師
あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない、地上の者を『父』と呼んではならない(マタイ23・8−9)/
1.聖書
2.ヴァッスーラ
3.マリア・ワルトルタ
4.スウェーデンボルグ
1.聖書
マタイ10・24−25
弟子は師にまさるものではなく、僕は主人にまさるものではない。弟子は師のように、僕は主人のようになればそれで十分である。家の主人がベルゼブルと言われるのなら、その家族の者はもっとひどく言われることだろう。
マタイ23・8−12
だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ヨハネ13・13−15
あなたがたは、私を『先生』とか『主』とか呼ぶ。そう言うのは正しい。私はそうである。それで、主であり、師である私があなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合うべきである。私があなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのだ。
2.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P244
‘89・9・5
我がヴァッスーラ、あなたに抱くこの愛を感ずるがよい・・・ 我が慈しみは大きく 我が優しさは怒りを乗り越えた、私の道は聖である、娘よ、私は聖なるがゆえにあなたも聖となりなさい、我が耳にあなたの会話が楽の音と響くように。 知恵が、我が子よ、あなたを教え 教育する、空しい語らい、会話を避け、実り豊かでありなさい、我が教えの中から話しをするように。 私はあなたの相談相手 助言は常に私が与える。私の生徒は完全であってほしい、そこで完全でありなさい! うわさ話、空しい会話といった、あなたを引き下げるもの全てを不快と思うように。 あなたを愛するがゆえ 完全であってほしい。 私の現存を感じ我が反射となって私の栄光を讃え、代弁者となるように。 我が手のうちにある生徒は清く 教師の声に従わなければならない。 あなたには私の恵みがある、我が金言を守り それに従ってほしい、始めの時からあなたを いかに我が聖心に置いていたかを理解するように ♡ あなたには私の霊がある、あなたを祝福した 愛する者よ、勇気を持ちなさい、この全ては無駄ではない。 あなたは私を愛し、礼拝し 手を使わせてくれるだけでよい、私の木霊となるようにと願っている ♡
どういうことでしょう、主よ?
祈りの集いで我がメッセージを読み上げるように。 栄光を受けたと感じる。 しばしば黙想し 与える全てを受け入れなさい。 花よ、十字架を持ってあなたを訪れた、しばらく休む必要がある、我が十字架を担ってくれるか?
わが主よ、喜んで。
与えているものが何かを よく覚えていてほしい。 我が十字架は尊いもの、我が十字架を持ち上げなさい、後ほど肩から下ろしに訪れる、我が子よ、いつでも自由に用いさせてくれる霊魂を私は悦びとする、決して何であろうと拒まないでほしい、いつでも喜んで使わせてくれるように ♡ あなたの神 私のために
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P129
‘90・3・29
花よ 我が平和を与える、最後まで私の十字架を担いなさい。 あなたに抱く大いなる愛を、どの人間にも与え得ない愛を 決して何があろうと忘れないように、♡ 私がおだやかな師であると たえず覚えておきなさい。 こうしたやり方でそばに置いておくのを悦んでいる、特別な好意を示したがゆえに 歓びなさい! ヴァッスーラ あなたは祈っても 私を特に愛してもいなかった、あなたの不毛も冷淡さも 私は非難したことはない、それどころか 霊魂を思いやって 穴底より引き上げた。 これを、我が子よ、精神に焼きつけなさい、私 主はあなたを愛しているのです、さあ、いつの日か十分に理解するであろう、今は目を私に上げ 言いなさい:
「主に讃美! 神に栄光!」
私 主はあなたを祝福する
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P77
‘44.1.25
それからイエズスはわたしに言われる。
「わたしの授業にこれほど注意を傾倒する貴女を見ると、自分にとって全面的な『人知』であるその教師に対して勤勉で、懐いている女学生のように思われる。それに反して、貴女が自分で新しい部分を発見し、批判的見解(これはヴィジョンの中で)を述べる時、貴女は、父親にその小さな手を引かれ、導かれて行く善良な男の子をわたしに思い浮かばせる。父親は息子を前方に導きながら、彼が知恵において成長するように、見ることしか望まない。しかし同時に、幼い息子に、自分で新しい何かを発見する喜びを味わわせ、自らの考えにおいて成長するのを感じさせるために、口出しはしない。
こうするために、貴女は人間的な懸念を一掃していなければならない。ますます一掃するのだ。貴女は、凝視の小道を気後れせずにのびのびと歩いて行くために、ますます確信をもち、ますます平穏に、あなたの手を引いているわたしに全幅の信頼を寄せていなければならない。
