神殿
1.霊魂
2.天幕
3.新しい神殿・・・再生した人間
4.木でできた神殿
5.ルイザ・ピッカレータ
6.真理にぞくしている霊的なもの
7.主の神的な人間的なもの
8.聖母
9.神殿は、その視線をもって神への思いを呼び起こさせるもの
1.神殿
コリント1・3・16−17
あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。神の神殿を壊す者がいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです。
コリント2・6・16
神の神殿と偶像にどんな一致がありますか。わたしたちは生ける神の神殿なのです。
エフェソ2・21-22
キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
真の基督教374
第二の説明として、神殿を考えられよ。何故なら、パウロによると人間は神の宮であるからである(コリント前3・16、17。コリント後6・16.エフェソ2・21、22)。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P342
ヘブライ人はペルシャ王キロから国へ帰されたとき、五十年前破壊されたソロモンの神殿を建て直しました。まず、土台の上に祭壇が建てられ、毎日晩と朝のはん祭、また毎月第一日と主に聖別されている祝日、それにまた個人の供え物のはん祭がその上で燃やされました。それから崇敬に必要な初穂を捧げ、帰ってから第二年目に神殿の外側の建築に手を着けました。
それは永遠なる御者を崇敬するためで悪くはないが、不可欠のものではありません。なぜなら神への崇敬は神に対する愛です。愛は切り石、貴重な木材、黄金、香料などをもってではなく、心に感じられ、その中で育成されるものだからです。石や黄金や木材などの豪華さは、主を崇敬するよりも国家あるいは国民を、自己満足に駆り立てる以外の何物でもありません。
神は心の神殿を望まれています。神はただの大理石でできた神殿で満足なさいません。清い愛に溢れる心こそが神が愛される唯一の神殿で、そこをすべての光をもって自らの住居とされます。だからこそ祈りの場所の美を競って、地方と中心地とを分裂させる争いは愚かなことです。神に請い願う場所の富や飾りを争うことは、何の役にも立ちません。
ソロモンの神殿は、宮殿よりも十倍美しいものであったとしても、限りのない御者に満足を与えることはできませんでした。空間はもとより、物質的な、どんな栄華にも納まりきれない無限の神にとって、ふさわしく尊敬を表わせる唯一の場所は、人間の心です。
正しい人の心は一つの神殿であって、愛の香りの中に神の霊が漂います。そして近いうちに、天にあると同じく三位一体の霊が実際に住まれる、愛に満ちた神殿ができるでしょう。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P345
今や新しい時代です。この時代には、すべてが建て直されます。しかし、ここに入らず、新しい信仰の神殿を建てる者の邪魔をする人々はどうなるでしょうか。その神殿の親石こそ私です。この神殿に、私は自分自身を与えます。その建物は聖なるものとして強く、代々にわたって全地を自分の光で覆います。私は影ではなく“光”と言いました。なぜなら私の神殿は光を通さぬ物質ではなく、霊魂によってできているからです。
永遠の霊をもって、私のことばと新しい信仰に従う人々は、皆その神殿の石となります。燃える石、聖なる石となります。新しい神殿の光は全地を知恵と聖徳で覆うでしょう。過去の時代を泣き惜しむ者は、皆、外に残されるでしょう。その過去が彼らにとって利益と栄華の源であったにしても。(中略)
上京の歌を聞きなさい。何世紀も前から、あなたたちは高い町へ、真のエルサレムへ、天のエルサレムへ向かって歩く旅人です。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P139
‘00・12・31
神の神殿(*1)よ、その塀を調べて来たが 我が言葉を軽んじる傾向があるゆえ 私は満足ではない・・・・私の天使を送って我が神殿を調べさせ まわりを巡らせた。 我が宮殿を調査させに送った天使は 目にしたものに唖然とした・・・塀は光沢を失い、王の住まいにふさわしい、象牙の宮殿の塀は 今や崩壊し廃墟と化した、その清らかな流れであなたを潤し、我が住まいを聖化させる聖霊を もはや呼び求めないゆえに。
