両親へ

 

宗教教育護符

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

2.ヴァッスーラ

3.マザー・テレサ

4.デボラ

5.聖母から司祭へ

6.スウェーデンボルグ

7.アグレダのマリア

8.マーリン・キャロザース

 

 

 

1.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P186

 

 マリアが言われる。

 

「多くのことを語りません。私のことばは、すでに教訓だからです。けれども、妻たちに注意を促したいことが一つあります。あまりにも多くの婚姻の絆が、いつの間にか不和、分裂に至ることです。この多くは、夫に対しての思いやり、同情、慰めなどとなる愛を知らない妻たちの責任です。

 

男には、女にのしかかっている物理的な苦労はあまりありませんが、多くの精神的な苦労に圧倒されることがあります。仕事のこと、さまざまの決断、世間、または家族に対する責任・・・。おお、どれほどのことが男にのしかかっているか! 彼も慰めを、どれほど必要とするか!

 

それなのに、疲れ切って幻滅を感じている、あるいは、落胆して心労に打ちのめされている夫に向かって、妻はむだな、時として正しくない愚痴や、不平の重荷を加えるのです。以上のことすべては、女が自己中心のエゴイストで、愛していないからです。

 

愛するとは、感情、または利益に自己満足を探すことではありません。愛するとは、感情と利益を超えて、愛する相手に満足を与え、希望と平和に生きるために必要な助けを与えることなのです。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P269

 

主が弟子達に:

「女は母となるためにできているので、この声に耳をふさぐ者は正道を踏みはずします。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P274

 

イエズスが言われる。

 

「ヨゼフは、私の養父であったと言われている。おお、マリアが私に与えた乳を与えることができなかったとしても、私に対して、まことの母のように細やかな愛情を持っていた。生徒にとって、それ以上によい先生があったことはないと思うが、私は養父から子供を大人にすることを全て習った。食べるパンを自分の手でかせぐ男になった。

 

神の子として、私の知恵は完全であったにしろ、私は、私の年にふさわしく生きようとして、大げさなことは何もしなかった、と信じてもらいたい。そのために、私には神の知恵があったにもかかわらず、一人の人間を先生としていただくほど謙遜であった。私は速やかにいろいろ習ったにしろ、一人の人間の下にいる生徒の身分まで下ったということに変わりはなく、また、あの義人が、私の小さな時に基礎知識を与えてくれた手柄を小さくするものではない。

 

遊ぶのと同じように、私に働くことを教えてくれたヨゼフのそばで過ごした時間を、天にいる今も忘れられない。そして、私の養父を見るたびごとに、あの小さな庭と、くすぶる仕事場が目に浮かび、そのほほえみによって、あの場所を黄金に変え、私たちを幸せにした母が、顔を出している感じがする。

 

この二人の夫婦は、他のだれとも比較にならないほど相愛したが、どんな家族も、この二人に習うべきところが多くある。

ヨゼフは家長であった。家庭内の権力は異論のないもので、神の母もそれを深く尊敬し、神の子も服従していたのであった。ヨゼフがしてよいと決めたことは、どんな議論も反対もなく、どんな意固地もなく承諾されていた。彼のことばは、私たちにとって、小さい法律であった。それでも、彼にはどれほどの謙遜があったことか。権力のどんな乱用もなく、頭であるという理由だけで、理性に背く命令など何もなかった。

 

母は、彼のやさしい助言者であった。彼女のその深い謙遜のために浄配の婢と考えていたにしても、ヨゼフは、聖寵に満ちあふれる彼女の知恵から、すべてを行うための光と指導とを汲んでいたのであった。そして、私は、私を愛し保護するために、私の上に組み合わされた、この二つの愛の間に、力強い二本の木によって、保護される花のように成長したのである。

 

幼な子であったので、世間を知らなかった間、私は天国さえもなつかしく思わなかった。父なる神と霊なる神とは、私のそばに現存していたし、マリアは、神に満ちあふれていたからである。天使たちも、そこに住んでいた。なぜなら、その家から離れさせることは何もなかったからである。

 

