十誡

出エジプト20章

天主の十誡

律法連結契約

 

 

第1戒:われはの主なり、われを唯一の天主として礼拝すべし

第2戒:汝、天主の名をみだりに呼ぶなかれ

第3戒:汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし

第4戒:汝、父母を敬うべし

第5戒:汝、殺すなかれ

第6戒:汝、姦淫するなかれ

第7戒:汝、盗むなかれ

第8戒:汝、偽証するなかれ

第9戒:汝、人の妻を恋うるなかれ

第10戒:汝、人の持ち物をみだりに望むなかれ

心を尽くし、精神を尽くし(マタイ22・37)

主を愛す

 

 

 

1.聖書

2.救いのために為さるべき宗教的な義務

3.聖さそのもの

4.霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得される

5.人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由

6.人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならない。人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができる

7.第三の、または最も内なる天界の天使たち

8.宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在る

9.宗教からこれらの戒めを行う教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない

10.宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者はそれらの事柄を信じはしない

11.仁慈の生命を持っている者は信仰の凡ゆる事柄を熟知している

12.悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならない

13.悪を避けること

14.悪と善とは共存できない

15.凡ゆる宗教の総計と本質とを包含

16.十誡は教義と生活に係わる凡ゆる物を含んでいる

17.霊的意義と天的意義なる二つの内的な意義を含む

18.「契約」「証」

19.宗教を持っている世界の凡ゆる国民の間にも類似した教えが在る理由

20.残りのもの

21.マリア・ワルトルタより

22.ヴァッスーラより

23.十戒の教えを取るに足らぬものとし、そこに記されている悪をことごとく罪としては避けず、それでその中に生きている者らは新しいエルサレムへ受け入れられない

24.一つの戒めに背くなら他の戒めに背くことも恐れない

25.単に自然的な人は、外の形では、霊的な人と同様に、同じ教えに従って生活している

26.分離した信仰の中にいる者らについて、またその信仰はいかようなものであるか、について、十戒について

27.その人間は異教徒から基督教徒になる

28.教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられている

29.十戒は悔改めを教えている

30.信仰する人にとって、十戒が息絶えることはない。十戒の命令のすべてが、未来の自分の冠の宝石になります

31.神の戒めに従って生きる時、神は愛され、用を遂行する時、隣人は愛されている

32.霊的な天使、天的な天使の理解

33.天界、地獄、死後の生命について決して考えない者が、悪を罪として考えることが出来ようか。そうした人間は罪とは何であるかを知らない

34.十誡には、一枚は神に関係し、他の一枚は人間に関係している二枚の板石の在る理由

35.残りのもの

36.サンダー・シング

 

 

 

 

1.聖書

 

出エジプト記20・1−21

 

 神はこれらすべての言葉を告げられた。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。

 あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。

 あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 あなたの神、主の御名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。

 安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 あなたの父母を敬え。そうすればあなたは、あなたの神、主が与えられる土地に長く生きることができる。

 殺してはならない。

 姦淫してはならない。

 盗んではならない。

 隣人に関して偽証してはならない。

 隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。」

 民全員は、雷鳴がとどろき、稲妻が光り、角笛の音が鳴り響いて、山が煙に包まれる有様を見た。民は見て恐れ、遠く離れて立ち、モーセに言った。「あなたがわたしたちに語ってください。わたしたちは聞きます。神がわたしたちにお語りにならないようにしてください。そうでないと、わたしたちは死んでしまいます。」モーセは民に答えた。「恐れることはない。神が来られたのは、あなたたちを試すためであり、また、あなたたちの前に神を畏れる畏れをおいて、罪を犯させないようにするためである。」民は遠く離れて立ち、モーセだけが神のおられる密雲に近づいて行った。

 

 

 

マタイ19・16−20

 

さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」

 

 

 

マルコ10・17−31

 

 イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」

 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 

 

マタイ22・34−40

 

ファリサイ派の人々は、イエスがサドカイ派の人々を言い込められたと聞いて、一緒に集まった。そのうちの一人、律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねた。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」

 

 

 

マルコ12・28−34

 

 彼らの議論を聞いていた一人の律法学者が進み出、イエスが立派にお答えになったのを見て、尋ねた。「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか。」イエスはお答えになった。「第一の掟は、これである。『イスラエルよ、聞け、わたしたちの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二の掟は、これである。『隣人を自分のように愛しなさい。』この二つにまさる掟はほかにない。」律法学者はイエスに言った。「先生、おっしゃるとおりです。『神は唯一である。ほかに神はいない』とおっしゃったのは、本当です。そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」イエスは律法学者が適切に答えをしたのを見て、「あなたは神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

 

 

 

ルカ10・25−28

 

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 

 

 

第1戒:われはなんじの主なり、われを唯一の天主として礼拝すべし

第2戒:なんじ、天主の名をみだりに呼ぶなかれ

第3戒:なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし

第4戒:なんじ、父母を敬うべし

第5戒:なんじ、殺すなかれ

第6戒:なんじ、姦淫するなかれ

第7戒:なんじ、盗むなかれ

第8戒:なんじ、偽証するなかれ

第9戒:なんじ、人の妻を恋うるなかれ

第10戒:なんじ、人の持ち物をみだりに望むなかれ

 

 

第1戒:我はの主なり、我を唯一の天主として礼拝すべし

第2戒:汝、天主の名をみだりに呼ぶなかれ

第3戒:汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし

第4戒:汝、父母を敬うべし

第5戒:汝、殺すなかれ

第6戒:汝、姦淫するなかれ

第7戒:汝、盗むなかれ

第8戒:汝、偽証するなかれ

第9戒:汝、人の妻を恋うるなかれ

第10戒:汝、人の持ち物をみだりに望むなかれ

 

 

 

 

2.救いのために為さるべき宗教的な義務

 

 

黙示録講解第10巻

聖書67

生命53−91

 

 

 

真の基督教282

 

世界の凡ゆる国民は殺すこと、姦淫を為すこと、盗むこと、偽りの証を立てることは邪悪であることを知っており、またそれらの悪が法律によって禁止されない限り、凡ゆる形態の社会は滅ぶことを知っている。それ故、人はイスラエル民族は、これらのものが悪であることを知らない程に、愚鈍であったと想像することは出来ない。それならば、世に遍く知られているそれらの律法は何故に、エホバ自身によって奇蹟的な方法をもってシナイ山から布告されたのであろうか。それらは、単に民法と道徳法であるのみでなく、神的な律法であり、これに反して行動する人間は単にその隣人を、即ち、その同胞と社会を傷つけるのみでなく、また神に対して罪を犯すものであるを示す印としてこのように布告されたのである。それ故、エホバはそれらの律法をシナイ山から布告し、かくして、それらに宗教的な批准を与え給うたのである。何故ならば、エホバの命じ給うものは、尽く、救いのために為さるべき宗教的な義務となるからである。しかし、この戒律を論ずる前に、それらのものの宗教的な特性を示すために、その聖さに関して一言しておかなくてはならない。

 

 

 

 

3.聖さそのもの

 

 

真の基督教283

 

「イスラエル教会においては十誡は聖さそのものであった。」

十誡の戒律は聖言の初穂であり、従ってイスラエル民族の間に建設さるべき教会の初穂であった。更に、それは由って以って神と人間との交わりと人間と神との交わりが行われる宗教全体の縮図である。ここからその至上の聖さが生ずるのであり、それはまた以下の事実によって明白である。

主エホバは天使達にかしずかれて火の中にシナイ山に降り、御自ら彼らに語り給い、何人も近づいて死なぬように、垣が山の周囲に置かれ、祭司も長老も近寄らず、只モーゼのみが近づいた。戒律は二枚の石板の上に神の指によって録され、モーゼの顔は彼がその二枚の板を二度下に持ち帰った時輝いた。(後略)

 

 

 

 

4.霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得される

 

 

黙示録講解902

 

「黙示録」の他の多くの記事におけるように、ここに『業』が言われここに『彼らの業が彼らとともに従う』と言われているからには―それは霊的な生命を意味しているが―いかようにしてその生命が得られるかについて、またいかようにしてそれが現今の信仰により破壊されるかについて若干述べてみよう。霊的な生命はもっぱら聖言における戒めに従った生活[生命]により取得されるのである。これらの戒めは要約して十戒に与えられている、すなわち、あなたは姦淫を犯してはならない、あなたは盗んではならない、あなたは殺してはならない、あなたは偽証してはならない、あなたは他の者の持ち物を貪ってはならない、これらの戒めは行わなくてはならない戒めである、なぜなら人間がこれらの事を行うとき、その業は善であり、その生命は霊的なものとなるからであるが、それは人間が悪を避け、それを憎むに応じ、善を意志し、[欲し]、行うためである。

 

 

 

 

5.人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由

 

黙示録講解902[2]

 

なぜなら人間をとり巻いている二つの対立したスフィア[霊気]が在り、一は地獄から発し、他は天界から発しており、地獄からは悪の、そこから発する誤謬のスフィアが発し、天界からは善の、そこから発する真理のスフィアが発しており、これらのスフィアは身体に働きかけているが、しかし人間の心に働きかけている、なぜならそれらは霊的なスフィアであり、かくて愛に属している情愛である。人間はそれらのスフィアの真中に置かれており、それで人間はその一方に近づくに応じて、他方のものから遠ざかるのである。このことが人間が悪を避け、悪を憎むに応じ、善を、そこから発する真理を愛する理由である、なぜなら―

 

 たれ一人同時に二人の主人に仕えることはできない、人間はその一方を憎むか、または他方の者を愛するか、その何れかを行うからである(マタイ6・24)。

 

 

6.人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならない。人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができる

 

黙示録講解902[3]

 

しかし人間は宗教からこれらの戒めを行わなくてはならないことを知らなくてはならない、それらは主により命じられているためである、もし人間は何であれ何か他の考慮からそれらを行うなら、例えば単に民法または道徳律に対する顧慮から行うなら、彼は自然的なものとしてとどまり、霊的なものとはならないのである。なぜなら人間は宗教から行動するとき、人間は心情の中に、神、天界、天界と地獄、死後の生命が在ることを承認しているからである。しかし人間が単に民法と道徳律から行動するとき、かれは同じ方法で行動するであろうが、心情の中では、神、天界と地獄、死後の生命が在ることを否定する可能性が在るのである。そしてもし彼が悪を避け、善を行うならば、それは単に外なる形の中においてのみ行われるのであって、内なる形において行われるのではない、かくて彼は身体の生命の方面では外部ではキリスト教徒のようではありつつも、内部ではその霊の生命の方面では悪魔のようなものである。凡てのことは、人間は主から宗教に従って生きる生活によってのみ、霊的になり、または霊的な生命を受けることができることを明らかにしている。

 

 

7.第三の、または最も内なる天界の天使たち

 

黙示録講解902[4]

 

これが真であることの証明をわたしは第三の、または最も内なる天界の天使たちから得ているのであり、彼らは最大の知恵と幸福の中にいるのである。いかようにしてあなたたちはそうした天使になられたのか、とたずねられると、彼らは以下のように言ったのである、すなわち、わたしたちは世に生きている間に汚れた考えを忌まわしいこととして認めたのであり、その汚れた考えはわたしたちには姦淫であったのであり、詐欺と不当な利得をも同様に見なしたのであり、そうしたものはわたしたちには窃盗であったのであり、また憎悪と復讐とを同様に考え、それらはわたしたちには殺人であったのであり、また虚偽と涜神とも同様に考え、それらはわたしたちには偽証であったのであり、他の事柄も同様であったのである、と。あなたは善い業を行われたか否か、と再び尋ねられると、わたしたちは貞潔を愛したのであり、その貞潔の中にわたしたちがいたのは、わたしたちは姦淫を忌まわしいこととして認めたためであり、わたしたちは誠実と公正とを愛したのであり、その中にわたしたちがいたのは、わたしたちは詐欺と不法な利得とを忌まわしいこととして認めたためであり、隣人を愛したのは、憎悪と復讐とを忌まわしいこととして認めたためであり、真実を愛したのは、虚偽と涜神とを忌まわしいこととして認めたためである、などと言ったのである、さらに彼らは言った、わたしたちはこれらの悪がとり除かれ、わたしたちが貞潔、誠実、公正、仁慈、真実から行動したとき、それはわたしたち自身から行われたのではなく、主から行われたのであり、かくて何であれわたしたちがそうしたものから行った凡ゆるものは、恰もわたしたち自身から行ったかのようにわたしたちが行ったものの、善い業である事を認めたのであり、そうした理由の為わたしたちは主により死後第三の天界へ挙げられたのである、と言ったのである。かくて天界の天使たちの生命であるところの霊的な生命はいかようにして得られるかが明らかにされたのである。

 

 

8.宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在る

 

黙示録講解902[5]

 

