異邦人の教会

 

キリスト教徒以外でも救われる霊的教会

異邦人の方が基督教徒より救われる唯一の神

隅の親石(マタイ21、マルコ12、ルカ20)

そして人々は、東から西から、また南から北から来て(ルカ13・29)

いつでも どの教会であっても私のもとに来ることができる

わたしに尋ねようとしない者にも わたしは、尋ね出される者となり(イザヤ65・1)

異邦人も暗黙のうちに主を崇拝している

ぶどう園の労働者のえ(マタイ20章)

 

 

 

 

 

1.聖書より

2.異邦人の教会

3.キリスト教徒以外でも救われる

4.偶像崇拝者の無垢

5.多神教

6.偶像崇拝

7.目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き

8.家を建てる者の捨てた石

9.彼らは知らずに主を礼拝している

10.マリア・ワルトルタより

11.異教徒は日々の生活で基督教徒よりも多く神を考えている

12.彼らが主を知らないのは彼らの過誤によるのではない

13.宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられる

14.基督教徒よりも異邦人が多く救われる理由

15.彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される

16.基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それで彼らは異邦人以外の者としては呼ばれることは出来ない

17.教会の外に生れた国民と民との他生における状態と運命について

18.基督教徒らの観念を一人の神に、すなわち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである

19.ミカエル

20.ヴァッスーラ

21.理知的である異教徒もそれ(神的人間性)以外の方法では考えることは出来ない

22.アブラム、ナホル、ハランの父であったテラ

23.未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

マタイ7・21−23

「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」

 

 

マタイ8・11−12

 

「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう。」

 

 

 

マタイ12・18−21

 

「見よ、わたしの選んだ僕。

わたしの心に適った愛する者。

この僕にわたしの霊を授ける。

彼は異邦人に正義を知らせる。
彼は争わず、叫ばず、

その声を聞く者は大通りにはいない。
正義を勝利に導くまで、

彼は傷ついた葦を折らず、

くすぶる灯心を消さない。
異邦人は彼の名に望みをかける。」

 

 

 

マタイ20・13−16

 

主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。

 

 

 

マタイ21・42−44

 

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

 

 

ルカ7・22−23

 

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。

 

 

 

ルカ13・29−30

 

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」

 

 

 

黙示録19.17,18

 

わたしはまた、ひとりの天使が太陽の中に立っているのを見た。この天使は、大声で叫び、空高く飛んでいるすべての鳥にこう言った。「さあ、神の大宴会に集まれ。王の肉、千人隊長の肉、権力者の肉を食べよ。また、馬とそれに乗る者の肉、あらゆる自由な身分の者、奴隷、小さな者や大きな者たちの肉を食べよ。」

 

 

 

イザヤ56・6、7

 

また、主のもとに集って来た異邦人が

主に仕え、主の名を愛し、その僕となり

安息日を守り、それを汚すことなく

わたしの契約を固く守るなら

わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き

わたしの祈りの家の喜びの祝いに

連なることを許す。

彼らが焼き尽くす献げ物といけにえをささげるならば

わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。

わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。

 

 

 

使徒言行録13・46,47

 

「神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く。主はわたしたちにこう命じられておられるからです。

『わたしは、あなたを異邦人の光と定めた、あなたが、地の果てまでも救いをもたらすために。』」

 

 

 

使徒言行録28・28

 

この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。

 

 

 

ローマ1・5

 

わたしたちはこの方により、その御名を広めてすべての異邦人を信仰による従順へと導くために、恵みを受けて使徒とされました。

 

 

 

マタイ28・7−10

 

それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

 

 

 

 

2.異邦人の教会

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡74

 

私は今後の教会の状態について天使たちと色々語り合った。彼らは以下のように語った。私たちは将来の事は知らない。なぜなら将来の事は主のみが知っておられるからである。しかし私たちは、以前教会人の陥っていた奴隷と捕囚の状態は取り去られ、今や教会人は自由を回復し、そこから内的な真理をもし認めようと欲するなら、さらに良くこれを認めることが出来、かくてもし欲するなら、さらに内的なものとされることが出来ることを知っている。しかし私たちは依然基督教会の人たちには希望は僅かしか持っていない。が、基督教世界から遠く離れ、そのため、「霊界の」悩ます者らから遠ざかっている或る国民には多くの希望を持っている。その国民は霊的な光を受けて、天的な、霊的な人間になされることの出来る国民である。また彼らは言った。現在内的な神的真理がその国民の中に啓示され、また霊的な信仰をもって、即ち、生命と心の中に受け入れられ、彼らは主を崇拝している、と。

 

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることができよう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれとねがった異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入ってくる者に教えることにまさって歓ばしい、また祝福されたものは一つとしてないからである。

 

 

 

天界の秘義2910

 

「そしてアブラハムは来て、サラのために嘆き、彼女のために泣いた」。これは主が教会内の信仰の諸真理の方面の夜のために悲しまれた状態を意味していることは、アブラハムの表象が主であることから明白である(1893、1965、1989、2011、2172、2501、2833、2836番を参照)。『嘆くこと』と『泣くこと』が悲哀の状態を意味していることは解説の要もなく明白であり、『嘆くこと』は教会における善の方面の夜のために悲しむことに関わっており、『泣くこと』は真理の方面の夜のために悲しむことに関わっている。この二つの節は教会の終りを取扱っており、その終りはもはやいかような仁慈も存在しない時である。この状態は聖言の多くの所に、特に予言者の書に、ヨハネ伝に、ヨハネ黙示録に取り扱われており、主もまたこの終りを福音書の中で多くのものにより示されていて、それを『代の終結[終り]』または『夜』と呼ばれているのである。

 

 

天界の秘義2910[2]

 

 なぜなら諸教会の実情は以下のようになっているからである、即ち、初めは仁慈が彼らのもとで根元的なものとなっていて、たれでもその時は自分自身のためではなくて、隣人、共同体、主の王国、特に主のために、他の者を兄弟として愛し、善から感動するのである。しかし時がたつに連れ、仁慈は冷ややかになり、皆無にさえもなり始めるのである。その後互いに他を憎悪する心が生まれてきて、それは、市民社会では人間は法律の下に在り、外面的な抑制の束縛の下におかれているため、外面的には現れはしないものの、それでも内的には培われているのである。これらの外的な抑制の束縛は自己を、また世を求める愛から発しており、それらは名誉と卓越を求める愛であり、そこからまた権力を求める愛であり、かくて名声を求める愛であり、利得を求める愛であり、そこからまた権力を求める愛であり、かくて名声を求める愛である。これらの愛の下には隣人に対する憎悪が隠れており、それは、人間が凡ゆる者を支配し、他人のものである物を所有しようと欲するといった性質を持っており、こうした欲望が反対されると、彼らはその心の中に隣人に対する軽蔑を抱き、復讐を息づき、その隣人の破滅を歓び、敢えて可能な限り残虐なことをやってのけさえもするのである。このようなものへと教会の仁慈はその終りには遂には衰退して行って、そのとき、それについては信仰は最早存在していないと言われるのである、なぜなら幾度も示したように仁慈のない所には信仰はないからである。

 

 

 

天界の秘義2910[3]

 

このような終りを持った幾多の教会が私たちに聖言から知られているのである。最古代教会は洪水の頃このようにして消滅したのであり、同じように洪水以後に存在した古代教会も消滅したのであり、またヘブル教会と呼ばれた第二古代教会も消滅したのであり、最後にユダヤ教会も消滅したのであるが、このユダヤ教会は決して仁慈から始まった教会ではなく、単に教会を表象するものに過ぎなかったのであり、それは主が世に来られるまで、表象的なものにより天界との交流が存続するためのものにすぎなかったのである。その後異邦人の教会と呼ばれる新しい教会が主により起されたが、それは内なる教会であったのである、なぜなら内的な諸真理が主により啓示されたからであるが、しかしこの教会も今や終りに達しているのである、なぜなら今や仁慈が存在しないのみでなく、仁慈に代って憎悪が在るからであり、その憎悪は、外面的には現れてはいないけれど、それでも内に潜んでいて、各々のもとに可能な時はいつでも、即ち、外面的な束縛によって抑制されないときはいつでも、迸り出てくるほとばしり出てくるからである。

 

 

それは何ごとも知らなかった国民から起こされるのである。

 

 

 

天界の秘義2910[]

 

 これらの教会の他にそれ程充分に記されてはいない極めて多くの教会が在ったのであり、それらも同じように衰退して、自らを滅してしまったのである。このような衰退と自己破壊には多くの原因が存在している。一つは両親たちが幾多の悪をつみ重ね、再三それをやってのけることにより、ついには習慣により、それらを自分の性質に植え付けてしまい、かくて遺伝によってそれらを子孫に書き写してしまうということである。なぜなら両親がひんぱんにやってのけることにより実際生活から獲得するものは彼らの性質に根を張って、遺伝により子孫に伝えられ、それでその子孫が改良されない限り、または再生しない限り、それは次々と代々の者に継続して、絶えず増大して行き、かくて意志は悪と誤謬にさらに傾き易くなって行くからである。しかし教会が終りに至って、死滅してしまうと、主は常にどこかに新しい教会を起されるが、しかしそれは前の教会の人々からは、たとえ起されるにしても、そうしたことはめったに起こらないのであって、それは何ごとも知らなかった国民から起こされるのである。これらの者については以下の記事に述べよう。

 

 

 

天界の秘義2986

 

教会が教会でなくなるとき、すなわち、仁慈が死滅して、新しい教会が主により再び建てられつつあるとき、それはその古い教会がそのもとに存在している者たちのもとには、たとえ行われるにしても、まれにしか行われないのであり、それは前に教会が存在しなかった者たちのもとに、すなわち、異邦人のもとに行われるのである。最古代教会が死滅したとき、そのように行われたのである、なぜならそのとき「ノア」と呼ばれた新しい教会が、すなわち、洪水後存在した古代教会が異邦人の間に、すなわち、前に教会が存在しなかった者たちの間に建てられたのである。この教会が死滅したときもまたそうであった。その時教会のようなものが[教会に類似したもの]がヤコブから発したアブラハムの子孫の間に設立され、かくて同じく異邦人の間に設立されたのである。なぜならアブラハムは呼ばれたときは異邦人であったのであり(1356,1992、2559)、エジプトのヤコブの子孫はそれにもまして異邦人となり、エホバについては絶対的に何一つ知ってはおらず、従って神礼拝の凡てについては何一つ知らない程にもなっていたからである。この教会が終結してしまった後で、ユダヤ人は斥けられて、原始教会が異邦人から起こされたのであり、基督教会と呼ばれるこの教会もまた同じようになるであろう。

