聖霊・霊

 

 

“霊”に対する冒涜は赦されない(マタイ12・31)

ご変容の奇蹟(マタイ17、マルコ9、ルカ9)

天からの声

 

 

 

1.聖書

2.「霊」の様々な意味

3.神的真理・主御自身・パラクレート

4.鳩 

5.聖霊に反抗する罪

6.聖霊は未だ存在しなかった(ヨハネ7・39)

7.神的活動

8.出て行く、発出する

9.霊たちが「聖霊」と呼ばれること

10.ギリシャ正教

11.父と子と聖霊と言われた理由

12.謙遜で貞潔で、単純、誠実であれば、霊は離れない

13.シメオンを導いた霊

14.シルワン

15.真理の霊

16.聖霊は主御自身、主の現存

17.我が聖霊による御わざを拒む者は誰であっても 私を拒んでいる、聖霊と私は一つであり、同じであるからだ!

18.聖霊によっては明るくすることが意味されている

19.「霊」という描写は聖書的には神のご性質よりはむしろ神のいのちを与える行為を表すもの

20.霊界日記

21.神的知恵

22.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

マタイ10・19−20

 

引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

 

 

 

マタイ12・31

 

だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

 

 

 

ヨハネ20・22

 

そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。」

 

 

 

マタイ28・18−20

 

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 

 

ヨハネ14・15−21

 

「あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。わたしの掟を受け入れ、それを守る人は、わたしを愛する者である。わたしを愛する人は、わたしの父に愛される。わたしもその人を愛して、その人にわたし自身を現す。」

 

 

 

使徒言行録7.59−60

 

ステファノは聖霊に満たされ、天を見つめ、神の栄光と神の右に立っておられるイエスとを見て、「天が開いて、人の子が神の右に立っておられるのが見える」と言った。人々は大声で叫びながら耳を手でふさぎ、ステファノ目がけて一斉に襲いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ始めた。証人たちは、自分の着ている物をサウロという若者の足もとに置いた。人々が石を投げつけている間、ステファノは主に呼びかけて、「主イエスよ、わたしの霊をお受けください」と言った。それから、ひざまずいて、「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」と大声で叫んだ。ステファノはこう言って、眠りについた。

 

 

 

使徒言行録9・4−6

 

サウロは地に倒れ、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」と呼びかける声を聞いた。「主よ、あなたはどなたですか」と言うと、答えがあった。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである 起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。」

 

 

 

使徒言行録9・10−16

 

ところで、ダマスコにアナニアという弟子がいた。幻の中で主が、「アナニア」と呼びかけると、アナニアは、「主よ、ここにおります」と言った。 すると、主は言われた。「立って、『直線通り』と呼ばれる通りへ行き、ユダの家にいるサウロという名の、タルソス出身の者を訪ねよ。今、彼は祈っている。アナニアという人が入って来て自分の上に手を置き、元どおり目が見えるようにしてくれるのを、幻で見たのだ。」しかし、アナニアは答えた。「主よ、わたしは、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました。ここでも、御名を呼び求める人をすべて捕らえるため、祭司長たちから権限を受けています。」すると、主は言われた。「行け。あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らにわたしの名を伝えるために、わたしが選んだ器である。わたしの名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、わたしは彼に示そう。」

 

 

 

使徒言行録16・6−7

 

さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった。

 

 

 

使徒言行録20・22−23

 

そして今、わたしは、“霊”に促されてエルサレムに行きます。そこでどんなことがこの身に起こるか、何も分かりません。ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。

 

 

 

使徒言行録20・28

 

聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです。

 

 

 

使徒言行録21・10−11

 

幾日か滞在していたとき、ユダヤからアガボという預言する者が下って来た。そして、わたしたちのところに来て、パウロの帯を取り、それで自分の手足を縛って言った。「聖霊がこうお告げになっている。『エルサレムでユダヤ人は、この帯の持ち主をこのように縛って異邦人の手に引き渡す。』」

 

 

 

コリント1・12・3

 

ここであなたがたに言っておきたい。神の霊によって語る人は、だれも「イエスは神から見捨てられよ」とは言わないし、また、聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです。

 

 

 

 

2.「霊」の様々な意味

 

 

主イエス・キリスト46[]

 

聖霊は主御自身以外のものでないことを明らかにするため、聖言の『霊(スピリット)』により意味されていることを示そう。『霊』により以下のものが意味されている。

 

(1)全般的な人間の生命

(2)人間の生命はその人間の状態に応じて変化しているため、『霊』により人間における生命の色々に変化した情愛が意味されている。

(3)霊的生命と呼ばれている再生した人間の生命もまた(意味されている)。

(4)しかし『霊』が主について言われている所には、主の神的生命が意味され、かくて主御自身が意味されている。

(5)とくに、神的真理と呼ばれているところの、主の知恵の生命が意味されている。

(6)エホバ御自身、すなわち、主が予言者を通して聖言を語られた(ことが意味されている)。

 

 

 

 

天界の秘義6788

 

聖言でこの諸真理が聖いものと呼ばれているのは、人間のもとで信仰の諸真理となる諸真理は善から発しているという理由によっており、また主の神的な人間的なもの〔神の人間性〕から発出しているものは神的な善〔神の善〕から発した神的な真理〔神の真理〕であるためである。ここから『聖霊』は主から発出している聖いものである。なぜなら霊そのものは発出しないで、その霊の話す聖いものが発出するからであり、そのことはたれでもその事柄を考察するなら理解することが出来よう。『助け主』(パラクレート)とも呼ばれている聖霊は主の神的な人間的なものから発出している神的真理であって、聖いものは神的真理について述べられていることはヨハネ伝の主の御言葉から明白である―

 

 わたしは父があなたたちに他の一人の助け主を与えられて、その助け主がとこしえにあなたたちのもとに宿るように父に求めましょう、まことに真理の御霊を(求めましょう)、世はこれを受けることは出来ないのは、世はかれを見ないし、また知りもしないためである。助け主、即ち、父がわたしの名において遣わされる助け主、聖霊は、あなたらに凡ゆる事柄を教え、またわたしがあなたらに言った凡ゆる事柄をあなたらに思い出させるでしょう(ヨハネ14・16、17、26)わたしが父からあなたたちのもとへ遣わす助け主が、実に父から出てくる真理の御霊が来る時、かれはわたしについて証するでしょう(ヨハネ15・26)。

 

 かれ、真理の御霊が来る時、かれはあなたらを凡ゆる真理の中へ導き入れるでしょう、かれはかれ自身から話さないで、凡てその聞くことをことごとく話すでしょう。かれはわたしを栄化するでしょう。なぜならかれはわたしのものを取って、それをあなたたちに明らかに示すからです。何であれすべて父が持たれるものはわたしのものであり、それでわたしは、かれはわたしのものを取って、それをあなたたちに明らかに示すでしょう、と言ったのです(ヨハネ16・13−15)。

 

 もしこれらの記事が他の多くの記事と対照されるなら、聖霊は主の神的な人間的なものから発出する聖いものであることが理解されることが出来よう、なぜなら主は、『かれをわたしは父からあなたたちのもとへ遣わしましょう』と言われ、更に『かれはわたしのものを取って、それをあなたたちに明らかに示すでしょう、父の持たれるものはすべてわたしのものであり、それでわたしは、かれはわたしのものを取って、それをあなたたちに明らかに示すでしょう、と言ったのです』と、言われたからである。聖いものは真理について述べられていることもまた明白である、なぜなら助け主は『真理の御霊』と呼ばれているからである。

 

 

 

 

天界の秘義9818

 

「わたしが知恵の霊をもって満たしたところの」これは、その中に神的な真理[神の真理]が印刻されている、を意味していることは『知恵の霊』の意義から明白であり、それは、それが天的な善の中にいる者たちについて言われているときは、神的な真理であり(そのことについては以下に述べよう)、かれらは印刻されたものが存続するときは『それに満たされている』と言われている。このかんの実情は以下のごとくである、すなわち、主の天的な王国にいる者たちは記憶知から、また記憶知から生まれる信仰から真理を知るのではなく、内なる認識からそれを知るということである、なぜならかれらは主から発した愛の善の中におり、真理はことごとくこの善の中に接木されているからである。善そのものはかれらの意志の部分に植えつけられており、その善から派生している真理はその知的な部分に植えつけられているのである。かれらのもとでは、霊的な王国にいる者たちとは異なって、意志の部分と知的な部分とは絶対に一つのものとして活動しているのである。ここから主の天的な王国にいる者たちはその知的な部分から真理を知るのではなく、真理を認識するのである、なぜなら意志に植えつけられている善は理解の中にその性質と形とを示され、そこに恰も焔を上げて燃えているような光となって存在しているからである。かれらのもとでは、真理は善の形であり、その性質は、見られはしないで、認められ、善から発しているのである。ここからかれらは真理については決して論じはしないで、真理について論じるときは、それはそうであり、またはそうではないと言うのみで、それ以上は何ごとも言いはしないのである、なぜならそれ以上のものは何であれ善から発しはしないからである。これらの者がマタイ伝に意味されている者たちである―

 

 あなた方は、然り、然り、否、否、と言いなさい、何であれそれ以上のものは悪から発しています(5・37)。

 

(主の天的な王国の中にいる者たちはこうした性格をもっていることについては、2715、2718、3246、4448、5113、6367、7877、9166、943番を参照されたい。天的な王国にいる者たちと霊的な王国にいる者たちとの間の相違のいかようなものであるかは、9276番に引用された所に見ることができよう)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 この凡てから神的な諸真理が『印刻されること』により意味されたことを今認めることができよう。『霊』という語は聖言の多くの記事の中に用いられており、それが人間について言われているときは、その『霊』により彼の知的な部分に印刻されている善と真理とが意味され、従ってその部分の生命が意味されている。『霊』が、人間について述べられているとき、こうした意義をもっていることは、人間はその内部の方面では霊であり、またその内部の方面では霊たちと交わっているためである。この主題については前に豊かに示したことを参照されたい、すなわち、人間のもとには霊たちと天使たちとがおり、人間は主により彼らを手段として導かれている(50、697、986、2796、2886、2887、4047、4048、5846―5866、5976−5993番)、人間はその人間自身に似た霊たちと天使たちの間にいる(4067、4073、4077、4111番)、人間は各々その身体が生命を得る手段となっている一つの霊をもっている(4622番)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 ここから『御霊[霊]』により、それが主について言われているとき、意味されていることを知ることが出来よう、即ち、主の神的な善から発出している神的な真理が意味されており、この神的な真理が人間のもとへ流れ入って、人間により受け入れられると、それは『真理の霊』、『神の霊』、『聖霊』である、なぜならそれは主から直接流れ入り、また間接に天使たちと霊たちとを通して流れ入っており(9682番に引用した所を参照)、『真理の霊』、『神の霊』、『聖霊』がこのことを意味していることは以下の記事に認められるであろう。なぜなら聖言では、霊は、それが人間について言われているときは、人間の知的な部分に印刻されている善と真理とを意味しており、従ってそれはその部分の生命を意味していることを先ず示さなくてはならないからである。なぜなら知的な部分の生命と意志の部分の生命とが在り、知的な部分の生命は、真理が真理であり、善が善であることを知り、認め、理解することであるに反し、意志の部分の生命は真理を真理のために、善を善のために、意志し[欲し]、愛することであるからである。この後の生命は聖言では『心[心情]』と呼ばれているが、しかし前の生命は『霊[精神]』と呼ばれているのである。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 これが事実であることは聖言の以下の記事から明白である―