父親はそれと気付かせはしないが、彼が息子に見せたいと願うあの一定のものを息子が見るまでは、そのために数限り無い、愛のこもる手を尽くす。おお! わたしはこの父親にも優って愛情深い父であり、わたしの小さい人たちにとり、どんな教師にも優って忍耐強く、その中の温順で注意深いひとりの手を引くことが出来る時、わたしは幸せだ。師であり、父であることの幸せだ。
わたしの子供たちが、わたしに導かれ、教えられるために、信頼をこめてその手をわたしの手に預け、『万事に超えて、またわたし自身のすべてを捧げてあなたを愛します!』と、わたしに言うのは何と難しいことか。何のためらいも無く心の底からこのようにすべて『わたしのもの』である僅かな子たちに、わたしは啓示の、また凝視の財宝を開き、何のためらいも無く、心の底からわたしを与える。
マリアよ、しかし、神を垣間見るために目覚めさせられ、導かれる必要のある人びとに、その様々な顕示によって、わたしの神性を広める役割のために貴女を選んだのだから、貴女が見ていることを繰り返すに当っては、極度に用意周到であることを思い出しなさい。どんなくだらない一句にも或る価値があるし、しかも貴女の一句ではなく、わたしの一句なのだ。だからそれをあなたが押さえておくのは正当ではない。不誠実であり利己的だといえよう。貴女は、皆がその水を汲みに来るためにそこに流れ込む神聖な水の貯水槽だということを思い出しなさい。
書き取りにおいて貴女は最高に忠実な忠実さに達した。凝視によって貴女は多くのことを見るが、書き急ぐために、あるいは貴女の健康や環境など特別な状況もあって、若干、細部を省いてしまうことがある。それをしてはいけない。ページの末尾に書き込んでおき、全部に印を付けておきなさい。叱っているのではなく、貴女の先生の優しい助言なのだ。
数日前、貴女はわたしに言った、『人びとが、すべてわたしの苦労とわたしの人生を正当化し、払い直しているわたしを通して、もう少しあなたを愛するようになればいいのに。たった一人でもいいから、あなたの<隠れた菫>を通して、あなたのもとへ戻ってくれたら、菫は幸せでしょうに』と。
あなたがより注意深く、より几帳面であればあるほど、わたしのもとに来る人たちの数は夥しいだろうし、貴女の現在の霊的幸福と未来永劫の幸福もまたより大きいだろう。
平安に行きなさい。あなたの主はあなたと共にいる」。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P134
勝利を得る者には、いのちの木の実をたべさせよう(黙示録2・7)
‘43年8月18日
わたしは天の高みからもはや遠くない住まいを定め―そしてわたしたちは一つだから父と聖霊はわたしと共に―わたしは語る。わたしはわたしを愛する心に住まい、そこではわたしの言葉はもはや囁きではなく、満ち渡る声で語り、それはもはや切り離されず、連綿と持続する。その時、わたしは真の『師』である。わたしは二十世紀にわたって倦むことなく群集に話しかけ、そして今、それに耳を傾けるすべを知り、わたしが恩寵の運河にする愛する者たちに語ることを無上のよろこびとする者である。
4.スウェーデンボルグ
黙示録講解735[2]
特にミカエルについては、文字の意味からミカエルは首天使の一人であると信じられているが、諸天界には首天使は一人としていないのである。実に、高い天使と低い天使とがおり、また賢い天使とそれほど賢くない天使がおり、天使たちの諸社会には他の者の上に遍く置かれている総督[治める者]がいるが、それでも何らかの権威により他の者たちが服従するように義務ずけられている首天使はいないのである、なぜならそこのたれ一人主のみを除いてはいかような者をも自分自身よりは上にあるものとしては承認しないからであり、このことがマタイ伝における主の御言葉により意味されていることである―
あなたらは教師と呼ばれてはならない、なぜならあなたらの教師は一人であり、キリストであるが、あなたらは凡て兄弟であるからである。地上ではいかような人間もあなたらの父と呼んではならない、なぜならあなたらの父は一人であり、諸天界の中におられるからである。あなたらは教師と呼ばれてもならない、あなたらの教師は、キリストは一人であるからである。あなたたちの間で最大の者はあなたらに仕える者ちならねばならない(23・8−11)。
(中略)
ミカエルの名は、それがヘブル語から派生していることから、「その者は神に似ている」を意味しており、それゆえミカエルはかの神的真理に関連した主を意味し、すなわち、主から主に対する愛の中に、隣人に対する愛の中に生きなくてはならないという神的真理に関連した主を意味している、ミカエルはまたダニエル書に言われており(10・13、21、12・1)、そこではここと同じように、聖言から発した純粋な真理を意味しており、それは主により設立されることになっている教会に属している者たちのために存在するものである、なぜなら『ミカエル』は新しいエルサレムの教義を支持する者たちを意味しているからであり、その教義の本質的なものは、主の人間的なものは神的なものであり、愛と仁慈との生命が存在しなくてはならないということである。