 

 

 

天界の秘義2986

 

新しい教会が異邦人の間に主により設立されるであろう理由は、彼らは信仰の諸真理に反した誤謬の原理を何ら持っていないということである。なぜなら彼らはこれらの真理を知らないからである。幼い頃から沁み込んで、その後確認された誤謬の原理は、その人間が再生して、教会となることが出来る以前に払い落とされなくてはならないのである。事実異邦人は生命の悪により聖いものを冒涜することは出来ないのである。なぜなら聖いものの何であるかを知らない者はたれ一人聖いものを冒涜することは出来ないからである(593,1008,1010,1059)。異邦人たちは無知であり、躓かせるもの(または困難なもの)を持っていないため、彼らは真理を受けるには教会に属している者たちよりも更に良い状態に置かれており、彼らの中で生命の善の中に置かれている者たちはすべて容易に真理を受けるのである。(932,1032,1059,1327、1328、1366、2049、2051、)

 

 

 

天界の秘義2589〜2604

 

教会の外に生まれた国民と民との他生における状態と運命について

 

 

 

天界の秘義2589

 

教会の外に生まれて、異教徒、異邦人と呼ばれている者は、聖言を持っておらず、かくて主を知らないし、主がなくては救が無いため、彼らは救われることは出来ないと一般に考えられている。しかしこれらの者もまた救われることは、以下の考察から知ることができよう。すなわち、主の慈悲は普遍的なものであり、すなわち、各々の者に及んでおり、これらの者は、教会の中にはいるが、比較的少数である者たちと等しく人間として生まれていて、彼らが主を知らないのは彼らの過誤によるのではないということである。従って、他生における彼らの状態と運命は主の神的慈悲の下に私に示されたのである。

 

 

 

天界の秘義2590

 

 私は多くの方法で以下のことを教えられた、すなわち、異邦人でも道徳的な生活を送って従順であり、相互愛に生き、その宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられ、そこで天使たちから入念な配慮の下に信仰のいくたの善と真理とを教えられるのである。彼らは教えを受けている間、慎ましく、理知的に、賢明に振舞い、容易に教えを受け、またそれに滲み込むようになるのである。なぜなら彼らは、悪い生活を送った多くの基督教徒とは異なって、取り払ってしまわなくてはならない信仰の諸真理に反した原理を自ら形作ってはいないし、ましてや主に対し彼らを躓かせるものは何一つ形作ってはいないからである。さらにこのような者たちは他の者を憎まないし、危害を加えられても復讐もしないし、また術策や詐欺を企みもしない。いな、彼らは基督教徒に善意は抱いているが、これに反し基督教徒は彼らを軽蔑し、為し得る限り暴行を彼らに加えるが、しかし彼らは主により彼らの無慈悲から遠ざけられて、守られているのである。

 

 

 

天界の秘義2598

 

 異教徒はそれほどには感動を覚えない現今の基督教徒よりは容易に天界に入ることが認められることが出来た。

 

 

 

天界の秘義3812

 

 「かれはわたしをエホバの霊の中につれ出し、谷の真中におかれた。谷は骨に満ちていた。かれはわたしに言われた。これらの骨は生きるであろうか、と。かれはわたしに言われた。これらの骨に予言して、これに言いなさい。ああ、枯れた骨よ、エホバの御言葉を聞けよ。主エホビはこれらの骨に向かってこのように言われる。見よ、わたしはあなたたちが生きるために息をあなたたちの中へ入れよう。わたしはあなたたちの上に筋を作り、肉をあなたたちの上に生じさせ、あなたたちを皮膚で蔽い、またあなたたちが生きるために息をあなたたちの中へ入れよう。わたしは予言した。すると骨は集まって、骨に組み合わされた。わたしは見た。見よ、その上に筋ができ、肉が生じ、皮膚がその上を蔽うたが、その中に息がなかった。息がその中へ入った。するとそれらは生き返って、足で立った。」(エゼキエル37・1,3−8,10)

 

 ここに全般的にとり扱われている主題は異邦人の間に教会を再び起こすことであり、個別的には、人間の再生である。すなわち、「枯れた骨」は、主から善の生命を受けないうちは生きていないが、それを受けることにより生命を得、または生かされるところの理解の自分自身のものを意味しており、「主が骨の上に生じさせられる肉」は、天界的なまたは天的な自分自身のものと呼ばれているところの意志にの自分自身のものであり、かくてそれは善を意味しており、「息」は主の生命であって、その生命が、人間が自分自身のものから意志し、欲し、行っているように自分自身に思われているところのその人間のかの善の中へ流れ入ると、そのときは、その善は生かされ、その枯れた骨から人間が作られるのである。

 

 

 

天界の秘義4747[]

 

こうした理由から何か新しい教会が主により設立されつつある時は、それは教会の中にいる者らのもとで設立されはしないで、教会の外にいる者たち、すなわち、異邦人のもとで設立されるのである。(2589−2604)

 

 

 

天界の秘義9256〔2〕

 

更に教会の外にいて『異邦人』と呼ばれている者たちについては、彼らは実際教義の誤謬の中にはいるが、しかし聖言を持たないため、無知からその中にいるのであって、それでも教えられると、人間のもとにある天界の生活については、基督教徒よりもさらに明白に認識し、従ってさらに内的に認識しているのである。その理由は彼らは、非常に多くの基督教徒のように信仰の諸真理に反したことを確認していないということであり、それでその内なる人は閉じられていないで、小さな子供たちのように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。なぜなら悪い生活を行っている凡ての者のように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。なぜなら悪い生活を行っている凡ての者のように、信仰の諸真理と諸善とに反したことを確認した者らは、その者自身の中に内なる人の上部を閉じて、その下部を開くからである。その結果彼らの内なる人は下に在る事柄のみを眺め、即ち、外なる、または自然的な人のみを覗き込み、そのことを通して世の事柄のみを、自分の身体の周囲の、また地上の事柄のみを眺め、そのことが行われると、彼らは下方を眺めるのであり、彼ら方面を眺めることは地獄の方を眺めることである。

 

 

 

天界の秘義9256〔3〕

 

 こうした人物にあっては、その内なる人を閉じてしまったところの、真理を否定するか、または誤謬を主張するかする事柄が消散されない限り、内なる人は天界に向って開かれることは出来ないのであり、その真理を否定するか、誤謬を主張するかする事柄を消散してしまうことはこの世の中で行われなければならないのである。そのことは生命を完全に転倒しない限り、かくて数年を経なくては行われることは出来ないのである、なぜなら幾多の誤謬はそれら自身を配列して幾多の連続した組とし、相互の間に一つの連続した関連したものを築いて、自然的な心そのものを作り、また教会と天界に属した事柄に対するその自然的な心の観察の様式〔様態〕を作るからである。ここからこうした人物のもとでは信仰と仁慈に属した事柄は凡て、即ち、教会の教義、または聖言に属した事柄は凡て、全般的に言って、天界の、また神の事柄は凡て暗闇となっているに反し、他方、世と地の事柄は彼らには光となっているのである。ここからこうした人物における誤謬を破壊することはその人物の生命そのものを破壊することであり、もしその者らが何らかの新しい生命を持つとするなら、その幾多の誤謬は徐々に根こそぎにされ、それに代わって真理と善とが植え付けられねばならないのであり、その真理と善とが同じく互いに連続した関連を持ち、幾多の組に配列されるのである。このことが「生命の完全な転倒」により意味されており、そのことは数年を経過することによってのみ可能となるのである。それゆえ人間は一瞬で新しくされることが出来ると信じている者は非常な誤りを犯しているのである。

 

 

 

天界の秘義9209(4)

 

 あなたたちは行って、ヨハネにあなたたちの見聞きしたことを告げなさい。目しいは見、足なえは歩き、らい病人は清められ、耳しいは聞き、貧しい者には福音が説かれている、と。(ルカ7・20−22)

 

これらの言葉は外なる人のために話されたと同時に、内なる人のためにも話されたのであり、すなわち、外なる人のためにはこうした奇跡が行われていると話され、内なる人のためには、霊的な意義で目しいであり、足なえであり、らい病人であり、耳しいであり、貧しい者たちである者たちの間に、かくて善と真理には無知ではあるものの、それを渇望している異邦人の間に教会が建設されつつあると話されたのである。なぜなら真理には無知な者たちは「目しい」と呼ばれ(6990)、善の中にはいるが、真理を知らないため、純粋な善の中にはいない者たちは「足なえ」と呼ばれ(4302)、不潔ではあるものの、清められようと渇望している者たちは「らい病人」と呼ばれ、信仰の真理を認識していないため、その中にいない者たちは「耳しい」と呼ばれ、聖言を持っておらず、かくて主については何ごとも知ってはいないものの、教えられようと渇望している者たちは「貧しい者」と呼ばれるからである。従って「これらの者に福音を宣べ伝えなくてはならない」と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義9256〔4〕

 

これが己が宗教に順応して善に生きた凡ての者の運命であり、それで主の教会は全世界に遍く拡がっているのである。しかし地上の主の教会そのものは諸天界の巨大人に似ており、その心臓と肺臓から生きているところのその肢体と内臓の爾余の部分は聖言が存在していない所に存在しているのである。

 

 

 

天界の秘義9256〔5〕

 

この凡てからまた新しい教会が教会の外側にいる者たちの間に常に設立されている理由を認めることが出来よう(2986、4747番)、それは前に言ったように古い教会がそれ自身に向って天界を閉じてしまった時起るのである。こうした理由から教会はユダヤ民族から異邦人へ移されたのであり、また現代の教会もまた今や異邦人のもとへ移されつつあるのである。

 

 

 

天界の秘義9256〔6〕

 

 教会は主を承認する異邦人たちのもとへ移されることは聖言の多くの記事から、例えば以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

 暗がりの中を歩いた民は大いなる光を見た、死の蔭の地に住む者たちの上に光が輝いた。あなたはその国民を増し加えられた、あなたはその喜びを大いなるものとされた(イザヤ9・2、3)。

