隅の親石

 

 

異邦人の教会

そして人々は、東から西から、また南から北から来て(ルカ13・29)

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ヴァッスーラ

 

 

 

1.聖書

 

 

詩篇118・22−23

 

家を建てる者の退けた石が

隅の親石となった。

これは主の御業

わたしたちの目には驚くべきこと。

 

 

 

イザヤ8・14−15

 

主は聖所にとっては、つまずきの石

イスラエルの両王国にとっては、妨げの岩

エルサレムの住民にとっては

仕掛け網となり、罠となられる。

多くの者がこれに妨げられ、倒れて打ち砕かれ

罠にかかって捕らえられる。

 

 

 

ルカ20・17−18

 

イエスは彼らを見つめて言われた。「それでは、こう書いてあるのは、何の意味か。 『家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。』その石の上に落ちる者はだれでも打ち砕かれ、その石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。」

 

(マタイ21、マルコ12)

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義6426

 

『そこからイスラエルの石、羊飼いが出る』(創世記49・24)

・・・そこから主の霊的な王国の善と真理との一切が発する。

 

『イスラエルの石』はその最高の意味では主の霊的な王国に存在する真理の方面の主を意味しているのは、『石』により全般的に神殿が意味され、特定的には神殿の基礎が意味され、『神殿』により(ヨハネ伝2・19、21に明白であるように)、主の神的な人間的なものが意味され、またその基礎によってもそのことが意味されているからである(マタイ21・42,44、イザヤ28・16)。『石』はその最高の意味では主の霊的な王国のものである神的な真理の方面の主を意味していることはダビデの書に明白である―

 

建築師たちの斥けた石は隅の頭石となった。これはエホバから為されたのであり、私たちの目には奇しきことである(詩篇118・22,23)。

 

ここの『石』は主であられることはルカ伝に明白である―

 

建築師らの斥けた石は隅の頭石となったと記されている、たれでもこの石の上に倒れる者は凡て砕かれ、それがたれであれ、その者の上に落ちるなら、その者を粉々にすりつぶしてしまうであろう(ルカ20・17,18)。

 

これらの言葉を主は御自身について語っておられるのである。イザヤ書には―

 

かれを恐れよ、かれを畏めよ。かれはイスラエルの二つの家には、躓きの石、咎の石ではあるが、聖所となられるであろう、彼らの多くの者は躓き、倒れ、砕かれるであろう(イザヤ8・13−15)。

 

 

 

 

天界の秘義9163

 

『石』は神的な真理の方面の主を意味し(6426番)、『砕かれること』は、主から発している諸真理について言われているときは、散らされることを意味し、かくて破壊されることを意味し、その諸真理とともに、霊的な生命に属したものも(破壊されることを意味し)、それは主を否定して、その諸真理を無視する者らに起るようになるのであり、これらの者が『その石を斥ける』者らである。

 

 

 

天界の秘義9256〔7〕

 

 この凡ての記事の中で取り扱われている主題は主であり、即ち、異邦人たちは主のもとへ来ることであり、彼らが主を彼らの神として承認する時、彼らは主のもとへ来るのである。そして驚くべきことには、異邦人たちは唯一の神を人間の形の下に拝するのである。それで彼らは主について聞くと、主を受け入れ、承認するのであり、新しい教会も他の者のもとには設立されることは出来ないのである。その教会はこうした者たちのもとに再び設立されることは、マタイ伝の主の御言葉から明白である―

 

 あなたたちは、建てる者らが斥けた石が隅の親石となったことを聖書に読みませんでしたが。それでわたしはあなたらに言う、神の王国はあなたらから取り去られて、実を結ぶ国民に与えられるでしょう(マタイ21・42、43)。

 

『石』は主を意味し(6426番)、『建てる者たち』は教会に属した者たちを意味しているのである。これらの者は最後の者となり、異邦人が最初の者となることは、ルカ伝に以下のように言われている―

 

 彼らは東と西から、北と南から来て、神の王国の食卓にもたれるであろう。見よ、最初の者となる最後の者があり、最後の者となる最初の者がいるであろう(ルカ13・29、30)。

 

 

 

天界と地獄534

 

