霊的教会

古代教会異邦人の教会キリスト教徒以外でも救われる

 

 

天界の秘義3263[2]

 

 主の霊的な教会については、それは全世界にあまねく存在していることを知られよ、なぜならそれは聖言を持っていて、そこから主と信仰の若干の真理とを知っている者たちに限定はされないで、聖言を持ってはおらず、それで主については全く知らず、従って信仰の真理を何ら知っていない者たちのもとにもまた存在しており(なぜなら信仰の諸真理はすべて主に関わりをもっているからであるが)、すなわち、この教会は教会から離れている異教徒の間にも存在しているからである、なぜなら一人の神がおられ、その神は凡ゆる物を創造し、またその神から善がことごとく発しており、従って真理がことごとく発しており、その神に似ることにより人間は祝福されることを合理的な光から知っている者が彼らの中に多くいるからであり、さらに彼らはその神に対する愛の中に、隣人に対する愛の中にいて、彼らの宗教に従って生きており、善の情愛から仁慈の業を行い、真理の情愛から至高の存在を拝しているからである。このような性格を持っている異邦人たちは主の霊的教会に属している者たちであり、彼らはこの世にいる間は主を知ってはいないけれど、それでも善の中にいる時は、彼ら自身の中に主を拝しており、また主を暗黙の中に承認しているのである、なぜなら凡ゆる善の中に主は現存されているからである、それ故他生では彼らは容易に主を承認し、このように善に宿っていない基督教徒よりも更に進んで主に対する信仰の諸真理を受け入れるのであるが、このことは教会の外のいくたの国民と民との他生に於ける状態と運命とについて経験から明らかにしたこところから認めることが出来よう(2589−2604)。これらの者が持っている自然的な光はその中に霊的なものを持っているのである、なぜなら主から発している霊的なものなしには、このような事柄は到底承認されることは出来ないからである。

 

 

天界の秘義3263[3]

 

 このことから『イシマエル』の意味していることが今や認められることができよう、またそのことにより、表象的意義ではたれが『イシマエル人』であるかも認められることができよう、すなわち、(彼らは)主の霊的教会のものであり、生命[生活]の面では単純な善の中におり、それで教義の面では自然的な真理の中にいる者たちである。このような者もまたヨセフにかかわる以下の記事の『イシマエル人』により意味されているのである―

 

 見よ、旅をしている一行のイシマエル人がらくだに蝋、樹脂、没薬水を荷わせ、それをエジプトに運ぼうとして、ギレアデからやってきた(創世記37・25)。

 

 ここにはイシマエル人は気質の善良な異邦人たちが抱いている単純な善のような善の中にいる者たちを表象しており、『蝋、樹脂、没薬水を運ぶらくだ』はこのような人々の内的ないくたの善を意味している。それに似たことが同章28節と39章1節、または士師記の『イシマエル人』により意味されており、士師記にはギデオンがある要求をしたと言われている―

 

 あなたたち各々の者はその戦利品の耳環をわたしに与えなくてはならない。なぜならかれらはイシマエル人であったため、金の耳環を持っていたからである(士師記8・24)。

 

『金の耳環』は単純な善のいくたの事柄をいみしている(3103番)。

 

 

天界の秘義3267[2]

 

 主の霊的教会の実情は以下のようになっている、すなわち、それは全世界にあまねく散在していて、凡ゆる所で信仰箇条または信仰の諸真理の方面では異なっており、これらの多様なものが『出生』により意味されているいくたの派生したものであり、また同時に、次々に生まれてくるもの[いくたの派生したもの]である。諸天界における主の霊的王国もまさにそれと同じものであって、そこには信仰のいくたの事柄の方面では多様な者[変化]が在り、しかもそれは信仰の真理の事柄においては、他の者の考えに全然一致している考えを持っている社会は一つもなく、また一つの社会の中でも一人の人物さえもいない程にもなっているが、(3241番)、その理由はそこの凡ての者のもとでは仁慈が第一義的な事柄であるということである、なぜなら仁慈が霊的教会を作るのであって、あなた方が仁慈を信仰と呼ばない限り、信仰がそれを作りはしないからである。

 

 

天界の秘義3267[3]

 

仁慈の中にいる者はその隣人を愛しており、その隣人が信仰の事柄では彼と異なっている時も、その隣人が善と真理とに生きさえしているなら、彼はそれを赦すのである。彼はまた気質の善良な異邦人を、たとえその者たちが主を知らないし、何ら信仰については知ってはいなくとも、とがめはしないのである。なぜなら仁慈の中にいる者は、すなわち、善に生きている者は、その善に一致しているような性質を持ったいくたの真理を主から受けるのであり、異邦人たちは、他生で信仰の諸真理へたわめられることが出来るような諸真理を受けるからである(2599−2603番)。しかし仁慈の中にいない者は、すなわち、善の中に生きていない者は、決していかような真理をも受けることは出来ないのである、かれは実際真理を知るかもしれないが、しかしそれは彼の生命の中に植え付けられはしないのであり、かくて彼はそれを実に口の中には持っているかもしれないが、その心の中には持っていないのである。なぜなら真理は悪に連結されることは出来ないのであり、それで信仰箇条と呼ばれている真理は知っているが、教会の中に生まれたため、教会の中にはいるものの、仁慈の中にまたは善の中に生きていない者は、未だ教会のものではないのである、なぜなら彼らの中には教会のいかようなものもなく、すなわち、真理がそれと連結することのできる善は些かもないからである。

 

 

天界の秘義6567

 

本章には霊的な教会を再び設立することが記され、この記事には自然的なもの中に在るものが内なるものの下に服従することが記されているのである。この服従については、霊的な教会は何人のもとにも、自然的な、または外なる人に属しているものが霊的な、または内なる人に服従してしまわない限り、設立することは出来ないことを知られたい。信仰のものである単なる真理が人間を支配して、仁慈のものである善が支配しない限り、自然的な、または外なる人は霊的な、または内なる人には服従してはいないのである。しかし善が支配するや否や、自然的な、または外なる人はそれ自身を服従させ、そのときその人は霊的な教会となるのである。それが真であることは、その人間は真理の教えるところを情愛から行い、この情愛に反したことは、自然的なものがいかほどそれを欲しようとも、行わないという事実から知られている。情愛そのものとそこから生まれる理性が主権を持ち、自然的なものの中に自己と世を求める愛の歓喜を征服し、同じくまたそこの記憶知に満ちていた妄想をも征服し、ついにはその征服がその人間の楽しさの一つとなるほどにも完全なものとなると、そのときは自然的なものは静止し、後には一致し、そして自然的なものが一致すると、そのときそれは内なるものの楽しさに与るのである。この凡てから、自然的なものの中に在るものが内なるものの下に服従することにより意味されていることを知ることが出来るのであり、そのことが『彼の兄弟たちも行って、彼の前に平伏して、言った、見られよ、私たちはあなたの僕です』により意味されているのである。