父の右に座す

 

 

人の子が大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見る(マタイ24・30)

人の子

 

 

 

1.聖書より

2.父の右に座す

3.右手

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

マタイ22・44

 

主はわたしの主にお告げになった。

「わたしの右の座に着きなさい、わたしがあなたの敵をあなたの足もとに屈服させるときまで」と。

 

 

 

マタイ26・64

 

しかし、わたしは言っておく。あなたたちはやがて、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に乗って来るのを見る。

 

 

 

マルコ14・62

 

人の子が全能の神の右に座り

 

 

 

マルコ16・19

 

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 

 

 

ルカ22・69

 

しかし、今から後、人の子は全能の神の右に座る。

 

 

 

コロサイ3・1

 

さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

 

 

 

ロマ書8・34

 

復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださるのです。

 

 

 

ペトロの手紙1・3・22

 

 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。

 

 

 

 

2.父の右に座す

 

 

天界の秘義2083〔2〕

 

 主は己がもとにあった人間的なものをことごとく御自身の力から神的なものになされ、かくて単に合理的なもののみでなく、内的な感覚部分と外的な感覚部分をも神的なものになされ、それにより身体そのものをも神的なものになされたのである。このようにして主は人間的なものを神的なものに結合されたのである。合理的なもののみでなく、感覚的部分も、引いては身体全体もまた神的なものに、エホバになされたことはすでに示されたところであるが、そのことは以下の事実からたれからも認められることができよう、すなわち、主のみがその身体の方面で死人からよみがえりたもうて、その神的なもののすべての方面でも、またその人間的なもののすべての方面でも、神的な力の右手に坐られておられるのである。神的な力の右手に坐ることは天と地における至高の力をことごとく持つことを意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義8281

 

「ああ、エホバよ、あなたの右手は強さにより讃えられます」(出エジプト記15・6)。

これは主の全能が示されたことを意味していることは以下から明白である、すなわち、「エホバの右手」の意義は全能であり―そのことについては以下を参照―「強さにより讃えられます」の意義は示されることである、なぜなら神的な力は強さをもって示され、その強さで讃えられるからである。「エホバの右手」が全能を意味していることは、聖言の「手」により力が意味され、かくて「右手」により卓越した力が意味され、従って「手」または「右手」がエホバについて言われるときは、それは神的な力を、または全能を意味するのである。(「手」と「右手」は力を意味していることについては、878,4931〜4937、6292,6947,7188、7189,7518番を参照、それがエホバについて述べられているときは、全能を意味することについては、3387、7518、7673、8050、8069、8153番を参照)。

 

 

 

天界の秘義8281[]

 

「エホバの右手」は神的な力、または全能を意味していることもまた聖言の以下の記事から明白である―

 イエスは言われた、いまから後あなたらは人の子が力の右手に座って、天の雲にのって来るのを見るでしょう。(マタイ26・64、マルコ14・62)

 

 いまから後人の子は神の力の右手に座りつつあるでしょう(ルカ22・69)

 

エホバはわたしの主に言われる、わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまで、わたしの右手に座りなさい、あなたはメルキゼデクのさまに従ってとこしえに祭司である、主はあなたの右手におられて怒りの日に王らを打たれた(詩篇110・1,4,5、マタイ22・44)

 

「右手」は、エホバについて言われているときは、全能を意味していることを知らない者は、主のこれらの言葉から、主はその御父の右手に座り、地上の王の右手に座っている者のように統治されるであろうとしか考えることができない。しかし内意はこれらの記事の中で「右手に座ること」により意味されていることを、すなわち、神の全能を教えており、従ってまた「力の右手に座る」、「神の力の右手に座る」と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義8281 []

 

全能を持たれるのは主であることは明らかである、なぜならそれは主について言われ、「ダビデの書」の中の「主」により神的な真理の方面の主が意味されており、また福音書の中の「人の子」によっても意味されているからである、なぜなら神的な真理は神的な善から全能を得ているものであるからである。(神的な真理に全能があることについては、6948,8200番を参照、全般的に力は善から発した真理に属していることについては、3091、3563、4231、6344、6493番を参照、従って「手」は真理について述べられていることについては、3091、4931番を参照し、「人の子」が主から発出している神的真理を意味していることについては、2159、2803、2813、3704番を参照)。

 

 

 

天界の秘義9133

 

「かれの手の中に」は何であれかれに属したものを意味していることは「手」により力が意味され、何であれ、たれかの力の中に在るものはその者に属しているためである。従って「手」により、とくに右手によりその人間自身が意味されている。この凡てから「父の右手に座ること」が主について言われているとき、それにより意味されていることは、父における凡てのものであり、かくて父御自身であることを認めることができよう―そのことは父の中に、父は主の中に在ることと同じであり、主のものは凡て父のものであり、父のものは凡て主のものであることと同じであり、そのことは主がヨハネ14・8−11、17・10、11に教えられているのである。

 

 

 