 

 かの日エッセの根は諸民族の旗として立ち、異邦人たちはそれを求めるようになり、その休息は栄光となるであろう(イザヤ11・10)。

 

 エホバ、わたしは義をもってあなたを招いた、わたしはあなたの手をにぎり、民に契約として、異邦人に光として与え、目しいた目を開き、しばられた者たちを牢から、暗がりの中に住む者たちを牢屋から連れ出そう(イザヤ42・6、7)。

 

 見よ、わたしはかれを諸々の民に証人として、異邦人には君、立法者として与えた。見よ、あなたはあなたの知らなかった国民を招き、あなたを知らなかった国民はあなたの神エホバのゆえに、イスラエルの聖者を求めてあなたのもとへ駆け寄るであろう(イザヤ55・4、5)。

 

 異邦人たちはあなたの光へ歩み、王たちはあなたのもとへ来る、あなたの息子たちは遠くから来て、あなたの娘たちはあなたのわきで、乳母により運ばれる。その時あなたは見、ともに流れ、あなたの心は驚き、大きくされるであろう、海のおびただしい者はあなたに回心し、異邦人の軍勢は来るであろう(イザヤ60・3−5)。

 

 また主が子供であられたさい主についてシメオンが予言した言葉の中には―

 

 あなたが凡ての民の顔の前に備えたもうた神の救いを、異邦人の啓示のための光を、わたしの目は見ました(ルカ2・30−32)。

 

 

 

天界の秘義9256〔7〕

 

 この凡ての記事の中で取り扱われている主題は主であり、即ち、異邦人たちは主のもとへ来ることであり、彼らが主を彼らの神として承認する時、彼らは主のもとへ来るのである。そして驚くべきことには、異邦人たちは唯一の神を人間の形の下に拝するのである。それで彼らは主について聞くと、主を受け入れ、承認するのであり、新しい教会も他の者のもとには設立されることは出来ないのである。その教会はこうした者たちのもとに再び設立されることは、マタイ伝の主の御言葉から明白である―

 

 あなたたちは、建てる者らが斥けた石が隅の親石となったことを聖書に読みませんでしたか。それでわたしはあなたらに言う、神の王国はあなたらから取り去られて、実を結ぶ国民に与えられるでしょう(マタイ21・42、43)。

 

『石』は主を意味し(6426番)、『建てる者たち』は教会に属した者たちを意味しているのである。これらの者は最後の者となり、異邦人が最初の者となることは、ルカ伝に以下のように言われている―

 

 彼らは東と西から、北と南から来て、神の王国の食卓にもたれるであろう。見よ、最初の者となる最後の者があり、最後の者となる最初の者がいるであろう(ルカ13・29、30)。

 

 

 

天界の秘義9595

 

歌え、(子)を生まなかったうまずめよ、とついだ者の子よりは見棄てられた者の子が多いからである、あなたの天幕の所を大きくし、かれらにあなたの住居の帳をはらせよ、綱を長くせよ。あなたは右手にも左手にもほとばしり出て、あなたの裔は諸々の国民をつぐであろう(イザヤ54・1−3)。

 

これは異邦人の間にまさに建てられようとしている教会を取り扱っており、それは彼らが聖言から真理を得ていなかったという理由から『(子を)生まなかったうまずめ』と呼ばれているが(9325)、今はその諸真理が前の剥奪された教会の諸真理よりも多いため、『とついだ者の息子よりも更に多くの息子』を持っていると言われているのである、なぜなら『息子』は真理を意味しているからである(489,491、533、1147、3373、3704番)、『天幕の場所を大きくすること』は愛の善から発した礼拝の聖さを意味し(3312、4391、4599番)、『住居の帳をはること』は信仰の諸真理から発した礼拝の聖さを意味しているのである。

 

 

 

真の基督教196

 

教会が終末に至るとき、聖言の霊的意義が示されねばならないことは、白馬に関して、またその上に座し給うた者に関して、語られていることによって意味されているのみでなく、凡ての者が太陽の中に立つ天使から招かれて諸々の王と諸々の将校の肉を食う大なる宴会によってもまた意味されており、この最後の言葉は主から発する凡ゆる種類の善を己がものとすることを意味している。これらの表現はすべて、もしその中に、霊魂が身体の中にあるように霊的な意義が存在しないならば、無意味であり、生命の無いものである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P203

 

 広い部屋に集まっている人々は魅了される。ヘブライ人も、他の民族の人も、他宗教の人も、等しく驚嘆する。むしろ一番感動し、一番尊敬の念を表したのは、異教徒であったかもしれない。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P251

 

異邦人とかサマリア人よりも、イスラエルの家のさまよっている羊を探しなさい。それは異邦人を軽蔑するのではなく、彼らを回心させる能力が、あなたたちには、まだ備わっていないからです。

 

 

 

天界の秘義4169

 

『羊』の意義は善であり(そのことについては以下の記事を参照されたい)、『雌山羊』の意義は真理の善である(3995,4006番を参照)。単に善と呼ばれている『善』によっては意志の善が意味されているが、しかし『真理の善』によっては理解の善が意味されている。意志の善は善から善を為すことであるが、しかし理解の善は真理から善を為すことである。真理から善を為す者たちにはこの二つのものは同一のものであるように見えるが、それでもそれらは互いに非常に異なっているのである、なぜなら善から善を為すことは善を認識してそこから善を為すことであり、善を認識することは天的な者のもとに専ら存在しているに反し、真理から善を為すことはそれを記憶知とそこから生まれてくる理解から為すことであるが、しかしそれはそれがそうであることを認識することなしに為すことであり、またたんにわたしたちが他の者からそのように教えられているためにのみ為すことであり、またはわたしたちがわたしたち自身の知的な能力によりわたしたち自身で問題の結論に到達したために為すことであるからである。これは実に誤った真理でありうるのであるが、しかしそれでもそれが善をその目的としているなら、その人間がその真理から為すものは善にようになるのである。

 

 

 

天界の秘義4169[]

 

『羊』が善を意味していることは聖言の多くの記事から認めることができようが、その中から以下のもののみを引用しよう。イザヤ書には―

 

かれは苦しまれたが、その口を開かれなかった。かれは屠られる子羊のように毛を切る者の前の羊のように連れ行かれたもうたが、その口を開かれなかった(53・7)。

 

これは主について言われており、そこで主は真理からではなく、善から羊にたとえられたもうているのである。マタイ伝には―

 

イエスはそのつかわされる十二人に言われた、異邦人の道に行ってはならない、サマリア人のいかような都にも入ってはならない、むしろイスラエルの家の失われた羊のもとへ行きなさい(10・5,6)。

 

『かれが行ってはならない異邦人』は悪の中にいる者たちを意味している。(『異邦人』は悪を意味していることは前の1259、1260、1849番に認めることができよう)。『サマリア人の都[]』は誤謬の中にいる者たちを意味し、『羊』は善の中にいる者たちを意味している。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P357

 

 キリストなしに死ぬ人々はみな、同じ運命を辿るのである。彼らは、アブラハムやイサク、ヤコブ、すべての預言者たち、東からも西からも、北からも南からも、人々が神の国に入っているのに、自分たち―キリストなきクリスチャン―は外に投げ出されているのをみることになる。

 

 

 

 

3.キリスト教徒以外でも救われる

 

キリスト教徒以外でも救われる

 

 

 

 

4.偶像崇拝者の無垢

 

 

天界の秘義1992[]

 

主が『シャッダイ』の名により彼らの前に初めて表象されることを望まれた理由は、主はたれかの中にその者の幼少期から植えつけられている礼拝を不意には(まして一瞬には)破壊しようとは決して望まれはしないということである。なぜならこれは根元をひきちぎって、そのことによってそれまでに深く植えつけられている崇拝と礼拝の聖い状態を破壊してしまうことであり、主はそれを決して破壊されないで、たわめられるからである。幼少の頃から植えつけられている礼拝の聖い状態は暴力には堪えることは出来ないで、ただ優しく親切にたわめられることにのみ堪えることが出来る性質を持っているのである。身体の生命の中では偶像を拝しはしたものの、相互愛に生きていた異教徒の場合も同じである。彼らの礼拝の聖い状態は幼少の頃から植えつけられているため、他生ではそれは一瞬に取り去られるのではなく、継続的に取り去られるのである、なぜなら相互愛に生きている者たちの中には信仰の諸々の善と真理とは容易に植えつけられることが出来て、彼は後に喜びをもってこれを受けるからである、なぜなら仁慈[相互愛]こそその土壌そのものであるからである。そしてアブラハムとイサクとヤコブの場合もまたそうであったのであり、主は彼らに『神シャッダイ』の名を保持することを許されて、ご自分が神シャッダイであると言われさえもしたのであるが、これはその名の意義から来ていたのである。

 

 

 

天界の秘義2598

 

 私がミカについて、ダンの息子たちがいかようにして彼の彫像を、テラピムとレビ人を取り去ったことについて、士師記の第17章と第18章とを読んだとき、異邦人の中から来ている一人の霊がそこにいたが、彼は身体の生命の中では彫像を拝していたのである。彼はミカに為されたことや、またミカがダンの息子たちにより奪い去られた彫像のために如何程の悲哀に陥ったかを注意深く聞いているうちに、彼もまた悲しみにうちひしがれて内なる悲哀のあまり何を考えてよいかわからなくなるほどにも心を動かされたのである。私は彼の悲哀を認めると同時にその情愛の各々の中に無垢を認めもしたのである。基督教徒の霊たちもまたその場にいて、それを認めたが、彫像を拝していた者がかくも強い慈悲と無垢の情愛のために心を動かされることに驚いたのである。その後で善良な霊たちが彼に話しかけて、彫像を拝してはなりません、あなたは人間であるから、このことは理解出来るでしょう。あなたは彫像を超えて全天地の創造者で、支配者であられる神のことを考えなくてはなりません。その神は主であります、と言った。こうしたことが言われると、私は彼の内的な崇拝の情緒を認めることを許され、それが私に伝えられたが、それは基督教徒におけるものよりは遥かに聖いものであったのである。このことから(ルカ伝13・29,30における主の御言葉に従って)異教徒はそれほどに感動を覚えない現今の基督教徒よりは容易に天界に入ることが出来ることが認められることが出来たのである。なぜなら彼はその置かれていた状態の中で信仰の凡ゆるものを与えられ、それを内的な情愛をもって受けることが出来たからである。彼の中には愛のものである慈悲が在ったし、また無垢には無知が在ったのであり、これらのものが存在すると、信仰の凡ゆるものはいわば自発的に喜びをもって受け入れられるのである。彼はその後天使たちの間に迎えられたのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P69

