キリスト教徒以外でも救われる

 

異邦人の教会霊的教会唯一の神

いつでも どの教会であっても私のもとに来ることができる

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

5.カトリック教会のカテキズム

 

 

 

 

1.聖書

 

 

使徒言行録10・34−35

 

そこで、ペトロは口を開きこう言った。「神は人を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。」

 

 

 

ローマ2・11−16

 

神は人を分け隔てなさいません。律法を知らないで罪を犯した者は皆、この律法と関係なく滅び、また、律法の下にあって罪を犯した者は皆、律法によって裁かれます。律法を聞く者が神の前で正しいのではなく、これを実行する者が、義とされるからです。たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています。そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう。

 

 

 

ローマ3・29、30

 

それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人の神でもないのですか。そうです。異邦人の神でもあります。実に、神は唯一だからです。

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

新しいエルサレムの教義244

 

 教会の外にいても一人の神を承認し、宗教的な原理[主義]に従って生き、隣人に対し何らかの仁慈に生きる者は教会に属した者たちと交わっている、なぜなら神を信じて、良く生きる者は誰一人罪には定められないから。ここから主の教会は、主が承認されて、聖言の在る所には特に存在してはいるものの、全世界に在ることが明白である。

 

 

 

新しいエルサレムの教義245

 

 教会が己がもとに存在している者はすべて救われるが、しかしそれが己が中に存在していない者は凡て罪に定められる。

 

 

 

新しいエルサレムの教義246

 

 聖言が在り、主がそれによって知られ、かくて神的真理が啓示されている所には特に教会が存在している(3857、10671番)。しかし聖言が在り、主がそれによって知られている所に生まれた者が教会に属しているのではなく、聖言の諸真理により主により再生した者が、すなわち、仁慈の生活を送る者がそれに属している(6637、10143、10153、10578、10645、10829番)。教会に属している者または己が中に教会の在る者は真理のために真理を求める情愛の中にいる、すなわち、彼らは真理をそれが真理であるために愛し、また自分がその中に生まれた教会の教義的なものは真であるか、否かを聖言によって検討する(5432、6047番)。もしそうでないなら各人に抱かれている真理は他の者から、またその生まれた地から来るであろう(6047番)。

主の教会は己が宗教上の主義に従って生きる全世界の凡ての者のもとに存在している(3263、6637、10756番)。何処にいるにしても、善に生き、一人の神を承認している者はすべて、主から受け入れられて、天界に入る、(それは)善は主から発し、主は善の中におられるため、善にいる者はすべて主を承認するからである(2589−2604、2861、2863、3263、4190、4197、6700、9256番)。

 

 

 

真の基督教107

 

然しアジヤ、アフリカ、インドの人々のように、主に就いて何事も知らない人々は、若し彼らが一人の神を信じ、その宗教の教えに従って生活するならば、その信仰によって救われるのである。

 

 

 

真の基督教729

 

 聖餐に与るに足る程成長しない中に他界する者は洗礼を通し主によって天界に入れられる。何故なら上述したように、洗礼は基督教会へ導き入れることであり、霊界の基督教徒とつらなる手段であるから。霊界では教会と天界とは同一の物である。それ故かの世界で教会へ入れられることはまた天界へ入れられることである。幼児または少児の頃他界した者達は主の特別の配慮の下に教育され、再生し、かくして主の子等となるのである、何故なら彼らは他の如何なる父をも知らないからである。

 基督教会の外に生まれた嬰児と少児達は、主に対する信仰を受け入れた後、彼らの宗教を奉じている人々に宛てられている天界へ、洗礼以外の手段によって入れられ、基督教天界に在る者と混入しない。実に、凡ゆる国人は、もし、神を認め、正しく生活するならば、救われるのである。何故なら、凡ゆる人は霊的に生まれ、それ故贖いの益を受けることが出来、主は彼等凡てを贖い給うたからである。主を受ける者達、即ち、主に対する信仰をもち、悪を避ける者達は「神の子」「神より生まれし者」(ヨハネ1・12、13、11・52)と呼ばれ、また「御国の子」(マタイ13・38)「後継者」(マタイ19・29、25・34)と呼ばれている。主の弟子達はまた「子達」(ヨハネ13・33)と呼ばれ、凡ての天使もそのように呼ばれているのである(ヨブ1・6、2・1)。

