ご変容の奇蹟

マタイ17、マルコ9、ルカ9

 

聖霊天からの声

 

 

1.聖書

2.祈る・・・啓示

3.天の雲・・・聖言の文字の意義

4.栄光・・・聖言の内意

5.モーセとエリア

6.ペテロとヤコブとヨハネだけしかいなかった理由

7.聖言を表象した者たち以外には何人も主と話すこともできなかった

8.主は天界で太陽として見られたもう

9.アグレダのマリア

10.マリア・ワルトルタ

11.彼らは主を霊の眼を以って眺めた

12.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

マタイ17・1−13

 

六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。 イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった。 見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた。 ペトロが口をはさんでイエスに言った。「主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです。」 ペトロがこう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆った。すると、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声が雲の中から聞こえた。
弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。 イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。「起きなさい。恐れることはない。」
彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった。
一同が山を下りるとき、イエスは、「人の子が死者の中から復活するまで、今見たことをだれにも話してはならない」と弟子たちに命じられた。 彼らはイエスに、「なぜ、律法学者は、まずエリヤが来るはずだと言っているのでしょうか」と尋ねた。 イエスはお答えになった。「確かにエリヤが来て、すべてを元どおりにする。言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。」 そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った。

 

 

2.祈る・・・啓示

 

天界の秘義2535

 

祈りはそれ自身において観察されるなら、神と語ることであり、そのとき祈りの事柄を内的に観察することであって、それに対し心の中へまたは思考へ注がれる流入のようなものが答えられ、それで神に向かって人間の内部が或る程度開かれるが、しかしそれは人間の状態に従っており、また祈りの主題の本質にも従って相違しているのである。もしその人間が愛と信仰から祈り、ただ天界的な霊的なもののためにのみ祈るなら、そのときその祈りの中に希望、慰安、または或る内的な喜びにかかわる啓示のようなものが生じて、その啓示は祈っている者の情愛の中に明らかに示されるのである。「祈る」ことがその内意では啓示されることを意味しているのはこのことから来ている。それは祈ることが主を意味している予言者について言われているここでは尚更のことであって、主の祈りは神的なものとの内なる談話であり、また同時に啓示である。啓示があったことはルカ伝に明白である―

 

「イエスが洗礼を受けて祈られた時、天が開くようになった」(ルカ3.21)。

 

同書に―

「かれがペテロとヤコブとヨハネを連れて、祈るために山にのぼられるようになった。かれが祈られていると、その御顔の様子が変わり、その衣服は白く輝くようになった」(ルカ9・28,29)。

 

ヨハネ伝には―

「かれが祈られて、父よ、あなたの御名を栄化してください[御名に栄えあらしめたまえ]、と言われたとき、天界から声が聞こえた。わたしは栄化してきた、さらに栄化しよう[わたしは栄えあらしめたが、さらに栄えあらしめよう]」(ヨハネ12・27,28)。

 

ここに主が「祈られたこと」は神的なものと話されたことであり、また同時に啓示でもあったことが明白である。

 

 

3.天の雲・・・聖言の文字の意義

 

天界の秘義18章序言(2135の前)

 

 前の章の終わりに、最後の審判の主題がとり扱われて、そのことにより意味されていることが示された、すなわち世界の破滅が意味されているのではなくて、教会の最後の時が意味されていることが示されたのである。この教会の破滅が切迫すると、主は御自身が『天の雲の中に、力と栄光とをもって来るであろう』と言われるのである(マタイ24・30、マルコ13・26、ルカ21・27)。

 

これまでたれ一人『天の雲』により意味されていることを知らなかったのである。しかし聖言の文字の意義以外にはなにごとも意味されてはいないのであって、『力と栄光』により聖言の内意が意味されていることがわたしに明らかにされたのである、なぜなら内意の中に在るものはことごとく主とその王国に関わっているものであるからには、そこに栄光があるからである(第1部1769−1772番)。

 

[]主が栄光の中にペテロとヤコブとヨハネに現れたもうたとき、彼らを取りまいた『雲』の意義も類似しているが、それについてはルカ伝に以下のように言われている―

 

 雲から声がきこえて、言った、これはわたしの愛する息子である、あなたらはかれに聞きなさい、と、しかしその声が去った時、イエスのみがおられた(9・35、36)。

 

