唯一の神

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.不可分離

4.マリア・ワルトルタ

5.複数形

6.パラマハンサ・ヨガナンダ

7.この神が主であることを知ってはいない

8.神は一人であられることを人間は流入のみから知っている

10.新約聖書ではエホバは『主』と呼ばれている

 

 

 

 

1.聖書

 

 

申命記6・4

 

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。

 

 

 

申命記5・6−7

 

わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 

 

 

詩篇18・32

 

主のほかに神はない。

神のほかに我らの岩はない。

 

 

 

イザヤ64・3

 

あなたを待つ者に計らってくださる方は神よ、あなたのほかにはありません。昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も目にした者もありません。

 

 

 

イザヤ45・14

神はたしかにあなたのうちにいます。ほかにはおられない。他の神々はむなしい。

 

 

 

イザヤ45・18

 

わたしが主、ほかにはいない。

わたしは隠れた所で、地の闇の所で語ったことはない。ヤコブの子孫に向かって混沌の中にわたしを求めよ、と言ったことはない。

 

 

 

イザヤ45・21−22

 

わたしをおいて神はない。正しい神、救いを与える神はわたしのほかにはない。

地の果てのすべての人々よ 

わたしを仰いで、救いを得よ。わたしは神、ほかにはいない。

 

 

 

ヨエル2・27

 

イスラエルのうちにわたしがいることをお前たちは知るようになる。

わたしはお前たちの神なる主、ほかに神はいない。

わたしの民はとこしえに恥を受けることはない。

 

 

 

使徒言行録10・34−35

 

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」

 

 

 

ローマ3・29、30

 

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。

 

 

 

ローマ9・5

 

キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。

 

 

 

コリント1・8・4−7

 

そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています。現に多くの神々、多くの主がいると思われているように、たとえ天や地に神々と呼ばれるものがいても、わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです。しかし、この知識がだれにでもあるわけではありません。ある人たちは、今までの偶像になじんできた習慣にとらわれて、肉を食べる際に、それが偶像に供えられた肉だということが念頭から去らず、良心が弱いために汚されるのです。

 

 

 

エフェソ4・5−6

 

 主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ、すべてのものの父である神は唯一であって、すべてのものの上にあり、すべてのものを通して働き、すべてのものの内におられます。

 

 

 

テモテ1・2・5

 

神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスただおひとりなのです。

 

 

 

ヤコブの手紙2・19

 

 あなたは「神は唯一だ」と信じている。結構なことだ。悪霊どももそう信じて、おののいています。ああ、愚かな者よ、行いの伴わない信仰が役に立たない、ということを知りたいのか。

 

 

 

ペトロの手紙1・3・15

 

 心の中でキリストを主とあがめなさい。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義7636

 

「わたしがエホバであることをあなたらが知るためである。」(出エジプト記10・2)

これは、主がただ一人の神であられることが彼らに知られるためである、を意味していることは、『あなたらが知るためである』の意義から明白であり、それは、彼らに知られるため、である。『わたしはエホバである』により、主がただ一人の神であられることが意味されていることは、『エホバ』の名は「存在している」を意味し、かくて凡ゆる物の存在と発生との源泉であられ、かくてただ一人のものでない訳にはいかない方を意味しているためである。(『エホバ』は主を意味していることについては、1343,1736,2921,3023,3035、5663,6303,6905,6945,6956番を参照し、これらの言葉により主はただ一人の神であられることが意味されていることについては、7401,7444,7544,7598番を参照されたい)。

 

 

 

天界の秘義7401

 

「私たちの神エホバのような方は一人もいないことをあなたは知ることが出来るでしょう」。(出エジプト8・6)