 

 

 

神の摂理253

 

今までは我々は、単に自然的な人間に神的摂理に対する不信仰を確認させるところの、237番に前述した事柄のみを説明した。今や我々は238番に記された物を説明しなくてはならない、それは種々の民族の宗教体系に関係していて、単に自然的な人間にはまた神的摂理に対する反証として役立っているものである、なぜなら彼は『もし神の摂理が人類から発する天界を目的とするなら、どうして全世界に一つの真の宗教がなく、かくも多くの異なった宗教がありうるのであろう』と心に語るから(27−45)。しかし考えられよ、一度生まれた人類は凡て、如何ほどその数は多く、また如何ような宗教を奉じていても、もし、殺人、姦淫、盗み、偽証は宗教に反し、それゆえ神に反するため、これらの犯罪を禁じている十誡の教えに従って神を承認し、生活するならば救われることが出来るのであって、そのような人間は神を恐れて、隣人を愛しているのである。彼らはそうした事を為すのは神に対する反抗であると信じているため、神を恐れており、また人を殺し、姦淫を犯し、盗み、偽証を立て、他人の家または妻を貪ることは隣人を傷つけることであるため、隣人を愛している。こうした人間はその生涯に神を敬い、隣人には悪を為さないため、主に導かれ、そしてこのように導かれる者は凡てその宗教により神と隣人につき教えられる、なぜならそのような生活をしない者は教えられようとはしないが、そのように生活する者は教えられることを愛し、そして教えられることを愛するため、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受けるのである。こうした性格の人間について若干の記事が「新エルサレムの聖書の教義」に見ることが出来よう(91−97、104−113)。

 

 

 

神の摂理330(ハ)

 

「教会内に生まれた者のみが救われると考えるのは狂った異端である」。

教会外に生まれた者も教会内に生まれた者と同様に人間であり、同じ天界の起原から発し、同じように生きた不滅の霊魂である。彼らもまた彼らに神を信じ良い生活を送ることを教える宗教を持ち、前述したように、神を信じ、良い生活を送る者はその度に応じて霊的なものとなり、救われるのである。彼らは洗礼を受けていないと言われるかもしれない。しかし洗礼は霊的に潔められた者、即ち再生した者を除いては、何人も救わない。なぜなら洗礼はそのことの印であり、記念であるから。また主は彼らに知られておらず、主無しには救いは有り得ないと言われるかもしれない。しかし何人も単に主を知っている故に救われるのでなく、主の誡命に従って生きる故に救われるのである。そして主は神を信じる者には凡て知られている、なぜなら主は、御自身マタイ28・18その他に教えられるように、天地の神であられるからである。さらに教会外の者は基督教徒よりも明確に神を人間として考えており、神を人間として考え、良い生活を送る者は主により受け入れられるのである。彼らもまた神を人格と本質において一人であると信じているが、これに反し基督教徒はこれを信じない。彼らの神についての考えは彼らの生活に影響を与えている、なぜなら彼らは悪を神に対する罪として認め、そしてこのように認める者は凡て神をその日々の生活で考えているからである。基督教徒は宗教的な教えを聖言から得ているが、しかし生活の教えをそこから得る者は僅かしかいない。教皇派はそれを読まないし、仁慈から信仰を切り離している改革派は生活に関係した聖言の記事に何ら注意を払わず、単に信仰に関係した記事にのみ注意を向けているが、しかし聖言全体は生活の教義以外の何物でもない。基督教は欧州にのみ盛んであり、回教と異教とは、アジア、西印度、南印度、アフリカ、アメリカに栄え、そして地球のその部分の人類は基督教地域の人間よりは十倍も多く、その基督教地域ですら、宗教を生活の事柄と為している者は僅かしかいない。それ故この後者のみが救われ、前者は罰せられ、人間が天界に入るのは、その出生によるのであって、その生活によるのでないと考えることほど狂った考えがあろうか。これが主が『私はあなた方に告げよう、多くの者が東と西から来て、天国でアブラハム、イサク、ヤコブとともに坐るであろう、しかし王国の子らは投げ出されるであろう』と語られた理由である、(マタイ8・11、12)。

