歴史的聖言

 

1.寓意的な歴史的な出来事が作られた

 

 

1.寓意的な歴史的な出来事が作られた

 

天界の秘義755[4]

 

 そこでは歴史的な事件も表象的なものであって、それは実際記されているままに起ったのであるが、しかしここでは寓意的な歴史的な出来事が作られたのであって、それは文字の意義に記されているようには起らなかったのである。それでも実際の出来事も、この作り上げられた歴史と寸分たがわず、天界のアルカナを含んでおり、事実その出来事の言葉の各々がそれを含んでいるのである。

 

 

 

天界の秘義3690

 

聖言の歴史はすべて本質的な神的な教義的な事柄からはさらに遠ざかっている真理であるが、しかしそれでも小さな子供たちやそれよりも年のすすんだ子供たちがそれにより徐々に善と真理の内的な教義的な事柄へ導き入れられ、最後には神的なものそれ自身へ導き入れられるために役立つのである。なぜならそのものの中にはその最内部に神的なものが存在しているからである。子供たちがその歴史を読み、無垢からそれに感動している一方では、かれらのもとにいる天使たちはその内意に主から感動し、従ってその歴史的な事実が表象し、意味していることに感動して、幸福な天的な状態の中にいるが、その子供たちのもとへ流れ入って、かれらに歓喜を覚えさせるものはその天使たちの天的な幸福である。この最初の状態が存在するために、すなわち、再生することのできる者たちの幼児の時代と子供時代との最初の状態が存在するために、聖言の歴史が与えられており、その中の凡てのものが全般的にもまた個別的にもその中に神的なものを含むように記されたのである。

 

 

天界の秘義3690[3]

 

 これらの歴史的な事柄は神的な教義的な事柄からはいかほど遠ざかっているかはそこから取った以下の例から認めることができよう。たれかがまず、神がシナイ山に降られて、モーセに石板を与えられた、その上には十戒が記されていた、モーセはこの石板をわってしまったが、神は他の石版に同じような戒めを書かれたということを知ることに過ぎないとき、たんにこの歴史をのみ歓んでいる間は、かれは神的な教義的なものから遠ざかった外なる真理の生命の中にいるのであるが、しかしその後その中に含まれている戒めまたは教令そのものを歓び、それに感動しはじめ、それに従って生きると、そのときはかれは真理の生命の中にいるが、それでも依然神的な教義的なものそれ自身からは隔たっているのである。なぜなら戒めに従った生命はたんに道徳的な生活に過ぎないのであり、その教えは、例えば、神を拝さなくてはならない、両親を敬わねばならない、殺人、姦淫、盗みは犯してはならないといった教えは人間社会に住んでいる者には凡て公民生活そのものとその法律から知られているからである。

 

 

天界の秘義3690[4]

 

 しかし再生しつつある者はこのさらに遠ざかった生活(すなわち、道徳的生活)から神的な教義的なものへさらに接近した生命へ、すなわち、霊的な生命へ徐々に導き入れられるのである。こうしたことが起るようになると、その人間は、このような戒めまたは教えが凡ゆる人に知られており、また聖言からいかようなことも決して聞いたことのない者たちの法律にも記されているのに、なぜそれがかくも奇蹟的な方法で天から送られ、神の指により石板の上に記されたのであるかと怪しみはじめるのである。かれがこのような考えの状態へ入ると、再生することができる者たちの間にいるなら、かれは主によりさらに内的な状態へ、すなわち、かれのまだ知っていない深いものがその中に隠れていることを考える状態へ入れられるのであり、かれがこうした状態の中で聖言を読むとき、かれはこれらの教えの各々がさらに天界的な事柄をその中に含んでいることを、予言者の書の、とくに福音書の至る所に見出すのである。

 

 

天界の秘義3690[5]

 

 例えば、両親を敬うことについては、かれは今や、人間が新に生まれると、すなわち、再生しつつあると、その人間は他の父を受け入れるのであり、かくてその父の子となり、敬わねばならない方はその父であることを認めるのであり、かくてこれがこの教えの中に隠れている意味であることを認めるのである。そして徐々にかれはこの新しい父は主であられることを学び、ついには主を拝することによって主を敬わなくてはならない、主を愛するとき、主を拝することを学ぶのである。再生しつつある者がこの真理の中におり、それに応じた生命[生活]の中にいるとき、かれは神的な教義の中におり、そのとき天使的な状態の中にいるのであり、この状態から、かれはかれが以前知っていたいくたの事柄が秩序をもって互に他に続いているものとして認め、またそれらがいわばはしごの段に応じて神的なものから流れ下っており、そのはしごの上にはエホバがまたは主がおられ、そのはしごの段を主の天使たちが昇ったり降ったりしているものとして認めるのである。かくてかれは以前かれが歓んだ物をそれが度に応じてかれからはさらに遠ざかっているものとして見るのである。このことは十戒の他の教えにも言われるのである(2609番を参照)。このことから、『ヤコブはベエルシバから出て行った』によりここに意味されているところの神的な教義的な物からさらに遠ざかった生命により意味されていることが明白である。

 

 

天界の秘義3982[3]

 

 これらのことがこれらの言葉とまたそれにつづいて述べられている言葉に含まれているアルカナであるが、しかしそれらの事柄は聖言が子供たちや単純な人々によっても歓びをもって読まれるようにと歴史的な形で述べられているのであり、そのことは、その者たちが歴史的な意義から聖い歓喜の中にいる時、その者たちとともにいる天使たちが内意の聖さの中にいるようにとの目的から行われているのである、なぜならこの意義は、外なる意義が人間の理知に適合している反面では、天使たちの理知に適合しているからである。こうした手段により人間は天使たちと交わっているが、そのことについてはその人間は些かも何ごとも知ってはいないで、たんにそこから聖い感情を伴った一種の歓びを認めているにすぎないのである。

 

 

天界の秘義5307

 

それはその聖言がその内意に神的な事柄を含むためであったのであり、その内意はさらに特に天使たちに役立つと同時に(天使たちの知恵は人間の知恵に比較するなら把握できないものであり、また表現することも不可能なものであって、そうした内意から成っているのであるが)、人間にも役立つためであったのである、なぜなら人間はとくに、天使たちが主から発している流入によって歴史の中に神的なものを認めているものの、歴史を好んで、それをその心の中に思いめぐらすからである。

 

 

天界の秘義5329

 

なぜなら天使たちは、歴史的なものそのものは世のものである事柄であって、天界のものである事柄ではなく、そして世の物はかれらには現れないため、その歴史的なものを決して認めることはできないからである。それでも世の凡ての物は天界のものと相応しているため、天使たちは人間が世の物を認めるとき天界の物を認めるのである。もしそれが事実でないなら、天界から天使たちは一人として決して人間とともにいることはできないのである。しかし天使たちが人間とともにいることができるように、聖言が与えられたのであり、その中に天使たちは神的な聖いものを認めて、それをその天使たちがそのもとにともにいる人間に伝達することができるのである。

 

 

天界の秘義6333[4]

 

 歴史的な部分が与えられているのは、それによって幼児や子供たちが聖言を読むようになるためである、なぜなら歴史的な部分は楽しく、かれらの心に残り、それによりかれらは天界と交流することができるからであり、またかれらは無垢と相互的な仁慈の状態にいるためこの交流は快適なものとなっている。これが歴史的な聖言の在る理由である。