これは一人の神がおられ、その神以外にはいかような神も存在しないことを意味していることは以下の事実から明白である、すなわち、歴史的な意味で『神エホバのような方は一人もいない』と言われている時は、内意ではエホバ以外には一人の神もおられないのであり、エホバ以外には一人の神も存在しないため、一人の神がおられることが意味されているのである。聖言には『神エホバのような方は一人もいない』と時々言われ、また『神エホバのような神は一人もいない』と言われている。聖言にそのように言われたのは、当時教会が存在した土地では、教会の存在しなかった土地と同じく、彼らは多くの神々を拝し、各々の者はその者自身の神を他の者の神よりも選んだからである。彼らはこれらの神々を名前で区別し、イスラエル人とユダヤ人の神を『エホバ』の名により区別したのである。ユダヤ人とイスラエル人自身もまた多くの神々がいることを信じたが、しかしエホバはその奇跡のゆえに他の神々よりも偉大であると信じたのであり、それでその奇跡が止んだとき、彼らは直ぐに、聖言の歴史的な部分から明らかなように、他の神々を拝する礼拝へ転落したのである。ただ一人の神がおられ、その神以外には一人も神は存在しないと彼らは実際口では言ったものの、心では信じはしなかったのである。それでこれが聖言に『エホバは他の神々よりも偉大である』、『エホバのような神は一人もいない』と言われている理由である、例えばダビデの書には―

 

あなたのように偉大な神はたれでしょう。あなたは驚くべきことを為される神であられる(詩篇77・13,14)。

私たちの神エホバに似たものはたれでしょう(詩篇93・5)。

エホバは偉大な神であられ、凡ての神々にまさった偉大な王であられる(詩篇95・3)。

エホバは偉大であられ、大いに賛えられねばならない、彼を凡ゆる神々にもまさって恐れなくてはならない(詩篇96・4)。

それでまたエホバは神々の中の神、主の中の主と呼ばれている(詩篇136・2、3、ダニエル2・47)。

 

にも拘らず、これはその内意では一人の神がおられ、その神以外には一人の神もおられないことを意味していることは、イザヤ書に明らかである―

 

前の事柄を代から憶えよ、わたしは神であり、他に神は一人もなく、またわたしのような者は一人もいないからである(イザヤ46・9)。

 

 

 

天界の秘義9105

 

土星の霊たちは、私たちの地球の霊らと話した後で、そのいる所から来ている媒介の霊を通して私と話したが、以下のように言った。自分たちはあなたたちの地球から霊たちが再三自分たちのもとへ来て、自分たちはいかような神を拝していますかと自分たちに尋ねます。自分たちはあなたの地球の霊たちがこうした詮索をするのを認めると、あなたらは気が狂っていると答えます。なぜなら宇宙の凡てのものに対しては唯一人の神しかおられない以上、たれかがいかような神を拝するかと尋ねる以上に狂ったことは在り得ないからです。彼らはまた以下のようにも言った。あなたらは主がただ一人の神であられ天界全体を支配され、従って世界全体を支配しておられることを知っていないということで、さらに狂っています、なぜなら世界は天界を通して支配されているため、天界を支配される方は世界もまた支配されるからです、と。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことに懸かっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

神の愛と知恵13

 

 神について正しい考えを持つことはいかに重要なことであるかは、神についての考えは宗教を持つ凡ての者の思考の最も深いものを構成するという真理により知ることが出来る、なぜなら宗教の凡ての物と礼拝の凡ての物とは神を目指しているから。そして神は宗教と礼拝との凡ての物の中に、全般的にもまた個別的にも存在されるゆえ、神について正当な考えを持たなくては天界と連なる(コミュニケイト)ことは出来ない。ここから霊界では各国人は神を人間として考えるに応じてその位置を定められるということが神いる、なぜならその考えの中にのみ主についての考えが在るからである。死後の人間の生命の状態はその確認した神の考えに順応することは、これと反対のことが、即ち、神の否定と、基督世界では、主の神性の否定とが、地獄を構成しているということから明らかである。

 

 

 

仁慈の教義201

 

「たれ一人主によらなくては仁慈を得ることは出来ない。」

 