 

 

 

神の摂理330(ニ)

 

「人類の何人かが堕地獄に予定されていると考えることは残酷な異端である」。愛そのもの慈悲そのものであられる主がかくも莫大な数に達する人間が地獄のために生まれるままにされ、またはかくも無数の者はその出生により堕地獄に定められている、即ち、悪魔と悪鬼として生まれており、主はその神的知恵によっても、善良な生活を送って神を承認する者を永遠の火と呵責から救われないと信じることは残酷である。主は如何なる時でも凡ての者の創造者、救い主であられ、主のみが凡ての者を導き、何人の死も欲しられない。それゆえその配慮と庇護の下にあるかくも夥しい数の種族、民族が悪魔の予定された餌食であると信じることは残酷である。

 

 

 

天界の秘義2284[]

 

信仰の何らかの真理について何らかの意見を持った者らが、他の者を、あなたらは自分たちが信じているように信じない限り、救われることはできないと言って審判くことは極めて普通なことであるが、しかしこれは主が禁じたもうた審判である(マタイ7・1、2)。それでも他方でわたしは多くの経験から、いかような宗教の者でも、もしその者が仁慈の生活により善の残りのものを、また外観的な真理の残りのものを受け入れてさえいるならば救われることを学んでいるのである。このことが、もし十人が見出されるならば、かれらはその住人のために滅ばされはしないと言われていることにより意味されていることであり、そのことにより、若し残りのものがあるなら、彼らは救われるであろうということが意味されているのである。

 

 

 

天界の秘義2284[]

 

仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、とくにそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることができよう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入ってくる者に教えることにまさって歓ばしい、また祝福されたものは一つとしてないからである。

 

 

 

天界の秘義2589

 

 教会の外に生まれて、異教徒、異邦人と呼ばれている者は、聖言を持っておらず、かくて主を知らないし、主がなくては救いが無いため、彼らは救われることは出来ないと一般に考えられている。しかしこれらの者もまた救われることは、以下の考察から知ることが出来よう。 即ち、主の慈悲は普遍的なものであり。即ち、各々の者に及んでおり、これらの者は、教会の中にはいるが、比較的少数である者たちと等しく人間として生まれていて、彼らが主を知らないのは彼らの過誤によるのではないということである。従って、他生における彼らの状態と運命は主の神的慈悲の下に私に示されたのである。

 

 

 

天界の秘義2590

 

異邦人でも道徳的な生活を送って従順であり、相互愛に生き、その宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられ、そこで天使たちから入念な配慮の下に信仰の幾多の善と真理とを教えられるのである。彼らは教えを受けている間、慎ましく、理知的に、賢明に振る舞い、容易に教えを受け、またそれに滲み込むようになるのである。なぜなら彼らは、悪い生活を送った多くの基督教徒とは異なって、取り払ってしまわなくてはならない信仰の諸真理に反した原理を自ら形作ってはいないし、ましてや主に対し彼らを躓かせるものは何一つ形作ってはいないからである。さらにこのような者たちは他の者を憎まないし、危害を加えられても復讐もしないし、また術策や詐欺を企みもしない。否、彼らは基督教徒に善意は抱いているが、これに反し基督教徒は彼らを軽蔑し、為し得る限り暴行を彼らに加えるが、しかし彼らは主により彼らの無慈悲から遠ざけられて、守られているのである。

 

[]なぜなら広い世界では善い生活を送った基督教徒は、異邦人よりは優先的に受け入れられるが、現今ではこのような者は僅かしかいないが、しかし服従と相互愛に生きた異邦人は、それ程良い生活を送らなかった基督教徒よりも優先的に受け入れられるということが他生における基督教徒と異邦人との実情であるからである。

 

 

 

天界の秘義3263[2]

 

