隅の親石(マタイ21、マルコ12、ルカ20)

 

 

 

黙示録講解411ロ(3)

 

 前に(405番)『山々と岡々』とが意味していることを示したが、今や『岩々』が意味していることを示そう、即ち、それは霊的善

から発した真理をまた信仰の真理と善とを意味しており、反対の意味では信仰の誤謬を意味している。『岩』のこの意義もまた霊界における外観[現象]から発している、なぜなら岩とごつごつした岩かどが、前に示されたように、山々と岡々とが見られるように、そこに見られ、そこの岩の上には霊的善から真理の中におり、信仰の真理と善との中にいる者たちが住んでいるからである。山々と岡々と、岩とごつごつした岩かどとの間の相違は、前のものは土から成り、後のものは石から成り、『土』は愛の善に相応し、かくてそのことを意味し、『石』は信仰の真理に相応し、かくてそのことを意味しているということである。聖言の大半の事柄はまた反対の意味を持っているように、『岩』もそれを持っており、その意味では信仰の誤謬を意味しており、そのこともまた相応から発しているのである、なぜなら信仰の誤謬の中にいる者らはそこでは洞穴の中の岩の中に住んでいるからである。

 

 

 

黙示録講解411ロ(4)

 

『岩』は善から発した真理を、また信仰を意味し、その意味ではそうしたものの方面の主を意味していることは、以下の記事から明白である。ダニエル書には―

 あなたは石が切り出されるのを見ました。それは手で切り出されたのではない、それはその映像[彫像]の足を打った、足は鉄と粘土であった。その彫像を打った石は大きな岩となって全地に満ちた(ダニエル2・34、35)。(後略)

 

 

 

黙示録講解411ハ(5)

 

『岩』は神的真理の方面の主を意味していることは以下から明らかである―

 ホレブの岩、そこから水はイスラエルの人々に与えられた(出エジプト12・5、6)。

 

また以下のことが命じられた―

 モーセとアロンとはその崖に向かって話し、かくてイスラエルの子孫の目の中でエホバを聖めまつらなくてはならない。しかしモーセはそれを棒で二度打った、それでモーセとアロンとに、彼らはその民をカナンの地へ連れて来てはならないと言明された(民数記20・8−13)。

 この『岩』は主を意味したことは教会に知られてはいるが、しかしそれにそうした意義が在ったことは聖言では『岩』は主から発出している神的真理を意味しているためであることは知られてはおらず、そのことがモーセとアロンとはそれに話し、かくしてイスラエルの子孫の眼前でエホバを聖めまつることを命じられた理由であったのである。また流れ出した『水』は神的真理を意味し、『それを民が飲んだこと』は霊的に栄養を与えることを―そのことは知らせ、教えることにより行なわれるのであるが、そうしたことを―意味しているのである。(『水』は真理を意味していることについては、前の71番を、『飲むこと』と『飲むようにされること』は、知らせられ、教えられることを意味していることについては、『秘義』3069、3772、4017、4018、8562、9412番を参照されたい)。同じようなことがイザヤ書の『岩』によっても意味されている―

 彼らは渇かないであろう、その方は彼らをもの淋しい所で導かれるであろう、その方は彼らのためにその岩から水を流れ出させられるであろう、その方が水が流れ出るためにその岩を裂かれるとき(イザヤ48・21)。

 ダビデの書には―

 その方は荒野で岩を裂かれ、彼らに大いなる深淵から飲ませられた、その方はその崖から流れを流し出された、彼らは神が彼らの岩であられ、彼らのあがない主、いとも高い神であられることを心にとめた[記憶した](詩篇78・15、16、20、35)。

 同書に―

 その方は水が流れ出るためにその岩を開かれた、水は、川はその乾いた所に流れた(詩篇105・41)。

 同書に―

 ああ、地よ、主の御前にあなたは産みの苦しみにおかれている、ヤコブの神の御前に、その方は岩を水の流れる池に変えられ、すい石を水の泉に変えられた(詩篇114・7、8)。

 これらの記事の『岩』は神的真理の方面の主を、またはそれと同じことであるが、主から発している神的真理を意味していることは、前に言われていることから明白であり、また以下の事実からも明白である、即ち、ダビデの書のこの二つの記事は教会の人間をあがない、再生させることを取扱っており、そのことは主から発している神的真理により遂行されるのである。あがなうことは以下の言葉の中に取り扱われており、即ち、『彼らは神が彼らの岩であられ、彼らをあがなう方、いとも高い神であられることを心にとめた[記憶した]』の中に取り扱われており、再生は以下の言葉の中に取り扱われている、即ち、『主の御前にあなたは産みの苦しみにおかれている、ああ地よ』、『産みの苦しみにおかれること』は、教会について述べられるときは、改良され、再生されることを意味しているのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

黙示録講解411ハ(11)

 

これらの記事の中には、他の記事におけるように、『岩』は主から発した神的真理と主御自身とを意味している。同様に福書にも―

 わたしの言葉を聞いて、それを行う者をことごとくわたしは岩の上に家を建てた思慮深い者にたとえよう、雨が降り、洪水が襲い、風が吹き、その家を打ちはするものの、それは倒れはしなかった、それは岩の上に土台を据えられたからである(マタイ7・24、25、ルカ6・48)。