 

  あなたらのために新しい心と新しい霊とを作りなさい、ああ、イスラエルの家よ、あなたらはなぜ死のうとするのですか(エゼキエル18・31)。

 

  わたしはあなたらに新しい心を与えよう、わたしはあなたらの真中に新しい霊をおこう(エゼキエル36・26)

 

『新しい心』は新しい意志を、『新しい霊』は新しい理解を意味している。ゼカリヤ書には―

 

  エホバは諸天を張り、地の基礎をすえ、人間の霊をその真中に形作られる(12・1)。

 

ここでは『諸天を張り、地の基礎をおくこと』は新しい教会を意味し(教会が『天と地』により意味されていることについては1733、1850、2117、2118、3355、4535番を参照されたい)、『人間の霊をその真中に形作ること』は人間を真理と善とを理解する方面で再生させることを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 ダビデの書には―

 

  ああ、神よ、わたしの中に清い心[心情]を創造りたまえ、わたしの真中に確固として霊を新にしたまえ。あなたの御前からわたしを投げ棄てたまうな、わたしからあなたの聖い霊を取り去りたもうな。あなたの救いの喜びをわたしに回復し、率直な心にわたしを支えさせたまえ。神の生けにえは砕かれた霊である、砕かれた、悔いた心を神はいやしめられはしない(詩篇51・10−12、17)。

 

『清い心[心情]』は不潔な悪を嫌悪する意志を意味し、『確乎とした霊』は真理の理解と信仰を意味し、『砕かれた霊』と『砕かれた心』は試練の状態とその結果起ってくるこの二つのものの生命の卑下とを意味している。『霊』が生命を意味していることは前の表現の各々から明らかである。この生命が発してくる源泉である神的な真理[神の真理]は『聖い霊』である。さらに―

 

 その心[心情]を正しくしないし、またその霊が神に対してかたく定まっていない世代の者(詩篇78・8)。

 

『正しくない心』は意志が正しくないことを意味し、『神に対しかたく定まっていない霊』は理解と信仰とが確く定まっていないことを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 モーセの書には―

 

  神エホバはヘシボンの王シホンの霊をさらに悪くされ、その心を頑にされた(申命記2・30)。

 

 この記事でもまた『霊』と『心』とは二つの生命を意味し、その生命は真理と善とを理解しようとする意志もなく、またそれらを行おうとする意志もないときは、『頑なになる』と言われている。エゼキエル書には―

 

 心はすべて溶け、手は凡て垂れ、霊はことごとくしめつけられるであろう(21・7)。

 

 ここでも意味は似ている。イザヤ書には―

 

  地上の民に魂を、その中を歩む者に霊を与えられるエホバ(42・5)。

 

『民に魂を与えること』は信仰の生命を与えることを意味し(『魂[霊魂]』が信仰の生命を意味していうことについては、9050番を参照)、『霊を与えること』は真理の理解を意味している。さらに―

 

 わたしの魂をもってわたしはあなたを求めまつった、わたしの真中にわたしの霊をもってわたしはあなたを朝に待ち望みまつった(イザヤ26・9)。

 

ここでも意味は類似している。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

さらに―

 

  かす[廃物]をはらめ、切り株を生み出せ、火がおまえらの霊を焼き尽くすであろう(イザヤ33・11)。

 

 『火が焼き尽くす霊』は真理の理解を、引いては理知を意味し、『火』は悪から発しているため破壊する悪い情愛を意味している。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 さらに以下の記事には―

 

  自分自身の霊に従って去る愚かな預言者に禍いあれ(エゼキエル13・3)。

  おまえらの霊に上ってくるものは決して起りはしない(エゼキエル20・32)。

  一人としてそのようなことは行っていない、霊をもつ他の者も、それゆえ、神の種を求める者は何を。あなたらの霊により心をくばれよ、かれがあなたらの若い折の妻にそむくことを行わないために(マラキ2・15)。

  その霊の中にたばかりがないさえするなら、エホバから不法を帰せられない者は祝福されている(詩篇32・2)

  霊において貧しい者は祝福されている、天国はその者たちのものである(マタイ5・3)。

  イエスはその弟子たちに言われた、見張っていて、祈りなさい、試練に陥らないためである、霊は実に願っている、しかし肉は弱い(マタイ26・41)。

 

 これらの記事では『霊』により人間の生命そのものが意味されていることは極めて明白であり、それが知的な生命を、または真理の生命を意味していることは以下の事実から認めることができよう、すなわち、『霊』によりその自然的な意義では人間の呼吸の生命が意味され、肺臓の呼吸は、信仰の生命であり、そこから理解の生命である真理の生命に相応しており、他方心臓の鼓動は、意志の生命に相応し、引いては愛の生命に相応しているのである。肺臓と心臓にはこうした相応があることについては、3883−3896、9300、9495番を参照、そこから『霊』によりその霊的な意義において意味されていることを認めることができよう。

 

 

 

 

天界の秘義9818[]

 

 『霊』は全般的な意義においては人間の呼吸の生命を意味していることは以下の記事に極めて明らかである―

 

  あなたは御顔をかくされます、かれらは乱されます、あなたはかれらの霊を集められます、かれらは息絶えます、あなたはあなたの霊を送り出されます、かれらは創造られます(詩篇104・29、30)。

  ああエホバよ、わたしに答えてください、わたしの霊は弱りはてました、わたしから御顔をかくさないでください(詩篇143・7)。

  わたしの霊は弱りはて、わたしの日は消え失せました(ヨブ7・1)。

  イエスは死んだ娘の手をとって言われた、娘よ、起きなさい。すると彼女の霊は帰って、すぐに彼女は起き上がった(ルカ8・54、55)。

  人間はことごとく知識のために[知って]愚かになった、彫像は偽りであり、その中には霊はない(エレミヤ10・14、51・17)。

  かれはエホバの霊の中にわたしをつれて行き、谷の真中においた。するとそこで主エホビは乾せ上がった骨に言われた、ごらん、わたしはあなたらが生きるためにあなたらの霊をもってきます、と。かくて主エホビは言われた、ああ、霊よ、四方から来て、この殺された者の中へ吹き入りなさい、と。霊はかれらに来て、かれらは再び生きた(エゼキエル37、1、59、10)

  その二人の証人は深淵から上って来たその獣により殺された、しかし三日半の後、神からの生命の霊がかれらに入り、かれらはその足の上に立った(黙示録11・7、11)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[10]

 

 これらの記事から『霊』は人間の生命を意味していることが極めて明らかである。それが特別に人間の知的な部分の生命であり、理知と呼ばれている真理の生命を意味していることは以下の記事に明らかである―

 

  真の礼拝者が父を霊の中に、また真理の中に拝する時が来ます、そして今がその時である。神は霊である、それで神を拝する者たちは霊の中に、また真理の中に拝さなくてはなりません(ヨハネ4・23、24)。

  知識の、また理解の優れた霊がかれの中にあったために(ダニエル5・12、14)。

  ヨハネは成長し、霊において強くなった(ルカ1・80)。

  幼児イエスは成長し、霊においても強くなり、知恵に満たされた(ルカ2・4)。

  父がつかわされた者は神の言葉を語る、神は霊を升で計ってかれに与えられはしなかったからである(ヨハネ3・34)。

 

 ここの『霊』は理知と知恵とを意味している、『神の言葉を語ること』は神的な真理[神の真理]を語ることを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義9818[11]

 

 この凡てからヨハネ伝の『霊』により意味されていることが今や明白である―

 

  イエスはニコデモに言われた、人間は水と霊から生まれなくては、神の王国[神の国]に入ることはできません。肉から生まれたものは肉である、霊から生まれたものは霊である(3・5、6)。

 

 ここでは『水から生まれること』は真理によって(生まれること)を意味し、『霊から生まれること』は、そこから生まれるところの、主から発した生命を意味し、それは霊的な生命と呼ばれている。(『水』は再生が起る手段となる真理を意味していることについては、2702、3058、3424、4976、5668、9323番を参照されたい。しかし『肉』は霊的な生命を何ら宿していない人間自身のものを意味している、3813、8409番)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[12]

 

 これに似たことが同書の『霊』と『肉』によっても意味されている―

 

  生かすものは霊である、肉には何の益もありません。わたしがあなたらに語る言葉は霊であり、生命であります(ヨハネ6・63)。

 

『主が語られた言葉』は神的な真理[神の真理]であり、そこから派生する生命が『霊』である。イザヤ書には―

 

  エジプトは人間であって、神ではない、その馬は肉であって、霊ではない(イザヤ31・3)。

 

『エジプト』は全般的に記憶知を意味し、『その馬』は知的なものから発した記憶知を意味し、それはその中に何ら霊的な生命がないときは『肉であって、霊ではない』と呼ばれている。(『エジプト』が記憶知を意味していることについては、9340、9391番に引用された所を、『馬』が知的なものを意味していることについては、2761、2762、3217、5321番を、『エジプトの馬』が知的なものから発した記憶知を意味していることについては、6125、8146、8148番を参照されたい。)『エジプト』により、『馬』により、また『肉』と『霊』により意味されていることを知らない者は、これらの言葉に含まれていることを到底知ることはできないのである。

 

 

 

 

天界の秘義9818[13]

 

