第3誡
汝、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし。
平安/
1.聖書
2.自然的意義:主そのもの、神的な事柄に関する教育の日、隣人愛の実践の日
3.霊的意義:再生
4.天的意義:主との交わりと平安
5.天を望まない人は天国を得られない
6.それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいる、それを目的として彼は闘う
7.他の戒めを清めることはこの二つの戒めにかかっている
8.天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである
1.聖書
出エジプト記20・8−11
安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。
2.自然的意義:主そのもの、神的な事柄に関する教育の日、隣人愛の実践の日
真の基督教301
「安息日を覚えてこれを聖潔すべし。六日の間働きて汝の一切の業を為すべし。七日は汝の神の安息なり。」
「自然的な意義では」それは六日は人間とその労働のためであり第七日は主のためであり、また人間の主に於ける憩いのためであることを意味している。安息なるヘブル語は休息を意味している。安息日はイスラエルの子孫にとってはこの上もなく神聖なものであった。それは主を表わしたからである。六日は地獄に対する主の労苦と争闘を、第七日は主の彼らに対する勝利とそこから発する休息とを表わし、そして安息日は主の贖罪の業の終わりを表わしたため、それは聖そのものであった。
しかし、主が世に来り給うて、主に関わる凡ゆる表象が終った時、安息日は神的な事柄に関する教育の日、労働からの休息日、救いと永遠の生命に関する瞑想の日、隣人愛の実践日となった。それは神的な事柄を教育する日となったことは、主はその日、神殿と会堂にて教え給い(マルコ6・2、ルカ4・16、31、32、13・10)、病を癒された者に向かって、「汝の床を取り上げて歩め」と語り給い、パリサイ人に向かっては己が弟子たちは安息日に穀物の穂を集めて食うのは律法に適っていると語り給うた事実によって明白であり(マタイ12・1−9、マルコ2・23から終わり迄、ルカ6・1−6、ヨハネ5・9−19)、この凡ては、その霊的な意義では教義の教育を意味している。
安息日はまた隣人愛の実践の日であったことは、主が安息日に為し、また教え給うた所によって明白である(マタイ12・10−14、マルコ3・1−9、ルカ6・6−12、13・10−18、14・1−7、ヨハネ5・9−19、7・22、23、9・14−16)、これと前の記事は主が自らはまた安息日の主であると語り給うた理由を示し(マタイ12・8、マルコ2・28、ルカ6・5)、而して主はかく語り給うた故、安息日は主を表わすものであったことが推論される。
マリア・ヴァルトルタ『私に啓示された福音』50・8/天使館第1巻P456
主:
「シモン・ペトロよ、昨夜漁に出なかったのはよかったね。安息日はまだ終わっていなかったのだから。ネヘミヤは、改革を行ったとき、ユダにおいて安息日が守られるよう望んでいました。今も、あまりにも多くの人が、安息日に圧搾場で働き、薪を運び、葡萄酒と果物を車に積み込み、魚や羊を売り買いしています。こういうことをするのに、あなたたちには六日間があるのです。安息日は主の日です。安息日にあなたたちにできるただ一つのことは、隣人のために尽くすことです。しかしこの援助で金儲けをすることは許されません。金儲けのために安息日を守らない者は、神から罰を受けるしかありません。有益でしょうか? あとの六日間の損失でそれを償うことになるでしょう。無益でしょうか? 知性が体によかれと思って定めたその休息を守らず、体を空しく酷使し、いたずらに労苦したことに、悪態をつくに至るほどの怒りで、霊魂を変質させます。そうではなく、安息日は神と一致した心で愛の甘美な祈りのうちに過ごすべきです。すべてにおいて忠実でなければなりません。」
ペトロ:
「でも・・・わたしたちに対しては甚だ厳格な律法学士たちは・・安息日に働かず、パンをもつ手を差し出す動作さえ罪だと言って、パン一切れ一つ隣人に与えようとはしません・・・そのくせ高利で人に金を貸しています・・・物理的な仕事ではないからと言って、安息日に高利で人に金を貸してもいいのですか?」
「いいえ、よくありません。安息日だけでなく、平日にもそれはしてはいけません。高利貸しをする者は不正で残酷です」。
「では、律法学士やファリサイ派の人たちは・・・」
「シモン、裁いてはなりません。あなたはしないでください」。
「でも、わたしの目は節穴ではありません」。
「見るべきものは悪だけですか、シモン?」。
「いいえ、先生」。
「ではなぜ悪いことだけを見るのですか?」。
「おっしゃる通りです、先生」。
3.霊的意義:再生
真の基督教302
「その霊的な意義では」、この誡命は、主による人間の改良と、再生とを意味している。労苦の六日間は肉とその欲情とに対する人間の争闘を意味し、また地獄から由来して彼の中にある悪と虚偽に対する人間の争闘を意味するに反し、安息日は主と人間との結合を、これによる再生を意味する。このような争闘の間に人間は霊的な労苦をなめるが、再生するときは休息に入ることは、下記の改良と再生に関わる章に、特に次の項目の下に認められるであろう。
(1)再生は人間が受胎し、子宮内に運ばれ、生まれ、教育される過程に似た過程をもって行われる。
(2)新しい誕生の第一歩は改良と呼ばれ、それは理解にかかわり、第二は再生と呼ばれ、それは意志にかかわり、そこから内なる人が外なる人を改良する。
(3)内的なる人が先ず改良されねばならない、それから内なる人が外なる人を改良する。
(4)何故なら、その時内なる人と外なる人との間に争闘が始まり、何れであろうと征服する側が他を支配するからである。
(5)再生した人間は新しい意志と新しい理解を持つ。
人間の改良と再生がこの誡命の霊的な意義の中に含まれているのは、それらが主の地獄に対する労苦と争闘に一致し、また主の地獄に対する勝利と、その後の休息に一致するからである。何故なら、主は自らの人間性を栄光あらしめ、これを神的なものと為し給うたと同じ過程によって、人間を改良し、再生させ、霊的な者に為し給うからである。これが「彼に従え」との命令によって意味されているところである。主の争闘は労苦と呼ばれていることは、イザヤ書53章および63章に明白であり、人間の苦労もまた労苦と呼ばれていることはイザヤ書65・23、黙示録2・2、3に見ることが出来よう。
天界の秘義1618
「礼拝により、内意では、愛と仁慈とを通して連結することがことごとく意味されている。人間は愛と仁慈との中にいるときは、絶えず礼拝(の状態)の中にいるのであって、外なる礼拝は単にその結果に過ぎない。天使たちはこうした礼拝の中におり、それで彼らのもとには不断の安息日があり、このことから安息日はその内意では主の王国を意味している。しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならないのである。なぜなら外なる礼拝により内なるものが刺激され、外なる礼拝によって内なるものが聖く保たれ、かくして内なるものがその中へ流れ入ることが出来るからである。更に人間はこのようにして知識を与えられて、天的なものを受ける備えをしており、また例え人間はそのことに気づかないにしても、聖い状態を与えられ、この聖い状態は永遠の生命に役立つために主により彼に保存されるのである、なぜなら他生では人間の生活の凡ゆる状態が帰ってくるからである。」
4.天的意義:主との交わりと平安
真の基督教303
この誡命は「その天的意義では」地獄から庇護される結果生ずる主との交わりと平安とを意味する。何故なら、安息は休息を意味し、この最高の意義では、平安を意味し、かくして主は以下の記事に見られ得るように、平安の君と呼ばれ、また自らを平安と呼び給うからである。
「一人の嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子を与えられたり、政事はその肩に在り、その名は奇妙、議士、大能の神、永遠の父、平和の君と称えられん。その政事と平和とはまし加わりて限りなし」(イザヤ9・6,7)。
