ぶどう園の労働者の譬え
葡萄畑/
1.聖書
2.マリア・ワルトルタ
3.スウェーデンボルグ
4.サンダー・シング
5.トマス・ア・ケンピス
1.聖書
マタイ20・1−16
「天の国は次のようにたとえられる。ある家の主人が、ぶどう園で働く労働者を雇うために、夜明けに出かけて行った。主人は、一日につき一デナリオンの約束で、労働者をぶどう園に送った。
また、九時ごろ行ってみると、何もしないで広場に立っている人々がいたので、『あなたたちもぶどう園に行きなさい。ふさわしい賃金を払ってやろう』と言った。それで、その人たちは出かけて行った。主人は、十二時ごろと三時ごろにまた出て行き、同じようにした。五時ごろにも行ってみると、ほかの人々が立っていたので、『なぜ、何もしないで一日中ここに立っているのか』と尋ねると、彼らは『誰も雇ってくれないのです』と言った。主人は彼らに、『あなたたちもぶどう園に行きなさい』と言った。夕方になって、ぶどう園の主人は監督に、『労働者たちを呼んで、最後に来た者から始めて、最初に来た者まで順に賃金を払ってやりなさい』と言った。そこで、五時ごろに雇われた人たちが来て、一デナリオンずつ受け取った。最初に雇われた人たちが来て、もっと多くもらえるだろうと思っていた。しかし、彼らも一デナリオンずつであった。それで、受け取ると、主人に不平を言った。『最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を辛抱して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。』主人はその一人に答えた。『友よ、あなたに不当なことはしていない。あなたはわたしと一デナリオンの約束をしたではないか。自分の分を受け取って帰りなさい。わたしはこの最後の者にも、あなたと同じように支払ってやりたいのだ。自分のものを自分のしたいようにしては、いけないか。それとも、わたしの気前のよさをねたむのか。』このように、後にいる者が先になり、先にいる者が後になる。」
2.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199
「あなたはシリア人ですか?」
「フェニキア人です、主よ。シドンの彼方の者で、私たちはタミリ川の辺りに住んでいます。私には他に十人の男の子と二人の娘がいます。一人の名はシラでもう一人の名はタミーラと言います。シラはまだ娘と言っていいほど若いのに、もうやもめです。やもめになったので、この町に来て、あなたの弟子である兄弟の家に住んでいます。あなたには何でもおできになると言ったのは、彼女でした」
「ここに一緒にいないのですか?」
「向こうのあの女たちの後ろにいます」
「前に来なさい」とイエズスは命令する。女は怖々近寄って来る。
「私を愛しているなら怖がることはありません」と、イエズスは慰める。
「愛していますから、アレキサンドロ・シエネの町から出て来ました。あなたのおことばを聞けば、苦しみに耐えられると考えましたから・・・」と泣く。
「何時、やもめになりましたか?」
「あなたたちのアダルの終りごろでした・・・もしあなたがおられたなら、ゼノは死ななかったでしょう。彼がそう言っていました・・・ゼノはあなたの話を聞いて信じていたからです」
「それなら彼は死んでいません。私を信じる者は生きるからです。真の命は肉体が生きる今にあるのではない。命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます。神を信じてその信仰に従って生きたのが、たとえ一日、一時間だけであっても、そう生きたなら、その人はもう死を知りません。すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。私を信じ、私が言う通り行う人、救い主を愛し、この愛を広げて、自分の生きる限り、私の教えを実行する人に、私は永遠の命を約束します。私のぶどう畑に働きに来て、『主よ、あなたの労働者に加えてください』と言って、その意志を変えず、最後まで努力するすべての人は生きます。たとえ自分の命の最後の一時間だけでも、私のぶどう畑で熱心に働けば、最初の時間から働いても、大して熱心ではなく、ただ罰を恐れて働いた人々よりも先に報いを得ます。なぜなら、私の父は直ちに光栄を与えて報いるやり方はなさいません。永遠の罰を避けるに必要なだけの僅かな善だけを行おうと勘定するような人々に、永遠の裁き手は長い償いを与えます。そのような人々は、熱心に、神の光栄を探す真の愛とは何かを、長い償いの間に学ばねばなりません。ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。女よ、安心しなさい。あなたの夫は死んではいない。生きています。あなたは彼を失ったのではなく、少しの間離れているだけです。今は、花婿の家にまだ入ったことのない花嫁として、不滅の婚姻を準備せねばなりません。徳を得るために働き、もう別れのない、愛を失う恐れも罰もない二人の霊魂の幸せな婚姻に備えることです。霊魂は神に対して、また互いの愛の中で喜び勇むでしょう。『義人にとって死は命である。霊魂の生命力を危うくすることは何もなく、永久に正義の中に生き残れる』ああ、シラ、はかない命を惜しんで泣くな。心を高く上げ、真の正義をもって見なさい。世間は私への信仰を滅ぼす危険があるから、神はあなたの夫をその危険から救われたのです。あなたを愛してくださったために」
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/8卷上P188/515・5
