安息日

 

 

第3戒:なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし

平安

 

 

 

 

1.聖書

 

 

 

 

 

1.聖書

 

 

出エジプト記20・8−11

 

安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない。あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。

 

 

 

ルカ13・15−17

 

しかし、主は彼に答えて言われた。「偽善者たちよ、あなたたちはだれでも、安息日にも牛やろばを飼い葉桶から解いて、水を飲ませに引いて行くではないか。この女はアブラハムの娘なのに、十八年間もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」こう言われると、反対者は皆恥じ入ったが、群集はこぞって、イエスがなさった数々のすばらしい行いを見て喜んだ。

 

 

 

 

天界の秘義59[2]

 

 主は人間を各瞬間に、実に、各瞬間の最小部分の時さえも守られない限り、人間は、主に対する愛と信仰とに関わる物に対して霊たちの世界に拡まっている名状しがたい程に苛烈な燃える憎悪の結果、立ち所に死滅してしまうのである。私は(身体の中に止まっているにも拘らず)他生で幾多の霊と実にその最悪の者とさえも今や数年の間交わっているためこの事実の確かさを断言することが出来るのであり、そして私は時としては数千の霊に囲まれて、彼らはその毒気を吐き出し、凡ゆる手段を尽くして私を悩ますことを許されはしたものの、しかし私の頭の髪の毛の一本さえも害うことは出来なかったのであり、それ程安らかに私は主に守られたのである。私は霊たちの世界とその性質とについて、また再生しつつある者が永遠の生命の幸福に到達するために、堪えねばならない争闘について数年間の経験により充分に教えられたのである。しかしたれ一人全般的な叙述では、このような主題については、それを疑いを差し挟まない信仰をもって信じる程に教えられることは出来ないため、その詳細は主の神的慈悲の下に以下の頁に述べることにしよう。

 

 

 

天界の秘義62

 

人間の再生の時と状態とは全般的にも個別的にも六つに分けられ、人間の創造の日と呼ばれている。なぜなら、彼は全然人間でない状態から、徐々に先ず人間のようなものになり、かくて少しずつ第六日に到達し、第六日目に神の映像となるからである。

 

 

 

天界の秘義63

 

その間主は絶えず彼のために諸々の悪と誤謬と戦われ、争闘により彼に真理と善とを確認させられるのである。争闘の時は主が働かれる時であり、それ故予言者の書の中には再生した人間は神の指の業と呼ばれている。主はまた愛が支配者として活動しない中は休まれないのであり、それが支配者として活動する時に争闘は止むのである。その業が信仰が愛と連結する程にも進展したとき、それは『いとも善い』と呼ばれている。それは主はその時彼を御自分に似た形のものとして働かせるからである。第六日の終わりに悪霊らは去って、善い霊たちがこれに代わり、その人は天界にまたは天的な楽園に入れられるのである。これについては次章に述べよう。

 

 

 

 

 

 

天界の秘義83

 

人間が『第6日』になった時、『天と地は成り、その軍勢は成った』と言われている。なぜならその時信仰と愛とは一つのものとなるからである。それらが一つのものとなるとき、信仰ではなく、愛が、または換言すると、霊的な原理ではなく、天的な原理が第一次的な原理となり始めるのであり、これが天的な人となることである。

 

 

 

天界の秘義84

 

「第7日に神はその作られた業を終えられた、すなわち、その作られた業の凡てから第7日に休まれた。神は第7日を祝福され、それをきよめられた、それは神はその造って創造された業の凡てから、その日に休まれたからである」。天的な人は『第7日』であり、その日は主は6日の間働かれたため、『主の業』と呼ばれており、その時凡ての争闘は停止するため、主は『その凡ての業から休まれる』と言われている。それで第7日はきよめられ、『安息』を意味するヘブライ語から、安息日と呼ばれたのである。このようにして人間は創造され、形成され、作られたのである。これらの事柄はその言葉から極めて明らかである。

 

 

 

天界の秘義85

 

7日については、天的な人が『第7日』または『安息日』であることについては、その事は主御自身が安息日であられるという事実から明白である。それで主はいわれている―

 

人の子はまた安息日の主である(マルコ2・27)。

 

 

 

天界の秘義85[]

 

天的な人の休息はイザヤ書に安息日により記されている―

 

もしあなたが安息日からあなたの歩みをかえし、わたしの聖い日にあなたの望むことを行わず、安息日の事柄をエホバの聖いものに対する歓び、尊いものと呼び、それを尊んで、あなた自身の道を行わず、あなた自身の求めるものを見出さず、また言葉も話さないならば、その時はあなたはエホバに歓ばれるものとなり、わたしはあなたを地の高い物の上に連れ行かれるようにし、ヤコブの嗣業[遺産]をもってあなたを養おう(イザヤ58・13,14)。

 

