宗教教育
1.聖書より
2.ヴァッスーラ
3.カインとアベル
4.アグレダのマリア
5.神礼拝は凡て、神は善い者に報い、悪い者を罰しられるという思いのこもった聖い恐れから必ず始まらなくてはならない
6.マリア・ワルトルタ
7.主はその人間の知っているその事柄の中へ流れ入られはするが、彼の知ってはいない事柄の中へは流れ入られはしない
8.カテキズム(公教要理)
9.処女たち[娘たち]は他生で、また天界でいかように教育されるか、について
10.幼児の教育について
11.人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ない
1.聖書より
申命記6・4−8
聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
申命記11・13−21
もしわたしが今日あなたたちに命じる戒めに、あなたたちがひたすら聞き従い、あなたたちの神、主を愛し、心を尽くし、魂を尽くして仕えるならば、わたしは、その季節季節に、あなたたちの土地に、秋の雨と春の雨を降らせる。あなたには穀物、新しいぶどう酒、オリーブ油の収穫がある。わたしはまた、あなたの家畜のために野に草を生えさせる。あなたは食べて満足する。あなたたちは、心変わりして主を離れ、他の神々に仕えてそれにひれ伏さぬよう、注意しなさい。さもないと、主の怒りがあなたたちに向って燃え上がり、天を閉ざされるであろう。雨は降らず、大地は実りをもたらさず、あなたたちは主が与えられる良い土地から直ちに滅び去る。あなたたちはこれらのわたしの言葉を心に留め、魂に刻み、これをしるしとして手に結び、覚えとして額に付け、子供たちにもそれを教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、語り聞かせ、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。こうして、主が先祖に与えると誓われた土地にあって、あなたたちとあなたたちの子孫の日数は天が地を覆う日数と同様、いつまでも続くであろう。
詩篇78・4−6
子孫に隠さず、後の世代に語り継ごう
主への賛美、主の御力を 主が成し遂げられた驚くべき御業を。
主はヤコブの中に定めを与え イスラエルの中に教えを置き
それを子孫に示すように わたしたちの先祖に命じられた。
子らが生まれ、後の世代が興るとき 彼らもそれを知り
その子らに語り継がなければならない。
子らが神に信頼をおき 神の御業を決して忘れず その戒めを守るために
先祖のように頑なな反抗の世代とならないように
心が確かに定まらない世代 神に不忠実な霊の世代とならないように。
箴言1・2−4
これは知恵と諭しをわきまえ
分別ある言葉を理解するため
諭しを受け入れて
正義と裁きと公平に目覚めるため。
未熟な若者に熟慮を教え
若者に知識と慎重さを与えるため。
箴言1・8−9
わが子よ、父の諭しに聞き従え。
母の教えをおろそかにするな。
それらは頭に戴く優雅な冠
首にかける飾りとなる。
箴言22・6
若者を歩むべき道の初めに教育せよ。
年老いてもそこからそれることがないであろう。
箴言22・15
若者の心には無知がつきもの。
これを遠ざけるのは諭しの鞭。
箴言23・13
若者を諭すのを控えてはならない。
鞭打っても、死ぬことはない。
2.ヴァッスーラ
天使館/ジャック・ネランク/あなたは預言を無視しますか―現代の預言者ヴァッスーラに聞く/P215
(ヴァッスーラ):聖母マリアはメッセージの中で、私たちの子供に、もっとも早い時期から宗教教育をする必要があるとおっしゃっています。だからといって、子供たちの自由を侵害してはなりません。かえって逆効果になるかもしれませんから。信仰は、霊魂の能力に応じて教えるべきです。コップと同じように、小型のものと大型のものがあります。コップを満たさなければなりませんが、あふれさせてはなりません。小さなコップには、大きなコップと同じ容量はありません。子供に宗教教育をほどこすには、こんな風にやる必要があります。けれどもそれまで一度も教えずに、ずっと大きくなってから、十五、六歳になって初めて教えても、若者を信仰に導くのはとても難しいのです。子供たちは両親が強要するから、いやいやながら信心するでしょう。そして最後には、しぶしぶ信心するようになるでしょう。私の息子の場合は、私が回心した時には十歳と十五歳でした。十五歳の長男は、まったく耳を傾けませんでした。でも十歳の次男は、信仰の中で教育する余地がありました。