‘88・11・15

 

今日は肩にイエスの十字架を感じました。主の御心が恐ろしいほどの痛みで満ちているのが感じられます。主はなんとお苦しみでしょう・・・(それは世が主を拒むからです。)

 

♡ 私です、十字架を感じ、私を休ませてくれるように、我が光の子よ、本当に疲れ果てた、そばにいてほしい、この悲しみのさ中 慰めてもらう必要がある。 我がヴァッスーラ、聞いて書くように。 ああ 被造物よ! 我が種子よ! 私はあなたの聖なる者、しかしあなたは私を 悪者にしている、はるか永遠から愛し続けてきたが、あなたは私を 蔑んでいる、死から救ったが、それでいて私を攻める。 日々あなたを我がパンで養い 我がぶどう酒で満たしてきた しかし悪をもって あなたは私に背いている。 私は愛に渇いているが、あなたは私を渇いたまま 放っておく、あなたが疲れているのを見ては 迎え入れ、我が心のうちに 休ませてあげる、それでいて 私が疲れている時は、拒む。 我が心を開いて、あなたがどう傷つけたかを 見せるが、悪に眼がくらんだあなたは、私を刺し続け、幾度となく 我が心を貫いている。あなたを迎え入れ 抱擁しようと 腕を広げているが、あなたはそっぽを向き、背中しか見せない、優しさをこめて 暖めようと 我が聖心を開き、あなたを訪れても、私の面前で心の扉を閉ざし、外の寒さに 置き去りにする。 物乞いのように一日中 あなたを呼び続け、引き上げ 癒そうと、手を差し伸べている、しかしあなたは、代わりに、私を無視し 拒絶する。 私の眼も 母の眼も 苦しみで疲れ果て、体はもとの姿をとどめないほどに 傷で痛めつけられている。 あなたに求めるのは、平和と愛だけだが、あなたは私の嘆願を聞こうとしない・・・ 私はまず 私自身の者たちのもとを訪れた、しかしここでも、彼らに拒まれ、蔑みと迫害を受けた。 あなた方は私を追跡し、道化のように扱い、裏切った・・・(*) その裏切りによって 私に残された 最後の一滴の涙も 流し尽くした、あなた方の悪意は 永劫を貫き、悪魔たちでさえその悪意に唖然としている ♡

  イエスのお声は苦しみに溢れていました。

あぁ ヴァッスーラ・・・ 同情と深い憐れみにより、注意を与え 死から救い出そうと、私はやって来た、私自身の者たちに あなたを遣わしたが、彼らは私の声を 押し殺してしまった、明るみに出て 己が非が露になるのを怖れて。 私の声を押し殺し、真理の霊を迎え入れないので、私は彼らの罪を よそ者たちによって暴かせる。 あなた方の家の屋根の上で ラッパのように我が声を響かせよう・・・(*) 私のことを全く知らない よそ者たちによって 私は受け入れられた。 戸を叩くと 中に入れてくれた。 貧しいながら、彼らの糧を分かち合い、その貧しさゆえに、私を探し求めてはいなかったが、それでいて、私を見出した。一番の友人たちによって 出来た傷を彼らに見せると、それを見て、彼らは私の傷の前に 膝を屈め、傷の深さに打たれ、私の体に加えられた 暴行に打たれ、心は蝋のように溶けた、泣かないでよい 我が子よ、

♡ ・・・私の声は よそ者に運ばれて行く、そのこだまを聞いたなら 私から発せられたと知るように。 私を求めたことのない よそ者によって 私は高められ、それまで私を知らなかった人びとから 栄光を受ける、そして私は 彼らの師となり 教えを説く、彼らの欠点を 私は消し去り、道理を説き、彼らは私を理解するであろう。 彼らが私の傷を癒そう ♡ 私は牧者、羊飼いたちに打たれ 散らされた、仔羊たちを集める、♡ ああ ヴァッスーラ、このすべてはもう 本当に間もなく成就する。 来なさい、私のうちに憩い、私もあなたのうちに 休ませてほしい、愛に結ばれ 分ち合いながら ♡

 

はい、わが主よ。

 

「私たち」

 

いつまでも、アーメン

*間があり、それから悲しみを込めて。

 

 

 

 

5.多神教

 

 

真の基督教24

 

古代と現代における複数の神を信ずる信仰は、神的存在が理解されなかったために起こった。

 

 

 

天界の秘義2724

 

教会の人間が内なるものでなくなって、外なるものとなり、名の中にのみ礼拝をおきはじめると、そのときはかれらはもはや一人の神を承認しなくなって、多くの神々を承認したのである。なぜなら古代人にはエホバの名に何かを加えて、それによりエホバの何かの利益を、または属性を心に思いおこすことが普通のことであったから。

 

 

 

天界の秘義4442

 

「シケムの父ハモルはヤコブとともに語るためにそのもとへ出かけて行った」(創世記34・6)。

これはその教会の真理について協議することを意味していることは以下から明白である。すなわち、シケムの父ハモルの表象は古代人の真理であり(4430、4431)、ヤコブの表象は外なる古代教会であり(4439)、『かれと語ること』の意義は協議することである。ここからこれらの言葉によりかの教会の真理について協議することが意味されている。

 

 

 

[]聖言の名前は事柄を意味していることを知らない者は、『シケムの父ハモルはヤコブと話すためにそのもとへ出かけて行った』という言葉により古代人の間に存在した教会の真理がヤコブの子孫の間に新しく設立されることになっていた古代教会に順応した真理と協議することが意味されていることに驚くであろうが、しかしこうしたことは、聖言の内意の性質はこのようなものであることを知っている者の中には何らの驚きも与えないし、また古代人の書物からかれらの物を書く方法を知っている者の中にも何らの驚きも与えはしないであろう。なぜならかれらにはいくたの事柄を、例えば、知恵とか、理知とか、知識とか、そういった事柄を恰もそれらが共に語り合っているかのように示して、それにそうした事柄を意味している名前を与えることが普通であったからである。古代人の神と半神半人とはそれ以外のものではなく、またかれらがその主題を歴史的な形をもって示すために考案した人物もそれ以外のものではなかったのである。

 

 

 

[]古の賢人たちはこうした習慣をアジア世界の多くの所にひろがっていた古代教会から得たのである(1238、2385)。なぜなら古代教会の人々は表象的なものと表意的なものとによって神聖な事柄を示したからである。しかしながら古代教会はこのことを洪水以前に存在した最古代の人々の口から受けたのであり(920,1409,1977,2896,2897)、また最古代教会の人々は天界からそれを受けたのである。なぜならかれらは天界と交流していて(784,1114―1125)三天界の中でも最後の天界である第一の天界はこのような表象的なものと表意的なものの中にいるからである。このことが聖言がそのような文体をもって書かれた理由である。しかし聖言は古代人の文書がもっていない以下のような特質をもっているのである。すなわち、主題の各々は連続して主の王国の天的なまた霊的な事柄を表象しており、その最高の意義では主御自身を表象しており、歴史的なものそれ自身さえもがそれと同じ性質のものであり、それのみでなく、それらは真の相応したものであって、しかもこれらのものは主から三天界を通して連続しているのである。

 

 

 

天界の秘義5628

 

「神シャッダイ」(創世記43・14)

 

これは困苦の後の慰安を意味していることは『シャッダイ』の意義から明白であり、それは試練と試練の後の慰安であり(1992,4572)、それでここではかれらがエジプトで受けた困苦の後の慰安である。それは困苦の後の慰安であることはつづいて後に記されている言葉『その男の人の前にあなたたちに慈悲を与えられるように』からもまた明らかである。『シャッダイ』が試練と後の慰安を意味していることは、古代人は只一人の神を種々の名前により、その神から発している種々のものに従って示したためであり、かれらは試練はその神から発していると信じたため、そのときはは神を『シャッダイ』と呼び、この名前により他の神を意味しないで、試練の方面の只一人の神を意味したのである。しかし古代教会が衰微するにつれ、かれらは只一人の神に対する名前と同数の神々を礼拝しはじめ、またかれら自身でその神々にさらに多くの神々を附加したのである。このようなことを行うことがついには各家族がその家族の神を持つほどにもひろまり、かれらはその神を他の家族から拝されている神から全く区別したのである。

 

 

 

[]テラの家族は―アブラハムはその家族の一人であったが―シャッダイをその神として拝し(1356,1992,2559,3667)、そこからアブラハムのみでなく、ヤコブもまた、カナンの地においてすらシャッダイを己が神として承認したが、このことはかれらが強制的にかれら自身の宗教の形から引きはなさないために許されたのである。なぜなら何人もその者が聖いものとして認めているものから強制的に引きはなされはしないからである。しかし古代人は『シャッダイ』によりエホバ御自身を、または主を理解し、主はかれらが試練を受けたとき、そのように名づけられたもうたため、それでエホバまたは主は創世記17・1から明らかなように、この名をアブラハムのもとに回復されたのであり、またヤコブのもとにも回復されたのである(創世記35・11)。試練のみでなく、慰安もまた『シャッダイ』により意味されている理由は、慰安は霊的な試練の凡てに続いて起こるということである。このことをわたしは他生における経験から知ることができたのである。なぜならそこでたれかが悪霊にとりつかれ、悪を刺激され、誤謬を説きつけられて苦しむとき、その悪霊が遠ざけられてしまった後では、天使たちに迎えられ、その気質に適合した歓喜により楽しい状態へ入れられるからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々2・P161

 

主がローマ人のリディアに:

「あなた方が思い描くような神々は偽りです。あなた方が想像しているようなものは存在しません―まことを探す人間が持つ本能的な要求のために、実際、霊魂にはまことの神の郷愁がありますが―あなた方も本能的に人間とは肉体だけでなく、はかない体には不滅のものがあると感じています。それと同じように、町や国々にもあります。あなた方は個人の守り神、家族の守り神、町の守り神、国の守り神を考えています。あなた方には“ローマの守り神”があり、“皇帝の守り神”があります。そして、それらは一段低い神様として、あなた方は拝んでいます。まことの信仰に入れば、己を守る天使を知り、それに対して礼拝ではなく、崇敬を表わすべきです。拝むべきものは神だけです」(中略)

