第1誡:われはなんじの主なり。

われを唯一の天主として礼拝すべし。

 

 

十戒(出エジプト20)

 

 

 

出エジプト20・1−6

 

神はこれらすべての言葉を告げられた。「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である。あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。あなたはいかなる像も造ってはならない。上は天にあり、下は地にあり、また地の下の水の中にある、いかなるものの形も造ってはならない。あなたはそれらに向かってひれ伏したり、それらに仕えたりしてはならない。わたしは主、あなたの神。わたしは熱情の神である。わたしを否む者には、父祖の罪を子孫に三代、四代までも問うが、わたしを愛し、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える。

 

 

 

1.自然的意義:偶像を礼拝してはならない

2.自然的意義:人間を神として礼拝してはならない

3.自然的意義:拝されるものがその者の神となる

4.霊的意義:イエス・キリストなる主以外に他の如何なる神をも礼拝すべきではないこと

5.天的な意義:主エホバは無限

6.人間の心の内的な領域を再び開き、かくして一人の神の礼拝を回復するためであった

7.黙示録講解

 

 

 

1.自然的意義:偶像を礼拝してはならない

 

 

真の基督教291

 

「汝は我面の前に我の外何物をも神とすべからず」。

 

文字の意義である自然的な意義では、その最も明白な意義は、偶像は礼拝してはならないということである。何故ならそこに以下の文字が続いて記されているからである。「汝自己のために何の偶像をも彫むべからず、これを拝むべからず、これに事(つか)うべからず、我は汝の神、エホバにして嫉む神なればなり」(出エジプト20・3−6)。

この誡命は先ず、偶像を拝してはならないことを意味するのは、その時以前とその時以後、主の来たり給う時まで、偶像礼拝がアジアに一般的に行われていたためである。この理由は、主の来り給う前の凡ゆる教会は表象的であり模型的であり、神的な物は種々の形と彫刻によって表現されたのであるが、これをその意義が忘れられた時、一般の人々は神々として礼拝し始めたということであった。

このような礼拝がエジプトのイスラエルの人々の間に一般的に行われた。何故なら彼らは荒野にエホバの代わりに金の子牛を礼拝し、そして史的なまた預言的な聖言の多くの記事によって明白であるように、実際に決してその礼拝を棄て去らなかったからである。

 

 

 

2.自然的意義:人間を神として礼拝してはならない

 

 

真の基督教292

 

 自然的な意義においては、この誡命はまた如何なる人間をも、生者死者を問わず、アジアおよびそれに隣接した種々の国々に行われたように、神として礼拝してはならないことを意味している。

バール、アシタロテ、ケモシ、ミルコム、バールゼバブのような異邦人の神々の多くは人間であった。アテネとローマのサターン、ジュピター、ネプチューン、プルート、アポロ、パラスおよびその他も同様に人間であった。これらのある者は最初はあらたかな、聖いものとして、最後には神的なものとして礼拝された。生きている人間がまた神々として礼拝されたことは、何人も三十日の間は神から如何なるものをも求めてはならない、王のみからこれを求めなくてはならない、これに違反するものは獅子の洞窟に投ぜられるというメデア人ダリヨスの勅令によって明白である(ダニエル6・7)。

 

 

 

 

3.自然的意義:拝されるものがその者の神となる

 

 

真の基督教293

 

 この誡命はまたその自然的な意義では、神以外の何人をも、神から発するもの以外の何物をも、主の言葉に従って、凡てのものにまさって愛してはならないことを意味している(マタイ22・35、37、ルカ10・25−28)。

何故なら、他の凡てのものよりも愛される人物、あるいは物は、それが何であろうと、拝されて、その拝する者の神となるからである。例えば、自らを、あるいは、この世を凡ての物よりも愛する者は凡て自らをあるいは世を拝し、そしてこれらのものが彼の神となるのである。これがこのような人間は他の如何なる神をも認めない理由である。それ故、彼らは自己と世を凡てのものにまさって愛する凡ての者の住居なる地獄に在る彼らの同類と交わるのである。

 

 

 

 

4.霊的意義:イエス・キリストなる主以外に他の如何なる神をも礼拝すべきではないこと

 

 

真の基督教294

 

 この誡命の「霊的な意義」はイエス・キリストなる主以外に他の如何なる神をも礼拝すべきではないということである。それは彼こそ世に来り給い、それなくしては人間も天使も救われ得なかった贖罪を成就し給うたエホバであり給うからである。彼以外には神は在し給わないことは、聖言の以下の記事によって明白である。

 

「その日、かく言わん、見よ! これは我らの神なり、我らは我らを救うべき彼を待ち望めり、これエホバなり、我ら待ち望めり、我らはその救いを歓び楽しまん」(イザヤ25・9)。

 

