平安

 

 

第3戒:なんじ、安息日を聖とすべきことをおぼゆべし

君が代

 

 

 

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.ルイザ・ピッカレータ

4.トマス・ア・ケンピス

5.サンダー・シング

6.ヴァッスーラ

7.マリア・ワルトルタ

8.独りで住む

9.シルワン

10.平安の真理

11.世に生きている間は、その平安は彼らの内部に貯えられており、彼らが身体を去って、天界に入る時、〔初めて〕明らかに示される

12.それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいる、それを目的として彼は闘う

13.特に試練後の場合のように、その人間の中に善と真理とが連結すると、そのとき彼は平安から発した歓喜の状態へ入って行く

14.私が平和の君なのは、御父の子、無限の平和と甘美な平和のマリアの子だからです

15.主の『花嫁と妻』と呼ばれるこの生かされた自分自身のもの

 

 

 

 

1.聖書

 

 

ヨハネ14・27

 

わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな。

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義141

 

しかし天的な人は主は凡てのものの生命であられ、考え、行動する力を与えられることを識別している。なぜならかれはそれが真にそうであることを認めているからである。かれは決してかれ自身のものを欲していないが、それでもかれ自身のものが主によってかれに与えられていて、それが善で真のものを認める認識の凡てと幸福の凡てに連結しているのである。天使達はこのような自分自身のものの中にいると同時に最高の平安と静謐の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義1038

 

 「これは契約のしるしである。」

 

これは主が仁慈の中に現存されている事を指示するものを意味していることは『契約』と『契約のしるし』の意義から明白である。『契約』は主が仁慈の中に現存[臨在]されている事を意味していることは前(618節と前の本章9節)に示されたところである。契約は主が愛と仁慈の中に現存されることであることは契約の性質から明白である。契約はことごとく連結のためのものであり、すなわち、相互的な友情または愛に生きるためのものである。結婚もまたこうした理由から契約と呼ばれている。主は人間とは愛と仁慈の中に[愛と仁慈によって]連結されなくては連結されない、なぜなら主は愛と仁慈そのものであられるからである。主は人間各々を救おうとねがわれ、大いなる力をもって、天界へ、すなわち主御自身へ引きよせようとねがわれている。このことからたれでも以下のことを知り、また以下のように結論することができよう。すなわちたれ一人主御自身であるところのものによらなくては、すなわち、主のようにならなくては、または主と一つのものにならなくては、決して主と連結することはできないのである。換言すると、主をその愛に応えて愛し、隣人を自分自身のように愛することにより主と連結することができるのである。そのことによってのみ連結が行われるのである。これが契約の本質そのものである。このことから連結が生まれると、そのとき主が現存されることが明らかにつづいて起ってくる。実際主は各々のもとに臨在[現存]されてはいるが、しかしその臨在は愛に接近しているか、または愛から遠ざかっているかに正確に応じて近くもなり、遠ざかりもしているのである。

 

 

 

[2]『契約』は主が愛により人間と連結されることであり、または、それと同一のことではあるが、愛と仁慈の中に主が人間のもとに現存されることであるためそれは聖言では『平安の契約』と呼ばれている、なぜなら『平安』は主の王国を意味し、主の王国は相互愛から成り、その相互愛の中にのみ平安が在るからである。例えばイザヤ書には―

 

 山々ははなれ去り、岡々は移されるであろう、しかしわたしの慈悲はあなたから去りはしない、またわたしの平安の契約も移されはしない、とあなたを憐れまれるエホバは言われる(54・10)。

 

 ここに愛に属した慈悲は『平安の契約』と呼ばれている。エゼキエル書には―

 

  わたしは、かれらを治める一人の羊飼いをおこそう。かれはまことにわたしの僕ダビデはかれらを養うであろう。かれはかれらを養い、かれらの羊飼いとなるであろう、わたしはかれらと平安の契約を立てよう(34・23、25)。

 

 ここに『ダビデ』により明らかに主が意味されており、主が再生した人間のもとに現在されていることがかれがかれらを養われることにより記されている。

 

 

 

天界の秘義1726

 

「サレムの王」。これは内的なまたは合理的なものの方面の平安の状態を意味していることは『サレム』の意義から明白である。原語では『サレム』は『平安』を、また『完成』を意味しており、かくてそれは平安の状態と完成の状態とを意味している。平安の状態は主の王国の状態であり、その状態の中では主の天的な霊的なものはその朝の中に、その春の中に存在しているように存在している、なぜなら平安は早朝の暁に、春時の春に似ているからである。暁と春とはそのとき感覚にふれる凡ゆるものを喜びと歓喜とに満ち満ちるようにするのであり、各々のものは情愛を暁と春時の全般的なものから汲み出している。主の王国の平安の状態も同様であり、その平安の状態にあっては天的な霊的なものは凡ていわばその朝のまたは春の花と微笑の中にあり、すなわち、その幸福そのものの中にあるのである。そのように平安の状態は凡ゆるものを感動させている、なぜなら主は平安そのものであられるからである。

 

 

 

天界の秘義2892

 

 善の中に生きて、主は宇宙を統べ治められており、愛と仁慈とに属した善はことごとく、また信仰に属した真理もことごとく主のみから発していることを信じ、いな、生命は主から発しており、かくて主から私たちは生き、動き、存在を得ていると信じている者は、天界の自由を与えられ、それとともに平安を与えられることができる状態の中にいるのである、なぜならその時彼はひたすら主のみを信頼し他の事柄を思い煩わないで、凡ゆる事柄は彼の善と祝福と幸福に永遠に向っていると確信しているからである。しかし自分が自分自身を治めていると信じている者は絶えず取り乱しており、幾多の欲念の中へ未来の事柄に関わる心労へ、かくて種々の不安の中へ拉し去られて行くのである、また彼はそのように信じているため、悪の欲念と誤謬の信念もまた彼に密着しているのである。

 

 

 

天界の秘義3170

 

「彼はその夜を過ごした」。これはそれらのものの平安を意味していることは、『夜を過ごすこと』の意義が休息することであり、内意では平安を得ることから明らかである、この間の実情は以下のごとくである、即ち、霊的なものが自然的な人に所有されつつある時、悪の欲念と誤謬の確信とに属し、かくて不安をもたらしているものは後退し、善の情愛と真理の情愛とに属しているものが近づいてきて、従って、平安を生むものが近づいてくるのである、なぜなら不安はことごとく悪と誤謬から発しており、平安はことごとく善と真理から発しているからである。(平安の何であるかは、その状態の性質のいかようなものであるかは、92、93、1726、2780番に見ることが出来よう)。

 

 

 

天界の秘義3696

 

