“霊”に対する冒涜は赦されない

マタイ12・31

 

 

聖霊

冒涜ユダ(イスカリオテ)

人の子

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.シスター・エマニエル

4.ヴァッスーラ

5.マリア・ワルトルタ

6.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ12・31−32

 

だから、言っておく。人が犯す罪や冒瀆は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒瀆は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

 

 

 

文語訳聖書

マタイ12・31−32

 

この故に汝らに告ぐ、人の凡ての罪と瀆(けが)しとは赦されん、されど御霊(みたま)を瀆(けが)すことは赦されじ。誰(たれ)にても言(ことば)をもて人の子に逆らふ者は赦されん、然(さ)れど言(ことば)をもて聖霊に逆らふ者は、この世にても後の世にても赦されじ。

 

 

 

マルコ3・28−29

 

よく言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒瀆の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は永遠に赦されず、永遠の罪に定められる。

 

 

 

ルカ12・10

 

人の子の悪口を言う者は皆赦される。しかし、聖霊を冒瀆する者は赦されない。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

アタナシウス信条についてP41

 

 聖霊に反抗する罪は聖言における神的なものを否定することである、なぜならそのことを否定する者らは、口には出さぬが、心の中では天界と教会との凡ゆる物を否定しているからである、なぜならこれらのものはことごとく聖言から発しているからである、彼らはまた主の神的なものを否定している。

 

 

 

聖霊について(アタナシウス信条についてに併録P100)

 

 聖霊に反抗する罪は主の神的なものを否定することである(マタイ12・28、32、マルコ3・28、29、ルカ11・20など)。このことは前に言われていることから明白である。彼らは主は『魔鬼の頭により』魔鬼どもを追い出したのである、と言ったが、主はわたしは『神の霊により』、即ち、主御自身の神的なものによりそれを追い出したのである、と言われたのである。心情の中で否定することは赦されはしないのである、なぜならそうした者らは、ソツニウス派の者ら凡ての者のように、天界に入ることは出来ないからである。

 教会内にいて、主の神的なもの[神性]を否定し、父なる神のみを承認する者らもまた救われることは出来ない。彼らの中非常に多くの者は自然を承認しており、それで彼らは神的なものを自然の最小部分としてしか考えない。彼らは主に向くことは出来ないのであり、世を求める愛へ向く理由を述べることにしよう。

 

 

 

神の摂理231

 

7種類の冒涜について

 

「第6の種類の冒涜は聖言を承認しつつも、主の神性を否定する者により犯される」。これらはこの世でソツニウス派、アリウス派と呼ばれている。両者の運命は父を呼んで、主を呼ばず、絶えず父に天界に入れられるように祈り、或る者は御子の故に天界に入れられるようにさえ祈ることである。しかし彼らは徒に呼び求めるにすぎず、ついには救いの望みを凡て失い、地獄の神を否定する者の許へ送られる。これらのものは聖霊を冒涜し、この世でも来るべき世でも罪を赦されない者により意味されている(マタイ12・32)。その理由は、神は人格と本質において一つであって、その中に三一性が在り、主はこの神であられ、主はまた天界であり、従って天界にいる者たちは主の中におり、主の神性を否定する者は天界に入れられて主の中にいることは出来ないということである。主は天界であられ、従って天界にいる者は主の中にいることは前述した。

 

 

 

啓示による黙示録解説571

 

聖言から教会の教義を引き出さないで、それを自分自身の理知から考案することは冒瀆であるという第二のものについては、その理由は、「聖書にかかわる新しいエルサレムの教義」(76−79番)の中に認めることが出来るように、教会は聖言から存在し、その性質は聖言の理解に順応しているためである。

 

そして信仰のみは、即ち、信仰は律法の業なしに義とし、救うという教義は、聖言から発してはおらず、パウロのただ一つの表現を誤って理解したことから発しており(ロマ3・28、417番参照)、教義の誤謬はことごとく自己自身の理知以外のいかような源泉からも発してはいないのである。