その上に天使の一人は、ヨゼフにおいて肉体となったと言いたいくらいであった。なぜなら、肉体の荷から解放されたかの人は、神と、その子とに仕えることだけに専念して、セラフィムたちが愛するように、神を愛することだけを何よりも気にかけていたからである。おお、ヨゼフのまなざし! それは地上の、この世の邪欲を知らない星のように、いつもおだやかで清いものであった。ヨゼフは私たちの安らぎ、私たちに力であった。

 

私たちを見守っていた聖人のそのまなざしを、死が消した時に、私は人間的に苦しまなかったと多くの人は思っている。神として、ヨゼフの幸福の運命を知り、そのためにリンボに短く止まって後、天が開かれて、そこに入ると知っていたので、その出発のために神として苦しんでいなかったとしても、人間として、彼の愛深い現存を失って空になった家でよく泣いた。

 

私は、亡くなった友だちのために泣いたのに、私のこの聖なる養父のために泣かないことがあろうか。幼い時に彼の胸は、私の枕となったし、長い間、彼から多く、多くの愛をもらったのである。

 

最後に親たちの注意を引きたいことは、ヨゼフは教育によって得た多くの知識もなかったのに、私を腕のよい労働者に仕立て得たということである。

 

道具を使える年になるや、私に怠惰な日を許さず、早速、仕事を習わせ、マリアに対しての私の愛を、仕事に励むように助けとして使った。母の役に立ついろいろな道具を造ること、これによって、すべての子供が母親に対して持つべき尊敬を、私に注ぎ、未来の腕のいい大工を作る見習いは、今言った深い愛をこめた尊敬に基づかせていたのだった。

 

親たちを喜ばす手段として、子供たちに仕事を愛させる家族は、今どこにあるか。多くの場合、子供たちは家の暴君となっている。親たちに対して心を閉ざし、無関心で無礼に育つ。親を自分の僕とさえ考え、親を心から愛さず、また、大して愛されていない。なぜなら、あなたたち親は、子供たちをわがままな暴君のような者に作ると同時に、恥ずべき無関心をもって、彼らから心を遠くして生きるからである。

 

二十世紀の親たちよ、あなたたちの子供は、あなたたちの子供というよりも、乳母とか、金持ちだったら家庭教師とか、有名校の子である。貧しかったら、仲間たち、道、学校の者であるが、あなたたちの者ではない。あなたたち母親は、子供を産むだけの者である。あなたたち父親も、同じようなことをやっている。しかし、子供は肉体だけの者ではない。何よりも知恵、心、霊である。この知恵、この心、この霊を創り上げる義務と権利とが、だれよりも父と母とにある、とよく肝に命じておくがよい。

 

家族はあるし、またあるべきである。今、言った真理を破壊する説とか、いわゆる進歩とかは、大きな滅びを産むしかない。崩壊している家族組織から、ますます堕落した、ますます大きな滅びの元となる未来の男と女しか生まれない。猿の集団にある一致と愛さえもない家族があるよりも、この世には結婚と子孫とがない方がよいと真実に言う。そのような家庭は、徳、仕事、愛、宗教の学校ではなく、そのような家族では、子供は一人ひとり孤立して生き、最後に崩壊し混沌で終わる。

 

 

さあ、どうぞ、切れ、破れ、家庭の絆を! 社会生活のこの最も聖なる様式を破る結果を、あなたたちはもはや見、それに圧倒されている。望むなら、さあ、それを続けよ。けれども、この世が家庭と国とを食う怪物の住まいのような地獄になっても、決して嘆きの悲鳴を上げるな。あなたたちの望むようになっているのだから。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P132

 

「(前略)マテオ、あなたに対してこれとちがうやり方だったか」

「いいえ、主よ」

「しかし、本当のことを言いなさい。あなたを納得させたのは、あなたに対しての私の忍耐であったか、それともあなたに対してのファリサイ人たちの苦々しい、とがめであったか」

 

「あなたの忍耐でした。そのために今、私はここにいます。ファリサイ人たちが、そのいつもの軽蔑の言葉と呪いとをもって逆に私を何もかも軽蔑する人間に変え、その軽蔑のために今までやっていた悪いこと以上の、悪いことをしようとさえ考えた。ことは今、言ったように起こります。罪を犯しているために罪びととして、とり扱われると感じる時、人はその時により固くなるものです。しかし侮辱の代りに愛撫がくる場合、まず、びっくりし、次に涙がこぼれる・・・。そして泣き出す時には罪の土台がくずれて倒れる。人は、慈悲の前に全く裸となって、その慈悲で、自分を覆うようにと心からこいねがうのです」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3P91

