ぶどう園と農夫の譬
葡萄畑/
ルカ20・10−16
ぶどう園を作った人はかれらがそのぶどう園の実のものをその人に与えるために僕をつかわした、しかしその農夫らはその僕を打ちたたき、何も与えはしないでかれを追い帰した。再びかれは他の一人の僕をつかわした、かれらは、かれを何も与えないで追い帰した。更にかれは第三の僕をつかわしたが、かれらはかれを傷つけて、投げ出した。するとそのぶどう園の主は言った、わたしは何をしようか。わたしはわたしの愛している息子をつかわそう、と。しかしかれらは言った、これは相続人である、さあ、かれを殺してしまおう、と。で、かれらはかれをそのぶどう園から投げ出し、これを殺してしまった。(マタイ21・33−46、マルコ12・2−9)。
黙示録講解315ニ(22)
これはユダヤ人の間に設立された教会について言われており、それは、かれらが聖言から得ている凡ゆる真理を伝承により、適用により歪曲し、誤謬化したことを記している。ここの細々したことにはそのことごとくに霊的な意義があるのである、なぜなら何であれ主が話されたことはことごとく、主はまた、神的なものから話されたために、霊的に話されたからである。『その人が作ったぶどう園』は真理の中に在る教会を意味し、『かれが三度つかわした僕たち』はモーセと予言者たちとを通してかれらに与えられた聖言を意味し、三度と言われているのは、『三』は充分な、完全なものであるものを意味し、『かれらがかれらを打ち、傷つけ、何ものも与えないで、そのぶどう園から追い帰したこと』は、かれらが聖言に含まれている諸真理を誤謬化し、歪曲したことを意味し、『何も与えないでぶどう園から追い帰すこと』は、かれらは聖言から諸善と書真理とを剥ぎとったことを意味している。『愛した息子』は神的真理の方面の主を意味し、それでまた主は聖言と呼ばれたもうており、『かれらはかれをそのぶどう園から投げ出して、かれを殺した』は、主を殺してしまったことのみでなく、主から発している神的真理をことごとく殺してしまったことを意味している(また前の83番を参照)。
マタイ23・37−38、ルカ13・34−35
「エルサレム、エルサレム、預言者たちを殺し、自分に遣わされた人々を石で打ち殺す者よ、めん鳥が雛を羽の下に集めるように、わたしはお前の子らを何度集めようとしたことか。だが、お前たちは応じようとしなかった。見よ、お前たちの家は見捨てられて荒れ果てる。」