「その所に臥した」。これはその状態の静謐を意味していることは、『臥すこと』の意義から明白であり、それは静謐の状態の中にいることである。なぜなら『臥すこと』と『眠ること』はそれ以外のことを意味しないからである。その内意ではそれが『臥すこと』の意義であることもまた聖言の他の記事から認めることが出来よう、そのことについては直ぐ下に述べよう。ここに内なる表象的な意義の中に取扱われているところの再生することが出来る者たちのもとでは、実情は以下のようになっているのである、即ち、先ず彼らは静謐の状態の中に、または外なる平安の状態の中にいるのであり(なぜなら外なる平安または外なるものにおける平安は『静謐』と呼ばれるからである)、それはその中の最も内なるところに存在している神的な平安の状態から生み出されていて、幾多の欲念と誤謬とが取り除かれることを通して外なるものの中へ現れ出るのである。なぜならこれらのもの[欲念と誤謬]が凡ての不安を生み出すものであるからである。更に人間は各々、その生命の初まりでは、即ち、その幼少の時代の間では、静謐の状態の中にいるが、しかしその生命が進むにつれ、即ち、彼が成長して大人になると、彼は自分自身をこの状態から遠ざけてしまうのである。なぜなら彼は彼自身を世の心づかいに与え切ってしまい、従って自己を求め、世を求める愛の幾多の欲念とそこから派生してくる幾多の誤謬から引き起こされる心づかい[心労]に与え切ってしまうからである。

 

 

 

天界の秘義3742

 

 主のみから発しているただ一つの生命があり、天使と霊と人間とは単に生命の受容器官に過ぎないことは、些かの疑惑をすら残さぬほどに多様な経験により私に明らかにされたのである。天界そのものがそれがそうであることを、天使たちがその流入を明らかに認めまたそれがいかようにして流れ入ってくるかを認め、同じく彼らがそれを受ける豊かさと性質とを認めてるほどにも認識しているのである。彼らがそれを更に充分に受け入れている状態にいると、その時は平安と幸福の中にいるが、もしそうでないと不安と一種の心労の状態に置かれるのである。にも拘らず主の生命は、彼らが彼ら自身から生きていると彼らに感じさせるように彼らのものとされているが、しかしそれでも彼らはそれは彼ら自身からは発していないことを知っているのである。

 

 

 

天界の秘義3780

 

「彼は彼らに言った、彼は平安を持っていますか[安らかですか]」(創世記29・6)。これは、この善は主の王国から発していないか、を意味していることは、『平安』の意義から明白であり、その意義については以下に述べよう。歴史的な意義ではラバンについて、彼は平安を持っているか、否かについて詮索がなされているが、しかし内意ではラバンにより表象されている善について詮索がなされているのである。ラバンは根幹が共通した傍系的な善を、即ち、全般的な教会の中に、即ち、主の王国の中にいる異邦人たちの間に存在しているような善を表象していることは、すぐ前に見ることが出来よう(3778番)。このことから『この善は主の王国から発していないか』という言葉により意味されていることが明白である。

 

 

 

天界の秘義3780[2]

 

平安については、それはその最高の意義では主御自身を意味しており、そこからその内意では主の王国を意味しており、それは主の王国の中にいる者たちがその中にいるところの善を最も内なる所で動かしている主の神的なものである。これらの事柄が聖言に『平安』により意味されていることは多くの記事から明白であり、例えばイザヤ書には―

 

私たちに一人の子供が生まれ給うた、私たちは一人の息子が与えられた、政りごとはその肩の上に在るであろう、その名は驚異、勧告者、神、英雄、永遠の父、平安の君ととなえられるであろう。その政りごとと平安とは、ダビデの王座の上に、その王国の上には果てしもなく増し加わるであろう(イザヤ9・6、7)。

 

 ここに『平安の君』は明らかに主を意味しており、『その政りごとと平安が増し加わること』は主の王国の中に存在している事柄を意味し、かくて主の王国そのものを意味している。更に―

 

 義の業は平安となり、義の労力はとこしえに静寂と安全となり、わたしの民は平安の住居[安らかな住居]に住むであろう(イザヤ32・17、18)。

 

 この記事には主の王国が取扱われており、そこでは平安と静寂と安全とが互いに他に続いており、『平安の住居[安らかな住居]』は天界を意味している。

 

 

 

天界の秘義3780[2]

 

平安については、それはその最高の意義では主御自身を意味しており、そこからその内意では主の王国を意味しており、それは主の王国の中にいる者たちがその中にいるところの善を最も内なる所で動かしている主の神的なものである。これらの事柄が聖言に『平安』により意味されていることは多くの記事から明白であり、例えばイザヤ書には―

 

私たちに一人の子供が生まれ給うた、私たちは一人の息子が与えられた、政りごとはその肩の上に在るであろう、その名は驚異、勧告者、神、英雄、永遠の父、平安の君ととなえられるであろう。その政りごとと平安とは、ダビデの王座の上に、その王国の上には果てしもなく増し加わるであろう(イザヤ9・6、7)。

 

 ここに『平安の君』は明らかに主を意味しており、『その政りごとと平安が増し加わること』は主の王国の中に存在している事柄を意味し、かくて主の王国そのものを意味している。更に―

 

 義の業は平安となり、義の労力はとこしえに静寂と安全となり、わたしの民は平安の住居[安らかな住居]に住むであろう(イザヤ32・17、18)。

 

 この記事には主の王国が取扱われており、そこでは平安と静寂と安全とが互いに他に続いており、『平安の住居[安らかな住居]』は天界を意味している。

 

 

天界の秘義3780[3]

 

更に―

 

 平安の天使たちは、いたく泣いている、小道は荒れ果て、道を行く音は途絶えてしまった(イザヤ33・7、8)。

 

『平安の天使たち』は、主の王国にいる者たちを意味し、かくてその王国そのものを意味し、最高の意義では主を意味し、『小道は荒れ果て、道を行く者は途絶えたこと』は何処にももはや真理が存在しないことを意味している。(『小道』と『道』は真理であることについては、前の627、2333番を参照)。更に―

 

 良い音づれをもたらし、平安をのべつたえる者の足は山々の上でいかに歓ばしいことであろう、彼はシオンに向かって、あなたの神は統べ給うと言う(イザヤ52・7)。

 

 ここに『良い知らせをもたらし、平安をのべつたえる者』は主の王国を意味している。

 

 

 

天界の秘義3780[4]

 

 ダビデの書には―

 

 誠実を守り、公正な者を見よ、その人の終りは平安である(詩篇37・37)。

 

 

 

天界の秘義3780[5]

 

 これらすべての記事では『平安』はその最高の意義では主を意味し、表象的な意義では主の王国を、その中に在る主から発している善を意味し、かくて善の中へ、または善の幾多の情愛へ流れ入っている神的なものを意味しており、それはまた最も内なるところから喜びと幸福とを生み出しているのである。このことから祝とうの以下の言葉により意味されていることが明らかである―