ここでは、以下の頁におけるように、主は唯一の神であられるため、主の御名をあげよう、なぜなら主は、主御自身教えられているように、天と地の神であられるからである。父と主とは、主もまた教えられるように、霊魂と身体のように、一つのものである。そして主と聖霊とは、主御自身における神的なものと主御自身から発出した神的なものとして同一のものである。それで主御自身は唯一の神であられ、神的三一性[神の三一性]は主の人格の中に存在して、父、子、聖霊と呼ばれている。さて、教会全体と宗教の一切は神の観念に基礎づけられ、神は一人であられるという観念に基礎づけられているため、またこの観念[考え]は、神は本質と人格において一つのものでない限り、またこの三一性の単一性と単一性の三一性とは主のみの中に存在しない限り決して存在することが出来ないため、それで今ここに最初に、また後の以下の記事の中に主のみの御名をあげなくてはならない。(「主にかかわる新しいエルサレムの教義」の初めから終わりまでの論旨と、「神の摂理にかかわる天使の知恵」の263番をまた参照されたい)。たれ一人主によらなくては仁慈を得ることが出来ない理由は、仁慈により、人間が他の者に行う善のことごとくが意味されており、人間が他の者たちに行う善は、その善を受ける者たちには善ではあるものの、それが神から発していない限り、その善を行う者の中では善ではないということである。

 

 

 

真の基督教6

 

これらの事柄により、聖書は神の充ち満つるものであることが先ず明らかである。単に聖書は神が存在するのみでなく、また神は一人であることを教えていることは、その鏡を形作っている真理によって明らかである。何故なら、それらの真理は首尾一貫した一全体を形作り、人間が神を一人以外のものとして考えることを不可能とするからである。それ故、その理性に聖言によって多少の霊性を得た者は凡て、直覚的に神は1人にて在すことを知り、一人以上であると語ることは愚かなことであることを認める。天使は口を開いて「神々」なる語を発することは出来ない。

 

 

 

真の基督教8(2)

 

「人間の霊魂に対し、神は存在し、その神は一人であるとの意味を伝える神からの普遍的な流入がある。」

 人間へ神からの流入があることは、それ自身善であり、また、人間の中にあり、而して人間によって為される善は凡て、神から由来し、また凡ての仁慈と信仰とは神から来ていることが一般的に認められているということに含まれている。何故なら次の如く記されているからである。「人は天より与えられずば、何をも受くること能はず。」(ヨハネ3・27)。「而してイエス語り給う、汝ら我を離れては何ごとをも為し能はず。」(ヨハネ15・5) 即ち、仁慈あるいは信仰の何物をも為し得ないのである。人間の霊魂にこのような流入があるのは、霊魂は人間の最も深い且つ最も高い部分であり、神より来る流入はその中に入り、そこから下の物に入り、そしてこれをその霊魂が流入を受けるに応じて活かすからである。今後、信仰の主要問題となるそれらの真理は、実に聞くことによって入り来たり、心の中に植え付けられ、かくて霊魂の下に植え付けられる。しかし、人間はこれらの真理によって神からの流入を霊魂を通して受ける準備を為すに過ぎない。而してその受けることはその準備の如何に応じ、かくて単に自然的な信仰は霊的な信仰に変えられる。人間の霊魂に神は一人であるとの意味の流入があるのは凡て神的なものは、全体的にまた個別的に一人の神であり、而して神的なものは一つである故、それは人間に一人の神の観念を注ぎ込まざるを得ないからである。この観念は、人間が神により天界の光へ挙げられる時、日々確実にされる。何故なら、天使はその光の中に神々なる語を発することが不可能であることを知っており、それ故、彼らの凡ての言語はその言葉の終わりでは単一な調子を以て終わっている。これは彼らの霊魂に神は一人であるとの流入がある結果である。人間の魂に神は一人であるとの流入があるにも拘らず、極めて多くの人々が神の神性は同じ本質を持つ幾多の人格に分割されると考える理由は、下降して来る流入がそれに相応していない形に入り、而してその形が、自然界の至る所に行われるように、その流入を改変するということである。同一の神性が人間と獣に生命を与えるが、しかしそれを受け入れる形が獣を獣たらしめ、人間を人間たらしめる。人間もその心に獣の形を植え付ける時これと同様になる。太陽からの流入は凡ての木に同一であるが、しかし各々の形に応じて変化する。葡萄に入る流入は茨に入る流入と同一であるが、しかし茨が葡萄に接ぎ木されるなら、流入は他にその茨の形に応じて発する。更に鉱物界も同様に、石炭と金剛石の上に落ちる光は同一であるが、後者は透明であり、前者は不透明である。人間の心について言えば、それは内的には霊的なものであるその形に従って、神に対するその信仰と神から来るその生命とに従って変化する。この形は一人の神を信ずる信仰によって透明となり且つ天使的となるが、しかしその反対に全き無信仰と殆ど相違しない数人の神に対する信仰によって曇り、獣的になる。

