神殿
1.神殿
2.天幕
3.新しい神殿・・・再生した人間
4.木でできた神殿
1.神殿
コリント1・3・16−17
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P342
ヘブライ人はペルシャ王キロから国へ帰されたとき、五十年前破壊されたソロモンの神殿を建て直しました。まず、土台の上に祭壇が建てられ、毎日晩と朝のはん祭、また毎月第一日と主に聖別されている祝日、それにまた個人の供え物のはん祭がその上で燃やされました。それから崇敬に必要な初穂を捧げ、帰ってから第二年目に神殿の外側の建築に手を着けました。
それは永遠なる御者を崇敬するためで悪くはないが、不可欠のものではありません。なぜなら神への崇敬は神に対する愛です。愛は切り石、貴重な木材、黄金、香料などをもってではなく、心に感じられ、その中で育成されるものだからです。石や黄金や木材などの豪華さは、主を崇敬するよりも国家あるいは国民を、自己満足に駆り立てる以外の何物でもありません。
神は心の神殿を望まれています。神はただの大理石でできた神殿で満足なさいません。清い愛に溢れる心こそが神が愛される唯一の神殿で、そこをすべての光をもって自らの住居とされます。だからこそ祈りの場所の美を競って、地方と中心地とを分裂させる争いは愚かなことです。神に請い願う場所の富や飾りを争うことは、何の役にも立ちません。
ソロモンの神殿は、宮殿よりも十倍美しいものであったとしても、限りのない御者に満足を与えることはできませんでした。空間はもとより、物質的な、どんな栄華にも納まりきれない無限の神にとって、ふさわしく尊敬を表わせる唯一の場所は、人間の心です。
正しい人の心は一つの神殿であって、愛の香りの中に神の霊が漂います。そして近いうちに、天にあると同じく三位一体の霊が実際に住まれる、愛に満ちた神殿ができるでしょう。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P345
今や新しい時代です。この時代には、すべてが建て直されます。しかし、ここに入らず、新しい信仰の神殿を建てる者の邪魔をする人々はどうなるでしょうか。その神殿の親石こそ私です。この神殿に、私は自分自身を与えます。その建物は聖なるものとして強く、代々にわたって全地を自分の光で覆います。私は影ではなく“光”と言いました。なぜなら私の神殿は光を通さぬ物質ではなく、霊魂によってできているからです。
永遠の霊をもって、私のことばと新しい信仰に従う人々は、皆その神殿の石となります。燃える石、聖なる石となります。新しい神殿の光は全地を知恵と聖徳で覆うでしょう。過去の時代を泣き惜しむ者は、皆、外に残されるでしょう。その過去が彼らにとって利益と栄華の源であったにしても。(中略)
上京の歌を聞きなさい。何世紀も前から、あなたたちは高い町へ、真のエルサレムへ、天のエルサレムへ向かって歩く旅人です。
2.天幕
天界の秘義414
シオンの娘の天幕に主はその憤りを火のように注がれた(哀歌24)。
これは信仰の天的な、または聖いものの荒廃を語っている。
[3]天幕という言葉が愛の天的な聖いものを表象するために聖言に用いられている理由は古代かれらはその天幕の中でその礼拝の聖い儀式を行ったということである。しかしかれらが汚れた種類の礼拝により天幕を汚し始めた時、幕屋が建てられ、その後神殿が建てられたのであり、それゆえ天幕は先ず幕屋により、その後神殿により後に意味されたものを凡て表象したのである。同じ理由から聖い人間は『天幕』『幕屋』『主の神殿』と呼ばれている。『天幕』『幕屋』『神殿』は同じ意義をもっていることはダビデの書に明らかである―
わたしは一つのことをエホバに求めました、わたしはそれを求めましょう、わたしはわたしの生命の日すべてエホバの家の中に止まって、エホバの美わしさをながめ、その神殿を時早く訪れることを求めましょう、エホバは悪い日にはわたしをその幕屋の中に隠し、その天幕の秘かな辺りにわたしをかくし、わたしを岩の上に置かれるからである。今わたしの頭はわたしをとりまいているわたしの敵にむかって高く挙げられるであろう、わたしはエホバの天幕の中に大声で叫ぶ生けにえを捧げましょう(詩篇27・4,5,6)。
[4] 最高の意義では、主の人間的な本質が『天幕』『幕屋』『神殿』であって、そこから天的な人間はことごとくそのように呼ばれており、天的な聖いものもまたそのように呼ばれたのである。さて、最古代教会はそれ以後の諸教会よりも主から愛されたため、そしてかの時代の人々は独りで、すなわち、かれら自身の氏族とともに生活し、その天幕の中で極めて聖い礼拝を捧げていたため、天幕は冒涜された神殿よりも聖いものと考えられたのである。これを記念して幕屋の祭が定められて、そのときかれらは地の産物をとり集め、またその間は、最古代の人々のように、天幕に住んだのである(レビ記23・39−44、申命記16・13、ホゼヤ書12・9)。
天界の秘義1102
「かれはセムの天幕の中に住むであろう」(創世記9・27)。