その生命が現今の信仰によりいかようにして破壊されるかを今述べよう。この時代の信仰は以下のものである、すなわち父なる神はその御子を遣わされた、御子はわたしたちの罪のために十字架の苦しみを受けられ、律法を成就することにより律法の断罪を取り去られたことが信じられなくてはならない、この信仰は善い業もなしに凡ゆる者をことごとく、死の最後の時間においてすら救うのである。子供時代から注ぎ込まれ、後に説教により確認されたこの信仰により、たれ一人宗教から悪を避けず、たんに民法と道徳律からのみ避けるのであり、かくてそれらが罪であるために避けられるのではなく、それらは損害を与えるために避けられるのである。主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法がわたしたちを罪に定めることを取り去られた、これらの事柄を単に信じることが、または善い業も無しにこれらの事柄を信仰することが救うのであると人間が考えるとき、そのことは十戒の凡ての戒めを、聖言に規定されているような宗教の凡ゆる生命を、さらに仁慈を教えている凡ゆる真理を、無価値なものとして見なすことではないか、否かを考察されたい。それゆえこれらのものを分離し、人間からそれらのものを取り去られよ、人間の中に何らかの宗教が残されるか。なぜなら宗教はこのことまたはかのことを単に考えることに在るのではなくて、考えられることを意志し[欲し]、行うことに在るからであり、意志すること[欲すること]と行うことが考えることから分離されるとき、宗教は存在しないのである。このことから現今の信仰は、天界の天使たちの生命であり、キリスト教徒の生命[生活]そのものである霊的生命[霊的な生活]を破壊してしまうことが必然的に生まれてくるのである。

 

9.宗教からこれらの戒めを行う教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない

 

黙示録講解902[6]

 

さらに考察されたい、なぜ十戒の十の戒めはかくも大いなる奇蹟によりシナイ山から布告されたのであるかを。なぜそれらのものは石の二枚の板の上に彫り込まれたのであるか。なぜこれらの板石は箱の中におかれ、その上一面にケルブ[天使たち]と共に慈悲の座が置かれたか。それらの戒めが置かれた所は至聖所と呼ばれ、その中へアロンは一年に一度入ることを許され、しかもそのことには生贄と香とが伴っており、もしアロンがこれらのもの無しに入ったとするなら、かれは倒れ死んでしまったであろう。またかくも多くの奇蹟がその箱により後に行われたのであるか。全地球に遍く凡ての者は同じような戒めについて知識を持っていないか。かれらの民法も同じことを規定していないか。凡ゆる王国における秩序のために姦淫、窃盗、殺害、偽証、十戒における他の事柄は禁じられていることを単なる自然的な光のみから知らない者があろうか。それならなぜその同じ教えがかくも多くの奇蹟により布告され、極めて聖いものとして認められたか。人各々ことごとく宗教から、かくて神から、単に民法と道徳律のみからでなく、かくて自己から、世の益のためにそれらのことを行うという理由以外のいかような理由が在り得ようか。このことがそれらがシナイ山から布告された理由であり、それらのものが聖かった理由であったのである、なぜならこれらの戒めを宗教から行うことは、内なる人は清め、天界を開き、主を容認し、人間をその霊の方面で天界の天使とするからである。そしてこのことが宗教からこれらの戒めを行うところの、教会の外側にいる諸国民でも凡て救われるが、単に民法と道徳律からそれらを行う者は一人として救われはしない理由である。

 

 

神の摂理253

 

しかし考えられよ、一度生まれた人類は凡て、如何ほどその数は多く、また如何ような宗教を奉じていても、もし、殺人、姦淫、盗み、偽証は宗教に反し、それゆえ神に反するため、これらの犯罪を禁じている十誡の教えに従って神を承認し、生活するならば救われることが出来るのであって、そのような人間は神を恐れて、隣人を愛しているのである。彼らはそうした事を為すのは神に対する反抗であると信じているため、神を恐れており、また人を殺し、姦淫を犯し、盗み、偽証を立て、他人の家または妻を貪ることは隣人を傷つけることであるため、隣人を愛している。こうした人間はその生涯に神を敬い、隣人には悪を為さないため、主に導かれ、そしてこのように導かれる者は凡てその宗教により神と隣人につき教えられる、なぜならそのような生活をしない者は教えられようとはしないが、そのように生活する者は教えられることを愛し、そして教えられることを愛するため、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受けるのである。こうした性格の人間について若干の記事が「新エルサレムの聖書の教義」に見ることができよう(91−97、104−113)。

 

 

10.宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者はそれらの事柄を信じはしない

 

 

黙示録講解902[7]

 

さて現今の信仰はこの凡ての戒めを抹殺してしまわないか、否か、を尋ねてみられよ、その信仰は、主はわたしたちの罪のために苦しまれた、主は律法を成就することにより律法の断罪を取り去られた、人間は善い業なしにこの信仰により義とされ、救われる、ということである。あたりを見まわして、現今キリスト教界にこの信仰に従って生きないいく人の者がいるかを知られよ。彼らは私らは弱くて不完全な人間であり、罪の中に生まれている、といったことを答えることをわたしは知っている。しかしたれが宗教から考えることが出来ないか。そのことを主は人間各々の者に与えており、宗教からこれらの事を考える者のもとに、その者が考えるに応じ、凡ゆる事を行われるのである。そして以下のことを知られよ、すなわち、宗教からこれらのことを考える者は、神、天界、地獄、死後の生命が在ることを信じはするが、宗教からこれらの事柄について考えない者は―わたしは断言するが―それらの事柄を信じはしないのである。

 

 

11.仁慈の生命を持っている者は信仰の凡ゆる事柄を熟知している

 

天界の秘義1798[]

 

信仰は、全般的な意義では教会の教義上の教えのすべてのものである。しかし愛または仁慈から分離した教義は決して教会の内なるものを作ってはいない、なぜなら教義は記憶に属している知識にすぎないのであって、これは最悪の人間のもとにも、実に奈落の者のもとにさえも存在しているからである。しかし仁慈から発している教義は、または仁慈に属している教義は教会の内なるものを実際作っている、なぜならこれは生命に属しているからである。生命それ自身が凡ゆる教会の内なるものであり、仁慈の生命から流れ出ている教義もことごとくそうしたものであり、ここに意味されているものは信仰に属しているこうした教義である。教会の内なるものはこの信仰であることは以下のことを考察するのみからでも認めることが出来よう、すなわち、仁慈の生命を持っている者は信仰の凡ゆる事柄を熟知しているのである。もし願われるなら、教義的なものをことごとく検討されて、それらがいかようなものであり、またいかような性質を持っているかを見られよ、それらはすべて仁慈に関わっており、したがって仁慈から発している信仰に関わってはいないか。

 

 

 

天界の秘義1798「[]

 

十戒の教えを単に考えてみられよ。これらのものの最初のものは主なる神を拝することである。愛の生命をまたは仁慈の生命を持っている者は主なる神を拝しているのである、なぜならそのことが彼の生命となっているからである。他の教えは安息日を守ることである。愛の生命の中に、または仁慈の中にいる者は安息日を聖く守っているのである、なぜなら日々主を拝して、主を崇めることにまさって甘美なものは何一つ彼にはないからである。『あなたは殺してはならない』という教えは全く仁慈のものである。自分自身のように自分の隣人を愛している者は、何であれ、その者を害うことを行うことには身震いするのであり、ましてや彼を殺すことには身震いするのである。『あなたは盗んではならない』という教えもまた同じである、なぜなら仁慈の生命を持っている者はその隣人から何かを奪い去るよりはむしろ彼に自分自身のものを与えようとするからである。『あなたは姦淫してはならない』という教えもまた同じである、仁慈の生命の中にいる者はむしろ隣人の妻を、たれかがこれに危害を加えないように守り、姦淫を良心に反した犯罪として、婚姻愛とその義務を破壊するものとして認めているからである。隣人のものを貪ることもまた仁慈の生命の中にいる者たちには反している、なぜなら自己からまた自分自身のものから善いことを他の者に欲することは仁慈に属しており、それでこうした者は他人のものを決して貪りはしないからである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

こうしたものは信仰の更に外なる教義的なものである十戒の教えであって、これらは仁慈とその生命の中にいる者により記憶の中に知られているのみでなく、その心の中にも存在しており、彼はそれらのものを、それらのものが彼の仁慈の中にあり、かくて彼の生命の中に存在しているため、彼自身の中に刻みつけているのであり、その他彼が同じように仁慈のみから知っている教義的な性質の事柄も彼自身の中に刻みつけられているのである、なぜなら彼は正しいものの良心に従って生きているからである。彼は、彼がそのように理解して、検討することの出来ない正しいことと真理とは、主がそのように言われたという理由から、単純にまたは心の単純さからそのようなものであると信じており、そのように信じている者は、例えその者がそのようにして受け入れているものはそれ自身において真のものではなくて、外観的な真理であるとしても悪は行わないのである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

たとえば、たれかが主は怒られ、罰しられ、試みられるなどと信じるとするなら、あるいは聖餐のパンとぶどう酒とが表意的なものであると信じるなら、または肉と血とは彼らから説明される何らかの方法で現存していると信じるならば―こうした事柄について考える者は僅かしかいないけれど、またはそのことについて実際考えるにしても、それが単純な心から為されさえしているなら、彼らの言うことはそれぞれ異なっているにしても、それはたいしたことではない、なぜなら彼らはそのように教えられてきてはいるものの、それでも仁慈の中に生きているからである。これらのものはパンとぶどう酒とはその内意では全人類に対する主の愛を、この愛に属した事柄を、またその愛に反応した主と隣人とに対する人間の愛を意味していることを聞くと、すぐさまそれがそうであることを信じ、またそのことを喜びもするのである。教義的な事柄の中にはいるが、仁慈の中にいない者はそうではない、これらの者は凡ゆることについて論争し、自分らの言っているように言わない者を(彼らはその言うことを『信じる』ことだと言ってはいるが)その者はたれであろうと罪に定めるのである。このすべてからたれでも主に対する愛と隣人に対する仁慈とは教会の内なるものであることを認めることが出来よう。

 

 

 

12.悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならない

 

仁慈の教義27(5)

 

「人間が行う善が仁慈の善となる以前に、悪は先ず、それが仁慈に反しているため、遠ざけられねばならない(そのことは悔改めにより行われる)。」

悪は、それが遠ざけられるためには、先ず知られねばならないからには、そのため十戒が聖言の最初のものであったのであり、全基督教世界においてもまた教会の教義の最初のものである。凡ての者は悪を知って、それを行わないことにより教会へ入れられるのである、なぜなら悪は神に反しているからである。

 

 

仁慈の教義28

 

 それでこの最初のものは、たれ一人それ以前では基督教の善を行うことが出来ないという理由から、極めて聖いものであった。

 

仁慈の教義29

 

善がそれに続いて行われることは以下の説明から極めて明らかである―裁判官は言う、『わたしは、色々な理由から、悪から判決しない、公正に判決する』と。かくてかれは善を行うのである。

 

 

仁慈の教義30

 

農夫は言う、『わたしは公正に、忠実にしか働きはしない』と。かくてかれが行う業は善である。

 

 

仁慈の教義30

 

他の無数の場合も同じであり、人間は悪を行わないときは、善を行うのである。

 

 

仁慈の教義31

 

それで悪を罪として避けることは善を行うことであるということを規定(ルール)として考えてよいであろう。

 

13.悪を避けること

 

真の基督教329

 

十戒の八つの誡命、すなわち、第一、第二、第五、第六、第七、第八、第九、第十誡には、神を愛し、隣人を愛することについては、何ごとも言われていない。神は愛されなければならない、また神の御名は崇められねばならない、また隣人は愛されねばならないし、誠実に、公正に扱われねばならないと言われないで、ただ単に「汝は我が面の前に我の外何物をも神とすべからず、汝の神エホバの名を妄に口にあぐべからず、汝人を殺すなかれ、汝姦淫を為すなかれ、汝盗むなかれ、汝偽りの証を立つるなかれ、汝その隣人の所有を貪るなかれ」と語られているに過ぎない。このように悪はそれが神に対するものであれ、あるいは隣人に対するものであれ、欲求されてはならないし、考えられてもならない。また行ってはならないということが、一般的に命ぜられている。愛と仁慈に関連した直接的な命令は一つとして与えられず、ただ単にその反対のものを避けねばならないという命令が与えられているに過ぎないのは、人間は悪を罪として避ける限り、愛と仁慈との善を欲しているからである。神を愛し、隣人を愛するという第一の原理は悪を避けることであり、第二は善を為すことであることは仁慈に関わる章に見られるであろう。二つの相反した愛、すなわち善を欲して、これを為す愛と悪を欲して、これを為す愛があり、後者は地獄的なものであり、前者は天界的なものである、なぜなら凡て地獄は悪を為す愛より成り、凡て天界は善を為す愛より成るからである。人間は凡ゆる種類の悪に向かって生まれ、従って生来地獄的な凡てのものに傾いている。彼は再び生まれない限り、あるいは再生しない限り、天界に入ることは出来ない、それ故彼は天界の善を欲することが出来る以前に、地獄のもろもろの悪は除かなければならない、なぜなら何人も悪魔から分離されない中は、主に受け入れられることは出来ないからである。如何にして悪が除かれ、人間は善を為すように導かれるかは、悔改めと改良に関わる章に示されるであろう。人間の為す善が神の眼前における善となる以前に、悪は除かれねばならぬことは、主によってイザヤ書に以下のように教えられている、「なんじら己を洗い、己を潔くし、わが目の前よりその悪業をさり、悪を行うことを止め、善は行うことをならえ、さらばなんじらの罪は緋のごとくなるも、雪の如く白くなり、紅のごとく赤くとも、羊の毛の如くならん」(1・16−18)。エレミヤ記にも類似の記事がある。「汝エホバの家の門に立ち、其処にてこの言を宣べて言え、万軍のエホバ イスラエルの神、かく言い給う、汝らの道と行いを改めよ、汝ら是はエホバの殿なり、エホバの殿なり、エホバの殿(即ち教会)なりと云う偽の言をたのむなかれ