塀の中で、あなた方を宝(*2)で満たし 不思議を行い 私自身の十全さを その中にうち建てることが我が意図。 我が慈悲深い意図とは 心を込めて私自身をあなたのうちに注ぎ込み あなたを神にするというもの。 私の意図が分かるか? 我が教会だけではなく、被造界全体にとっての至高の神である私は 私自身をあなた方に与えたいと恋い焦がれる。 私がいのち与えつつ あなたのうちを通るときは 必ず気づかれよう。実に哀れな塀のうちに いのち与える泉が湧き出でる! そしていのちが再び甦るとき、あなたは歌と歓びをもって こう叫ぼう:
「その大いなる荘厳が被造界全体に及ぶ この上なく慈悲深い愛すべき神は 私を復活の光で満たして下さいました! その聖なるみ名は 称えられますように! 三位一体のわが神が 私のうちに光注がれたのです。 全被造界の花婿が私のうちに踏み入られ ご自分の口から直接流れ出る神秘の知識で私を包み、霊魂を英知の光とその教えで満たされました。 ご自分の民のうちに 罪の赦しを通して救いの力を呼び覚まそうと 厳かな栄光のうちに来られたのです。 ひとえに主のみ心の 限りない慈悲ゆえに ♡」
ああ その通り! 私のやり方は一切が恵みであり 真理である・・・そして私の口からは 真理が宣べ伝えられる。 我が言葉には混乱も、偽りもなく、荘厳と力と、同時に高貴さを帯びている。
目を覚ましなさい、神殿(*3)よ! どうしてまどろむのか? 目の前には、神が荘厳と光のうちにいて、あなたを招いている! 私は至高者として統治し 我が数え切れない宝を差し出そうと あなたの前にいる。その宝はあなたのもの。
* 1ここではご自分の民に 主は話しかけられておられます。比喩的な話し方をされて・・・
* 2この言葉は「美徳」を意味すると知っていました。
* 3比喩的に「霊魂」を指します。
2.天幕
天界の秘義414
シオンの娘の天幕に主はその憤りを火のように注がれた(哀歌24)。
これは信仰の天的な、または聖いものの荒廃を語っている。
[3]天幕という言葉が愛の天的な聖いものを表象するために聖言に用いられている理由は古代かれらはその天幕の中でその礼拝の聖い儀式を行ったということである。しかしかれらが汚れた種類の礼拝により天幕を汚し始めた時、幕屋が建てられ、その後神殿が建てられたのであり、それゆえ天幕は先ず幕屋により、その後神殿により後に意味されたものを凡て表象したのである。同じ理由から聖い人間は『天幕』『幕屋』『主の神殿』と呼ばれている。『天幕』『幕屋』『神殿』は同じ意義をもっていることはダビデの書に明らかである―
わたしは一つのことをエホバに求めました、わたしはそれを求めましょう、わたしはわたしの生命の日すべてエホバの家の中に止まって、エホバの美わしさをながめ、その神殿を時早く訪れることを求めましょう、エホバは悪い日にはわたしをその幕屋の中に隠し、その天幕の秘かな辺りにわたしをかくし、わたしを岩の上に置かれるからである。今わたしの頭はわたしをとりまいているわたしの敵にむかって高く挙げられるであろう、わたしはエホバの天幕の中に大声で叫ぶ生けにえを捧げましょう(詩篇27・4,5,6)。
[4] 最高の意義では、主の人間的な本質が『天幕』『幕屋』『神殿』であって、そこから天的な人間はことごとくそのように呼ばれており、天的な聖いものもまたそのように呼ばれたのである。さて、最古代教会はそれ以後の諸教会よりも主から愛されたため、そしてかの時代の人々は独りで、すなわち、かれら自身の氏族とともに生活し、その天幕の中で極めて聖い礼拝を捧げていたため、天幕は冒涜された神殿よりも聖いものと考えられたのである。これを記念して幕屋の祭が定められて、そのときかれらは地の産物をとり集め、またその間は、最古代の人々のように、天幕に住んだのである(レビ記23・39−44、申命記16・13、ホゼヤ書12・9)。
天界の秘義1102
「かれはセムの天幕の中に住むであろう」(創世記9・27)。
これは、礼拝の内なるものが外なるものの中に存在するように、を意味することは前に『セム』について述べられた凡てのことから明白であり、すなわち、『セム』は内なる教会、又は内なる礼拝であり、外なる礼拝は、それを生かし、潔める内なる礼拝がない限り、生命のないもの、または不潔なもの以外の何物でもないことから明白である。『天幕』は愛の聖いものとそこから生まれてくる礼拝以外の何ごとも意味していないことは『天幕』の意義から明白である(そのことについては、前の414番を参照)。