 

 

 

真の基督教538

 

神を一人の人間として考え、これに近づかない限り、彼に関する凡ゆる観念は消滅する。何故なら、その時、その思いは空虚な空間の瞑想に陥るか、或いは、自然とその対象とに向けられるかするからである。永遠から一人にて在す神自らが、救い主なる主の誕生によって明白であるように、世に来り給うたのである。

 

 

 

神の愛と知恵23

 

 人間の知恵のすべては宇宙の創造者である一人の神がおられるということに一致し、いわば、そこに集中している。従って理性のある者はその理解の全般的な性質から、それ以外のことを考えないし、また考えることも出来ない。健全な理性を持つ者に宇宙に二人の創造者がいると語るなら、その反感を買うが、それは恐らく彼の耳の中のその言葉の音から生まれてくるのである。このことから人間の理性の凡ての物は神は一人であられることに一致し、そこに集中していることが明らかである。これには二つの理由が在る。「先ず」、合理的に考える能力そのものは、それ自身において観察されるならば、人間のものでなく、人間の中の神のものである。この能力に人間の理性の全般的な性質が依存し、理性のこの全般的な性質は人間に神は一人であられることを人間自身から認めるように認めさせている。「第二に」、その能力により人間は天界の光の中に在るか、またはその思考の全般的なものをそこから得るかしており、そして神は一人であられることは天界の光の全般的な概念である。が、人間がその能力により理解の低い部分を歪める時は、それは異なって来て、こうした人間は実際その能力を与えられてはいるが、その低い部分に加えられた歪曲により、それを反対に向け、かくてその理性は不健全なものになるのである。

 

 

 

神の愛と知恵24

 

このことから一つの王国には一人の王のみしかありえないことが生まれている、なぜなら数人の王はこれを寸断するが、一人の王はその一致を保つことが出来るからである。

 

 

 

神の愛と知恵25

 

従って天界の天使は単に複数の神を考えるのみで、直ちに分離されてしまう、なぜならそうした者は天界の最外端に放逐されて、下に沈んでしまうからである。

 

 

 

 

3.不可分離

 

 

神の愛と知恵27

 

健全な理性を持つ者であって、神的なものは不可分離のものであることを認め得ない者があろうか、また複数の無限な者、創造されない者、全能な者、神になしさえするなら、それはありうると宣言したと仮定されよ、その一つの同一の本質とは一つの同一物ではないのか、そして一つの同一物は幾多の者にはありえないのである。一は他から発すると言われるなら、その他から発した一は神自身における神ではないか。神自身における神は凡ての物の発生の根源である神である(前述の16参照)。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P136

 

「今日、偶然あなたに会えるとは!」

「偶然? なぜ神のおかげと言わないのですか」

「ヘブライ人の神が真の神であるというわけですか。だれからも愛されていないヘブライ人のような神だったら、負傷者もあわれんでくださらないでしょう」

「真の神はヘブライ人と同時にローマ人、ギリシャ人などすべての人たちの神です。存在するのは唯一の神だけなのに、多くの人はそれを知らないし、知ろうともしません。それを知っていれば、互いに兄弟のようになれるから、憎みも、ざん言も、仇討ちも、淫乱も、盗みも、人殺しも、姦通も、詐欺もあるはずはありません。真の神を知っている私は、その神を知らせるために来たのです」

「いろんなことが言われていますね。我々はよく耳を立て、人の噂を聞き、百夫長と総督に伝えるのですが、あなたについては、神であると言われています。本当ですか?」

下士官はこう言いながら、かなり当惑している様子である。

「その通りです」

「はあ、すると、神々が人間と話を交わすために下って来ることは本当なのですか? 私はローマの旗を守って全世界を巡って来ましたが、この年になって神の一人に出会うとは思ってもみませんでした」

「神はひとりです。神々の一人ではありません」とイエズスは彼のことばを訂正する。しかし下士官は一人の神と一緒に歩いているという考えに呆然自失の態で、もう口をきかず、ただ考え込んでいる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P171/514・7