(ネランク):大人になった時に、自由に宗教を選択させるために、子供たちにまったく宗教教育をほどこさないよう強く勧める教育理論があります。
(ヴァッスーラ):それは絶対にうまくゆくわけがありません。もっと極端な説もあって、子供たちが大人になるまで、宗教選択の自由を残しておくために、子供たちに洗礼を受けさせないことを勧めています。私が同意しないのは、子供たちがあとで拒絶するようになるからです。なぜでしょう? なぜなら、自分たちの知らない信仰については、何の考えも浮かばないからです。ごく幼い頃から教育していれば、すべてを考慮した上で、自分たちの知っている信仰を自由に拒絶することができます。それこそが、本当の選択の自由です。その上、宗教教育を受けていれば、信仰の萌芽はすでに蒔かれたことになり、たとえ深いものではなくとも、なにがしかの霊的な経験を持つことになります。それは子供たちにとっては、良いことづくめです。私は若い人たちに、ぜひとも祈ってほしいと思います。もし両親が信者としての務めを、義務や社会的訓練からではなくきちんと果たし、自分たちは神において生きていると本当に考えていれば、普通ならその家庭は子供と一緒にロザリオの祈りを唱えるでしょう。私はそのような家庭をいくつも知っています。それらの家庭は、本当に子供と共に愛と一致の中で生きています。もし子供たちがロザリオの祈りは黙想の実践だということをまだ理解することができず、反復が多くてうんざりするようなら、一連の祈りだけにとどめておくべきです。私の場合は聖母マリアに取りなしをお願いしました。マリア様の前で、子供たちの信仰教育ができていないのは私のせいだということを認め、それでもマリア様の助けを必要としていることを認めました。息子たちを聖母マリアに捧げましたら、マリア様はすべてのことを行なってくださいました。祈りの生活に彼らを連れ戻すために、いくつもの奇跡を行ってくださったのです。(中略)
(ネランク):子供たちには、そしてそのあと若者には、いつ頃から、どのようにして聖書を読ませればよいでしょうか?
(ヴァッスーラ):宗教教育をほどこす学校があれば、八歳か九歳になったらすぐに読ませるべきでしょう。
(ネランク):宗教的な儀式は、とりわけ大人のためのものですが、何歳から子供たちを連れて行けばよいでしょう?
(ヴァッスーラ):何の儀式でしょう? ミサですか?
(ネランク):たとえばミサです。ミサに連れていくことに意義はあるのでしょうか。また何歳から連れて行けばよいでしょう? 子供たちを強制する必要はありますか?
(ヴァッスーラ):ギリシャ正教の教会では、ミサに出席するのに、年齢は問いません。赤ちゃんも二歳の乳幼児もいますが、静かにしています。子供ですのでおそらく聞いているわけではないのでしょうけれど、慣れています。子供たちは次第に慣れてゆきます。私はできるだけ早い方がよいと思います。
(ネランク):思春期にあたる十五歳頃になって、若者がひどく反抗的な態度を示すようになったら、彼らをそっとしておかなければならない時期はありますか?
(ヴァッスーラ):その子に道理を説き聞かせる必要があります。たとえ学校に反抗しても、勝手に退校させて、まったく教育を受けさせないようなことはあってはなりません。両親は、学校へ行くように一生懸命言い聞かせます。それに、祈らなければなりません。祈りには力があるのですから。反抗している子供のために祈れば、神は結局、私たちの願いを聞き届けてくださいます。
(ネランク)もっと一般的に言って、まだ学業を続けているか、あるいは終了したばかりの成人になって間もない若者たちの間では、信仰を棄てることが当たり前のようになっています。所属する宗派の信仰上の務めを定期的に果たしている若者は十人のうちの一人、あるいは二十人のうちの一人もいないくらいです。そのような状況にもかかわらず、若者たちに宗教への関心を持たせようとしている人々に、何かアドバイスをすることは在りますか?
若者たちの無関心にぶつかるのがふつうです。若者は宗教にまったく無関心でまったく無知です。どうすれば彼らを引き寄せることができるでしょうか?
