすべては取り除かれ 隠されていたすべては 目の前で明らかになろう。 我が新しいエルサレムよ! あなた方は私の愛の初穂、新しい愛の歌によって聖霊が誘い、私が娶った者たち、国たみのもとに出て行って 新しい我が愛の讃歌(*3)を 彼らにも歌って聞かせなさい。
*黙示録21・4. *2ヘブライ書1・11。 *3黙示録14・3。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P138
‘91・6・6
こう書きなさい: 「仔羊の婚姻の晩餐に招かれた者は幸いである」(黙示録19・9)と。 私の支配はすでに多くの霊魂のうちに始まった。 私はこれらの霊魂たちを娶り 新にした(*)、
* 黙示録21・5: 「今、私はすべてのものを新しくする。」に言及。
そしてまことに言う: 真理の霊は被造物全体に襲いかかって 町から町(*)へと制圧し、その中に見い出すであろうあらゆる淫らな、罪咎や不浄を、私は、自らの手で一掃する。 天から送る火によって、愚かさの植えつけたあらゆるものを 焼き払う ♡ 娘よ、先の天と先の地は消え去り(黙示録21・1) あなた方一人ひとりが我が聖霊の愛によって 新しくされよう、私はこの世界のおもてを変える。
* 神は:霊魂を次々にと言っておられます。
教会に刷新、私どもの刷新とはこのことでしょうか、私たち自身が教会ですから? 新しいエルサレムですから?
教え子よ、よく言った。 あなた方は皆私の教会、我が聖所であり砦(*)、私の領分、町、我が嗣業の地、エルサレム ♡ 私の愛の火で 町々(**)を次々と新にしてゆこう。
* ダニエル書11・31、同上12・11、マタイ福音書24・15。
* *私ども。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P171
‘91・8・4
一人ひとりの心に一致が花ひらこう・・・そして我が聖なる都、エルサレムは、一つのまとまった全体として、我が誉れとなろう ♡
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P261
‘93・5・30
私とあなたは一致している、私と一致している誰であろうと 私がたどったと同じ道、カルワリオにいたる道をたどる。 至高なる生けにえに従って行く誰であろうと その生けにえの部分となる。 あなたは私の一部、私のからだに残された部分・・・いのちを贖いとして捧げ ともに死の谷(*)に入ってきなさい、その場所で我が霊を注ぎ出す、その場所で我が愛を注ぎ出し どの枯れた骨も生き返らせよう。
* イエスはあらゆる霊的に死んだ人たちがいるはずの場所をおっしゃっています。
その谷が あなたの仕事場です ヴァッスーラ。 いのちの川を そこに溢れさせる。 復活 そしていのちなる私は、その谷に散らばる枯れた骨を 花咲かせるつもりです、私は我が思いやりと愛を現し 死者をその墓から引き上げ 私と一緒に我が家まで連れ帰ろう、その食卓は豊かに満ち溢れ、私はその杯を満たし溢れださせる そして我が聖心が 彼らの聖なる仲間となろう。 今は死の谷に散らばって横たわる あのすべての枯れた骨から ただ一つのからだを造り上げる ♡ そう、エゼキエルのヴィジョン(*)のように、私も同じ質問をする:「これらの骨は 生き返ることができるか?」
* エゼキエル書37・1−10
いいえ。あなたが介入なさらなければ。いのちをその中に入れて下さらないなら、わが主よ。すっかり枯れていて、いのちの気がありませんから。
私が生き返らせる。
私は 復活。
私は腱をおき、散らばった骨の上に筋をはり、こうしてそれらは一つに繋がる(*) 次に肉がもりあがる、私はそれを皮膚でおおい、いのちを持つように 息を与える。
それらが(**)一つのからだとなるように造り上げよう・・・そして再びいのちを呼び戻す。
*主は私どもの分裂を語っておられたのです、教会の分裂を。私どもを枯れて散らばった骨に譬えて。 **骨。
私は聖霊を送り その(*)鼻から非常に強い息を吹き込んで生き返らせる 再び立ち上がって私を讃えるように。私は玉座から水晶のように澄んだ水(*1)を あなた方(*2)の上に注ぎ すべての汚れから清める、そしてそのさ中で暮らすように 我が聖霊を注ぎ出す。
*からだの。 *1黙示録22・5。
*2神は、そのからだおよび、ご自分の教会、私ども皆にも、話しかけておられます。
私は聖霊を与え それはあなたの心となる。 次に、私自身でこのからだを聖別する ♡ そしてあなたの目(*1)に注ぐ私の光は、我が輝かしい栄光(*2)から発する、私自身の神的光、こうして私が松明(*3)となって あなたの前を歩き、道を照らすがゆえ あなたは勇士のように雄々しく歩もう。
*1イエスはご自分の教会、その刷新、新しいエルサレムのことを話されています。
*2黙示録21・23。 *3黙示録21・23。
私自身があなたの明り(*)となるので、もはやランプの明りを持たないでもよくなる。
他のすべての国たみ(*1)はあなたの美しさを見て 跡を慕って来る、そして宝と富をたずさえ 自分の身も合わせて捧げるようになる。
*黙示録21・23。 *1「他のすべての国たみ」とは、誰もが最後にはキリストを神の子として認識し、こうしてイエスの祈りが成就するのを意味します。 *2黙示録21・26。
私はあなた(*)の手に鉄の笏を持たせ 荘厳と輝きを纏わせる・・・
*神は新しくなった教会のことを言っておられます。
やがて(*1)こうして あなた方一人ひとりを我が霊は一致させて下さる そして誰もが 私(*2)を送ったのが御父だったと信じ、誰もが 私を生けにえの仔羊(*3)として認識しよう ♡
*1黙示録6・15−17 *2ヨハネ福音書7・21。
*3黙示録6・6(世界がキリスト教に改心すること)。
19.その他
天界の秘義1083
『セム』により内なる教会が、『ヤペテ』により内なる教会に相応した外なる教会が意味されていることは前に述べたところである。教会が存在しているところには必然的に内なるものと外なるものとが存在しなくてはならない、なぜなら教会である人間は内なるものであり、また外なるものであるからである。人間が教会となる以前、すなわち、かれが再生する以前は、人間は外なるものの中にいるが、再生しつつある時は(すでに述べられ、また示されたように)外なるものから、否、外なるものにより、内なるものへ導かれるのであり、その後、かれが再生すると、内なる人の凡てのものは外なるものの中に終結するのである。このように、古代教会がそうであったように、また現今基督教会がそうであるように、必然的に教会各々は内なるものであり、また外なるものでなくてはならないのである。
天界の秘義1083[2]
古代教会の内なるものは仁慈の凡ゆるものであり、仁慈から生まれた信仰の凡ゆるものであり―卑下そのものであり、仁慈から主を崇拝することそのものであり、隣人に対する善い情愛そのものであり、また他のそういったものであった。古代教会の外なるものは生けにえ、灌祭、その他多くの物であって、その凡ては表象により主に関わりを持ち、主を目標としていたのである。ここから外なるものの中に内なるものがあり、それらは一つの教会を作ったのである。基督教会の内なるものは古代教会の内なるものに正確に類似しているが、しかし他の外なるものがそれに代わって続いておこったのである。すなわち、生けにえとそれに類したものに代わって、礼典が起ったのであるが、そこからも同じように主が目標とされているのであって、かくて、再び内なるものと外なるものとは一つのものとなっているのである。
天界の秘義1083[3]