 主の霊的な教会については、それは全世界にあまねく存在していることを知られよ、なぜならそれは聖言を持っていて、そこから主と信仰の若干の真理とを知っている者たちに限定はされないで、聖言を持ってはおらず、それで主については全く知らず、従って信仰の真理を何ら知っていない者たちのもとにもまた存在しており(なぜなら信仰の諸真理はすべて主に関わりをもっているからであるが)、即ち、この教会は教会から離れている異教徒の間にも存在しているからである、なぜなら一人の神がおられ、その神は凡ゆる物を創造し、またその神から善がことごとく発しており、従って真理がことごとく発しており、その神に似ることにより人間は祝福されることを合理的な光から知っている者が彼らの中に多くいるからであり、さらに彼らはその神に対する愛の中に、隣人に対する愛の中にいて、彼らの宗教に従って生きており、善の情愛から仁慈の業を行い、真理の情愛から至高の存在を拝しているからである。このような性格を持っている異邦人たちは主の霊的教会に属している者たちであり、彼らはこの世にいる間は主を知ってはいないけれど、それでも善の中にいる時は、彼ら自身の中に主を拝しており、また主を暗黙の中に承認しているのである、なぜなら凡ゆる善の中に主は現存されているからである、それ故他生では彼らは容易に主を承認し、このように善に宿っていない基督教徒よりも更に進んで主に対する信仰の諸真理を受け入れるのであるが、このことは教会の外の幾多の国民と民との他生に於ける状態と運命とについて経験から明らかにしたこところから認めることが出来よう(2589−2604)。これらの者が持っている自然的な光はその中に霊的なものを持っているのである、なぜなら主から発している霊的なもの無しには、このような事柄は到底承認されることは出来ないからである。

 

 

 

天界の秘義3263[3]

 

 このことから『イシマエル』の意味していることが今や認められることができよう、またそのことにより、表象的意義ではたれが『イシマエル人』であるかも認められることができよう、すなわち、(かれらは)主の霊的教会のものであり、生命[生活]の面では単純な善の中におり、それで教義の面では自然的な真理の中にいる者たちである。このような者もまたヨセフにかかわる以下の記事の『イシマエル人』により意味されているのである―

 

 見よ、旅をしている一行のイシマエル人がらくだに蝋、樹脂、没薬水を荷わせ、それをエジプトに運ぼうとして、ギレアデからやってきた(創世記37・25)。

 

 ここにはイシマエル人は気質の善良な異邦人たちが抱いている単純な善のような善の中にいる者たちを表象しており、『蝋、樹脂、没薬水を運ぶらくだ』はこのような人々の内的ないくたの善を意味している。それに似たことが同章28節と39章1節、または士師記の『イシマエル人』により意味されており、士師記にはギデオンがある要求をしたと言われている―

 

 あなたたち各々の者はその戦利品の耳環をわたしに与えなくてはならない。なぜならかれらはイシマエル人であったため、金の耳環を持っていたからである(士師記8・24)。

 

『金の耳環』は単純な善のいくたの事柄をいみしている(3103番)。

 

 

 

天界の秘義3778

 

彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいないのである。

 

 

 

天界の秘義10765

 

教会の外側にいるものの、一人の神を承認し、隣人に対する一種の仁慈の中にその者たちの宗教に従って生きている者たちは教会に属した者たちと交わっているのである。なぜなら一人の神を信じて、正しく生きている者は一人として罪に定められはしないからである。ここから主の教会は主が承認され、聖言が存在するところに特に存在しているものの、それは全世界の凡ゆる所に存在していることが明白である。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P30

 

「マリア、天国で会えます。そこは、ユダヤ人と同じくサマリア人のためにも場所があり、霊と真理をもって私を求めるすべての人の家です。あなたは私を、真の神の子として信じているのでしょう?」

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P206

 

 すべての霊魂を創造し、そのすべてを恩寵へと予定した完全な愛徳である神が、その王国から、自分の責任によらずに受洗しなかった者を排斥するとは考えられない。彼らにどんな過ちがあるというのか? 自分から自発的にカトリック信仰の浸透していない地域を選んで生まれたのか? 死んで生まれる新生児には、洗礼を受けなかった責任が負わされるのか? 厳密な意味で『教会』ではないが、神から霊魂を授けられたのだからそれに属しているといえる人びと、死んで生まれてきたために無垢の死者たちであったり、あるいは自然の傾向によって善を行い正しい生き方をし、それによって至高の善を称え、彼らのうちと周辺にその存在を証言したこれらの人たちに対して、神が残忍な仕打ちをすることなどどうしてありえようか? いいや、ありえない。それが胎児であろうと生まれたばかりの命であろうと、原罪を取り除く洗礼の秘跡を授けるのを妨げ一つの命を抑圧する者に対して、神が与える情け容赦の無い峻厳な審判は、そうでないことを立証するものである。もし、これらの無垢の霊魂たちが、神から引き離されたままで幾百年、幾千年もの間、罰を受けるでもなく、かといって神を見る喜びを味わうでもない状態に放置されるほど神は厳格だというのか? 万人を恩寵に向けて予定した、無限に善である存在が、自らの自由な選択の余地無くカトリック者でない人たちから、その恩寵を横取りするなどと考えられるだろうか?