(中略)

 

 人間は悪を避けることによって十戒の誡命を守る時は、言うまでもなく、愛と仁慈はその結果として生まれて来ることは、ヨハネ伝の主の言によって明らかである。イエスは「わが誡命を保ちて、これを守る者は、すなわち我を愛する者なり。我を愛する者は我が父に愛せられん。我もこれを愛し、これに己を顕すべし、かつ我らこれと住処をともにせん」(14・21,23)と語り給うた。この記事の誡命は悪は為されてはならぬし、また、欲求されてもならないという十戒の誡命を特に意味しており、その時神に対する人間の愛と、人間に対する神の愛は、善は悪の除去によって現れるように現れることは言うまでもない。

 

 

真の基督教330

 

 悪と善は相反するものである故、人間は悪を避ける限り、善を欲する。なぜなら、悪は地獄から発し、善は天界から発するからである。それ故、人間は地獄、あるいは悪を避ける限り、天界に近づき、善を見上げる。この光に照らして誡命の中の八つの誡命を考察されよ、

 

(1)人は他の神々を礼拝することを避ける限り、真の神を礼拝する。

(2)人は神の御名を妄に口にすることを避ける限り神から発するものを愛する。

(3)人は殺人、憎悪、復讐を避ける限り、隣人に良きものを欲する。

(4)人は姦淫を避ける限り、貞潔にその妻と住むことを欲する。

(5)人は盗むことを避ける限り、真面目に生きる。

(6)人は偽りの証を立てることを拒む限り、真理を考え、これを語ることを望む。

(7)と(8)人は隣人のものを貪ることを避ける限り、その隣人がその持ち物を楽しみ、繁栄することを望む。

 

それ故十戒の誡命は神と隣人に対する愛に関わる凡ての物を含むことは明白である。それ故、パウロは語っている、「他のものを愛する者は律法を成就するものなり。そは汝姦淫するなかれ、汝殺すなかれ、汝偽りの証を立つるなかれ、汝貪るなかれの誡命は、この他なお他の誡命あらんも、そは汝は己の如く汝の隣を愛すべしとの言葉に含まるればなり。愛は己が隣人に悪を行わず、その故に愛は律法を成就するものなり」(ロマ13・8−10)。

 

上述の言に下記の二つの定則が新しい教会のために附加されなくてはならない。

 

(1) 何人も自らによっては罪を悪として避けることが出来ない。また神の前における善を為すことも出来ない。彼は悪を罪として避ける限り、自らによらず、主によって善を為すのである。

(2) 人間は自らによるかの如く、悪を罪として避け、かつこれに向かって戦わなくてはならない。もし彼は悪は罪であるという理由以外の理由によって悪を避けるならば、実際はそれを避けるのではなくて、単にこれをその同輩から隠しているに過ぎないのである。

 

 

14.悪と善とは共存できない

 

真の基督教331

 

悪と善とは共存することは出来ない。悪が除かれる限り、善は善として認められ、また感ぜられる。なぜなら、霊界には各人からその人の愛のスフィアが発散し、それがそれ自らを周囲に拡げ、同感と反感とを生み、このスフィアによって善い者は悪い者から分離される。善が知られ、認められ、愛される以前に、悪は除かれねばならぬことは自然界の多くの物との比較によって説明することが出来よう。例えば、豹や虎を部屋に置き、これに食事を与えているために、自分自身はこれから襲われる惧れのない者を、その野獣が取り去られない中は何人も訪問することは出来ないのである。王と王妃の食卓に招かれた者であって、その前に侍る前に、自らの顔と手を洗わない者があろうか。誰が十分に身を洗い、婚礼の衣裳を着けない中に、婚礼の式後、花嫁と共に花婿の部屋に入るであろうか。誰が純粋な金と銀を得る以前に、鉱石を火に精錬し、塵芥と金糞を取り去らないであろうか。如何なる農夫が小麦を納屋に納める以前に、これを雑草と毒麦から分離しないであろうか、また大麦をその穀倉に貯蔵する以前に、その穀粒を籾殻から分つために、これをカラザオで打たないであろうか。生の食物は食卓に運ばれる前に、料理されないであろうか。たれが葉が食い尽くされて、果実が傷められるのを防ぐために、庭の木を揺すぶって、毛虫や昆虫を除去しないであろうか。誰が、特に君主をあるいは君主の娘であろう花嫁を迎えようとする時、己が家の汚い塵を掃き出さないであろうか。にきびや腫れ物で蔽われている娘が、たとえ如何ほどその顔に化粧し、立派な衣服で身を飾り、その会話で相手を魅惑しようと努めようとも、誰がこれと恋愛に入り、結婚しようとの心を持つことが出来ようか。人は自己自身を諸々の悪から浄めなければならない、しかして、彼は主がこのことを自らのために為して下さると期待してはならない。もしそれを期待するなら、彼はその顔を衣服が煤と汚物に汚れた召使がその主人の許に行って、「旦那さま、私を洗って下さい」と言うようなものである。主人はその召使に向かって、「愚者よ、お前は何を言おうとしているのか、見よ、水、石鹸、手拭がある、お前には手がないのか、それを用いる力がないのか、行って自分を洗いなさい」と言わないであろうか、そのように主なる神は、「お前達は、私から浄めの方法を、すなわち意志と能力とを持っている、これを私の賜物として用いよ、然すればお前達は浄められるであろう」と語り給うであろう。外なる人は浄められなくてはならないが、しかしそれは内なる人によらなくてはならないことは、主によってマタイ伝の23章全般に教えられている。

 

15.凡ゆる宗教の総計と本質とを包含

 

真の基督教286

 

この偉大な聖さと力が律法の中に宿っていたのは、それが、凡ゆる宗教の総計と本質とを包含したためである。何故なら、それは二枚の石板の上に記され、その一枚は神に対する凡ゆる義務の総計であり、他の一枚は人間に対する凡ゆる義務のそれであったからである。それ故、律法の誡律は「十の言」と呼ばれている(出エジプト記34・28、申命記4・13、10・14)。十以上の言葉があったけれど、そのように呼ばれているのは、十は凡てを意味し、言は真理を意味するからである。十は凡てを意味し、十分の一、或は十一税はその意義のために定められたことは、「黙示録の啓示」(101番)に見られることが出来よう。律法は全宗教の総計と本質であることは以下の頁に見られるであろう。

 

 

 

 

16.十誡は教義と生活に係わる凡ゆる物を含んでいる

 

 

真の基督教287

 

聖言の十誡が特に「律法」と呼ばれるのは、それが教義と生活に係わる凡ゆる物を含んでいるためである。何故なら、それは単に神に係わる凡ゆる事柄のみでなく、人間に係わる凡ゆる事柄をも含んでいるからである。それ故、律法はその一枚は神を、他の一枚は人間を取扱っている二枚の板の上に記されたのである。生活の教義の凡ては神を愛することと、隣人を愛することに係わり、これらのものに係わりを持つ凡ゆるものは十誡に含まれている。聖言の全部はそれ以外のものを何ら教えないことは、主の以下の語によって明白である。「イエス言ひ給ひけるは、汝は汝の心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして主なる汝の神を愛すべし、また己の如く汝の隣人を愛すべし、律法全体と預言者とはこの二つの誡命に拠るなり」(マタイ22・37−40)。律法と預言者は聖言の全部を意味する。そして他の箇所に「或る教法師イエスを試みて言う、師よ、われ永遠の生命を嗣ぐためには何をなすべきや。イエス言いたもう、律法に何と録したるか、汝如何に読むか。彼答えて言う、汝は心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くし、汝の思いを尽くして主たる汝の神を愛すべし、また己のごとくに汝の隣人を愛すべし。イエス言い給う、これを行え、さらば生くべし」(ルカ10・25−28)扨(さて)、神を愛し、隣人を愛することは聖言の全部であり、且つ十誡の第一の板は神を愛することに係わる凡ゆる物の大要であり、第二の板は隣人を愛することに係わる凡ゆる物の大要であるため、十誡は教義と生活に係わる凡ゆる物を含むことが推論される。この二枚の板は互に関連し、神はその板から人間を見そなわし、人間はその板から神を仰ぎ見、それ故それは相互的なものである。神は人間を見そなわし、人間の救いにかかわる凡ての事を為すことを決してとどめ給わない。而して、若し人間はその板の上に記された律法を受け入れ、これに従うならば、相互的な結合が行われ、主の教法師に対する言は実証されるのである。「是を行え、さらば汝は活くべし。」

 

 

 

 

17.霊的意義と天的意義なる二つの内的な意義を含む

 

 

真の基督教289

 

十誡はその霊的意義と天的意義に於いては生活の全教義を含み、信仰と仁慈とにかかわる凡ゆる物を含んでいる。何故なら、聖言はその文字的な意義の全部と各部に於いて、霊的意義と天的意義なる二つの内的な意義を含み、そしてこの二つの意義は神的真理自身の光に於ける神的真理と、神的善自身の熱に於ける神的善を含んでいるからである(193−208番)。かくの如きが全般的にまた個別的に、聖言の性質である故、十誡の自然的、霊的、天的意義を説明することが必要である。

 

 

 

 

18.「契約」「証」

 

 

真の基督教285

 

律法によって、主の人間との、また人間の主との交わりがあるため、それは「契約」また「証」と呼ばれる。契約と呼ばれるのは、それは結合させるからであり、証しと呼ばれるのは、それは契約の条項を確実にするからである。何故なら、聖言の契約は結合を意味し、証しはその条項を確実にし、証することを意味するからである。この理由により、二枚の板石があり、その一つは神のため、他は人間のためであった。結合は主によって行なわれるが、それは人間がその板の上に記された律法を守る時においてのみ行われるのである。何故なら、主は絶えず臨在して、入ろうと欲し給うが、戸を開くことは、人間が主によって与えられている自由によって果たすべき役割りであるからである。何故なら、主は「見よ、我は戸の外に立ちて叩く、人もし我が声を聞きて戸を開かば、我その中に入りて彼と共に食し、彼もまたわれと共に食せん」(黙示録3・20)と語り給うからである。律法が記されている石の板は「契約の板」と呼ばれ、櫃はそれに因んで契約の櫃と呼ばれ、律法それ自身は契約と呼ばれた(民数記20・33、申命記4・13、23、5・2、39・9、ヨシュア記3・3、列王記上8・21、黙示録11・19その他)。契約は結合を意味する故、主について「彼は人々の契約たるべし」(イザヤ42・6、49・8)と言われ、また「契約の天使」と呼ばれ(マラキ書3・1)、その血は「契約の血」と呼ばれている(マタイ26・28、ゼカリア書9・11、出エジプト24・6−10)。それ故聖言は旧契約、新契約と呼ばれる、何故なら愛、友情、連結と結合のために契約がなされるからである。

 

 

 

天界の秘義6804〔5〕

 

『契約』は連結を意味していることは、王国の間に結ばれる契約から、即ち、その契約により王国は共に結合され、そしてその連結が破られないために、各々の側に、守らなくてはならない規定があることから認めることが出来よう。これらの規定または約定もまた『契約』と呼ばれている。聖言で『契約』と呼ばれている規定または約定は、人間の側では、狭い意味では、十の戒め、または十戒であり、広い意味では、主がシナイ山からモーセを通して命じられた凡ゆる法令、戒め、律法、証言、教訓であり、更に広い意味では、モーセの書であって、その内容はイスラエルの子孫の側で守らねばならなかったのである。主の側ではその『契約』は慈悲と選択である。

 

 

 

 

19.宗教を持っている世界の凡ゆる国民の間にも類似した教えが在る理由

 

 

仁慈の教義206

 

「人はたれでも罪の何であるかを認知し、知るに応じて、それを自分自身の中に認め、主の前にそれを告白し、それを悔改めることが出来るのである。」

このことは今言ったことから生まれてくるのである。それ故人間は罪とは何であるかを知るために、聖言の最初のものは十戒であったのであり、それ故また十戒は聖言全体の統合体であり、そうした理由からそれは『十の聖言(ことば)』と呼ばれており、『十の聖言』により凡ゆる真理の統合体が意味されているのである。同じような理由から宗教を持っている世界の凡ゆる国民の間にも類似した教えが在るのである。そしてそれらが神の律法であり、それでそれらに反して行動する者は神に反して行動するのであり、または罪を犯すのであることを知っている人間は、神的流入[流入してくる神的なもの]を受け入れると同時にまた、自分自身から罪を犯すことを慎み、罪を悔改めるものとして罪を犯すことを慎み、罪を悔改める意志と努力を受け入れることが出来るのである。主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来るのである。その時主はその業を成就されるが、それでも人間に恰も人間自身で行動するように行動させられるのである。もしそうでないと人間は行動することは出来ないのである。主はその時人間の中に、その最も内なるものからその最も外なるものにすら至るまでも働かれて、罪の根元である欲念を遠ざけられるのである。

 

 

 

天界の秘義8862〔2〕

 