 

なぜなら聖言には、悪を避けて、善を行うということにもまさって何が遍く教えられているであろうか。また神と隣人とを愛さなくてはならないということにまさって何がさらに明白であろうか。そしてたれ一人律法の業に従って生きない限り、隣人を愛することは出来ないし、隣人を愛さない者は神も愛しはしないことを認めない者があろうか。なぜなら隣人を愛する愛の中に主は御自身を人間と連結され、人間は人間自身を主と連結させ、即ち、主と人間とはその愛の中に結合するからである。そして隣人を愛することは、十戒の戒めに従って、隣人に悪を行わないことではなくて何であろうか(ロマ13・8−11)。そして人間は隣人に悪を為すことを欲しないことに正比例して、隣人に善を為すことを欲しており、ここから、善い業から分離した信仰である信仰のみが救うものであるとしている者らのように、この律法の業を救いから除外することは冒瀆であることは明白である。『冒瀆』(マタイ12・31、32、黙示録17・3、イザヤ37・6、7、23、24)によりソツニウス派の者らのように、主の神的なものを否定し、聖言を否定することが意味されている、なぜならそのようにして主の神的なものを否定する者らは天界に入ることは出来ないからである、なぜなら主の神的なものは天界における凡てにおける凡てであり、聖言を否定する者は宗教の凡ゆる物を否定するからである。

 

 

 

 

真の基督教299

 

「天的な意義では」神の名を妄に口に上ぐることは、主がパリサイ人に語りたもうたこと、即ち、凡ゆる罪と冒涜は人間に赦されるであろう、しかし御霊を冒涜することは赦されないことを意味する(マタイ12・31)。

 

御霊の冒涜は主の人間性の神性に対する、また聖言の聖に対する冒涜を意味する。主の神的な人間性は、神エホバなる名の天的な、最高の意義により意味されていることは、以下の記事によって明白である、

 

イエスは語り給うた。「父よ、御名の栄光をあらわしたまえ。天より声いでて、言う、われ既に栄光をあらわしたり、またさらに栄光をあらわさん」(ヨハネ12・28)。

 

「汝ら何事にても我が名によりて願わば、我これを為さん。父子によりて栄光を受けたまわんためなり。汝ら我が名によりて我に願わば、我これを為すべし」(14・13,14)。

 

主の祈りの天的な意義では、汝の御名の崇められんことをという語によっては、それ以外のものは意味されず、また出エジプト記23・21、イザヤ書63・16の名によってもそれ以外のことは意味されない。御霊の冒涜は主の言葉に従えば、決して赦されない(マタイ12・31)。

 

しかして、この冒涜がこの誡命の天的な意義の中に意味されているため、「エホバはおのれの名を妄に口にあぐる者を罰せではおかざるべし」の語が附加されているのである。

 

 

 

真の基督教683

 

 現実性の無い名前は反響、夢見る者の声、または風、海あるいは機械の騒音の如く空しい音響である。称号はそれに結び附けられている職能を伴わないならば虚栄に過ぎない。野蛮人のように生活し、基督の律法を破る基督教徒は洗礼の際、金糸を以てキリストの御名が織り込まれたその御旗の下に、自らを置かないで、悪魔の旗の下に置くものである。基督の印を受けた後、その礼拝を嘲り、その名を愚弄し、彼を神の子として認めず、ヨセフの子と認める者達は、反逆者であり、弑逆(しいぎゃく)者であり、その言葉はこの世でも、また次の世でも赦されることの出来ない聖霊に対する冒瀆である。彼らは聖言に噛みつき、これを千々に引裂く犬のような者である。これらの者はイザヤ書(28・8)およびエレミア記(48・26)に従えば、その凡ての食卓は嘔吐と汚穢に満たされている者である。しかし主イエス・キリストは至高なる神の子にて在し(ルカ1・32、35)、独子にて在し(ヨハネ1・18、3・16)、真の神にして永遠の生命にて在し(ヨハネ第一書5・20)、その中には神性の完全性は尽く身体を成して宿り(コロサイ2・9)、ヨセフの子ではないのである(マタイ1・25)。