 『霊』により人間に関連して意味されていることが知られるとき、『御霊[霊]』により、それがエホバ、または主について言われているとき、意味されていることを知ることができよう、エホバまたは主には人間に属した事柄が凡て帰せられており、例えば顔、目、耳、腕、手、または心臓[心情]、霊魂[魂]が帰せられ、かくてまた『霊[御霊]』が帰せられ、それは聖言では『神の霊』、『エホバの霊』、『その御口の霊』、『聖い霊』、または『聖霊』と呼ばれている。『霊[御霊]』により主から発出している神的な真理が意味されていることは聖言の多くの記事から明白である。主から発出している神的な真理が『神の霊』により意味されている理由は、人間の生命全体はそこから発しており、この神的な真理と信仰と愛とをもって受け入れる者たちは天界の生命を得るということである。これが『神の霊』であることを主御自身ヨハネ伝に教えられている―

 

  わたしがあなたたちに話す言葉は霊であり、生命である(6・63)。

 

 『主が話された言葉』は神的な真理[神の真理]である。

 

 

 

 

天界の秘義9818[14]

 

 さらに―

 

  イエスは大声で叫んで言われた、もしたれでも渇くなら、わたしのもとへ来て、飲みなさい。たれであれ、わたしを信じる者は、聖書が言っているように、その腹から生きた水の流れが流れ出るでしょう。このことをかれは、かれを信じる者が受けるにちがいない御霊について言われたのである、イエスは未だ栄化されなかったため、聖霊は未だ存在しなかったからである(7・37−39)。

 

『主を信じる者が受けるにちがいない御霊[霊]』により、主から発して、信仰と愛との生命である生命が意味されていることはこの記事の細目から明らかである、なぜなら『渇いて飲むこと』は真理を知り、認識しようとする渇望を意味し、『腹から流れ出る生きた水の流れ』は神的な諸真理を意味するからである。ここから『聖霊』とも呼ばれているところの『かれらが受けるにちがいない霊』は主から発出している神的な真理[神の真理]から発した生命を意味しており、その生命は(今し方言ったように)『信仰の、また愛の生命』と呼ばれ、人間における霊的な、また天的な生命そのものであることが明白である。『イエスは未だ栄化されたまわなかったため、聖霊は未だ存在しなかった』と言われている理由は、主は世におられた間は、主御自ら神的な真理を教えられたが、栄化されたもうたときは―そのことは復活後に存在したのであるが―それを天使たちと霊たちとを通して教えられたということであった。主から発出して、人間の中へ天使たちと霊たちとを通して、明らかであれ、明らかでないにしろ、流れ入ってくる聖いものがそこに記されている「聖霊」である。なぜなら聖言に「聖い」と呼ばれるものは主から発出する神的な真理であるからである(9680)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[15]

 

 ここから聖霊は『真理の御霊』と呼ばれ、『かれは真理そのものへ導き入れるでしょう』、『かれはかれ自身から語らないで、何であれ主から聞くことをことごとく語るでしょう』、『かれはその布告する事柄を主から受けるでしょう』(ヨハネ16・13、14)と言われ、また主は弟子たちから去られるとき、『かれらに息を吹きかけられて、言われた、聖霊を受けなさい』とも言われているのである(ヨハネ20・21、22)。呼吸は信仰の生命を意味し(9229、9281番)、従って主を吸い込むこと(または呼吸すること)は神的な真理[神の真理]を認識するように、引いては、信仰の生命を受けるように人間に与えられた能力を意味しており、ここからまた『霊』という言葉は呼吸から来ているため、『吹くこと』から、また『風』からも来ており、それで霊は時折『風』とも呼ばれているのである。(肺臓の呼吸は信仰の生命に、心臓の鼓動は愛の生命に相応していることについては、3883−3896、9300、9495番を参照されたい。)

 

 

 

天界の秘義9818[16]

 

 これに似たことが創世記の『吸い込むこと(または『吹きこむこと』)により意味されている―

 

  エホバは人間の鼻孔へ生命の霊魂を吹き込まれた(2・7)。

 

ここから主は『わたしたちの鼻孔の霊』と呼ばれたもうている(哀歌4・20)。神的な真理は悪を消滅させ、剥奪するため、以下の記事に以下のように言われている―

 

 世の基礎はあなたの鼻孔の突風により明らかにされました(詩篇18・15)。

 神の息によりかれらは死滅し、その鼻孔の霊によりかれらは消滅してしまう(ヨブ記4・9)。

 エホバの御言葉により諸天は作られ、その凡ての軍勢はその御口の霊により作られた(詩篇33・6)。

 

 『エホバの御言葉』は神的な真理[神の真理]を意味し、『その御口の霊』も同様にそのことを意味している。これが主を意味していることはヨハネ伝に明白である―

 

  初めに聖言があった、聖言は神とともに在り、神は聖言であった。凡ゆる物はかれにより作られた。聖言は肉となられ、わたしたちの間に住まわれた(1・1、3、14)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[17]

 

 人間の天界的な生命の源泉である神的な真理か『聖霊』により意味されていることはまた以下の記事から明白である。イザヤ書には―

 

  エッセの幹から一つの枝が生え出て、エホバの霊、知恵と理知の霊、勧告と力との霊、知識とエホバを恐れる恐れの霊がその上に止ま

るであろう(イザヤ11・1、2)。

 

 この言葉は主について言われており、主の中では神的な真理は、従って神的な知恵と理知とは『エホバの霊』と呼ばれ、この霊は『知恵と理知、勧告、知識の霊』と呼ばれているのである。さらに―

 

  わたしはわたしの霊をかれの上におきました、かれは諸々の国民に審判をもち出すでしょう(イザヤ42・1)。

 

 ここにもまた主が語られており、『その上に在るエホバの霊』は神的な真理を、従って神的な知恵と理知とを意味している。神的な真理[神の真理]はまた『審判』とも呼ばれているのである(2235番)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[18]

 

 さらに―

 

  敵がせき止められた流れのように来るとき、エホバの霊はこれに抗って旗を立てられるであろう(イザヤ59・19)。

  主エホビの霊はわたしの上におられる。それゆえエホバはわたしに油を注いで、貧しい者に喜びの音づれを布れさせたまう(イザヤ61・1)。

 

 ここにもまた主が語られており、主が世におられた間主の中に在り、またその折の主御自身でもあった神的な真理は『エホバの霊』である。

 

 

 

天界の秘義9818[19]

 

 『エホバの霊』は神的な真理を意味し、それを受け入れる人間がそこから天界の生命を得ることは以下の記事からさらに明白である。イザヤ書には―

 

  ついに霊が高い辺りからあなたらの上に注がれる、そのとき荒地は実り豊かな畠となり、そのとき審判は荒地に住むでしょう(32・15、16)。

 

 ここにとり扱われている主題は再生であり、『高い辺りから注がれる霊』は神的なものから発した生命である、なぜなら『荒地が実り豊かな畠となること』と『審判が荒地に住むこと』は以前何ら理知がなかった辺りに在る理知を意味し、かくて新しい生命を意味するからである。

 

 

 

天界の秘義9818[20]

 

 以下の記事にも同様に―

 

  あなたらが生きるために、わたしがあなたらの中にわたしの霊を与えることをあなたらは知るでしょう(エゼキエル37・13、14)。

  そのときわたしはかさねてかれらからわたしの顔をかくしはしません、わたしはイスラエルの家にわたしの霊を注ぎ出すからである(エゼキエル39・29)。

  わたしは、わたしの霊を注ぎ出すかの日[時代]には凡ての肉[]の上に、僕の上に、婢の上にわたしの霊を注ぎ出しましょう(ヨエル2・28、29)。

  わたしはエホバの霊と審判と強さをもって力に満ち、ヤコブにその咎を、イスラエルにその罪を宣べ伝えます(ミカ3・8)。

  北の地に出てゆく馬は北の地でわたしの霊を静めた(ゼカリヤ6・8)。

  わたしは渇いているかれに水を注ぎ、乾いた地に流れを注ぎましょう、わたしはあなたの裔にわたしの霊を注ぎ出しましょう(イザヤ44・3)。

 

 これらの記事の中で『エホバの霊』は神的な真理を意味し、それを通して信仰の、また愛の生命を意味していることは明白であり、それが主から直接に、また主から霊たちと天使たちとを通して間接に流れ入っていることは前に見ることができよう(9682番)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[21]

 

 イザヤ書の他の記事にも同じく―

 

  かの日万軍のエホバはその民の残りの者の飾りの冠、美の頭かざりとなられ、審判に座る者の審判の霊、かれらの強さとなられるでしょう(28・5、6)

 

 ここでは『飾りの冠』は善に属した知恵を、『美の頭かざり』は真理に属した理知を意味し、『審判の霊』は神的な真理を意味しているのである、なぜなら審判は真理について述べられるからである(2235、6397、7206、8685、8695、9260、9383番)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[22]

 

 さらに―

 

  エホバの御顔の天使たちはかれらを救った、かれはその愛とその憐れみの中にかれらをあがなわれた、それでもかれらはそむき、その聖い霊を怒らせ、そのためかれはひるがえってかれらの敵となられた。かれはかれらの真中にその聖い霊をおかれ、エホバの霊はかれを導かれた(イザヤ63・9−11、14)。

 

 ここでは『聖い霊』は神的な真理[神の真理]の方面の主を、引いては主から発している神的な真理を意味し、『その御顔の天使』は神的な善[神の善]の方面の主を意味している、なぜなら『エホバの御顔』は愛と慈悲と善とを意味するからである。黙示録には―

 

  イエスの証は予言の霊である(19・10)。

 

 『イエスの証』は主から発し、また主に関わる神的な真理を意味している(9503番)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[23]

 

ダビデの書には―

 

神エホバはその天使たちを霊となし、かれに仕える者たちを燃える火となされる(詩篇104・4)。

 

ここでは『天使たちを霊とすること』は神的な真理を受ける者たちを意味し、『かれらを燃える火とすること』は神的な善、すなわち、神的な愛を受ける者たちを意味している。マタイ伝には―

 

ヨハネは言った、わたしは悔改めのため水であなたらに洗礼を授けます、しかしわたしの後から来られる方は聖霊と火をもってあなたたちに洗礼を授けられるでしょう(3・11)。

 

ここで『洗礼を授けること』は再生させることを意味している。『聖霊をもって』は、神的な真理によって、を意味し、『火をもって』は、神的な愛の神的な善から[神の愛の神の善から]、を意味している。(『洗礼を授けること』が再生させることを意味していることについては、5120、9088番を参照し、『火』が神的愛の神的善を意味していることについては、4906、5215、6314、6832、6834、4849、7324番を参照されたい)

