救霊

 

天使高貴

主が愛されるように願う

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.サンダー・シング

4.マリア・ワルトルタ

5.十字架のヨハネ

6.ヴァッスーラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ28・18−20

 

イエスは、近寄って来て言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼(バプテスマ)を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

 

 

 

マルコ13・9−13

 

あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。兄弟は兄弟を、父は子を死に追いやり、子は親に反抗して殺すだろう。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人に憎まれる。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われる。

 

 

 

ヨハネ15・13−17

 

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 

 

 

ヨハネ15・27

 

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義1789

 

「あなたの大きな報い」。これは勝利の目的と目標とを意味していることは『報い』の意義から明白であり、それは試練の争闘の後の賞品であり、ここでは主は御自身に対しては如何ような勝利の賞品をも決して求められはしなかったため、勝利の目的と目標である。主の勝利の賞品は全人類の救いであったのであり、主が戦い給うたのは全人類に対する愛から発していたのである。この愛から戦う者は自分自身に対して如何ような賞品をも求めない、それはこの愛は他の者に自分自身のものをことごとく与え、移譲し、自分自身のためには何ものも得ようとは欲しないものであるためであり、それでここに『報い』により意味されているものは全人類の救いである。

 

 

 

天界の秘義2077〔2〕

 

主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じがたいものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何ら顧みはしない。否、出来ることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦も厭いはしないのである。ここから死んだ者たちから甦りつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。

 

 

 

天界の秘義2704

 

「その子供に飲ませた」。これは霊的な諸真理を教えることであり、『子供』の意義は真理の方面の霊的なものである(2697番参照)。この節に取り扱われているところの、教えられる状態であるこの状態は、剥奪されまた荒れすさんだ状態から出て来つつある者たちの第三の状態である。なぜなら彼らは(前の18節にとり扱われているところの、2699番を参照)明るくされる状態または天界の光の状態の中へ入ってくると、その時彼らは諸真理を知り、また学ぼうとする情愛の中におり、彼らがこの情愛の中にいる時は、容易にまた謂わば自発的に諸真理に浸透するからであり、すなわち地上にいる者たちは主の聖言からまたは教義から諸真理に浸透し、天界にいる者たちは天使たちからそれに浸透するのであって、天使たちは新たに霊界に来た兄弟たちに天界の秩序に属している諸真理と諸善とを教えて、それらを彼らに浸透させかくして彼らを主に導くことに勝っていかようなことをも祝福された、幸福なこととは認めていないのである。

 

 

 

霊界日記4427

 

 それでもそうした凡てのもの、否、更に多くのものを他の者たちに与えようと心から願っており、否、他の者たちがそうしたものを歓ぶなら、そうしたものが自分たちから剥ぎ取られてしまうことさえも欲しており、また極めて力に満ち溢れているのである。

なぜなら数千の者が、否、巨万の者が彼らにその力を与えているため、彼らは地獄を征服することも出来るが、それにも拘らず、たれ一人をも支配しようとは欲しないといった者たちである。

 

 

 

天界の秘義6482

 

 天使たちが主に仕える者たちである理由は、彼らが活動的な生命の中にいて、そこから幸福を得るためである。が、それでも彼らの遂行する務めは、天使達もまた一様に告白しているように、彼らから発するものではなく、主から発する流入から発しているのである。

 

 

 

 

3.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P24

 

「今日、チベットに旅立ちます。危険と困難は十分承知していますが、義務を果たすため最善のことをせねばなりません。神の御恵みの福音を証せよとの主イエスから命じられた使命を全うし、わが生涯を終える歓びに較べれば、わが命は何の価値もありません。6月末にはチベット人クリスチャンを従えて戻ることができればと思っております。」1929.4.18

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P237

 

主は彼に語られます。「真の奉仕と義務の遂行のためには、わたしの下僕たちは命そのものさえ捧げる用意がなくてはならない。それは、雪の降りしきる厳寒の中で、凍りついて死ぬまで持ち場を離れず、他の見張りたちが暖をとるために持ち場を離れても、まるで銅像のように立ち尽くしたあの忠実な兵士にも似ている。王が来て死ぬまで忠実に立っていたこの兵士をみたとき、王は自分の冠を脱いで兵士の頭にかぶせ、こういった。『このような忠実な兵と下僕こそわが冠の名誉と栄光に相応しい。彼が生きていれば、わが王国の頭に抜擢したろうに』。わたしから託された奉仕においても、わが忠実な下僕たちは同じようにしなければならない。このような信仰と勇気をもって仕事を果たした者たちに、わたしは朽ちることなき不滅の王冠を授ける。」