天的な人の特質はこうしたものであるため、彼は自分自身の願いに従って行動しないで、彼の『願い』である主の悦びたもうことに従って行動する。かくて彼は―ここでは『地の高い物の上に連れ行かれる』ことによって意味されているところの―内なる平安と幸福とを楽しみ、同時に『ヤコブの嗣業[遺産]をもって養われること』により意味されているところの外なる静謐と歓喜とを楽しむのである。

 

 

 

天界の秘義86

 

『第6日』になった霊的な人が天的な人になり始めつつある時、―この天的な人の状態がここに先ず取扱われているのであるが―それは『安息日の前夜』であって、ユダヤ教会では夕から安息日を聖く守ることにより表象されているのである。天的な人はやがて語られる『朝』である。

 

 

 

天界の秘義87

 

天的な人は『安息日』または『休息』である他の理由は、彼は天的なものになる時、争闘は止むということである。悪霊らは退いて、善い霊たちが天的な天使たちとともに近づいて来るのであり、これらの者がその場にいると、悪霊らは到底その場に止まることは出来ないで、遠く逃げ去ってしまうのである。そしてその争闘を行ったのは人間自身ではなく、人間のために主のみが行われたものであるため、主は『休まれた』と言われているのである。

 

 

 

天界の秘義88

 

 霊的な人が天的な人になると、彼は『神の業』と呼ばれる、それは主のみが彼のために戦われ彼を創造され、形成され、作られたからである。それでここに『神は第七日にその業を終えられた』と言われ、二度『神はその凡ての業から休まれた』と言われている。予言者達により人間は、イザヤ書におけるように、繰返し『エホバの御手と御指の業』と呼ばれているが、これは再生した人間を語っているのである―

 

 エホバ、イスラエルの聖者、イスラエルの形成者はこのように言われた、あなたらはわたしにしるしを求めよ、わたしの息子たちについてするしを求めよ、わたしの手の業についてわたしに命じよ。わたしは地を作り、その上に人を創造った。わたしは、実にわたしの手は諸天を張りひろげて、その凡ての軍勢に命じた。諸天を創造りたもうエホバ、大地を形成し、これを作られるエホバ御自らこのように言われた、彼はそれを確く定め、それをうつろなものに創造りたまわず、それを(人が)住むように形成された、わたしはエホバである、わたしの他に神はいない(イザヤ45・11、12、18、21)。

 

ここから新しい創造または再生は主のみの業であることが明白である。

 

 

 

天界の秘義1618

 

礼拝により、内意では、愛と仁慈とを通して連結することがことごとく意味されている。人間は愛と仁慈との中にいるときは、絶えず礼拝(の状態)の中にいるのであって、外なる礼拝は単にその結果に過ぎない。天使たちはこうした礼拝の中におり、それで彼らのもとには不断の安息日があり、このことから安息日はその内意では主の王国を意味している。

 

しかし人間は、世にいる間は、必ず外なる礼拝をもまた守らなくてはならないのである。なぜなら外なる礼拝により内なるものが刺激され、外なる礼拝によって内なるものが聖く保たれ、かくして内なるものがその中へ流れ入ることが出来るからである。

 

さらに人間はこのようにして知識を与えられて、天的なものを受ける備えをしており、またたとえ人間はそのことに気づかないにしても、聖い状態を与えられ、この聖い状態は永遠の生命に役立つために主により彼に保存されるのである、なぜなら他生では人間の生活のあらゆる状態が帰ってくるからである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

十戒の教えを単に考えてみられよ。これらのものの最初のものは主なる神を拝することである。愛の生命をまたは仁慈の生命を持っている者は主なる神を拝しているのである、なぜならそのことが彼の生命となっているからである。他の教えは安息日を守ることである。愛の生命の中に、または仁慈の中にいる者は安息日を聖く守っているのである、なぜなら日々主を拝して、主を崇めることにまさって甘美なものは何一つ彼にはないからである。

 

 

 

神の摂理21

 

[9]「主の神的摂理は悪と誤謬を均衡、関係、浄化に役立たせ、他の者における善と真理の結合に役立たせる」。主に神的摂理は人間の真理と善、善と真理の結合へ向って絶えず働くことはすでに述べられたことにより明白であるに違いない。なぜなら、この結合は教会を形成し、また天界を形成するからである。それはこの結合は主の中に在り、また主から発する凡てのものに在るためである。この理由から天界と教会は結婚と呼ばれ、それ故神の国は聖言には結婚に譬えられている。イスラエル教会では安息日は最も聖い宗教的な法令であった。なぜならそれはその結合を意味したからである。また同じ理由から聖言には、その各部に、善と真理との結婚が存在している。これについては「新エルサレムの聖書の教義」(80−90)を参照されよ。善と真理の結婚は主と教会との結婚から起り、そしてこれは主の中に愛と知恵の結婚から起っている。なぜなら善は愛から、真理は知恵から発しているから。かく考察することにより、神の摂理の不断の目的は人間の中に善を真理に、真理を善に結合させることにあることが理解出来よう。なぜなら人間はこのようにして主と結合するからである。