 

 

 

 

天界の秘義9818[24]

 

 ルカ伝には―

 

  あなたらは、悪い者であるのに、あなたらの子供たちに善い物を与える方法を知っているなら、まして天にいます父はその父に求める者たちに聖霊を与えられないでしょうか(11・13)。

 

 『聖霊を与えること』は神的な真理[神の真理]をもって明るくし、そこから派生する生命、すなわち、理知と知恵の生命を与えることを意味している。黙示録には―

 

  王座の前に燃える火の七つの灯は神の七つの霊である(4・5)。

  長老たちの真中に子羊が立ち、七つの角と七つの目とをもっていた、それは全地に送り出された神の七つの霊である(5・6)。

 

 これらの記事の中で『霊』が霊を意味しないことは、子羊の燈と目とが『神の霊』と呼ばれている事実から明白である、なぜなら『燈』は神的な真理を意味し(4638、7072番)、『目』は真理を理解することを意味し、それが主について言われているときは、神的な理知と知恵を意味し(2701、4403−4421、4523−4534、9051番)、そこから『神の霊』は神的な真理を意味していることが明白であるからである。

 

 

 

天界の秘義9818[25]

 

 それで『聖霊』が、聖いものそのものであるところの、主から発出している神的な真理を意味していることが知られるとき、『神の霊』、『聖霊』と言われている所では常に聖言の神的な意義が知られることができるのである、例えば以下の記事には―

 

  わたしは父があなたたちに他の一人の慰め主を与えられて、その方がとこしえにあなたたちのもとにとどまられるように父に求めましょう、それは真理の霊であり、世はかれを見ないため、また知りもしないため、かれを受けることはできません、しかしあなたがたはかれを知っています、かれはあなたがたのもとにとどまり、あなたがたの中におられるからである。わたしはあなたがたをみなし児のままに棄て去りはしません。父がわたしの名においてつかわされる慰め主、聖霊はあなたがたに凡ての事柄を教え、わたしがあなたがたに言った凡ゆる事柄をあなたがたに思い出させるでしょう(ヨハネ4・16−18、26)。

  わたしが父からあなたがたのもとへつかわす慰め主、父から出てくる真理の霊は、わたしについて証をし、あなたがたも証をするでしょう(ヨハネ15・26、27)。

  わたしはあなたがたに真理を告げます、わたしが去ることがあなた方には適しています、もしわたしが去らないなら、慰め主はあなた方のもとへ来ないでしょう、しかしもしわたしが去るなら、わたしはかれをあなた方のもとへつかわすでしょう(ヨハネ16・7)。

 

 

 

 

天界の秘義9818[26]

 

 これらの記事から『父』である神的な善から発出する神的な真理は『慰め主』であり、『聖霊』であることが再び明白であり、それでまたかれは『真理の霊』と呼ばれ、かれについては『かれはかれらの中にとどまるでしょう』、『かれは凡ゆる事柄を教えるでしょう』、『かれは主について証するでしょう』と言われているのである。『主について証すること』はその霊的な意義では主いついて教えることを意味している。『聖霊である慰め主が主の名において父からつかわされる』と言われ、さらに『主は父からかれをつかわすでしょう』と言われ、後には『主御自身がかれをつかわすでしょう』と言われていることは、父は主の中に在る神的なものそれ自体を意味し、従って主がヨハネ10・30、14・9−11に明らかにされているように、父と主とは一つのものであられることを意味しているためである。

 

 

 

 

天界の秘義9818[27]

 

 さらに―

 

罪と冒涜の凡てはあなたらに赦されるでしょう。しかし御霊の冒涜は人間には赦されはしないでしょう。もしたれかが人の子に反抗する言葉を言うにしても、それはその者に赦されるでしょう。しかしたれであっても聖霊に反抗して語る者には、それはこの代においても、後の代においても赦されはしないでしょう(マタイ12・31,32)

 

「人の子に反抗する言葉を言うこと」は、人間の生命に未だ植えつけられていない、または印刻されていない神的な真理に反抗することを意味しているが(「人の子」が神的な真理を意味していることについては、9807を参照)、しかし「聖霊に反抗して語ること」は人間の生命に植えつけられている、または印刻されている神的な真理について、とくに主御自身にかかわる神的な真理に反抗することを意味している。これに反抗して語ることは、すなわち、一度それが承認された後にそれを否定することは冒涜であり、そうした冒涜はそれが人間の内部を徹底的に破壊してしまうほどの性質をもっており、それでこの罪は赦されることはできないと言われているのである。(冒涜の何であるかについては、3398,3898,4289、4601、6348、6959、6963、6971、8394、8882、9298を参照されたい。)

 

 

 

 

天界の秘義9818[28]

 

 イエスは弟子達に言われた。行って、父と子と聖霊との名においてバプテスマを授けなさい(マタイ28・19)。

ここの「父」は神的なものそれ自体を意味し、「子」は人間の形をとった神的なものそれ自体を意味し「聖霊」は発出している神的なものを意味している。一つの神的なものが在るが、しかも一つの三一性が在るのである。主が人間の形をとった神的なものそれ自体であられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―

 

 これから後あなたらは父を知り、また父を見ています。わたしを見る者は父を見ます。わたしは父の中に、父はわたしの中におられます(14・7、9、10)。

 

 

 

 

3.神的真理・主御自身 ・パラクレート

 

 

神の愛と知恵359

 

 聖霊は主であって、それ自身によって一つの人格である一人の神でないことは、「新エルサレムの主の教義」の中に示されている(51−53)。何故なら主は以下のように宣べられているから。

 

  その日あなた方は私の中に、私はあなた方の中にいることをあなた方は知るであろう(ヨハネ14・20、同じくまた15・4、17・23)。

 

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P231

 

私は近いうちにこの世では、もう、あなたたちと一緒にいられなくなります。したがって、この世で使徒たちをこの体をもって指導することはなくなるが、あなたたちは私の霊を感じ、私の光を受けるでしょう。

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教139

 

元来、聖霊は神的真理を意味し、それ故また聖言を意味し、このような意味で主ご自身は又聖霊である。

(中略)更に、発するものは、その発する源なる彼と同一の本質をもち、それは丁度共に集まって一つの本質を形成する霊魂、身体及びその両者から発する活動の三者のようなものである。この本質は、人間にあっては単に人間的なものであるが、然し、主にあっては神的なものであると共に人間的なものであり、この両者は主の栄化の後、先在的なものと後在的なもののように、あるいは本質とその形のように結合されている。かくして父、子、聖霊と呼ばれる三つの本質的なものは主の中に一つである。

(中略)主は真理そのものにて在し給う故、彼から発するものは凡て真理である。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P50

 

我が聖霊による御わざを拒む者は誰であっても 私を拒んでいる、聖霊と私は一つであり、同じであるからだ!

 

 

 

 

 

天界の秘義8724

 

 主から発している神的真理はそれ自身からでは何一つ行いはしないで、神的なものそれ自身である神的な善から凡ゆることを行うのである。なぜなら神的な善は存在であるが、しかし神的な真理はそこから発出するものであり、それで発出するものが何らかのものとなるためにはその存在がその発出するものの中に存在しなくてはならないからである。主は世におられたときは神的真理であられ、そのときは主の中の神的善は「父」であられたが、しかし主が栄化されたもうたときはその人間的なものの方面においてさえも神的善となられたのである。そのとき主から発出した神的真理は「パラクレート(助ける者)」または「真理の御霊(みたま)」と呼ばれているのである。

 

 

 

天界の秘義8724

 

イエスは言われた、子は子自身では何ごとも為すことはできない。(ヨハネ5・19)

 

聖霊は未だ降られなかった。イエスは未だ栄化されておられなかったのである。(ヨハネ7・39)

 

もしわたしが去らないならパラクレート(助ける者)はあなたたちのもとへ降らないでしょう。(ヨハネ16・7)

 

 

 

 

天界の秘義9199

 

 パラクレートにより神的な真理[神の真理]が意味され、その真理が世におられた間の主であり、また主がその人間的なものを栄化されて世から去られた後、主から発したものであった。それで主は「わたしがパラクレートをつかわすだろう」「わたし自身が来るであろう」と言われているのである。「パラクレートを送ること」は信仰の諸真理を明らかに悟らせて教えることを意味し、「かれらのもとへ来ること」は善へ導き入れることを意味している。それで主は「わたしはあなたたちを孤児のままにしておきはしない」と言われているのである。

 

 

 

 

4.鳩

 

 

ルカ3・21−22

 

民衆が皆洗礼を受け、イエスも洗礼を受けて祈っておられると、天が開け、聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に降って来た。すると、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が、天から聞こえた。

 

 

 

天界の秘義2535

 

「かれはあなたのために祈るでしょう」(創世記20・7)。これは、それがそのようにして啓示されるであろうということを意味していることは、「祈ること」の意義から明白である。祈りはそれ自身において観察されるなら、神と語ることであり、そのとき祈りの事柄を内的に観察することであって、それに対し心の中へまたは思考へ注がれる流入のようなものが答えられ、それで神に向かって人間の内部が或る程度開かれるが、しかしそれは人間の状態に従っており、また祈りの主題の本質にも従って相違しているのである。もしその人間が愛と信仰から祈り、ただ天界的な霊的なもののためにのみ祈るなら、その時その祈りの中に希望、慰安、または或る内的な喜びにかかわる啓示のようなものが生じて、その啓示は祈っている者の情愛の中に明らかに示されるのである。「祈る」ことがその内意では啓示されることを意味しているのはこのことから来ている。それは祈ることが主を意味している予言者について言われているここでは尚更のことであって、主の祈りは神的なものとの内なる談話であり、また同時に啓示である。啓示があったことはルカ伝に明白である―

 

「イエスが洗礼を受けて祈られた時、天が開くようになった」(ルカ3.21)。

 

同書に―

「かれがペテロとヤコブとヨハネを連れて、祈るために山にのぼられるようになった。かれが祈られていると、その御顔のようすが変わり、その衣服は白く輝くようになった」(ルカ9・28,29)。

 

ヨハネ伝には―

「かれが祈られて、父よ、あなたの御名を栄化してください[御名に栄えあらしめたまえ]、と言われたとき、天界から声が聞こえた。わたしは栄化してきた、さらに栄化しよう[わたしは栄えあらしめたが、さらに栄えあらしめよう]」(ヨハネ12・27,28)。