 

「あなた方の神々は、実在しないものです。それは、何かを信じたいあなた方の考えがつくる幻です。なぜなら“これの必要性は、呼吸よりも抑え難いもの”だからです。『私は何も信じない』と言っている人だって、何かを信じています。『私は神を信じない』ということばにしても、他の信仰を前提としています。例えば、己の傲慢な理性を信じているのです。しかし信ずることは絶えずあり、それは考えることと同じです。」

 

 

 

 

6.偶像崇拝

 

 

天界の秘義2722

 

ユダヤ人とイスラエル人とは―かれらの間に古代教会の表象的な祭儀が導入されたのであるが―専ら外なるものの中にあり、心では偶像崇拝者以外の何ものでもなく、内なるものとはいかようなものであるかを知りもしないし、また知ろうともしないし、また死後の生活も、またメシアの王国は天界の王国であることさえも知りもしないし、知ろうともしなかったため、それでかれらは、自由であったときは常に山や岡の上で、また杜[木立ち]や林の中で汚れた礼拝を守り、同じく山と岡の代わりに自分自身のために高い所を作り、杜の代わりに杜を表象しているものを彫刻したのであって、そのことは聖言の多くの記事から明白である。例えば士師記には―

 

イスラエルの子孫はバールと杜とに仕えた(3・7)。

 

列王記には―

 

イスラエルは杜を作ってエホバを怒らせた(列王記上14・15)。

 

 

 

天界の秘義2722[]

 

このすべてから今や偶像礼拝がいかような起源から発したかが、すなわち、表象的な、また表意的なものであった物を拝する礼拝がいかような起源から発したかが明らかである。洪水以前にいた最古代の人々は各々の

 

 

 

スウェーデンボルグ/聖書23

 

古代に、諸国民の偶像崇拝が相応の知識から発した理由は、地上の目に見える物はすべてそれに相応したものをもっているということであり、たんに木のみでなく、凡ゆる種類の獣と鳥も、また同じく魚も他の凡ての物も(それに相応したものをもっているということであった。)古代人は、相応の知識を持っていたため、天界の事物に相応した像を自分のために作り、その像が、天界に属し、それで教会に属している事柄を意味しているために、それを歓んだのである。それでかれらはそれを神殿のみでなく、家にもおいたのであるが、それはそれを拝するためではなく、そこに意味されている天界の物を思い出すためであったのである。従ってエジプトその他には子牛、雄牛、蛇、また子供、老人、乙女たちの像があったのであるが、それは子牛と雄牛とは自然的な人の情愛と力とを意味し、蛇は感覚的な人間の明敏さを、子供は無垢と仁慈を、老人は知恵を、乙女は真理に対する情愛をというふうに意味したためである。(しかし)相応の知識が記憶から抹殺されたとき、かれらの子孫は、古代人の立てた像と象徴とを、それが神殿の内に、またその周りに立っていたということから、聖いものとして、ついには神々として礼拝しはじめたのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ652/天使のたより第6号P20/天使館

 

わたしの周囲で動揺する様々な霊界を注視して、霊の師たちと霊魂の指導者たちの役目を助け、霊たちを救うためにわたしがとった違う方法を彼らに知らせることです。なぜなら、たった一つの方法をすべての霊魂に当て嵌めるのは愚かだからです。自発的に完徳を目指している一義人をそこへ引きつける方法は、罪人である一信徒に適用される方法や一異邦人に用いられる方法とは違います。あなたたちの先生のように判断するに至るなら、あなたたちの間にも、権力と横暴を、あるいは黄金を、あるいは肉欲を、あるいは彼らの知識への傲慢を、真のと取り替えた惨めな異邦人たちがたくさんいます。また現代の新加入者たち、すなわちキリスト教的思想を受け入れたけれども、離教した教会に属し、キリスト教的国籍を受け入れない人たちを救うためにとられねばならない方法は異なります。誰をも見落とされてはなりません。他のすべての羊にもまして、これらの迷える羊たちを愛し、彼らを唯一の群れに連れ戻すよう捜す、牧者イエズスの望みが叶えられるよう努めなさい。

 

 

 

 

7.目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き

 

 

ルカ7・22−23

 

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。わたしにつまずかない人は幸いである。

 

 

 

天界の秘義9209

 

あなたたちは行って、ヨハネにあなたたちの見聞きしたことを告げなさい。目しいは見、足なえは歩き、らい病人は清められ、耳しいは聞き、貧しい者には福音が説かれている、と(ルカ7・20−22)。

 

これらの言葉は外なる人のために話されたと同時に内なる人のためにも話されたのであり、すなわち、外なる人のためにはこうした奇蹟が行われていると話され、内なる人のためには、霊的な意義で目しいであり、足なえであり、らい病人であり、耳しいであり、貧しい者たちである者たちの間に、かくて善と真理には無知であるものの、それを渇望している異邦人の間に教会が建設されつつあると話されたのである。なぜなら真理には無知な者たちは『目しい』と呼ばれ(6990)

 

善の中にはいるが、真理を知らないため、純粋な善の中にはいない者たちは『足なえ』と呼ばれ(4302)、不潔ではあるものの、清められようと渇望している者たちは『らい病人』と呼ばれ、信仰の真理を認識していないため、その中にいない者たちは『耳しい』と呼ばれ、聖言をもっておらず、かくて主については何ごとも知ってはいないものの、教えられようと渇望している者たちは『貧しい者』と呼ばれるからである。従って『これらの者に福音を宣べ伝えなくてはならない』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義9209(5)

 

『貧しい者と乏しい者』により、内意では、教会の外にいて、聖言を持っていないため、真理には無知であるものの、教えられることを切望しており、その知っている真理により僅かな善の中にいる者たちが意味され、また教会の内にいるが、色々な原因のために真理を知ってはいないが、それでも若干の善のために真理を渇望している者たちが意味されている記事から明白である。

 

例えばダビデの書には、

わたしは貧しく乏しい。ああ神よ、いそいでください、ああ、エホバよ、わたしの助けよ、わたしを解放される方よ。(詩篇70・5)

 

これらの言葉は、貧しくも乏しくもなかったダビデにより話されたのであり、そこから霊的な貧しさと困窮とが意味されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義2387

 

実際に行われた。

 

 

 

黙示録講解118

 

貧しい人

 

 

 

天界の秘義10227

 

 

 

 

 

8.家を建てる者の捨てた石

 

 

マタイ21・42−44

 

イエスは言われた。「聖書にこう書いてあるのを、まだ読んだことがないのか。『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。』だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる。この石の上に落ちる者は打ち砕かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

 

 

天界の秘義9256〔7〕

 

 この凡ての記事の中で取り扱われている主題は主であり、即ち、異邦人たちは主のもとへ来ることであり、彼らが主を彼らの神として承認する時、彼らは主のもとへ来るのである。そして驚くべきことには、異邦人たちは唯一の神を人間の形の下に拝するのである。それで彼らは主について聞くと、主を受け入れ、承認するのであり、新しい教会も他の者のもとには設立されることは出来ないのである。その教会はこうした者たちのもとに再び設立されることは、マタイ伝の主の御言葉から明白である―

 

 あなたたちは、建てる者らが斥けた石が隅の親石となったことを聖書に読みませんでしたが。それでわたしはあなたらに言う、神の王国はあなたらから取り去られて、実を結ぶ国民に与えられるでしょう(マタイ21・42、43)。

 

『石』は主を意味し(6426番)、『建てる者たち』は教会に属した者たちを意味しているのである。これらの者は最後の者となり、異邦人が最初の者となることは、ルカ伝に以下のように言われている―

 

 彼らは東と西から、北と南から来て、神の王国の食卓にもたれるであろう。見よ、最初の者となる最後の者があり、最後の者となる最初の者がいるであろう(ルカ13・29、30)。

 

 

 

天界の秘義9256

 

異邦人のもとで新しい教会が起こされる。

 

 

 

天界の秘義9256

 

こうした理由から教会はユダヤ民族から異邦人へ移されたのであり、また現代の教会もまた今や異邦人のもとへ移されつつあるのである。

 

 

 

霊界日記5798

 

隅の親石について

 

 

 

 

9.彼らは知らずに主を礼拝している

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P203

 

 被造物の世界が多分知らずに礼拝しているこの神、真に唯一のこの神は、我々の儀式や教義によっては慰めも満足も感じない。ただ徳に生きる者に満足を与える。儀式や教義によっても、あるいは偶像を飾り立てた空っぽな祭壇の前にあって、満足も慰めも感じない徳に生きる人間に、満足を与える唯一の神は、人間が多分知らず、被造物が知らないままに礼拝している真に存在する神である

 

 

 

天界の秘義3263[2]

 

 主の霊的な教会については、それは全世界にあまねく存在していることを知られよ、なぜならそれは聖言を持っていて、そこから主と信仰の若干の真理とを知っている者たちに限定はされないで、聖言を持ってはおらず、それで主については全く知らず、従って信仰の真理を何ら知っていない者たちのもとにもまた存在しており(なぜなら信仰の諸真理はすべて主に関わりをもっているからであるが)、すなわち、この教会は教会から離れている異教徒の間にも存在しているからである、なぜなら一人の神がおられ、その神は凡ゆる物を創造し、またその神から善がことごとく発しており、従って真理がことごとく発しており、その神に似ることにより人間は祝福されることを合理的な光から知っている者が彼らの中に多くいるからであり、さらに彼らはその神に対する愛の中に、隣人に対する愛の中にいて、彼らの宗教に従って生きており、善の情愛から仁慈の業を行い、真理の情愛から至高の存在を拝しているからである。このような性格を持っている異邦人たちは主の霊的教会に属している者たちであり、彼らはこの世にいる間は主を知ってはいないけれど、それでも善の中にいる時は、彼ら自身の中に主を拝しており、また主を暗黙の中に承認しているのである、なぜなら凡ゆる善の中に主は現存されているからである、それ故他生では彼らは容易に主を承認し、このように善に宿っていない基督教徒よりも更に進んで主に対する信仰の諸真理を受け入れるのであるが、このことは教会の外のいくたの国民と民との他生に於ける状態と運命とについて経験から明らかにしたこところから認めることが出来よう(2589−2604)。これらの者が持っている自然的な光はその中に霊的なものを持っているのである、なぜなら主から発している霊的なものなしには、このような事柄は到底承認されることは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義3778[]