天界の秘義9807〔6〕

 

 同様に他の所にも―

 

 わたしはあなたらに言います、この後あなたらは人の子が力の右手に坐って、天の雲の中に来るのを見るでしょう(マタイ26・4)。

 

 これからは人の子は神の力の右手に坐るでしょう(ルカ22・69)。

 

『人の子』は主から発出する神的な真理〔神の真理〕を意味し、『力の右手に坐ること』は主が全能を持たれることを意味し―なぜなら神的な善〔神の善〕は神的な真理により全能を持つからである―『これから後彼らはそれを見るでしょう』と言われていることは、主が世で諸々の地獄を征服して、その中の、また諸天界の一切のものを再び秩序づけられた後は、神的な真理はその全能の中に在ったのであり〔その全能を得たのであり〕かくて主を信仰と愛との中に受けようと欲する者は救われることが出来ることを意味しているのである(9715番を参照)。(『右手に坐ること』が全能を意味していることについては、3387、4592、4933、7518、8281、9133番を参照、善は真理を通して凡ゆる力を得ることについては、6344、6423、8304、9327、9410、9639、9643番を、神的な力そのものは神的真理であることについては、6948番を、『人の子』即ち、神的な真理が『その中に在って来られる雲』は文字における聖言を意味していることについては、創世記18章序言、4809、5922、8267、9429番を参照されたい)

 

 

 

真のキリスト教136

 

かくて私(スウェーデンボルグ)は語った。「右手に座することは文字通り右手に座することを意味するのではなく、神が世に取り給うた人間性による神の全能を意味します。神はこの人間性によって始めから終わりまで凡ゆる物の中に在し給います。彼はこれによって地獄に入り、これを破り、これを征服し給いました。彼はこれによって諸天界を秩序ある排列にもたらせ給いました。従って彼はこれによって人間と天使とを贖い、彼らを永久に贖い給いました。もしあなた方が神に聖言を尋ね、照らされることが出来ますならば、あなた方は右手は全能を意味することを理解されるでしょう。例えばイザヤ書には以下のように記されております。「我が手は地の基を置き、我が右手は諸々の天をのべたり」(48.13)「神はその右手により、その力ある腕によりて誓い給えり」(62・8)。「汝の右手の我を支え給はむことを」(詩篇18・35)。「汝が自らのために強くなし給いし人の子の上におきたまえ」(80・15,17)これによって以下の言葉が如何に理解されるべきであるかが明らかであります。「エホバ我が主に語り給えり、我汝の敵を汝の承足とする迄は我が右手に座すべし。主はシオンより汝の力の杖を送り給はむ。汝は汝の敵の最中に在りて統べ治めよ」(110・1,2)。この詩篇の凡ては主の地獄との争闘を、地獄の征服を取り扱っております。神の右手は全能を意味するため、それ故主は自らは力の右手に(マタイ26・64)神の力の右手に(ルカ22・69)座するであろうと語り給うのです。」

 

 

 

 

3.右手

 

 

天界の秘義9133

 

「もしその盗んだものが彼の手の中に見つけられるなら」(出エジプト記22・3) これは、回復が行われることの出来る手段となる真理と善の何かが残っているなら、を意味していることは以下から明白である、即ち、「見つけられるなら」の意義は、それが、『盗んだもの』により意味されている、取り去られた善または真理について言われている時は、残っていることであり、『彼の中に』の意義は、彼の力の中に、であり(『手』は力を意味していることについては、878、3387、4931−4937、5327、5328、5544、6947、7011、7188、7189、7518、7673、8050、8153、8281番を参照)―『彼の手の中に』は、また彼の手に属したものを意味していることは以下に見られるであろう―『盗んだもの』の意義は取り去られた善または真理である(9125番)。このことから『もしその盗んだものが彼の手の中に見つけられるなら』により、善と真理との何かが残っているなら、が意味されていることは明らかである。それはまた、回復が行われることが出来る手段となるものを意味していることは、この節が取り去られた善と真理とを回復することを取り扱っているためである。この間の実情は以下の如くである。善に対する全般的な情愛が残っている限り、取り去られた何か個別的な〔特殊な〕善が回復されることが出来る手段となる何ものかが常に残っているのである、なぜなら個別的な善と真理とは全般的な善に依存しているからである(920、1040、1316、4269、4325、4329、4345、4383、5208、6115、7131番)。『彼の手の中に』は何であれ彼に属したものを意味していることは「手」により力が意味され、何であれ、たれかの力の中に在るものはその者に属しているためである。従って『手』により、特に『右手』によりその人間自身が意味されている。この凡てから『父の右手に坐ること』が主について言われている時、それにより意味されていることは、父における凡てのものであり、かくて父御自身であることを認めることが出来よう―そのことは父の中に、父は主の中に在ることと同じであり、主のものは凡て父のものであり、父のものは凡て主のものであることと同じであり、そのことは主がヨハネ14・8−11、17・10、11に教えられているのである。