「砂漠に呼ばわる者の声きこゆ、曰く汝らエホバの途を備え、砂漠に我らの神の大路を直くせよ、かくてエホバの栄光現れ、人みな共にこれを見ん。見よ、主エホバは能力を持ちて来り給わん、主は牧者のごとくにその群れを養いたまわん」(イザヤ40・3、5、10、11)。

 

「まことに神は汝の中にいませり、このほかに神なし、まことに汝はかくれています神なり、ああ、イスラエルの神よ、救い主よ」(イザヤ45・14、15)。

 

「我はエホバならずや、我のほかに神あることなし、我は正しき神にして救い主なり。我のほかに神あることなし」(イザヤ45・21)。

 

「我はエホバなり、我のほかに救う者なし」(イザヤ43・11、ホセア13・4)。

 

「而して万民はわがエホバにして汝を救う者、汝を贖う者なることを知るべし」(イザヤ49・26、60・16)。

 

「われらを贖い給う者、万軍のエホバはその名なり」(イザヤ47・4、エレミア50・34)。

 

「エホバは我が巌、我が贖い主なり」(詩篇19・14)。

 

「汝の贖い主、エホバ、イスラエルの聖者かく語り給う、我エホバは汝の神なり」(イザヤ48・17、43・14、49・7)。

 

「汝の贖い主エホバかく言い給う、我はエホバにしてよろずのものを我のみにて造るものなり」(イザヤ44・24)。

 

「エホバ イスラエルの王、イスラエルを贖うもの、万軍のエホバかく言い給う、我は始めなり、終わりなり、我の他に神あるなし」(イザヤ44・6)。

 

「その名万軍のエホバ、汝を贖い給うものはイスラエルの聖者なり。全世界の神と称えられ給うべし」(イザヤ54・5)

 

「アブラハムわれらを知らず、イスラエルわれらを認めず、されどエホバよ、汝は我らの父なり、われらの贖い主なり。汝の名は永遠より在るなり」(イザヤ63・16)。

 

「一人の嬰児われらのために生まれたり、我らは一人の子を与えられたり、その名は奇妙、義士、大能の神、とこしえの父、平和の君ととなえられん」(イザヤ9・6)。

 

「見よ、わがダビデに一つの美しき枝を起こす日来たん、彼は王となりて世を治めん。その名はエホバ、我らの義と称えられる」(エレミア23・5、6)。

 

「ピリポ、イエスに言う、主よ父を我らに示し給え。イエス言い給う、我を見し者は父を見しなり。我の父に居り、父は我に居給うことを汝信ぜぬか」(ヨハネ14・8−10)。

 

「イエス・キリストの中には神性の完全は尽く身体をなして宿れり」(コロサイ11・9)。

 

「我らはイエス・キリストの中に真理の中に在り。かれは真の神にして、永遠の生命なり。子よ、自らを偶像より遠ざけよ」(ヨハネ第一15・20,21)。

 

 これらの記事によって、我らの救い主なる主は、創造者であり、贖罪者であり、再生者なるエホバ御自らであることが明白である。これがこの誡命の霊的な意義である。

 

 

 

 

5.天的な意義:主エホバは無限

 

 

真の基督教295

 

 この誡命の「天的な意義」は主エホバは無限であり、測り得ないものであり、永遠であり、全能であり、全知であり、遍在であり、最初であり、最後であり、始めであり、終わりでありかつて在ったものであり、現在在る者であり、将来在るであろうものであり、彼は愛そのもの、知恵そのもの、あるいは善そのものであり、したがって生命そのものであり、かくして唯一の存在であり、そこから凡ゆるものが存在するということである。

 

 

 

真の基督教296

 

人間の形を取り給うたエホバなる神御自身にて在す主なる救い主、イエス・キリスト以外に神を認め、これを礼拝する者は凡てこの第一の誡命に対して罪を犯し、永遠より存在する三人の神的な人格の存在を確信する者らもまた同様な罪を犯すのである。彼らはこの誤りに対する信仰を確認するに応じて、益々自然的に、物質的になり、遂に内的に如何なる神的真理をも理解し得なくなり、もしこれを聞き、受け入れるにしても、これを汚し、誤りに巻き込むのである。彼らは家の最低階すなわち地階に住んでいる者に譬えることが出来よう。この人々は二階あるいは三階に語られていることを何一つ聞かない。それは天井のために音が彼らに達することが出来ないからである。何故なら、人間の心は三階の家に似、最低の階には永遠より存在する三人の神を信ずる信念を確認した者たちが居り、二階と三階には主なる神なる救い主にて在す目に見ゆる人間の形を取り給うた一人の神を認め、これを信ずる者たちが居るからである。感覚的な、物質的な人間は、単に自然的であって、実に動物以外の何ものでもなく、獣とは単に話しかつ論ずることが出来るという点に於いてのみ異なっているに過ぎないのである。それ故、彼は凡ゆる種類の獣の居る野獣園に住まっている者に似ており、そこには彼は獅子、熊、虎、豹、あるいは狼のように振る舞い、否、また羊のように振る舞ってみせることも出来るが、その時は心の中で嘲笑しているのである。たんに自然的な人間は神的な真理をこの世的な物によってのみ考え、かくして感覚の迷妄によって考え、その上に己が心を引き挙げることが出来ない。その信ずる教義は彼が美食として食べる籾殻で出来たソップに譬えることが出来よう、あるいはエゼキエルがイスラエルの人々の間に於ける教会の状態を表象するために、人間あるいは牡牛の糞を混ぜて、小麦、大麦、豆、あじ豆、粟から造るように命ぜられたパンと菓子に譬えることが出来よう(4・9)。