イエスは語り給うた、「我平安を汝らに遺す、我が平安を汝らに与う」(ヨハネ14・27)。
イエスは語り給うた、「我これらのことを汝らに語りたるは、汝ら我に在りて平安を得んがためなり」(16・33)。
「よろこびの音づれを伝え、平和を告げ、汝の神はすべ治め給うという者の足は山の上に在りて如何に美しきかな」(イザヤ52・7)。
「エホバは我が魂を平安の中に贖い給わん」(詩篇55・18)。
「エホバの功は平和、正義のむすぶ果はとこしえの平穏とやすきなり。わが民は平和の家におり、思いわずらいなき住所におり、安らかなる休息所におらん」(イザヤ32・17、18)。
イエスは七十人に語り給うた、「執家に入るとも、先ず、平安この家にあれと言え。もし平安の子そこに居らば、汝らの平安はそこに留まらん」(ルカ10・5、6、マタイ10・12−14)。
「エホバはその民に平和を語り給わん、義と平和とは互いに接吻せり」(詩篇85・8,10)。
主自らその弟子たちに現れ給うた時、語り給うた。「平安汝らにあれ」(ヨハネ20・19、21・26)。
さらに主によって与えられる平安の状態はイザヤ書(55、56章等)に取り扱われ、この状態に、今や主によって建設されつつある新しい教会に迎え入れられる者たちは入るであろう。天界の天使たちと主の中にある者たちの享受する平安の本質的な性質は「天界と地獄」(284−290番)に見ることが出来よう。かく考えることにより、また何故に主は自らを安息日の主、すなわち、休息と平安の主と呼び給うかが明らかにされるであろう。
真の基督教304
地獄から発する悪と虚偽の攻撃から護られる結果生ずる天的な平安は、種々の種類の自然的な平安に譬えることが出来よう、例えば各人がその敵から確実に守られて、己が家に安全に住む戦後の平安に譬えられ、あるいは預言者の象徴的な言語によれば、「その葡萄の木の下に座し、その無花果樹の下に居らん、これを懼れしむるものなかるべし」(ミカ44、イザヤ65・21−23)の状態に譬えることが出来よう。それは、また激しい労苦の後の精神上の保養と休息に、また子を生んだ後に、その子に優しい愛を感ずる母の慰めに譬え得られよう。それはまた、嵐、黒雲、雷の後の静けさに、また地が新しい草木の中に、庭園、畠、森がその蕾と花の中にその歓びを現しているように思われる厳冬の後の春に譬え得られよう。最後に、それは海上の嵐と危険の後、港に着き、憧れの岸に上陸する人々の心に譬え得られよう。
マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々1.P307
そうです。サタンはあなたたちをより分けるために、罠をしかけるに違いない。私も、あなたたちを救うために、ふるいにかけます。争うものは二人です。サタンと私。その真ん中に、あなたたち。愛と憎しみ、知恵と無知、善と悪との間の決闘が、あなたたちの目前で行われます。あなたたちに対しての邪悪な打撃をかわすためには、私だけで足ります。あなたたちを愛しているから、私が代りに傷つけられるのを引き受け、サタンの武器の前に立ちはだかります。
そうはいっても、あなたたちの中の打撃は、あなたたちの自由意志で私の方へ走り寄り、真理と命である私の道によって、自分でかわすべきです。天を望まない人は天国を得られません。キリストの弟子となるにふさわしくない人は、世間の風が吹き飛ばしていく軽い塵みたいなものです。
6.それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいる、それを目的として彼は闘う
天界の秘義3696[2]