古代教会は内なるものについては基督教会からは些かも相違しなかったのであり、ただ外なるものについてのみ相違していたのである。仁慈から発した主礼拝は、外なるものはいかほど変化していようとも、決して相違することはできない。そしてすでに言ったように、内なるもののみでなく外なるものも存在しない限り、教会は在り得ないからには、内なるものが何か外なるものの中に終結しないかぎり、外なるもののない内なるものは不確定なものとなるであろう。なぜなら人間は大半内なる人の何であるかを、また何が内なる人に属しているかを知っていない底のものであり、それ故外なる礼拝がない限り、かれは聖いものについては何であれ如何ようなことも知らないからである。こうした人間が仁慈とそこから派生している良心とを持つ時、かれらは外なる礼拝の中にかれら自身の内にある内なる礼拝を持つのである。なぜなら主はかれらの中に、すなわち仁慈の中に、また良心の中に働かれ、かれらの礼拝の凡てに内なるものを得させられるからである。仁慈をもっていない者は、また仁慈から生まれてくる良心を持っていない者はそうではない。かれらは外なるものにおける礼拝を持ってはいようが、しかしかれらは仁慈から分離した信仰を持っているように、内なる礼拝から分離した外なるものにおける礼拝をもっているのである。こうした礼拝は『カナン』であり、こうした信仰は『ハム』と呼ばれている。そしてこの礼拝は分離した信仰から発しているため、ハムは『カナンの父』と呼ばれている。
天界の秘義1098
『セム』により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。
内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。
内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。
内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。
天界の秘義1799[3]
教会の外なるものとは何であるかは前に述べたところである(1083、1098、1100、1151、1153番参照)。前に言ったように、教義に関わるものがそれ自身では外なるものを作るのではない、ましてや内なるものを作るのではない、また主にあってもそれが諸教会を相互に他から区別するのではなく、それを行うものは教義的なものにしたがった生活であり、その教義的なものはすべて、それが真のものでありさえするなら、その根元的なものとしては仁慈を目標としているのである。教義は人間が如何ように生きねばならぬかを教えるものでなくて何であろう。
天界の秘義1799 [4]
基督教界では教会を区別しているものは教義的なものであり、その教義的なものから人間は自分自身をロマ・カトリック教会、ルーテル派、カルビン派または改革派、福音派などと呼んでいるのである。彼らがそのように呼ばれているのは教義的なもののみによっているのであって、こうしたことはもし彼らが主に対する愛と隣人に対する仁慈とを信仰の第一義的なもの[主要なもの]とするなら、決して存在はしないであろう。そうした場合教義的な事柄は信仰の諸々の秘義に関わる種々の見解であるに過ぎなくなり、真に基督教的な人間ならそれらをたれでもその者の良心に従って抱くままにさせて、その心の中に、人間が基督教徒として、すなわち、主が教えられているように、生活する時は、真に基督教徒であると言うであろう。かくて互に異なっている諸教会のすべてから一つの教会が形作られ、教義のみから生まれている凡ゆる分離は消滅してしまうであろう、実に相互に他に抱き合っている憎悪もことごとくたちまち消散して、主の王国は地上に臨むであろう。
天界の秘義1799 [5]
洪水直後の古代教会は多くの王国に拡まっていたけれど、それでもこうした性格を持っていたのである、すなわち、人々は教義的な事柄については彼らの間では非常に異なっていたのであるが、それでも仁慈を第一義的なものとしたのであり、礼拝を、信仰に関わりを持った教義的なものから眺めないで、生命[生活]に関わりをもった仁慈から眺めたのである。このことが彼らはすべて一つの唇を持っており、その言葉も一つであったと言われているところに(創世記11・1)意味されているのであり、そのことについては前に言ったことを参照されたい(1285番)。
20.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P76
反キリストの先駆者たちの後に、反キリスト自身が到来するだろう。十本の角―サタンを王と信じている十人の従者で、その中の3本(この数を銘記せよ)は捥ぎ取られ、虚無のうちに、すなわち神の存在しない、したがって、一切である神の対極にある無である深淵に投げ込まれるであろう―で武装した獣に象徴される反キリスト的時代は、十一本目の角が誕生し成長し最大の力を発揮するまでに頂点に達するであろうが、三人の先駆者と真の反キリストの本拠の失墜の理由である、十一本目の角は、人の子が誰一人決してしなかったやり方で、神を冒涜し、神の聖人たちを踏み躙り、キリストの教会を拷問にかけるだろう。悪魔的傲慢と人の淫乱との交接で生まれた子であるがゆえに、『時代と法を変え、偉大なことをなし得る』と信じ込むだろう。そして三年半、世界を支配する恐怖となるだろう。
ついで聖なる人々の『偉大な言葉のざわめき』によって天にわき起る大合唱を前にして父が言うだろう、『そこまでだ』と。すると意地悪な獣は殺され、深淵のなかに投げ捨てられ、それといっしょに、すべての小物の獣たちもそこに放りこまれ、彼らの産出者サタンとともに永遠にそこにとどまるだろう。
そのときわたしは、信仰宣言に言われている通り、『生ける者たちと死せる者たちとを裁く』ために、父と呼ばれるであろう。そして『生ける者たち』、恩寵と信仰を燃やし続けた人々は、『神の国、その権力と壮麗さ』を相続するであろう。霊魂における死者たちは、彼らの意志が受けることを選択した永遠の死を受けるだろう。
そしてそこにはもう地球はなく肉の人はいないだろう。そこには、あらゆる苦痛から解き放たれた『神の子供たち』しかおらず、最早罪はなく、闇はもうなく、恐れはもうないだろう。ただ、よろこび、よろこび、果てしない、永遠の人間の考えもしないようなよろこびしかないだろう。それは神を見るよろこびであり、神を所有し、神の思惟と愛を理解するよろこびである。
人々よ、生命の泉に来なさい。わたしはその水源をあなたたちに開く。そこから汲み、試練において大胆不敵となるために、その中であなたたちを強め、またその中に、至福の水源であるわたしの中に、わたしの父があなたたちのために創造し、そこには唯一なる神の三重の愛と、『わたしたちの』母の純潔があなたたちを待ち、彼らと共に、信仰者であったがゆえにすでに命を得ている者たちが待つすばらしい天国の中に、完全に全身を浸すに至るために」。
21.天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると一つの都が現れてくる
天界の秘義3216
天使たちが仁慈と信仰との教義的な事柄について語っていると、そのときそれに相応している霊たちの社会が存在している低いスフィア[領域]の中に時折、一つの都またはいくたの都の形またはパターンが現れてくるが、その中には色々な相をした家は言わずもがな、宮殿があって、それは建築の点で技術そのものがそこにその生まれた家の中にいると言われるほどにも驚嘆すべき技能を示しているのであり、言うも驚嘆すべきことではあるが、すべてこれらのものの中には全般的にも個別的にも、最小の点でも、または目に見える粒子でも、何か天使の観念と言葉を表象していないものはないのであり、それでこれらのものの中にはいか程無数のものが含まれているかが明白であり、また聖言の予言者により見られた都により何が意味されているか、同様に聖い都または新しいエルサレムにより何が意味されているか、予言的な聖言における都によって何が意味されているかが明白であり、すなわち、仁慈と信仰との教義的な事柄が意味されていることが明白なのである。
22.新しい教会の最初のもの
天界の秘義4231
「それでいちぢくの木からのたとえを学びなさい。あなた方はその枝が今や柔らかになって、その葉を出すと夏が近づいたことを知っています」
は、新しい教会の最初のものを意味しており、いちぢくの木は自然的なものの善であり、その『枝』はその自然的なものの善から発した情愛であり、『葉』は真理である。(中略)
