霊的な善と真理とは何であるかは、

聖言からのみ知ることが出来る

 

教義善悪の判断

 

 

 

1.霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来る

2.啓示から学ばなくてはならない

3.人間は信仰の諸真理と仁慈の諸善を教えられない限り、再生することは出来ない

 

 

 

 

1.霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来る

 

 

天界の秘義3768

 

それでここに取り扱われている主題は聖言とそこから派生してくる教義である、なぜなら導入と再生とは聖言から発している教義により遂行されるからである。これらの事柄が『井戸』によりまた『羊の三つの群れ』により意味されているため、それでこれらは歴史的に記されているが、それらにこのような事柄が意味されていなかったなら、それらは神的聖言[神の聖言]に記されるには余りにも他愛のない内容のものとなったであろう。それらに包含されているものは明白である、即ち、善と真理との記憶値と教義の凡ては聖言から発しているということである。

 

 

 

天界の秘義3768[2]

 

自然的な人は善と真理とはいかようなものであるかを実に知り、また認めることも出来るが、しかしそれは単に自然的な民法的な善と真理に過ぎないのであって、霊的な善と真理とは知ることが出来ないのである、なぜならこれは啓示から、かくて聖言から発しなくてはならからである。例えば、人間は、自分の隣人を愛さなくてはならない、神を拝さなくてはならないということを、たれもが持っている合理的なものから知ることが出来ようが、しかしいかようにして隣人を愛さなくてはならないか、またいかようにして神を拝さなくてはならないかは、かくて霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来るのである、例えば善そのものが隣人であり、従って善の中にいる者たちが隣人であり、しかもそれはその者たちがその中にいる善に応じているのであり、主は善の中におられるため、善が隣人であり、それで善の愛の中に主は愛されるということは聖言からのみ知られることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義3768[3]

 

 同じように聖言を持たない者は、善はことごとく主から発しており、それは人間のもとへ流れ入って、善の情愛[善に対する情愛]を生み、この情愛が仁慈と呼ばれていることを知ることは出来ないし、また聖言を持っていない者は宇宙の神は誰であるかを知ることも出来ないのであり、神が主であられることは彼らから隠れているが、それでも情愛の、または仁慈の最も内なるものは、従って善の最も内なるものは主を注視していなくてはならないのである。このことから霊的な善とは何であるかが明白であり、またそれは聖言から知られなくては知られることが出来ないことも明白である。異邦人については、彼らは世にいる限り、実際このことを知りはしないが、それでも彼らが互に相互的な仁慈に生きている間に、そのことから、他生でこのような事柄について教えられることが出来るような能力を取得し、また容易にそれらを受け入れてそれらに浸透されるのである(2589−2604番参照)。

 

 

 

天界の秘義9352

 

その主要な理由が聖言(みことば)のためであったことは聖言は神的な真理そのものであり、それは神が在(いま)すことを、天界と地獄が在ることを、死後に生命が在ることを教え、また更にそれは人間が天界へ入り、かくして永遠に幸福になることが出来るためにはいかように人間は生きなくてはならないかを教えるためである。啓示がなくては、かくてこの地上に聖言が無くては、こうした凡ての事柄は全く知られなかったのである、それでも人間はその内なる人の方面では死ぬことが出来ないように創造されているのである。

 

 

 

 

2.啓示から学ばなくてはならない

 

 

新しいエルサレムの教義177

 

 たれも新しい生命、即ち、霊的生命に属した物を知らない限り、再生することは出来ない。新しい生命に、または霊的生命に属したものは信じなくてはならない真理と行わなくてはならない善であり、前のものは信仰に、後のものは仁慈に属している。これらのものは何人も自分自身では知ることは出来ない。なぜなら人間は感覚に明白である物のみを悟り、そこから彼は自然的な光と呼ばれる光を自分自身に得、その光から世と自己に関係した物以外の物は何一つ認めないし、天界と神に関係したものは何一つ認めないからである。これらは彼は啓示から学ばなくてはならない。例えば永遠から神であられる主が人類を救うために世に来られたこと、かれは天界を支配する一切の力を持たれること、信仰のすべてと仁慈のすべては、引いては真理と善のすべてはかれから発していること、天界と地獄の存在すること、人間は永遠に生きるものであること、もし善を行ったならば天界に、悪を行ったならば地獄に生きるものであるというようなこと(を学ばなくてはならないのである)。

 

 

 

 

3.人間は信仰の諸真理と仁慈の諸善を教えられない限り、再生することは出来ない

 

 

新しいエルサレムの教義184

 

「誰が再生するか」。

人間は信仰の諸真理と仁慈の諸善を教えられない限り、再生することは出来ない(677、679、711、8635、8638−8640、10729番)。