心を尽くし、精神を尽くし、

思いを尽くし、力を尽くして、

あなたの神である主を愛しなさい

 

マタイ22・34−40、

マルコ12・28−34、

ルカ10・25−28

 

 

最高の教義・最高の真理

真理に対する情愛護符

十戒(出エジプト20)

隣人愛

 

 

 

 

 

1.聖書

2.心を尽くし、魂を尽くして

3.思いを尽くし、力を尽くして

4.善と真理との結婚

5.全的な服従

6.善の教義

7.額にこの誡命をくくりつけた

8.教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられている

9.これらの悪を恐るべき罪として避ける者は何ものにもまさって主を愛するが、しかし隣人を自分自身のように愛する者のみがこのことを為すことが出来るのである、なぜならその二つのものは分かつことが出来ないからである

10.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

 

レビ記19・17−18

 

 心の中で兄弟を憎んではならない。同胞を率直に戒めなさい。そうすれば彼の罪を負うことはない。復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

 

 

 

申命記6・4−15

 

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。他の神々、周辺諸国の神々の後に従ってはならない。あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。

 

 

 

申命記10・12−13

 

 イスラエルよ。今、あなたの神、主があなたに求めておられることは何か。ただ、あなたの神、主を畏れてそのすべての道に従って歩み、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くしてあなたの神、主に仕え、わたしが今日あなたに命じる主の戒めと掟を守って、あなたが幸いを得ることではないか。

 

 

 

申命記11・13−21

 

 もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えてそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。さもないと、主の怒りがあなたたちに向って燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。

 

 

 

マタイ22・34−40

 

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

 

 

マルコ12・28−34

 

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はいない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切に答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 

 

ルカ10・25−28

 

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 

 

ヨハネ13・34−35

 

あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。

 

 

 

ヨハネ15・12−13

 

 わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。

 

 

 

ローマ13・8−10

 

 互に愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな掟があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです。

 

 

 

ガラテヤ5・13−15

 

 兄弟たち、あなたがたは、自由を得るために召し出されたのです。ただ、この自由を、肉に罪を犯させる機会とせずに、愛によって互に仕えなさい。律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。だが、互にかみ合い、共食いしているのなら、互に滅ぼされないように注意しなさい。

 

 

 

ヤコブ2・8−11

 

もしあなたがたが、聖書に従って、「隣人を自分のように愛しなさい」という最も尊い律法を実行しているのなら、それは結構なことです。しかし、人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになり、律法によって違犯者と断定されます。律法全体を守ったとしても、一つの点でおちどがあるなら、すべての点について有罪となるからです。「姦淫するな」と言われた方は、「殺すな」とも言われました。そこで、たとえ姦淫はしなくても、人殺しをすれば、あなたは律法の違犯者になるのです。

 

 

 

 

2.心を尽くし、魂を尽くして

 

 

天界の秘義2930

 

聖言の多くの記事には『心[心情]からまた魂から』と言われ、または『心を尽くし、また魂を尽くして』と言われており、そのことにより、それが意志の凡てから、また理解の凡てから発していることが意味されている。人間には二つの能力があることが、即ち、意志と理解があることはたれでも知ることが出来よう、また意志は理解とは分離した能力であることも知ることが出来よう、なぜなら私たちは善と真理とを理解しつつも、尚悪と誤謬とを意志する[欲する]ことが出来るからである。始めから人間は、その意志と理解とが一つのものとなるように、かくて彼はある事を考えて、他の事を意志しないように、または何ごとかを意志して、他のことを考えないように創造されたのである。そうしたものが天的な者たちの状態であり、またそうしたものが『人間』または『アダム』と呼ばれた天的な教会の状態であったのである。しかし霊的な者たちにあっては、また霊的な教会の中では、片方の能力は他方の能力から分離してしまい、即ち、理解は意志から分離してしまって、人間は主によりその知的な部分の方面で改良され、その知的な部分の中に新しい意志と理解が形作られているのである(863,875,895,897,927,928,1023,1044,2256番を参照)。この部分の中に主から発して存在している新しい意志が『心[心情]』と呼ばれるものであり、新しい理解が『霊魂[]』と呼ばれるものであって、『心を尽くして、また魂を尽くして』と言われる時、そのことにより、意志を尽くして、また理解を尽くして、が意味されるのである。

 

 

 

天界の秘義2930 []

 

これがモーセの書の『心と魂』により意味されているものである。

 