ここには主と話した『モーセとエリア』により旧約聖書の聖言が表象されたのであり―この聖言もまた『モーセと予言者』と呼ばれているのである(『モーセ』によりかれの書物と他の歴史的な書物が表象され、予言者『エリア』により予言者たちの凡ゆる書物が表象されているのである)―

 

 

 

聖書48

 

「聖言の栄光は御形を変えられた折の主により表象された」。ペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に御形を変えられた主については以下のように記されている、

 

 その御顔は陽のように輝き、その衣は光のように白くなった。モーセとエリヤとがかれと語りつつ現れた。輝いた雲がその弟子たちを影らせた。その雲から声が聞こえて、言った、これはわたしの愛する子である、これに聞きなさい(マタイ17・1−5)。

 

 わたしは以下のように教えられたのである、すなわち、主はそのとき聖言を表象され、『陽のように輝いたその御顔』は主の神的善を、光のようになったその衣は主の神的真理を、『モーセとエリヤ』は歴史的な予言的な聖言を、『モーセ』はかれにより書かれた、全般的に歴史的な聖言であった聖言を、『エリヤ』は予言的な聖言を、『弟子たちを影らせた輝いた雲』は文字の意義における聖言を表象したのであり、それでこの雲から声が聞こえて、『これはわたしの愛する子である、これに聞きなさい』と言われたのである。なぜなら天界からくる言葉と答えはすべて聖言の文字の意義に在る最も外なる物[究極的な物]により専ら行われるからである。なぜならそれは主から完全なものとして作られているからである。

 

 

聖書49

 

以上私たちは聖言の文字の意義である自然的な意義において聖い、完全なものになっていることを示した。この意義において聖言はまたその力を発揮することを示すために今若干述べてみよう、諸天界における、また地上における神的真理の力はいかに大きなものであるか、またいかような性質を持っているかは、天界の天使たちの力について「天界と地獄」の著作の中で述べたことから明白である(228−233)。神的真理の力は特に誤謬と悪に向けられ、かくて地獄に向けられている。これらと戦うことは聖言の文字の意義から発している真理によって行われなくてはならない。さらに主が人間を救われる力を持たれるのは人間における真理によっているのである、なぜなら人間は聖言の文字の意義から発している真理によって改良され、再生されると同時に地獄から引き出されて、天界へ導き入れられるからである。この力を主は、聖言の凡ゆる物

をその最も究極的なものにいたるまでも成就された後、その神的な人間的なものの方面においてすらも、御自身に得られたのである。

 

 

4.栄光・・・聖言の内意

 

天界の秘義5922[]

 

 ルカ伝に、イエスが山上で御形を変えられたとき―

 

見よ、そこに二人の人間がかれと話した、かれらはモーセとエリアであり、栄光の中に見られた(9・30、31)。

 

そこに主はその神的な人間的なもの[神の人間性]を、それが神的な光りの中に在るがままに、またその光の中に現れるままに、ペテロとヤコブとヨハネとに示されたのであり、そのとき見られた主の御形は聖言をそれが内意においてあるがままに目に示されたのであり、かくて天界に神的真理があるがままに示されたのである。なぜなら聖言は教会のための神的真理であるからである。

 

 

5.モーセとエリア

 

天界の秘義5922[]

 

こうした理由からモーセとエリアとが主とともに語ったことも同時に目に示されたのである。なぜならモーセにより、モーセの書と歴史的な書物とを意味している律法が表象され、エリアにより予言者、または予言的な聖言が表象されるからである。

 

『モーセ』により律法が意味されることは創世記第18章の序言(また4895番)に見ることができよう、『エリア』により予言的な聖言が意味されていることもそこに(また2762、5247番)に見ることができよう。

 

 

6.ペテロとヤコブとヨハネだけしかいなかった理由

 

天界の秘義18章序言(2135の前)(続き)

 

しかし『ペテロとヤコブとヨハネ』によっては、福音書の中にかれらの名が記されている箇所の凡てにおいてもそうであるように、信仰と仁慈と仁慈の善とが表象されたのである。

 