再生しつつある人間の中の新しい生命の場合も殆ど同じである。即ち、最初彼は静謐の状態の中にいるが、新しい生命へ移って行くにつれ、それと同時にまた不安な状態へ移って行くのである。なぜなら前に彼に浸透するようになっていた幾多の悪と誤謬とが出現し、発生してきて、彼を悩ませ、遂にはそれは彼の新しい生命の状態を破壊しようと絶えず努めている悪魔の一味により加えられる試練と懊悩に陥る程にも至るのである。それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいるのである。なぜならもしそれが彼の最も内なるところに存在しない限り彼は闘わないからである。なぜなら彼はその闘争において絶えずこの状態をその目的として注視しており、そしてこのような目的を持たない限り、彼は闘う力と強さを決して持ちはしなからである。更にこれが彼が勝利を得る理由であり、これが目指している目的であるため、彼はまたその幾多の闘争または幾多の試練の後でこの状態の中へ入ってくるのである。これは秋と冬との状態に続いてくる春の状態に似ており、または夕と夜とに続いてくる暁の状態に似ている。(霊的な事柄における平安の状態は自然的なものにおける春と暁に似ていることは、前の1726、2780番に見ることが出来よう、また平安は善と真理から発し、不安は悪い誤ったものから発していることは3170番に見ることが出来よう、また平安は善と真理から発し、不安は悪い誤ったものから発していることは3170番に見ることが出来よう。
黙示録講解965[2]
さて、次に第三の戒めがつづいており、それは安息日を聖く守ることである。
十戒の第三と第四の戒めとは行わねばならない事柄を含んでいる、すなわち、安息日は聖く守られねばならない、そして両親は尊ばれなくてはならないのである。他の戒めは行ってはならない事柄を含んでおり、即ち、他の神々を拝してはならないのであり、神の御名を冒涜してはならないのであり、人は盗んではならない、姦淫を犯してはならない、偽証をしてはならない、他の者の財産をむさぼってはならないのである。この二つの戒めは行われなくてはならない戒めであるのは、他の戒めを清めることはこの二つの戒めにかかっているためである、なぜなら安息日は主における神的なものそれ自体[神性それ自体]と神的な人間的なもの[神の人間性]との合一を、また天界と教会と主が連結されることを意味し、かくて再生されつつある人間のもとで善と真理とが結婚することを意味するからである。
このことが安息日の意義であるため、それはエレミヤ記(17・20−27)、その他の所に明白であるように、イスラエル教会における礼拝の凡ゆるものを表象する主要なものであったのである。それが礼拝の凡ゆるものを表象する主要なものであったのは、礼拝の凡ゆるものにおける最初の事柄は主の人間的なもの[人間性]における神的なもの[神性]を承認することであるためである、なぜならその承認がないなら人間は自己からのみ信じ、行うことができて、自己から信じることは誤謬を信じることであり、自己から行うことは悪を行うことであるからであり、そのことはまたヨハネ伝における主のお言葉から明白である―
神の業を行うためには、わたしたちは何を行わねばなりませんか、とたずねる者たちに対して、イエスは言われた、このことが神の業であります。すなわち、あなたらが神がつかわされた方を信じることです(ヨハネ6・28、29)。
また同書に―
わたしの中に留まり、わたしがその者の中に留まる者、その者こそ多くの果をむすぶのである、わたしなしではあなたらは何一つ行うことはできないからである(ヨハネ15・5)。
天界の秘義85
8.天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである
神の摂理21[9]
「主に神的摂理は人間の真理と善、善と真理の結合へ向って絶えず働くことはすでに述べられたことにより明白であるに違いない。なぜなら、この結合は教会を形成し、また天界を形成するからである。それはこの結合は主の中に在り、また主から発する凡てのものに在るためである。この理由から天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである。また同じ理由から聖言には、その各部に、善と真理との結婚が存在している。これについては『新エルサレムの聖書の教義』(80−90)を参照されよ。善と真理の結婚は主と教会との結婚から起り、そしてこれは主の中に愛と知恵の結婚から起っている。なぜなら善は愛から、真理は知恵から発しているから。かく考察することにより、神の摂理の不断の目的は人間の中に善を真理に、真理を善に結合させることにあることが理解出来よう。なぜなら人間はこのようにして主と結合するからである。」