教師

あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない、地上の者を『父』と呼んではならない(マタイ23章)

神の言葉への飢え

 

1.聖書より

2.師

3.よい先生にだけ従うこと

4.聖母から司祭へ

5.聖言によって真理を教え、かくして生活の善と天界とに至る道を示す教職者は、霊魂の幸福を慮り、極めて仁慈に富んだ者

6.真理は教えを与える教職者たちによらなくては注ぎ入れることは出来ない

 

 

1.聖書より

 

マタイ23・5−12

 

そのすることは、すべて人に見せるためである。聖句の入った小箱を大きくしたり、衣服の房を長くしたりする。宴会では上座、会堂では上席に座ることを好み、また、広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好む。だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなたがたの師は一人だけで、あとは皆兄弟なのだ。また、地上の者を『父』と呼んではならない。あなたがたの父は天の父おひとりだけだ。『教師』と呼ばれてもいけない。あなたがたの教師はキリスト一人だけである。あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。

 

ヨハネ13・13−15

 

 あなたがたは、わたしを『先生』とか『主』とか呼ぶ。そのように言うのは正しい。わたしはそうである。ところで、主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。

 

 

2.師

 

天界の秘義2921

 

完全な合一は十字架の試練であるその最後の試練により成就されたのであり、そうした理由から復活の後で、弟子たちはかれを主と呼び、トマスは「我が主よ、我が神よ」と言ったのである(ヨハネ20・28)。主は旧約聖書で再三記されているエホバであられたため、それで主はまた弟子たちに言われたのである―

あなたたちはわたしを師または主と呼んでいるが、その言葉は正しい、わたしは(その者で)在るからである(ヨハネ13・13,14,16)。

これらの言葉はかれは神エホバであられたことを意味している、なぜならかれはここでは善の方面では『主』と呼ばれ、真理の方面では『師』と呼ばれたもうからである。主はエホバであられたこともまた天使たちが羊飼いたちに言った言葉によっても意味されている―

あなたがたに今日救い主が生まれたもうた、かれは主、キリストであられる(ルカ2・11)。

 

 

天界の秘義9167

 

『主人』が善を意味していることは、霊的な人にあっては善は第一位に立ち、真理は第二位に立っているためであり、第一位に立つものは主人である。さらに人間のもとでは真理は凡て、丁度家がその主人により処理[配置]されるように、善の性質に順応して処理されている。ここから聖言では『主[主人]』により神的善の方面の主が意味され、『神』『王』『師』により神的真理の方面の主が意味されているのである。

 

3.よい先生にだけ従うこと

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P368

 

「(前略)ある思想を抱く場合は、その思想と教えを同時に受け入れるものだ。おれは、そう思っている。おれの先生の場合もそうだ。彼の思想はおれの思想、彼の望みはおれの法律なんだ」

「事実よい弟子はそうしています。けれど先生がよいかどうかよく弁別して、よい先生にだけ従うことを知るべきです。一人の人間を敬愛して自分の霊魂を失うことは許されません」

 

 

4.聖母から司祭へ

 

聖母から司祭へ1980.11.14

 

 私は、あなたがたの母です、そして教師です。

 私が、神のみことばを受け入れたように、また、これを守り、これに生きたように、今も、私の小さな子らであるあなたがたみんなに、神のみことばを受け入れさせます。また守らせ、これに生きるようにさせてあげます。

 それで、あなたがたは、文字どおりに、神のみことばに生き、これをのべ伝えなければなりません。

 私が、あなたがたみんなに、福音宣教の情熱を分かちたいのは、そのためです。福音の光をうけて、世界のあらゆる国民に福音を述べ伝えなさい。私はすべての国民の母であり、教師です。わたしの汚れなき心の完全な勝利は、私がすべての人を、私のおん子イエズスの所に連れていくそのとき、はじめて実現できます。

 

 

5.聖言によって真理を教え、かくして生活の善と天界とに至る道を示す教職者は、霊魂の幸福を慮り、極めて仁慈に富んだ者

 

真の基督教422

 

「仁慈は官職、職業に於て接触する凡ゆる人々に対し、正当に忠実に行動することである。」

 仁慈とは官職、業務、或は職業に於て正当に忠実に行動することである。それは、そのように行なわれる物は凡て社会に有用であり、用は善であり、而して抽象的な善は隣人であるからである。個人のみでなく、また人間の社会、国家そのものが隣人であることは上述した。例えば、或る王はその臣下に良い模範を示し、法律を守る者に報い、各人をその功績に従って待遇し、その凡ての臣下を危害と侵略から守り、彼らの父として行動し、一般の繁栄を欲する。このような王はその心に仁慈を持ち、その行為は良い業である。聖言によって真理を教え、かくして生活の善と天界とに至る道を示す教職者は、霊魂の幸福を慮り、極めて仁慈に富んだ者である。賄賂も取らず、偏った裁判も為さない正しい司法官は社会と個人との善を慮る。即ち、彼は法律に対する従順とそれを犯す恐怖を教える故、社会の善を慮り、また、公正が不正に勝利する故、個人の善を慮る。決して顧客を欺かずまた偽らない正直な商人は、その隣人の善を慮る。凡ゆる職工、水夫、農夫、召使、実にその仕事を正直に忠実に行う凡ての者も同様である。

 

 

6.真理は教えを与える教職者たちによらなくては注ぎ入れることは出来ない

 

天界の秘義6822

 

 教会は国家以上に隣人である、なぜなら教会を顧慮する者はその国にいる人間の霊魂と永遠の生命をまた顧慮するからである。そして教会は人間が善に導かれるとき顧慮されるのであり、仁慈からそのことを為す者は隣人を愛するのである、なぜなら彼は他の者のために天界と永遠に至る生命の幸福とを願い、また欲しているからである。善は他の者の中へその国のたらからも注ぎ入れられることは出来るが、しかし真理は教えを与える教職者たちによらなくては注ぎ入れることは出来ないのである、もし教職者以外の者がそのことを行うなら、異端が起り、そのため教会は混乱して、分裂してしまうのである。もし教会のものである真理を通して隣人が善へ導かれるなら、仁慈は実践されるのである。もし教会の中で善から離反させるものが何か真理と呼ばれるなら、これは口にするには価しないものである、なぜならそれは真理ではないからである。各自先ず自分自身のため教会の教義から真理を得、後には主の聖言からそれを得なくてはならない、それが彼の信仰の真理とならなくてはならない。