連結・結合

 

分離分裂現存・臨在

善と真理との連結救い

主は聖言を通して語られる

主は聖言の中に現存される

社会的・道徳的

 

 

 

 

1.連結・結合

2.契約

3.『離れないこと』は愛と慈悲

. 無垢は連結の手段      

5.善と真理の連結

6.外なる人の善と霊的な人の真理との間の連結が結婚を作るものである

7.連結はすべて情愛により行われる

8.『愛すること』の意義は連結することである

9.『兄弟』の意義は善を通して連結していること。諸真理が連結するためには、善が遍く支配しなければならない

10.連結そのものが教会が存在する源泉である善を存在させる

11.似たものは似たものに連結する

12.何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ

13.主の教えに従って生きることが主との連結・結合を生む

14、諸天界における神的な人間的なもの〔神の人間性〕との連結を通して救いが生まれる

15.情愛が大きいに応じて、連結も益々強くなる

16.真の祝福は主から愛と信仰とを受けることであり、そのことにより主と連結すること

17.人間のもとに真理が善に連結するに応じて、人間は主と天界に連結する

18.主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来る

19.十戒の戒めを行うとき連結が遂行される

20.天的なものとの連結は認識を与える、認識はことごとく連結から発している

21.働き返す能力がなくては連結はありえない

22.主との結合と再生とは同じ事柄である、なぜなら人間は主と結合するに応じ、再生するから

23.人間は主に密接に結合するに応じ益々賢明になる

24.主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言による

 

 

 

 

1.    連結・結合

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P58

 

新しいエルサレムと呼ばれる新しい教会の教義の本質的なものは、主についてはこのことであり(主は父なる神であること)、その中にいることを望む者はそのことを承認するのである。なぜならこの教会はキリスト教そのものであるからであり、そして一人の神を、かくて主のみを考え、信じる者を除いてはたれ一人天界へ入れられはしないことを知らなくてはならないのである。人間は神にかかわるその告白に順応して天界へ入ることを許されることを知らなくてはならないのであり、人間は神について考え、信じているその性質について調べられるのである。なぜならその告白を通して連結が生まれるからであり、連結が生まれるとき、細々としたことにおいて明るく示されるのである。愛の、また信仰の凡ゆるものはそのことにかかっているのであり、それ故、神を否定する者らは地獄にいるのは、分離が起こるためである。それ故、最初の、主要なことは神を知り、承認し、信じ、愛することであり、他の凡ゆることはこのことに依存しているのである。

 

 

 

スウェーデンボルグ/アタナシウス信条について/P60

 

教会の本質的なものはその神を知り、認めることであり、この主要な本質的なものが無くては神とのいかような連結もなく、かくて天界と永遠の生命とは存在しないのである。その理由は以下のものである。すなわち、霊界においては思考と意志とは、注視されて愛される者と連結するのであり、その注視され、愛される者はその方向に身を向けるのであり、そのときまたその人間に属している凡ゆるものも自らを向けるのである。それ故天界は凡て主の方に向いているのである。(天界と地獄141〜153)

 

 

 

神の摂理91

 

空間は単に外観にすぎない霊界では、知恵は現存を生み、愛は結合を生み、またその逆も事実である。知恵から主は承認され、また愛からも主は承認される。知恵から主を承認することは、本質的には知識に過ぎず、それは教義から発しており、愛から主を承認することは教義に従った生活から発して、これは結合を生むが、他方は現存を生むに過ぎない。主に関わる凡ての教えを軽蔑する者が主から遠ざかる理由はこれである。彼らはまたこうした教えに従う生活を軽蔑するため、その信念のため主から分離する、一方教義は軽蔑しないが、それを生活で無視する者は、主の前にいるが、なお主から離れている。彼らは共に話し合ってはいるが、愛し合ってはいない友達同志のようなものであり、また二人の中一人は他の一人に友のように話してはいるが、これを敵として憎んでいるようなものである。このことは一般的に認められている、なぜなら正しく教え、正しく生きる者は救われるが、正しく教えはするが、邪悪な生活を送る者は救われないこと、また神を信じない者は救われることは出来ないことは良く知られているからである。これらの考察により、いわゆる信仰から主について考えるが、仁慈から行動しないことはいかような種類の信仰であるかが明らかである。それ故主は語られている『なぜ私を主よ、主よと呼んで、私の言うところを行わないのか。私に来て、私の言うところを聞き、これを行う者はすべて岩の上に基を据え、家を建てる者に似ているが、聞いて行わない者は基無しに家を地に建てる者に似ている』(ルカ6・46−49)。

 

 

 

 

スウェーデンボルグ/神の摂理/326(イ)

 

 <神を承認することにより神の人間との結合と人間の神との結合が生まれ、神を否定することにより分離が生まれる>

 