 

 エホバがその御顔をあなたにあげられて、あなたに平安を与えられますように(民数記6・26)。

 

 また古代用いられた挨拶の言葉『平安があなたにありますように』により、また主が弟子たちに語られた同じ挨拶の言葉により意味されていることも明らかである(ヨハネ20・19、21、26)。他の所で平安について言われていることもまた参照されたい(92、93、1726、2780、3170、3696番)。

 

 

 

天界の秘義5221

 

明るくされた全般的な状態の中には最初は混乱[不安]があり、善から発した諸真理がその秩序をもって置き換えられる時までは平安の無いことを知りはしない。

 

 

 

天界の秘義5660[]

 

 天界的なものである自分自身のものについては、それは主から与えられる新しい意志から生まれており、人間の自分自身のものとは以下の事実により相違しているのである、即ち、それを持っている者たちはその行う一切の物の中に、またその学び、または教える一切の物の中にもはや自分自身を求めはしないで、その時は社会、教会、主の王国を求め、かくて主御自身を求めるのである。変化するものは生命の目的なのである。低い物を、即ち、自己と世とを求める目的は遠ざけられ、高いものを求める目的がそれに取って代るのである。生命の目的とはその人間の生命そのもの以外の何ものでもないのである、なぜなら人間はその愛するものを欲し、その目的とするため、その目的は彼の意志と愛そのものであるからである。天界的なものである自分自身のものを与えられている者はまた穏やかで平安である、なぜなら彼は主を信頼し、悪いことは何一つ自分には降り掛かりはしないと信じており、欲念も自分にとりついて自分を悩ましはしないことを知っているからである。更に天界の自分自身のものの中にいる者たちは自由そのものの中にいるのである、なぜなら彼らは主により、善の中に導かれ、善から善へ導かれるからには、主により導かれることは自由であるからである。このことから彼らは祝福と幸福の中にいることは明白である、なぜなら彼らを乱すものは何一つなく、自己愛は何一つなく、従って敵意、憎悪、復讐は何一つなく、世への愛もなく、従って詐欺、恐怖、不安も何一つないからである。

 

 

 

天界の秘義5662[2]

 

現今では聖言に、例えば『エホバはその御顔をあなたに上げて、あなたに平安を賜るように』(民数記6・26)という祝とうや、その他の所に言われている『平安』の意義を殆どたれも知ってはいないのである。殆ど凡ての者は平安は敵から安全に守られていることであり、また穏やかにくつろいで仲間の間にいることであると信じている。この記事にはこうした平安は意味されているのではなく、それに無限にまさっている平安が、即ち、今し方語った天界の平安が意味されているのである。この平安はたれにも、もしその者が主によって導かれて、主の中にいない限りは、即ち、主が凡てのものにおける凡てのものであられる天界にいない限りは、与えられることは出来ないのである、なぜなら天界の平安は自己への愛と世への愛とから起ってくる諸々の欲念が取り去られるとき流れ入ってくるからである。この欲念が平安を取り去るものである、なぜならそれは人間の内部にとりついてそれを苦しめ、遂には彼に安心を不安なものにおかせ、平安を苦しませるものにおかせるからである。なぜなら彼の歓喜は悪の中に在るからである。人間がこの悪の中にいる限り、平安の何であるかを到底知ることは出来ない、否、彼はこうした平安は無価値なものであると非常に長く信じており、もしたれかが自己への愛と世への愛から発した歓喜が取り去られる時、それが認められるようになると言うなら、彼は、平安の対立したものである悪の歓喜に平安を置いているため、嘲笑してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義5662[3]

 

 平安の性質はこのようなものであり、即ち、凡ゆる幸福と祝福の最も内なるものであり、そこからそれらのものの凡てを支配している普遍的なものであるため、それで古代人は事が順調に行くようにと言いたい時は、普通の言葉の形式として、『平安があなたにありますように』という言葉を用い、『順調に事が行っていますか』と言いたい時は、人々に『平安がありますか』否かと尋ねたのである。平安について前に言われ、示されもしたことを参照されたい、即ち、天界の平安は地上の春と暁に似ている(1726、2780番)。平安はその最高の意味では主であり、その表象的な意味では主の王国であり、最も内なるものから善をもって感動させる主の神的なものである(3780、4681番)、不安は凡て悪と誤謬から発しているが、平安は善と真理から発している(3170番)。

 

 

 

天界の秘義8455

 

「営の周りに露が積もった」(出エジプト記16・13)。これは平安の真理がそれ自身を接合させたことを意味していることは、『露』の意義が平安の真理であることから明白である(3579番)。『露』が平安の真理を意味していることは、朝それが天から降りてきて、細い雨のように草の上に現れ、その中にはまた雨以上に何か甘美な、または歓ばしいものを貯えており、そのため草や畠の作物は喜ぶためであり、『朝』は平安の状態を意味しているのである(2708番)。平安の何であるかについては、2780、3696、4681、5662番を参照されたい。即ち、それは人の心を全般的な歓喜をもって喜ばせるところの地上の暁のようなものであり、平安の真理はその暁の光のようなものである。『平安の真理』と呼ばれているこの真理は主から発している天界の神的真理そのものであり、それはそこにいる者たち(の心)を凡て遍く感動させて天界を天界とさせているのである。なぜなら平安は、主は凡ゆる物を支配されて、凡ゆる物を供えられ、善い目的に向って導かれるという、主に対する信頼をその中に持っているからである。人間はこの信仰を持つ時、平安を得るのである、なぜなら彼はそのとき何ものも恐れないし、将来のことで心を労して不安になることもないからである。人間は主に対する愛の中へ進んで行くに比例してこの状態へ入って行くのである。

 

 

 

天界の秘義8455〔2〕

 

 悪は凡て、特に自己信頼は平安の状態を奪い去ってしまうのである。悪い人物は、何ごともその者のもとで成功するため、喜び、穏やかになる時、平安であると信じられている。しかしこれは平安ではなく、欲念の歓喜と穏やかさであって、平安の状態に似て非なるものである。しかし他生ではこの歓喜は、平安の歓喜に反している為、不快なものに変化してしまう、なぜならそうしたものがその中に隠れているからである。他生では外部は次々と内を明るみに出されて、最内部のものにさえも至り、平安は凡ゆる歓喜における、善の中にいる人間の不快なものにさえおける最も内なるものである。それで彼は外なるものを脱ぎ去るに比例して、平安の状態が明らかに示され、また満足、祝福、幸福を感じるが、その起原は主御自身から発しているのである。

 

 

 

天界の秘義8455〔2〕

 