 

ここに主が「祈られたこと」は神的なものと話されたことであり、また同時に啓示でもあったことが明白である。

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教144

 

我々はイエスが洗礼を受け給うた時天界が開け、ヨハネは聖霊が鳩のように降るのを見た(マタイ3・16、マルコ1・10、ルカ3・21,22、ヨハネ1・32,33)という記事を読むが、これは洗礼は再生と聖化とを意味するために起こったのである。鳩もまた同様の意義をもっている。何人でも鳩は聖霊でなく、また聖霊は鳩ではないことを認めることが出来よう。鳩はしばしば天界に見られ、それが見られる時、天使達はその鳩は近くに居る者達の再生と潔めとにかかわる情愛と思考との象徴であることを知るのである。それ故、彼らはその人々に近づき、何か他の主題について彼らと話を交えるや否や、その鳩は消え去って行くのである。このことはヨハネがシオンの山に子羊を眺めた時のように(黙示録14章およびその他)、預言者達によって眺められた多くの事柄にあっても同様である。何人でも、主はその子羊でなく、又その中にも在し給わず、それは彼の無垢の象徴であった事を認めることが出来る。この事は明白に、主が洗礼を受け給うた際に見られた鳩によって、また天界から聞えてきた「是は我が愛しむ子なり」との声によって、三一性は三人格から成っていると結論づける者達の過誤を示している。

 

 

 

 

.聖霊に反抗する罪

 

マタイ12・31−32

 

 だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/静思社/P41

 

聖霊に反抗する罪は聖言における神的なものを否定することである、なぜならそのことを否定する者らは、口には出さぬが、心の中では天界と教会との凡ゆる物を否定しているからである、なぜならこれらのものはことごとく聖言から発しているからである、彼らはまた主の神的なものを否定している。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/静思社/P43

 

主の神的なものを否定し、かくて聖言を否定することは聖霊に反抗する罪であることは、聖言から示されるであろう。

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/静思社/P100

 

聖霊に反抗する罪は主の神的なものを否定することである(マタイ12・28、32、マルコ3・28、29、ルカ11・20など)。このことは前に言われていることから明白である。彼らは主は「魔鬼の頭により」魔鬼どもを追い出したのである、と言われたのである。心情の中で否定することは赦されはしないのである、なぜならそうした者らはソツニウス派の者ら凡ての者のように、天界に入ることは出来ないからである。教会内にいて、主の神的な者[神性]を否定し、父なる神のみを承認する者らもまた救われることは出来ない。彼らの中非常に多くの者は自然を承認しており、それで彼らは神的なものを自然の最小部分としてしか考えない。彼らは主に向くことは出来ないのであり、世を求める愛へ向く理由を述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義9013〔6〕

 

 霊的な詐欺、即ち、偽善に内部を犯されている者らが、マタイ伝の、聖霊に反抗して語って赦されることの出来ない者らにより意味されているのである―

 

 わたしはあなたたちに言う、罪と冒涜とはすべて赦されるが、しかし聖霊を冒涜することは人間に赦されはしない。否、たれかが人の子に反抗して言葉を言うにしても、それは彼に赦される、しかしたれであれ聖霊に反抗して語る者は、この世でも、来るべき世でも、赦されはしない。木を善いものとし、その実を善いものとしなさい。または木を悪いものとし、その果も悪いものとしなさい、ああ、蝮の裔よ、お前らは、悪い者であるのに、どうして善いことを話すことが出来よう(マタイ12・31−34)。

 

『聖霊に反抗して話すこと』により、主のものであり、その王国のものであり、その教会のものであり、また聖言のものである事柄について、善くは語るが、悪を考え、善くは行うが、悪を欲していることが意味されているのである、そのことにより、その者らの話す真理の内部には誤謬が隠れており、その行う善の中には、隠れた毒である悪が隠れているからであり、従って彼らは『蝮の裔』と呼ばれている。

 

 

 

 

天界の秘義9013〔7〕

 

 

天界の秘義9013〔8〕

 

 

天界の秘義9264

 

この同じ真理と善とは主に神性が否定される時、また聖言が否定される時消滅してしまうのである、なぜならこれは主から発し、また主にかかわる神的真理であるからである。それが以前には承認され、信仰をもって受け入れられていたのに、それを否定し、かくしてそれを消滅させることは、聖霊に背く罪であって、赦されはしないのである(マタイ12・31)。

 

 

 

 

 

天界の秘義9818[27]

 さらに―

 

罪と冒涜の凡てはあなたらに赦されるでしょう。しかし御霊の冒涜は人間には赦されはしないでしょう。もしたれかが人の子に反抗する言葉を言うにしても、それはその者に赦されるでしょう。しかしたれであっても聖霊に反抗して語る者には、それはこの代においても、後の代においても赦されはしないでしょう(マタイ12・31,32)

 

「人の子に反抗する言葉を言うこと」は、人間の生命に未だ植えつけられていない、または印刻されていない神的な真理に反抗することを意味しているが(「人の子」が神的な真理を意味していることについては、9807を参照)、しかし「聖霊に反抗して語ること」は人間の生命に植え付けられている、または印刻されている神的な真理について、特に主御自身に関わる神的な真理に反抗することを意味している。これに反抗して語ることは、即ち、一度それが承認された後にそれを否定することは冒涜であり、そうした冒涜はそれが人間の内部を徹底的に破壊してしまうほどの性質をもっており、それでこの罪は赦されることは出来ないと言われているのである。(冒涜の何であるかについては、3398,3898,4289、4601、6348、6959、6963、6971、8394、8882、9298を参照されたい。)

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/静思社/P78

 

 彼らは主の御名を口にすることを欲していないし、また口にすることも出来ない。彼ら凡ての者にとっては、主を崇拝している者を苦しめ悩ますことが極めて楽しいのであり、この彼らの楽しさは極端なものである。

 

 

 

 

真の基督教683

 

 現実性の無い名前は反響、夢見る者の声、または風、海あるいは機械の騒音の如く空しい音響である。称号はそれに結び附けられている職能を伴わないならば虚栄に過ぎない。野蛮人のように生活し、基督の律法を破る基督教徒は洗礼の際、金糸を以てキリストの御名が織り込まれたその御旗の下に、自らを置かないで、悪魔の旗の下に置くものである。基督の印を受けた後、その礼拝を嘲り、その名を愚弄し、彼を神の子として認めず、ヨセフの子と認める者達は、反逆者であり、弑逆者であり、その言葉はこの世でも、また次の世でも赦されることの出来ない聖霊に対する冒瀆である。彼らは聖言に噛みつき、これを千々に引裂く犬のような者である。これらの者はイザヤ書(28・8)およびエレミア記(48・26)に従えば、その凡ての食卓は嘔吐と汚穢に満たされている者である。しかし主イエス・キリストは至高なる神の子にて在し(ルカ1・32、35)、独子にて在し(ヨハネ1・18、3・16)、真の神にして永遠の生命にて在し(ヨハネ第一書5・20)、その中には神性の完全性は尽く身体を成して宿り(コロサイ2・9)、ヨセフの子ではないのである(またい1・25)。

 

 

 

神の摂理98

 

真の自主性と合理性とは基督教世界で主が神的な方であられることや聖言は聖いものであることを全く否定し、その否定を生涯の終わりまでも固く持ち続けた者にも与えられることは出来ない。なぜならこれは聖霊に対する罪の意味であり、この世でも、来世でも赦されることは出来ないからである(マタイ12・31、32)。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P17

 

 死の最後の瞬間まで、回心の余地が残されている。神と霊との間では、どんなことを言ってもよい。ゆるしを受けるには、一瞬の千分の一の時間で足りる。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P181

 

 わたしが与えた恩恵の後のすべての裏切り、すべての棄教、わたしがもたらした真理に対するすべての否認と罪、わたしの口を通じて語り、わたしの功績により、み言葉の言葉を照らしに来た聖霊に対するすべての罪、善に対して御し難いと知りながらもわたしが救おうとした人種によって何世紀にもわたって加えられたこれらすべての刺し傷は、わたしが放つ煌々たるのなかに集められた霊魂たちの内部に現前するだろうし、また愛の掟により、嘘をつくことも、無益なわざを行うことも出来ないかたから、語られ、行われたことに逆らう彼らの頑なな意志をもって為されたことを認めるだろう。

 

 

 

 

6.聖霊は未だ存在しなかった(ヨハネ7・39)

 

 

天界の秘義9818(14)

 

「イエスは未だ栄化されたまわなかったため、聖霊は未だ存在しなかった」と言われている理由は、主は世におられた間は、主御自ら神的な真理を教えられたが、栄化されたもうたときは―そのことは復活後に存在したのであるが―それを天使たちと霊たちとを通して教えられたということであった。主から発出して、人間の中へ天使たちと霊たちとを通して、明らかであれ、明らかでないにしろ、流れ入ってくる聖いものがそこに記されている「聖霊」である。なぜなら聖言に「聖い」と呼ばれるものは主から発出する神的な真理であるからである(9680)。

 

 

 

 

7.神的活動

 

 

神の愛と知恵146

 

主が太陽として現れておられるのが分かれば、聖霊と呼ばれている「発出する神性」について、正しい考えをもつことができる。

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/真の基督教138

 

我々の救い主なる主について正当な観念を抱いている教職者達が先ず霊界に入ると、―それは概して彼らの死後第三日目に当るのであるが―神的三一性について、特に聖霊について教えられる。彼らは聖霊はそれ自身に於いては神ではなく、聖言に記されている時は、一人の全能なる神から発する神的活動を意味することを教えられる。

 

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・9巻P150

‘98・6・7

 

真理の霊(*1)なる、私を送られて、永久にあなた方と共にとどまり 全き真理へと導くようにされた、神なる父は 霊(*2)。神のみことば、光 そして救い主であり 初めから存在し、御父のみ心に最も近いお方は、御父を証しし あなた方に御父を知らしめた。あなた方はこの方自身の血で買い取られた。みことばは生きて活動し 私と御父が証しすると同じように 地上で証ししておられるとは読まなかったか? 自らの血(*3)で教会を買い取られた聖なる方は その血によって証しし 全き真理(*4)へとあなた方を導く、真理の霊なる、私は水によって証しする(*5)。 それゆえ、私どもは三位の証し人であって 唯一の神(*6)であるため三位とも 同じ意志、一つの権威と同じ主権をもって同意している。