ユダは、話題を変えようと思って尋ねる、「先生、どうお思いになりますか? あのローマ人たちや、ペトラの男は、あなたの教えを受け入れることができるのでしょうか? あなたと接したのは、ほんの僅かですから。それに、あのアレクサンドロは? 行ってしまいました・・・二度と会わないでしょう。そして、この人たちも。彼らは本能的に真実を探すと言う人もいますが、彼らは異教崇拝に首までつかっています。彼らが、何らかの成果を得ることなどあるでしょうか?」。
「真理を見出せるか、という意味ですか?」。
「はい、先生」。
「なぜ、彼らは成果を得られないと思うのですか?」。
「彼らは罪びとですから」。
「彼らだけが罪びとですか? わたしたちの中に罪びとはいないのですか?」。
「もちろん、たくさんいます。だからこそ、わたしは言います。昔から知恵と真理で養われて来たわたしたちでさえ罪を犯し、あなたが示される真理を行う義人になることが難しいです。それなのに、あのように悪に浸った彼らに、どうして可能でしょう?」。
「どんな人でも、どこから出発したとしても、真理、すなわち神に到達して自分のものにすることができます。心に驕りがなく、肉体的逸脱がなく、誠実に真理と光を追い求め、純粋な意図を持ち、神に憧れる人、そういう人は、確かに神への道にいます」。
3.スウェーデンボルグ
黙示録講解194(2)
更に、『時間』は状態を意味しているのは、聖言における時は、例えば、日、週、月、年、代は生命の状態を意味しているように、『時間』も同じくそのことを意味しているためである(そのことの理由は「天界と地獄」、162−169番に―そこには天界における時間が取り扱われているが、そこに―見ることが出来よう。しかし『時間』が聖言に記されている所では、『時間』は時と状態とを意味しているため、それは時以外の何かを意味していることは殆ど知られることは出来ないのである。例えばマタイ伝には―
家の主人はそのぶどう園へ労働者を雇った、彼らは第三時[第三の時間]、第六時[第六の時間]、第九時[第九の時間]、第十一時[第十一の時間]から働いたが、等しい報酬を受けとった(20・1−16)
これらの時間は、世では、時を意味しているが、しかし天界では、生命の状態を意味しているのである、なぜなら天界では、時は、世におけるように測られることは出来ないし、日に分けられはしないし、日は時間に分けられはしないため、時間は存在しないからであり、従って、そうした時に代って、天使たちは老人、大人、青年、または子供の頃に死に、同じように己がために[自ら]霊的な生命を得ている者たちの生命の状態を認めており、『ぶどう園で働くこと』は、聖言から得た真理と善とにかかわる知識を生命[生活]の用に適用し、そこから[自ら]のため[自ら]霊的な生命を得ることであり、『第三時[第三の時間]』、第六時[第六の時間]、第九時[第九の時間]は同じような生命の状態を意味している、なぜなら聖言における数はことごとく表意的なものであり、これらの数も同じような意義を持っているからである。(聖言の『ぶどう園』は霊的な教会を意味し、また人間のもとでは霊的な生命を意味していることについては、「秘義」、9139,3220番を参照されたい。『三』は充分な状態を、または完全になり、最後にすら至ったものを意味していることについては、2788、4495、7715、8347、9835番を参照し、『六』と『九』も同じことを意味している。しかし『十一』は、気質の善い子供たちと幼児たちとのもとに在るような、未だ充分なものではないが、それでも受け入れる状態を意味している。『十二時[十二の時間]』は
―その時間まで凡ての者は働いたが、その時間は―真理と善との充分なものを意味している、577,2089,2129,2130,3272、3858、3913番。聖言の数字は凡て表意的なものであることについては、4495、4670、5265、6175、9488、9659、10217、10253番を、合成数も、掛け合わせられることによりその数を生み出している単一数の意義に似た意義をもっており、かくて『3』、『六』、『九』は同じような意義を持っていることについては、5291、5335,5708、7973番を参照されたい)。
天界の秘義5164[2]
主に対しては凡ての者は、その境遇はいかようなものであっても、等しく僕であるということであり、主の王国または天界では最も偉大な者は(すなわち、最も内なるものである者たちは)、最大の服従の中にあり、他の者よりもさらに深い卑下の中にいるため、他の者以上に僕となっている、なぜならこれらの者は『最も偉大なものとなる最小のもの』により、また『最初のものとなる最後のもの』により意味されている者たちであるからである―
最初のものは最後となり、最後のものは最初のものとなるである(マタイ19・30、20・16、マルコ10・31、ルカ13・30)。
4.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P384
祈りの中で主とともに生きるときに、わたしたちは主を知り、主を知ったときには、その愛が主のぶどう園に行き、主のために働くよう、わたしたちを急き立てるのです。そのときこそ、わたしたちは主ご自身の子供になり、主を愛するようになるのです。
5.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストにならいて/3・47・2
自分の仕事を大事にして、わたしの葡萄畑で忠実に働け。そうすればわたしはあなたの報償(むくい)となるだろう。書き、読み、歌い、嘆き、沈黙し、祈り、雄々しく辛いことを忍べ。永遠の生命はこれらのすべての戦闘(たたかい)、いな、いっそう大いなる戦闘をもする価値があるのである。いつか平和がくるだろう、その日は主がごぞんじでるが、そのときには、いまのような昼夜の区別がなくなって、いつまでも光あり、終わりなく明るく、揺ぎない平和と、安らかな憩いとがあるだろう。