たれでもこうした戒めは、例えば両親を敬わなくてはならない、殺人、姦淫、窃盗は行ってはならない、何人も偽証を立ててはならないというような戒めは地上の凡ゆる所で知られているものであり、従ってイスラエルの民族はそうした律法を自然的な光のみからでも知ることは出来たであろうということは知っているのである。なぜならそうしたことを知っていないいかような民族がいるであろうか。それでもそれらを布告されるためにエホバ御自身が降られて、それらを天の中心までも燃えた火の中から布告されたのである。このことから、これらの戒めは文字に現れている以上のものを、即ち、(人間のためのものであると)同時に諸天界のためのものであって、諸天界を満たしている物をその胸に抱いていることを認めることが出来よう。聖言の凡ゆる物は神的なものから発しているためこうした性質を持っているのである。このことから、聖言は聖いものであるということが何処から発しているか、聖言はその一点、一画もことごとく、小さな角もそのことごとくが霊感を与えられていることにより何が意味されているかが明らかである(マタイ5・18、ルカ16・17)。

 

 

 

生命65

 

 宗教を持った全世界の凡ゆる国民の間には十戒の教えに似た教えがあって、宗教からその教えに生きる者たちは救われはするが、宗教からそれに生きない者らは地獄に落ちるのである。宗教からそれに生きている者たちは死後天使たちから真理を教えられると、それを受けて、主を承認するが、その理由は、彼らは悪を罪として避け、従って善におり、そして善は真理を愛し、その愛の願望から、それを受けるということである(このことは前の32−41に示したところである)。このことは、ユダヤ人に対する(以下の)主の御言葉により意味されている―

 

 神の国はあなたらから取り去られて、その実を結ぶ国民に与えられるであろう(マタイ21・43)。

また以下の語によっても(意味されている)―

 それでぶどう園の主が来られると、彼はその悪人を滅ぼし、時が来ると果を差し出す他の農夫たちにそのぶどう園を貸し与えるであろう(マタイ21・40、41)。

 また以下の語によっても(意味されている)―

 わたしはあなたらに言う、多くの者が東と西から、北と南から来て、神の国に坐るであろう、しかし王国の子らは外の暗黒へ投げ出されるであろう(マタイ8・11、12、ルカ13・29)。

 

 

 

 

20.残りのもの

 

 

天界の秘義576[4]

 

残りのものは主のみのものであるため、十分の一のものは『エホバに聖いもの』と呼ばれているのである、例えばモーセの書には―

 

 地の十分の一はことごとく地の種子の十分の一も、木の果実の十分の一もエホバのものであって、エホバに聖いものである、牛と羊の十分の一はことごとく、何であれ、(牧者の)棒の下を通るものの十分の一は凡て、その十分の一のものはエホバに聖いものとしなくてはならない(レビ記27・30、31)。

 

 十戒が『十』の教令から、または『十』の言葉から成り、エホバはそれを板石の上に書かれたことは(申命記10・4)残りのものを意味しており、それらがエホバの御手により記されたことは残りのものは主のみのものであることを意味しており、それらが内なる人に在ることは板石により表象されたのである。

 

 

 

 

21.マリア・ワルトルタより

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P258(天使館35・7)

 

十戒は律法である。私の福音は、この律法をより明らかにし、もっと従いやすくする教えである。人間を聖人にするには、この律法と、この教えだけで足りる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音1巻P533

 

 赦されて、いつでも王国に入れるように、あなたたちの罪を痛悔しなさい。あなたたちから罪の呪縛を取り払いなさい。皆はそれぞれに、自らの罪を負っています。皆はそれぞれに、永遠の救いである十戒に背く罪を負っています。皆はそれぞれに、率直に罪を糾明するなら、どこで自分が誤ったかがわかるはずです。謙遜に、正直に後悔しなさい。言葉だけでは足りません。神を愚弄したり欺くことはできません。主の律法に立ち返るために、あなたたちの生活を変えるに至るほどの揺るがない意志をもって痛悔するのです。天の王国はあなたたちを待っています。明日。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P90

 

商売をする場合、正義を守りなさい。何かを売る時、“もっとたくさんもうけるために盗みなさい”と貪欲がそそのかすが“だまされるのが自分だったら悲しいと考え、あなたも正しい人でありなさい”という良心の声だけに耳を傾けなさい。自分がしてほしくないことを他人にするのはいけないということを忘れてはなりません。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P127

 

あなたの信仰には報いが与えられます。聞きなさい、信仰とは何ですか。しゅろの堅い種のように小さいものだけれど、“神がおられる”という短いことばが形づくるたった一つの主張が“私はメシアを見た”ということばで膨らみます。アブラハム、あなたが東方の三人の知恵者のことばで私を信じたように、我らの民の信仰も、遠い祖先の太祖たちが次々に伝えました。アダムからその子孫へと、罪人だったアダムの啓示も繰り返されました。

 

“神はおられます。私たちが存在するのも、神が私たちを造ったからです。そして、この神を知りました”この啓示は、我らの民の遺産として、神の出現、天使たちの出現、霊の光などによって、いよいよ完成されたのです。無限に比べれば、いつでも小さな種に過ぎないが、やがて根を張り、人間の動物的な傾向や疑惑などの堅い殻を破り、邪欲という雑草や多くの罪というかびを一掃し、心は気高く成長し、太陽へと天へ昇り、肉体の束縛から解き放たれることで完璧に神を知り、生命と死を超えて真の命に到達するのです。

 

信仰を持つ人は命への道を知っています。信じることを知る人は、間違えることがなく、見て認めて仕えることで永遠の救いに至るのです。信仰する人にとって、十戒が息絶えることはない。十戒の命令のすべてが、未来の自分の冠の宝石になります。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P205

 

 しかし、この者たちが教えに来るまでは、これから言うことを規準にしなさい。ことばは短いが、ここには私の救いの教えがすべて要約されています。あなたたちは心のすべてをあげて神を愛しなさい。権力者も、親戚、友人、下僕と民、それに敵も自分自身を愛するように愛しなさい。罪を犯していないと安心するためには、命令された行為、あるいは自発的な行為をする前に必ず、自分自身にこう尋ねなさい。『今、しようとしていることは、私自身に、もしされたらうれしいだろうか』と、もしうれしくないと思えば、その行為をしてはならない(*)。以上の単純な規準を守って、神が来る道、神へ行ける道を求めなさい。子供が感謝しないとか、自分を殺そうとする者があるとか、あるいは盗みをするとか、妻を奪われるとか、姉妹や娘が汚されるとか、あるいは家や、畑や、忠実な下僕を奪われるとか、そういうことは、だれも望んでいません。この規準を守れば、あなたたちはよい子供、よい親、よい夫、よい兄弟、商人、友人となります。こうして徳に進めば、神はあなたたちのもとへ来られます。

 

(*)

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P209注

マテオ7・12、ルカ6・31、これは黄金の法則と言われている。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6卷中P53/390・7

 

 信仰を持つ人は、命への道に入ります。信じる人は、道から外れることがありません。信仰者は、見て、知って、主に仕え、永遠の救いを得ます。彼にとって、十戒は、命にかかわる大切なもので、その命令のすべては宝石です。その宝石は、将来の冠を飾るものとなるでしょう。贖い主が来るという約束は、彼の救いです。私がこの世に来る前に、死んだとしても、たいしたことではありません。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上P193/452・5

 

「皆さん、聞いてください。詩篇作者のダビデは、詩編の中で(詩編15)こう尋ねています、『どのような人があなたの幕屋に留まれるのですか。どのような人が、あなたの聖なる山に住めるのですか』と。そして、その幸運な人と、その理由を挙げます。彼は言います、『咎(とが)なく歩み、義を行い、心からまことを語る人、舌に任せて人を傷つけず、友に悪を行わず、隣り人を辱めない者』だと。そして、神の住まいに住む人を述べた数行後で、悪事をしないこのような祝福された人が、どんな善行をするかを述べます。こうです、『主に見捨てられた者をさげすむが、主を畏れる者を尊び、悪いことはしないと誓い、悔いることはない。金を貸して利息を取らず、賄賂を受けて、罪なき人の不利を謀りはしない』。そして、こう結びます、『このように振る舞う人は、とこしえに揺らぐことがない』と。わたしはまことに言います。詩編作者の言ったことは真実です。このように振る舞う人は、とこしえに揺らぐことがないと、わたしの叡智で認めます。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上P242/455・15

 

 人は、聖なるでなければに仕えられないわけではありません。唯一の王、すべての王と民のの前に、この世のすべての国境が消え去る時が来たからです。そのは、すべての人を新しいにするために、一つに集められます。その民から除外されるのは、十戒に服従するふりをして、を欺こうとする人だけです。十戒には、ユダヤ人であろうと、偶像崇拝者であろうと、善意のある人すべてが従うことができます。なぜなら、善意のあるところには、正義への自然な傾きがあり、正義を好む人は、真のを称えることに困難を感じないからです。真のを知りさえすれば、そのを称え、安息日を守り、両親を敬い、殺さず、盗まず、偽証せず、姦通や密通をせず、他人のものを望みません。今までそうして来なかった人は、今から、そうするように努めなさい。そうすれば、魂を救われ、に自分の場所を獲得できるでしょう。こう書かれています、『わたしの契約をしっかりと保つすべての者に、わたしの家の中で名を与え、喜ばせる』と。そして、聖なる意志を持つすべての人と言われているのは、至聖なる方が、すべての人の共通のだからです。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷上452・11/P202

 

 十の石碑とは十の掟です。あなたがたのは、それらを刻み、永遠の宝に導く道に置きました。そして、は、あなたがたをその道に導くために苦しみました。あなたがたは苦しいですか? も苦しみます。あなたがたは無理を強いられますか? もそうです。あなたがたは、どこまで知っていますか? 彼自身彼自身から別れさせるのに苦しみ、人類のあらゆる苦悩を持つ人間になるという意味を知ろうとします。生まれ、寒さと飢えと疲労に苦しみ、嘲りと侮辱と憎しみと誘惑に苦しみ、最後に死にます。あなたがたに宝を与えるために、すべてのを流して。は、あなたがたを救うために降り、そのすべてを苦しみます。は、自身がそれを苦しむことを許すことによって、において苦しみます。

 はっきり言います。人がに達する道がどんなに大変であろうと、人のがたどる道ほど大変で、悲しいものはありません。からこの世に来て、この世から犠牲に進み、あなたがたにへの扉を開きます。

 の石板に、すでにわたしのがあります。あなたがたのために、わたしがたどっているには、わたしのがあります。への扉を開くのは、わたしののほとばしりです。わたしのによる浄化と栄養によって、あなたがたの魂は清く強くなります。でも、流される血が無駄にならないよう、あなたがたは十戒の不変の道を歩まねばなりません。

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷中P206/471・7

 

愛は、ご自身の意志を、どのように課すでしょうか? 耐えられない重荷でしょうか? 忘れやすい無数の戒律でしょうか? いいえ。ただ十の命令です。動物である人間は、仔馬のように、轡(くつわ)をつけなければ滅びてしまうからです。でも、人間が救われるとき、恩寵が人間に回復されるとき、神の国ができるとき、つまり、愛の王国、神の子らと王の僕の国が出来るとき、ただ一つの命令ですべてを含むことになります。『あなたのすべてを尽くして、あなたの神を愛し、また、隣人をあなた自身のように愛せよ』。なぜなら、おお、信じなさい。神が恐れられるのではなく、愛されるようになったとき、愛は神に仕えることを喜ばしいものにするので、愛である神は、軛(くびき)を軽くするだけでなく、喜ばしいものにします。愛されるときのみです。神ご自身が愛され、兄弟たちの中で愛されるときのみです。究極の掟は、なんと簡素になるのでしょう! 簡素において完璧な、神ご自身のようです。聞きなさい。あなたのすべてを尽くして、神を愛しなさい。また、隣人をあなた自身のように愛しなさい。瞑想しなさい。この二つの文に、厄介な六百三十の戒律、すべての祈り、祝福が、もう含まれていませんか? 無益な揚げ足取り、宗教ではなく神への隷属に過ぎないものは、もう取り除かれています。あなたが神を愛するなら、一日すべての時間に、神を称えるでしょう。あなたが隣人を愛するなら、相手を悲しませることをしないでしょう。嘘をついたり、盗んだり、殺したり、害したりはしないでしょう。違いますか?」

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/7卷下P188/493・5

 

偶像崇拝と異教信仰は、克服することができます。賢い人は瞑想して言います、『真のの所へ行けば、永遠の喜びがあるのに、なぜ偶像に屈して、より高い生の夢を捨てなければならないのか』と言います。人は、日々を惜しみ、死を恐れます。偽りの宗教や不信仰の闇に覆われれば覆われるほど、人は死を恐れるものです。でも、真の信仰に近づく人は、死を恐れなくなります。死の先に永遠の生命があり、そこで霊魂たちは再び出会い、苦しみも別れもなくなることを知っているからです。生命の道を進むことは、難しくありません。唯一の真のを信じ、隣人を愛し、すべての行動において誠実であればよいのです。