 天界に行きわたっている平安の状態については、それはいかような言葉によっても描写することの出来ないものであり、人間がこの世にいる限りは、世から来ているいかような観念によっても、人間に考えられることも、認められることも出来ないものであると言うことが出来よう。それでそれは凡ゆる感覚を超越しているのである。成功から来ている心の穏やかさ、満足、喜びもそれに較べては無意味である、なぜならこれらは単に彼の外なるものを感動させるのみであるに反し、平安は凡ゆるものの中でも最も内なるものを―人間における最初の原質を、原質の初めのものをさえも感動させ、そこからその平安自身を幾多の原質的なものと派生的なものの中へ分与し、注ぎ入れて、それらに愉しさを感じさせ、観念の起原のものに、従ってその人間の生命の目的に満足と幸福とを感じさせ、かくしてその人間の心を天界とさせるからである。

 

 

 

天界の秘義9274[2]

 

再生しつつあり、また教会となりつつある人間のもとには二つの状態が在ることはこれまで知られていなかったことは、主として教会の人間は真理と善とを、引いては信仰と仁慈とを何ら明確に区別しなかったためであり、また理解と意志であるところの人間の二つの能力を何ら明確に認めなかったためであり、理解は真理と善とを認めるが、意志は真理と善とに感動して、それらを愛するのである。同じ理由からかれは以下のことも知ることができなかったのである。すなわち、再生しつつある人間の最初の状態は真理を学んで、それを認めることであり、第二の状態は真理を意志し[欲し]、愛することであり、人間が学んで、認めた事柄は、その人間がその事柄を意志し、愛さなくては、その人間のものとはならないのである、なぜなら意志はその人間そのものであって、理解はかれに仕える者であるからである。もしこうした事柄が知られていたなら、再生しつつある人間は主から新しい理解のみでなく、新しい意志も与えられ、もしその二つとも与えられないなら、かれは新しい人間ではないことが知られもし、認められもしたであろう、なぜなら理解はその人間が意志し、愛する事柄を見ることにすぎないのであり、かくて、前に言ったように、仕える者にしかすぎないからである。従って再生しつつある人間の最初の状態は諸真理を通して善へ導かれることであり、第二の状態は善により導かれることであり、かれがこの後の状態の中にいるときは、秩序[順序]は転倒するのであり、そのときはかれは主により導かれており、従ってかれはそのときは天界の中におり、そこから平安の静謐の中にいるのである。

 

 

 

黙示録講解22

 

「あなたたちに恩恵[めぐみ]と平安とがありますように」(黙示録1・5)は真理と善との歓喜を意味している。このことは以下のことから明白である。すなわち、『恩恵[めぐみ]』の意義は真理の歓喜であり(そのことについては以下にすぐ述べよう)、『平安』の意義は無垢と愛との歓喜である(そのことについては「天界と地獄」を参照されたい。そこには天界における平安の状態がとり扱われている、284−290)。『恩恵[めぐみ]』が真理の歓喜を意味しているのは、二つのものが主から発出していて、その起源では結合はしてはいるものの、それらを受ける者たちのもとでは分離しているためである。なぜなら神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちと、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちがいるからである。

 

 神的な善よりも神的な真理を多く受ける者たちは主の霊的な王国の中におり、それで霊的なものと呼ばれているが、神的な真理よりも神的な善を多く受ける者たちは主の天的な王国の中におり、それで天的なものと呼ばれている。(天界におけるこの二つの王国については「天界と地獄」の20−28番を参照されたい。)

 

 霊的な王国にいる者たちには真理のために真理を求める情愛の中にいることが主により与えられており、この神的なものが恩恵と呼ばれるものであり、それゆえ、たれでもその情愛の中にいる限り、主の神的な恩恵に浴しており、人間、霊、または天使のもとには、真理に感動する以外の神的な恩恵は決してないのである。なぜならその情愛の中にかれらに対する天界と祝福とが在るからである(「新しいエルサレム」の232、236、238番、「天界と地獄」の395−414番を参照されたい)。

 真理の情愛[真理に対する情愛]または真理の歓喜と言うも、それは同じことである。なぜなら歓喜のない情愛はないからである。

 

 

 

啓示による黙示録解説306

 

『平安』により主から発した凡ゆる物の総合体が意味され、そこから天界と教会との凡ゆる物とその中に在る生命の幸福が意味されている。それらはその最高の、または最も内なる意義における平安に属している。それで『平安』は仁慈、霊的な安堵、内なる休息であることが生まれている、なぜなら人間は主の中にいるときは、隣人に対し平安であり―それが仁慈である―地獄から守られて、それが霊的な安堵であり、彼がその隣人に対して平安であり、地獄から守られているときは、内的に悪と誤謬から遠ざかって休息するからである。(中略)平安は凡ゆる善を最も内的に祝福をもって感動させるものであることは、「天界と地獄」を取扱った著作(284−290番)に見ることができよう。

 

 

 

霊界日記1908

 

たれ一人、地上の人間としては、把握することは出来ないものであり、もしたれかがそれを、その最小のものですら知覚するなら、自分はもはや身体の中にいようとは、または形体的な、または世の煩わしい事の中にいようとは決して願いはしない、といったものである。

 

 

 

天界と地獄284

 

天界の平安にいたことのない者は天使たちに宿っている平安の何であるかを認めることは出来ない。人間もまた身体の内にいる限り、その認識は自然的なものに限られているため、天界の平安を受けることは出来ず、引いてはそれを認めることは出来ない。それを認めるためには、その思考は身体から高揚され、引き出されて、霊の中に留めおかれ、天使とともになることが出来なくてはならない。私はそのようにして天界の平安を認めたため、それを記すことが出来るのであるが、しかし人間の言葉は不充分なものであるため、言葉で、それをそのあるがままに記すことは出来ないが、ただ神の中に満足している者たちが受ける心の平安と比較してのみ記すことが出来るのである。

 

 

 

天界と地獄285

 

 天界の二つの最も内なるもの、即ち、無垢と平安とがあるが、それらは主から直接に発生しているため、最も内なるものと呼ばれている。無垢からは天界の善の凡てが発し、平安からは善の楽しさの凡てが発している。善は凡てその楽しさを持っており、善と楽しさとはともに愛に属している、なぜなら凡て愛されるものは善と呼ばれ、また楽しいものとして認められているから。ここから、無垢と平安の、その二つの最も内なる物は、主の神的な愛から発生して、天使たちを最内部から感動させることが推論される。無垢は善の最も内なるものであることは天界の天使たちの無垢の状態を記した前章に見ることが出来よう。平安は無垢の善から発する楽しさの最も内なるものであることは今説明しよう。

 

 

 

天界と地獄286

 