 

 

 

天界の秘義9013〔6〕

 

 霊的な詐欺、即ち、偽善に内部を犯されている者らが、マタイ伝の、聖霊に反抗して語って赦されることの出来ない者らにより意味されているのである―

 

 わたしはあなたたちに言う、罪と冒涜とはすべて赦されるが、しかし聖霊を冒涜することは人間に赦されはしない。否、たれかが人の子に反抗して言葉を言うにしても、それは彼に赦される、しかしたれであれ聖霊に反抗して語る者は、この世でも、来るべき世でも、赦されはしない。木を善いものとし、その実を善いものとしなさい。または木を悪いものとし、その果も悪いものとしなさい、ああ、蝮の裔よ、お前らは、悪い者であるのに、どうして善いことを話すことが出来よう(マタイ12・31−34)。

 

『聖霊に反抗して話すこと』により、主のものであり、その王国のものであり、その教会のものであり、また聖言のものである事柄について、善くは語るが、悪を考え、善くは行うが、悪を欲していることが意味されているのである、そのことにより、その者らの話す真理の内部には誤謬が隠れており、その行う善の中には、隠れた毒である悪が隠れているからであり、従って彼らは『蝮の裔』と呼ばれている。

 

 

 

天界の秘義9013〔7〕

 

他生では悪い人物は悪を、また誤謬を話すことを許されてはいるが、しかし善と真理とを話すことは許されてはいない、なぜならそこでは凡ての者は心から語ることを強いられて、分割された心を持つことは許されはしないからである。そのことを行わない者は他の者から引き離されて、地獄に隠れ、そこからは到底出ることは出来ない。こうした者が『聖霊に反抗して言葉を言う者ら』により意味されている者であることは、『木を善いものとし、その果を善いものとするか、または木を悪いものとし、その果を悪いものとしなさい、おまえらは、悪い者であるのに、どうして善いことを話すことが出来ようか』という、前の主の御言葉から明白である。「聖霊」は主から発生している神的真理であり、かくて聖い神的なものそれ自身であり、それはそのことによって内的に冒瀆され、汚されるのである。

 

 

 

天界の秘義9013〔8〕

 

それは彼らに赦されはしないことは、聖い神的な事柄に関連した偽善または詐欺は、前に言ったように、人間の内部を犯し、彼の霊的な生命の凡ゆるものは破壊し、かくて遂には彼のいかような部分にも健全なものは何一つなくなるためである。なぜなら罪を赦されることは善から悪を分離し、悪を周辺へ斥けることであり(8393番)、そのことは善をことごとく破壊されている者の中には行われることは出来ないからである。それで『それはこの代でも、来るべき代でも彼に赦されはしない』と言われているのである。『婚礼の着物を着ていなかった』ため、手足を縛られて、外の暗黒の中へ投げ出された者により意味されている者らもまたこうした性格を持っているのである(マタイ22・11−13。2132番を参照)。

 

 

 

天界の秘義9013〔9〕

 

聖言の『詐欺』は偽善を意味していることは以下の記事から明白である―

 

人は各々その仲間を警戒し、如何ような兄弟も信頼してはならない、なぜなら人は各々くつがえすからである。人はその仲間を嘲って真実を話さない、彼らはその舌に教えて、虚言を弄させる。お前は詐欺を住居としている、詐欺を通して彼らはわたしを知ることを拒んだ、とエホバは言われた(エレミヤ9・4−6)。

あなたは虚言を弄する者を滅ぼさなくてはならない、エホバは血と詐欺の人間を忌み嫌われる(詩篇5・6)。

エホバから不法を帰せられない者は、その霊に詐欺がないさえするなら、祝福されている(詩篇32・2)。

わたしの魂を、偽る唇から、欺く舌から救いたまえ(詩篇120・2)。

詩篇24・4、109・2でも同様である。

 