 天界に通じる道と地獄に通じる道とがあって私に表象されたことがある。一本の広い道が左の方へ、または北へ伸び、多くの霊がそこを進んで行くように見えたが、しかし遠方に一つの大きな石が見え、そこでその広い道は止まっていた。その石から後に二本の道が出ていて、一つは左に、一つは反対の方向の右に伸びていた。左に伸びていた道は狭く、または窮屈であり、西を通って南に進み、かくて天界の光の中へ入っていたが、右に伸びた道は広々としていて、地獄に向って斜めに下の方へ伸びていた。はじめは凡ての者はその二つの道の上端にあるその大きな石へ来るまではその同じ道を進むように見えたが、しかしその地点へ来ると、分かれた。善良な者は左に向いて、天界に通じているその狭い道に入ったが、しかし悪い者はその石を見ないで、その上に倒れ、傷ついた、彼らは起き上がると、右手の地獄へ伸びているその広い道へ飛び込んだのである。その後その凡ての事柄の意味が私に説明された。善い者も悪い者も、その間には目には何の相違も見えなかったため、互いに友達として語り合いつつ歩いていったその最初の広い道により、外なるものでは同じように誠実に公正に生活していて、目には区別があるようには見えない者たちが表象された。その二つの道の先端にある、または隅にある石により―その石の上で悪い者は倒れると、地獄に通じている道へ駆け込んだのであるが―地獄の方を眺める者らにより否定される神的真理が表象され、またその同じ石によりその最高の意味では主の神的な人間的なもの[神的人間性]が意味されたのである。しかし神的真理を承認すると同時に主の神的なものを承認した者たちは天界へ通じる道から導かれて行ったのである。これらの事柄から、外なるものの中では邪悪な者も善良な者と同じような生活を送り、または同じ道を歩み、かくて一方も他方と同じように容易に歩いては行くものの、心から神的なもの[神]を承認している者たちは、特に主の神的なものを承認している教会内の者たちは天界に導かれ、承認しない者は地獄へ連れて行かれることが再び明らかにされたのである。意図または意志から発出する人間の思考は他生では道により表象されている。道もまたそこに丁度意図の思考に応じて目に示され、各々は意図から発する思考に従って歩いている。従って霊たちとその思考との性質はその者たちの道から知られる。これらの事からまた主の以下の御言葉の意味が明白になったのである「狭い道から入りなさい、滅亡に通じている門は広く、その道は大きく、そこから入る者は多いが、生命に通じている道は狭く、その門は狭く、それを見出す者は僅かしかいないからである」(マタイ7・13、14)。生命に通じている道が狭いのは、それが困難だからではなくて、ここに言われているように、それを見出す者が僅かしかいないからである。隅に見えた石から―その隅にその広い共通の道が終り、またそこから二本の道が反対の方向へ通じているのが見えたが―主の以下の御言葉の意味が明らかにされた、「建てる者らの棄てた石は隅の親石となった、たれでもその石の上に倒れる者は砕かれるであろう、と記されていることをあなたらは読んでいないか」(ルカ20・17、18)。石は神の真理を、イスラエルの石は主の神的人間的なものを意味し、建てる者らは教会の属する者たちであり、隅の親石はその二つの道の在る所に在り、倒れて、砕かれることは否定して、滅びることである(*1)。

 

*1石は真理を意味している。114、643、1298、3720、6426、8609、10376。それ故律法は石の板に刻み込まれた、10376。イスラエルの石は主の神的真理と神的人間的なものである、6426。

 

 

 

霊界日記5798

 

<天界へ通じている道は、隅の親石までは、地獄へ通じている道とは同一である>

 