『いちぢくの木』はそれが聖言に言われている所では常にその内意では自然的なものの善を意味しており(217番)、その『枝』はその自然的なものの善の情愛[その自然的なものの善から発している情愛]であることは、枝はその幹から発生するように、情愛は善から発生するためであり、『葉』は真理であることは前に見ることができように(885番)。この凡てからそのたとえの中に含まれていることが今や明白である、すなわち、新しい教会が主により創造されつつあるときは、先ず最初に自然的なものの善が現れるのである、すなわち、外なる形を取った善がその情愛と真理とともになって現れるのである。自然的なものの善により、人間がその中へ生まれてくるところの、または人間がその両親から取得するところの善が意味されているのではなく、その起原の点では霊的なものであるところの善が意味されているのである。この善の中へはたれ一人生まれていないのであって、主によりその中へ善と真理とにかかわるいくたの知識を通して導き入れられるのである。それゆえ人間はこの善の中に(すなわち、霊的な善の中に)いない中は、その者とともに生まれている善からいかほど教会の人間であるように見えるにしても、教会の人間ではないのである。
23.今から後は基督教会と呼ばれなくてはならない
主新しい教会へ招きたもう/大要(10)(P16)
今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない、ましてやルーテル派、カルビン派とも呼ばれてはならない。基督教会と呼ばれなくてはならない。
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P298
サンダー・シングの友A.J.アパサミー博士はこう書いている。「サードゥーは、霊界での経験のいくつかを話してくれた。あるとき、天界にはどれくらいの数のローマ・カトリック信徒がいるのかと彼はたずねた。すると、『一人もいない』との答があった。では、英国国教会の信徒はときくと、やはり『いない』と答を返された。彼は次に、メソジストは何人いるのか、バプテスト、プレスビテリアンは何人いるのかとたずねたが、やはり『一人もいません』と言われた。すっかり当惑し、驚いた彼は『では、ここにいる人々は誰ですか』とたずねた。『全員キリスト者です』との答が返ってきた」
24.教義の方面の新しい教会
新エルサレムの教義1
内なる、または霊的な意義では、『新しい天と地』は諸天界と地上の新しい教会を意味しており、それについては今後さらに特に述べよう。『神から出て天から降ってくる都エルサレム』はその天界的教義を意味し、(ともに)等しい『長さ』、『幅』、『高さ』はその教義の凡ゆる善と真理との結集したものを意味している。
新エルサレムの教義1
『エルサレム』は教義の方面の教会を意味している(402、3654、9166)。『都』は教会と宗教とに属した教義を意味している(402、2449、2712、2943、3216、4492、4493番)。『都の壁』は誤謬を防ぐ教義の真理を意味している(6419番)。『都の門』は教義に導き入れるところの、また教義を通して教会へ導き入れるところの真理を意味している(2943、4477、4492、4493番)。
啓示による黙示録解説194
「新しいエルサレム、わたしの神の都の名」は、新しい教会の教義がかれらの心の中に書き記されるであろう、を意味している。『新しいエルサレム』により新しい教会が意味され、それが『都』と呼ばれているときは、それにより教義の方面の新しい教会が意味され、それで『かれに新しいエルサレム、わたしの神の都の名を書くこと』により、新しい教義がかれらの心の中に記されるであろう、が意味されている。『エルサレム』により教会が意味され、都としてのエルサレムにより教義の方面の教会が意味されていることは下に見られるであろう(880、881番)。
天界と地獄180
注6
エルサレムは純粋な教義を持った教会を意味している、402、3654、9166.
25.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1978.10.13
光の中を歩み、私の汚れなき心から放たれる光を広めに行きなさい。
私は、もう何年も前から沈黙のうちにあなたがたを準備してきました。天の母として、あなたがたの手をとって、みちびいてあげたのです。
私の敵が教会を暗くし、牧者たちのあいだにさえ、たくさんの被害者が出たそのときも、私は、私の心の奥に、光にみちた新しい教会を準備していたのです。
もちろん同じ教会ですが、これは、新たにされた教会です。聖三位一体の光栄は、この教会の中にかがやきます。そこでは、すべての人がイエズスを礼拝し、尊び、聞き、従うでしょう。
こうして、そのとき教会は、エルサレムの高間のあのとき以来、けっしてなかったほどのすばらしい光でかがやくでしょう。
1989年11月1日
このようにして、あなたたちは、新しいイエルザレムを作り上げるために協力するでしょう。
聖母から司祭へ1990.8.15
イエズスは、聖霊の力強い働きによって、あなたたちの天の母の汚れなき心の花園に、ご自分のこの教会を養成しておられます。
光の新しい教会で、その輝きは千の太陽を一つにあわせた輝きよりも大きいのです。
この教会は、単純な人、小さな人、清い人、貧しい人、世間の精神に少しも妥協することなく、完全な従順をもってイエズスを歓迎し、イエズスに従う人々の心の中に養成されます。
イエズスがこの新しい教会をどのように建てるかというと、目に見えない完全に神秘的な方法をもって、沈黙のうちに、隠れた生活のうちに、また祈りと単純さのうちにおいてです。このためにこそ、わたしは今日、わたしの愛する子らと、わたしの汚れなき心に奉献された子らすべてが、すでにはじまったこの第二の来臨の終わりまで辿り着くために光の道を歩むことを勧めます。
聖母から司祭へ1991.6.26
あなたたちは、新しい教会の新しい心となるように召されています。
イエズスは、この新しい教会を完全に不思議な方法をもって、わたしの汚れなき心の天的花園の中に形づくろうとしておられます。
聖母から司祭へ1992.4.18
―そうです、この墓はあなたたちの奴隷制度の墓となるのです。ここで、病み、分裂し、忠実さにおいても聖徳においても暗くなり、信仰を失い、棄教に脅かされていた教会がなくなります。そして、キリストの光のみを反映させる新しい聖なる教会、忠実で、照らされた教会、福音的で、貧しく清い教会が生まれるのです。
聖母から司祭へ1992.7.1
誰もさばいてはなりません。
すべての人を、母であるわたしのやさしさをもって愛しなさい。
そうすれば、あなたたちは、世界におけるわたしの汚れなき心の勝利の貴重な道具となるでしょう。
こうして、あなたたちは、わたしがわたしの汚れなき心の天の花園の中で形づくっていく、新しい教会の新しい心となるでしょう。
聖母から司祭へ1992.8.15
母であるわたしのマントの、輝く星であるあなたたちは、いたる所にわたしの光栄にあふれる光線を降らせなさい。
そうすることによって、あなたたちは新しい教会をつくり、まだわずかばかり残っている忠実な人として召されたわたしの子らを、いたるところから集めてきなさい。あなたたちの残酷きわまりない奴隷制度の時を縮めなさい。おいでになる主を歓迎するために、心と霊魂を準備させなさい。
天と地がひとつとなる今日この日に、わたしは、わたしの計画の確証を与え、わたしの汚れなき心の深みに、あなたたちを受け入れ、あなたたちを解放の道へと力強く導きます。
新しい天と新しい地に辿り着くためです。
聖母から司祭へ1993.11.21
―キリストの光栄ある王国はまず第一に、人々の心と霊魂に実現するでしゅお。
これこそ、イエズス・キリストの神的王権の最も貴重な部分です。
じじつ、このためにこそ、みことばは人間となってあなたたちの間にお住みになったのです。このためにこそ、おん子は、死にいたるまで、十字架上の死にいたるまで、おん父に従うものとなられたのです。
カルヴァリオ山上で、イエズスによって成し遂げられた贖いによって、あなたたちは悪魔の支配から解放され、その奴隷制度のくびきにある罪から自由にされて、神の子となったのです。それは、イエズスが御自らの愛とおん命を与えてくださったことによってです。
