あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない、
地上の者を『父』と呼んではならない
(マタイ23・8−9)
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.聖母から司祭へ
1.聖書
マタイ23・5−12
そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
ヨハネ13・13−15
あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義3010
ここからマタイ伝の『いくたのキリスト』により意味されていることが明白である―
たれもあなたたちをたぶらかさないように注意しなさい。なぜなら多くの者がわたしの名において来て、わたしがキリストであると言って、多くの者をたぶらかすからである。そのときもしたれかがあなたたちに向かって、見よ、キリストはここに、またはそこにおられると言っても、それを信じてはならない。偽キリストがいく人も、偽予言者がいく人も起るからである(24・4,5,23,24、マルコ13・21,22)。
ここには『偽キリスト』により神的なものでない真理がまたは誤謬が意味され、『偽予言者』によりそれを教える者が意味されている(2534番)。さらに―
あなたたちは師と呼ばれてはならない、なぜならあなたたちの師は一人であり、じつにキリストであるからである(23・10)。
『キリスト』は真理の神的なものを意味している。ここから基督教徒とは何であるかが、すなわち、それは善から真理の中にいる者であることが明白である。
天界の秘義3703[7]
すべてこれらの記事には、文字の意義では、『父と母』により父と母が意味されているが、しかしその内意では善と真理が意味され、その最高の意義では神的善と神的真理との方面の主が意味されているのである。このことは主御自身もまたマタイ伝に教えられるところである―
イエスはその両手を弟子たちにのばされて言われた、見なさい、わたしの母を、わたしの兄弟たちを、たれでも天におられるわたしの父の御意志を行う者は、その者こそ、わたしの兄弟、姉妹、母である(12・49)。
さらに―
あなたたちは先生[師]と呼ばれてはならない、あなたたちの先生は一人であり、キリストである、あなたたちはすべて兄弟である。地上であなたたちの父と呼んではならない、あなたたちの父は一人であられ、かれは天におられるからである(23・8,9)。
地上で先生[師]と呼ばれ、父と呼ばれることがここに禁じられているのではなく、禁じられていることは主以外の父をたれか心で承認することであり、すなわち、『先生』『父』と言われるとき、主が理解されなくてはならないのであって、主がかれらによりその最高の意義の中に意味されているのであり、このことは天的な人であった最古代の人々について前に言われたことに応じているのである(3702番)、すなわち、何であれかれらが地上で認めたものはことごとくかれらには主について考える手段となったのである。
天界の秘義6756[5]
古代では教会にぞくした者たちがかれら自身を『兄弟』と呼んだことは、前に言ったように、かれらは主をただ一人の父として承認したためであり、また主からかれらは新しい霊魂と新しい生命を得たためであった。それで主は言われている―
あなたらはラビと呼ばれてはならない、あなたらの師は一人であり、実にキリストであり、あなたらはすべて兄弟であるからである(マタイ23・8)。
霊的に兄弟であることは愛から発しており、すなわち、一人が他のものとなろうとする愛から発しており、善の中にいる者たちは「主の中におり、主はその者たちの中におられる」ため(ヨハネ14・20)、かれらは主から「兄弟たち」と呼ばれているのである。
イエスはその御手を弟子たちの方へのべられて言われた。見なさい。わたしの母とわたしの兄弟たちを。たれでも天におられるわたしの父の意思を為す者はことごとく、わたしの兄弟、姉妹、母であります。(マタイ12・49,50)
あなたらはこのわたしの兄弟たちの中で最も小さい者の一人にそれをなしたかぎり、それをわたしに為したのである。(マタイ25・40)
そして主はまたその弟子たちを「兄弟」と呼ばれているのである。
恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。(マタイ28・10)
わたしの兄弟たちのところへ行ってこう言いなさい。(ヨハネ20・17)
「弟子」によりその表象的な意義では信仰の諸真理と愛の善の中にいる者が凡て意味されているのである。
黙示録講解746ホ
「主を承認し、主から仁慈の善の中にいる者たちは凡て主により『兄弟たち』と呼ばれていること」は以下のことから生まれている、すなわち、主は凡ゆる者の父、凡ゆる者の教師であられ、父としての主から仁慈の凡ゆる善が発しており、教師としての主からかの善の凡ゆる真理が発しているのである。それゆえ主はマタイ伝に言われている―
あなたらは教師と呼ばれるな、あなたらの教師は一人であり、キリストである、あなたらは凡て兄弟である。いかような人間をも地ではあなたらの父と呼ぶな、なぜなら諸天界におられるあなたらの父は一人であられるからである(23・8,9)。