 

 

 

金井為一郎/サンダー・シングの生涯と思想

 

おお青年よ、目を覚まして見よ、如何に多くの霊魂が日々君の周囲に於いて滅びつつあるかを。彼らを救う事は君の責任ではないか。キリストの勇敢な精兵となれ。すべての武具をまとって前進し、サタンの業を打ち破れ、勝利は君のものとなるであろう。神を賛美せよ、主は君に自ら救われて人を救うべき機会を与え給うた。もし君が今不注意であるならば他の機会は決して得られないであろう。何事であろうとも為すべき業は直ちに為せ。君はこの戦場を再び通過することが無いからだ。キリストの為に人の霊を救おうとして、健康、富、生命を捧げた後、殉教者が栄光の中に活きるのを見るときは速やかに近づきつつある。彼らは多くの事を成し遂げた。君は何を成し遂げたか? おお、その日に於いて我々は恥じて顔を赤らめることのないようにしよう。

 

 

 

 

4.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P89

 

どうして死んでいる人々をよみがえらせようとしないのですか。そうすることに真の愛があります。最高の愛です。土に帰った亡がらを悲しむのは愚かなことです。むしろ、最も愛している人の死んだ霊魂を悲しむべきです。この人々をよみがえらせるために全力をつくすべきです。愛する人にとりわけ大きな力をもつあなた方、ご婦人たちによく聞いてもらいたいのです。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々/1巻P11

 

何かの使命を委託された私の下僕たちに、世間でいわれる幸せな一生を与えたことはない。なぜかと言うと、このような使命は苦しみの中に苦しみによって行われるものだから。こういう人々は“人を贖うために苦しむ”という私に似た望みしか持っていないからである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々/3巻P46

 

主がラザロに:

「あなたの考え方はいささか間違っています。神は人間を救うために人間となったのです。人間は、神を手伝うことができます。贖いの時、何百年も前に生き、また、これから生まれてくる義人たちの業は、私の業に同化します。今から、私の苦しみにあなたの苦しみを加えなさい。限りある人間であっても、“父よ、私も兄弟たちの救いのために協力しています”と言えることは、何と美しいことか。自分のことだけを救うのは、わずかなことです。これは最小限度の聖徳です。主と隣人とのために苦しみを耐え忍ぶことで、主の光栄と兄弟たちの永遠の救いに協力することほど大きな愛はありえません。人を救うために己を捧げること、隣人を救うために己を焼き尽くすほど愛に浸ることができるなら、その愛は完全であり、この寛大な人の聖徳もいかに大きいか」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P289

 

「そうです。しかし、彼がそうであっても、あなたはそうであるべきではない。神は私たちに彼のことを問われるであろうことを忘れるな。彼を救うために、何をしたのか、と問われるでしょう。なぜなら、父なる神は、あなたたちよりも、まずあの人を私に委託したから」

(中略)

「けれども、ある人の未来を多少正確に予感できるとしても、その人が滅びないように最後までつくすことから、だれも除外してはならないのです。(中略)神は、ある人を、だんだん沈んで行く泥沼から救い出すために、自分の嫌悪、自分の反感、自分の憤慨にうち勝つ他の人の犠牲を待っておられる。(後略)」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P60

 

私は教え苦しみながら人々を救わねばなりません。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P356

 

私も霊魂の儲けをしに来たのだから、そのために相手に愛があろうが、軽蔑と頑なさに突き当たろうが、それは気にしません。商売の盛んな町では、売買しても何時でも儲かるわけではありません。しかし相手といい商売ができたら、その旅行は無駄ではなかったと分かり、後でまた戻って来ます。もし最初のときに何も得られなかったとしても、三回、七回、百回も行けば、何か儲けがあります。私も天の儲けを考えて、あなたたちの売買と同じことをします。大きな儲け、小さな儲けも気にしません。一人の霊魂だけでも救えば、それだけでも大きなことで、私の苦労の充分な報いです。霊魂の王として、一人でも得たなら、旅も苦労も無駄であったとは言えません。私は嘲りも、侮辱も、非難も、聖なる愛すべきものだと考えています。岩のような固い邪魔があって尻ごみするなら、よい討伐者とは言えません・・・