 

それでこのことが、ナホル、その息子のベトエル、ベトエルの息子のラバンにより根幹が共通した傍系的な善が表象され、すなわち、異邦人たちの間の主の教会に属している者たちがその中にいるところの善が表象されている理由である。この善は直線的に下降している根幹の共通した善とは以下の点で異なっているのである、すなわち、彼らの善に連結しているその諸真理は純粋なものではなく、その大半は感覚の迷妄[妄想]と呼ばれている外なる外観である、なぜならこれらの異邦人は彼らが明るくされる手段となる聖言を持ってはいないからである。善は実にその本質ではただ一つのものではあるが、しかしそれはその中に植えつけられる諸真理からその性質を受けて、そのことによって多様なものとなっているのである。異邦人たちに真理として現れている真理は全般的には、彼らは何らかの神を拝しなければならないということであり―この神から彼らは彼らの善を求め、またこの神にその善を帰しているが、彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいないのである―また彼らは彼らの神を彼らが聖いものとして考えている像の下に崇めなくてはならないということであり、その他さらに多くのものがある。にもかかわらず、これらのものは、彼らがその神に対する愛と隣人に対する愛の中に生きさえするなら、彼らも基督教徒と等しく救われることに対して妨害とはならないのである、なぜなら彼らはこのように生きることによって他生で内的な諸真理を受ける能力を得るからである(932、1032、1059、2049、2051、2284、2589−2604、2861、2863、3263番)。

 

 

 

10.マリア・ワルトルタより

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199

 

ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。女よ、安心しなさい。あなたの夫は死んではいない。生きています。あなたは彼を失ったのではなく、少しの間離れているだけです。今は、花婿の家にまだ入ったことのない花嫁として、不滅の婚姻を準備せねばなりません。徳を得るために働き、もう別れのない、愛を失う恐れも罰もない二人の霊魂の幸せな婚姻に備えることです。霊魂は神に対して、また互いの愛の中で喜び勇むでしょう。『義人にとって死は命である。霊魂の生命力を危うくすることは何もなく、永久に正義の中に生き残れる』ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい。世間は私への信仰を滅ぼす危険があるから、神はあなたの夫をその危険から救われたのです。あなたを愛してくださったために」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P206

 

あなたたちは世界中から来ていて、異邦人もいます。私はあなたたちの中にポントとフリジアに住んでいる人も、クレタ人とフェニキア人も見つけました。また知られざる海の海辺から来た人もいます。それらの地方を知らない者もあろうが、私は何時か、そこの人にも愛されるでしょう。また、ギリシャ人も、シリア人も、シレネ人も、それにアジアの人もいます。さあ、行きなさい、自分の国へ向けて。光はすでにこの世にあります。光に来るように皆に呼びかけなさい。“知恵”は人間のパンとなるために苦悩し、人間の水となるために“天”を出たのだと知らせなさい。“命”は病んでいる人、あるいは死んだ人を回復させ、甦らせるためにここまで来たと知らせなさい。

 

(中略)それを求める人々にも、また単に好奇心に駆られている人々にも伝えなさい。好奇心という不浄の望みが、何時か私に対する信仰、人を救う信仰の稲光と変わることがありえます。行きなさい!

 

 

 

 

11.異教徒は日々の生活で基督教徒よりも多く神を考えている

 

 

神の摂理322

 

異教徒はその日々の生活では宗教的原理から神を基督教徒よりも多く考えている

 

 

 

 

12.かれらが主を知らないのはかれらの過誤によるのではない

 

 

天界の秘義2589

 

 

 

 

13.宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられる

 

 

天界の秘義2590

 

 

 

 

14.基督教徒よりも異邦人が多く救われる理由

 

 

天界の秘義932

 

 『種をまく時と取入れ』は、再生することの出来る人間を意味し、引いては教会を意味していることを聖言から確認する必要はない、なぜなら以下のことが極めて再三記されているからである、即ち人間は畠に譬えられ、またそれになぞらえられ、かくて種を播く時、または種時に譬えられ、主の聖言は種子に、その結果は生産物に、または取入れに譬えられているのである―こうしたことはその言葉の形式がこのように親しいものにされているため、たれでも把握出来るであろう。全般的にここには凡ゆる人間が取扱われているのである。即ちその者が教会の内にいようと、または外にいようと、主の聖言に親しんでいようと、親しんでなかろうと、主から種子を播かれることは決してその者に欠けることが無いのである。主によって播かれた種子が無くては、人間は決して善を行うことが出来ない。仁慈の善はことごとく、異邦人のもとでさえも、主から発した種子であり、これらの者のもとには教会に在るような信仰の善は存在していないけれど、それでも、信仰の善が発生する可能性が在るのである。なぜなら異邦人がこの世で仁慈に生きることを慣わしとしているように、仁慈に生きた異邦人は他生で天使たちから教えられると基督教徒よりも遥かに容易に真の信仰の教義と仁慈の信仰とをかき抱き、また受けるからである。これについては、主の神的慈悲の下に後に述べよう。

 

 

 

天界の秘義1059

 

教会の外にいて、異邦人と呼ばれている者のもとにも、主は教会の中にいる者のもとに仁慈により、現存されているように、同じく仁慈により現存されていることが前に述べられているのを見ることが出来よう(932、1032番)。かれは実に(教会の人間のもとに現存されているよりも教会の外にいる人間のもとに)更に現存されているのである、なぜなら基督教徒と呼ばれている者のもとに全般的に存在しているほどの大きな雲は彼らの理知の部分の中には存在していないからである。なぜなら異教徒は聖言を知らないし、また主とは何であるかも知らないし、従って信仰の真理は何であるかを知っていないし、それで彼らは主と信仰の真理とに反抗することが出来ないからである。ここから彼らの『雲』は主と信仰の真理に反抗しているものではなく、こうした雲は彼らが明るくされると、容易に消散されてしまうのである。しかし基督教徒の雲は主と信仰の諸真理に反抗しており、この雲は暗黒となっている程にも濃厚である。そして仁慈に代って憎悪が在る時、深い暗闇が存在する。信仰の諸真理を冒涜する者らのもとではそれは更に暗くなっており、異教徒は信仰の真理を知らないため、それを冒涜することは出来ないのである。たれ一人その性質を、またその存在を知っていないものを冒涜することは出来ない。このことは基督教徒よりも異邦人が多く救われる理由であり、そのことは主もまたルカ伝(13・23、28−30)に言われたことに従っており、また更に彼らの子供たちは凡ての主の王国に属していることにも従っているのである(マタイ18・10、14、19・14、ルカ18・16)

 

 

 

『イエズスに出会った人々』2・P268

 

「私はいろいろな知識や学説にまだ染まっていない人々を選ぶために、おまえたちを選びました。おまえたちのような人々に私の教えがもっとも楽に浸透し、また、おまえたちが将来、まことの神を伝道すべきだから、おまえたちは各自もとの道を思い出して、こういうふうな人々を軽蔑せず、私がおまえたちをどれほどの思いやりをもって教え導いたかを思い出し、同じようにするためです。」

 

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。

 

 

 

天界の秘義4754

 

イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

 

「かれはわれわれの兄弟であり、肉身であるから」(出エジプト37・27)。

これは、かれらから発しているものが受け入れられるからである、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『兄弟』の意義は善から生まれた血縁関係であり(3815番)、『肉身[]』の意義は両方の意義における自分自身のものであり(3813番)、かくてそれは教会のものである者らから発しているため、受け入れられ、またそれは単純な善にいる者たちにより受け入れられたため、これらの者によっても受け入れられたということである。なぜならイシマエル人は単純な善にいる者たちを表象し、ヨセフの兄弟たちは仁慈から分離した信仰の中にいる教会を表象しているからである。単純な善の中にいる者たちは、主の人間的なものは神的なものであり、また人間は救われるためには仁慈の業を為さなくてはならないことを承認するのである。分離した信仰の中にいる者たちはそのことを知っており、それでかれらはこの信仰を凡ゆる者の前に強く主張はしないのであり、単純な善の中にいる者たちの前には全く主張はしないのであるが、そのことは主としてかれらは常識に反したことを敢えて語らないためであり、またかれらはそのようなことを主張して自分自身の威厳と利得とを失ってしまうためである。なぜならもしかれらがかりにもこれらの真理を否定するなら、単純な善の中にいる者たちはかれらについてかれらは愚物であると言うからである。なぜなら単純な善の中にいる者たちは愛とは何であるか、愛の業とは何であるかを知ってはいるが、それらのものから分離した信仰の何であるかを知りはしないからである。業と対立した信仰を支持し、また主の人間的なものと神的なものとの区別について論じる議論をかれらはわけのわからぬ詭弁と呼ぶのである。それでかれらが受け入れられようとしてまたかれらから発しているものが受け入れられるため、分離した信仰の中にいる者らはすすんで譲歩するのである、なぜなら、もしこれらの真理が消滅するなら、かれらは利得も栄誉も受けはしなくなるからである(4751番)。

 

 

 

天界の秘義4190

 

『このような真理』、即ち、異邦人のもとに存在しているような真理と言われている、なぜなら異邦人たちは聖言については何ごとをも知ってはいないし、従って主についても何ごとをも知ってはいないけれど、それにも拘らず、基督教徒が持っているような外なる真理は持っているからである、例えば神性者[神]はうやうやしい態度で拝さなくてはならない、祝祭は守らなくてはならない、両親は敬わなくてはならない、盗んではならない、姦淫を行ってはならない、殺してはならない、隣人の財産をむさぼってはならないというような真理は持っており、かくて十戒の真理のような真理は持っているのであって、その真理はまた教会内の生活の規則のために存在しているのである。彼らの中で賢い者たちはこうした律法を外なる形においてのみでなく、内なる形においても守っているのである。なぜなら彼らはこのような事柄は単に彼らの宗教制度に対してのみでなく、全般的な善に対しても反しており、かくて彼らが人間に負うている内なる義務に対しても反しており、従って仁慈にも反していることを、例え彼らは信仰とは何であるかを余り良く知ってはいないものの、考えているからである。彼らは多少の良心を、明確ではないものの、持っており、それに反して行動することを欲しないのであり、事実彼らの中にはそうしたことを行うことの出来ない者がいるのである。このことから主は、例え彼らは明確でない状態の中にはいるものの、彼らの内部を支配されており、かくて彼らに内的な諸真理を受ける能力を与えられることが明白であり、実に彼らはまた他生でその諸真理を受け入れるのである。(異邦人について前に示したことを参照されたい、2589−2604番)。