そのことのために、愛によって新たにされ、み恵みによって聖とされた人々は、イエズスの神的王権の最も貴重な部分となっています。
―キリストの光栄ある王国が訪れるとき、あらゆる所で、聖徳と潔白、愛と正義、喜びと平和が花さくでしょう。
なぜなら、第二の聖霊降臨において、人々の中に注がれる聖霊の全能の力によって、人々の心が変化されるからです。
こうして、人々の霊魂は、三位一体の現存によって照らされ、その現存は、人々のうちに、あらゆる善徳のめざましい発展をとげさせるでしょう。
―キリストの光栄ある王国は、すべての人の生活の新しいありかたによっても反映されるでしょう。それは、あなたたちが、もはや、主のみ栄えのためにのみ生きるようになるからです。こうして、あなたたち各自が、神のみ旨を完全に果たすようになったそのとき、主は光栄をお受けになるでしょう。従って、キリストの光栄ある王国は、そのすべての被造物が、神のみ旨を完全に果たすようになるそのときに実現します。つまり、み旨が天に行われるように、地上にも行われるようになるためです。
聖母から司祭へ1993.12.8
この数年間に、わたしは、この汚れなき心の天的花園の中で、新しい教会と新しい人類を自分のために養成しています。
聖母から司祭へ1993.12.8
こうしてわたしは、わたしの汚れなき心の花園に、日々新しい教会をつくります。それは、聖であり、一致していて、福音を忠実に告げ知らせ、イエズスに対して完全なあかしをする新しい教会です。
聖母から司祭へ1994.6.30
あなたたちの天の母の声に耳をかす人は少なく、これに従う人も少ないのです。しかも、この少ない人たちは、しばしば自分の兄弟たちから苦難を受け、理解されず、迫害さえ受けています。
どうか、あなたたちこそ、全教会の内的な刷新の道具となりますように。
清められ、照らされ、聖化された新しい教会の心となるように、あなたたちは召されたのです。
それで、わたしは、あなたたちに呼びかけます。
こん日、あなたたちが、信仰と一致、聖徳と愛の勇ましい使徒になりますようにと。
26.新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない
主イエス・キリスト65
黙示録には新しい天と新しい地という語が記され、後に見よ、わたしは凡ての物を新しくするという語が記されているが、それは今や主により新しく設立されようとする教会の中では教義は新しくなるであろうということ以外の何事も意味していない。
天界と地獄307
しかし人間と共にいる天使たちはこれらの事柄を全然そのようには理解していない、彼らは人間が自然的に理解するものを凡て霊的に理解している。新しい天と新しい地により彼らは新しい教会を理解し、神から天を経て降る都エルサレムにより、主から啓示されたその教会の天界的教義を理解し、(後略)。
啓示による黙示録解説876
1節.「私は新しい天と新しい地を見た」は、新しい天界が主により基督教徒から形作られそれは今日基督教天界と呼ばれ、そこには主を拝して、聖言における主の戒めに従って生き、そこから仁慈と信仰を得ている者たちがおり、またその中に基督教徒の凡ての幼児たちがいる、を意味している。『新しい天と新しい地』により目に見える自然界の天も、人間の住んでいる自然界の地も意味されはしないで、霊界の天界と、天使たちのいる、その天界に属した地とが意味されている。この天とこの天の地とが意味されていることは、たれでも、もしその者が聖言を読むとき、純粋に自然的な、物質的な観念から多少でも引き出されることが出来るなら、認め、また承認することが出来よう。天使たちの天界が意味されていることは明白である、なぜなら次の節に『彼は聖い都エルサレムが夫のために飾った花嫁のように備えをして、神から出て天から降ってくるのを見た』と言われ、そのことにより、エルサレムが降ってくることは全く意味されはしないで、教会が降ってくることが意味され、天界の天使たちと地上の人間とは教会の凡ゆる事柄では一つのものとなっているため地上の教会は主から天使たちの天界を経て降ってくるからである(626番)。これらの事柄から、これらの言葉により、またそれに続いてこの同じ節に記されている言葉により、世界の滅亡について、また凡ゆる物の新しい創造についての教理を自ら捏造した者らは、いかに自然的に、また物質的に考えたか、また今も考えているかを認めることが出来よう。
27.純粋な真理の教義は主から天界を通して私たちのもとへ来るのであって、他のいかような源泉からも来ない
主イエス・キリスト63
『聖い都エルサレム』により教義の方面のこの新しい教会[新しい教会の教義]が意味されており、それでそれは神から出て天界から降ってくるのが見られたのである、なぜなら純粋な真理の教義は主から天界を通して私たちのもとへ来るのであって、他のいかような源泉からも来ないからである。
新しいエルサレムの教義6
それは、前に述べたように『地』は教会を意味し、『エルサレム』は教義の方面の教会を意味するためである、それが『神から出て天から降ってくる』と言われているのは、教義が引き出されてくる神的摂理はすべて主から発して天界から降るからである。
28.主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている
真の基督教108
主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。それ故、若し今後、何人であれ、死後凡ての者が入る所の霊界へ基督教国から入って来て、主を信ぜず、また主のみに近づかず、そしてその時邪悪な生活を送り或は虚偽を確信してしまった為に、この教義を受けることが出来ないならば、凡て天界の入口で斥けられ、天界から面を反けて、低地に向い、そこに赴き、黙示録の竜及び偽の予言者の意味するそこの住民に加わるのである。更に基督教国に生活しつつも宗教を信じない者は何人と雖もその祈りは聞かれない。その祈りは天界にあっては腐敗した肺臓から発する不愉快な臭気、毒気に似ている。たとえ彼は己が祈りは薫物の芳香のようであると想像しているにしても、それは天使的天界へ昇って行く際荒々しい風のため、彼の目へ吹き返されてくる焔の煙のようなものであり、或は修道僧の外衣の下の香炉から立ち昇る燻物のようなものである。単一性の三一性の神の代りに分離した三一性の神に向けられた敬虔の凡ては今後このようなものになるであろう。本書の主要目的は神的三一性は主の中に合一されていることを示すことである。
私はここに次の新しい一つの報告を附加しよう。数ヶ月前主は十二使徒を呼び集め、この福音を宣べ伝えよとの命令と共に以前彼らを自然界の至る所に遣わし給うたように、霊界の到る所に遣わし給うたのである。この命令を彼らは各々自らに割り当てられた領域で非常に熱心に勤勉に果している。然しこの主題に就いては、代の終り、主の来り給うこと、新しい教会を取扱う本書の最後の章に更に多く語られるであろう。
スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58
新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。
新エルサレムの教義297
主の中に三一性の在ること、即ち、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと発出している神的なものが在ることは天界から来ているアルカナ〔秘儀〕であり、(それは)将来聖いエルサレムの中に留まる者たちのために存在している。
続最後の審判79(『最後の審判とバビロンの滅亡』に併録)
なぜなら審判の後では『エルサレム』により主のみを拝する教会が意味されているからである。
29.『ミカエル』は新しいエルサレムの教義を支持する者たちを意味している
黙示録講解735[2]