 

 

天界の秘義9818[27]

 

 さらに―

 

罪と冒涜の凡てはあなたらに赦されるでしょう。しかし御霊の冒涜は人間には赦されはしないでしょう。もしたれかが人の子に反抗する言葉を言うにしても、それはその者に赦されるでしょう。しかしたれであっても聖霊に反抗して語る者には、それはこの代においても、後の代においても赦されはしないでしょう(マタイ12・31,32)

 

「人の子に反抗する言葉を言うこと」は、人間の生命に未だ植えつけられていない、または印刻されていない神的な真理に反抗することを意味しているが(「人の子」が神的な真理を意味していることについては、9807を参照)、しかし「聖霊に反抗して語ること」は人間の生命に植え付けられている、または印刻されている神的な真理について、特に主御自身に関わる神的な真理に反抗することを意味している。これに反抗して語ることは、即ち、一度それが承認された後にそれを否定することは冒涜であり、そうした冒涜はそれが人間の内部を徹底的に破壊してしまうほどの性質を持っており、それでこの罪は赦されることは出来ないと言われているのである。(冒涜の何であるかについては、3398,3898,4289、4601、6348、6959、6963、6971、8394、8882、9298を参照されたい。)

 

 

 

霊界日記2706

 

「さらに私は以下のことを話された、即ち、こうした欲情とこうした欲情を実際にやってのけることは聖霊に対する罪により理解されるものである、なぜなら天使たちの聖さは、すでに言ったように、婚姻愛に、また無垢に基礎づけられており、婚姻愛と無垢とは凡ゆる霊的な、また天的な愛と善の情愛との原理であり、こうした欲念[色情]は聖さの原理に反しているため、それでこうしたものが聖霊に対する罪により主として理解されるものである。」

 

 

 

 

3.シスター・エマニエル

 

 

シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P45

 

魂を最終的に失うようにと私たちを導く心の持ち方、つまり地獄へ行く原因となることは何ですか。

 

 それは魂が神の方へ行きたくないと思う時で、その霊魂が実際に「私は行きたくない」と言う時です。

 

マリア、このことを明確にしてくださってありがとう。

 

これについてメジュゴルイエで出現を見ている内の一人であるヴィッカに質問したことがあります。彼女は地獄を見たのですが、次のように話してくれました。地獄に行く人たちは、「地獄に行く」と単独で決心した人たちだけなのです。誰かを地獄に入れるのは神ではないのです。 ― それどころか、神は救い主ですから霊魂たちにご自分の慈しみを喜んで受けるようにと懇願なさるのです。イエス様が話されている赦されない罪、すなわち聖霊に対する罪は、慈悲に対する絶対的な拒否です。それも、完全に知りながら、完全に認識しながら。ヨハネ・パウロ2世は慈悲に関する回勅の中でこれを非常に上手に説明しています。ここでも私たちは、永遠に滅びる危険にある霊魂のために祈りで大いに助けることが出来るのです。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち5巻P186

‘91・9・11

 

主よ、私は天を臨み、天のことを探し求めます。平安を感じて歓びが湧くよう、み顔を探し求めます。観想の祈りができますように、み顔を探し求めます。

 

そして私としては 我が目で今日の世界を見おろし、国たみの間をたずね歩き、霊魂を次々と調べては 温かみ、寛大さと 愛が少しでもないかと 探し求めている、だが極めてわずかな人しか 私の好意に浴していない。 ほんのわずかしか わざわざ聖なる生き方をしようとは思っていない。 しかし日々は過ぎ去り大いなる裁きの日まで時間は数えられている ♡ 私の町々(*)は娼婦の町になってしまった! 無惨にも! 悪魔たちの要塞と化し! 中は、虫に喰われて 腐り果て! 毒蛇とサソリの隠れ家になっている! 我が清めの火をこれら反逆の徒に どうして吹きかけないでおられよう?・・・