あなたはあなたの神エホバをあなたの心を尽くし、あなたの魂を尽くし、あなたの力を尽して愛さなくてはならない(申命記6・5)。

さらに―

ああ、イスラエルよ、聞け、あなたの神エホバはあなたに何を求めたもうか、ただあなたの神エホバを恐れ、その凡ての道を歩み、かれを愛し、あなたの神エホバに、あなたの心を尽くし、あなたの魂を尽くして仕えまつることのみではないか(申命記10・12,11,13)。

 

さらに―

今日あなたの神エホバはこれらの法令と公道とを為すことをあなたに命じられる、あなたはあなたの心を尽くし、あなたの魂を尽くしてそれらを守って、行わなくてはならない(申命記26・16)。

 

列王記の書には―

ダビデはソロモンに言った、エホバはわたしについて話されたその御言葉を確立されるでしょう、かれは言われた、もしあなたの息子たちがその道に心を配って、その心を尽くし、その魂を尽くして真理の中にわたしの前を歩むなら、あなたから一人もイスラエルの王座から絶たれはしないでしょう、と(列王記上2・4)。

 

マタイ伝には―

あなたはあなたの神、主を心を尽くし、魂を尽くして愛さなくてはならない(マタイ22・37、マルコ12・29,30)。

 

 

 

天界の秘義2930 []

 

 同じことがまたエホバまたは主についても述べられているが、それはエホバまたは主から教会の人間のもとに意志のものである善の情愛[善を求める情愛]と理解のものである真理の情愛[真理を求める情愛]とが発するためである。例えばサムエル書には―

 

 わたしはわたしの心とわたしの魂との中に在るものに従って、わたしのために忠実な祭司を起すであろう(サムエル記前2・35)。

 

エレミア記には―

 

 わたしはかれらのために喜んでかれらに善を行い、またわたしの心を尽くし、わたしの魂を尽くして、彼らを真理の中にこの地に植えつけよう(エレミア32・41)

 

聖言全体にわたって他の記事でも『魂』は真理の情愛を意味している、例えばイザヤ書には―

 

 わたしはわたしの魂をもって夜の中にあなたを欲し、求めました、まことに、わたしの真中でわたしの霊をもってわたしは早くあなたを尋ね求めました、地に対するあなたの審判[公道]に従って、世に住む者たちは義を学ぶからです(イザヤ26・9)。

 

ここでは『魂』は真理の情愛を、『霊』は善の情愛を意味している(『審判[公道]』は真理について、『義』は善について述べられていることは前の2235番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義2930 []

 

『魂』は心[心情]から発した真理を求める情愛を意味していると言ったのは、心[心情]から発していないところの真理の情愛[真理を求める情愛]が在るためである、例えば自己を、または卓越することを求める愛から、世を求め、または利得を求める愛から、また功績を求める愛から発してる情愛が在るからであって、こうした情愛からも、同じように真理の情愛が発生してくるが、しかしそれらは純粋なものではなく、肉の意志から発していて、心[心情]からは発していないのである。心[心情]から発しているものは主から発している。さらに聖言では『魂』はその普遍的な意義では生命そのものを意味している(1000、1005、1040、1742番を参照)、なぜならその普遍的な意義では魂はそこから他の物が存在し、生きる源泉となっているからであり、精神[霊]である、なぜなら精神[霊]から身体は生きているが、しかしその精神[霊]の霊魂はその精神のさらに内なる生命であり、そこからそれは知恵と理解を得ているからである。

 

 

 

神の愛と知恵383

 

理解は肺臓に相応し、理解から発した思考は肺臓の呼吸に相応しているため、聖言では『霊魂(ソウル)』と『霊』とは理解を意味している。例えば、

 あなたはあなたの神である主を心(ハート)を尽くし、魂(ソウル)を尽くして愛さなくてはならない(マタイ22・37)。

 神は新しい心と新しい霊とを与えられるであろう(エゼキエル36・26、詩篇51・10)。

『心(ハート)』は意志の愛と意味することは前に示した。それ故『霊魂(ソウル)』と『霊』は理解の知恵を意味している。聖霊とも呼ばれている神の霊は神的知恵を意味し、それ故人間の光である神的真理を意味することは「新エルサレムの主の教義」(50、51)に見ることが出来よう。それ故、

 主はその弟子たちに息を吹きかけて、言われた、あなたがたは聖霊を受けよ(ヨハネ20・22)。

同じ理由から以下のように言われている。

 神エホバはアダムの鼻の孔に生命の息を吹き込まれた。それで人は生きた魂(ソウル)となった(創世記2・7)。

また彼は予言者に語られた、

 息に向って予言し、風に向って言え、ああ息よ、四方から来て、これらの殺された者の上に吹け、彼らは生きるであろう(エゼキエル書7・9)。

(中略)