 

真のは、ヘブライ人だけでなく、ローマ人、ギリシャ人、アラブ人、パルティア人、スキタイ人、イベリア人、ガリア人、ケルト人、リビア人、ヒュペルポレオス人のでもあります。は、ただ御一方です! けれども、多くの人がそれを知らず、誤った知識を持っています。あの方をよく知るなら、すべての人は兄弟のようになるでしょう。権力の乱用、憎しみ、中傷、復讐、色欲、盗み、殺人、姦通、嘘はなくなるでしょう。わたしは真のを知っていて、を知らせるために来ました。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P326

 

『皆を愛において結ぶ』これがメシアの教えで、唯一の真理です。この世には、メシアの王笏の下に一つだけの民があります。天には、唯一の神に見守られている民だけがあります。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館/第4巻中/P19

 

 神は唯一であり、それはわたしであり、わたしのほかに神はいない。そのことを思い出さなければならない。神は忍耐づよいがその無限の忍耐において自分自身に対して罪は負わない。しかし、もしその忍耐を、『そこまでだ!』と言って介入せず、自分自身への尊敬に対する無関心にまで至らしめれば、有罪となろう。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P220

 

いつも柔和で親切なラザロも、さすがに血相を変え、自分があのテオフィロスの息子であることを思い出しでもしたように、悪口雑言をする彼らを、犬を追い払うように外に追い出す。(中略)

 

「さあ、引き上げてください。もう見たいものは見た・・・先生のお力の生きる証明として、私はあなたたちのお相手をしました。まだ信仰を知らない人々を導くようにと、私は甦らしてもらいました。この偉大な奇跡は、信仰のない人々を身震いさせるものです。真の神はただ一人、真のメシアはただ一人、ナザレトのイエズスだけです。私はこのことを告げ知らせるために、再び生きているのです・・・」

 

 

 

 

5.複数形

 

 

天界の秘義300

 

しかし、創世記第一章のように、何事かが天使たちの務めによって行われるとき、神は複数形で言われるのである。

 

 

 

天界の秘義7873

 

聖言には『神々』のことがしばしば言われている。天使たちがそのように呼ばれているときは、真理が意味されており(4295、4402、7268番を参照)、ここからその対立した意義では『いくたの国民の神々』によりいくたの誤謬が意味されているのである(4402、4544番)。

 

諸真理が『神々』と呼ばれていることは真理は神的なものそれ自身から発して、それ自身においては神的なものであり、従ってそれを受ける者たちは『神々』と呼ばれるためである―その者たちが神々であるのではなく、その者たちのもとに在る真理が神的なものであるのである。そこから原語では神は複数形で『エロヒーム』(神々)と呼ばれているのである。

 

神的なものそれ自体は神的な善[神の善]であるが、しかしそこから発出しているものは天界全体を満たしている神的な真理[神の真理]である。それで『神』は真理を意味しているため、その対立した意義では誤謬を意味している。

 

 

 

 

6.パラマハンサ・ヨガナンダ

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P307

 

もはやアメリカ人も、インド人も、すべての国の人々が互いに習慣や信条の違いをぶつけ合うことをやめて、唯一の父をもつ同じ神の子どうしとして振る舞うべきです。キリスト教徒も、ヒンズー教徒も、単なる呼び名にすぎません。

 

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P11

 

われわれを神に目覚めさせるものは、教義の解釈ではなく、魂の自覚です。おのおのの宗教の根底に横たわる共通の真理を会得すれば、教義の違いは問題ではなくなります。私にとってはユダヤ教徒も、キリスト教徒も、ヒンズー教徒もありません。みな同じ兄弟です。私はどの寺院ででも礼拝します。なぜなら、それはみな私の父のために建てられたものだからです。

 

 

 

パラマハンサ・ヨガナンダ講話集/人間の永遠の探求/P397

 

政治家には世界は救えません。世界を救うものは、神に対する理解です。神は、人生の目標です。それがなかったら、人が生きてゆく意味もないでしょう。神を愛する者は、あらゆる宗教を通して人々を導いておられる唯一の神を礼拝すべきです。