 平安の起原の何であるかを先ず述べよう。神的平安は主の中に在って、主の中の神的なものそれ自身と神的人間的なものとの結合から存在している。天界の平安の神的なものは主から発して、天界の天使たちと主との連結から存在し、個別的には各天使の善と真理との連結から存在している。これらが平安の起原である。このことから以下のことが明白となるであろう。即ち、諸天界の平安は、彼らが持っている善の各々を祝福をもって最も内的に感動させ、天界の凡ゆる喜びを与える神的なものであって、その本質は、主の神的愛の神的喜びであり、その喜びは、天界と天界にいる各々の者と主の連結から起っている。天使の中に主により認められ、また主から天使により認められるこの喜びが平安である。ここから派生により[この源泉から]天使たちは祝福された、楽しい、幸福な一切のものを、または天界の喜びと呼ばれるものを得ている(*)。

 

 

*平安によりその最高の意義では主が意味されるのは、主から平安があるためであり、内意では天界が意味されるのは、そこの凡ての者は平安の状態にいるためである、3780、4681。諸天界の平安はそこの善と真理とを凡て祝福をもって最も内的に感動させる神的なものであり、人間には把握されることは出来ない、92、3780,5662、8455、8665。神的平安は善の中にあるが、しかし善のない真理にはない、8722。

 

 

 

天界と地獄287

 

これらが平安の起原であるため、主は平安の君と呼ばれ、また主から平安が発し、主の中に平安があると言われ、天使たちもまた平安の天使と呼ばれ、天界は平安の住居と呼ばれている、例えば以下の記事には「一人の子供が私たちに生まれ、一人の男子が私たちに与えられた、まつりごとはその肩にあるであろう。その名は驚くべき者、勧告者、神、力あるもの、永遠の父、平安の君と呼ばれるであろう。そのまつりごとと平安とはとこしえに増し加わるであろう」(イザヤ9・6、7)。「イエスは言われた、平安をわたしはあなたたちのもとに残して行く。わたしの平安をあなたたちに与える。わたしはあなたたちに与えるのは、世が与えるようなものではない」(ヨハネ14・27)。「これらの事をわたしはあなたらに語ったのは、わたしの中にあなたらが平安を得るためである」(ヨハネ16・33)。「エホバ、その御顔をあなたに上げて、あなたに平安を与えられるように」(民数6・26)。「平安の天使たちは激しく泣いている、大道は荒れすたれている」(イザヤ33・7、8)。「公正な業は平安となるであろう。わたしの民は平安の住居に宿るであろう」(イザヤ32・17、18)。聖言に平安により意味されているものは神的な天界的な平安であることもまたそれを記している他の記事から明白となるであろう(例えばイザヤ52・7、54・10、59・8、エレミア16・5、25・37、29・11、ハガイ2・9、ゼカリア8・12、詩篇37・37その他)。平安は主と天界を意味し、また天界の喜びと善を楽しむことを意味しているため、「平安があなたのもとにありますように」は古代の挨拶の形式であって、それは今も残っており、そのことを主はそのつかわされる弟子たちに以下のように言われることによってもまた確認されたのである、「どの家に入っても、先ず、平安がその家にあるようにと言いなさい、もし平安の子がそこにいるならば、あなたの平安はその上にとどまるであろう」(ルカ10・5、6)。そして主御自身も同じく、使徒たちに現れ給うたとき、言われた、「平安があなたたちのもとにあるように」(ヨハネ20・19、21、26)。平安の状態がまた聖言にエホバは「休息のかおりをかがれた」と言われていることにより意味されている(例えば出エジプト29・18、25、41、レビ1・9、13、17、)2・2、9、6・15、21、23・12、13、18、民15・3、7、13、28・6、8、13、29・2、6、8、13、36)。休息のかおりにより、天界的な意味では、平安の認識が意味されている。平安は主における神的なものそれ自身と神的人間的なものとの結合を、主の、天界と教会との連結を、主の、天界に対する凡ての者とまた主を受ける教会の凡ての者との連結を意味するため、安息日はそうした物を記念するために定められ、休息または平安に因んで名をつけられ、教会を表象する最も聖いものであった。その理由からまた主は御自身を安息日の主と呼ばれた(マタイ12・8、マルコ2・27、28、ルカ6・5)。

 

 

 

 

 

天界と地獄288

 

天界の平安は、天使たちの中の善そのものを祝福をもって最も内的に感動させる神的なものであって、天使たちがその生命の善にいるときの心の楽しさによらなくては、また己が善に一致した真理を聞くときの快さによらなくては、また、その善と真理との連結を認めるときの心の愉しさによらなくては、天使たちには明らかに認識されないものであるが、しかしそうしたものからその平安は天使たちの生命の凡ゆる活動と思考との中へ流れ入って、そこにそれ自身を喜びとして、外なる形をもって示している。しかし無垢と平安とは互いに手を組み合わせて進むため、平安の性質と量とは諸天界ではそこにいる者たちの無垢に従って異なっている。なぜなら前に述べたように、無垢から天界の善は凡て発し、平安からその善の楽しさが発しているからである。このことから無垢と平安とは、善とその楽しさのように連結しているため―なぜなら善はその楽しさから感じられ、楽しさはその善から知られるから―前章で諸天界の無垢の状態について言われたと同じことが、ここでも平安の状態について言うことが出来よう。それがそうであるため、最も内なる天界または第三の天界の天使たちは、第三の度、または最も内なる度の無垢にいるため、第三の度、または最も内なる度の平安におり、低い諸天界の天使たちは、低い度の無垢に

いるため、低い度の平安にいることが明らかである(前の280参照)。無垢と平安とは、善とその歓喜のように、共になっていることは小さな子供たちのもとに見ることが出来よう、即ち、彼らは無垢[無邪気]であるため、また平安であり、平安であるため、その性質全体は遊戯に満ちている。しかし小さな子供たちの平安は外なる平安であって、内なる平安は、内なる知恵のように、知恵によらなくては与えられない、そしてそれは知恵の中に与えられるため、それは善と真理との連結の中に与えられる、なぜなら知恵はその連結から発するから。善と真理との連結から知恵の中におり、その結果自分自身が神の中に満足していることを認めている人間のもとに天界の平安または天使の平安が与えられるが、しかもその者が世に生きている間は、その平安は彼らの内部に貯えられており、彼らが身体を去って、天界に入る時、〔初めて〕明らかに示されるのである、なぜならその時彼らの内部は開かれるからである。

 

 

 

天界と地獄290

 