 あなたがたイスラエル人は、何が命じられ、何が禁じられているかを知っています。けれども、わたしの話を聞いている人びとのためにそれを繰り返し、彼らを遠くへ連れて行きます・・・(そして、イエズスは十戒を言う)。真の宗教は、そこにあります。派手で空虚な犠牲にあるのではありません。完全な道徳と完全な美徳の教えに従い、慈悲深くし、不名誉な行いを避けなさい。邪悪な人の虚栄、占い、前兆、夢を捨てなさい。知恵の本が言うように、からの賜物である、健康、富、知性、力を誇ることなく正しく用いなさい。うぬぼれは、愚かさのしるしです。人が健康で、豊かで、賢く、強くいられるのは、がお許しになる限りのことです。人を罪にさえ導きかねない、不道徳な望みを育んではいけません。人は、動物としてではなく、人間として行きなければなりません。自分を尊重しながら。

 

 

 

22.ヴァッスーラより

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻Pxvii

 

「悲しまないように、友よ 私を愛する者たちよ、 私の堪え忍んでいるものを忍びなさい、しかし、私を慰め 信じるように。私の名のもとに 大いなるわざをなし遂げるであろう。 私が寛容であるように寛容でありなさい。 私は飢え、渇き しばしば餓死しそうであったが あなたは助けに来てくれた。善いわざを続けなさい 報いよう。まことに言う あなたは独りではない、私がともにいる。 私と一致し 平和のうちに生きるように。あなたは私の血の子孫 王国の跡継ぎです。主の心が愛であり 掟の心は愛に基いていることを伝えなさい。私の家に管財人は不要だと 私の者たちに伝えるように。この者たちは私の日に正当化されることはない 我が家を一つの事業としてしまったのはまさにこの者たち。 あなた方の心に住むように 私は、我が霊を送った、このため 私の教会があなた方の心のうちに再建され、心のうちで互いを兄弟と認め合うようになるのを あなた方のうちに住む霊が 指し示して下さるであろう。」(ノート55、‘91・9・9)

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P205

‘90・8・5−29 ― 十誡 ― ロードス島にて

 

♡ 私に依りかかって、私の愛を思いなさい。 私は十字架の道行を独りで歩んだ、我が民の男たちのうち 一人としてともにいなかった。 理由なく憎まれ、暴力と法のもとに捕らえられた。 私の勝ち取った報いとは苦しみと屈辱。 あなたの過ちを身に受け 私の創造したその手が私を打ち 醜い姿に損なうのを許した、しかしこれらの傷を通して あなた方は癒されたのです・・・ですから迫害する者たちを祝福しなさい、彼らを裁かないように、むしろ祝福し 祈ってあげなさい ♡ 今日は目に涙を溜めてこう告げる: 私と我が十字架に対して 敵として振舞う者たちは多い。 福音を説教する全ての者たちの中で、実際に私と我が王国のために働く人びとは殆どいない ♡ 我が掟全体は唯一の命令のうちに要約される

           愛しなさい ♡

私の掟につき従い 日々の行為を糾明したなら 我が十戒にそっては生きていないのを発見したであろうに。 そしてたとえ彼らが:「あなたの十戒に従っていないと仰しゃるのですか? ではどうやって従えばよいのか? もしわたしたちが十戒に従っていないと仰しゃるなら どうやって十戒が教えられましょう?」と私に言うとしても やはりそれに従ってはいない あなた方のうちに愛が欠けている: 我が十字架の冠は愛です。 愛するとは我が十戒に従って生きることです。 私にたいして愛がなく 霊的な妬みだけで弟を殺したカインのようであってはならない・・・

 

(十戒に言及される: という神のご意向が分かった時、全部は書き取れないのでは、と恐れました。)

ああ 神よ、ひとりでは絶対にできません!

 

この仕事を独りですると誰が言ったか? あなたに告げるどの言葉も 書き下ろさせよう。 急がなくてよい。 望むなら区切って書き取らせてもよい。

 

主よ、私の能力に合わせて進めてください!!

 

あなたの能力を満たし得る我が能力を あなたは忘れている。 来なさい・・・霊魂を得るために我がわざを分かち合いなさい。 私の渇きが分かるか? 私は霊魂に渇く、聖性に渇く、あなた方の和解を渇き求めている、私であるすべてと 私を反射させるすべてに、まこと愛する子どもたちよ、渇いているのです。 あなた方に神性を返したいと渇き求める。 愛を返してくれるようにと渇く。 あなた方の本来の根源を回復し 新に我が聖なる名のもとに あなた方を結び合わせようと渇き求める。 本来の根源とは 我が崇高な愛より芽を出したものです。 私は礼拝に渇く、しかし見なさい、あなた方がどうなってしまったかを、何をしてしまったかを! ああ 時代よ! 私への礼拝をやめ、代わりに、偽りの神々を増やし続けた、我が十戒に従わないで、そう 我が掟を守っていない。 悲惨な時代よ どうなってしまったか! 私を礼拝するために名を呼ぼうとはめったにしない。 愛ゆえに呼ばわることも 私を尊んで もはや奉仕を申し出ようともしない。 あなたの天の御父が誰であり 誰に顔を向けるべきかを思い出させようと 生涯にわたってどの日も声をかけて来た、しかしあなたの心は私に向けられていない 精神にもその気がない、それは私たちを一致させ 一つとするへその緒を断ち、こうして自分たちの掟を創り出し: 神を持たない者 と自らを呼ぶほうを選んだからです。 虚栄心にかられ 自分を私と同等であるかのように見なしたがっている。 今やこう言って:「私は神と同等で 神の王座に座っている、私の知恵は世界中に大きな贅沢と大きな権威を積み上げた」と。 あなたの商いの腕は くに民が群がって手本とするほどです。 そう、神々のようになると保障し、先祖に禁じられた実を巧みに食べさせた 太初の蛇の言葉に じつは従ったのです(*)。その時は目が開かれると思ったが 実際は視えなくなり 今日にいたるまで いのちと聖性を与えるこのへその緒を断ち切ろうとしてもがいている、だが見い出すのは死である ♡ ああ 悲惨な時代よ! 英知の代わりに愚かさに仕え、聖なる者の代わりに大蛇に仕えている。 我が十戒に従ってはいない、そう 私の制定した掟を守っていない。 たえず私を試している ♡ あなたの時代は 我が子よ 我が掟を守らないために重大な冒涜を犯している。 もし守るならいのちが見い出せる我が十戒を 心に留めようとしない ♡ くに民は次々と十戒のすべてから逸脱し 反逆に冒涜の罪を重ねている。 大蛇の王国とともに、黒い獣は(*2)、別名が偽預言者である、第二の獣を伴い、世界を征服し 残されているわずかな光も吹き消そうと、どの高台にも 枝を広げる木の下にも、自分たちのために冒涜の柱を打ち立てた。 その七つの頭のそれぞれに自分たちの神々を表す偶像を獣はこしらえた。 これらの偶像は、大蛇の権力によって、高所に据えられている。 次に彼らは自分たちの中から高い地位に置く祭司を任命した この者たちは我が聖所の中心で今日役目を果たしている者たちです。 しかもこの者たちは私を礼拝していない。 そう装ってはいるが。大祭司に扮装して歩き回り(*3)、獣そのものと この世に適う獣の作品を拝み 仕えている。 この者たちは相いれない いのちを持たない神々を拝んでいる。 かつてその先祖たちもそうしたように。 彼らは信心を嘲り 十戒を否定する 我が子よ、私の永遠の栄光に代わって、つまらない模倣に過ぎない、生身の人間の象り(*4)を拝むようにと 出て行ってはすべてのくに民に教える・・・ああ! どれほどこの者たち(*5)が私の上に重くのしかかっているか! 大蛇から授かった権力(*6)により、諸聖人と 獣の肖像(*7)を拝むのを拒む同族でない、すべての人びとに対して戦いを挑んで 無慈悲な憎しみと復讐の精神を頂点にまでつのらせる。 そこで言う: 私を信じ 礼拝する人びとは幸い。 私につき従う人びとは幸い。 我が約束が実現の途上にあると信じる人びとは幸い この人びとの額には我が愛の溜息が刻印されよう。 まことに言う: 私に仕えようとするなら、私に従わなければならない。 ああ 時代よ、怖がらないで私のもとに戻って来なさい。 まだ時のあるうちに戻って来なさい、さもなければ我が日が近づいているというのに どうやってそれを迎えるつもりか?

 

 *創世記3・5  *2黙示録13  *3‘88・1・30のメッセージを読むように。

 *4偽りのキリスト  *5神はお名前もお教えです。  *6黒ミサ  *7偽りのキリスト

 

このように言われている: 私以外にいかなる神々もあってはならない ♡ 他の神々、周囲のくに民の神々、に従ってはならない、しかし人びとは黒い獣たちに促されて御父の十戒の第一を踏みにじり 自由を公然と宣言した、その獣たちの頭には多くの人の血の責任が置かれよう。 我が名をみだりに呼んではならない、とは十戒の第二の掟です。 今や、傲慢なくに民、私を大切と思わない民が、私の聖なる名を攻撃している。 その口は冒涜に満ちた話し方をし 何らかのいまわしい利益を見い出すと直ぐ 他の人びとにへつらう。 論争に従事すると 我が聖なる名に悪態をつく。 私の神聖と聖性を冒涜する。 そして今日我が教会で役目を果たしていながら、獣の権力を中心に据え、我が掟にたいする知識を誇る者たちは、まさに我が名をみだりに呼ぶ者たちです。 人びとの面前で天の国を閉じてしまい、自ら中に入ろうとも 入りたい人を入れようともしない。「盗み」に対して説教する、だが私から霊魂を盗み取っている。 姦通を「禁じる」、だが黒い獣につき従い言いなりになって 彼ら自身が姦通を犯している。 偶像を蔑む振りをする、それでいて我が聖所を強奪する。 そこでたとえこの世代が 我が聖なる名を冒涜し みだりに用いるとしても、それは黒い衣を纏う(*)まさにこの者たちによって 自由に与えられたからで、悪徳に満ちた、放任主義による。 彼らの目的は聖性と義の根源を破壊し、無法を絶頂にまでいたらせることです ♡ 世代よ・・・我が再臨の時、こう言わなければならないか: 一人の善人も残っていない、理解している人、私を探し求めている人は誰もいない、と? 安息日を聖とするように覚えておきなさい と求めた、だがあなた方は不潔をもってそれを逆転させ 自らの身体や精神を辱しめる醜悪な楽しみや習慣によって汚した それは神聖な真理を偽りとして手放し 私に仕える代わりに被造物を拝み それに仕えたからです。 ソドムとゴモラもあなた方の不潔と比べたなら 殆ど無垢で清く見える。 まことに言う、その日には ソドムとゴモラのほうがあなた方より軽い咎めで済まされよう、あなた方の殆どは安息日を守っていない、そう、我が掟を守ってはいない・・・聖書にはこう書かれてある: 「心を尽くして父を敬い、また、母の産みの苦しみを忘れてはならない。 両親のお蔭で今のあなたがあることを銘記せよ。 あなたは両親にどんな恩返しができるのか?」(シラ書7・27−30) そこで: 父母を敬いなさい という十戒に従うように。 殆どの人がこの掟に従わないと どうしてこれほど多くのあなた方は驚くのか? 愚かで邪悪な考え方によって この子どもたちは道を逸れ 虚しい製品を崇拝するようになり、その霊は幼児期から怠惰の精神に満ちている。多くの両親は我が霊の あの永遠に尽きない泉を 子どもたちに与えなかった。 英知は昼夜となく彼らを呼んでいた、しかしこの世代は英知を締め出し、そして過ぎ行く日ごとに、あなた方の子どもたちは私へと連なる道からだんだん遠く離れて行った。 たとえ誰であろうと、若くとも年老いていようとも、私を彼らの神として認めるなら、私の面影を反射する、そして愛ゆえに、私に従い 敬うと同じようにして 彼らの両親にも従って行き 敬うであろう。 しかしこの世に適うあらゆることが子どもたちを堕落させ 私のもとに来れなくさせた。 愛が欠けている。 多くの両親は子どもたちが従順でないとこぼすが 私に対しても全く同じようにしている。 おや、彼らは本当に十分善良で、忍耐があり寛容だと言い切れるか? これらの徳をすべて持ち合わせているなら 子どもたちにも従順の徳があり 両親のどちらをも敬うであろう。しかし言っておく: この世代の精神は空疎なために 暗やみが訪れてそれを満たした。 なぜなら彼らの目には哲学者と映る自分の姿のほうが 永遠に続く我が栄光より重要だからです。 こうして、聖性に欠ているため 情欲に駆られ あどけない若さのうちから出て行って 自分の身体を辱しめる。 

 

‘90・5−29はノート45に続く

*フリーメーソンの分派

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/4巻P212

‘90・8・5−29の続き ― 十戒 ― ロードス島にて

 

あなた方の世代は我が十戒を侮り 神聖を汚す紛い物に置き換えてしまった、そして今日にいたるまで獣の口からは あなた方の子どもたちの精神を曇らせ 生けにえとしてライオンの口にまっすぐと引き入れるような 悪魔的製品が産み出されている。 第一の獣を拝み 人間の作った神々に仕えさせようと 若者たちの精神を虜にし、私に帰すべき名誉と敬意をそれらに与え、こうして両親の、不従順を反射させている ♡ まことに言う: 道案内として我が十戒を受け入れるのを拒み 代わりに不品行を選んだ不従順な者たちには、しまいに火が待ち受けている。 ああ 従順な心の持ち主は幸せです、完徳に達するであろう ♡ そこで言う: 主への畏れに対し 不従順とはならないように ♡