 

正しいことを話しなさい。息子や娘に正しい教育を与えなさい。“そうしないと、娘のために、あなたは敵の笑い物になり、町の噂の種、おしゃべりの種になり、皆の前で面目を失うことになるかもしれない”(*)また、あなたの娘の霊魂が死なないようにしなさい。

 

*シラ42・11

 

 

 

役に立たないことば

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P328

 

役に立たないことばとは、自分では何も助けられないのに、他人の欠点を話す場合です。その場合それぞれ本当であっても、愛に背くことです。同じように強く他人を叱責しながら、助言をしてやらないのも愛に背くことです。

 

 

 

あなたは家のものを織り、縫うこと以外のことをしてはなりません

 

マリア・ワルトルタ14・3/天使館1巻P120

 

マリア:

「おお! わずかな遺産であろうと少しも構いませんわ! いつだってわたしにはそれだけで十分にやっていけるでしょう。働きますわ・・・」。

 

ヨセフ:

「いいや、マリア」。話すのはヨセフである。「わたしが働くでしょう。あなたは家のものを織り、縫うこと以外のことをしてはなりません。わたしは若く強いし、それにあなたの夫です。あなたが仕事をすれば、わたしの面目は丸つぶれですよ」。

 

「あなたのおっしゃるようにいたしましょう」。

 

「ええ、わたしはそうしてほしい。他のどんなこともどんな望みもあなたの思いのままです。でもこれだけはなさらないでください」。

 

 

 

 

2.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P209

 

 主:

聖書にはこう書かれてある:「心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。両親のお蔭で今のあなたがあることを銘記せよ。あなたは両親にどんな恩返しができるのか? 」(シラ書7・27−30) そこで:父母を敬いなさい という十戒に従うように。殆どの人がこの掟に従わないと どうしてこれほど多くのあなた方は驚くのか? 愚かで邪悪な考え方によって この子どもたちは道を逸れ 虚しい製品を崇拝するようになり、その霊は幼児期から怠惰の精神に満ちている。多くの両親は我が霊の あの永遠に尽きない泉を 子どもたちに与えなかった。 英知は昼夜となく彼らを呼んでいた、しかしこの世代は英知を締め出し、そして過ぎ行く日ごとに、あなた方の子どもたちは私へと連なる道からだんだん遠く離れて行った。

 

 たとえ誰であろうと、若くとも年老いていようとも、私を彼らの神として認めるなら、私の面影を反射する、そして愛ゆえに、私に従い 敬うと同じようにして 彼らの両親にも従って行き 敬うであろう。 しかしこの世に適うあらゆることが子どもたちを堕落させ 私のもとに来れなくさせた。愛が欠けている。 多くの両親は子どもたちが従順でないとこぼすが 私に対しても全く同じようにしている。 

 

おや、彼らは本当に十分善良で、忍耐があり 寛容だと言い切れるか?これらの徳をすべて持ち合わせているなら 子どもたちにも従順の徳があり 両親のどちらをも敬うであろう。しかし言っておく:この世代の精神は空疎なために 暗やみが訪れてそれを満たした。 なぜなら彼らの目には哲学者と映る自分の姿のほうが 永遠に続く我が栄光より重要だからです。 こうして、聖性に欠けているため 情欲に駆られ あどけない若さのうちから出て行って 自分の身体を辱しめる。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P158

 

 聖母:

 時がせまっていながら 多くの者たちはいまだに気づかないで 深い眠りにひたっています。 日がなくなり私の心は今日の若者たちを天上から見ていて 深い悲しみに沈んでいます。 愛が欠けています・・・けれど彼らは愛と出遭ったこともないのです、彼らの多くは 母親に与えるものがなかったため そのぬくもりや愛情さえ受けたことがありません。世は冷たくなってしまいました、氷のように、そして両親は互いに歯向かい、子どもは愛情の不足から両親に歯向かいます。 

 

子どもが愛を乞うても母親はそれを拒んでしまいます。世には愛の心がありません、憎しみ、貪欲と自己本位が 地球全体をその中核まで支配しているため 深い暗やみの中にあるのです。 