(中略)

私も同じように固い心の石をだれよりも多く、何回も何回も打ちます。世の終わりまで私が送る後継者によって一筋の道が開かれ、そこに私の律法は太陽の光線のように入るでしょう。

(中略)

正義のために、あるいは興味のために歓迎してくれる望みのある所だけを選んだら、私の仕事は不完全でしょう。なぜなら、働きに変わりはありませんが、苦労はほとんどなく、その代わり自己満足を得ただけでしょう。愛が豊かで、刻むべき霊魂の柔らかい所で働くのは、つらいことではありませんが、苦労がないなら、功徳もなく儲けも少ない。正義に生きている人々にだけ呼びかけるなら、儲けは少ない。まず、すべての人を真理へ導き、それから聖寵をもって贖わないなら、もう私の存在は必要がなくなります。

 

 

 

天界の秘義1789

 

「あなたの大きな報い」。これは勝利の目的と目標とを意味していることは『報い』の意義から明白であり、それは試練の争闘の後の賞品であり、ここでは主は御自身に対しては如何ような勝利の賞品をも決して求められはしなかったため、勝利の目的と目標である。主の勝利の賞品は全人類の救いであったのであり、主が戦い給うたのは全人類に対する愛から発していたのである。この愛から戦う者は自分自身に対して如何ような賞品をも求めない、それはこの愛は他の者に自分自身のものをことごとく与え、移譲し、自分自身のためには何ものも得ようとは欲しないものであるためであり、それでここに『報い』により意味されているものは全人類の救いである。

 

 

 

天界の秘義2077

 

主の情愛または愛は全人類に対するものであって、それは神的なものであり、主はその人間的な本質をその神的な本質に結合されることによって全人類を御自身に完全に接合させ、永遠にかれらを救おうと望まれたのである(この愛については1735を参照されたい。この愛から主はいくたの地獄と絶えず戦われた、1690,1789,1812、また主はその人間的なものをその神的なものに結合されたことにおいて、神的なものを人類と連結させること以外には何ごとをも顧みられなかったのである。主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じがたいものである。

一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何らかえりみはしない。いな、できることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦もいといはしないのである。ここから死んだ者たちからよみがえりつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P52

 

ケリオットのユダ:「おまえはこの話をまだ続けるつもりなのか」

羊飼いのイザク:「そう。きょうも明日もあさっても。だれかが聞いてくれる」

ユダ:「こんなやっかいな仕事をどれくらい続ければいいのだろうか」

イザク:「それは分らないが、私のことばを信じてほしい。前も後も見ないで続けること、一日一日積み重ねればよいのだ。夕方になって何か成果があれば“神様ありがとう”なければ“明日のためにあなたの助けを望みます”と言うだけで十分なのだ」

 

 

 

マリア・ワルトルタ17・15/天使館P144

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

マリア、わたしたちは常に、人びとが神に向かって登る階段になることができなければなりません。人びとに踏まれても少しも構わないのです。ただ彼らが十字架に向かって行くことができさえすれば。十字架は、善と悪の知識の果実が実る新しい木です。

 

 

 

マリア・ワルトルタ22・13/天使館P182

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

 わたしはマリアと呼ばれていました。その一つの意味である苦さは、いつも、神がわたしの心に流しておられる甘美さに混じっていました。そしてそれは、わが子の死に至るまで常に増大していきました。でも、マリアよ、神がその栄光のために犠牲としてわたしたちを召し出されるとき、おお! わたしたちの苦しみを、弱者を活気づけ彼らを天に辿り着かせることができるパンとなすために、挽き臼の中の小麦のように砕かれる幸せはいかばかりでしょう!