 

殺すのを禁じたと知っていよう、世代よ! 私のものと自ら称し あなた自身を教会の一員と呼び 殺すなかれと説教しながら、どうして殺すか? 胎児に対する犯罪を積み重ねながら 審判の日には私の面前で自分を正しいと見なし 無実を敢えて主張する気か? 天からは恐ろしい光景を見守っている、ああ! この子どもを形造りながら、拒んで名前も与えずに 未練なく胎内から死に追いやるのを見ていて どれほど苦しいか。 この子どもを形造った胎は もはやこの子を覚えていない。 こうした者たちにはこう言う: 「自分の剣を研ぐがよい、しかし自分の備えた武器によって殺されよう。 今や子どもではなく 悪を孕んでいる。 悪意を孕み 災いを産むであろう、あなたは落とし穴を掘り、それを深くしたが、仕掛けたその穴に落ちる! 災いが頭上に帰り 残酷な業が自分の頭にふりかかろう(*)」

 そしてあなたです(*2)、私に忠実で私の名にしっかりと留まっているという評判だが、あなたのことをすべて知っている、そう、生き生きとし繁栄しているという評判だが そうではない、死んでいて腐敗しかかっている ♡ 悔い改めなさい! 数え切れないほどの霊魂たちをあなたにあずけた。 しかし悪魔は取り引きして 自分の金銀と交換させた。 そう、じつに! 今やどのように生きているかを知っている、ねぐらに潜む(*3)ジャッカル(*4)のように暮らす。 このねぐらの上に本道を通そう。 突然あなたを訪れ 裸の身を暴く、そしてその日が来たなら いのちの木から食べるのを許すまい。 よく聴きなさい: あなたは殺すなかれと説教する、だが私の霊を殺している。 掟を誇っていながら 我が隠されたマンナの神秘を理解しないで それに背いている。 そう 私の奇跡的な養いも 我が変容の神秘もまだ理解していない ♡ 時の終わりには天からのマンナによって生きながらえさせると約束した。 ペルガモの教会には:(*5)「勝利を得る人に、私は隠されたマンナを与えよう。 また、白い小石を与えるが、その小石には、それを受ける者のほかは誰も知らない新しい名が刻まれている」と言った ♡ あなたの時代にとっておかれたこのマンナを 今日差し出している、飢え渇いた霊にとって滋養のある、天からの食べ物です、内面の砂漠を満たすために 我が霊を満ち満ちて注ぎ出す、そして我が天からのマンナは、無償で、与えられる、貧しい人びとの食物だからです・・・しかしあなた方は理解していない・・・そこでそれを食べるのを拒み ほかの人たちが食べるのも禁じる。「白い小石」には私の新しい名がすでに刻んである それは貧しい人たちにだけ知られよう。 あなた方は謙遜で貧しい者だと主張する だが謙遜でも貧しくもない あなた方の霊はサタンの富の上に座している ♡

 

私は地上の王たちを治めているが あなた方にはどのような不潔な行為も 姦通も犯さないように頼んだ。サタンは姦淫を上品な衣でまとい、位階制度の中 一般信徒両方の間で その意味を失わせた ♡ もうこれ以上はあなた方の罪を耐え忍ばない。 サタンの恥ずべき権力を追い求め それを旗じるしに我が神聖と聖性 および聖なる生けにえを廃止しようとする者たち(*6)に対しては、こう言う: 神を持たない人たちの間で 私の名が冒涜されている責めはあなた方にある ♡ 卑しい情念を持つ堕落した者たちを叙階して 私の聖所を汚した。 そこでたとえ神不在の人たちが今日姦淫を犯し 自然のことと見なすとしても それは真理を曲げようと企む獣の指示による 教会内の大いなる放任主義が原因です。 あなた方の身体が我が神秘体の一部であると どうしてそう簡単に忘れてしまうか? あなた方の身体は我が聖霊の神殿なるがゆえに 倒錯から自由であってほしい ♡ 私、あなたの神は、聖であるがゆえに聖なる生活を送っているのを見たい ♡ 被造物よ! 私をあなたの神として認めるなら 我が掟を承認し、その結果それに従うことができる、しかしあなた方の多くはそうしなかったがために 今や死骸となってこの砂漠に散らばっている・・・罪を犯すようにとは命じなかった、そこでどうして霊魂の落とし穴に陥るような仕方で 自由を用いるか? あなたに赦しを与えられるように 私に向って祈りなさい、そうしないなら負け犬となろう ♡ 婚姻は尊ばれ聖とすべきです。 私は主であり、あなた方を献身、平安、愛と聖性の生活に招いた: あなた方を永遠に私のもとに招いている 我が 優しい慈しみと愛のうちに 契りを結ぶようにと招いたが あなた方が私に属し ともに契りを結ぶ仲だと理解するまでは、 罪を犯し 私に対する姦通をやめないであろう。 たとえあなた方を荒野に引いて行き、霊魂がいかに裸の身で 惨めかを分からせるために、我が聖心とその果てしない富を そこで顕す必要があろうと、私は、我が聖なる名ゆえに、あらゆる手を尽くして正気を取り戻させるまではやめない。 それからあなた方を罪から引き離すために 巻き物のようにして、私のあらゆる知識をくりひろげよう。 私にはあなた方を癒す力がある、それゆえやって来て 悔い改めなさい!

 

我が聖霊は盗むなかれと求めている。 もし自らを私のものと称し 我が掟を知り 真理に根差していると主張するなら、他の者たちを叙階し 自らも司祭となっているあなた(*)は、どうして盗まないようにと自分に教えないか? しかしあなたは身が売られるのを許し、無法の旗じるしを揚げるように教えた獣に、ひそかにつき従っている。 あなたはこの世に属し 非難すべきことが沢山ある。 舌では誇り高く 大きなこと、善いこと、正直なことを行っていると主張し、仔羊の仮面をかぶり 正しい人びとさえ欺いている。 しかし言っておく: 私を欺いてはいない、仔羊の仮面のかげには 世界がかつて見たことないほどの 人類に対するいまわしい破局を 隠しているのを知っているからです: その目的は我が生けにえを廃止し(*2) 不法と偽りに置き換えることです。あなたは預言者の振りをして 私自身の預言者たちを否認する。 いのちの本から名前が取り消されるのを恐れないのか、していることと言えば何百万の霊魂たちを私から盗み取り 死に追いやっているだけではないか? ― あなたの神わざは今日多くの人を感銘させている そして剣で我が預言者たちを打ち負かした日(*3)には さらに大きな感銘を与えよう ♡ 今やあなたは完全に武装し 彼らに戦いを挑んでいる その証しが耳障りとなり、我が十戒にたいする彼らの従順は さらに聞き捨てならないからです。 彼らはあなたにも獣にも従わなかった、私に忠実を守り 偽りを口にするのを自分に許したことない(*4)、我がアベルたちです。 世の目には彼らを倒したと映ろうが、あなたの喜びはつかの間であろう、落雷のように 我が義をもって圧倒するからです。 彼らに再び息を吹き込むために 私は降って来て(*5)、あなたのまさに目の前で、彼らを我が聖所の 光の柱として、甦らせよう・・・それから天が開かれ 私を見るであろう、そしてもし: あなたの立派な衣はどうして緋色に染まっているのですか? 衣が紅く、服は葡萄のしぼり桶を踏んだようになったのですか(*6)? と尋ねるなら 教えよう: 私は独りで葡萄のしぼり桶を踏んだ。 我が民の男のうち 一人もともにはいなかった。 私は激しい怒りのうちに 敵を踏みつけていた。 私を侮り 挑発するのをやめようとしないため。 私はこの地上のおもてから あらゆる人間的な教義や取り決めを除くために訪れた それらは皆にとって毒の食物で、我が神聖と聖性を汚そうと、剣の刃先であなた方に強いたものだった。 これが終わりの時の 最初の戦いとなる。私は(Iam):神々しい騎手(*7)、私は(Iam): みことばです ♡

 

この地上が嘆き、うちしおれ 木々が実らないで葉が枯れていくとすれば、我が掟をあなた方が守っていないからです。こう言わなかったか: 偽証するなかれと? ところがアベルたちの間にカインたちもいる、槍の刃先(*8)の置かれた我が聖所の中心部でも、この十戒がやはり守られていない。カインの任命した司祭たちは今や 地上の隅々にまで送られて、私を復活した者として証しするか、我が生けにえを証しするのではなく、聖書の猿真似でみことばを責め、誤ったエクメニズムのもとに、偽キリストをすべてのくに民に教え、世界に合理主義と自然主義の一部分、汚れた食物: 偽り を与えている。 言っておく、彼らに勝利はなく いつまでも治めもしない: 義は勝利しよう! 永遠に栄えさせてはおかない あなたについて知り尽くしているからです そして大蛇の権力によって 私自身の司祭たち

 

 *獣の配下:偽りの預言者  *2ダニエル書12・11  *3黙示録11・8  *4黙示録14・5

 *5黙示録11・11  *6イザヤ書63・2  *7黙示録19・11  *8偽預言者

 

を押しつぶして打ち負かすために あなた自身の司祭たちを任命し 高座につけているのを知っているからです。 言っておく:時が終わりかけている。 あなたを高座から引き下ろし 私自身の司祭たちと、諸聖人 天使たちの足もとに伏させ、獣の奴隷だと認めさせよう・・・間もなく、非常に間もなく、不意に、盗人のようにしてあなたを訪れる、そして: 偽りそのもの、あなたの偽キリスト を打ち倒そう。 こうして真理を もとに戻す。 あなたが作り出し、どのくに民にもそれを敬うように強いている(*) 私の誤った似姿を 間もなく打ち壊しに訪れる。いや、あなた方は勝者とはなるまい! この砂漠で目的なくさまよう、我が娘 息子たちよ、私のもとに戻って来なさい、悔い改めなさい! もう罪を犯さないように。 あなた方に愛が欠けていたため しばしば誤った証言をしてきたのを知っている、だがその敵意ゆえに 我が金言を教えてもらえるようにと羊飼いに護られていなかった。 それでも、横柄で 私にたいして敵意があろうとも: 愛している! とあなた方に向って叫ぶ すでに赦しを与えている。 ありのままで戻って来なさい 我が大いなる愛と慈しみを証ししなさい、証言したいか? 私の名: イエス キリスト、神の愛する子 救い主 によって証言しなさい ♡ あなた方を愛するように 互いに愛し合いなさい。 すでに私の隠されたマンナを受け 我が愛の印を額に受けている人びとは 歓びなさい。 ♡

 

隣人の持ち物あるいは妻をむやみに欲するなかれと命じてある、この律法も信徒から司祭たちにいたるまで守っていない。 私は我が生けにえを通して、地上のあらゆる被造物への愛を現した そしてこの生けにえを通して 永遠のいのちと愛のメッセージを与えた。 あなた方の多くは愛、赦し、謙遜、寛容、聖性をたび重ねて、説教する、それでいて多くの者たちは ほしいものが手に入らないといって殺しも辞さない。隣人に与えたものが自分にはないからと、いつまでも毒矢を投げ合う ♡ アベルの時代から今日にいたるまで この罪は絶えずくり返されている。 兄弟の持ち物を最初に欲したのはカインだった、しかしほかに何人のカインたちが 今日いるであろうか? それにあと何人のエサウがいようか? エサウはほかでもなく都合がいいという動機だけで 生まれながらの権利を放棄し、長子相続権を棄ててしまった。どうしてアベルにならって聖であろうとしないか? 愛するとは 聖なる生活を送り 我が十字架によって生きることです。 昼夜と私を讃えながら 隣人の持ち物を切望するなら、悔い改めを 要求する! もし私に:「どうして隣人の持ち物をみだりに欲していよう、私は、持ち物、人生そしてすべてをあなたに献げた、どうして人の持ち物をほしがっていようか?」と尋ねるなら 教えよう: あなたの霊は隣人の霊を、彼の霊に与えたまさにその賜物を みだりに欲している。 悪魔はあなたの霊魂を罠にかけた、落ちてはいけない!私の家で最初にこうした争いが あなた方の間で起きたのはどこか、それはおもに霊的嫉妬からだったであろう? 何かをカインは欲したが 手に入らなかった、そこでアベルを殺した。 エサウは何かを欲し 手に入れるために長子相続権を放棄した ♡ 満足できない野心があるとする、そこで隣人の幸せを無視して不満にさせるか、出て行って殺すのも厭わない。 まことに言う: 心の底に苦い嫉妬心 あるいは利己的な野心があるとしたら、決して自分の権利を求めたり 偽りで真理を覆ったりしないように 嫉妬と野心のある場所はどこでも、不調和、偽善と なまぬるさがある。 罪を犯し続けないで 悔い改めなさい! そして偽預言者に任命されサタンの住み家に属する者たちに 影響されてはならない。 彼らの言うことに耳を傾けないように。 私は間もなくあなた方のさ中に玉座をともなって、降って来よう、そこでまだ時のあるうちに 来て悔い改めなさい。

  黙示録13・16

 