この凡てから『神を心を尽くし、魂を尽くして愛する』ことは神を愛を尽くし、理解を尽くして愛することを意味し、『新しい心と新しい霊を与える』ことは新しい意志と新しい理解を与えることであることを認められることが出来よう。『霊』は理解を意味する故、ベザレルについて、

 彼は知恵、理知、知識の霊に満たされた(申命記34・9)

と言われ、ネブカドネザルはダニエルについて、知識、理知、知恵の優れた霊は彼の中にあった(ダニエル5・11、12、14)と語り、イザヤ書には、

霊で誤る者は理知を学ばなくてはならない(29、24)。

と言われ、他の多くの所にも同じことが言われている。

 

 

 

 

3.思いを尽くし、力を尽くして

 

 

天界の秘義9050

 

『心[心情]』は愛の生命を、『魂』は信仰の生命を、『力[強さ]』は愛の生命から発出し、かくて心情または意志から発している事柄を意味し、『思い』は信仰の生命から発出し、かくて魂から、または明るくされた理解から発している事柄を意味しているのである。

 

 

 

 

4.善と真理との連結

 

 

天界の秘義9050[]

 

こうした事柄が聖言の『心[心情]』と『魂』により意味されていることは現今では教会の僅かな者にしか知られていないことは以下の理由によっているのである、即ち、人間は相互に明確に区別される二つの能力を、即ち、意志と理解を持っており、この二つの能力は、人間が真に人間となるために一つの心を構成していることが考えられていないのである。天界でも、世でも、宇宙の凡ゆる物は善と真理とに関連しており、それが何らかの意義を持ったものとなって、何らかの意義のあるものを生み出すためには共に連結しなくてはならないことも考えられてはいないのである。こうした事柄が知られていないため、その結果彼らは愛から信仰を分離してしまったのである、なぜならこの普遍的な法則を知らない者は、信仰は真理に関連し、愛は善に関連しており、それらが共に連結していない限り、それらは何ら有意義なものでないことを知ることは出来ないからである、なぜなら愛はその性質を信仰から得ており、信仰はその生命を愛から得ているため、信仰は愛がなくては信仰ではなく、愛も信仰がなくては愛ではなく、従って信仰は愛がなくては死んでおり、信仰は愛と共になって生きるからである。それがそうであることは、聖言の凡ゆるものから認めることが出来よう、なぜなら信仰が取り扱われているところにはまた愛も取り扱われており、そのことによって善と真理との結婚が、即ち、かの天界が、最高の意義では、主が聖言の一切の物の中に存在するようになっているからである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/生命/86[]

 

人間における意志と理解との連結は聖言に『心(ハート)と魂(ソウル)』により、『心(ハート)と霊(スピリット)』により意味されている。例えば私たちは神を

 心を尽くして、魂を尽くして(マタイ22・37)

愛さなくてはならないのであり、また神は

 新しい心と新しい霊を(エゼキエル11・19,36・26,27)

与えられるであろうと(言われている)。『心』は意志とその愛とを、『魂』と『霊』は理解とその知恵を意味している。

 

 

 

 

5.全的な服従

 

 

天界の秘義36

 

 信仰を愛から分離した者は信仰とは何であるかを知りさえもしない。信仰を考える時、それは単なる思考であると考える者がおり、それは主に向けられた思考であると考える者もいるが、それは信仰の教理であると考える者は僅かしかいない。しかし信仰は信仰の教理に包含されている凡ゆる物を知り、承認することであるのみでなく、特に信仰の教理に教えられている凡ての事柄に対し服従することである。そこに教えられ、そして人間が従わねばならぬ主要な要点は主に対する愛と隣人に対する愛である、なぜならもし人間はその中にいないならば、その者は信仰にいないからである。このことを主はマルコ伝にそれに就いては何の疑いも残さぬ程に明白に教えられている―

 

 凡ての戒めの中で第一のものは、聞け、ああ、イスラエルよ、主なる私たちの神は一人の主である。それゆえあなたは主なるあなたの神をあなたの心情を尽くし、あなたの魂を尽くし、あなたの心を尽くし、あなたの力を尽くして愛さなくてはならない。これは第一の戒めである。第二もそれに等しい、即ち、これである、あなたはあなたの隣人を自分のように愛さなくてはならない。これらよりも大きな戒めはない(マルコ12・29−31)。

