護符

 

 

心を尽くし、精神を尽くし(マタイ22・37)

両親へ宗教教育過越しの祭り

 

 

 

 

 

出エジプト13・3−10

 

モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。

主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。

あなたはこの日、自分の子供に告げなければならない。『これは、わたしがエジプトから出たとき、主がわたしのために行われたことのゆえである』と。あなたは、この言葉を自分の腕と額に付けて記憶のしるしとし、主の教えを口ずさまねばならない。主が力強い御手をもって、あなたをエジプトから導き出されたからである。あなたはこの掟を毎年定められたときに守らねばならない。

 

 

 

申命記6・4−15

 

聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。

 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。

 

 

 

申命記11・13−21

 

 もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えてそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。さもないと、主の怒りがあなたたちに向って燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。

 

 

 

天界の秘義1038

 

 「これは契約のしるしである。」

 

 

 

天界の秘義1038 []

 

外なる祭儀が『契約のしるし』と呼ばれているのは、主として内的なものがその外なる儀式により心に留められ、すなわち、その儀式により意味されているものが心に留められるようにとの理由によっているのである。ユダヤ教会の祭儀はすべてそれ以外の何物でもなかったのである。こうした理由からそれらはまた『印』と呼ばれたが、それはその人々がそうしたものにより内的なものを思い出すためであったのである。例えば、モーセの書におけるような、手と額とに主要な戒めを結びつけておくといったものである―

 

  あなたはあなたの神エホバを心をつくし、魂をつくし、力をつくして愛さなくてはならない。これの言葉をあなたはあなたの手に印として結びつけなくてはならない。それをあなたの目の間において護符[魔よけ]としなくてはならない(申命記6・5、8、11・13、18)。

 

 ここに手はそれが力を意味しているため、意志を意味している、なぜなら力は意志に属しているからである。『眼の間におかれた護符[魔よけ]』は理解を意味しており、かくて『しるし』は、その主要な戒めが、または律法の総計が絶えず意志と理解の中に存在するように、すなわち、主が、また愛が意志そのものの中に、また思考そのものの中に現存されているように、それを[その主要な戒め]を思い出すことを意味しているのである。主は、また主から発した相互愛はこのように天使たちのもとに現存されているが、それが不断に存在していることについては今後主の神的慈悲の下にさらに後に記すことにしよう。同じく、この節に、『これがわたしとあなたたちとの間に立てる契約の印である。すなわち、わたしはわたしの虹を雲の中に置いた、それはわたしと地との間の契約の印となるであろう』と言われていることは、主が仁慈の中に現存されていることを示す印以外にはいかような印も意味していないのであり、かくて人間の中におられる主を追憶することを意味しているのである。しかしそこから、または雲の中の虹からいかようにして印と追憶することが生まれるかは主の神的慈悲の下に以下の記事に告げよう。