善と悪のはざまを揺れ動く者たちよ 来なさい、罪に取りつかれ 自分を教育しようとしては次々と狂気を追うが、決して真理の知識にたどりつけない愚かな婦人どもを相手に隣人の家に入り込んでは威信を示そうとする(*)者たちよ 来なさい。あなた方がどれほど見るも哀れであるかに気づきなさい そして私に咎められても誤解しないように。 どんなに愛しているかを悟ってほしい ♡ 我が栄光のために働き 左も右も見ないように。 左を見るなら 飛びかかって引き裂こうと待ちかまえる飢えた狼を見るであろう、右を見るなら あなたのために掘られた、落とし穴を見よう。 そこで与えたものに、世代よ、満足しなさい そして私があなたと分かち合っているように 分かち合いなさい。 私の火は必ず訪れようが、ああ・・・あなた方の非常に多くはそのそなえが出来ていないであろう、あなたの時代が信じないで、私を拝むことなく、希望することも愛することもしないで、真理と我が十戒を 冒涜に置き換えてしまったからです。 あなた方のさ中には愛が欠けている。 愛する生き方をしていない、それに:「主への畏れは知恵の始まり」とが何を意味するかを理解していない。 もし私を畏れるなら、祝福されている、私を畏れるなら、完徳に達するであろう、私を畏れるなら、我が甘い葡萄酒であなたを酔わそう そして我が産物で満たす。 私を畏れるなら、平安に生きる。 私を畏れるなら、英知がはるばるあなたの戸口まで訪れよう。 私を畏れるなら、あなた方は我が十戒の句点を一つ変えることなく それを熱心に守ろう。 そこで皆には二心を持たないで生きるように勧める。 まだ時のあるうちに私に 立ち帰りなさい。 罪に罪を重ねてしまわないように。 この最後の警告に 耳を閉じてしまった 頑なな霊魂たちにとっては 悲しいかな! 我が立ち帰りの日にはどうするか? 私は忠実で真実な者(*2)として知られている そしてこう言う:義は勝利する ♡ 当惑しないように、我が子よ、書かせたものにたいして 煙に巻かれたように立ってることはない、あなた方の時代に、我が教会は、ちょうどユダと同じように、まさに私自身の者によって裏切られると予告されていたからです、そして背教は教会の中から起ると。 私は我が食卓をともにした者たち、私とつながり、ともに飲んで食べた者たちに裏切られるはずだった。 しかしもう非常に間もなく、覆われているすべては露にされ たとえと比喩で語っていたものがはっきりと表われよう。 貧しい人びとに我が諺やたとえを明かす。 この世代が過ぎ去る前に、私の力と栄光をもって偽預言者を転覆させよう。聖書に言われているすべては こまかい点まで成就されなければならない。 こうしたわけですべてを書き下ろさせた これらのメッセージを吟味した後に、どの文字にも見い出せる本物としての特徴を見分け 我が恵みによって皆に与えられたみことばであると 理解するように。 愛のか細いこの炎を生き返らせに私は訪れた、偽預言者によってすっかりかき消されてしまう前に・・・(イエスはさめざめと泣かれました。)・・・私は泣いている、そうです。 彼は我が家に宿り 芳しい献げ物と生けにえを捧げる代わりに、悪魔の指し示すあらゆる悪魔的形態: 不純、乱交、不正、我が掟に対する不従順、放蕩、そしてまさに私自身の者たち、我が預言者たちの血に 酔いしれ このようなものと置き換えて・・・口からは自慢と冒涜を地上の隅々にまでたえず送っている。 この同じ口からは偽りの祝福と まことの呪いが発せられる ♡ 彼のことは全部知っている、何から何まですべてを、そして言っておく: 安息の地には 決してたどり着かないであろう。 私 主は、我が子よ、多くの人の血の責任を担うこの人、および彼を拝する者たち(*3)にたいする霊的直観を与えよう。目覚めていなさい、信頼込めて私の傍らに立つ力が与えられるよう いつも祈っていなさい。 聞くように: この反逆者の罪は はるばる天にまで達し 我が義を全面的に呼び覚まし、それに続いて 彼と一族郎党を宣告しなければならないために、我が魂に無限の悲嘆を引き起こした。御父は悦びと大いなる愛のうちに彼らを創造なさった、そして私も彼らを愛し 正しい人びとだけでなく不正な者たちも贖うために 自らを生けにえとした、彼らのために いのちを捨てた、しかし彼とその一族は、反対に、はっきりと意識しながら自分の信仰を破壊し 私に歯向かった・・・(イエスは再び涙を流されました)・・・我が契約をいつまでもきりなく破って・・・始めから終わりまで聖書を歪め みことば、真理、知恵と我が十字架の言語を 彼らは響くどら、合理的理論、哲学者の理論にしようとしている。 知恵を猿真似に、こうした空疎な教えをもって大衆を養い 死へと導くつもりです。その傲慢な口によって福音を猿真似し、我が復活 および神聖を全面的に猿真似する。 ああ! あなたの商いの時はもうすぐ終わる。 あなたと取り引きし 最もよい品質の商品をあてがった商人たちは沈められ あなたの運命にすべての民が恐怖しよう。 娘よ、エゼキエル書28を読みなさい ♡:「心が高慢となりあなたは言った: 私は神だ。 私は海の真ん中にある、神の住み家に住まう、と。 しかし、あなたは人であって神ではない、ただ、自分の心が神の心のようだ と思い込んでいるだけだ。 ダニエルよりも賢い。 あなたほどの賢者はいない。 あなたは知恵と悟りによって富を積んだ。 金銀を宝庫に蓄えた。 あなたは取り引きに 知恵を大いに働かせて、富を増し加え、心は富ゆえに高慢になった。 あなたは自分の心が神の心のようだと思い込んでいるなら、よし、あなたに対して諸国の中でも最も暴虐な、外国人を立ち向かわせる。 彼らはあなたの知恵の誇りに向って剣を抜き、あなたの栄華を汚そう。 あなたを黄泉に突き落とし あなたは海の真ん中で無惨な死を迎える。 金銀を纏った大祭司として まだ自分を誇示するか? 殺そうとする者たちに立ち向かっても、まだ自分が神、預言者だと言い続けるつもりか? いや、あなたは殺す者たちの手に掛かった人間であり 神ではない! そして他国人の手で神なき人のようにして殺されよう。 あなたはかつて美しさの極み、完徳の模範であり 知恵に満ちていた。 神の園である、エデン、我が聖所の心臓部にいたが、取り引きにいそしむあまり 暴力と罪に覆われた。 その栄華ゆえに知恵を堕落させてしまった。 あなたは膨大な数の罪と、不実な取り引きによって、私の聖所を汚した。」では黙示録18章を読みなさい ♡ 第二の獣 すなわち偽預言者、「大祭司」、槍、ジャッカルとは、皆同一で 同じです。 彼こそ寸分のすきなく武装し 我が掟(*)と預言者たち(**)に対して 戦いをいどんだ者です。彼とその一門は今までのメッセージで言及してきたジャッカルたちです。 ― 彼とその一門全体には飽き飽きし、罰するのも楽しいと思わない。 彼らを贖い私の養子として息子のように育てたかったが ともに滅びるであろう富んだ商人たちによって 彼らは買収されるのを自分に許してしまった。 私の悲しみを感じなさい、痛みを感じなさい。彼らは金銭という偶像を拝む者たちです・・・

 *別名モーセ  **別名エリヤ

 

わが神よ、おいで下さい あなたのアベルたち、本当にあなたを愛する人びとの心に 憩って下さい。数は少なく、多くないかも知れません、けれどあなたの聖人たち、試練に耐え、あなたを愛する人びとです。忠節で信仰心があり、あなたの仲間、初穂、そして偽りを口にしたことのない人びとです。この方がたのうちに憩われるよう、彼らをお捧げします。

 

♡ 私の熱心な子どもたち(あなたの時代の聖人たち)の心に 頭を休ませよう、来て、私を愛しなさい、我が心を慰めてほしい。 そして私と我が子たちの間に壁を築き くに民全体から我が愛を奪っている者たちに代わって 償いなさい、 ― 私は一人の霊魂にたいしても愛を拒んだことはない、 ― 絶え間なく 我がヴァッスーラ 祈りなさい、祈りを通して多くの人が清められよう。 犠牲と断食によって多くの人が浄められる。 ぐずぐずしてはならない。 時が迫っている ♡ もっと私を祝福し、もっと愛し もっと愛を示して 世の罪を取り除きなさい、ああ ヴァッスーラ、我が娘よ、私を喜ばせて この言葉を唱えるように:

 

 イエス あなたを優しく愛せるようにお教えください、

 あなたを愛さない

聖心の焼き尽くす愛を知らない者たちにも

このみ恵みをお与えください。 アーメン

 

 

 

 

23.十戒の教えを取るに足らぬものとし、そこに記されている悪をことごとく罪としては避けず、それでその中に生きている者らは新しいエルサレムへ受け入れられない

 

 

啓示による黙示録解説

黙示録22・15

 

『しかし外には犬と妖術家、淫行の者と人殺しと偶像崇拝の者とがいる、また偽りを愛して、それを行う者がいる』は、十戒の教えを取るに足らぬものとし、そこに記されている悪をことごとく罪としては避けず、それでその中に生きている者らは新しいエルサレムへ受け入れられないことを意味している(952番)。

 

 

 

 

24.一つの戒めに背くなら他の戒めに背くことも恐れない

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P106

 

人間が一つの戒めを犯して、それは罪ではないと自分に納得させ、かくて神を恐れないで戒めに背く時は、彼はそのようにして神を恐れる思いを斥けてしまったため、彼は他の戒めを犯すことを、例えそのことを実際に行わないにしても、恐れはしないのである。

 例えば、人が詐欺と不当な利得を―それはそれ自身においては窃盗であるが、それを―罪として認めはしない時は、他人の妻との姦淫を、人間を憎んで殺しさえもすることを、その者について偽りを言うことを、その者の家とその者に属する他の物をむさぼり求めることを罪として認めもしないのである、なぜなら彼は何か一つの戒めにおいて神を恐れる思いをその心から斥ける時は、彼は何かが罪であることを斥けるのであり、従って彼は、彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わるからである。なぜなら彼は盗人の地獄にいる奈落の霊のようなものであり、例え彼は姦通者ではなく、人殺しでもなく、偽証人でもないものの、それでもそのような者らと親しく交わっていて、彼らによりそうしたことは悪ではないと信じるように説きつけられることが出来て、そうしたことを行うように仕向けられることが出来るのである。なぜなら一つの戒めを犯すことを通して奈落の霊となる者は神に反抗して何かを行うことを、または隣人に反抗して何かを行うことをもはや罪であるとは信じなくなるからである。

 しかし一つの戒めに禁じられている悪から遠ざかり、そこからそれを神に反抗する罪として避け、そこから離れ去る者たちにはそれに対立したことが言われるのである。こうした者たちは神を恐れるため、天界の天使たちと親しく交わるようになり、主から導かれて、他の戒めに禁じられている幾多の悪からも遠ざかり、それらを避け、遂にはそれらから罪として離れ去り、万が一にもそれらに反抗して罪を犯すにしても、悔い改め、かくて徐々にそれらから引き出されるのである(黙示録講解1028番)。

 

 

 

 

25.単に自然的な人は、外の形では、霊的な人と同様に、同じ教えに従って生活している

 

 

天界と地獄531

 

 霊的生活の律法、社会生活の律法、道徳生活の律法もまた十戒の十の教えの中に述べられており、その最初の三つの中には霊的生活の律法が、次の四つの中には社会生活の律法が、最後の三つの中には道徳生活の律法が述べられている。単に自然的な人は、外の形では、霊的な人と同様に、同じ教えに従って生活している、なぜなら彼も同じように神を拝し、教会に行き、説教を聞き、敬虔な顔付きを見せ、人を殺さず、姦淫も犯さず、盗みもせず、偽りの証も立てず、その仲間の財産を欺き取りもしないから。しかしこの凡てを彼は体裁を作るために、自分自身と世とのために行うのみで、その当人はその内なる形では神を否定して、礼拝では偽善者の振る舞いをし、自分自身と自分自身の思いに帰ると、教会の聖い物を嘲笑して、それらはただ単純な大衆を抑えつけるに役立つものに過ぎないと信じている。従って彼は天界から全く分離しており、それで霊的な人間ではないため、道徳的な人間でもなく、社会的な人間でもない。なぜなら彼は姦淫を犯さないときでさえも、自分に対抗する者を凡て憎悪し、憎悪のあまり、復讐に燃え上がり、それで、もし恐怖のもとである社会法と外なる拘束とに抑制されないなら、彼を殺しもするのであり、こうしたことを欲求しているため、彼は絶えず人を殺していることが生まれてくる。彼は姦淫は犯さないけれど、それでもそれが許されることとして信じているため、絶えず姦淫を犯している。なぜなら彼は為し得る限り、また機会のある限り、それを犯すからである。彼は盗まないけれど、他人の財産をむさぼり、詐欺と悪辣な術策とは社会法[民法]に反していないと考えているため、意図では絶えず盗みを働いている。偽りの証を立てないように、また他の者の財産をむさぼらないように教えている道徳生活の教えの場合でも同じである。神を否定し、良心から宗教に根ざしていない人間各々の性質はこのようなものである。これが彼の真の性質であることは、こうした種類の人間が他生でその外なるものを取り去られて、その内なるものの中へ入れられるとき明らかに現れてくる。そのとき彼らは天界から分離しているため、地獄と一つになって行動し、かくして地獄にいる者らと交わるのである。神的なもの[神]を承認し、その生活の行為で神の律法を省み、十戒の最初の三つの教えにも他の教えと等しく従って生きた者たちは異なっている。これらの者は、外なるものを除かれて、その内なるものへ入れられると、世にいた時よりも賢明になる。なぜなら彼らはその内なるものの中へ入ると、神的なものの中におり、かくて天界にいるため、それは蔭から光の中へ無知から知恵の中へ、悲しみに満ちた生活から祝福された生活へ入るようなものであるから。これらの事を言ったのは、何れも同じように外なる生活を送っているにしても、片方の種類の人間はいかようなものであり、他方のものは実際いかようなものであるかを明らかにするためである。