 

 マタイ伝に主はこの中の前のものを『最初の大きな戒め』と呼ばれ、『この戒めに律法と予言者とは凡てかかっている』と言われている(マタイ22・37−41)。『律法と予言者』とは信仰の教義の凡てであり、聖言の凡てである。

 

 

 

天界の秘義6138

 

「わたしたちも、わたしたちの土地もパロの僕として生きましょう」(出エジプト47・19)。

これは全的な服従を意味していることは以下から明白である。即ち、『私たちと私たちの土地』の意義は(すぐ前のように、6135−6137番を参照)善と真理との容器であり、『僕』の意義は人間自身のものから発している自由を持たないことであり(5760,5763番を参照)、かくて全的な服従である。容器により人間の形そのものが意味されている。なぜなら人間は主から生命を受ける形以外の何ものでもなく、この形は遺伝と実際の生活とによって、主から発している霊的な生命を容認することを拒絶するといったものとなっている。しかしこれらの容器が最早その人間自身のものから発している自由を何ら持たなくなるほどにも放棄された時、そこに全的な服従が生まれるのである。再生しつつある人間は、荒廃することと支えられることとが再三繰り返されることによって遂には最早自分が自分自身のものであることを欲しなくなって、主のものとなることを欲するようになり、そして彼が主のものとなった時、彼は自分が自己に放任されるとき、悲しみ、不安に襲われるような性質の状態に入り、この自己の状態から解放されると、幸福と祝福の中へ帰って来るのである。天使たちは凡てこうした状態の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義6138 []

 

主は人間を祝福し、幸福にされるために、全的な服従を望まれるのである。即ち、人間が一部分は、その人間自身のものであり、一部分が主のものであることがないように望まれているのである。なぜならその時は二人の主人がいて、何人も同時にこの二人の主人には兼ね仕えることは出来ないからである(マタイ6・24)。全的な服従はまたマタイ伝の主の御言葉により意味されている―

 

わたしよりも父と母とを愛する者はわたしにふさわしくない、わたしよりも息子と娘を愛する者はわたしにふさわしくない(マタイ10・37)。

 

ここでは『父と母』により遺伝から人間自身のものとなっているものが全般的に意味され、『息子と娘』により実際の生活から人間自身のものとなっているものが意味されているのである。人間自身のものはまたヨハネ伝の『魂』により意味されている―

 

自分の魂を愛する者はそれを失うであろう、しかしこの世で自分の魂を憎む者はそれを保って永遠の生命を得るであろう。たれでもわたしに仕えようと欲するなら、わたしに従わなくてはならない、わたしのいるところに、わたしの僕もまたいるのである(ヨハネ12・25,26)。

 

全的な服従がまたマタイ伝の主の御言葉により意味されている―

 

他の一人の弟子が言った、主よ、わたしに先ず父を葬りに行かせてください。しかしイエスはかれに言われた、死んだ者にその死んだ者を葬らせなさい(マタイ8・21,22)。

 

 

 

天界の秘義6138 []

 

服従は全的なものでなくてはならないことは教会の最初の誡命から非常に明白である―

 

あなたはあなたの神、主を心[心情]を尽くし、魂を尽くし、心[思い]を尽くし、力を尽くして愛さなくてはならない、これは最初の誡命である(マルコ12・30)。

 

かくて主に対する愛は人間から発しないで、主御自身から来ているため、受容する器官である心の凡ては、魂の凡ては、思いの凡ては、力の凡ては主のものとならなくてはならないのであり、従って服従は全的なものでなくてはならないのである。これが『わたしたちも、土地もパロの僕として生きましょう』という言葉によりここに意味されている服従である。なぜならパロにより、内なる天的なものの庇護の下に在るところの自然的なものが全般的に意味され、その最高の意義では主の庇護の下に在る自然的なものが全般的に意味されており、主がその意義では『ヨセフ』であられるからである。

 

 

 

 

6.善の教義

 

 

天界の秘義9780

 

 天的な王国、または天的な教会の善は主に対する愛の善と相互愛の善であり、霊的な王国、または霊的な教会の善は隣人に対する仁慈の善と信仰の善である(9741番)。これらの善とそこから発している真理とは聖言に遍く取り扱われているのである、なぜなら聖言は主に対する愛と隣人に対する愛の教義であるため、善の教義であるからであり(マタイ22・35−40を参照)、善は凡て愛に属しており、信仰の善すらも愛に属しているのである、なぜならこれは愛の善から発生しており、愛の善がなくては発生しないからである。

