葡萄畑

 

 

ぶどう園の労働者の譬え(マタイ20章)

ぶどう園と農夫(マタイ21、ルカ20)

 

 

1.聖書

2.真理の方面の教会

3.その教会を乱さないように注意しなくてはならない

4.マリア・ヴァルトルタ

5.『ぶどう園で働くこと』は、聖言から得た真理と善とにかかわる知識を生命[生活]の用に適用し、そこから[自ら]のため[自ら]霊的な生命を得ること

 

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ5・4−6

 

わたしがぶどう畑のためになすべきことで何か、しなかったことがまだあるというのか。

わたしは良いぶどうが実るのを待ったのに なぜ酸っぱいぶどうが実ったのか。

さあお前たちに告げよう。

わたしがこのぶどう畑をどうするか。

囲いを取り払い、焼かれるにまかせ

石垣を崩し、踏み荒らされるにまかせ

わたしはこれを見捨てる。

枝は刈り込まれず

耕されることもなく

茨やおどろが生い茂るであろう。

雨を降らせるな、とわたしは雲に命じる。

 

 

 

マタイ21・28−32

 

「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。

 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。徴税人や娼婦たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。なぜなら、ヨハネが来て義の道を示したのに、あなたたちは彼を信ぜず、徴税人や娼婦たちは信じたからだ。あなたたちはそれを見ても、後で考え直して彼を信じようとしなかった。」

 

 

 

 

2.真理の方面の教会

 

 

黙示録講解734ハ

[12]

 

『家を建てること』は教会を設立することを意味し、同じようなことが『ぶどう園を作ること』により意味されているが、『家』は善の方面の教会を意味し、『ぶどう園』は真理の方面の教会を意味している、なぜなら善も真理も教会が人間の中に存在するためには、人間の中に植えつけられねばならないからである。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P167

‘89・5・1

 

♡ 我が実り豊かな葡萄畑に 歓呼の声をあげて歓びなさい、私自身の手で土を返し 耕した、自らの手で棘や茨を抜いて燃やした、我が覆いをかぶせて 敵の引き起こす から風や嵐から護っている、私は情熱を込め 永遠にそれを見張る 熱心な園丁 ♡ この葡萄畑はあなた方への贈物、世界全体を満たし養うために 葡萄は自由に与えられよう ♡ 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P13

‘89・10・9

 

あなたに平和 ♡ 夜の間に我が葡萄畑を破壊しようと いまだに試みる者たちのために祈りなさい、こうした霊魂たちに対する怒りが軽減するように 我が ヴァッスーラ 祈りなさい ♡

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P97

‘92・7・7 メキシコ―マツァトラン

 

もうこれ以上躊躇してはならない時がきた。 できる場所はどこにでも 葡萄畑をひろげなさい。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P98

‘92・7・8

 

「あなたは葡萄の木をエジプトから移し: これを植えられました。そのために場所を整え、根づかせ、この木は地に広がりました。その陰(メッセージ)は山々を覆い、枝は神々しい杉をも覆いました。あなたは大枝を海にまで、若枝を大河にまで届かせられました。神よ、立ち帰って下さい。天から目を注いでご覧下さい。この葡萄の木を顧みて下さい、あなたが右のみ手で植えられた株を。」(詩篇80・8−11、15−16)

 

 

天界の秘義5117[13]

 

「あなたはあなたの仲間のぶどう園に来たときは、心のままに、あくまでもぶどうを食べてよい、しかし器の中へ一つも入れてはならない(申命記23・24)。」

「これは異なった教義と宗教とを奉じている他の者たちと交わっている者はすべてかれらの仁慈の諸善を学んで、それを受け入れても良いが、しかしそれにしみ込んで、それを自分自身の真理と連結してはならないことを意味しているのである。『ぶどう園』は教会を意味しているため、それは教義または宗教の在る所を意味しており、『ぶどうの果』は仁慈の善であり、『器』は教会の真理である。」

 

 

3.その教会を乱さないように注意しなくてはならない

 