 私は以下の事実について天使たちと話し合った、即ち、天界へ至る道を歩んで行くことは困難である、と信じられているのである、なぜなら極めて多くの事柄が行われなくてはならないし、凡ゆる欲念が棄て去られ、他に、更に多くの事柄が行われなくてはならないからである、と。それで霊界で起ることではあるが、その事柄は一つの道により示された、その道は導いて行く真理を意味しているのである。一つの道が右に現れ、そこを善良な者も悪い者も歩いていた。それは同じ道であったが、しかし、彼らが或る距離へ達した際、一つの大きな石が、日蔭になって、置かれていて、それを善良な者たちは見たが、しかし悪い者は見なかった。その石から―それは隅の親石と呼ばれているが、そこから―一つの道が片側へ通じ、他の一つの道がそれとは反対の方向へ通じていた。悪い者はその反対の側を行ったが、それは後ろに在って、降り坂になっていた、しかし善良な者たちは他の一方の道を行ったが、それは上り坂になっていた。後の道は天界へ通じていたが、前の道は地獄へ通じていた。かの石は主とその神的な人間的なものとを意味したのである。悪い者らはそれを承認しなかったが、善良な者たちは承認した。悪い者らはその石の上で倒れるように見えた、その石は日蔭になっていたからである。このことから以下のことが示された、即ち、悪い者も善い者も送っている道徳的生活は同一ではあるが、しかし動機は異なっているのである、悪い者らは奈落の動機からそれを送りはするが、善良な者は霊的な動機から送るのである。そこを旅して行った悪い者らは、善良な者の道徳的な生活に似た道徳的な生活を送った者らであった。その隅の親石については、マタイ21・42、マルコ12・10、11、ルカ20・17,18を参照されたい。その石に倒れた者は、自分たちは倒れた時、気が遠くなってしまったかのように倒れ伏してしまった、と言った。彼らは起き上がると、自分らは他の者らと同じく多くの善いことを行ったのであり―彼らはその中のいくつかを列挙することも許されたのであるが―それで、自分らも同じく天界に入る資格を与えられている、と言った。しかしそれらは単に外なる形における社会的な生活の善に過ぎなかったのである、なぜなら内部が―それは思考と愛とのものであったが、それが―開かれ、それは汚れたものであり、また神を特に主を傷つけるものであった。彼らは、また、怒って、言明した、自分らは自分ら自身では善を行うことは出来ない、そうであるなら、どうして自分らは天界へ通じる道を歩んで行くことが出来ようか、と。しかし彼らは以下のように話されたのである、即ち、神について、主について悪いことを考えないこと、かくて聖言に反し、教義に反し、あなたらの信仰の教義に反しているような事柄を避けることは、あなたらの力の中に在るのであり、あなたらが思考の幾多の悪を避けると、その時は、主から、善い情愛が、その情愛から生まれてくる思考が流れ入り、かくてあなたらは主により善の中へ連れて来られるのであり、あなたらが善の中にいるに応じて、益々真理の情愛[真理に対する情愛]の中にいるのである、と。

 

 

 

 

3.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P143

‘90・4・22

 

「家を建てる者の退けた石が 隅の親石となった。」(詩篇118・22) わが主 イエス、あなたは当時メシアとして退けられました、彼らの精神にそなえがなく、心は閉じていて頑なだったからです。それでも結果としてあなたは隅の親石でした。私どもの世代でも わが主よ、聖霊のほとばしりは「家を建てる人たち」に退けられています、それでもきっといつか、あなたの聖なる霊が隅の親石だったと皆に分かる日が来るでしょう。思い出される者として来られる聖霊を拒んで押さえつけ、「家を建てる人たち」は再び自分自身の破滅をそなえています。

 

以前の予言が実現したのが分かったであろう? 実に、「私の名において御父が送られる弁護者、聖霊はあなたにすべてを教え 伝えたすべてを思い出させる」と言ったが、残りの者たちだけが聴いて 戻って来ると はじめから知っていた。 耳を傾けてくれるまさにこの者たちに 我が英知と洞察力の聖なる霊を投じよう、そう、我が助力と知識の霊を投じる。 こうして今やこの世界に残されているかすかな光は 鮮やかな炎となろう。 くり返し言う、我が恵みの聖霊は地球の隅々にまで送られて あなた方を聖とするように教え 再び神聖な存在にまで引き上げようとしている。 地上は天の写しとなり こうして我が意思は達成され、皆に教えた祈りは成就しよう。

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P126

‘92・8・26

 

今日はまことに言う: 「家を建てる者の退けた石が隅の親石となった(*)。」

    詩篇118・22。

 

今日では 我が恵みの聖霊が隅の親石 その石につまずく者は誰であれ 粉々にされる。 それが落ちてきて 下敷きになった者はつぶされる。 こうして皆に  強い警告を発した、これ以上私を試さないように そして 娘よ、あなたの民が容易に受け入れようとしなくても 驚くことはない、どの預言者も自分の国では 受け入れてもらえない、それができていたなら 彼らに真心を尽くしただけで 今日敵にまわっているはずもない。 来なさい、あなたと仲間たちを 祝福する。