神を承認しない者も、道徳的な生活をするなら、神を真に承認する者と同じように救われることができると考える者がいるかもしれない。彼らは言う「この承認から何が生まれるのか。それは単に観念にすぎぬのではないか。神は存在することを確実に私は知ったときに、私は容易に神を承認しないであろうか。私は神については聞いているが、神は見ていない。神を私に示しなさい、そうすれば私は信じるであろう。」これが神を否定する多くの者が神を承認する者と自由に議論することができるときの言葉である。しかし神を承認することは結合を生み、神を否定することは分離を生むことは、今、私が霊界で得た経験から説明しよう。

 

霊界ではもし誰かが他の者のことを考えて、その者と話したいと欲するなら、その者は直ぐに現れてくる。これは霊界の普遍的な法則であって、決して犯されない。その理由は霊界には自然界のような距離はなく、たんに距離の外観が在るにすぎないということである。他の特質は他の者についての或る知識と結合した思考によりその者が現れてくるように、他の者に対する或る情愛と結合した愛により結合が生まれるということである。この結合の結果彼らは共になり、親しく語り合い、同じ家または共同体に住み、しばしば会い、互いに親切をつくすのである。その反対もまた起こっている。例えば、もし誰かが他の者を愛さないならば、さらに彼らを嫌忌するならば、彼はかれを見もせず、またかれに会いもせず、彼らは互いに感じ合う冷淡または憎悪に比例して互いに遠ざかっている。実際、もし誰かが他の者とともにいて、その心に嫌忌が生まれるなら、彼はその者の視野から消えて行くのである。

 

 このわずかな事柄から、霊界の現存と結合の如何ようなものであるか、すなわち、他の者を思い出して、それと共にその者に会おうとの願いが生まれるとき、その者は眼前に現れてくるのであり、また愛の情愛から結合が生まれることが明白になったに相違ない。人間の心の中の凡ての物も同じである。それは無数の物を含み、その個々の物は一つの物の他の物に対する情愛または愛に従って連なり、結合している。この結合は霊的なものであり、全般的にも個別的にも類似した性質をもっている。それは主が霊界と自然界に全般的にも個別的にも結合されていることから起こっている。それ故誰でも主を知り、それにより主を考えるに応じて主は現れたまい、誰でも愛の情愛から主を承認するに応じて、主はその者と結合されるが、他方、誰でも主を知らないかぎり主はおられず、主を否定する限り、主から引きはなされることが明白である。この結合の結果は主は人間を御自身に向けさせ、かくてかれを導かれるということであり、分離の結果は地獄が人間を地獄自身に向けさせて導くということである。これが天界の凡ての天使は太陽としての主に面を向け、地獄の凡ての霊は主に面をそむける理由である。これらの考察から神を承認する結果と神を否定する結果は明白である。さらに世で神を否定する者は死後も神を否定し、かくて彼らは前述した記事に従って有機的に構成されるようになり(319)、世で得た有機体は永遠に存続する。

 

 

 

スウェーデンボルグ/神の摂理/326(ロ)

 

 <人間は各々その生活の善に従って神を承認し、神と結合する>

 

 何らかの宗教的な知識を持つ者は凡て神を知ることができよう。彼らはまた知識からまたは記憶から神について語り、或る者は神につき知的に考えることができるのである。しかし人間は善良な生活を送らない限り、それはただ彼を神の前に連れ来るにすぎない。なぜなら彼は神の前にいるにも拘らず神から面をそむけて地獄に向けることができ、もし邪悪な生活を送っているならば、そのようなことをするからである。しかし善良な生活を送っている者のみが、心に神を承認することができるのであり、主はその生活の善に従って彼らを地獄から連れ出して、御自身に向けさせられる。その理由は彼らのみが神を愛するということである。なぜなら彼らは神から発している神的な物に対する愛をその神的な物を為すことにより示すからである。神から発している神的なものとはその律法の教令である。教令は神である。なぜなら神御自身は神御自身の発出している神的なものであり、教令に服従することは神を愛することであるから。これが主が「私の誡命を守る者は私を愛する者である。しかし私の誡命を守らない者は私を愛する者ではない」と語られる理由である(ヨハネ14・21,24)。

 

 これが十誡には、一枚は神に関係し、他の一枚は人間に関係している二枚の板石の在る理由である。神は御自身の板石に含まれているものを人間が受け入れるように絶えず働かれているが、もし人間が自分の板石にある物を行わないならば、神の板石にある事を心で信じておらず、その場合、彼は神に結合してはいない。これが二枚の板石が結合して一枚となり、契約の板石と呼ばれた理由である。なぜなら契約は結合を意味するからである。人間は凡てその生活の善に従って神を承認し、神と結合する理由は、生活の善は主の中に在って主から発している善に類似しており、それゆえ人間は生活の善にある時、結合が生まれるということである。その反対が生活の悪に言われる。なぜならこれは主を斥けるからである。