 私は平安について天使たちとまた語って、世では国と国との間に戦争と憎悪とが終り、人間と人間との間に敵意と不和とが止むときが平安と呼ばれ、内なる平安とは心配事がなくなって心が休むことであり、特に事業が成功して心が静まり、楽しむことであると信じられていると言った。しかし天使たちは、心配事がなくなり、事業が成功したことで心が休まり、静まり、楽しむことは、天界の善にいない者のもとでは、平安から生まれているようには見えるが、しかし平安から生まれているのではない、なぜなら平安は天界の善の中にのみ与えられるからである。なぜなら平安は主から彼らの最も内なるところへ流れ入り、その最も内なるところから降って、彼らの心の低い領域の中へ流れ下って、合理的な心の休息と、自然的な心の静謐と、そこから発する喜びとを生み出すからである。しかし悪にいる者には平安は与えられない(*6)、実際、物事が自分の願うように成功すると、休息、静謐、歓喜のように思われるものはあるが、しかしそれは外面的なもので、内面的なものではない。内的には彼らは敵意、憎悪、復讐、残酷、その他の悪い欲念に燃えており、その心はまたそうしたものの中へ、自分に好意を示さない者を見るや否や、突入し、恐れがなくなると、そうしたものを爆発させるのである。ここから彼らの楽しさは狂気に宿っているが、善にいる者たちの楽しさは知恵に宿っている、その相違は地獄と天界との相違に似ている。

 

*6 自己と世への愛から発する欲念は平安を全く取り去ってしまう、3170、5662。平安は休まないことにあり平安と反したものにあると考えている者がいる。5662。悪い欲念が除かれない限り、平安は与えられない、5662。

 

 

 

3.ルイザ・ピッカレータ

 

ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/第2巻P113

 

<従順について。>

 

1899年8月17日

 

私は、ご聖体拝領のあとイエズスに言った。「いったいどうして従順という徳は、これほど情け容赦なく、時としては気まぐれなほど強いものなの。」主は答えてくれた。

 

「この従順という婦人は、なぜそうなのか知っていますか?それは他のすべての悪癖に死を与えるからです。他のものに死を受容させるためには、それはどうしても強く勇敢でなくてはならない。またもしそれだけで足りなければ容赦なく、気まぐれとさえ思うときもあります。とてもか弱い身体を殺すためにも力と勇気がいるのだから、悪癖や情熱に死の一撃を与えるためには、もっとそれが必要になる。でもそれはとてもむつかしいのです。時には死んだと思っても、再び生き返ることがあるから。この勤勉な婦人は常に動いて様子をうかがっているので、もし人が命令を実行するのにちょっとでもためらっていると、その心にもう一度悪癖が甦ってくる恐れがあるので、その人が彼女の足元にひれ伏し、沈黙のうちに、彼女の望みを礼拝するまで、魂に戦いをいどみ、平和を与えないのです。

 

さあ、これがあなたの言う、彼女がなぜこれほど情け容赦なく気まぐれかという理由です。ああ、そうなのです。従順なしには、真の平和はない。もしも従順なしに平和を味わっているように感じるなら、それは偽の平和です。それは自分の情熱には合致するが、決して徳と一致はしない。魂は自滅します。なぜなら、従順から離れるのは、この気高い徳の王である私から離れることだから。

 

従順は自己の意志を殺し、神のそれを溢れるほどに注ぐ。従順な霊魂は、もはや自分自身の意志で生きるのではなく、神のそれで生きているとさえ言える。神の意志そのものをもって生きること以上に美しく、聖なる人生が得られるでしょうか。他の徳の場合、たとえそれがもっとも崇高なものだとしても、そこには自己愛が混じることがあるけれど、従順にはけっしてそれがないのです。」

 

 

 

マリア・ワルトルタ25・11/天使館1巻P208

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

子らよ、わたしたちのために、に仲裁していただくには、希望し、祈り、赦さねばならないのです。あなたたちも、あなたたちの受難を生きなさい。あなたたちの犯した罪に値する受難を。喜びつつ、いかに受難を克服し、それを変えるかをわたしはあなたたちに教えましょう。法外に希望しなさい。信頼を失わず祈りなさい。赦されるために赦しなさい。子らよ、の赦しこそあなたたちが熱望している平和なのです。

 

 

 

4.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・25

 

[]わたしの子よ、わたしはかつて「わたしは平安をあなたがたに遺し、わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは世の与えるようにではない。」(ヨハネ14・27)と言ったことがある。

 平安はすべての人が望むところである。けれども真の平安を得るため必要なことに心を留める人はめったにない。

 わたしの平安は、心の謙遜柔和な人々とともにあり、あなたの平安は多くを忍ぶところにある。

 あなたは、もしわたしに聞き、わたしの声に従うならば、多くの平安を得ることができるだろう。

 

 

 

[]何事においても、自分を省み、自分の行為(おこない)、言葉に注意し、まったくただわたしだけを喜ばせるように心がけ、わたしの外には何ものをも望み求めてはならぬ。

 そして他人の言葉や行為については、かるがるしく是非(よしあし)を言わず、またあなたに任されたことでなければ関係するな。そうすればわずらわしい思いをすることはほとんどなく、あってもきわめてまれであろう。

 

 

 

5.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P93

 

求道者:「ああ、神よ、今日、わたしのいただいたこの祝福が、わたしの弱さや冷淡によって失われたりすることがありませんように。わたしが最後まで忠実であるよう、どうかお恵みください。わたしが常にあなたの真実の下僕であり続け、あなたの中に、あなたのために生きられますよう」

 

メルキゼデク:「常に目を覚まし、祈ることが大切である。世の富を失うとも決して気にかけるな。それは早晩起ることである。だが、今あなたは、自分を失わない限りは他の誰にも奪い取ることのできない、真の富を手にしているのだ。今、あなたは、小船に乗って濁流の上を旅する男のようである。荒れ狂う波風に打たれてこの小船は沈んだ。彼は川岸に向って泳いだが、ポケットの中の小銭以外、すべての持ち物が濁流に押し流された。男は川岸に着くと、賊に襲われ、持っているものすべてを奪われた。こうしてすべてを奪われても、男は決して取り乱さなかった。それは、誰にも奪い取ることのできない、あの真の平和が心の中にあったからである。そこで彼は賛美歌をうたいながら神を讃え、そこを去って定められた務めに着手した。

 今、あなたは、この世の富と名誉を失うことによって心が空にされ、真の永遠の富を受けるに至ったことに感謝せよ。みよ、わたしはいつまでもあなたと共にいる。行って、わが羊たちを牧しなさい」

 真理の探究者は、恭しく頭を下げ、メルキゼデクの足下に身を投げ出し、メルキゼデクは彼を祝福すると姿をかき消した。彼は起き上がり、全身全霊をもって神に仕えた。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P100

 

