露
平安/
天界の秘義3579[2]
『つゆ』が真理を意味していることはまた聖言の他の所から明白である、例えばゼカリヤ書には―
平安の種子は、ぶどうはその果をむすび、地はその作物を生み出し、天はそのつゆをあたえるであろう(ゼカリヤ8・12)。
これは新しい教会を語っており、そこでは『その実を結ぶぶどう』は、善を与えるところの教会の霊的なものを、または信仰の真理を意味しており、『地はその作物を与えること』は真理を与えるところの教会の天的なものを、または仁慈の善を意味しており、これらが『天が与えるつゆ』である。ハガイ書には―
荒れ果てているわたしの家のためにあなたたちの上に天は閉じられて露をしたたらせない、地は閉じられてその作物を実らせない(ハガイ1・9、10)。
ここに抑えられた『天のつゆと地の作物』も類似した意義を持っている。
天界の秘義8455
「営の周りに露が積もった」。これは平安の真理がそれ自身を接合させたことを意味していることは、『露』の意義が平安の真理であることから明白である(3579番)。『露』が平安の真理を意味していることは、朝それが天から降りてきて、細い雨のように草の上に現れ、その中にはまた雨以上に何か甘美な、または歓ばしいものを貯えており、そのため草や畠の作物は喜ぶためであり、『朝』は平安の状態を意味しているのである(2708番)。平安の何であるかについては、2780、3696、4681、5662番を参照されたい。即ち、それは人の心を全般的な歓喜をもって喜ばせるところの地上の暁のようなものであり、平安の真理はその暁の光のようなものである。『平安の真理』と呼ばれているこの真理は主から発している天界の神的真理そのものであり、それはそこにいる者たち(の心)を凡て遍く感動させて天界を天界とさせているのである。なぜなら平安は、主は凡ゆる物を支配されて、凡ゆる物を供えられ、善い目的に向って導かれるという、主に対する信頼をその中に持っているからである。人間はこの信仰を持つ時、平安を得るのである、なぜなら彼はそのとき何ものも恐れないし、将来のことで心を労して不安になることもないからである。人間は主に対する愛の中へ進んで行くに比例してこの状態へ入って行くのである。
黙示録講解375ホ(26)
『つゆ[露]』は神的真理を意味していることについては、「秘義」、3579、8455番を、