 

天界の秘義6047[3]

 

 教会の諸真理がその記憶知と連結することがここにとり扱われているが、しかしそれらがいかようにして連結されることができるかを知ることが必要である。なぜなら実際記憶知から出発し、記憶知を通して信仰の諸真理へ入ってはならないからである、それは人間の記憶知は感覚の事物から発し、かくて世から発しており、その事物からは無数の迷妄[妄想]が発生しているためである。しかし出発は以下のように信仰の諸真理からなされなくてはならないのである。先ず教会の教義的な事柄が学ばれて、次にその教義的なものが真であるか否かを見るために、聖言を調べなくてはならないのである、なぜならその教義的な事柄は教会の主だった者らがそのように言っており、その信奉者連がそれを確認しているからといって真ではないからである、なぜならその場合凡ゆる教会と宗教との教義的な事柄は、たんにそれらがその国に在って、人々は生まれおちたときからそれらを信奉しているといった理由のみから、真理であると呼ばれねばならなくなり、教皇派のみでなく、クエーカ派の教義的なものも、またユダヤ教徒の、実にマホメット教徒の教義的なものさえも、その指導者たちがそう言っており、その信奉者らがそれを確認しているために、真のものとなってしまうからである。このことが聖言を調べて、そこにその教義的なものが真であるか否かを見なくてはならぬことを示しているのである。このことが真理を求める情愛から為されると、そのときはその人は主から明るくされ、何が真であるかを、何処からかは知らないが、認めることができ、その人の中に宿っている善に応じてその真のものを確認するのである。もしこれらの真理がその教義的な事柄と一致していないなら、かれはその教会を乱さないように注意しなくてはならない。

 

 

 

 

4.マリア・ヴァルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P199

 

「それなら彼は死んでいません。私を信じる者は生きるからです。真の命は肉体が生きる今にあるのではない。命とは、道と真理と生命を信じて、それに従って生きることによって得られます。神を信じてその信仰に従って生きたのが、たとえ一日、一時間だけであっても、そう生きたなら、その人はもう死を知りません。すべての人間の父である私の父は、信仰と法と義において送った時間の長さではなく、『死ぬまでそれを守って生きたいという意志』をごらんになります。私を信じ、私が言う通り行う人、救い主を愛し、この愛を広げて、自分の生きる限り、私の教えを実行する人に、私は永遠の命を約束します。私のぶどう畑に働きに来て、『主よ、あなたの労働者に加えてください』と言って、その意志を変えず、最後まで努力するすべての人は生きます。たとえ自分の命の最後の一時間だけでも、私のぶどう畑で熱心に働けば、最初の時間から働いても、大して熱心ではなく、ただ罰を恐れて働いた人々よりも先に報いを得ます。なぜなら、私の父は直ちに光栄を与えて報いるやり方はなさいません。永遠の罰を避けるに必要なだけの僅かな善だけを行おうと勘定するような人々に、永遠の裁き手は長い償いを与えます。そのような人々は、熱心に、神の光栄を探す真の愛とは何かを、長い償いの間に学ばねばなりません。ここで特に言っておきますが、未来においては特に異邦人の中で、一時間だけの、あるいはそれよりも短い時間働いて私の国で光栄を受けるであろう人々は多い。神のぶどう畑に招かれて、聖寵に従って愛の英雄的な行為に達した人々です。女よ、安心しなさい。あなたの夫は死んではいない。生きています。あなたは彼を失ったのではなく、少しの間離れているだけです。」

 

 

 

5.『ぶどう園で働くこと』は、聖言から得た真理と善とにかかわる知識を生命[生活]の用に適用し、そこから[自ら]のため[自ら]霊的な生命を得ること

 

ぶどう園の労働者の譬え(マタイ20章)

 

 

黙示録講解194(2)

 

『ぶどう園で働くこと』は、聖言から得た真理と善とにかかわる知識を生命[生活]の用に適用し、そこから[自ら]のため[自ら]霊的な生命を得ること