 

 

 

天界の秘義4190[2]

 

時折私は教会の外にいる異邦人の状態と運命について他生で基督教徒と以下のように語ることを許されたのである、即ち、彼らは主の教訓に従って生活していない基督教徒よりも容易に信仰の諸真理と諸善とを受け入れるのであり、基督教徒は彼らについては残酷に考えて、教会の外にいる者はすべて地獄へ投げ込まれると考えているが、そうしたことは主がなくては救いは無いという伝承された教令から発しているのである。そのことは ―私が彼らに言ったところではあるが― 実際真であるが、しかし相互愛をもって生活し、一種の良心から公正で公平なことを行なった異邦人たちは、そのような仁慈に生きていない教会内の者たちよりも容易に他生では信仰を受け入れて主を承認するのである。更に基督教徒は、自分たちは聖言の書を持っているから― しかしそれは紙の上に書かれていて、彼らの心の中には書かれてはいないのであるが ―天界は自分たちのためにのみ存在していると信じることによって誤ったものの中にいるのであり、また彼らは主を知ってはいるものの、それでも主はその人間的なものの方面でも神的なものであられることを信じはしないで、主を、彼らからは主の人間的な性質[主の人間性]と呼ばれている主の他の本質の方面で普通の人間としてのみ承認しており、それで彼らは彼ら自身に、彼ら自身の思いに委ねられると、主を崇拝さえもしていないため、誤ったものの中にいるのである。かくて主の外にいる者こそ実に彼らであって、彼らに対しては救いはないのである。

 

 

 

天界の秘義4747[2]

 

教会の中にいて、神的な諸真理[神の諸真理]を、特に以下の諸真理を―主の人間的なものは神的なものであって、仁慈の業が救いに貢献するという真理を―否定して、そのことを確認した者は、もし彼らが教義のみでなく、生活によってもその諸真理を否定して、そのことを確認したなら、その内部の方面では、後になってその諸真理を到底受けるようになることが出来ないような状態に自らを引き下げてしまうのである、なぜなら一度教義により確認されると同時に生活によっても確認されたものは永久に止まるからである。人間の内的な状態を知らない者はたれでも、いかほどこれらの真理を否定してそのことを確認したにしても、後で説得されさえするなら、尚容易にそれを受けることが出来ると想像するであろう。しかしそのことが不可能であることを私は他生におけるこのような人物に関係した多くの経験から知ることが出来たのである。なぜなら何であれ教義により確認されたものはことごとく知的な部分により吸収され、生命[生活]により確認されたものは意志の部分により吸収されるのであり、人間の両方の生命の中に、即ちその理解の生命と意志の生命の中に植え付けられたものは引き抜かれることは出来ないからである。死後生きる人間の霊魂そのものはそのものにより形作られるのであり、それはそこから決して後退しないような性質を持っているのである。これがまた教会の中にいて、そのことが現実となっている者たちの運命が教会外にいる者の運命よりも悪くなっている理由である、なぜなら教会外にいて、異邦人と呼ばれている者たちは、これらの真理を知っていないため、それらを否定して、そのことを確認はしていないからであり、それで彼らの中で相互愛に生きた者たちは、神的な真理を、この世でないなら、他生で容易に受け入れるからである。(他生における異邦人と他の人々との状態と運命については経験から引照したことを参照されたい、2589−2604番)。

 

 

 

天界の秘義4747[3]

 

 こうした理由から何か新しい教会が主により設立されつつある時は、それは教会の中にいる者らのもとで設立されはしないで、教会の外にいる者たち、すなわち、異邦人のもとで設立されるのである。

 

 

 

 

15.彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される

 

 

天界の秘義4754

 

イシマエル人・・・単純な善の中にいる者

 

「彼は我々の兄弟であり、肉身であるから」(出エジプト37・27)。

これは、彼らから発しているものが受け入れられるからである、を意味していることは以下から明白である、すなわち、『兄弟』の意義は善から生まれた血縁関係であり(3815番)、『肉身[]』の意義は両方の意義における自分自身のものであり(3813番)、かくてそれは教会のものである者らから発しているため、受け入れられ、またそれは単純な善にいる者たちにより受け入れられたため、これらの者によっても受け入れられたということである。なぜならイシマエル人は単純な善にいる者たちを表象し、ヨセフの兄弟たちは仁慈から分離した信仰の中にいる教会を表象しているからである。単純な善の中にいる者たちは、主の人間的なものは神的なものであり、また人間は救われるためには仁慈の業を為さなくてはならないことを承認するのである。分離した信仰の中にいる者たちはそのことを知っており、それで彼らはこの信仰を凡ゆる者の前に強く主張はしないのであり、単純な善の中にいる者たちの前には全く主張はしないのであるが、そのことは主として彼らは常識に反したことを敢えて語らないためであり、また彼らはそのようなことを主張して自分自身の威厳と利得とを失ってしまうためである。なぜならもし彼らが仮にもこれらの真理を否定するなら、単純な善の中にいる者たちは彼らについて彼らは愚物であると言うからである。なぜなら単純な善の中にいる者たちは愛とは何であるか、愛の業とは何であるかを知ってはいるが、それらのものから分離した信仰の何であるかを知りはしないからである。業と対立した信仰を支持し、また主の人間的なものと神的なものとの区別について論じる議論を彼らは訳の分からぬ詭弁と呼ぶのである。それで彼らが受け入れられようとしてまた彼らから発しているものが受け入れられるため、分離した信仰の中にいる者らは進んで譲歩するのである、なぜなら、もしこれらの真理が消滅するなら、彼らは利得も栄誉も受けはしなくなるからである(4751番)。

 

 

 

天界の秘義9256〔2〕

 

更に教会の外にいて『異邦人』と呼ばれている者たちについては、彼らは実際教義の誤謬の中にはいるが、しかし聖言を持たないため、無知からその中にいるのであって、それでも教えられると、人間のもとにある天界の生活については、基督教徒よりもさらに明白に認識し、従ってさらに内的に認識しているのである。その理由は彼らは、非常に多くの基督教徒のように信仰の諸真理に反したことを確認していないということであり、それでその内なる人は閉じられていないで、小さな子供たちのように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。なぜなら悪い生活を行っている凡ての者のように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。なぜなら悪い生活を行っている凡ての者のように、信仰の諸真理と諸善とに反したことを確認した者らは、その者自身の中に内なる人の上部を閉じて、その下部を開くからである。その結果彼らの内なる人は下に在る事柄のみを眺め、即ち、外なる、または自然的な人のみを覗き込み、そのことを通して世の事柄のみを、自分の身体の周囲の、また地上の事柄のみを眺め、そのことが行われると、彼らは下方を眺めるのであり、彼ら方面を眺めることは地獄の方を眺めることである。

 

 

 

こうした人物の内なるものはもしこの世でないなら他生で上方へ開かれる。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P69

‘88・11・15

 

今日は肩にイエスの十字架を感じました。主の御心が恐ろしいほどの痛みで満ちているのが感じられます。主はなんとお苦しみでしょう・・・(それは世が主を拒むからです。)

 

♡ 私です、十字架を感じ、私を休ませてくれるように、我が光の子よ、本当に疲れ果てた、そばにいてほしい、この悲しみのさ中 慰めてもらう必要がある。 我がヴァッスーラ、聞いて書くように。 ああ 被造物よ! 我が種子よ! 私はあなたの聖なる者、しかしあなたは私を 悪者にしている、はるか永遠から愛し続けてきたが、あなたは私を 蔑んでいる、死から救ったが、それでいて私を攻める。 日々あなたを我がパンで養い 我がぶどう酒で満たしてきた しかし悪をもって あなたは私に背いている。 私は愛に渇いているが、あなたは私を渇いたまま 放っておく、あなたが疲れているのを見ては 迎え入れ、我が心のうちに 休ませてあげる、それでいて 私が疲れている時は、拒む。 我が心を開いて、あなたがどう傷つけたかを 見せるが、悪に眼がくらんだあなたは、私を刺し続け、幾度となく 我が心を貫いている。あなたを迎え入れ 抱擁しようと 腕を広げているが、あなたはそっぽを向き、背中しか見せない、優しさをこめて 暖めようと 我が聖心を開き、あなたを訪れても、私の面前で心の扉を閉ざし、外の寒さに 置き去りにする。 物乞いのように一日中 あなたを呼び続け、引き上げ 癒そうと、手を差し伸べている、しかしあなたは、代わりに、私を無視し 拒絶する。 私の眼も 母の眼も 苦しみで疲れ果て、体はもとの姿をとどめないほどに 傷で痛めつけられている。 あなたに求めるのは、平和と愛だけだが、あなたは私の嘆願を聞こうとしない・・・ 私はまず 私自身の者たちのもとを訪れた、しかしここでも、彼らに拒まれ、蔑みと迫害を受けた。 あなた方は私を追跡し、道化のように扱い、裏切った・・・(*) その裏切りによって 私に残された 最後の一滴の涙も 流し尽くした、あなた方の悪意は 永劫を貫き、悪魔たちでさえその悪意に唖然としている ♡

  イエスのお声は苦しみに溢れていました。

あぁ ヴァッスーラ・・・ 同情と深い憐れみにより、注意を与え 死から救い出そうと、私はやって来た、私自身の者たちに あなたを遣わしたが、彼らは私の声を 押し殺してしまった、明るみに出て 己が非が露になるのを怖れて。 私の声を押し殺し、真理の霊を迎え入れないので、私は彼らの罪を よそ者たちによって暴かせる。 あなた方の家の屋根の上で ラッパのように我が声を響かせよう・・・(*) 私のことを全く知らない よそ者たちによって 私は受け入れられた。 戸を叩くと 中に入れてくれた。 貧しいながら、彼らの糧を分かち合い、その貧しさゆえに、私を探し求めてはいなかったが、それでいて、私を見出した。一番の友人たちによって 出来た傷を彼らに見せると、それを見て、彼らは私の傷の前に 膝を屈め、傷の深さに打たれ、私の体に加えられた 暴行に打たれ、心は蝋のように溶けた、泣かないでよい 我が子よ、