特にミカエルについては、文字の意味からミカエルは首天使の一人であると信じられているが、諸天界には首天使は一人としていないのである。実に、高い天使と低い天使とがおり、また賢い天使とそれほど賢くない天使がおり、天使たちの諸社会には他の者の上に遍く置かれている総督[治める者]がいるが、それでも何らかの権威により他の者たちが服従するように義務ずけられている首天使はいないのである、なぜならそこのたれ一人主のみを除いてはいかような者をも自分自身よりは上にあるものとしては承認しないからであり、このことがマタイ伝における主の御言葉により意味されていることである―
あなたらは教師と呼ばれてはならない、なぜならあなたらの教師は一人であり、キリストであるが、あなたらは凡て兄弟であるからである。地上ではいかような人間もあなたらの父と呼んではならない、なぜならあなたらの父は一人であり、諸天界の中におられるからである。あなたらは教師と呼ばれてもならない、あなたらの教師は、キリストは一人であるからである。あなたたちの間で最大の者はあなたらに仕える者ちならねばならない(23・8−11)。
(中略)
ミカエルの名は、それがヘブル語から派生していることから、「その者は神に似ている」を意味しており、それゆえミカエルはかの神的真理に関連した主を意味し、すなわち、主から主に対する愛の中に、隣人に対する愛の中に生きなくてはならないという神的真理に関連した主を意味している、ミカエルはまたダニエル書に言われており(10・13、21、12・1)、そこではここと同じように、聖言から発した純粋な真理を意味しており、それは主により設立されることになっている教会に属している者たちのために存在するものである、なぜなら『ミカエル』は新しいエルサレムの教義を支持する者たちを意味しているからであり、その教義の本質的なものは、主の人間的なものは神的なものであり、愛と仁慈との生命が存在しなくてはならないということである。
30.この教会は前の凡ゆる教会の冠である
イザヤ62・1−3
シオンのために、わたしは決して口を閉ざさず
エルサレムのために、わたしは決して黙さない。
彼女の正しさが光と輝き出で
彼女の救いが松明のように燃え上がるまで。
諸国の民はあなたの正しさを見
王はすべて、あなたの栄光を仰ぐ。
主の口が定めた新しい名をもってあなたは呼ばれるであろう。
あなたは主の御手の中で輝かしい冠となり、あなたの神の御手の中で王冠となる。
真の基督教786
「この新しい教会は現今に至るまで地上に存在した凡ゆる教会の冠である。」
上述したように、この地上には四つの教会が―洪水以前のもの、洪水以後のもの、イスラエル教会と呼ばれる第三のもの、基督教会と呼ばれる第四のものが存在した。凡ゆる教会は一人の神に関わる知識と認識に依存し、教会の凡ゆる会員はこの神との交わりに入ることが出来る。しかしその四つの教会はその知識を持たなかったためにこれを持つ一つの教会がそれに続かねばならぬことが推論される。何故なら神の神的愛は世を創造するに当って人間との相互的な交わりの中に住むという目的以外には如何なる目的も持ち給わなかったからである。前の教会はその真理を持たなかった。何故なら洪水以前に存在した最古の教会は見えない神を―この神との交わりは在り得ない―拝し、洪水後に存在した古代教会も同様に見えない神を拝したからである。イスラエル教会は本質的には見えない神であるエホバを礼拝したが(出エジプト記33・18−23)、然し人間の形の下に礼拝した。実に神の臨在に満たされた天使の形であったこの形がアブラハム、サラ、モーゼ、ハガル、ギデオン、ヨシュア及び予言者の或る者に現れたのである。この人間的な形は来るべき主を表し、それ故かの教会に於ける物は尽く表象的であった。実に、彼らの犠牲及びその他彼らの礼拝にかかわりを持つ物は凡て来るべき主を表象し、而して是等の儀式は主が来り給うた時廃止されたことは良く知られている。しかしながら基督教会と呼ばれた第四の教会は実際唇を以て一人の神を認めはしたが、しかし三人格に於て認め、その三人格の各々は単独にまたはそれ自身によって神であった。その結果、たとえ一人の神が唇によって語られはしたが、三人の神の観念が心に固定されたのである。而してニカア会議以後、教会の博士等は人間は父なる神、子なる神、聖霊なる神を信じなくてはならない、これら三人の神は世の創造の前から類似した神的本質を以て存在している故不可視的なものであると教えた。しかし上述したように、見えない神とは如何なる交わりも在り得ない。而して見えない神が単に人間を贖うのみではなく、また見ゆる神になり給うために、世に来り、人間性を取り給うた、何故ならかくしてのみ神との交わりが在り得るからであるということは未だ知られていない。以下のように記されている、「言は神と共に在りき、神は言なりき、而して言とは肉となり給えり」(ヨハネ1・1、14)。「一人の嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子を与えられたり。その名は神、能力ある者、永遠の父ととなえられん」(イザヤ9・6)。予言者の中にエホバ御自らが贖う者として来たり給うであろうとしばしば宣言されている。而して神はこれを人間性を取り給うことによって為し給うたのである。
真の基督教787
この教会は前の凡ゆる教会の冠である、それは一人の見える神を―この神の中に霊魂が身体の中に在るように見えない神が在し給う―礼拝するからである。かくしてのみ神と人との間に交わりが在り得るのである、それは人間は自然的であり、従って自然的に考え、交わりは思考と情愛の交わりでなくてはならず是は人間が神を人間として考える時にのみこれは可能となるからである。 見えない神との交わりは宇宙の涯しの無い拡がりを見るようなものであり、または太洋の真中に在って涯しなく拡がっている空と水とを見るようなものである。然し見える神との交わりは空の中にまたは水の上に一人の人間が、歓迎の印に手を差し伸べているのを見るに似ている。何故なら神との凡ゆる交わりは相互的でなくてはならず、人間の側の応答は見える神とのみ可能であるからである。 神は人間性を取り給わなかった前は見られ給わなかったことは主御自ら教え給う。「汝らは未だ父の御声を聞きし事なく、その御形を見し事なし」(ヨハネ5・37)。「何人も我を見て生くる能わず」(出エジプト33・20)。然し父はその人間性によって見られることを彼はまた教え給う。「未だ神を見し者なし。ただ父の胸に在す独子の神のみこれを顕し給へり」(ヨハネ1・18)。更に「イエス言い給う、我は道なり、真理なり、生命なり。我に由らで誰にても父の御許にいたる者なし。我を知る者は我が父を知るなり。我を見し者は父を見しなり」(14・6、7、9)。見えない神との交わりは見える彼によって、即ち、主によって生ずることを彼御自ら以下の語に於いて教え給う。「我に居れ、さらば我なんじらに居らん。人もし我に居り、我また彼に居らば、多くの果を結ぶべし」(ヨハネ15・4、5)。「その日には我わが父に居りなんじら我に居り、われ汝らに居ることを汝ら知らん」(14・20)。「我は汝の我に賜ひし栄光を彼らに与えたり、是、我かれらに居り、汝われに在し、われらの一なる如く、彼らも一となり、我を愛し給ひたる愛の、彼らに在りて、我も彼らに居らんためなり」(17・22、23、26、及び6・56)。彼はまた父と彼とは一であり、人々は永遠の生命に到達するためには彼を信じなくてはならぬと教え給う。救は神との交わりに懸かるとのことは上に屡々示されたところである。
予言者ダニエルはこの教会は前の凡ゆる教会に続いて起り、その凡てのものの冠として永遠に存続するであろうと予言した。このことを彼はネブカドネザルに四つの王国に関わる彼の夢を語り説明した時予言したのである。四つの王国により彼の夢の中の像によって表される四つの教会が意味されている。何故なら彼はかく語っているから。「この王らの日に天の神一つの国を建て給わん。これは何時までも滅ぶること無からん、この国はこの諸々の国を打ち破りてこれを滅せん。これは永遠に立つべし」(ダニエル2・44)。而してこの事は「大いなる磐となりて全地にみつる石」によって成就されるであろう(ダニエル2・35)。聖言では磐は神的真理の方面の主を意味する。同予言者は他の箇所に語っている。「我は夜の異象の中に観てありけるに、人の子のごとき者天の雲に乗りて来たり、これに権と栄と国とを賜ひて諸民諸族諸音(しょいん)をしてこれに事(つか)へしむ。その権は永遠の権にして移り去らず、またその国は亡ぶることなし」(ダニエル7・13、14)。而して彼はこれを海から登り来る四匹の大きな獣を―それもまた四つの前の教会を表した―眺めた後語ったのである。ダニエルのこの予言は現代の教会に関わりを持つものであることは12章4節の彼の言葉およびマタイ伝24章15、30節の主の御言葉によって明白である。同様の事が黙示録に語られている。「第七の御使いラッパを吹きしに天に数多の大いなる声ありて、この世の国は我らの主およびそのキリストの国となれり、彼は世々限りなく統べ治め給はんと言う」(黙示録11・15)。