(ヴァッスーラ):私は、若い人たちは無知なのだと思います。どちらかというと否定的です。無知には、否定的な意味が含まれています。なぜなら彼らは、宗教は老人のためのものだという印象を持っていますから。それはまったく間違っています。若い人たちは宗教は退屈なものだと思いこんでいます。とんでもない間違いです。いったん神と出会えば、必ずや、彼らは喜びを見いだすでしょうから。私たちを最も愛してくださっている御方と出会って、完全に人生が変わったのを見るのです。ですから神と出会う努力をしなければなりません。
3.カインとアベル
黙示録講解427イ
アベル・・・仁慈の善
カイン・・・信仰の真理
『エホバはカインの上に、彼が殺されてしまわないように、ある印を付けられた』
エホバは彼を他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成するような事柄に関わる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ないからである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。
このことから『エホバはカインの上に、たれも彼を殺さないように、またたれであれ彼を殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることが出来よう。さらに、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、すなわち、信仰を構成しているような事柄に関わる知識の中にいる者らは ― かれらは『カイン』により意味されている人物または信仰であるが ― これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために ― そのことを彼らは記憶から行うのであるが ― 保持されるのである。
4.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P43
元后の御言葉
「被造物が理性を使うにあたり、神に最初に向かうのは永遠なる主の御旨に叶います。知ることにより、創造主にして唯一の真の主として主を愛し、畏敬し、誉め始めます。両親は子供たちの幼少の時から神の知識を与え、知識を育み、自分たちの究極の目的を知り、知能と意志を最初に使う時、知識を求めるように育てる義務があります。幼稚さや幼稚ないたずらから子供たちを遠ざけるようによく見張り、方向なしに放り出されたら、腐敗した性格になってしまうことをよく用心すべきです。父母がこれらの空虚なことや偏狭な習慣を注意してやめさせ、神と創造主の知識を幼少の時から教えるならば、子供たちはたやすく神を知り、崇めるようになるでしょう。私の聖なる母は私の知恵や状況を知らずに熱心でした。私を受胎した時、私の名前を使って創造主を崇め、私の創造を感謝し、私を守って出産の日の光に私をあてられるように祈願しました。両親は神に熱心に祈り、子供たちの霊魂が御摂理により洗礼を受け、原罪の枷から解放されるように願うべきです。もしも人間が、物心がついても創造主を知らず崇めないなら、信仰の光により不可欠な神を知らなければなりません。その瞬間から霊魂は神を決して見失わず、絶えず畏れ、愛し、敬うべく努力しなければなりません。」
5.神礼拝は凡て、神は善い者に報い、悪い者を罰しられるという思いのこもった聖い恐れから必ず始まらなくてはならない
天界の秘義6071[5]
同じく以下の真理を導入されたい、即ち、神礼拝は凡て、神は善い者に報い、悪い者を罰しられるという思いのこもった聖い恐れから必ず始まらなくてはならない。単純な者と小さな子供たちは、また許しとは何であるかを悟らないため―実に『むしろ地獄で身体も霊魂も滅ぼすことの出来る者を恐れよ』(マタイ10・28)という主の御言葉に従って、そのことを信じなくてはならないのである。そして彼らが恐れを通して敢えて悪を為さないことにより(信仰生活を)始める時、徐々に善と共に愛が導入され、かくて彼らは善以外には何ものも神から発しないし、悪は彼ら自身から発していることを知り、認め、最後には悪は凡て地獄から発していることを知り、認め始めるのである。
6.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P56
これらの骨は生き返るのか? (エゼキエル書37・1−14)
45年4月15日
『わたしたちはもうその時代には生きていないだろう』と言ってはならない。あなたたちではなく、あなたたち皆ではない。だが、自分のことしか考えないのは愚かで愛徳に欠けることである。無神論者の父からは無神論者の息子が生まれる。無気力な父親からは無気力な息子が生まれる。そして彼ら、あなたたちの子供たちや、そのまた子供たちは、あの時のためにどれほど多くの霊的力を必要とすることだろう!