♡ ・・・私の声は よそ者に運ばれて行く、そのこだまを聞いたなら 私から発せられたと知るように。 私を求めたことのない よそ者によって 私は高められ、それまで私を知らなかった人びとから 栄光を受ける、そして私は 彼らの師となり 教えを説く、彼らの欠点を 私は消し去り、道理を説き、彼らは私を理解するであろう。 彼らが私の傷を癒そう ♡ 私は牧者、羊飼いたちに打たれ 散らされた、仔羊たちを集める、 ♡ ああ ヴァッスーラ、このすべてはもう 本当に間もなく成就する。 来なさい、私のうちに憩い、私もあなたのうちに 休ませてほしい、愛に結ばれ 分ち合いながら ♡

 

はい、わが主よ。

 

「私たち」

 

いつまでも、アーメン

 

*間があり、それから悲しみを込めて。

 

 

 

 

16.基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それで彼らは異邦人以外の者としては呼ばれることは出来ない

 

 

啓示による黙示録解説110

 

『暗黒』に、『死の蔭』に、『暗闇』にいるが、目を主から開かれる者たちが聖言に多くの所でとり扱われており、彼らにより、善い業にはいたものの、主を知らなかったため、また聖言も持っていなかったため、何ら真理にはいなかった異邦人が意味されている。基督教界で業のみの中にいて、何ら教義の諸真理の中にいない者たちはこれらの者に正確に類似しており、それで彼らは異邦人以外の者としては呼ばれることは出来ない。彼らは実際主を知ってはいるが、それでも主に近づきはしない。彼らは聖言を持っていたが、それでもその中に真理を探求しない。『わたしはあなたの住んでいるところを知っている』により彼らの性質を知ることが意味されている、なぜなら霊界では各々の者はその者の情愛の性質に従って住んでいるからである。ここから『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により、暗闇の中にある彼らの善の生命が意味されていることが明らかとなるであろう。サタンの霊ども[悪鬼的な霊ども]は、霊界で業のみにいる者らを通して力を得ているが、しかしその者らがいなくては何ら力を持っていない、なぜなら彼らは、その者らの一人が、わたしはあなたの隣人です、だから善いことをわたしに為して下さらねばなりません、と言いさえすれば、その者らを彼ら自身に接合させるからである、すなわち、その言葉を聞くと、彼らは近づいてきて、援助を与えるのである。彼らはまたその者が誰であり、またいかようなものであるかを尋ねもしない、なぜなら彼らは真理を持たないからであるが、しかし真理のみによって人は他の者から区別されることが出来るのである。このこともまた『あなたはサタンの王座の在るところに住んでいる』により意味されている。

 

 

 

 

17.教会の外に生れた国民と民との他生における状態と運命について

 

 

天界の秘義2589〜2605

 

 

 

天界の秘義2602

 

 以下のような祭儀をもって一人の最大の神を拝することを己が宗教としている一つの国民がいる(私はそれは東印度から来ていると告げられた)。彼らはその神を拝しているときは、最初は自分自身を賛えるが、しかし間もなく虫けらのようになって平伏すと同時にその宇宙の上のほうに―彼らはその宇宙はぐるぐる旋回していると信じているのであるが―かの一人の最大の神がおられて、彼らが行っていることを見そなわしておられると考えているのである。彼らはこのような宗教的な行事を守っているため、他生でもその行事に連れ帰されるのである。私は彼らがこのような事を想像している間に彼らと語ったのである。彼らの大半はつつましく、従順であり、心は単純である。彼らは天使たちにより徐々にこうした幻想から解放される。なぜなら彼らはその宗教に応じて以下のように教えられるからである。すなわち、その最大の神は主であられ、彼らは主を拝することが出来るために、実際自分自身を賛えることができるが、にも拘らず彼らは小さな虫けらのようなものであり、主は高い所から一切のものを見そなわしておられるのである(と教えられるのである)。このようにして彼らは彼ら自身の宗教により善と真理を知るようになるのである。

 

 

 

新エルサレムの教義3

 

この天界は主が来られた時から現在までこうした者であった凡ての者から形作られた以上、それは基督教徒と異邦人とから構成されているが、しかし主として主が来られた時以来亡くなったところの、全世界から来ている凡ての幼児により構成されていることが生まれている、なぜならこの幼児の凡ては他の者たちと共に、新しい天界を構成するために、主から受け入れられ、天使により天界で教育され、また教訓を受け、留め置かれたからである。ここからその天界はいかに大きなものであるかを結論することが出来よう。幼少の頃死ぬ者はすべて天界で教育されて、天使となることは「天界と地獄」を取り扱った著述に見ることが出来よう(329−345番)。そしてその天界は基督教徒のみでなく異邦人によっても形作られている(318−328番)。

 

 

 

 

18.基督教徒らの観念を一人の神に、即ち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである

 

 

霊界日記4623小

 

基督教徒は三人の神の観念以外の観念を持ってはいない、なぜなら彼らは三人格を承認して、父は神であり、子も神であり、聖霊も神であるものの、それでも一人の神がいるのである、と言っているからである。かくて彼らは彼らの中に数人の神の観念を持ってはいるが、そうした観念は異教徒は持ってはいないのである。それで基督教徒らの観念を一人の神に、即ち、主へ連れ返らせることが最も骨の折れることである、なぜなら主の中に全三一性が完全なものとなっているからである。

 

 

 

 

19.ミカエル

 

 

霊界日記5747

 

主の神性のために戦い、主と父とは一つのものであられ、かくて神は一人であるとの真理のために戦い、信仰の生命[生活]、または仁慈と呼ばれる生命のために戦った者たちはミカエルと呼ばれている。なぜなら主の神性を承認はしない者らはことごとく、心では、霊的な事柄を、または天界に属する事柄を無視してしまうからである。彼らは神について話しはするが、神を意に介しはしないで、いかようなものであれ、たれか悪霊のいかような見解にも加担してしまい、主として、最初の試練で、加担してしまうのである。ミカエルであった者らは主として、古代諸教会から来ており、彼らは凡て確乎としてとどまったのであり、また彼らの間の異教徒から来ている者らであり、また凡ゆる所の幼児たち―その時は成人となっていた者たちであった。

 

 

 

 

20.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P223

‘91・10・13

 

― 私は彼らの会合でひと言を発し そのたったひと言で我が教会を一致させることもできる。 しかし天の栄光は 貧しさ、みじめさと 最も軽蔑された者たちを通して 私に与えられよう。 我が教会は よそ者たちによって造り直させる、熱意の霊、忠実の霊を 彼らのうちに置くがゆえ。 その時あなた方の倉は再び満たされ 大樽からは私の新しい葡萄酒が溢れだそう ♡ あなたが言うように 私を愛し そして私を名のっているなら、もしそうなら私の名ゆえに そして私への愛ゆえに:

        諸教会を一致させなさい。

本物のキリスト者とは うちなる自分がキリスト者であり、そして今もいつも心のうちに 本当の一致がある。 一致は文字によらず 霊のうちになされよう。 ―

 

 

 

 

21.理知的である異教徒もそれ(神的人間性)以外の方法では考えることは出来ない

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP80

 

 ペテロに言われた主の御言葉を提出しよう、そこには主は三度『シモン ペテロよ、あなたはわたしを愛しますか』と言われたものの、彼は主に従わないで、ヨハネが主に従ったのである。これらの事柄が言われたのは、『ペテロ』によりここでは信仰のみの中にいる者らが意味され、『ヨハネ』により仁慈の善が意味されているためである。ペテロに対する御言葉から、信仰のみの教義の中にいる者らは主の人間的なものを承認しないが、仁慈の善の中にいる者のみがそのことを承認することが明らかである。(中略) キリスト教徒は神的な人間的なもの[神の人間性]を殆ど考えることは出来ないし、認めることも出来ない(このことは多くの者の経験から示されることが出来よう)、なぜなら彼らは普通の人間を考えて、愛であるところの人間の本質については考えないからである。しかし他方、天使たちはそれ以外の方法で考えることは出来ないのであり、実に、理知的である異教徒もそれ以外の方法では考えることは出来ないのである。

 

 

 

22.アブラム、ナホル、ハランの父であったテラ

 

天界の秘義3778

 

三人の息子、即ち、アブラム、ナホル、ハランの父であったテラは(創世記11・27)、諸教会が発生してくる源泉である共通の根幹を表象しているのである。テラ自身は実際偶像崇拝者であったが、しかし表象する物は人物に関係しないで、その事柄に関係しているのである(1361番)。そして表象的なユダヤ教会はアブラハムに始まり、ヤコブの子孫の間に新たにされたため、それでテラとその三人の息子は諸教会の表象を取ったのであり、アブラムは聖言を持っている者たちの間に存在するような純粋は教会を表象したが、彼の兄弟ナホルは聖言を持たない異邦人たちの間に存在するような教会を表象したのである。主の教会は全地に遍く散在しており、それは仁慈の中に生きている異邦人の間にもまた存在していることは異邦人についてここかしこに示されたことから明らかである。

 

 

 

 

23.未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199

 

「それなら彼は死んでいません。私を信じる者は生きるからです。真の命は肉体が生きる今にあるのではない。命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます。神を信じてその信仰に従って生きたのが、たとえ一日、一時間だけであっても、そう生きたなら、その人はもう死を知りません。すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。私を信じ、私が言う通り行う人、救い主を愛し、この愛を広げて、自分の生きる限り、私の教えを実行する人に、私は永遠の命を約束します。私のぶどう畑に働きに来て、『主よ、あなたの労働者に加えてください』と言って、その意志を変えず、最後まで努力するすべての人は生きます。たとえ自分の命の最後の一時間だけでも、私のぶどう畑で熱心に働けば、最初の時間から働いても、大して熱心ではなく、ただ罰を恐れて働いた人々よりも先に報いを得ます。なぜなら、私の父は直ちに光栄を与えて報いるやり方はなさいません。永遠の罰を避けるに必要なだけの僅かな善だけを行おうと勘定するような人々に、永遠の裁き手は長い償いを与えます。そのような人々は、熱心に、神の光栄を探す真の愛とは何かを、長い償いの間に学ばねばなりません。ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。」