善悪の判断

 

霊的な善と真理とは何であるかは、聖言からのみ知ることが出来る

 

 

 

 

1.神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担する

2.姦淫を弁護する者

 

 

 

 

1.神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担する

 

 

仁慈の教義203

 

「人間は悪を罪としてそれを恰も自分自身から避けるかのように避けなくてはならないもの、それでも主からそれを避けなくてはならない。」聖言を読み、何らかの宗教を持っている者であって、たれが悪が罪であることを知らないか。聖言はそのことを初めから終りにかけて教えており、それが宗教のすべてである。悪はそれが聖言に反し、宗教に反しているというそのことから罪と呼ばれている。たれ一人悪を罪として自分自身から避けない限り避けることは出来ないことをたれが知らないか。人間は自分自身の中で、このことは私は行わない、そのことを行うことは私は慎もう。そうだ、その悪が帰ってくる時はいつでも私はそれと戦って、それを征服しよう、とは言わないか。それでもたれ一人神を信じない限り自分自身の中ではそのように話しはしないのである。神を信じない者は悪を罪としては認めないし、それでそれに反抗して戦いはしないし、むしろそれに加担するのである。しかし神を信じる者は、また、その者自身の中に、神を通して私はそれを征服しよう、とも言うのである。そして彼は懇願して、征服するのである。このことはたれにも拒まれてはおらず、凡ての者に与えられている、なぜなら主は人間を改良し、再生させ、彼を幾多の悪から清めようと、その神的な愛から、絶えず努められているからである。そしてその人間がまたそれを欲し、意図するとき、主のこの不斷の努力は行為となるのである。このようにして―全くそれ以外の方法にはよらないで―人間は悪に抵抗し、それと戦う力を得るのである。それ以前では彼は受けはしないで、斥けるのである。それで、このことが、悪を罪として恰も自分自身で避けるかのように避けることであり、それでも主から避ける

ことである。しかしこの主題についてはまた「新しいエルサレムのための生命の教義」を参照されたい(101−107番)。

 このことに私は以下のことを附加しよう、即ち、健全な理性を持っている人間に向って、以下のように言われよ、ただ、神の御子、キリストがあなたを地獄から贖われ、また凡ての悪からも贖われました、そうした理由から神があなたの罪を赦されるように、と神に祈りなさい、そうすればそれは赦されるでしょう、それであなたは悪を罪として自分自身で避けるものとして避ける必要はありません。あなたはあなた自身で何か些かでも行うことが出来ますか。それで、あなたは何をあなた自身で為すものとして為すことが出来ますか、と。それから一つの小石、または一つの木切れを手に取って、彼に言われよ、あなたはあなたの義認と救いに対してはこの小石またはこの木切れと全く同じように何事も行うことは出来ないのです、と。するとその健全な理性の人は以下のように答えるであろう、私は私自身から何一つ行うことは出来ないことは私は知っています、それでも私は私の悪を私自身で悔改めるものとして悔改めることが出来ます、このことは主御自身が教えられましたし、またこのことはその使徒たちも、パウロも、聖言も、宗教の一切もが教えています、と。そのとき以下のように言われよ、あなたは何一つ行うことが出来ないからには、何をあなたは為そうとされますか。もし望まれるなら、それを行いなさい。私は信仰により悔改めます、あなたは業により悔改めます、が、信仰は業がなくても救うのです、と。しかし健全な理性の人間は以下のように答えるであろう、主は私に行うように教えられ、また信じるように教えられます。信仰はあなたのものとしましょう。信仰と業と結合したものは私のものとしましょう。死後人間はその行った事柄を報告しなければならないのであり、たれでも人間は行っているように、信じていることを私は知っています、と。

 

 

 

天界と地獄533

 

しかしそのように考える困難、同じく悪に抵抗する困難は、人間が意志からその悪を犯すに応じて増大することを知らなくてはならない、なぜなら彼は全くそれに応じてその悪に自分自身を慣れさせ、遂にはそれを認めなくなり、後にはそれを愛し、愛する楽しさからそれを弁護し、凡ゆる種類の誤謬によってそれを確認し、それは許されることであり、善いことであるとさえ言うのである。しかしこれは初期の青年時代から凡ゆる悪へ向き奔放に突入すると同時に、心から神的な物を斥ける者らの実情である。

 

 

 

 

2.姦淫を弁護する者

 

 

真の基督教315

 

「天的意義では」姦淫を為すことは聖言の聖さを否定し、これを汚すことである。これは聖言の諸善を汚し、その真理を誤謬化するというその霊的な意義から生まれる。基督教世界では聖言に基礎づけられている教会と宗教を、心で軽蔑する者等は、聖言の神聖を否定し、これを汚すものである。

 

 

 

真の基督教316

 

自らは全く不貞な人間であるにも拘らず、他の者に対してのみでなく、自らに対しても貞淑な者であるように見えるのには種々の理由がある。なぜなら彼は意志の内なる色情は行為と相等しいものであり、それは主によってのみ悔改めの後に除かれることが出来ることを知らないからである。行為を慎むことによって人間は貞潔になるのではなく、その行為が可能である場合にもこれを欲しないことによって貞淑になるのである。

 

しかし、もし人間がただ単に法律とその刑罰を恐れ、名声と尊敬が失われることを恐れ、病気に感染することを恐れ、妻との家庭内の争いとそこから生まれる不穏な生活を恐れ、夫や近親の復讐を恐れ、召使によって打たれることを恐れることによって、また貪欲によって、病気、濫用、老齢から生ずる衰弱によって、あるいはその他の何らかの無能の原因によって、姦淫と密通を慎むならば、否、さらに霊的な律法の故によってこれを慎むのではなく、自然的な、あるいは道徳的な何らかの律法によって慎むに過ぎないならば、彼は内的には姦淫を犯す者であり、また密通者である。

 

なぜなら、彼は依然として、姦淫と密通は罪ではないと信じており、それ故、それを神の眼前に不法なものとして認めず、かくて彼はたとえこれを行為に現さないにしても、霊に於いて行う者であり、それ故彼は死後霊となる時、公然とこれを弁護するのである。さらに、姦淫者は契約を破棄する者に比較され、また「何処に我々は処女を、婚約をした娘達を、既婚の女を見出し、これを弄ぶことが出来るか」と叫びながら、森を彷徨った古代のサチルス神とプリアピイ神に比較することが出来よう。姦淫者は、霊界では実際サチルスやプリアピイのような姿で現れるのである。彼らは、更に、悪臭を放つ山羊に譬えられ、また街々を駆けめぐって、己が欲望を満足させる相手を探し求めてこれを嗅ぎつけまわる犬に譬えることが出来よう。彼らは夫になると、その生殖力は、二三週間で花片を落として、枯れゆく春のチューリップに譬えることが出来よう。