神はギーターの中でこう言っておられます―

「わたしを信じ求める者がいかなる道を取ろうとも、わたしはその程度に応じてわたしを現す。人がたどる道は信仰形式のいかんにかわらず、すべてわたしに通じている」(バガヴァッド・ギーター4・11)

ですから他人の信仰を批判してはなりません。信仰を持つ人に対しては、だれに対しても心からの愛と尊敬を表わすべきです。

寺院や教会を見たら、そこに宿りたまう神に、心の中で礼拝しなさい。

 

 

 

 

7.この神が主であることを知ってはいない

 

 

天界の秘義3778[]

 

それでこのことが、ナホル、その息子のベトエル、ベトエルの息子のラバンにより根幹が共通した傍系的な善が表象され、すなわち、異邦人たちの間の主の教会に属している者たちがその中にいるところの善が表象されている理由である。この善は直線的に下降している根幹の共通した善とは以下の点で異なっているのである、すなわち、彼らの善に連結しているその諸真理は純粋なものではなく、その大半は感覚の迷妄[妄想]と呼ばれている外なる外観である、なぜならこれらの異邦人は彼らが明るくされる手段となる聖言を持ってはいないからである。善は実にその本質では唯一つのものではあるが、しかしそれはその中に植え付けられる諸真理からその性質を受けて、そのことによって多様なものとなっているのである。異邦人たちに真理として現れている真理は全般的には、彼らは何らかの神を拝しなければならないということであり―この神から彼らは彼らの善を求め、またこの神にその善を帰しているが、彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいないのである―また彼らは彼らの神を彼らが聖いものとして考えている像の下に崇めなくてはならないということであり、その他さらに多くのものがある。にもかかわらず、これらのものは、彼らがその神に対する愛と隣人に対する愛の中に生きさえするなら、彼らも基督教徒と等しく救われることに対して妨害とはならないのである、なぜなら彼らはこのように生きることによって他生で内的な諸真理を受ける能力を得るからである(932、1032、1059、2049、2051、2284、2589−2604、2861、2863、3263番)。

 

 

 

 

8.神は一人であられることを人間は流入のみから知っている

 

 

黙示録講解954〔2〕

 

神は一人であられることを人間は流入のみから知っており、謂わば、そのことを認めることは凡ゆる国民の共通の告白から明白であり、多くの神々がいると考えることに対する反感から明白である。

 

 

 

 

9.唯一のもの

 

 

神の愛と知恵45

 

思考を働かせて、エッセとエキジステレそのものの観念を把握し、これを理解することの出来る者は、それが真のもの、また唯一のものであることを必ず認め、理解することが出来よう。それのみが存在するものは真のものと呼ばれ、他の凡ての物を発生させるものは唯一のものと呼ばれる。

 

 

 

 

10.新約聖書ではエホバは『主』と呼ばれている

 

 

神の愛と知恵282

 

宇宙の創造者、神は一人であられることは世界に遍く知られ、また賢人各々に内的認識から承認されており、そして宇宙の創造者、神は『エホバ』と呼ばれ、エホバは、彼のみが存在されるため、「存在する」という動詞から来ていることが聖言から知られている。永遠から存在される主がそのエホバであられることは、「新エルサレムの主の教義」の聖言による多くの主張に示されている。エホバは人間を地獄から救うために人間性をとられたため、永遠から存在される主と呼ばれ、かくてその弟子たちに御自身を主と呼ぶように命じられた。それゆえ以下に見ることが出来るように、新約聖書ではエホバは『主』と呼ばれている

あなたは心を尽くし、魂を尽くして、あなたの神を愛しなくてはならない(申命記6・5)。

しかし新約聖書では、

 あなたはあなたの神、主をあなたの心を尽くし、魂を尽くして愛しなくてはならない(マタイ22・35)。

旧約聖書から引用された福音書の中の他の記事でも同一である。

 

 

 

新共同訳聖書

申命記6・5

あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 

新共同訳聖書

マタイ22・37

イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』

 

 

文語訳聖書

申命記6・5

汝心を盡(つく)し精神を盡し力を盡して汝の神エホバを愛すべし

 

文語訳聖書

マタイ22・37

イエス言ひ給ふ『なんぢ心を盡(つく)し、精神を盡し、思ひを盡して主なる汝の神を愛すべし』