 

 *1ヨハネ福音書14・17。

 *2ヨハネ福音書4・24。1コリント15・45でも聖パウロはキリストのことを「自ら生きる霊」(life-giving Spirit)と言っています。「霊」は聖書的には神のご性質よりはむしろ いのち与える活動を現しています。神は霊を与え その意味で神は霊なのです。

 *3この犠牲によって私どもは永遠のいのちを得ました。

 *4ヨハネ福音書16・12−13でイエスは弟子たちに仰います:「まだたくさん言うことがあるが、今、あなたたちは理解できない。しかし、真理の霊であるその方が来られると、真理のあらゆる面であなたたちを導いて下さる・・・」啓示のことを終わったかのように話し、みことばをただの預かった文として扱うのは間違っています。神は生きておられて活動し、聖霊を通してご自分を現しつづけ、これからもずっとそうなさるでしょう。

  ラテン語で:「completere」というのは、キリストが神の満ち満ちた、全き啓示だという意味であり、人類にご自分を現すのをやめるという意味ではありません。―聖書とはイエス・キリストを証しする記述です。神の最終的なお言葉ではないのです。

 *5洗礼によって。   *6本質が唯一であり。

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P46

 

イエズスの瞑想とは何だろう?それは人間が体験する脱魂よりもずっと深いものであろう。この受け取り方は間違っていないと思う。イエズスの表情を見ただけで「神との感覚的一致がある」と言える。御父と同じく神であるから、キリストには絶えず神性が伴う。天と同じく地上においても、御父は御子におられ、御子は御父におられる。

この愛によって第三の位格、聖霊が生まれる。御父の権勢は御子を生み、生むまた生まれるという行為は「火」すなわち神の霊をつくる。どんな場合も、お互いの認識は―人間の不完全な認識でもそうだが―愛をつくるのであって、神の場合それは聖霊である。それはご自分の中で御父を眺める神なる人間の、人間として、また神として、目を上げるときの眼差しである。

 ああ!だれ一人、詩人でも、画家でも、神性から出るその眼差しを表現することはできない。奇跡を行うときのその眼差しの力強さ。人間としての表情はいかにも甘美であり、苦しみの目の光は、見るだに心痛む。しかし、その表現は完全であっても、まだ人間的な眼差しである。三位一体の一致性において、眺め愛する神の御子の眼差しは、どんな形容詞も及ばないものである・・・

 

 

 

 

8.出て行く、発出する

 

 

スウェーデンボルグ/主イエス・キリスト46

聖霊は主から発出している神的なものであって、これは主御自身である。

 

 聖霊は主以外のものではなく、「出て行く」、「発出する」は主が現存されることによって、明るくし、教えること以外のことではなくて、その明るくされ教えられることは主のものを受けることに従っているということである。

 その結果、死後非常に多くの人々は世で聖霊について抱いていた考えを棄て去り、それは主が人間のもとに天使たちと霊たちとを通して現存されることであって、そのことによって、またそのことに応じてその人間は明るくされ、教えられるという考えを受けるのである。

 

 

 

 

天界の秘義6993

 

「あなたが言わねばならないことをあなたに教えること」(出エジプト4・12)の意義は発出することである。なぜなら「教えること」により、また「話すこと」により流れ入ることが意味され、それが主の神的なものについて言われている時は、それは発出することを意味するからである。なぜなら主の神的な人間的なものそれ自身からは、「聖霊」と呼ばれている神的真理が発出するからであり、主は世におられた時は御自身が神的な真理[神の真理]であられたため、御自ら愛と信仰に属した事柄を教えられたが、その時は御自らヨハネ伝で教えられているように、聖霊により教えられはしなかったのである。

 

 「イエスは未だ栄光を受けられなかったため[栄化され給わなかったため]、聖霊は未だ存在しなかった」(ヨハネ7・39)。

 

 しかし、主はその人間的なものの方面においてすらエホバに、すなわち、神的善となされ給うた後は―それは復活後に起こったのであるが―その時は主は最早神的真理[神の真理]ではなく、その神的真理は主の神的善[神の善]から発したのである。「聖霊」は主の神的な人間的なものから発出している神的真理であって、永遠から存在する霊または霊たちではないことは、前に引用した記事における主の御言葉から、即ち「聖霊は未だ存在しなかった」ことから極めて明白であり、また霊はその霊自身が発出することは出来ず、その霊の聖いものが、即ち、主からは発出している聖いものが発出することが出来るのであって、それを霊が発言するという事実からも明白である(前の6788番をまた参照)。

 

 

 

 

天界の秘義6993 []

 

それで、この凡てから、全三一性は、すなわち、父、子、聖霊は主の中に完全なものとなっており、かくてただ一人の神が存在されていて、人格の点では区別はあるものの、一つの神的なものを構成していると言われている三人の神が存在するのではないことが生まれているのである。聖言の中に「父、子、聖霊」と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであったのである。なぜなら、(当時)人間は、現今の人間もまたそうではあるが、もしそのように言われなかったなら、主の人間的なものの中に神的なものを全く承認しなかったほどにも暗闇におかれていたからである。なぜなら、そうしたことは、人間には全く把握できなかったため、全然信じられはしなかったからである。そしてさらに三一のものが在るが、しかしそれは一人の中に、すなわち、主の中に在るということが真理であり、その三一のものは主の中に完全に宿っていることもまた基督教会に承認されているのである。さらに主は御自身が父と一つのものであって(ヨハネ14・9−12)、聖霊の話す聖いものは、その聖霊のものではなくて、主のものであることをヨハネ伝に明らかに教えられたのである―

 

 「慰める者、(すなわち)真理の霊はその者自身から話さないで、何であれその霊が聞くことをことごとく話すであろう。かれはわたしを栄化するであろう、なぜならかれはわたしのものを受けて、あなたらに告げるからである。」(ヨハネ16・13,14)

 

「慰める者」は聖霊であることはヨハネ伝14・26に言われている。

 

 

 

神の愛と知恵146

 

「新エルサレムの主の教義」の中に、神は人格と本質において一つであり、その中に三一性が在り、その神は主であり、また彼の三一性は父、子、聖霊と呼ばれ、そこから発する神的なもの[創造的な神的なもの]は父と呼ばれ、人間的な神的なものは子と呼ばれ、発出する神的なものは聖霊と呼ばれることが示されている。それは『発出する神的なもの』と呼ばれるが、しかし何人も何故それが「発出する」と呼ばれるかを知らない。これが知られていないのは、主は天使たちの前に太陽として現れ、その太陽からその本質では神的愛であるところの熱と、またその本質では神的知恵であるところの光とが発していることが今に至るまで知られなかったからである。このことが知られない限り、発出する神的なものはそれ自身によって神的なものでないことが知られることはできず、従ってアタナシウスの三一性の教義には、父の一人格、子の他の一人格、更に聖霊の他の一人格が在ると宣言されているのである。しかし今や主は太陽として現れておられることが知られるとき、聖霊と呼ばれるところの発出する神的なものについて、それは主と一つのものであるが、熱と光が太陽から発しているように、主から発しているという正しい考えが抱かれ得るであろう。それと同じ理由から天使は愛と知恵の中に在るに応じて神的な熱と神的な光の中に在るのである。主は霊界に太陽として現れ、その神的なものはこのように発していることを知らなくては、『発出する』によって何が意味されているかを、即ち、それは単に父の、また子のものである物を伝達(コミュニケイト)することを意味するのか、或いは単に明るくし、教えることを意味するのかを決して知ることは出来ない。しかし神は一人であり、遍在されることが知られているゆえ、発出する神的なものをそれ自身神として認め、それを神と呼び、かくして神を分割することは、明るくされた理性には一致しないのである。

 

 

 

 

 

 

9.霊たちが「聖霊」と呼ばれること

 

 

天界の秘義6982

 

 「わたしは言葉をよくする人間ではありません」(出エジプト4・10)。

これはかれ(モーセ)が話すことができないことを意味していることは、「言葉をよくする人間でない」の意義から明白であり、それは話す能力を持たないことであり、かくて話すことができないことである。どうしてこうしたことが起きるかを話そう。ここでその最高の意味で取り扱われている主題は主である。なぜならモーセは律法の神的なものの方面の主を表象しているからである。神的なものから直接に発出している真理はたれからも、天使たちからさえも聞かれることはできないのである。なぜなら聞かれるためには神的なものは先ず人間的なものとならなくてはならないからであり、それは諸天界を通りすぎる時、人間的なものとなるのであり、それが諸天界を通り過ぎたとき、それは人間の形の中に示され、言葉となり、その言葉は霊たちにより発せられるが、その霊たちは、そうした状態におかれると、「聖霊」と呼ばれるのであり、これは(その聖霊は)神的なものから発出していると言われるのである。なぜならその霊の聖いものは、またはその霊がそのとき話す聖い真理は主から発しているからである。このことから、神的なものから直接に発出している真理は、聖霊を通さなくては、たれにも談話または言葉として示されることができないことが明らかである。このことが、真理の神的なものの方面の主を表象しているモーセが「わたしは言葉をよくする人間ではない」と言っている記事により、またかれの兄弟のアロンがかれに加えられて、かれの「口」となり、かれはアロンの「神」となったという事実によりその最高の意義で意味されているのである。

 

 

 

 

天界の秘義6996

 

主から発出している神的な真理は、それが聞かれて認められるためには、いくたの媒介を通して人間に達しなくてはならない。最後の媒介は人間のもとにいる霊を通して行われる。

 

 

 

 

主イエス・キリストP134

 

受肉以前には、神的人間性は、前に述べたように、主エホバがその霊をもって満たされた或る天使にようる表象的なものをのぞいては全く存在しなかった。そしてそれは[主エホバがその霊をもって満たされた天使による表象的な神的人間性]は表象的なものであったため、当時の教会の凡ゆる物は表象的なものであり、また影のようなものであった。しかし受肉以後は表象的なものは夕または夜の影が太陽が登ってくると消えて行くように止んだのである。主が事実降臨される以前にこの世に当時ご自身を示されたその表象的な人間性は霊的に人間を明るくすることができるような効果をもっていなかった、それでそのときは明るくすることは専ら象徴と表象とにより行われたのである。

 

 

 

10.ギリシャ正教

 

 

真の基督教153

 