 

この暗い世の中の罪 そして聖櫃そのものの中に浸透していった背教、こうした恐ろしい光景に身震いしています、災難、飢饉、不幸、戦争や疫病、このすべてはあなた方が引き寄せたものです。地上から来るすべては地上に戻ります。地上は自らを破壊しているのです そして多くの人はそう信じがちですが このすべての災いのもとは 神ではないのです。 神は義なる方で 慈しみに満ちておられます、けれど悪が悪を引き寄せるのです。 

 

一所懸命祈りなさい、あなたの時代の改心と救いのために 心から祈りなさい。私の子どもたちよ、あなた方の祈りが必要です、祈ってください それを神に捧げましょう。 どこへ行こうと 必ず一緒にいます。私の子どもたちであるあなた方を、決して離れません。 皆に祝福を与えます。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P209

‘90・8・5−29 ― 十誡 ― ロードス島にて

 

そこで: 父母を敬いなさい という十戒に従うように。 殆どの人がこの掟に従わないと どうしてこれほど多くのあなた方は驚くのか? 愚かで邪悪な考え方によって この子どもたちは道を逸れ 虚しい製品を崇拝するようになり、その霊は幼児期から怠惰の精神に満ちている。多くの両親は我が霊の あの永遠に尽きない泉を 子どもたちに与えなかった。 英知は昼夜となく彼らを呼んでいた、しかしこの世代は英知を締め出し、そして過ぎ行く日ごとに、あなた方の子どもたちは私へと連なる道からだんだん遠く離れて行った。 たとえ誰であろうと、若くとも年老いていようとも、私を彼らの神として認めるなら、私の面影を反射する、そして愛ゆえに、私に従い 敬うと同じようにして 彼らの両親にも従って行き 敬うであろう。 しかしこの世に適うあらゆることが子どもたちを堕落させ 私のもとに来れなくさせた。 愛が欠けている。 多くの両親は子どもたちが従順でないとこぼすが 私に対しても全く同じようにしている。 親、彼らは本当に十分善良で、忍耐があり寛容だと言い切れるか? これらの徳をすべて持ち合わせているなら 子どもたちにも従順の徳があり 両親のどちらをも敬うであろう。しかし言っておく: この世代の精神は空疎なために 暗やみが訪れてそれを満たした。 なぜなら彼らの目には哲学者と映る自分の姿のほうが 永遠に続く我が栄光より重要だからです。 こうして、聖性に欠ているため 情欲に駆られ あどけない若さのうちから出て行って 自分の身体を辱しめる。 ‘90・5−29はノート45に続く

*フリーメーソンの分派

 

 

 

3.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P62

 

現代社会のトラブルの多くは家庭の崩壊が原因です。母親も父親も忙しすぎて家にはいません。

子供たちが学校から帰って来ても、そこには

 自分たちを迎えてくれる人も

 かまってくれる人も

 励ましてくれる人も

 一緒に喜んでくれる人もいないのです。

 

子供たちは、自分たちを受け入れてくれる人

 愛してくれる人

 もとめてくれる人

 誇りに思ってくれる人を求めています。

 

そのような人がいなければ、子どもたちは路上をうろつきます。そこには子供を狙っている大人がたくさんいます。こうして子供は餌食になるのです。多くの憎しみと破壊は、子供と家庭のつながりが断ち切られたところに生じるのです。聖母とヨセフのように、わたしたちも子供を探しに出かけなければなりません。イエスが行方不明になったとき、彼らは来た道を戻って探しに行きました。決して座り込んで待っていたわけではありません。見つけ出すまで、休みも取りませんでした。

 わたしたちも子供を連れ戻し、彼らが愛されていることを感じさせなければなりません。

子供のいないところには希望もありません。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P70

 

 神はご自分の愛の証しをさせるため夫と妻と子供たちを家庭に送られました。かつて私は六歳か七歳の女の子を路上で保護し、「シシュ・バビン」(子供の家)に連れていきました。そこで、その子を風呂にいれ、着替えさせ、ごちそうをしました。ところがその晩、彼女は逃げ出しました。

 