このことから主の御言葉は霊的に理解されなくてはならないことが明白である、なぜなら教師であるたれが教師と呼ばれないであろうか、または父であるたれが父と呼ばれないであろうか。しかし『父』は善を意味し、『天における御父』は神的善を意味するように、『教師』または『ラビ』は真理を意味し、『教える方、キリスト』は神的真理を意味するように、聖言の凡ゆるものにおける霊的な意味のため、『たれ一人をも地上ではあなたらの父と呼ぶな、またいかような者も教師と呼ぶな』と言われており、すなわち、霊的意味において言われていて、自然的な意味においては言われてはいないのである。
自然的な意味において人間は教師と父と呼ばれて良いが、しかし表象的に呼ばれて良いのである、すなわち、世における教師は真理を実に教えはするが、しかし、主から教えるのであって、かれら自身から教えるのではなく、世における父は善良であり、その子供たちを善へ導きはするが、しかし、主から導くのであって、かれら自身から導くのではない。このことから以下のことが生まれている、すなわち、かれらは教師と父と呼ばれているけれど、それでも教師と父ではなく、主のみが教師と父であられる。
『呼ぶこと』と『名を呼ぶこと』は聖言においてはたれでもその性質を認めることである。天界における、また教会における凡ての者は主の弟子たちと子であり、主はかれらの教師、かれらの父であられるため、主は『あなたらは凡て兄弟である』と言われている、なぜなら主は天界における、また教会における凡ての者を、かれらが主から発する愛により、かくて仁慈である相互愛から共に交わっていることから、『息子と後継者[相続人]』と呼ばれているからである、それゆえかれらが兄弟であることは主から発している。このように凡ての者は主における兄弟であると普通に言われていることは理解されなくてはならない。
黙示録講解746ヘ
このことからまた主はたれを『兄弟』により意味されているかが明らかである、すなわち、主を承認し、主から仁慈の善の中にいる凡ての者、従って主の教会に属している凡ての者である。
黙示録講解966
十戒の第四の戒めは、両親は尊ばれなくてはならない、である。
この戒めが与えられたのは、両親に対する尊敬は主に対する愛と隣人に対する愛を表象し、かくて意味したためである、なぜなら天界の意味における『父』は、すなわち、天界の父は主であられ、天界の意味における『母』は、すなわち、天界の母は教会であるからである、『尊敬』は愛の善を意味し、かれらが得る『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味している。そのようにこの戒めは天界で理解されており、そこでは主以外にあいかような父も知られておらず、教会でもまたある主の王国以外にはいかような母も知られてはいないのである。なぜなら主は主御自身から生命を与えられ、教会を通して栄養を与えられるからである。天界の意味においては世における父は意味されることはできないのであり、実に人間が天界の観念[考え]の中にいるときは、父は言われることができないことを主はマタイ伝に教えられている―
人間を地上であなたらの父と呼んではならない、なぜなら諸天界におられるあなたらの父は一人であられるからである(23・9)。
『父』は神的善の方面の主を意味していることは前に見ることができよう(32、200、254、297番)。『母』は主の王国、教会、神的真理を意味していることは「天界の秘義」の中に見ることができよう(289、2691、2717、3703、5581、8897番)、『日々の長いこと』は永遠の生命の幸福を意味し(8898番)、『尊敬』は愛の善を意味している(8897、前の288、345番)。この凡ては第三と第四の戒めは主に関係しているアルカナ[秘義]を、すなわち、主の神的なものを承認し、告白することを、愛の善から主を拝することを含んでいることを明らかにしている。
黙示録講解735
[2]とくにミカエルについては、文字の意味からミカエルは首天使の一人であると信じられているが、諸天界には首天使は一人としていないのである。実に、高い天使と低い天使とがおり、また賢い天使とそれほど賢くない天使がおり、天使たちの諸社会には他の者の上に遍くおかれている総督[治める者]がいるが、それでも何らかの権威により他の者たちが服従するように義務ずけられている首天使はいないのである、なぜならそこのたれ一人主のみを除いてはいかような者をも自分自身よりは上にあるものとしては承認しないからであり、このことがマタイ伝における主の御言葉により意味されていることである―
あなたらは教師と呼ばれてはならない、なぜならあなたらの教師は一人であり、キリストであるが、あなたらは凡て兄弟であるからである。地上ではいかような人間もあなたらの父と呼んではならない、なぜならあなたらの父は一人であり、諸天界の中におられるからである。あなたらは教師と呼ばれてもならない、あなたらの教師は、キリストは一人であるからである。あなたたちの間で最大の者はあなたらに仕える者ちならねばならない(23・8−11)。
3.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1975.10.24
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