主のこれらの明白な宣言は、父なる神は聖霊を人間に遣わし給うと想像するキリスト教界の誤りを明らかに示し、また父なる神は直接に聖霊を遣わし給うと想像するギリシャ教会の誤りを明らかにしている。

 

 

 

真の基督教647

 

前の教会は凡ての力を見えない神に帰し、この力を見える神に拒否している。何故ならそれは父なる神は信仰を転嫁し、これによって永遠の生命を与え、見える神は単に執成しを為すに過ぎない、この二人の神は―またはギリシャ教会に従えば、父なる神のみが―第三の神であるところの聖霊にその信仰の諸々の効果を作り出す凡ゆる権能を与えると、主張するからである。しかし新しい教会は、その中に見えない神が在すところの見える神に、転嫁しかつまた救いの諸々の効果を作り出す権能を凡て帰しているのである。前の教会の信仰は主として創造者なる神に対する信仰であり、贖罪者と救い主としての神に対する信仰ではない、しかし新しい教会の信仰は創造者であり、贖罪者であり、救い主である一人の神に対する信仰である。

 

 

 

 

 

11.父と子と聖霊と言われた理由

 

 

霊界日記4340

 

主はその弟子たちに父、子、聖霊の名において洗礼をほどこすように命じられたが(マタイ28・19)、このタイトル[敬称、称号]は、その内意では、善いもの、真のもの、そこから生まれてくる善と真理との凡てのもの以外には何ごとも意味していないのである。父は善いもの、子は真のもの、聖霊はそこから発出している善いものと真のものである。この凡てのものは主のみの中にあるのである。

 

 

 

 

天界の秘義9818[28]

 

 イエスは弟子達に言われた。行って、父と子と聖霊との名においてバプテスマを授けなさい(マタイ28・19)。

ここの「父」は神的なものそれ自体を意味し、「子」は人間の形をとった神的なものそれ自体を意味し「聖霊」は発出している神的なものを意味している。一つの神的なものが在るが、しかも一つの三一性が在るのである。主が人間の形をとった神的なものそれ自体であられることを、主御自身ヨハネ伝に教えられている―

 これから後あなたらは父を知り、また父を見ています。わたしを見る者は父を見ます。わたしは父の中に、父はわたしの中におられます(14・7,9,10)。

 

 

 

 

天界の秘義6993

 

「あなたが言わねばならないことをあなたに教えること」(出エジプト4・12)の意義は発出することである。なぜなら「教えること」により、また「話すこと」により流れ入ることが意味され、それが主の神的なものについて言われているときは、それは発出することを意味するからである。なぜなら主の神的な人間的なものそれ自身からは、「聖霊」と呼ばれている神的真理が発出するからであり、主は世におられたときは御自身が神的な真理[神の真理]であられたため、御自ら愛と信仰に属した事柄を教えられたが、そのときは御自らヨハネ伝で教えられているように、聖霊により教えられはしなかったのである。

 

 「イエスは未だ栄光を受けられなかったため[栄化されたまわなかったため]、聖霊は未だ存在しなかった」(ヨハネ7・39)。

 

 しかし、主はその人間的なものの方面においてすらエホバに、すなわち、神的善となされたもうた後は―それは復活後に起こったのであるが―そのときは主はもはや神的真理[神の真理]ではなく、その神的真理は主の神的善[神の善]から発したのである。

 「聖霊」は主の神的な人間的なものから発出している神的真理であって、永遠から存在する霊または霊たちではないことは、前に引用した記事における主の御言葉から、すなわち「聖霊は未だ存在しなかった」ことから極めて明白であり、また霊はその霊自身が発出することはできず、その霊の聖いものが、すなわち、主からは発出している聖いものが発出することができるのであって、それを霊が発言するという事実からも明白である(前の6788番をまた参照)。

 

 

 

[]それで、この凡てから、全三一性は、すなわち、父、子、聖霊は主の中に完全なものとなっており、かくてただ一人の神が存在されていて、人格の点では区別はあるものの、一つの神的なものを構成していると言われている三人の神が存在するのではないことが生まれているのである。聖言の中に「父、子、聖霊」と言われているのは、人間が主を承認して、主の中に神的なものを承認するためであったのである。なぜなら、(当時)人間は、現今の人間もまたそうではあるが、もしそのように言われなかったなら、主の人間的なものの中に神的なものを全く承認しなかったほどにも暗闇におかれていたからである。なぜなら、そうしたことは、人間には全く把握できなかったため、全然信じられはしなかったからである。そしてさらに三一のものが在るが、しかしそれは一人の中に、すなわち、主の中に在るということが真理であり、その三一のものは主の中に完全に宿っていることもまた基督教会に承認されているのである。さらに主は御自身が父と一つのものであって(ヨハネ14・9−12)、聖霊の話す聖いものは、その聖霊のものではなくて、主のものであることをヨハネ伝に明らかに教えられたのである―

 

 「慰める者、(すなわち)真理の霊はその者自身から話さないで、何であれその霊が聞くことをことごとく話すであろう。かれはわたしを栄化するであろう、なぜならかれはわたしのものを受けて、あなたらに告げるからである。」(ヨハネ16・13,14)

 

「慰める者」は聖霊であることはヨハネ伝14・26に言われている。

 

 

 

 

12.謙遜で貞潔で、単純、誠実であれば、霊は離れない

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P171

 

「あなたを愛してくださる霊が、時に応じて導いてくださる。この霊の愛を疑ってはなりません。謙遜で貞潔で、単純、誠実であれば、霊はあなたから離れません。安心して行きなさい」

 

 

 

 

13.シメオンを導いた霊

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P229

 

 イエズスが言われる。

「前の場面の描写から、皆のために二つの教訓がある。“第一の教訓”。真理は、儀式だけは何とかやっても心はうわの空の祭司にではなく、平信者に表れる。

 

 神と絶えず、交わり、宗教行事を行う祭司は、その朝、神殿に奉献された幼な子が、どなたであるかを直観すべきであった。しかし、この直観ができるためには、あの祭司のように死んでいないとしても、眠っている心ではなく、生きる魂を持つことが必要であった。神の霊は、もし望まれるなら、雷を聞かせ、稲妻をもって打ち、非常に鈍い心もゆすぶることができる。しかし、一般的に言えば、秩序の霊である神は、その派出を迎えるに充分に値するものと言わないまでも、その派出を受け入れる善意のある人に行われる。

 

 今、言ったこの善意は、どのように行われるかというと、できうるかぎり全く神のために生きる生活によってである。これは信仰、従順、純潔、愛徳、寛大さ、祈りの生活である。いわゆる“信心業”ではなく、祈りの生活である。“信心業”と“祈り”との間には、昼と夜よりも大きなちがいがある。祈りとは、神との“心の一致”で、これによって人は力づけられ、ますます神のものになりたいという決断を起こさせる。その代りに“信心業”とは、さまざまな、しかし、いつでも利己心のために行われる単なる“習慣”で人を変えることなく、むしろ偽りと怠惰の罪を加えるものである。

 

 シメオンには、今、言った善意があった。人生は、彼にその善意と苦しみを与えた。しかし、彼はその善意を失わなかった。長い歳月といろいろな変遷とは、主に対しての信仰、主の約束に対しての信仰に傷をつけ、ゆるがすことはなく、ますます神にふさわしいものとなる、その善意を疲れさせることはなかった。したがって、神は、忠実な僕の目が、この世の太陽の光の閉じられる前に ― 私の受難と殉教の後に開かれる天を照らす神の太陽がまた開かれるのを待ちつつ ― 神はその霊を送り、この世に降った光りを見せるために、老人を神殿にまで導いたのだった。

 

 “霊に導かれて”と福音書は言う。なお、聖霊が、どれほど完全な友であるかを人間が知ったら! どんな案内者、どれほどの師であるかと知ったら! この霊を愛し、三位一体のこの愛、光よりの光、火よりの火、この知恵、この上智をこいねがったら、知る必要があることを、どれだけ多く知らされることか!

 

 マリア、ごらんなさい。子らよ、ごらん。シメオンは“光りを見る前に”神の約束が実現されたと知る前に、長い長い生涯を待ったあの老人は疑ったことがない。“私は希望して祈り続けるのに何の役にも立たない”とつぶやいたことはない。根気強く希望し続けた。それで、あの祭司と、傲慢と愚鈍に満ちた衆議会員たちが見なかったもの、暖かさとほほえみとを与える幼い肉体の中に、神の子メシア、救い主を“見る”光栄が与えられた。シメオンが、幼い私の唇をとおして、正直で敬虔な生涯の、最初の褒美、神のほほえみをもらったのである。

 

 

 

 

14.シルワン

 

 

シルワンの手記/P49

 

 生きるために体は呼吸も食物も必要とする。神と聖霊の恵みは心の糧だ。太陽が野の草花に光と生命を与えるように、聖霊は心を照らす。花が太陽に向うように、心は神に向う。心は神において喜び、そしてその喜びをすべての人に告げる。主は天において、愛において、ご自分と共に常にいるように、私たちをお造りになった。

 

 

 

 

15.真理の霊

 

 

天界の秘義3969[17]

 

 このことからわたしたちは神的な霊的なものとは何であるかを、また霊的な王国は何処から、また天的な王国は何処から発しているかを求めることができるのであり、霊的な王国は信仰の善であり、すなわち、仁慈であり、それは主から直接流れ入り、また天的な王国を通して間接的に流れ入っていることを認めることができるのである。主から発出している神的な霊的なものは聖言では『真理の霊』と呼ばれていて、聖い真理であり、それは何れかの霊のものではなくて、主によって遣わされた霊を通して来ている主のものであり、そのことはヨハネ伝の主御自身の御言葉から認めることができよう―

 

 かれが、すなわち、真理の霊が来るとき、かれはあなたたちを凡ゆる真理の中へ導き入れるであろう、なぜならかれはかれ自身から語るのではなくて、いかようなことであれ、その聞くことをことごとく語り、また将来おこることも明らかに述べるからである、かれはわたしを栄化するであろう[かれはわたしをあがめるであろう]、なぜならかれはわたしのものをとって、それをあなた方に明らかに述べるからである(ヨハネ16・13、14)。

 

 

 

 

16.聖霊は主御自身、主の現存

 

 

啓示による黙示録解説490

 

慰める者、真理の霊は― それはまた聖霊であるが ―発出する神的なものであって、これが主御自身であることは、「主にかかわる新しいエルサレムの教義」(46−54番)に見ることが出来よう。

 

 

 

啓示による黙示録解説949

 