彼らのみしかいなかったことは、信仰の中に、信仰の仁慈の中に、仁慈の善の中にいる者たち以外の者はたれ一人、主の聖言の中に存在している主の栄光を見ることができないことを意味しているのである。他の者たちは信じないため、かれらは実際見ることはできるが、しかしそれでも見はしないのである。これが前の二つの記事にかかわる内意であるが、予言者の書の色々な所でもまた『雲』は聖言の文字を、『栄光』は聖言の生命を意味しているのである。

 

[]聖言の内意の性質と特質とはすでに再三述べられ、また説明の中に逐語的に示されたところである。主の時代に、主について聖言の中に何かが書かれていることをとりわけ信じなかった者は律法に精通した者であったのである。

 

現今でも律法に精通している者は実際知ってはいるが、しかし彼らは、聖言の中には文字に現れているものとは異なった栄光が在ることをとりわけ信じようとはしないかもしれない、それでもそれは[文字の意義は]その中に栄光が存在している雲なのである。

 

 

黙示録講解821ロ[]

 

主がその御形を変えられたとき、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを山へ連れて行かれたのは天的な善から真理の中にいる者たちのみが主をその栄光の中に見ることができるためであり、他の者は一人として明るくされることはできず、聖言を明るくされて認めることができないためである。

 

なぜなら主はかれらの前に御形を変えられたとき、主は聖言である神的真理を表象されたのであり、このことがモーセとエリアとが主と話しているのが見られた理由であり、『モーセとエリア』は聖言を意味しているのである。

 

(しかしこのことについては前の594番イを参照されたい。)主は代の終結について、主が来られることについて、ペテロ、ヤコブ、ヨハネと話されたことはマルコ伝(13・3)に明白であり、この三人の者はゲッセマネにおいて主と共にいたことはマタイ伝(26・37)に、マルコ伝(14・33)に明白である。

 

 

7.聖言を表象した者たち以外には何人も主と話すこともできなかった

 

天界の秘義6752[]

 

モーセにより歴史的な聖言の方面の主が表象され、エリアにより予言的な方面の主が表象されたため、それで主が御形を変えられたとき、モーセとエリアとが主と話しているのが見られ(マタイ17・3)、主の神的なものが世に現れたときは、聖言を表象した者たち以外には何人も主と話すこともできなかったのである、なぜなら主と話すことは聖言を通して為されるからである。

 

8.主は天界で太陽として見られたもう

 

天界と地獄119

 

主は天界では太陽として見られたもうことはまた主がペテロ、ヤコブ、ヨハネの前で御形を変えられたさいのその御姿からも明白である。すなわち、「その御顔は陽のように輝いた」のである(マタイ17・2)。

 

主は、弟子たちがその身体から引き出されて、天界の光りの中におかれたとき、その弟子たちからそのように見られたもうたのである。表象的な教会が存在していた古代人が神を礼拝したとき、顔を東の太陽に向けたのはこの理由からであり、神殿が東向きに建てられたのもこのためであった。

 

 

天界と地獄118

 主は実さい天界に太陽として見られたまうことは、天使から私は話されたのみでなく、また時折見ることも許されたのである。それで私が太陽としての主につき聞いたり、見たりしたことをここにかんたんに記してみよう。

 

主は太陽として見られたもうが、それは天界の中ではなくて、諸天界の上であり、頭の真上、または天頂ではなくて、天使たちの顔の前の、中程の高さの所であって、明確に区別される二つの所であり、すなわち、一つは右の眼の前の、他は左の眼の前の、非常に遠方の所である。

 

右の眼の前には主は全く太陽のように、世の太陽のような光輝と大きさをもって現れておられる。しかし左の眼の前では主は、太陽としてではなく、月として、我々の地球の月のような大きさと白さをもって、しかしそれよりはさらに輝きつつ、また同じように白くて輝いた、いくたの小さな月のようなものに囲まれて現れておられる。

 

主はこうした相違をもって二つの所に見られたもうのは、主は各々の者に受け入れられるままに、その者により見られるからであって、かくて主を愛の善をもって受ける者たちにより、主は太陽として見られ、それはその受け入れかたに従って火のように、焔のように燃えている。これらの者は主の天的王国にいる。

 