古代人の間では『天幕の中で旅をすること』と『天幕の中に住むこと』を話すことが慣とされ、そのことにより、その内意では聖い礼拝が意味されたのであるが、それは最古代人は天幕を携えて旅をしたのみでなく、またその中に住み、その中で聖い礼拝を捧げたという理由によっていたのである。ここからまた『旅をする』ことと『住む』とは内意では生きることを意味したのである。
[2]『天幕』が聖い礼拝を意味していることを確認するためには―前に引用した記事に加えて(414番)―以下の記事が役立つであろう。ダビデの諸には―
神はシロアの幕屋を、天幕を―その中で神は人間の中に住まわれたが―見棄てられた(詩篇78・60)。
ここでは『天幕』は『神殿』が意味していることと同じことを意味しており、神は愛の中に人間のもとに住まわれるときその神殿の中に住まわれると言われているのである。ここから聖い礼拝の中に生きた人間は古代人により『天幕』と呼ばれ、後には『神殿』と呼ばれたのである。イザヤ書には―
あなたの天幕の場所を大きくせよ、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ(54・2)。
これは真の礼拝に属した事柄を明るくされることを意味している。エレミヤ記には―
全地は荒らされ、たちまちわたしの天幕は荒らされ、わたしの帳はまたたくまに荒らされてしまった(4・20)。
ここには天幕が意味されていないで、聖い礼拝が意味されていることが極めて明らかである。ゼカリヤ書には―
エルサレムは尚再びそのもの自身の場所に、エルサレムの中にさえ住むであろう、エホバも亦ユダの天幕を救われるであろう(12・6,7)。
ここでは『ユダの天幕』は愛の聖いものから主を拝することを表象している。
天界の秘義3417
「ゲラルの谷間に天幕をはり、そこに住んだ」(創世記26・17)
主が低い合理的なものへおもむかれたことを、すなわち、内的な外観から外的な外観へおもむかれたことを意味。
真理が、生命の中には余りいないで信仰の教義的なものの中にいる者らに把握されるように、またそうした者の資質に適応されるように主がその真理を処理されたことが意味されている。
「天幕をはる」秩序づける
「ゲラルの谷間」低い合理的なもの、また真理の外観
なぜなら「谷間」は低いものを意味し、またはそれと同一のものであるところの、外的なものを意味しており(1723)、「ゲラル」は信仰にぞくしている事柄を意味し、かくて真理にぞくしているものを意味しているからである。(1209,2504,3365,3384、3385)
3.新しい神殿・・・再生した人間
天界の秘義40
しかしそれはエゼキエル書(47・8〜10)からはさらに明らかであって、そこに主は新しい神殿を、または全般的に新しい教会を述べられ、また教会の人間を、または再生した人物を述べられている、なぜなら再生した人間は各々主の神殿であるからである―
第二の聖霊降臨とは
(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)
一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。
もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。
さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか?まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。
そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。どういう意味かをひと言で説明しましょう。主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」
そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。
そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。
第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう?そこには違いがあるのです。
第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。
こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。
4.木でできた神殿
黙示録講解831[2]
そして天的な天使たちは聞くことにより知恵において完成されるため、天的霊的天使と呼ばれる中間的な天使がおり、彼らは、神の家と呼ばれて、木材で作られている彼らの神殿の中で真理を説き、教えている。
5.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P98
人びとの不純さについてのイエズスの嘆き。
1899年8月1日
イエズスは今朝、私を私自身の外に連れ出し、人類の腐敗の様を見せた。それは考えても恐ろしい。私が腐敗した人びとの真中にいると、イエズスは泣きながら言った。
「ああ、人よ、お前はなんと醜く変貌し、卑賤な者となったことでしょう。ああ、人間よ、お前を私の生きた神殿にしようと思ってお前を創造したのに、お前は悪魔の住み家となってしまった。見なさい、植物さえも葉っぱや花、果実などをつけて、お前が身につけるはずの正直、慎みなどについて教えている。お前は、すべての慎みと、自然への服従心を失ってしまい、動物以下に成り下がってしまったので、何に比較したらよいか分からないほどだ。お前は私の似姿であったのに、今ではその片鱗もない。お前は不純で、見るも恐ろしい姿で、見るだけでも吐き気をもよおす。お前を見ていると、逃げ出したくなる。」
こんなに嘆くイエズスを見て、私の心は張り裂けそう。そこで私は主に言った。
「主よ、その通りです。自然の掟すら守ることができないほど盲目となってしまったのです。人間の中には、もう何も善と言えるものがない。こんな人間には罰を送るほかないでしょう。どうかお願い。どうか憐れみを下さい。そうすれば元にもどるでしょう。」
このように話すと、イエズスは語った。
「娘よ、どうか私の苦悩を静めて。」
こう言うと、その頭に食い込んでいた茨の冠を取り外して、私の頭につけた。ひどい痛み。でもイエズスがほっとしたので、私も安心した。そのあとでイエズスは言った。
「娘よ、私は清い人をとても愛している。不純な人は遠ざけるけれど、清い人には、ちょうど磁石で吸い寄せられるように引きつけられる。清い霊魂には、彼らが私自身の舌で話せるように、喜んで私の口を貸そう。そうすれば、改心するのに苦労はないでしょう。このような霊魂のうちで、私は受難ばかりか、贖罪のわざも続けられるので嬉しい。でも一番大切なのは、彼らのうちで私自身の徳が誉められる喜びです。」
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P133
「なんとお前は美しいのだろう! お前は私の鳩、私が愛する住まい、父と聖霊と共に結ばれて、私が無上の喜びを感じる生きた神殿。お前が絶え間なく私に焦がれるその心は私を元気づけ、人間が絶えず私に与える侮辱から私を慰めてくれます。お前の気が狂わないように、お前にたいして抱いている大きな愛を一部隠さなくてははならないほどです。もしそれを見せたら、気が違うだけではなく、もはや生き続けることもできなくなってしまうでしょう。あなたの弱さは、私の愛の炎によって燃え尽きてしまうに違いないから。」
6.真理に属している霊的なもの
天界の秘義3720
『神の家』が善に属している天的なものを意味し、『神殿』が真理に属している霊的なものを意味している理由は、聖言では『家』は善を意味しており(710、2233、2234、2559、3128、3652番)、また『木』は善を意味しているという理由から(643、1110、2784、2812番)、最古代の人々の間では家は木で作られたということであるが、それに反し神殿は石で作られたため、神殿は真理を意味しており、石が真理を意味していることは前に見ることができよう(643、1296、1298番)。
7.主の神的な人間的なもの
啓示による黙示録解説191
『エホバ』の、または主の『聖い神殿』は主の神的な人間的なものである、なぜならそれに身をかがめ、それを仰ぎ見、それに祈るからであって、単に神殿に向ってそうしたことは為されはしないからである。神殿はそれ自身では聖くはないのである。それが『聖い神殿』と呼ばれているのは、聖いは神的真理について述べられるからである(173番)。金を聖める神殿は(マタイ23・16、17)、主の神的な人間的なもの以外のものを意味しない。
啓示による黙示録解説191