 

 

 

天界の秘義9780 []

 

 聖言は善の教義であるため、それで聖言が理解されるためには善とは何であるかを知らなくてはならないが、たれ一人聖言に従って善の中に生きない限り、善の何であるかを知らないのである、なぜならたれでも聖言に従って善の中に生きる時、その時主はその者の生命の中へ善を植え付けられ、そこからその者は善を認め、また善を感じ、従って善の性質を把握するのであり、でないと、善は認識されはしないため、現われはしないからである。ここから聖言の中に在るものを単に知って、それがそうであると自分自身に説きつけるのみで、それを行わない者らはいかような状態に在るかを認めることが出来よう。彼らは善を何ら知らず、従って真理も何一つ知ってはいないのである、なぜなら真理は善から知られ、善が無いなら他生では死滅してしまうところの生命の無い記憶知としてしか知られるに過ぎないからである。

 

 

 

 

7.額にこの誡命をくくりつけた

 

 

黙示録講解427ロ

 

『額』は愛の善を意味しているため、イスラエルの子孫は、以下のモーセの書に教えられているように、その額にエホバに対する愛にかかわる誡命をくくりつけることを命じられたのである―

 

あなたはあなたの神エホバをあなたの心情をつくし、あなたの魂をつくし、あなたの力をつくして愛さなくてはならない。あなたはこれらの言葉をあなたの手に印としてくくりつけなくてはならない、それらをあなたの目の前のはち巻きとしなくてはならない(申命記6・5,8,11・18、出エジプト13・9,16)。

 

主は天使たちと人間の額を眺められることを表象するものとして『それらを目の前のはち巻きとしなくてはならない』と言われているのは、神的愛から発し、天使たちと人間に主を理知と知恵から眺めさせられるためである、なぜなら『目』は理解を意味し、人間の理解はことごとくその者の愛の善から発し、またその者が主から受けるその愛の善に順応しているからである。かれらがこれらの言葉を手にくくりつけたこともまた究極的な事柄を表象したことは、手は人間の霊魂の力の究極的なものであるためであり、それゆえ『額の上に、手の上に』は、最初の物と最後の物の中に、を意味し、『最初のものと最後のもの』は(前の417番に見ることができるように)凡ゆるものを意味している。この誡命がそのようにくくりつけられたのは『その上に律法と予言者とが、すなわち、聖言全体がかかっている』ためであったのであり、従って天界と教会との凡ゆるものがかかっているためである。―

 

この誡命に主が教えられる律法と予言者とがかかっている(マタイ22・35−38、40)。

 

これはまた、王たちは前の時代には、また現在においても、王冠をいただいたさい、額に、また手に油を注がれた理由を、そのことが意味していることを明らかにしている、なぜなら王は前には神的真理に関連した主を表象したからであり、神的真理は主から流れ入っている愛の善の中に受け入れられるため、それゆえ王たちは額に、手に油を注がれたのであり、かれらが注がれた『油』もまた愛の善を意味しているのである。このことが王が聖言では善から真理の中にいる者たちを意味し、抽象的な意味では善から発した諸真理を意味している理由である(前の31番を参照)。

 

 

 

 

 

8.教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられている

 

 

天界の秘義3773

 

「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。

 

 

 

天界の秘義3773[2]

 

 このことはまた凡ゆる教会の実情から認めることができよう、すなわち教会はその幼少期にはこのようなものであって、愛から主を愛し、心から隣人を愛したのである。しかし時が経過するにつれて、教会はこの二つの戒めから後退して、愛と仁慈の善から信仰の事柄と言われているものへ外れ、かくて生命から教義へと外れてしまい、彼らがそうしたことをするにつれ、聖言は益々閉じられてしまうのである。このことが以下の言葉の内意に意味されているところである、即ち、『見よ、野に井戸が在った、また見よ、そこには羊の群が三つその傍に伏していた、なぜならその井戸から彼らはその群に水を飲ませたからである、その井戸の口の上に大きな石が一つ置かれていた。そして群は凡てそこに共に集められた。彼らは石を井戸の口からころがし、羊の群に水を飲ませ、再び石をその井戸の口の上のその場所に置いた』。

 

 

 

 

9.これらの悪を恐るべき罪として避ける者は何ものにもまさって主を愛するが、しかし隣人を自分自身のように愛する者のみがこのことを為すことが出来るのである、なぜならその二つのものは分かつことが出来ないからである

 

 

神の摂理94

 