これは、礼拝の内なるものが外なるものの中に存在するように、を意味することは前に『セム』について述べられた凡てのことから明白であり、すなわち、『セム』は内なる教会、又は内なる礼拝であり、外なる礼拝は、それを生かし、潔める内なる礼拝がない限り、生命のないもの、または不潔なもの以外の何物でもないことから明白である。『天幕』は愛の聖いものとそこから生まれてくる礼拝以外の何ごとも意味していないことは『天幕』の意義から明白である(そのことについては、前の414番を参照)。
古代人の間では『天幕の中で旅をすること』と『天幕の中に住むこと』を話すことが慣とされ、そのことにより、その内意では聖い礼拝が意味されたのであるが、それは最古代人は天幕を携えて旅をしたのみでなく、またその中に住み、その中で聖い礼拝を捧げたという理由によっていたのである。ここからまた『旅をする』ことと『住む』とは内意では生きることを意味したのである。
[2]『天幕』が聖い礼拝を意味していることを確認するためには―前に引用した記事に加えて(414番)―以下の記事が役立つであろう。ダビデの諸には―
神はシロアの幕屋を、天幕を―その中で神は人間の中に住まわれたが―見棄てられた(詩篇78・60)。
ここでは『天幕』は『神殿』が意味していることと同じことを意味しており、神は愛の中に人間のもとに住まわれるときその神殿の中に住まわれると言われているのである。ここから聖い礼拝の中に生きた人間は古代人により『天幕』と呼ばれ、後には『神殿』と呼ばれたのである。イザヤ書には―
あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。
これは真の礼拝に属した事柄を明るくされることを意味している。エレミヤ記には―
全地は荒らされ、たちまちわたしの天幕は荒らされ、わたしの帳はまたたくまに荒らされてしまった(4・20)。
ここには天幕が意味されていないで、聖い礼拝が意味されていることが極めて明らかである。ゼカリヤ書には―
エルサレムは尚再びそのもの自身の場所に、エルサレムの中にさえ住むであろう、エホバも亦ユダの天幕を救われるであろう(12・6,7)。
ここでは『ユダの天幕』は愛の聖いものから主を拝することを表象している。
天界の秘義3417
「ゲラルの谷間に天幕をはり、そこに住んだ」(創世記26・17)
主が低い合理的なものへおもむかれたことを、すなわち、内的な外観から外的な外観へおもむかれたことを意味。
真理が、生命の中には余りいないで信仰の教義的なものの中にいる者らに把握されるように、またそうした者の資質に適応されるように主がその真理を処理されたことが意味されている。
「天幕をはる」秩序づける
「ゲラルの谷間」低い合理的なもの、また真理の外観
なぜなら「谷間」は低いものを意味し、またはそれと同一のものであるところの、外的なものを意味しており(1723)、「ゲラル」は信仰にぞくしている事柄を意味し、かくて真理にぞくしているものを意味しているからである。(1209,2504,3365,3384、3385)
3.新しい神殿・・・再生した人間
天界の秘義40
しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―
第二の聖霊降臨とは
(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)
一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。
もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。
さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか?まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。
そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。どういう意味かをひと言で説明しましょう。主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」
そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。
そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。
第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう?そこには違いがあるのです。
第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。
こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。
4.木でできた神殿
黙示録講解831[2]
そして天的な天使たちは聞くことにより知恵において完成されるため、天的霊的天使と呼ばれる中間的な天使がおり、かれらは、神の家と呼ばれて、木材で作られているかれらの神殿の中で真理を説き、教えている。