しかし主を信仰の善をもって受ける者によっては、主は月として見られ、それはその受け入れかたに従って、白く、照っている。これらの者は主の霊的王国にいる。その理由は愛の善は火に相応し、ここから火は霊的意義では愛であり、信仰の善は光に相応し、光りもまた霊的意義では信仰であるということである。

 

主は眼の前に現れられるのは、心にぞくする内部は眼を通して見、愛の善からは右の目を通して見、信仰の善からは左の目を通して見るからである。なぜなら天使、また人間における右の物は凡て真理を生む善に相応し、左の凡ては善から発する真理に相応するからである。信仰の善はその本質では善から発する真理である。

 

 

 

黙示録講解64

 

 

 

9.アグレダのマリア

 

アグレダのマリア/神の都市/P201

第二章

我らの主の変容とエルサレムへの凱旋的入城

 

 我らの救い主なるイエズスは、説教と奇跡に既に二年半以上を費やし、御受難と御死去により世を救い、永遠の御父に戻られる時に近づいておられました。御受難により御体がむごたらしく傷つけられるのを見て弟子たちが落胆するのを見通し、あまり落胆しないように、同じ御体が光栄の内に御変容するのを見せようと望まれました。主はガリラヤの中心の高い山、ナザレトの西約七キロにあるタボル山に三人の使徒たち、聖ぺトロ、聖ヤコボと聖ヨハネを連れて出かけました。二人の預言者、モーゼとエリアが現れ、主と御受難について話しました。主が御変容になった時、声が聞こえました、「この者は私の愛子である。私の心に叶う。汝ら、彼に聞きなさい。」

 聖福音史家たちは、聖母がそこにおられたかどうかについて触れていませんが、実は聖母は天使たちに運ばれて御子の御変容を目撃されたのです。御母は信仰を再確認する必要がなかったので、聖福音史家たちは御母についての記述を省いたのでしょう。御母は御子の光栄を見聞きし、心からの感謝と最も深い洞察を示し、天使たちと共に新しい歌を作りました。

 

 

10.マリア・ワルトルタ

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/5巻下P57/ 349・9 

 

「あなたたちは、人のの苦悶に溢れた死について聞くと、卒倒しかねません。だから、私、である人間は、後、がどうなるかを、あなたたちに事前に認識させることで、私の死の時点にも、その後においても、あなたたちを強めたいのです。この全てを覚えておきなさい。その時が来たら皆に話せるように・・・分かりましたか?」

 

 

 

 

11.彼らは主を霊の眼を以って眺めた

 

真の基督教777

 

主は身体をもって現れ給わない理由は、主はその昇天以来、その栄化せる人間性の中に在し、この中に在って主はその霊的な眼の開かれていない者には何人にも現れ給うことは出来ないということである。それ故彼は悪い者、謬った者によっては、即ち主がその左手に置き給うた山羊によっては、見られることは出来ない。それ故主は自らをその弟子達に示し給うた時、先ず彼らの眼を開き給うたのである。何故なら、「而して彼らの眼開け、イエスなるを認む、而してイエス見えずなり給う」(ルカ24・31)と録されているからである。

主の甦りの後墓を訪れた婦人達も同様であった。彼らは墓に座す天使達を眺め、彼らと共に語ったが、然し何人も肉体の眼を以ってしては天使を見ることは出来ない。主はペテロ、ヤコブ、ヨハネの前に変貌し給うた際、彼らはその身体の眼でその栄化せる人間性における主を眺めたのではなかった。何故なら我々は「彼らいたく睡気さしたり」(ルカ9・32)と告げられているから。彼らは主を霊の眼を以って眺めたのであり、目が覚めると、夢を見たのだと考えた。それ故主は天の雲に乗り身体を以って現れ給うであろうと想像することは無意味である。主は主から発し、主そのものにて在す聖言によって現れ給うであろう。

 

 

 

 

12.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P160

 

変貌の山においては、弟子たちはまだ完成に至っていなかったにもかかわらず、主とエリヤ、モーゼと一緒になったことを歓ぶあまり、三つの幕屋を造って住もうと願ったほどだった。わたしたちが完全になり、天で永遠にキリストと諸聖徒、諸天使との交わりを楽しむときには、その歓びがいかばかりであろうか。