主の人間との結合と人間の主との相互的な結合は人間がその隣人を自分のように愛し、主を凡てのものにまさって愛することにより行われる。自分のように隣人を愛することは彼に不誠実な、不当な行為をしないこと、彼を憎まないこと、或いは彼に対し復讐の念に燃えないこと、彼をののしらず、そしらぬこと、その妻と姦淫を犯さぬ事その他それに類した罪を彼に為さないことである。このようなことを為す者はその隣人を自分のように愛していないことを誰が理解し得ないであろうか。しかしそのようなことは隣人に悪であると同時に主に対し罪であるため、そこから遠ざかる者は隣人に誠実に、正当に、親切に、忠実に行動している。そして主も同じように行動されるため、そこに相互的な結合が生まれ、かくて人間がその隣人に為すものは凡て、主から為し、人間が主から為すものは凡て善であり、そのとき彼にとり隣人はもはや人物ではなくて、その人物の中の善である。何物にもまさって主を愛することは、主は聖言の中におられるゆえ、聖言を害わず、また主は教会の聖い物の中におられるゆえ、それを害わず、また魂はことごとく主の御手に在るゆえ、何人の魂をも害わないことを意味している。これらの悪を恐るべき罪として避ける者は何ものにもまさって主を愛するが、しかし隣人を自分自身のように愛する者のみがこのことを為すことが出来るのである、なぜならその二つのものは分かつことが出来ないからである

 

 

 

 

10.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P178

 

4.利己主義もまた、ある意味での自殺である。神は人助けに使える何らかの素質や能力を誰にでもお与えになっているからだ。われわれは、人助けをしているときに新しい歓びを知り、また自分自身をも助ける。これは内なる存在の法則である。他を助けなければ、この歓びを失うことになる。自分と同じように隣人を愛することがなければ、神に背いていることになる。このような背きによって、霊魂の糧そのものである歓喜が失われ、霊の飢えによってわれわれは自分を殺すことになる。利己的人間は自分の益のために働いていると思い込んでいるが、知らずに自分自身に大きな損失を加えているのである。誰もが心を改めて利己主義を捨て去れば、この世のすべての紛争や諍(いさか)いはなくなり、地球も天国と化すだろう。すべて罪は利己主義からくるのである。「自分を捨て、わたしについてきなさい」と主がご命じになった理由はここにある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P326

 

 

「われわれは他人の救いとは何の関わりもない。人間は誰もみな、自分自身の救いのために苦闘しているのだ。神の興不興、神への奉仕などは何の意味もない。救いとは、完全に自分の行ない(カルマ)によるものだ」と彼は答えた。

これと較べ、キリストの黄金律は何と優れていることだろう。「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして主なる神を愛せ。汝のごとく汝の隣人を愛せ」と主はいわれた。わたしたちがこの原則を応用するならば、人生は利己的なものとはなり得ない。神と人との関係は父と子の関係になり、人間同士の間では真の兄弟姉妹のようになるだろう。救いと神の国に関する福音書の教えはこの一句の中に凝縮されている。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P358

 

真のクリスチャンは、キリストとともにいるばかりではない。彼らはキリストの中に生き、キリストも彼らの中に生きている。そして、キリストは永遠に生きられるため、彼らもまた、死を通して死を克服されたキリストとともに永遠に生きる。この新生命において、彼らは自分のためではなく人のために生きる。神との交わりをもっていることのほかに、人間の社会的本能が同胞との交わりを求めさせるからである。また、人間相互の幸福は相手の福祉に関心を寄せ合うことにかかっているからだ。互いの幸福は利己主義によって毒される。「あなた方は、自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」とキリストがいわれたのもこのためであった。真の愛があるところ、人を幸せにしたいという願いがあり、自らすすんで人にすることしか他に求めない。天の父の御前では、この方法によって、神の子らの互いの幸せが保たれている。

 利己主義は、霊魂のあらゆる邪悪と不安の根源である。利己的人間は、人からの千の施しを忘れても、自分のした施しは一つ残らず覚えている。自分の千の欠点は忘れても、他人の欠点はどんなささいなものでも見逃さない。「わたしについてきたいと思う者は、自分を捨てて日々十字架を負いわたしについてくるように」(ルカ9・23)とキリストがいわれたのは、このためである。神の御旨(みむね)を行なうために自分を捨てる者は、自分を造ってくださった神の御旨を行なうときに自分自身の意志も全うすることになる。例えば、愚かにも、自分のやり方が最善だと思っていても、神の示される方法をとるしか道がないことがわかる。