主と連結している者たちは主の中におり、主もその者たちの中におられると言われ、また聖霊は彼らの中におられると言われている聖言の記事から明らかである― 聖霊は主であり、なぜならそれは主の神的な現存[臨在]であるから ―また神が彼らの中に住まわれて、彼らを教え、導かれ、舌に善いことを宣べさせ、身体に善いことを行わせられるようにと神に祈る時、明らかであり、その他それに類した性質の事柄からも明らかである、なぜなら主は愛と知恵そのものであられ、この二つのものは場所の中にはなくて、それらが受け入れられる所に存在し、またそれらが受け入れられる性質に順応しているからである。しかしこの秘義は主から天界から光を受け入れて、そこから知恵の中にいる者たちによらなくては理解されることは出来ない、なぜならこれらのものの用は、一は「神の摂理」を、他は「神の愛と神の知恵」を取り扱った二つの著作の中に記されている事柄であって、その著作の中に、主御自身は人間の中に受け入れられ給うに応じて存在され、神的な物は一つとして主から分離されてはいないことが示されているからである。

 

 

 

黙示録講解84

 

主の生命は人間における主を信じる信仰と主に対する愛との中に在る、と言われたが、このことは信仰と善との一切のものは主から発しており、主から発しているものはまた主御自身であるためである、なぜなら『真理の霊』とも『聖霊』とも呼ばれているものは主の発出している神的なものであるからであり、主はその中におられて、それは主御自身であられるため、それで彼らは主の中にとどまらなくてはならない、と言われており、そのことは、主から、主を信じる信仰と主に対する愛の中に(とどまらなくてはならない)を意味しているのである、

 

 

 

真の基督教139

 

「我は御父の汝らに真理の霊なる他の慰め主を賜はむことを祈らん。世はこれを受くること能はず、世はこれを見ず、また知らぬ故なり。されど汝らは彼を知る。そは彼は汝らと共に居り、汝らの中に居給ふべければなり。我汝らを残して孤児とはせず、汝らに来り、汝ら我を見ん。」(ヨハネ14・16−19)。「我が父より汝らに遣わさんとする慰め主、即ち真理の御霊来らん時、我につきて証せん」(ヨハネ15・26)。彼は聖霊と呼ばれている(ヨハネ14・26)。主は慰め主即ち聖霊によって彼自身を意味し給うたことは、世は彼を知らなかったが、「汝ら彼を知り、我は汝らを残して孤児とはせず、我汝らに来り、汝ら我を見ん」との、その言葉によって明らかである。また他の箇所には「視よ! 我は世の終まで常に汝らと共に在るなり」(マタイ28・20)。また以下によって明らかである、「彼は自らによりて語るに非ず、我がものを受くるなり。」

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上371・5/P126

 

「おお、の名のもとにここに集まった弟子たち、あるいは、真理を望んでここへ引き付けられた弟子たち。それはから来る望みです。は、すべての心に光と真理をもたらすことをお望みです。聞きなさい。

 今宵、私たちは皆が一緒になることを許されています。そしてこうなったのは、邪悪な人たちが私たちを散り散りにしようとしたからでした。人間の感知力には限界がありますから、この共同体がどんなに深淵で巨大であるか、理解することはできません。これは将来、先生がもはや肉体としてではなく、霊としてあなたがたのうちにいる状態になったときの共同体の始まりです。あなたがたはそのとき、どうやって愛するかを知るでしょう。教えをどうやって実行するかを知るでしょう。今はまだ、あなたがたは乳飲み子のようです。けれどもやがて、どんな食物を食べても大丈夫な大人のようになるでしょう。そのときには、今私が言うようにあなたがたも言えるでしょう、『だれでも私のところにいらっしゃい。私たちはみんな兄弟です。が、私たち皆のために、ご自身を犠牲にされたのですから』と。

 

 

 

 

17.我が聖霊による御わざを拒む者は誰であっても 私を拒んでいる、聖霊と私は一つであり、同じであるからだ!

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P49

‘88・10・11

 

この啓示が初まって以来 伝えているが、我が教会は廃墟と化し この廃墟のさ中にマムシが巣喰い その深みに居座っている、ああ ヴァッスーラ!!(*) 苦しい・・・ 私はやって来て 我が最も神聖な秘跡にからみつき はいずり回るへびどもを解いて 教会の外に放り出さねばならない、そして始めから教会を造り直さなければ・・・ 我が子よ、この荒涼とした荒野で暮らし それに囲まれているのは 本当に困難で 恐怖に満ちている、しかし私を愛し 愛をもって我が名を 礼拝する人びと皆のそばにいる。 私は限りない富であると

 *神は苦悩と痛みに満ちて、大声で叫ばれました。

我が天的わざを踏みにじる 全ての人に思い出させたい。 被造物が反逆に陥るのを見た時はいつもみことばを担う使者を送った。 反逆はあなたの住む地を 砂漠に変えてしまう ♡ 先祖たちも反逆したが、選ばれた天使たちに私が語り メッセージを託すのを疑う、あなたの世代ほど激しく疑いはしなかった ♡ 今日、我が子よ、教会には私を信じると主張しながら 聖霊によってあなたの時代に与えている 全ての我が神聖なわざを 拒む僕たちがいる! 自らの不毛により もう非とされており 審判の日には厳しく裁かれよう! この人びとは聖書に戻り 我が霊がどう働き 選ばれた者たちに与える賜物を 私がどう祝福するかを読むとよい(*)。 我が子よ、あなたと私、私とあなたは この荒野、合理主義によってもたらされた 死に至る荒野を渡っている、それは不信仰、愛の欠如、無差別、自己陶酔、虚栄と 聖霊から降る全てに対する 敵意の荒野でもある、彼らは聞こうとしない頑なな態度によって 非とされている、我が聖霊による御わざを拒む者は誰であっても 私を拒んでいる、聖霊と私は一つであり、同じであるからだ! ・・・この人びとは砂漠を押しひろめ そこには何も育たないように念を押す。 花を見ると、踏みにじり つぶしてしまうか、わざと無視して水を与えずに 枯れさせ 捨ててしまう・・・ 我が義の杯が溢れ出し 彼らはすでに 義の最初の雫を感じ始めている。 この人びと、特に仕えていながら、聖霊の御わざをまた拒む僕たちに、求めるのはただ一つ 光と さらに強い信仰が与えられるように 祈り、祈り、祈り求めること。来なさい我が子よ、我が聖なる現存を 常に思い出し 私を喜ばせなさい、

 *イエスは一コリント12・1−11を記すように言われました。

 

 

 

 

18.聖霊によっては明るくすることが意味されている

 

 

最後の審判・遺稿100

 

彼らは天界から以下のように話された、すなわち、基督教徒はその三つの名前を聖言の文字の意義から得ていて、そこでは一人の神の三つの名前が言われていますが、父によりそこでは宇宙の創造者が意味され、子により人類の救い主が意味され、聖霊によっては明るくすることが意味されています、この三つのものは主のみの中に在り、主の中にその三つのものは一つのものとなっており、主はそのことを聖言の中に教えられています。

 

 

 

神の愛と知恵149

 

 聖霊は主と同一であり、真理それ自身であり、人間はそこから明るくされることは、聖言の以下の記事から明白である。

 

 イエスは言われた、真理の御霊が来るとき、かれはあなたたちを凡ての真理に導き入れるであろう、かれは自分自身から語るのではなく、凡て聞いたところを語るであろう(ヨハネ16・13)。

 彼は私の栄光を現すであろう、彼は私のものを受けて、それをあなた方に示すからである(ヨハネ16・14、15)。

 彼は弟子たちとともに、またその中にいるであろう(ヨハネ14・17、15・26)。

 イエスは言われた、私があなた方に語った言葉は霊であり、生命である(ヨハネ6・63)。

主から発する真理そのものが聖霊と呼ばれることは、これらの記事から明白であり、それは光の中に在るため、明るくするのである。

 

 

 

19.「霊」という描写は聖書的には神のご性質よりはむしろ神のいのちを与える行為を表すもの

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P66

‘00.2.12

 

*1

ヨハネ福音書4・24.第一コリント書15・45では聖パウロもキリストのことを「いのちを与える霊」と言っています。「霊」という描写は聖書的には神のご性質よりはむしろ神のいのちを与える行為を表すものです。神は霊を与える方という意味で 神は霊なのです。

 

 

 

20.霊界日記

 

 

霊界日記4832

 

主御自身が彼らに、ただ一人の神しかおられない、御自身がその神であり、御自身が父と一つのものであり、父は御自身の中に、御自分は父の中におられ、真理の霊と呼ばれている聖霊は、それが主から発出している神的真理〔神の真理〕であるため、聖霊自身からは話さないで、主御自身から話すのである、と教えられたのであり、父と子と聖霊とは単に名前に過ぎないで、その名により、聖言では、神的なものそれ自身と神的な人間的なものと、発出している神的なものとが表現されているのであり、そのことがそのように言われているのは、彼らが主を唯一の神として承認するようにとの理由からであり、約言すると、私たちの地球の霊たちの観念は物質的なものであって、かの地球から来ている霊たちの観念を混乱させるのである、と。

 

 

 

 

21.神的知恵

 

 

神の愛と知恵38

 

聖言には、神的愛と神的知恵とは、『義(ライチャスネス)』と『公正(ジャジメント)』により意味され、神的愛は『義』により、神的知恵は『公正』により意味されている、この理由から『義』と『公正』は神の聖言の中に述べられている、例えば、詩篇に、「義と公正とはあなたの御座の支柱である」(89・14)。「エホバは義を光のように、公正を真昼のように輝かせたもうであろう」(37・6)。(中略)同じことがヨハネ伝の『生命』と『光』により意味されている、「彼の中に生命があった、生命は人の光であった」(1・4)。この記事の『生命』により主の神的愛が意味され、『光』によりその神的知恵が意味されている。同一のことがヨハネ伝の『生命』と『霊』によりまた意味されている。「イエスは言われた、私があなた方に語る言(ことば)は霊であり、生命である」(6・63)。

 

 

 

 

22.サンダー・シング

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P181

 

人は、信仰によって聖霊から火の洗礼を受ける。これがなければ、水による洗礼も清めと救いには不十分である。金も銀も水で洗えるのは外側だけであって、水が中にまで浸み込み金属を純化するわけではない。精錬するには火が必要なのだ。そこで、完全に魂を清めるにも、聖霊の火が必要である。