結局、子供たちや孫たちの幸せを用意してやるのは人間的な愛の掟なのだ。現世的なことがらについて示す努力よりも、霊的なことに関して為す努力をそこそこにしてはならないし、子供たちがあなたたちよりも幸せな日々を送れるように、彼らに財産を与え、あるいはそれを残すために努めるよりも、彼らに霊的な力を遺産として残すために骨を折りなさい。世とルシフェルとの最終的な戦いの雹が、地獄のほうがまだましだと思われるほどの残忍さで人類を鞭打つとき、彼らが霊的な力をふんだんに持つために働き、その力を増加させることが出来るように。
地獄! 人類はそれを体験するだろう。そのあと、霊魂に忠実な人々には楽園が到来するだろう。現世ではない地球、すなわち天の王国が到来するだろう。」
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3P91
正しいことを話しなさい。息子や娘に正しい教育を与えなさい。“そうしないと、娘のために、あなたは敵の笑い物になり、町の噂の種、おしゃべりの種になり、皆の前で面目を失うことになるかもしれない”(*)また、あなたの娘の霊魂が死なないようにしなさい。
*シラ42・11
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P135
幼な子たちをキリストの信仰のもとに育てなさい・・・
7.主はその人間の知っているその事柄の中へ流れ入られはするが、彼の知ってはいない事柄の中へは流れ入られはしない
天界の秘義9088〔2〕
この間の実情は以下のごとくである、もし善または真理が誤謬により歪められつつあるなら、その時は歪められたものは真理により匡正されなくてはならないのである、即ち、教会の中では聖言から発した真理により、または聖言から発した教義により匡正されなくてはならないのである。それがそうでなくてはならない理由は、真理は何が悪いか、何が誤っているかを教え、そのことによってその人間はそれを認め、承認し、そして認め、承認すると、その時彼は匡正されることが出来るということである。なぜなら主はその人間の知っているその事柄の中へ流れ入られはするが、彼の知ってはいない事柄の中へは流れ入られはしないのであり、それで主はその人間がそれが悪であり、または誤っていることを教えられない中は、悪いものを、または誤ったものを匡正はされないからである。
8.カテキズム(公教要理)
カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約460
両親の子どもたちに対する義務はどのようなものですか。
神の父性に参与する者として、両親は子どもたちにとって、その教育の責任者であり、信仰を告げ知らせる最初の人です。両親には子どもたちを人格として、また神の子として愛し、尊敬する義務があります。また適切な学校を選択し、職業と生き方の選択にあたっては賢明な忠告をもって助けることを通じて、可能なかぎり、子どもたちが物質的、精神的に必要とするものを整えなければなりません。とくに、両親は子どもに対して、キリスト教的信仰教育を施す使命をもっています。
カトリック中央協議会/カトリック教会のカテキズム要約461
両親は子どもたちに対して、どのようにキリスト教的信仰教育を施しますか。
主として、模範と祈りと家庭における信仰教育、また教会生活への参加によってこれを行います。
9.処女たち[娘たち]は他生で、また天界でいかように教育されるか、について
霊界日記5660−5667
霊界日記5668
黙示録講解427イ(6)
『エホバはカインの上に、かれが殺されてしまわないように、ある印をつけられた』(創世記4・15)。エホバは彼を他の者らから区別されて保持されたことを意味しているのは、救う信仰は歴史的な信仰が先行しない限り与えられることは出来ないためであり、そのこと[歴史的な信仰]は他の者たちから教会と天界との事柄を知ることであり、約言すると、それは信仰を後になって構成するような事柄にかかわる知識である、なぜなら人間は幼時から聖言から、または教会の教義から、または説教から真理を吸引しない限り、彼は空虚なものとなってしまい、空虚な人間の中へはいかような働きかけも行われることは出来ず、主から天界を経ていかような流入も注がれることは出来ないからである、なぜなら主は人間のもとに在る真理の中へ善を通して働きかけ、流れ入られ、真理と善とを連結され、かくて仁慈と信仰とを一つのものとされるからである。
このことから『エホバはカインの上に、たれも彼を殺さないように、またたれであれ彼を殺す者はことごとく七倍の復しゅうを受けなくてはならない』の意義を認めることが出来よう。さらに、単なる歴史的な信仰の中にいる者らは、すなわち、信仰を構成しているような事柄にかかわる知識の中にいる者らは―彼れらは『カイン』により意味されている人物または信仰であるが ―これらの者はまた聖言から真理を他の者たちに教えるために―そのことをかれらは記憶から行うのであるが―保持されるのである。