二度、三度とその子は保護されましたが、その度に逃げ出すのです。

三度目のときは、シスターにあとを追ってもらいました。そのシスターはその子がお母さんと妹と一緒に木の下に座っているのを見つけました。小さな皿を前にして、お母さんは道から拾ってきたものを料理していたのです。

彼らはそこで料理をし、食事をし、眠るのです。

そこが彼らの家なのです。

 

それでその子が逃げた理由がわかりました。お母さんはその子を本当に愛しているのです。そして、その子もお母さんのことが大好きなのです。二人はお互いに、とても大切な存在なのです。

その子は「バリジャボ(ここがあたしの家なの)」と言いました。

お母さんこそ、彼女の家だったのです。

 

 

 

 

マザー・テレサ/愛するために/ドン・ボスコ社/P67

 

愛は家庭からはじまります。

もし四六時中ともに生活している人を愛せないのなら

どうやって一度しか会わない人を愛することができるでしょうか。

 

思いやりや親切によって

喜びを分け与えることによって

ほほえみを投げかけることによって

ささいなことを通してでも愛をあらわすことができます。

幼い子はなんの困難も障害もなく愛することができます。

だからイエスはこう言われたのです。

「幼な子のようにならなければ・・」

 

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P92

 

私は、自分の母のことを決して忘れません。彼女は一日中たいへん忙しくしているのが常でした。でも、いつも夕方になると、大急ぎで父を迎える支度をするのです。あのころは、子どもたちにはわかりませんでした。ですから私たちは母をからかって笑ったりしたものでした。けれど今思えば、母の父に対する愛は、なんとすばらしく、こまやかな愛だったことでしょう。何が起ころうと、母はほほえみながら父を迎える準備をしていたのです。

 

今日、私たちは時間がありません。お父さんもお母さんも忙し過ぎます。子どもたちが家に帰ってきても、そこには、彼らを愛してほほえみかけてくれる人がいないのです。ですから私は、共労者の方々にたいへん厳しいのです。いつもこう言っています。家族をまず優先してください。もしあなたが家庭にいなければ、どうやってあなたの愛が人々に向かって育っていくのでしょうか。

 

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P25

 

あなたの家族をほうっておいてはいけません。もっと、家にいるようにしましょう。今日多くの若者たちが誤った方向へ向かっています。彼らのおじいさんやおばあさんはどこかの施設に入っていますし、子どもたちが学校から帰ってきても母親は、家にいられないほど忙しいからです。つまり、家には子どもたちを受け入れて一緒に遊んでくれる人がだれもいないのです。それで、麻薬やお酒やその他いろいろな誘惑が待ち構えている路上へと出かけて行くのです。どこでも同じ状況です。すべてのことは、私たちがいかにお互いに愛し合うか、にかかっているのです。

 

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P15

 

 あなたの子どもたちの心に、家庭に対する愛の心を植えましょう。子どもたちが、たくさんの時間を家族と一緒に過ごすようにしましょう。もし人々がほんとうに家庭を愛するならば、私たち人間は多くの過ちを避けることができるでしょう。

 

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P29

 

自分の家庭の外で人々にほほえむことはたやすいことです。あまりよく知らない人をお世話することは、実はとても易しいことなのです。あなたの家の中で毎日会っている家族を、思いやりをもって、優しく、ほほえみを忘れずに愛し続けることはとても難しいことです。特に疲れていたり、イライラしていたり、機嫌が悪かったりする時はなおさらです。だれにでもそんな時があります。そんな時こそ、苦しむ姿のうちに救い主が私たちのところに来ておられるのです。

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P284

 

 もし私たちの家庭生活に困難があるとしたら、もし、私たちの家庭でそれほど多くの苦しみがあるのなら、それは、家族の生活が壊れてしまっているからです。そして、それは私たち自身の手で壊されてしまっているのです。破壊は内部からやって来ます。もし、それが外からのものであるならば、それを追いやることは簡単でしょう。けれど、破壊が内側からやって来る時、これはたいへん難しい問題です。だからこそ私たちには祈りが必要なのです。

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P46

 