 

『天には我が父の家が数多くある』、とイエズスは言った。この世が消滅するであろう時、新しい世界、新しい天、そして永遠のエルサレムの新しい幕屋があるだろうし、理性をもつ全被造界、義人であった復活者たちの称讃と共に神の永遠の王国の所有によって栄光化され、教会の魂とだけ一致していた人たちも天にその住まいを得るだろう、というのも、永遠に残るのは天国か地獄のみであろうが、また、愛徳が、それにふさわしくないこの被造物を永遠の責め苦のために地獄に落とすとは考えられないからだ。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻中P140/334・3

 

「信じない者が全員救われないのかどうかは、ぼくには分からない。覚えているだろうか、シンティカに話していたことを。人生において誠実に振る舞った人は、別の宗教を信じていたとしても神から見捨てられはしないと理解させようとしていた。でも、先生に聞いてみればいい。イスラエルは、メシアに気づいていながら、一部しか信じていない、あるいは拒絶しているから、厳しく裁かれるのは確かだろう」。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか・現代の預言者ヴァッスーラに聞く/天使館/P178

 

ネランク:あなたが受け取ったメッセ―ジには、ユダヤ人についての声明はありますか?

 

ヴァッスーラ:はい。一つあります。一度、こうお尋ねしたことがあったものですから―「それで、ユダヤ人やイスラム教徒は? あの人たちについてはどうお考えになりますか?」。イエスは「私は、あなたがたを愛するのと同じくらい、彼らを愛している。だから、彼らのために祈りなさい」とおっしゃいました。

 

ネランク:ヨーロッパをはい廻っている反ユダヤ主義について、あなたはどのようにお考えですか? ユダヤ人に対する憎しみの感情は、ここ数世紀の間、キリスト教国であるフランスやドイツで広まり、第二次大戦の大量虐殺の引き金になりました。現在もその余波が続いております。この憎しみについては、どのようにお考えですか?

 

ヴァッスーラ:憎悪は神からのものではありません。それはサタンに由来するものです。そう、サタンからです。

 

ネランク:イスラム教徒についても同じですか?

 

ヴァッスーラ:まったくそのとおりです。ユダヤ人とイスラム教徒に対するかつての、そして現在の迫害は、サタンが原因です。神が私たちを分割させたことなど、一度もありません。神にとって、信仰の実践をしている人々は、等しく大切です。救済されるためには、カトリックや正教会に属していることだけでは十分ではありません。これらの教会のどれかに所属していない人でも、神の似姿として造られた、神の創造物であることに変わりはありません。救済は、神の掟に従う、すべての人々に約束されています。イエスはすべての人々のために十字架にかけられました。神は、多くを受けた者に、より以上のことを要求なさるでしょう。それがキリスト教徒の特性なのです。彼らに対しては、特権が与えられるのではなく、さらに多くのことが要求されるのです。結局、神のみが審判者であり、神は愛であって、人間が地上で示した愛に応じて、お裁きになるでしょう。

 

 

 

 

5.カトリック教会のカテキズム

 

 

カトリック中央協議会『カトリック教会のカテキズム要約』P109

170.カトリック教会とキリスト教以外の諸宗教との間にはどのような結びつきがありますか。

「まず全人類に共通する起源と目的から生じる結びつきがあります。 カトリック教会は、他の諸宗教の中に見いだされるものは、よいもの、 真なるものであるかぎり、神から来るものであり、神の真理の輝きであり、福音を受け入れる準備をし、キリストの教会における人類の一致へと駆り立てることができると認めています。」