弟子たちはイエスのもとへ来て、イエスに神殿の建物を示した、イエスは彼らに言われた、まことにわたしはあなたたちに言う、一つの石も、投げ棄てられないで、石の上に残されはしないであろう(マタイ24・1、2、マルコ13・1−5、ルカ21・5−7)。
ここの『神殿』により現今の教会が意味され、それが『一つの石も他の石の上にない』ほどに解体することにより、この教会の終りにはいかような真理も残されなくなる、そうした教会の終りが意味されている。なぜなら弟子たちがその神殿について主に話したとき、主はこの教会の状態が継続的に変化して、その終りにさえも、または『代の終り』にさえも至ることを予言されたからであり、『代の終り』により、現今現れているところの教会の最後の時が意味している。このことはその神殿がその土台までも破壊されたことにより表象されたのである。
天界と地獄187
このことにより主が御自身をエルサレムの神殿と呼ばれた理由が明らかにされたのである(ヨハネ2・19、21)(*3)、即ち、それは神殿は主の神的な人間的なものを表象したためであった。また新しいエルサレムが純金から成り、その門が真珠から成り、その基礎が宝石から成っているのが見られた理由も明らかにされたのである(黙示録21)―それは新しいエルサレムは今後建設されねばならない教会を、十二の門は善に導く諸真理を、基礎はその教会設立の基となる諸真理を意味しているからである。(*4)
*3 神の家はその最高の意味では主の神的な人間的なものの神的善を意味しているが、神殿はその神的真理を意味し、それに関連した意義では教会の善と真理とを意味している、3720。
*4 エルサレムは純粋な教義を持った教会を意味している、402、3654、9166。門は教会の教義へ入れることと教義を通して教会へ入れられることを意味している、2943、4777。基礎は、天界、教会、教義の基礎となる真理を意味している、9643。
天使館/マリア・ワルトルタ/私に啓示された福音/24・4/1巻P194
「ザカリアが入って来て扉を閉める。目を潤ませてマリアを見つめる。話しかけようとする。そして止めてしまう。前に進む。マリアの前に跪く。『主の哀れなしもべを祝福してください』とマリアに言う。
『そのしもべを祝福してください。主を胎内に宿しているあなたこそそれができるのですから。神の言葉は、わたしが自分の誤りを認め、言われたことをすべて信じたとき、わたしに臨みました。わたしはあなたとあなたの幸運を見ています。わたしはあなたの内におられるヤコブの神を礼拝します。あなたは、永遠なる御者に再帰した祭司が新たに祈ることが出来る最初の神殿です。世のために恩寵を得、世に救い主をもたらすあなたは祝福された方だ。初めにあなたの尊厳を見通せなかったわたしを赦してください。
あなたがこの訪問によってわたしたちに運んできてくださったすべての恩寵によって、おお恩寵満ち満てるお方よ。あなたの行くところで、神は不思議を行い、あなたの入る四壁は聖別され、あなたの声を聞き分ける耳、あなたが触れる体は聖別されます。いと高き御者の母、神の民に救い主を与えるために預言され、待望された処女、あなたは恩寵を与えるがゆえに、人びとの心を聖とするのです。』」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/8巻P160
(96.3.20−26におよぶメッセージ)
96.3.25
ああ 被造物よ! 私の魂は これほど多くのあなた方が聖母のみ心を拒むがゆえ 深い悲嘆にくれている! そして私があこの人びとを、有罪と定める日を思って 我が天使たちは打ち震える! だが聖母を尊び愛した者たちには、天国に踏み込めるよう み心の門が開かれている。そして彼女を愛し尊ぶ者たちにはこのように言う:「来なさい! 地上で大きな愛を母に捧げたがゆえ 今日は自分たちの部屋に入ってきなさい そして我が聖なる神殿に 挨拶するのを許そう。」被造物よ、天に現されたこの大きな印、悪魔たちを恐れで無力にする太陽をまとった女性、天を光で満たし 暗やみを恐怖させている この大いなる印とは ほかでもなく私の母。暗やみと対比するよう 私はこの至聖なる乙女を立ち上げた あなた方皆の燃えさかる火の柱となって 夜闇の足取りを導き、昼は皆の太陽としてその恐ろしい暗がりの心を 照らしていただくように。
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/3卷上P114/169・7
なぜなら神殿は、その視線をもって神への思いを呼び起こさせるものであることが必要だからです。