カルカッタにはいくつかの目に見える『死を待つ人の家』があります。他の国では多くの若者が、目には見えない『死を待つ人の家』にいます。目には見えないけれど、それはほんとうのことです。放蕩息子のたとえ話をしている時、ニューヨークの男の子が私に言いました。「僕のうちではね、家族を捨てたのは息子じゃなくて父親の方なんだ」物的には何不自由なく育てているかもしれないけれど、子どもたちの目から見ると全く存在していないような両親が実際にいるのです。

 

 

 

 

4.デボラ

 

 

デボラ/生ける神よりあかされた英知/4巻上P139

 

聖母:「もしもこの私の運動の家族が真の平和を望むならば、女性は改心し、自分の家庭、子供、夫の謙遜なはした女とならなければなりません。私が彼女たちの模範となりましょう!もっと祈り、断食を実行し、神の子の聖なる神殿にふさわしくない古い服をぬいで、つつましい服装を着用しますように。

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

1987.7.23

 

私に奉献された家族

 

わたしは、司祭の母、その后となるように祈り求められるのを喜んでいます。同様に、わたしに奉献された家庭の母と后になるようにと祈り求められるのも喜んでいます。

 

 そうです、わたしは、すべての家庭の母であり、きさきなのです。わたしは、この家族の生活を守り、そのすべての問題を心にかけます。

 

 メンバーたちみんなの霊的利益だけではなく、物質的な利益も、はからってあげます。

 それは、あなたたちが、ある一つの家庭をわたしの汚れなき心に奉献するとき、その家の戸を開いて、天の母に入るように招くのと同じです。また、天の母が日ましに強い方法で母としての役目を果たすチャンスを与えるのと同じです。

 

 キリスト信者のすべての家庭が、わたしの汚れなき心に奉献されるようにと、わたしが望むのは、そのためです。

 

すべての家の戸が、わたしの前に開かれるように、わたしは願います。それは、わたしが、そこに入って、あなたたちの家に母として住みうるためです。

 

そのとき、わたしは、母として入り、あなたたちといっしょに住み、あなたたちの生活全体にあずかります。

 

まず第一に、わたしは、あなたたちの霊的生活の世話をします。

 家庭のすべてのメンバーが、いつも神の恵みのうちに生きるように導きます。

 

わたしが入るところから罪は出てゆきます。わたしが住むところには、神の恵みと光がいつもそこにあります。わたしが住いと定めたところでは、潔白と聖徳が、わたしと一緒に住んでいます。

 

この理由で、母としてのわたしの第一の役割は、家庭のメンバーたちに、神の恵みのうちに生きるように導いて、すべてのキリスト教的善徳の実行によって、聖徳の生活に成長させることにあります。

 

 結婚の秘跡が家族がいっしょに成長するために、特別な恵みを与えるので、わたしの役目は、家庭の一致を深くし、強め、良人と妻とが日ましに深い霊的まじわりを営むようになり、その人間的な愛を完成し、それをさらに完全にして、イエズスのみ心の中に導き入れ、ますます完全な新しい姿を形づくらせることにあります。

 

 その姿は、純粋に、超自然的な愛によって現れるのです。

 わたしは、そのうえに、家庭における心の一致をますます強めて、お互いにもっと理解するように導き、より純粋な深い交わりの新しい要求を感じさせます。

 

わたしは、家庭のメンバーたちを、聖徳と喜びの道に導きます。この道は、いっしょに作り、いっしょに進んでいかねばならないのです。こうしてはじめて、完全な愛に到達し、平和の貴重なたまものを味わうようになります。

 

このようにして、わたしは、わたしの子らの魂を教育し、家庭という道を通じて、聖徳の絶頂にまで導きます。わたしが家庭の中に入りたいのは、あなたたちを、聖なる者となし、完全な愛に導き、あなたたちのもとに残り、あなたたちの家庭的な一致をもっと豊かな強いものとするためです。つぎに、わたしは、奉献された家庭の物質的な世話もします。

 

 家庭の最も大きな宝は、子どもたちです。子どもこそ、イエズスと、わたしとの特別な愛のしるしなのです。子どもたちを、家庭の財産の最も貴重な宝石のように望み、受け入れ、養わねばならないのです。わたしが家庭に住むと、すぐ子どもの世話をして、その子どもたちは、わたしの子どもとなるのです。

 

神は、ひとりびとりのために、永遠の昔から、はっきりした計画をきめておられますが、わたしは、子どもたちの手をとって、神からきめられた計画を実現するための道に導きます。

