隅の親石(マタイ21、マルコ12、ルカ20)

 

 

ルカ19・40

 

イエスはお答えになった。「言っておくが、もしこの人たちが黙れば、石が叫びだす。」

 

 

 

ルカ19・44

 

お前とそこにいるお前の子らを地にたたきつけ、お前の中の石を残らず崩してしまうだろう。それは、神の訪れてくださる時をわきまえなかったからである。

 

 

 

天界の秘義1296

 

「さあ、煉瓦を作ろう」。

 

これは彼らが彼ら自身のために作り上げた誤謬を意味していることは『煉瓦』の意義から明白である。聖言では『石』は真理を意味しており、それで『煉瓦』はそれが人間により作られるため、誤謬を意味している、なぜなら煉瓦は技巧的に作られた石であるからである。

 

 

 

天界の秘義1298

 

「彼らは石に代えて煉瓦を得た」。

これは彼らが真理に代えて誤謬を得たことを意味していることは、今し方誤謬であると示されたばかりの『煉瓦』の意義から明白であり、また『石』の意義からも明白であって、それは広い意味では真理である。そのことについては前を参照されたい(643番)。石が真理を意味したのは以下の理由からであった、即ち、最古代の人々の境界は石により示されて、彼らは実際はこれこれである、またはそれは真であるという証として石を立てたのであり、そのことはヤコブが柱として建てた石から明白であり(創世記28・22、35・14)、ラバンとヤコブの間の石の柱から明白であり(創世記31・46、47、52)、証としてヨルダンの近くにルベンとガドとマナセの息子たちにより建てられた祭壇からも明白である(ヨシュア記22・19、28、34)。それ故聖言には真理は『石』により意味され、かくして祭壇の石のみでなく、アロンのエポデの肩の上の宝石によっても、また審判の胸板の上の宝石によっても愛に属した聖い真理が意味されたのである。

 

 

 

天界の秘義1298 []

 

祭壇については―祭壇の上の生贄の礼拝が始まった時、祭壇は表象的な主礼拝を全般的に意味したが、石そのものはその礼拝の聖い真理を表象したのであり、それで祭壇は丸石から造られて、切り石から作られてはならないと命じられ、いかような鉄もその上で動かすことが禁じられたのである(申命記27・5−7、ヨシュア記8・31)、それは以下の理由からであった、即ち、切り石とまたその上に鉄が用いられた石とは人工的なものを意味し、かくて、礼拝における虚構物を意味し、即ち、人間自身のものから生まれたものを、またはその考えと心から作り出されたものから生まれたものを意味したのである。こうしたことは出エジプト記20・25に明白に言われているように、礼拝を冒瀆することであった。同じ理由から鉄は神殿の石の上に用いられなかったのである(列王記上6・7)。

 

 

 

 

天界の秘義1298[]

 

アロンのエポデの肩の上の宝石と審判の胸版の中の宝石が聖い真理を意味したことは前に示されたところである(114番)。それはイザヤ書にも明白である―

 

  見よ、わたしはあなたの石を紅玉から成り立たせ、あなたの基礎を青玉ですえ、陽(窓)にはルビーを置き、宝石で門を作り、あなたの境をことごとく好ましい石で定めよう、あなたの息子たちはことごとくエホバから教えられ、あなたの息子たちの平安は大きなものとなるであろう(54・11−13)。

 

 ここに記されている宝石は聖い真理を意味しており、それであなたの息子たちはことごとくエホバから教えられるであろうと言われている。ここからヨハネの書には都、聖いエルサレムの壁の基礎は凡ゆる宝石で飾られたと言われて、宝石の名が記されている(黙示録21・19、20)。『聖いエルサレム』は天界と地上の主の王国を意味していて、その王国の基礎は聖い真理である。同様にその上に律法の命令が、または十の聖言が書かれていた板石は聖い諸真理を意味したのであり、それでそれらは石で作られ、またはその基礎は石であったのであり、そのことについては出エジプト記24・12、31・18、34・1、申命記5・22を参照されたい、なぜなら命令そのものは信仰の諸真理以外の何ものでもないからでもある。

 

 

 

天界の秘義1298[]

 

それで古代では諸真理は石により意味され、その後、礼拝が柱と祭壇の上に、また神殿の中に始まった時、聖い真理は柱、祭壇、神殿により意味されたため、それで主もまた『石』と呼ばれ給うたのである。例えば、モーセの書には―

 

  ヤコブの力ある方、そこからイスラエルの石、羊飼いが出られる(創世記49・24)。

 

 イザヤ書には―

 

  このように主エホビは言われる。見よ、わたしはシオンに石を基礎として置いた、隅の、価値ある、確かな基礎の試みられた石を置いた(28・16)。

 

 ダビデの書には―

 

  家造りらの斥けた石は隅の親石となった(118、22)。

 

 これに似たことがダニエル書の『岩から切り取られた石』により意味されていて、それはネブカドネザルの像を粉々に砕いたのである(2・34、35、45)。

 

 

 

 

天界の秘義1298[]

 

『石』が真理を意味していることはイザヤ書にもまた明白である―

 

  これによりヤコブの不法はつぐなわれるであろう、これはその果実の凡てとなって、彼の罪を除くであろう、その時彼は祭壇の石をことごとくまき散らされたチョーク石[白亜の塊]のように置くであろう(27・9)。

 

『祭壇の石』は消散された礼拝の諸真理を意味している。さらに―

 

 民の道をならせよ、小道を平らにせよ、石を集め出せよ(62・10)。

 

『道』と『石』とは真理を意味している。エレミヤ記には―

 

  ああ破り砕く山よ、わたしはおまえに歯向こう、わたしはおまえを岩から下へ転がし、おまえを燃える山としよう、彼らはおまえから隅の石を取らないであろう、また基礎の石も取らないであろう(51・25、26)。

 

 これはバベルについて言われており、『燃える山』は自己への愛である。『石はそこから取られない』ことは真理が存在していないことを意味している。