31.主の母マリアは後に教会を表象した
新しい教会の教典P80
八、しかし主の母マリアは後に教会を表象したため、その点で彼女は主の母と呼ばれなくてはならない
32.一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしない
アタナシウス信条についてP58
新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことに懸かっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。
真の基督教108
主は現今、救い主なる神なる主を信ずる者のみによって成り立つ、新しい天使的天界を形成し給いつつあり、その他の者は凡て斥けられている。それ故、若し今後、何人であれ、死後凡ての者が入る所の霊界へ基督教国から入って来て、主を信ぜず、また主のみに近づかず、そしてその時邪悪な生活を送り或は虚偽を確信してしまった為に、この教義を受けることが出来ないならば、凡て天界の入口で斥けられ、天界から面を反けて、低地に向い、そこに赴き、黙示録の竜及び偽の予言者の意味するそこの住民に加わるのである。更に基督教国に生活しつつも宗教を信じない者は何人と雖もその祈りは聞かれない。その祈りは天界にあっては腐敗した肺臓から発する不愉快な臭気、毒気に似ている。たとえ彼は己が祈りは薫物(たきもの)の芳香のようであると想像しているにしても、それは天使的天界へ昇って行く際荒々しい風のため、彼の目へ吹き返されてくる焔の煙のようなものであり、或は修道僧の外衣の下の香炉から立ち昇る燻物のようなものである。単一性の三一性の神の代りに分離した三一性の神に向けられた敬虔の凡ては今後このようなものになるであろう。本書の主要目的は神的三一性は主の中に合一されていることを示すことである。
啓示による黙示録解説9
「時は近いからである」は、教会の状態が最早教会が、その主との連結の方面で持ちこたえることが出来ないほどにもなっていることを意味している。主との連結を生み出し、そこから救いを生み出すところの二つの本質的なものが、即ち、「一人の神を承認すること」と「生活の悔改め」が在るが、しかし現今では、一人の神を承認することに代って、三人の神が承認され、生活〔生命〕の悔改めに代って、自分は罪人であるという口先のみの悔改めが在って、この二つによっては(主との)いかような連結もなく、それでこの二つの本質的なものを承認する新しい教会が起らない限り、たれ一人救われることは出来ない、こうした危険のために、その時間は、マタイ伝の御言葉に従って、主により短縮されている―
なぜならその時世の初めから今の時まで無かったような、またこの後も無いような大いなる苦難が臨むからである、まことに、その日が短くされなくては、たれ一人救われはしないであろう(マタイ24・21、22)。
神の摂理231
「第6の種類の冒涜は聖言を承認しつつも、主の神性を否定する者により犯される」。これらはこの世でソツニウス派、アリウス派と呼ばれている。両者の運命は父を呼んで、主を呼ばず、絶えず父に天界に入れられるように祈り、或る者は御子の故に天界に入れられるようにさえ祈ることである。しかし彼らは徒に呼び求めるにすぎず、ついには救いの望みを凡て失い、地獄の神を否定する者の許へ送られる。これらのものは聖霊を冒涜し、この世でも来るべき世でも罪を赦されない者により意味されている(マタイ12・32)。その理由は、神は人格と本質において一つであって、その中に三一性が在り、主はこの神であられ、主はまた天界であり、従って天界にいる者たちは主の中におり、主の神性を否定する者は天界に入れられて主の中にいることは出来ないということである。主は天界であられ、従って天界にいる者は主の中にいることは前述した。
33.今から後は基督教会と呼ばれなくてはならない
主新しい教会へ招きたもう/大要(10)(P16)
今から後は人々は福音派、改革派と呼ばれてはならない、ましてやルーテル派、カルビン派とも呼ばれてはならない。基督教会と呼ばれなくてはならない。
34.主として主が来られた時以来亡くなったところの、全世界から来ている凡ての幼児により構成されている
新エルサレムの教義3
この天界は主が来られた時から現在までこうした者であった凡ての者から形作られた以上、それは基督教徒と異邦人とから構成されているが、しかし主として主が来られた時以来亡くなったところの、全世界から来ている凡ての幼児により構成されていることが生まれている、なぜならこの幼児の凡ては他の者たちとともに、新しい天界を構成するために、主から受け入れられ、天使により天界で教育され、また教訓を受け、留めおかれたからである。ここからその天界はいかに大きなものであるかを結論することが出来よう。幼少の頃死ぬ者はすべて天界で教育されて、天使となることは「天界と地獄」を取り扱った著述に見ることが出来よう(329−345番)。そしてその天界は基督教徒のみでなく異邦人によっても形作られている(318−328番)。
啓示による黙示録解説876
その天界には同じくキリスト教徒の凡ゆる幼児たちがいる、なぜなら彼らは主を天地の神として承認し、十戒の戒めに従って生きるという、その教会のかの二つの本質的なものを天使たちから教えられるからである。
35.或る国民には多くの希望を持っている
最後の審判とバビロンの滅亡74
私は今後の教会の状態について天使たちと色々語り合った。彼らは以下のように語った。私たちは将来の事は知らない。なぜなら将来の事は主のみが知っておられるからである。しかし私たちは、以前教会人の陥っていた奴隷と捕囚の状態は取り去られ、今や教会人は自由を回復し、そこから内的な真理をもし認めようと欲するなら、さらに良くこれを認めることが出来、かくてもし欲するなら、さらに内的なものとされることが出来ることを知っている。しかし私たちは依然基督教会の人たちには希望は僅かしか持っていない。が、基督教世界から遠く離れ、そのため、「霊界の」悩ます者らから遠ざかっている或る国民には多くの希望を持っている。その国民は霊的な光を受けて、天的な、霊的な人間になされることの出来る国民である。また彼らは言った。現在内的な神的真理がその国民の中に啓示され、また霊的な信仰をもって、即ち、生命と心の中に受け入れられ、彼らは主を崇拝している、と。
霊界日記4770
後で、教会の中にいる無神論者の仲間が現れた。それが消え去ると、多くの者により、以下のことが言われた。すなわち、諸国民の或る所で、天界から或る啓示が起り初めている、と発表されている、すなわち、霊たちと天使たちとがかれらと話し、天界の教義を教え、とくに主について教えており、そこの者たちがそれをかき抱き、かくして天界から新しい教会が起りつつあるのである、と。そのさいかれらはこのことについて話し、以下のように言われた、そのようにして、新しい諸教会が前に設立されたのであり、すなわち、ユダヤ教会は、奇蹟により、またモーセとシナイ山から話す生きた言葉により、かくて霊たちと天使たちとを用いてユダヤ教会が設立され、基督教会は奇蹟により、また人間が霊たちと話すことにより設立されたのである。なぜなら霊たちは使徒たちと話し、さらに、その奇蹟の他に、多くの者はまた外国語で話したからである。そこから天界に喜びが起った。
37.今取り扱われている教会も同じく(使徒ヨハネのように)他にもまさって愛されているため
啓示による黙示録解説879