 その各々が単独に神である所の永遠から存在する三人の神的な人格の概念の上に基礎づけられ、建てられている教会の教義もこれと同様である。もし、それが忠実に絵に表現されるならば、誰がこのような信仰の奇怪さを認めないであろうか。例えば、もし、その三人格が一列になって立ち、第一の人格は笏と王冠によって他から区別され、第二の人格はその右手に聖言を持ち、左手に血の点々とした黄金の十字架を持ち、第三の人格は今まさにその翼を拡げて飛び立ち、行動しようとしており、而して彼ら三人の上に「これらの三人格は三神なるも、一人の神である」との銘が刻みつけられているとするならば如何であろう。このような絵画を眺めて、賢明な者は「何と奇怪な作品であろう」と語らないであろうか。しかしもし彼がその頭の周囲に天界の光りを浴び「これは我らの神であって、創造者、贖罪者、再生者、救い主である」との銘をいただいた一人の神的な人格の絵画を眺めるならば、その語るところは異なるであろう。賢い者はこのような絵画に接吻し、これを胸に収めて家に携えて帰り、彼の妻を、子を、召使を、彼自身を喜ばせないであろうか。

 

 

 

 

6.人間の心の内的な領域を再び開き、かくして一人の神の礼拝を回復するためであった

 

 

真の基督教9

 

宗教と健全な理性を持つ世界の他の国民は、神は一人であることを一致して認めており、かくて幾多の領土内の凡ての回教徒、大陸の多くの地域に亘って住むアフリカ人とアジア人、更に現在のユダヤ人も一致している。最古代の人々の間では、宗教を持つ人々は一人の神を拝し、これをエホバと呼んだ。しかし王政が形作られるに至って、世俗的な遂には野卑な欲望が、以前開かれていて一人の神を拝する為の神殿、神社のようなものであった彼らの理解の高部を閉じ始めたのである。主がヤコブの裔の間に教会を建設して、その凡ての宗教的な教えの冒頭に、汝は我が前に他の如何なる神をも拝すべからず(出エジプト20・3)との誡を掲げ給うたのは、その人間の心の内的な領域を再び開き、かくして一人の神の礼拝を回復するためであった

 

 

 

 

7.黙示録講解

 

 

黙示録講解954〔2〕

 

人間が、支配することの単なる歓喜そのものから支配することを求める愛と、所有することの単なる歓喜そのものから世の財産を所有することを求める愛である人間自身の二つの愛に抵抗する限り、かくて人間が十戒に禁じられている幾多の悪を罪として避ける限り、それに応じて主から天界を通して以下の考えが流れ入って来る、即ち、宇宙の創造者、維持者であられる神がおられ、実にまた神は一人で在られるとの考えが流れ入ってくる。そのときこの考えは以下の理由のために流れ入ってくるのである、即ち、幾多の悪が遠ざけられると、天界は開かれるのであり、天界が開かれると、もはや自己からは考えないで、主から天界を通して考えるのである。神がおられ、神は一人であられることは、凡ゆる事柄を包含している天界の普遍的な原理である。神は一人であられることを人間は流入のみから知っており、謂わば、そのことを認めることは凡ゆる国民の共通の告白から明白であり、多くの神々がいると考えることに対する反感から明白である。人間の霊の思考である人間の内的な思考は、地獄からか、または天界からか、その何れかから発しており、幾多の悪が遠ざけられないときはそれは地獄から発しているが、幾多の悪が除かれているときは天界から発している。この思考が地獄から発しているときは、人間は自然が神であり、自然の最も内なるものは神的なものであるとしか認めないのである。そうした人間は死後霊となるとき、特に権力のある者をたれであれ神と呼び、またその者自身が神と呼ばれるために権力を求めて努力するのである。悪い者らはことごとくその霊の中の内部にそうした狂気を潜ませて居るのである。しかし人間は天界から考えるときは―幾多の悪が遠ざけられるとき、人間は天界から考えるのであるが―天界の光から、一人の神がおられ、その方は一人で在られることを認める〔見る〕のである。天界からの光から認める〔見る〕ことが流入により意味されているものである。