『岩の上に土台を据えられた家』は、己が教義と生命との土台を主から発している神的真理の上にたて、かくて聖言の中に在る事柄の上に築いた教会と教会の人間とを意味し、従って主から発している善から発した諸真理の中にいる者を意味している。『善から発した諸真理の中に』と言われているのは、神的真理は善の中にはいないいかような者によっても受け入れられはしないためである。善の中にいることは、仁慈であるところの生命の善の中にいることであり、それで『わたしの言葉を聞いて、それを行う者』と言われており、『主の言葉を行うこと』は生命の善である、なぜなら真理は、人間がそれを行うとき、それはその際意志と愛とに入るため、善となり、何であれ意志と愛とのものとなるものは善と呼ばれるからである。試練は―その中にあっては教会のこうした人間は敗北しないで、征服するのであるが、その試練は―『雨が降り、洪水が襲い、風が吹き、その家を打ちはしたものの、それは倒れなかった、それは岩の上にその土台を据えられたからである』により意味されている、なぜなら聖言においては、『水の洪水』と『雨』とまた『風の嵐』とは試練を意味するからである。確かに、これは譬えであるが、しかし聖言の凡ゆる譬えは、譬えとしては言われていないものと全く同じく相応したものに従っているのである(前の69番と『秘義』3579、8989番を参照されたい)。

 

 

 

黙示録講解411ニ

 

このことは聖言の『岩』は神的真理の方面の主を、または主から発した神的真理を意味していることを明らかに示している。(12)このことからマタイ伝に在るペテロに言われた主の御言葉により意味されていることを認めることが出来よう―

 

イエスは弟子たちに言われた、しかしあなたらはわたしはたれである、と言いますか。シモン・ペテロは答えた、あなたはキリスト、生ける神の子であられます。イエスは答えて彼に言われた、あなたは祝福されています、ヨナの子シモンよ。肉と血とがそれをあなたに明らかにしたのではなく、天におられるわたしの父であられる。わたしはあなたに言う、あなたはペテロである、この岩の上にわたしはわたしの教会を建てましょう、地獄の門はそれに反抗して勝ちはしないでしょう。そしてわたしはあなたに天界の王国の鍵を与えよう、何であれあなたが地上でしばるものは天界においてもしばられ、何であれあなたが地で緩めるものは天界でも緩められるでしょう(マタイ16・15−19)。

 

ここの『ペテロ』はペテロを意味しないで、(前に引用した記事におけるように)主から発した神的真理を意味しており―なぜなら主の弟子たちは凡て共になって教会を表象したからである―彼らの中の各々の者は教会を構成している何らかのものを表象したのであり、『ペテロ』は教会の真理を、『ヤコブ』はその善を、『ヨハネ』は行為における善を、即ち、業を表象し、爾余の弟子たちは、丁度イスラエルの十二の種族と同じく、それらのものから派生した諸真理と諸善とを表象したのである。それがそうであることは以下の記事に認められるであろう、そこにはその種族と弟子たちとが取り扱われているのである。このことがこの三人の弟子が他の者よりもさらに多く記されている理由である。(中略)

 

こうした告白のために『ペテロ』は教会における主から発した神的真理を表象し、そうした理由のために彼は『岩(ペテラ)』と呼ばれ、『あなたは岩(ペテラ)であり、この岩(ペテラ)の上にわたしはわたしの教会を建てよう』と言われており、そのことは主から発した神的真理の上に、またはそれと同じことではあるが、善から発した諸真理の上に、を意味しているのである、なぜならそれらの諸真理の上に教会は建てられるからである。『ペテロ』が教会におけるこのことを表象するために、主は主から『岩(ペテラ)』と呼ばれたのであり、そのことはヨハネ伝に明白である―

 

イエスは彼を見つめられ、彼に言われた、あなたはヨナの子、シモンである、あなたはケファスと呼ばれるでしょう、それは訳すると岩(ペテラ)である(ヨハネ1・42)。

 

 ケファスはシリアの言語では岩を意味しており、それでペテロはその訳書では凡ゆる所で『ケファス』と呼ばれており、さらに、その同じ語はヘブル語では(エレミア4・29、ヨブ30・6に明白であるように、そこでは『岩』は複数形で記されているが)、岩を意味しているが、しかしペテロはギリシャ語とラテン語では岩(ペテラ)とは呼ばれていないのはその名は彼に個人的な名として与えられたためであった。

 

 

411ニ(14)主は『ヨナの子シモン』と言われ、後に彼は『岩』と呼ばれたのは、『ヨナの子シモン』は善から発した真理を、または仁慈から発した信仰を意味したためであり、善から発した真理は、または仁慈から発した信仰は主から神的真理の中にいる者たちにのみ与えられ、ペテロはそのとき主を告白したように、彼は『岩』と呼ばれているが、人物としての彼自身ではなくて、その告白において彼のもとに在る主から発したかの神的真理がそのように呼ばれたのである。