 聖人:「あのギリシャの名高い哲学者ソクラテスが、一生をかけてただ一つのこと、つまり“自分は無知である”ことを学びとったと告白したのを、覚えておいででしょう。それをきいて人々は、哲学者のくせに無知だというのなら、他の俗人とどこが違うのかと迫りました。ソクラテスは、一つだけ違うところがある。それは、自分は無知であることを知っているが、人々はそれさえ知らずにいるのだ、と答えました。

 わたしの場合も、これと非常に似通っています。わたしは、自分が弱く罪人であることを知っていますが、人々は自分が罪人であることに気づいていないのです。そのため、罪を癒す薬にまったく気づかず、罪の中で死んでしまっているのです。人々がわたしのことを聖人と呼んでいるとすれば、それは誤っています。わたしは、神との密なる交わりに生きることによって聖人になろうと努めてはいますが、聖人になってなどおりません。もちろん、次のことだけはいつでも堂々と証しを立てられます。わたしは、愛する聖なるキリストと交わる中で、どのような理解も超えたあの平和を楽しんでいる。この天上の歓喜はこの世の言葉では表現できないものであり、現世的な人々には決してそれがわからないということです」

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P166

 

神はわれわれに外なる感覚と内なる感覚をお与えになったが、それは切迫する危険を警告し、真の歓びをさし示すためのものである。苦は体か心に異常のあることの指標であり、安らぎと幸せは人が実在の法則に従っていることの結果である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P166

 

われわれが自然界に逆らえば、自然界がわれわれに逆らう。だが、自然と調和して生きるようにすれば、自然はわれわれに害を及ぼすどころか、完全な健康という神の定められたあの目標に到達する助けをしてくれるのである。そして、完全な健康を得る中で、われわれは霊魂の中心的願いである神の中での永遠の歓びを得る。

 

 

 

6.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P30

 

私のうちで動けるように あなたを準備させてほしい。

あなたも、「私は休息を見いだした・・・」と他の者たちに言えるよう 我が玉座をあなたのうちに据えるのを許しなさい。 御父に見(まみ)えたいとは願わないか? 神に出逢いたいと切に焦がれていよう?

 

そうであるなら、そのときは あなたを産まなければならない、そう、御父を見るには 私から新たに生まれる必要がある。 生まれ出る前に父親を見た人は誰もいない。

 

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P47

‘99・6・30

 

私はそそり立つ波間を跡も残さずに抜けていく船のようではない、そうではなく、皆にあなたの声を聞かせ 三位一体の神が今やあなたのうちに生きて あなたのうちに隠れていると知らせる。 私どもがあなたのうちを航行し蘇生させるなら それは人に気づかれずには済まない こう言ってあなたが私を讃美するゆえ:

 

「神をどのようにしてわが物にするかを、私は御父に教えていただきました。 神は私のお父さま、その超越性を損なうことなく私の父となられ ご自分を私に分からせて下さいました。 その荘厳が被造界にあまねく行き渡っている、その方は 自らの知識で私を満たされました。 万物を包含し、その輝きで一切を満たしながらも その限界にはとらわれない三位一体の神は、ご自身を私に与え、私のうちなるすべてが善良であるように 命じられました、そして今や 私の霊魂は満足し、その惨めさにもかかわらず、神に満たされ心安らかです。」

 

 

 

 

7.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ヴァルトルタ/天使館/第4巻中/P169

 

 家に入る時には、あなたたちにある最も甘美なわたしの挨拶で挨拶しなさい。『平安はあなたたちと共にあるように。平安はこの家にあれ』と言い、それとも『この家に平安が訪れるように』と言いなさい。実際、あなたたち、イエズスと良き知らせの使者たちは、平安を携え、またある場所へのあなたたちの来訪は、そこに平安をもたらすことなのです。もしその家がそれにふさわしいならば、その家に平安が来るであろうし、それは留まるでしょう。もしふさわしくなければ、平安はあなたたちに戻ってくるでしょう。だがあなたたちは、あなたたちの御父として神を有するために和を重んじる人であるように専念しなさい。父親は常に助けます。そしてあなたたちは神から助けられているのですからすべてをなし、すべてをよくしなさい。

 

 

 

8.独りで住む

 

 

天界の秘義139

 

古代天的な人間として主の導きの下にあった者たちは『独りで住んでいる』と言われたが、それはこのような者たちはもはや悪または悪霊にとりつかれて悩まされはしなかったからである。このことはまたユダヤ教会の内で、かれらが諸々の国民を放逐したさい、独り住まったことにより表象されたのである。

 

イスラエルは独り安らかに住んだ(申命記33・28)

 

 

 

9.シルワン

 

 

シルワンの手記/P47

 

 私たちは人びとを愛さないので、心の平安を失うのだ。

 

 

 

シルワンの手記/P47

 

聖霊の平安に満たされている人は、その平安を輝かせ、他人にもその平安をもたらすが、悪の霊をもつ人は悪を産み出す。

 

 

 

シルワンの手記/P57

 

 神のみ旨に従って生活しているかどうか、ということをあなたはどのように識別ができるか。その基準はこれである。あなたは何かについて思いわずらうなら、それがみ旨を行っていると思い込んでも、まだすべてをみ旨にゆだねていないしるしだ。み旨を行う人は、思いわずらうことがない。何かが必要であれば、その人はそれと自分を主にゆだねる。彼はすべてを主にまかせる。必要なものをいただかなくても、いただいたかのように、彼は平安だ。どんなことが起こっても、神のみ旨だと思って恐れない。病気になったとしても、自分にとって必要な病気だと思う。必要でなかったら、主はそれを許さないだろう。このようにして、彼は体と魂の平安を保ち続ける。すべてにおいて、神にゆだねるようになった人は神においてのみ生き、そしてこのような内的な喜びのうちに、すべての人のために祈る。

 

 

 

シルワンの手記/P65

 

 兄弟に暴力をもって当たらないこと。兄弟を絶対に裁かないこと。優しさと愛をもって説得すること。高慢とかたくなさは平安を奪う。愛してくれない人を愛し、その人のために祈れ。そうすれば、あなたの平安は乱されることがない。

 

 

 

10.平安の真理

 

 

天界の秘義8456

 