 

*町々をここでは: 「霊魂」を意味して、神は用いておられます。

 

(イエスは突然声の調子が変わられ、数秒間をあけて、私を畏怖させるような重々しい調子でこう言われました:)

 

―地上は震え戦(おのの)こう―そして塔のようにそそり立つ悪はどれも崩れて塵の山となり 罪咎(つみとが)の埃の中に埋もれよう!天上では、天が揺さぶられ 地の基(もとい)が揺れ動く! 御父のみ手が冬に下されないように 祈りなさい。 島々、海と大陸は 雷鳴と炎をともない、思いがけない時に 私の訪れを受ける。私の最後の予告の言葉を注意して聴き、まだ時のあるうちに耳を澄ましなさい。

私どものメッセージ(*)を読み、天が語っている時は もうこれ以上軽蔑して耳を貸さないままではいないように、声を低くするなら私どもの声が聞こえてこよう。 判断を下す前によく考えなさい。 聖霊の御わざを批判する前に さらによく考えなさい。 聖霊を嘲り おおやけに冒涜する者は誰も容赦しない。 義によって黄泉の国に落とされよう ♡ 我が聖なる顔を探し求めて皆天をあおぎ 観想しなさい! 目を天に上げるなら 滅びない。 悔い改めなさい! そして御父に思いとどまっていただくよう 願いなさい。 間もなく、あとわずかしたら、天は開いて

審判者

をあなた方に示そう

(*)イエスとマリア、この二人の証し。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P246

 

私は復活 そして私を通してあなた方皆を 復活の息子 娘たちとした。 あなたが罪にとどまり、隣人を許さず、心を恨みで満たして硬直したままなら、至高なる神をその目で見るのを拒まれる。 罪の負債があるなら 全き聖である霊はご自分を現わさない、悔い改めの行為を そして愛の行為を、意識的に拒んだゆえに・・・

 

この罪にとどまっているなら 私にこう言ったと同じ、「師よ、私は自分の墓にいるほうがいい。 死んだまま 死人の間で生きるほうを選びます。」肉がすでに腐り始め、朽ちかけていながら、まだいのちを拒むのか? あなたが自分の罪を否定するのは いのちを否定するのと同じ。 それよりも私のそばに来なさい そして聖人たちや 地上でも完徳に達そうとしている人たちのそばに 近よりなさい、私を観想している間 心が澄みきっているこの者たちを、私は 神聖なる富と天上の神秘のうちに浸している。

 

 

 

 

5.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P25

 

・・・ユダ、私に話すことはないのか。先生である私に一言も言えないのか。私に頼みたいことはないのか。今さら私に向かって『ゆるしてください』と言えとは要求していない。 私は今まで何回となく、お前をゆるしてきたが、効果はなかった。“ゆるす”という言葉は、お前にとって、単に音に過ぎないのだと知っている。 痛悔する心の動きではない。

 私が望むのは“心の動き”だけである。 もうそれもできないほど死んでしまったのか。 私を恐れているのか? ああ、せめて私を恐れていてくれたら・・・ だが、お前は私を恐れていない。もし恐れていたら、誘惑と罪について、あの日、言ったことを繰り返そう。

『特に重大な罪を犯したあとでも、人が本当の痛悔の念をもって、神の足元に走り寄り、神を信頼して償いを約束し、ゆるしてくださいと請い願うなら、神は彼をゆるし、償いを通して彼は自分の霊魂を救うことができる』と。

 ユダ、お前は私を愛していないが、私が望むのはその愛なのだ。 今、この時、限りない私の愛に向かって頼みたいことはないのか?」

 

 

 

 

6.人間は神について考え、信じているその性質について調べられる

  

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条についてP58

 

 新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである、なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである、なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々したことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。