さあ、今はもうこれでたくさん。あなたは疲れているけれど幸いな人。わたしの祝福を受けてお休みなさい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ652/天使のたより第6号P20/天使館

 

U 司祭と信者たちの内に、福音書への、またキリストに拘るものへの生き生きとした愛を目覚めさせることです。そのすべてのことの中でも第一のことは、世界の救いの秘密である祈りのうちに、わたしのに対する愛徳を新たにすることです。わたしの彼女は、あの呪われたに勝った勝利者です。彼女へのあなたたちの新たにされた愛と、新たにされた信仰と、彼女について言及されている知識をもって彼女の出力を助けなさい。マリアは世に救い主を与えました。世界はいまだに彼女によって救いを得るでしょう。

 

V わたしの周囲で動揺する様々な霊界を注視して、霊の師たちと霊魂の指導者たちの役目を助け、霊たちを救うためにわたしがとった違う方法を彼らに知らせることです。なぜなら、たった一つの方法をすべての霊魂に当て嵌めるのは愚かだからです。自発的に完徳を目指している一義人をそこへ引きつける方法は、罪人である一信徒に適用される方法や一異邦人に用いられる方法とは違います。あなたたちの先生のように判断するに至るなら、あなたたちの間にも、権力と横暴を、あるいは黄金を、あるいは肉欲を、あるいは彼らの知識への傲慢を、真のと取り替えた惨めな異邦人たちがたくさんいます。また現代の新加入者たち、すなわちキリスト教的思想を受け入れたけれども、離教した教会に属し、キリスト教的国籍を受け入れない人たちを救うためにとられねばならない方法は異なります。誰をも見落とされてはなりません。他のすべての羊にもまして、これらの迷える羊たちを愛し、彼らを唯一の群れに連れ戻すよう捜す、牧者イエズスの望みが叶えられるよう努めなさい。

 

 

 

 

5.十字架のヨハネより

 

 

ドン・ボスコ社/十字架のヨハネ小品集P199

 

すべての霊魂の、その身分、その階級における最高の完徳は、自分の才能と能力に応じて神の模倣に進歩し成長することである。そして、最も驚くべき、最も神的な事とは、人々を改心させ、征服するために神の協力者となることである。なぜならば、神のみ栄えはこれにおいて輝くのであり、神にならうことは最大の光栄であるから。そのために、われらの主キリストは、それらを、おん父の事業、おん父のこととよばれた。霊魂が愛によって神に堅く一致すればするほど、隣人に対する同情が大きくなるのは明白な事実である。なぜならば、愛すれば愛するほど、われわれは、この神がすべての人から愛され崇められることを望み、そして、それを望めば望むほど、念祷および、その他、すべて可能で必要なあらゆる手段によってそのために働くから。

 そして、このように神に占有された霊魂のうちにおいては、愛徳の熱烈さと力はきわめて強いので、かれらは自分ひとりの利益だけに満足し、それだけに制限されていることはできない。むしろ、自分一人で天国に行くのはあまりにも小さなことと思われて、自分といっしょに、たくさんの霊魂を天国に連れて行こうと焦慮しながら、天的な愛と、この上もない勤勉をもって努めるのである。これはかれらが神に対していだいている大きな愛から生じるのであり、念祷と完全な観想の実、かつ、その効果である。

 

 

 

 

6.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P80

‘88・12・3

 

♡ 私を愛する者は 我が愛のうちに成長してゆき、一方彼らは私を愛するよう 他の者たちも連れて来れるようになる ♡ 我が聖心は愛の炎で燃え立ち その深淵に皆を引き入れようと切望している。 愛に渇く。 あなたに求めるのは愛のみ、愛は有徳の木の根だから。 来なさい、私と和解していないすべての者たち、来なさい、来て和解し 私自らの平和を受けなさい、来て 我が愛を共有しなさい、まだ私を理解していない者たちよ 来て、私と和解しなさい(ヨハネ14・27)、来て 愛と和解しなさい ♡ 私、あなたの主イエス・キリストは あなたに我が光の子となってほしいと願っている、そう、私を尊ぶ 平和と愛の弟子となって、

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P56

 

私のもとへ 霊魂を連れ戻す以上の奉仕は あり得ない。 この奉仕だけでも 聖霊によらないならば 一人では成し得ない神聖な印ゆえ 気弱とはならないように。 まさに聖霊の恵みは このようにして顕される。 聖霊だけが 私のもとにあなたに霊魂を連れて来るのを可能とする。