二節.「わたしヨハネは聖い都エルサレムが神から天界を経て降ってくるのを見た」は、教義の方面の、また生命[生活]の方面の神的諸真理の中に新しい天界と交わるところの、前の教会の終わりに主により設立される新しい教会を意味している。ヨハネがここで『わたしヨハネ』と言って、自分自身の名をあげている理由は、使徒としてのヨハネにより主に対する愛の善が意味され、引いては生命の善が意味され、それで彼は他の使徒にもまさって愛されて、晩餐の際には主の胸によりかかり(ヨハネ13・23、21・20)、今取り扱われている教会も同じく他にもまさって愛されているためである。『エルサレム』により教会が意味されていることは次項に見られるであろう、それは『都』と呼ばれ、教義とそれに従った生命から都として記されている、なぜなら『都』はその霊的意義では教義を意味するからである(194、712番)。それは主から『聖い』と呼ばれ―なぜなら主のみが聖くあられるから―また主から発している聖言から派生しているところの、その中に在る神的諸真理からも『聖い』と呼ばれている、なぜならその諸真理は聖いものと呼ばれているからである
173、586、666、852番)。それが『新しい』と呼ばれているのは、その王座に坐られた方は、『見よ、わたしは凡ての物を新しくする』と言われたためであり(5節)、それが『神から天界を経て降ってくる』と言われているのは、それが本章の1節に取扱われている新しい基督教天界を通して主から降ってくるためである、なぜなら地上の教会は主により天界を通して形作られ、かくしてそれらは一つのものとして活動し、また交わる[連なる]からである。
啓示による黙示録解説880
聖言では『エルサレム』により教会が意味されている理由は、カナンの地では、そこにのみ神殿と祭壇が在り、生贄が捧げられ、かくて神礼拝そのものが捧げられ、それでまた年毎にそこで三度の祝宴が行われ、全国中の男子はことごとくそこへ集まることを命じられたためである。ここから『エルサレム』は礼拝の方面の教会を意味し、それでまた教義の方面の教会を意味している、なぜなら礼拝は教義の中に規定され、教義に従って行われるからである。同じくまた主はエルサレムにおられて、その神殿で教えられ、後にはそこでその人間的なものを栄化されたためである。『エルサレム』により教義の方面の、引いては礼拝の方面の教会が意味されていることは、聖言の多くの記事から明らかである、例えばイザヤ書の以下の記事から明らかである―
シオンのためにわたしは黙しはしない、エルサレムのためにわたしは休みはしない、その公正が輝き、その救いが燈の燃えるようになるまでは。そのとき異邦人たちはあなたの公正を、凡ゆる王たちはあなたの栄光を見、あなたはエホバの御口から言われる新しい名をもって呼ばれ、またあなたの神の御手の中の栄光の冠となるであろう。エホバはあなたをいたく喜ばれ、あなたの地は嫁ぐであろう。見よ、あなたの救いは来る、見よ、エホバの報いはエホバとともに来る。彼らは聖い民、エホバに贖われた者と呼ばれ、あなたは、探し出され、棄てられない都と呼ばれるであろう(イザヤ62・1−4、11、12)。
この章全体は主の降臨と主により設立される新しい教会を取り扱っている。この新しい教会が『エルサレム』により意味され、それがエホバの御口から語られる新しい名をもって呼ばれ、エホバの御手にある栄光の冠となり、また神の御手にある王の頭飾り[冠]となり、エホバにいたく喜ばれ、探し出されて、棄てられない都と呼ばれるのである。これらの言葉は、主が世に来られたとき、ユダヤ人らの住んでいてかのエルサレムに適用されることは出来ない、なぜならそれは凡ゆる点でその正反対のものであって、むしろソドムと呼ばれねばならなかったものであり、事実またソドムと呼ばれているのである(黙示録11・8、イザヤ3・9、エレミヤ23・14、エゼキエル書6・46、48)。イザヤ書の他の部分でも同じく―
見よ、わたしは新しい天と新しい地とを創造する、前のものは記憶されないであろう。わたしの創造するものにより永遠に楽しみ踊れ、見よ、わたしはエルサレムを創造して喜び踊るものとし、その民を創造して楽しむものとする。そのとき狼と子羊とは共に食べ、彼らはわたしの聖い山で悪を行わないであろう(イザ・17−19、25)。
この章もまた主の降臨と主により建設される教会を取り扱っており、その教会はエルサレムの中にいた者らのもとには建設されないで、エルサレムの外にいた者たちのもとに建設されたのである。それでこの教会が、主にとり『喜び踊るもの』であり、その民は主にとり『楽しむもの』となり、また『狼と子羊』が共に食べ、『彼らは悪を行わない』ところのエルサレムにより意味されている。この所にも同じく、黙示録のように、主は『新しい天と新しい地とを創造られるであろう』と言われ、また『主はエルサレムを創造られるであろう』と言われ、それらは類似の意義を持っているのである。イザヤ書の他の部分にも同じく―
ああシオンよ、目覚めよ、目覚めよ、あなたの力を着よ、ああ、聖い都、エルサレムよ、あなたの美しい上着を着よ、今から後は無割礼の者と不潔な者とはあなたのもとへ入らないであろう、わたしは話すかれであるからである、見よ、それはわたしである、エホバはその民を楽しませられた、かれはエルサレムをあがなわれた(イザヤ52・1、2、6)。
この章もまた主の降臨と主により建設される教会を取り扱っており、それで『無割礼の者と不潔な者とがかさねて入ってはこない』、『主から贖われるエルサレム』により教会が意味され、『聖い都エルサレム』により主から発し、主に関わる教義の方面の教会が意味されている。ゼパニヤ書には―
ああシオンの娘よ、叫べ、ああエルサレムの娘よ、心を尽くして喜べ、イスラエルの王はあなたの真中におられる、かさねて悪を恐れるな、彼はあなたを楽しみ、喜び、あなたの愛の中に憩われ、あなたの故に喜び踊って叫ばれるであろう。わたしはあなたを地の凡ての民に対する名と賛美として与えよう(ゼパニヤ3・14、15、17、20)。
ここでも同じように、主と主から発する教会とが取扱われ、この教会を主なる『イスラエルの王が楽しみ喜ばれ、喜び躍って叫ばれ』、その愛の中に『憩われて』、彼らを『地の凡ゆる民に対する名と賛美(されるもの)として』与えられるのである。イザヤ書には―
あなたを贖う方、あなたを形作られる方、エホバは、エルサレムに言われ、かく言われる、あなたには人が住むであろう、と。またユダの都に向っては、あなたらは建てられるであろう、と(イザヤ44・24、26)。
ダニエル書には―
知り、認めよ、聖言が発してから実にエルサレムを回復し、建てるまでは、メシアまでには七週あるであろう(ダニエル9・25)。
ここにもまた教会が『エルサレム』により意味されていることが明らかである、なぜなら教会が主により回復されて、建てられはしたが、ユダヤ人の住まっているエルサレムは回復され、建てられはしなかったからである。ゼカリヤ書の以下の記事の『エルサレム』によってもまた主から発した教会が意味されている―
かくエホバは言われる、わたしはシオンに帰り、エルサレムの最中に住むであろう、かくてエルサレムは真理の都、万軍のエホバの山、聖い山と呼ばれるであろう(ゼカリヤ8・3、20−23)。
ヨエル書には―
そのときあなたらは、わたしが聖い山、シオンに住むあなたらの神エホバであり、エルサレムは聖くなることを知るであろう、かの日山々には新しいぶどうの汁がしたたり、岡には乳が流れ、エルサレムは代々おだやかに立つようになるであろう(ヨエル4・17、18、20)。
イザヤ書には―
かの日エホバの脇枝は美しくなり、栄えるであろう、シオンに残る者とエルサレムに止まる者とは聖いものと呼ばれるようになるであろう、エルサレムの中に生きた者たちの間に記された者も凡て(イザヤ4・2−3)
ミカ書に―
最後の日にエホバの家の山は山々の頂きに確く立てられるであろう、シオンから教義が、エホバの聖言がエルサレムから発し、最初の主権さえもあなたのもとへ来て、王国はエルサレムの娘に来るであろう(ミカ4・1、2、8)。
エレミヤ記には―