 

 

 

 

26.分離した信仰の中にいる者らについて、またその信仰はいかようなものであるか、について、十戒について

 

霊界日記6065

 

 

 

27.その人間は異教徒から基督教徒になる

 

 

真の基督教525

 

基督教国では、罪を認め得ない者は一人もない。何故なら、基督教徒なる幼児は凡て何が悪であるかを教えられ、少年は凡て罪の悪を学ぶからである。青年たちは凡てこの事を両親と教師たちから、また謂わば彼らの最初の教科書なる十戒から学び、その後人生の諸段階に於て、同一の事を公の説教と個人的な教訓から、特に聖言から学ぶのである。彼らはまた、十戒と聖言全般とに禁じられていると同一のものを禁じている民法からそれを学ぶのである。何故なら、罪は隣人への悪であり、隣人への悪はまた神への悪であり、神への悪は更に罪であるからである。しかし、罪を一般的に認めることは、人間が自分の行為を吟味し、自らが或る特殊の罪を、秘かに、或は公然と犯したか否かを見ない限り、何の益もない。このことが為されない中は、彼の知識は単に理論的なものであり、かくて説教者の言葉は片方の耳に入って他の耳から抜けて行き、間もなく凡ての実際的な価値を凡て失ってしまうのである。しかし、それは、人間が自らの知識を自個点検のために用い、或る特殊の罪を発見し、かくして自らに「これは罪である」と語り、永遠の刑罰を恐れてこれから遠ざかる時は全然異なってくる。その時始めて教会に聞かれる教訓は、注意深く傾聴され、心に受け入れられ、その人間は異教徒から基督教徒になるのである。

 

 

 

 

28.教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられている

 

 

天界の秘義3773

 

「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。

 

 

 

天界の秘義3773[2]

 

 このことはまた凡ゆる教会の実情から認めることができよう、すなわち教会はその幼少期にはこのようなものであって、愛から主を愛し、心から隣人を愛したのである。しかし時が経過するにつれて、教会はこの二つの戒めから後退して、愛と仁慈の善から信仰の事柄と言われているものへ外れ、かくて生命から教義へと外れてしまい、彼らがそうしたことをするにつれ、聖言は益々閉じられてしまうのである。このことが以下の言葉の内意に意味されているところである、即ち、『見よ、野に井戸が在った、また見よ、そこには羊の群が三つその傍に伏していた、なぜならその井戸から彼らはその群に水を飲ませたからである、その井戸の口の上に大きな石が一つ置かれていた。そして群は凡てそこに共に集められた。彼らは石を井戸の口からころがし、羊の群に水を飲ませ、再び石をその井戸の口の上のその場所に置いた』。

 

 

 

 

29.十戒は悔改めを教えている

 

 

真の基督教567

P263

 

 この後、雷が轟き、天界からこの声があった。「我々は驚いている、改革派の集会に、基督を信じ、悔改めよ、然すれば諸君は救われるであろうと告げられよ」私は告げ、さらに付け加えた、「洗礼は悔改めの礼典であり、かくして人を教会へ導き入れることであります。何故なら、名付け親たちは悪魔とその業とを斥けることを約束するからです。聖餐もまた悔改めの礼典であり、人を天界へ導き入れるものです。何故なら陪餐者はそれに与る前に悔改めるように警告されているからです。基督教会の普遍的な教義である十誡は、悔改めを教えています。何故なら、第二の板石の第六の誡命の中に、「汝はこれこれの悪を為すべからず」と、言われておりますが「汝はこれこれの善を為すべし」とは言われていないからです。これによって諸君は人は悪を棄て去り、これを避ける限り、善を欲し、善を愛し、それ以前には善についても悪についても何事も知っていないことを知られるに違いありません。」

 

 

 

 

30.信仰する人にとって、十戒が息絶えることはない。十戒の命令のすべてが、未来の自分の冠の宝石になります

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P127

 

あなたの信仰には報いが与えられます。聞きなさい、信仰とは何ですか。しゅろの堅い種のように小さいものだけれど、“神がおられる”という短いことばが形づくるたった一つの主張が“私はメシアを見た”ということばで膨らみます。アブラハム、あなたが東方の三人の知恵者のことばで私を信じたように、我らの民の信仰も、遠い祖先の太祖たちが次々に伝えました。アダムからその子孫へと、罪人だったアダムの啓示も繰り返されました。

 

“神はおられます。私たちが存在するのも、神が私たちを造ったからです。そして、この神を知りました”この啓示は、我らの民の遺産として、神の出現、天使たちの出現、霊の光などによって、いよいよ完成されたのです。無限に比べれば、いつでも小さな種に過ぎないが、やがて根を張り、人間の動物的な傾向や疑惑などの堅い殻を破り、邪欲という雑草や多くの罪というかびを一掃し、心は気高く成長し、太陽へと天へ昇り、肉体の束縛から解き放たれることで完璧に神を知り、生命と死を超えて真の命に到達するのです。

 

信仰を持つ人は命への道を知っています。信じることを知る人は、間違えることがなく、見て認めて仕えることで永遠の救いに至るのです。信仰する人にとって、十戒が息絶えることはない。十戒の命令のすべてが、未来の自分の冠の宝石になります。

 

 

 

 

31.神の戒めに従って生きる時、神は愛され、用を遂行する時、隣人は愛されている

 

 

新しいエルサレムの教義126

 

しかし世の放棄に関する事柄について述べよう。世を放棄し、霊に生きて、肉に生きないことは、富と名誉を主とした世的な物を斥けることであり、絶えず、神、救い、永生に関係した敬虔な瞑想にふけることであり、祈りに、聖言と敬虔な書物をひもどくことに日々を送ることであり、また自分自身を苦しめることであると多くの者から信じられているが、しかしこれは世を放棄することではなく、世を放棄することとは神を愛することであり、隣人を愛することであり、そして人間は神の戒めに従って生きる時、神は愛され、人間が用を遂行する時、隣人は愛されているのである。それで人間は天界の光を受けるためには、世に生き、世で業務に生きねばならないことが全く必要である。世的なものから引き出された生活は愛と仁慈の生活から分離した思考と信仰の生活であり、その生活の中では善の意志と隣人に善を行うこととは死滅してしまうのである。そしてこれが死滅すると、霊的生活は、基礎が無くて、次第に沈下するか、または割れ目や裂け目が一杯になり、または揺れ動いて、遂には倒れてしまう家のようなものになる。

 

 

 

 

32.霊的な天使、天的な天使の理解

 

 

真の基督教236

 

 

「汝、殺すなかれ。」これによって人間は単に殺すことのみでなく、更に相手を死に至らしめる憎悪と、復讐への欲念を理解する。殺すことによって、霊的な天使は悪魔のように行動し、人間の霊魂を破壊することを理解し、天的な天使は主と聖言とを憎むことを理解する。

「汝、姦淫するなかれ。」姦淫によって人間は姦通、卑猥な慣習、みだらな会話、汚らわしい思いを理解し、霊的天使は聖言の善の不義化とその真理の虚偽化とを理解する。しかし、天的な天使は主の神性の否定と聖言の汚辱とを理解する。

「汝、盗むなかれ。」盗むことによって人間は窃盗、詐欺、および或る何らかの手段によって他の者の所有物を奪い去ることを理解し、霊的な天使は虚偽と悪とによって、他の者からその信仰の真理と善とを剥奪することを理解し、天的天使は主に属するものを己に帰し、主の義と功績とを己に要求することを理解する。

「汝、偽りの証しを立つるなかれ。」偽りの証しを立つることによって、人間は嘘と誹謗を理解し、霊的な天使は虚偽が真理であり、悪が善であり、そして真理は虚偽であり、善は悪であるとの主張と争いを理解し、天的な天使は主と聖言とを冒瀆することを理解する。

 

 

 

 

33.天界、地獄、死後の生命について決して考えない者が、悪を罪として考えることが出来ようか。そうした人間は罪とは何であるかを知らない

 

 

黙示録講解936[2]

 

たれでもその心の中で、神がおられ、主は天と地との神であられ、聖言は主から発しており、それ故聖いものであり、天国と地獄とが在り、死後の生命が在ると考える者は、これらの悪を避けることが出来るのである。しかしこれらの真理を軽蔑し、それらを己が心から放逐する者は、それらの事を否定する者は、些かも避けることは出来ないのである。なぜならいかようにして神について一度も考えない者が何かが神にそむく罪であると考えることができようか。そしていかようにして天界、地獄、死後の生命について決して考えない者が、悪を罪として考えることが出来ようか。そうした人間は罪とは何であるかを知らないのである。

 

 

 

 

34.十誡には、一枚は神に関係し、他の一枚は人間に関係している二枚の板石の在る理由

 

 

スウェーデンボルグ/神の摂理/326(ロ)

 

 <人間は各々その生活の善に従って神を承認し、神と結合する>

 

 何らかの宗教的な知識を持つ者は凡て神を知ることが出来よう。彼らはまた知識からまたは記憶から神について語り、或る者は神につき知的に考えることが出来るのである。しかし人間は善良な生活を送らない限り、それはただ彼を神の前に連れ来るに過ぎない。なぜなら彼は神の前にいるにも拘らず神から面を背けて地獄に向けることが出来、もし邪悪な生活を送っているならば、そのようなことをするからである。しかし善良な生活を送っている者のみが、心に神を承認することが出来るのであり、主はその生活の善に従って彼らを地獄から連れ出して、御自身に向けさせられる。その理由は彼らのみが神を愛するということである。なぜなら彼らは神から発している神的な物に対する愛をその神的な物を為すことにより示すからである。神から発している神的なものとはその律法の教令である。教令は神である。なぜなら神御自身は神御自身の発出している神的なものであり、教令に服従することは神を愛することであるから。これが主が「私の誡命を守る者は私を愛する者である。しかし私の誡命を守らない者は私を愛する者ではない」と語られる理由である(ヨハネ14・21,24)。

 これが十誡には、一枚は神に関係し、他の一枚は人間に関係している二枚の板石の在る理由である。神は御自身の板石に含まれているものを人間が受け入れるように絶えず働かれているが、もし人間が自分の板石にある物を行わないならば、神の板石にある事を心で信じておらず、その場合、彼は神に結合してはいない。これが二枚の板石が結合して一枚となり、契約の板石と呼ばれた理由である。なぜなら契約は結合を意味するからである。人間は凡てその生活の善に従って神を承認し、神と結合する理由は、生活の善は主の中に在って主から発している善に類似しており、それゆえ人間は生活の善にある時、結合が生まれるということである。その反対が生活の悪に言われる。なぜならこれは主を斥けるからである。

 

 

 

 

35.残りのもの

 

 

天界の秘義576[4]

 

残りのものは主のみのものであるため、十分の一のものは『エホバに聖いもの』と呼ばれているのである、例えばモーセの書には

 

 地の十分の一はことごとく地の種子の十分の一も、木の果実の十分の一もエホバのものであって、エホバに聖いものである、牛と羊の十分の一はことごとく、何であれ、(牧者の)棒の下を通るものの十分の一は凡て、その十分の一のものはエホバに聖いものとしなくてはならない(レビ記27・30、31)。

 

 十戒が『十』の教令から、または『十』の言葉から成り、エホバはそれを板石の上に書かれたことは(申命記10・4)残りのものを意味しており、それらがエホバの御手により記されたことは残りのものは主のみのものであることを意味しており、それらが内なる人に在ることは板石により表象されたのである。

 

 

 

 

36.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P172

 

傲慢は罪である。傲慢な人間は自分を実際以上の人間と思い込む。こうして、神の御恵みを失い、罪に陥り、自らの霊魂を滅ぼす。虚偽は、真理にたてつくことなので、これまた罪である。嘘ばかりついている人間は次第にその影響を被り、しまいに自分まで偽るようになる。事実を常に疑い、内なる感覚も外なる感覚も信じられなくなる。ついには、神の愛と御恵みさえ疑い、自分の霊的生命と神のもっとも豊かな祝福を失することになる。貪欲も罪である。貪欲な人は創造主を見捨て、創造された物に満足を求めるようになる。姦淫も罪である。姦淫は家族の絆をこわし、純潔と生活を破壊する。泥棒は罪である。泥棒は他人の稼ぎを奪い、他人の損失に歓びを求める。そのように、われわれはこうしたすべての罪を懺悔し、救いを求めることが必要である。神の聖旨が天で聖徒と天使との間に行なわれているように、地上でわれわれの生活の中にも行なわれるために。