 

わたしは、子どもたちを愛し、決して見すてることはありません。子どもたちは、母としてのわたしに財産の貴重な分け前です。

 

わたしは、また、特別にあなたたちの仕事の世話もします。あなたたちに、神のみ摂理が決してなくならないように、はからいます。

 

わたしは、あなたたちの手をとり、神が、毎日、あなたたちの人間的な協力をもって実現されるご計画に向かって開かせるでしょう。

 

わたしは、あの昔、ナザレトの小さな貧しい家の中で、母としてのわたしのけんそんな忠実な毎日の働きによって、おん父のご計画を可能にしていました。このわたしの働きによって、あなたたちを救うあがないの業の使命をになうおん子の、人間としての成長がとげられたのです。あのときと同じように、今も、わたしは、おん父のご計画に従うようにと、あなたたちに呼びかけます。そのご計画は、あなたたちの人間的な協力と、毎日の働きで実現されるからです。

 

天のおん父が、ご自分の役目を果たされるのと同じように、あなたたちも、自分の役目を果たさねばならないのです。

あなたたちの働きは、神のみ摂理と一致していなければなりません。それは、あなたたちの働きが生活を養い、家庭そのものを豊かにするよい実を結ぶことができるためです。

家庭のすべてのメンバーが、いつも霊的な、さらに物質的な繁栄を味わえますように。

 

それから、わたしは、神のみ旨のご計画を実現させるために、あなたたちを助けます。こうして、わたしはあなたたちの仕事が霊的にますます豊かなものとなるようにします。

 なぜでしょう? それは、仕事があなたたちにとって、功徳の泉となり、わたしの迷った多くの子どもたちを救うチャンスとなるためです。

 こうするなら、あなたたちの家では、働くことは愛に、仕事は祈りに、そして苦労はますます大きな愛徳への熱望へと結ばれるのです。

 このように、おん父のみ旨に協力することが、あなたたちを通して毎日具体化していく神の摂理の傑作をつくりあげることになります。

 

 恐れてはなりません。わたしのいる所には、わたしと共に安全さがあるのです。決して、乏しいことはないでしょう。わたしは、あなたたちの活躍をいっそう安全なものとし、あなたたちの仕事そのものを清めます。

わたしは、あなたたちの心配をみんな、わたしのものとして、ひきうけます。

 

こん日では、多くの心配が家庭の中にあるのを、わたしは知っています。

 あなたたちの心配であっても、それは、わたしの心配になります。あなたたちの苦しみも、ともに分けあいます。このために、わたしは、今の清めのこれほど困難な時期に、あなたたちの苦しみのすべてにあずかる悲しみの母として、わたしに奉献された家庭の中にいるのです。

 このことが、あなたたちにとって、慰めとなりますように。

 

今は、わたしの時です。今、あなたたちが生きているこれらの日々は、わたしの日々です。

それは、わたしが自分の強力な現存をもって、これらの時を特徴づけるからです。

 これからの時は、ますますわたしのものとなるでしょう。今、わたしの敵は勝利を得ていますが、今後は、わたしの勝利が拡大していって、悪魔のそれよりも強くなるでしょう。

 

 とくに、わたしの汚れなき心に奉献された家庭の中では、わたしの現存は、ますます強く、ますます目立ってくるでしょう。その家庭はみな、これに気づいて、あなたたちにとって、特別な慰めの泉となるでしょう。それで、信頼と希望、沈黙のうちに、そして毎日の仕事のうちに、祈りとけんそんのうちに、がんばってください。

 

 ますます深い清さと、正しい意向をもって進みなさい。心の平和と家庭の平和、それはむずかしい道ですが、この道をわたしと共に進みなさい。

 

 わたしがさし示した道をすべて歩み、今日わたしが語ったことに耳を傾けて、これを実行するなら、あなたたちの家庭は、わたしの勝利の最初の芽生えとなるでしょう。それは、小さな、かくれた沈黙の芽生えですが、もうすでに世界各地に生え出ています。そしてこのことは、すでに迫っている新しい時代とそのときを早めるかのようです。

 わたしは、あなたたちみなを力づけて祝福します。

 

 

 

 