かの日彼らはエルサレムをエホバの王座と呼び、凡ゆる国民はエルサレムに、エホバの御名へ向って集められ、彼らは重ねてその悪い心で確認したものに従って歩みもしないであろう(エレミヤ3・17)。
イザヤ書には―
我らの定まった祝宴の都、シオンを眺めよ、あなたの目はエルサレムを、静かな住居を、消え去らない幕屋を見るであろう、その杭はとこしえに抜かれず、その縄も一つとして切られはしないであろう(イザヤ33・20)。
またその他の記事、例えば、イザヤ24・23、37・32、66・10−14、ゼカリヤ12・3、6、8−10、14・8、11、12、21、マラキ3・2、4、詩篇122・1−7、137・5−7。これらの箇所の『エルサレム』により、主により建てられることになっていた教会が意味され、カナンの地のユダヤ人の住んでいたエルサレムが意味されはしないことは、その後のものについて、それはことごとく破壊されたと言われ、また破壊されるに違いないと言われている聖言の記事からもまた明白となるであろう、例えばエレミヤ5・1、6・6、7、7・17、18以下、8・6−8以下、9・10、11、13以下、13・9、10、14、14・16、哀歌1・8、9、17、エゼキエル4・1から終りまで、5・9から終りまで、12・18、19、15・6−8、16・1−63、23・1−49、マタイ23・37、38、ルカ19・41−44、21・20−22、23・28−30、その他多くの記事。
38.主を天地の神として承認し、十戒の戒めに従って生きるという、その教会のかの二つの本質的なもの
啓示による黙示録解説876
その天界には同じくキリスト教徒の凡ゆる幼児たちがいる、なぜなら彼らは主を天地の神として承認し、十戒の戒めに従って生きるという、その教会のかの二つの本質的なものを天使たちから教えられるからである。
39.主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する、主の御国への愛は隣人への愛の完成
真の基督教416
「主の御国は最高度に愛せられねばならぬ隣人であるのは、主の御国は、時としては、聖徒の交わりと呼ばれる普遍的な教会と天界を含むからである。それ故、主の御国を愛する者は主を認め、主に対する信仰と隣人に対する仁慈とを持つ全世界の凡ゆる人々を愛する。而して彼はまた天界に在る凡ゆる者を愛する。主の御国を愛する者は、何物にも勝って主を愛し、かくして、他の者に勝って神への愛の中に在るのである。何故なら、天界と地上の教会は主の身体であり、その会員は主の中にあり、主は彼等の中に在すからである。
それ故、主の御国への愛は隣人への愛の完成である。何故なら、主の御国を愛する者は、凡ゆる物に勝って主を愛するのみでなく、自分自身の様に、その隣人を愛するからである。何故なら、主への愛は普遍的な愛である故に、それは霊的生活と自然的生活とに浸透するからである。何故なら、この愛は人間の最高の能力に宿り、而してこの最高の能力は丁度意志が凡ての意図及び行動を支配し、理解が凡ての思考と言葉とを支配するように、より低い能力に働きかけ、これを生かすからである。これが主が『汝ら先ず天国と神の義とを求めよ。然らば凡てこれらの物は汝らに加へらるべし』(マタイ6・33)と語り給う理由である。
40.もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見る
啓示による黙示録解説881
「夫のために飾った花嫁のように備えして」は、聖言を通して主と連結したかの教会を意味している。ヨハネは『聖い都、新しいエルサレムが神から天界を経て降ってくるのを見た』と言われ、ここでは彼はその都が『夫のために(身を)飾った花嫁のように備えしている』のを見たと言われており、そこからも『エルサレム』により教会が意味されていることが明白であり、また彼はそれを最初は都として、後には花嫁の処女として、(即ち)表象的には都として、霊的には花嫁の処女として見、かくて一方の観念[考え]が他の一方の観念[考え]の中にある、またはその上方に在るところの、二重の観念[考え]の中に見たことが明白である―彼がこの二重の観念[考え]の中にそれを見たことは天使たちの場合と全く同じであり、彼らは聖言の中で『都』について見たり、または聞いたりするときは、低い思考の観念の中では都を認めるが、高い思考の観念の中では教義の方面の教会を認め、しかもこの後のものを、もし彼らがそれを望んで、主に祈るなら、その教会の性質に従った美しさを持ち、またそれに従った衣装をまとうた処女として見るのである。私もまた教会をそのように見ることを許されたのである。『備えをする』によりその婚約のために衣装をつけることが意味されるが、教会はその婚約のためには、後には連結または結婚のためには、聖言以外の衣装をつけることは出来ない、なぜなら聖言は主から発し、主にかかわり、かくて主であるため、聖言が連結または結婚の唯一の手段であるからであり、そうした理由からそれは『契約』と呼ばれ、『契約』は霊的連結を意味し、聖言はまたその目的のために与えられたのである。『夫』により主が意味されていることは本章の9節と10節から明らかであり、そこにはエルサレムは『花嫁、子羊の妻』と呼ばれている。主は『花婿』『夫』と呼ばれ、教会は『花嫁』、『妻』と呼ばれ、この結婚は善と真理との結婚に似ており、聖言を通して行われることは、前に見ることが出来よう(797番)。これらの事柄から『夫のために飾った花嫁のように備えをしたエルサレム』により聖言を通して主と連結したかの教会が意味されていることが明らかとなるであろう。
天界の秘義40
しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―
主なるエホバは私に言われた、東の境に流れ、海へ導かれて海に向って流れて来るこの水、その水は癒えるであろう。川の水が流れる所は何処でも、這い出る生きものは凡て生きるようになるであろう。その水はそこに流れるため、おびただしい魚があるであろう。彼らは癒えるであろう。川の流れる所には凡てのものが生きるであろう。漁師はエンゲディからエンエグライムまでその上に立ち、網を拡げるであろう、その魚はその種類に従って、大きな海の魚のように、甚だ多くなるであろう(エゼキエル47・8−10)。
『網を拡げて』、『エンゲディからエンエグライムに至る漁師』は自然的な人に信仰の諸真理を教える者たちを意味している。
天界の秘義2830[5]
『新しい神殿』と『新しいエルサレム』により特に主の霊的王国が意味されているが、しかし『シオン』により天的王国が意味されているのである。
天界と地獄187
このことにより主が御自身をエルサレムの神殿と呼ばれた理由が明らかにされたのである(ヨハネ2・19、21)(*3)、即ち、それは神殿は主の神的な人間的なものを表象したためであった。また新しいエルサレムが純金から成り、その門が真珠から成り、その基礎が宝石から成っているのが見られた理由も明らかにされたのである(黙示録21)―それは新しいエルサレムは今後建設されねばならない教会を、十二の門は善に導く諸真理を、基礎はその教会設立の基となる諸真理を意味しているからである。(*4)
*3 神の家はその最高の意味では主の神的な人間的なものの神的善を意味しているが、神殿はその神的真理を意味し、それに関連した意義では教会の善と真理とを意味している、3720。
*4 エルサレムは純粋な教義を持った教会を意味している、402、3654、9166。門は教会の教義へ入れることと教義を通して教会へ入れられることを意味している、2943、4777。基礎は、天界、教会、教義の基礎となる真理を意味している、9643。
42.デボラ
世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P132
イエズス:「書きなさい、わが娘よ。『私はいつもあなたたちの近くにいたというのに、なぜ地上の荒廃に身を任さたのか? 勇者のように雄々しく行動し、新しいエルサレムのために戦いなさい! 天におられる私の父はあなたたちを尊び、私の聖心と、私の母の汚れなきみ心の勝利の戦いのために、あなたたちの用意が整っていることを欲しておられる。』」