「たまった露は乾いた」。これは真理が徐々に浸透したことを意味していることは以下から明白である、即ち、『乾くこと』の意義はここでは消散することであり、かくて目に見えなくなることであり、『露』の意義は平安の真理である(そのことについては直ぐ前を参照)。マナの上に露がたまったことは真理が徐々にに浸透したことを意味している、なぜなら平安の真理は天界における主から発出している神的真理であって、それは最も内なるものであるため、それ自身を下に在る真理の中へ徐々に浸透させて、それを生かすことは、露が朝その落ちる草や生長しつつある作物を常に生かすのに似ているからである。下に在る真理がそれにより生かされると、その時は平安の真理は上に昇るのであり、即ち、外観的には存在しなくなって、その真理から生命を得た真理が見えてくるのである。信仰の真理はこのようにして生まれるのである。人間のもとではいかような教義の真理も、または聖言に真理も、それが神的なものから生命を受けない中は真理とはならないのであり、それは『平安の真理』と呼ばれているところの、主から発生している真理が徐々に浸透することを通して生命を受けるのである。この真理は信仰の真理ではなくて、信仰の真理の生命または霊魂であり、『信仰の真理』と呼ばれている真理の中に在る凡ゆる物を処理して天界の形となし、後にはまた諸真理そのものを処理して互に他に関連づけるのである。この凡てから平安の真理により人間のもとに真理が徐々に浸透する実情のいかようなものであるかを認めることが出来よう。また再生しつつある人間のもとでは、低い、または外的なものは高い、または内的なものから継続的に生命を受けており、かくて信仰の真理は平安の真理から、平安の真理は主御自身から生命を受けていることを知られたい。再生しつつある者たちのもとに主から生命が徐々にに浸透することは主により継続的な秩序をもって行われ、かくて最も内なるものを通して行われ、それで内的なものを通して外的なものへと及んでいるのである。従って、再生した者には実に主からさえも道が開かれているが、再生しない者らにはその道は閉じられているのである。

 

 

 

 

11.世に生きている間は、その平安は彼らの内部に貯えられており、彼らが身体を去って、天界に入る時、〔初めて〕明らかに示される

 

 

天界と地獄288

 

善と真理との連結から知恵の中におり、その結果自分自身が神の中に満足していることを認めている人間のもとに天界の平安または天使の平安が与えられるが、しかもその者が世に生きている間は、その平安は彼らの内部に貯えられており、彼らが身体を去って、天界に入る時、〔初めて〕明らかに示されるのである、なぜならその時彼らの内部は開かれるからである。

 

 

 

 

12.それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいる、それを目的として彼は闘う

 

 

天界の秘義3696[2]

 

再生しつつある人間の中の新しい生命の場合も殆ど同じである。即ち、最初彼は静謐の状態の中にいるが、新しい生命へ移って行くにつれ、それと同時にまた不安な状態へ移って行くのである。なぜなら前に彼に浸透するようになっていた幾多の悪と誤謬とが出現し、発生してきて、彼を悩ませ、遂にはそれは彼の新しい生命の状態を破壊しようと絶えず努めている悪魔の一味により加えられる試練と懊悩に陥る程にも至るのである。それでもその人間はその最も内なるところでは平安の状態の中にいるのである。なぜならもしそれが彼の最も内なるところに存在しない限り彼は闘わないからである。なぜなら彼はその闘争において絶えずこの状態をその目的として注視しており、そしてこのような目的を持たない限り、彼は闘う力と強さを決して持ちはしなからである。更にこれが彼が勝利を得る理由であり、これが目指している目的であるため、彼はまたその幾多の闘争または幾多の試練の後でこの状態の中へ入ってくるのである。これは秋と冬との状態に続いてくる春の状態に似ており、または夕と夜とに続いてくる暁の状態に似ている。(霊的な事柄における平安の状態は自然的なものにおける春と暁に似ていることは、前の1726、2780番に見ることが出来よう、また平安は善と真理から発し、不安は悪い誤ったものから発していることは3170番に見ることが出来よう、また平安は善と真理から発し、不安は悪い誤ったものから発していることは3170番に見ることが出来よう。

 

 

 

 

13.特に試練後の場合のように、その人間の中に善と真理とが連結すると、そのとき彼は平安から発した歓喜の状態へ入って行く

 

 

天界と地獄289

 

神的平安は主と天界との連結から存在し、個別的には各天使いおける善と真理との連結から存在するため、天使たちは、愛の状態にいるときは平安の状態にいる、なぜならそのとき善は彼らの中に真理と連結しているからである。天使たちの状態は交互に変化することは前に見ることが出来よう(154−160)。再生しつつある人間の場合も似ており、特に試練後の場合のように、その人間の中に善と真理とが連結すると、そのとき彼は平安から発した歓喜の状態へ入って行く。この平安は春の朝、または夜明けにたとえることが出来よう、そのときは夜は過ぎ去り、昇ってくる太陽のため地の凡ての物は新たに生き始め、天から降ってくる露に作物の香りは辺り一面に漂い、穏やかな、春の温度に土地は肥え、人の心にも穏やかな楽しさがこみ上げてくるが、これは春の時期の朝または夜明けは天界の天使たちの平安の状態に相応しているためである(155参照)。

 

 

 

 

14.私が平和の君なのは、御父の子、無限の平和と甘美な平和のマリアの子だからです

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下/P270

 

「マリアは天と創造の世界の花、天国の真珠、神の平和です。・・・そう、平和。私が平和の君なのは、御父の子、無限の平和と甘美な平和のマリアの子だからです。」

 

 

 

 

15.主の『花嫁と妻』と呼ばれるこの生かされた自分自身のもの

 

 

天界の秘義155

 

『肋骨が女に組み建てられた』という言葉は人がその文字から発見することの出来ないものをその中のその最も深い辺りに隠しているのである。なぜなら主の聖言はその最も深い内容では主御自身とその王国とに関わるものであり、ここから聖言の凡ゆる生命が発しているからである。それで今取り扱っている記事の中で、その最も深い内容において問題とされているものは天界の結婚である。天界の結婚はその自分自身のものの中に存在するといった性質のものであって、その自分自身のものが主によって生かされる時、それは主の『花嫁、妻』と呼ばれるのである。このように生かされた人間自身のものは愛の善と信仰の真理とをことごとく認識し、従って言い尽くし難い幸福と連結した知恵と理知とをことごとく持っているのである。しかし主の『花嫁と妻』と呼ばれるこの生かされた自分自身のものの性質は簡単に説明することは出来ない。それでただ以下のようにのみ述べておこう、即ち、天使たちは自分たちが主から生きていることを認めてはいるものの、それでもその主題について反省していない時は、自分は自分自身から生きているとしか考えてはいないのである。しかし彼らが愛の善と信仰の真理から些かでも外れると、変化を認めるといった共通した情愛が在り、従って彼らは自分は主から生きているという共通した認識の中にいるときは、言い尽くし難い平安と幸福との中にいるのである。

 エレミヤ記の以下の記事で意味されているものはまたこの自分自身のものである―

 エホバは地に新しい事を創造られた、女は男を抱くであろう(エレミヤ31・22)。

 この記事にもまた意味されているものは天界の結婚であり、そこに『女』により主により生かされている自分自身のものが意味され、『抱く[囲む]』の表現がその女について述べられているのは、この自分自身のものは、肉となった肋骨が心臓を囲む[抱く]ようにも囲むものであるからである。