6.スウェーデンボルグ

 

 

黙示録講解746ホ

 

自然的な意味において人間は教師と父と呼ばれて良いが、しかし表象的に呼ばれて良いのである、すなわち、世における教師は真理を実に教えはするが、しかし、主から教えるのであって、かれら自身から教えるのではなく、世における父は善良であり、その子供たちを善へ導きはするが、しかし、主から導くのであって、かれら自身から導くのではない。このことから以下のことが生まれている、すなわち、かれらは教師と父と呼ばれているけれど、それでも教師と父ではなく、主のみが教師と父であられる。

あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない、地上の者を『父』と呼んではならない(マタイ23・8−9)

 

 

 

天界と地獄344

 

 以上述べたところから、天界では小さな子供たちはいかように教育されるかが明白となるであろう。即ち、彼らは真の理知と善い知恵により、無垢[無邪気]を宿したところの主に対する愛と相互愛である天使たちの生命へ導き入れられるのである。しかし世の多くの者のもとでは子供たちの教育はいかにそれとは反したものであるかは以下の例から明白となるであろう。私はある大都会の街路にいて、小さな少年たちが互に喧嘩をしているのを見たが、群集はそのまわりに集まってきて、大喜びで眺め、両親自身さえもがその小さな少年たちをけしかけて、そうした喧嘩をさせているのであると私は言われたのである。善良な霊と天使たちとは私の眼を通してこうした事を見ると、私にはその恐怖が分かるほどの嫌忌を感じ、特に、両親がそうしたことへその子供たちをけしかけていることに嫌忌を覚えたのである。彼らは言った、このようにして両親たちは、子供たちが主から得ている相互愛と無邪気さとをその最初の時から消滅させて、彼らを憎悪と復讐へ引き入れ、従って彼ら自身の力を尽くしてその子供たちを相互愛以外の何ものでもない天界から閉め出しているのである、と。それゆえ、子供の幸を願っている両親たちよ、そうしたことは警戒されるように。

 

 

 

真の基督教23

 

 子供達と青年の中に、不可避的に三神の観念が連想されるところの三人の神的人格の観念を植えつけることは、彼らから凡ての霊的な牛乳を、凡ての霊的な食物を、凡ての霊的な理性を剥奪することであり、而して、若しその観念が確認されるならば、凡ての霊的生命を剥奪することであるということは真理である。

 

 

 

 

7.アグレダのマリア

 

 

アグレダのマリア/神の都市/P43

 

元后の御言葉

「被造物が理性を使うにあたり、神に最初に向かうのは永遠なる主の御旨に叶います。知ることにより、創造主にして唯一の真の主として主を愛し、畏敬し、誉め始めます。両親は子供たちの幼少の時から神の知識を与え、知識を育み、自分たちの究極の目的を知り、知能と意志を最初に使う時、知識を求めるように育てる義務があります。幼稚さや幼稚ないたずらから子供たちを遠ざけるようによく見張り、方向なしに放り出されたら、腐敗した性格になってしまうことをよく用心すべきです。父母がこれらの空虚なことや偏狭な習慣を注意してやめさせ、神と創造主の知識を幼少の時から教えるならば、子供たちはたやすく神を知り、崇めるようになるでしょう。私の聖なる母は私の知恵や状況を知らずに熱心でした。私を受胎した時、私の名前を使って創造主を崇め、私の創造を感謝し、私を守って出産の日の光に私をあてられるように祈願しました。両親は神に熱心に祈り、子供たちの霊魂が御摂理により洗礼を受け、原罪の枷から解放されるように願うべきです。もしも人間が、物心がついても創造主を知らず崇めないなら、信仰の光により不可欠な神を知らなければなりません。その瞬間から霊魂は神を決して見失わず、絶えず畏れ、愛し、敬うべく努力しなければなりません。」

 

 

 

 

8.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/この世に天国を/P75

 

 その子が心の奥底で、両親に愛されていることを知らなければ、憤りと拒絶感が深刻な、あからさまの反逆にまで発展してしまうこともあり得ます。幾千人もの若者が今日、そのわなに陥っています。その危機を乗り越えて成熟と本当の服従に至るのは、自分が愛されており、両親が自分のために最善のことを望んでいることを知っている若者です。