 

 

 

天界の秘義379

 

 これらのことが意味されていることは前に述べたところから明らかであり、『呪われる』ことは善に反感を持つことであることは既に示した(245番)。なぜなら不法と憎むべきことは、または憎悪は人間を背かせるものであり、かくて彼は下の方のみを眺め、すなわち、身体と地の事のみを眺め、かくて地獄に属した物を眺めるからである。このことは仁慈が追放され、消滅してしまう時生まれてくる、なぜならその時主を人間と結ぶ絆は切断されてしまうからである、それは仁慈のみが、または愛と慈悲のみが我々を主に連結させるが、仁慈の無い信仰は決して我々を主に連結させはしないためである、なぜなら後のものを単なる知識であって信仰ではなく、奈落の一味自身が持っているものであって、それにより彼らは善良な者を巧みに欺き、自分自身を光の天使に装うことが出来るからであるが、こうしたことは最も邪悪な説教家でさえ敬虔な熱意に似た熱意を以って時として行うのが常であるが、その唇から言われるもの程にその者らの心から遠いものは何一つ有りはしないのである。

人の言葉なり、または同意なりが、その人の意志または意図から発していない時は、それがいかような性質のものであろうと、たれもそれを尊重しないことをたれでもその者自身の経験から知っているのに、記憶の内の信仰のみが、またはそこから発した思考が何か益をもたらすことが出来ると信じる程にも薄弱な判断力しか持っていない者が在りえようか。人の言葉なり同意なりを楽しいものになし、人間を人間に結びつけるものは意志または意図である。意志こそ真の人間であり、その欲しない思考または言葉ではない。人間はその性質と性向を意志から得ているが、それは意志が彼を動かすからである。しかしもしたれかが善いことを考えるなら、信仰の本質である仁慈はその思いの中に在るが、それは善を為そうとする意志がその中に在るからである。しかしもし彼が自分は善いことを考えていると語りつつも、邪悪な生活を送るならば、悪以外の何ものをも到底欲することは出来ないのであり、それで信仰は存在していない。

 

 

 

天界の秘義389

 

 『凡て彼を見つける者は彼を殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくが彼を破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、すなわち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎ取る時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈が無い時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。

 

 

 

天界の秘義5229

 

『憶い出すこと』が連結である理由は他生でたれかを憶い出すことは連結するということである、なぜならいかような霊でも他の者を心に憶い出すとすぐにその者はその眼前に現れ、かれらは共に語るほどにも眼前に近く現れるからである。こうした理由から天使たちと霊たちとはその知っている、または聞いている人物には凡て、主がかれらにその人物を心に思いうかべることを許されるときは、会うことができるのであり、その人物が眼前に現れてくるのを見ることができ、その人物と話すこともできるのである(1114番を参照)。

 

 

 

天界の秘義5807[2]

 

 愛が連結であることについては、それは二人の者の心の、または二人の者の思考と意志との連結であるため、霊的な連結であることを知らなくてはならない。このことから、愛は、それ自身において観察されるなら、純粋に霊的なものであり、その愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜であることが明白である。愛はその本質においては人間の心を構成しているいくたの形または原質における状態の変化と変動から生まれてくる和合(ハーモニー)である。この和合は、もしそれが天界的な形から発しているなら、天界的な愛である。それで愛は主から発している神的愛[神の愛]そのもの以外のいかような起原ももつことはできないし、かくて愛は、いくたの形に流れ入って、そのいくたの形をその形の状態の変化と変動とが天界の和合をもって存在するように処理する神的なものであることが明白である。

 

 

 

天界の秘義5807[3]

 

 しかしそれに対立した愛は、すなわち、自己を、また世を求める愛は連結ではなくて、分離である。それらは実に連結のように見えはするが、しかしそれは各々の者が他方の者を、その二人が利得と名誉とを追求している限り、または彼らに反抗する者に復讐し、これを迫害しているかぎり、自分自身と一つのものとなっているものとして、認めているためである。それでその一方の者が他方の者にくみしないなら分離が起こるのである。天界的な愛はそれとは異なっていて、自己のために他に善を為すことを全く嫌忌し、他の者の中に在る善のために善を為し、これを彼は主からから受け入れるのであり、従ってその善が発生してくる源泉である主御自身のために善を為すのである。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P238/注(20)

 

イエス自身がこう言う。「間違った解釈を避けさせるために説明する。祈るとは神であれ、隣人であれ、それを思い出すことである。そして、この思い出すこと自体が、それを愛すことである。私は、私を取り囲んでいたすべての憎しみに、愛と慰めとを望んでいた。いまでも私は人間が祈ることを忘れないように望む。これはこの世が救われるために私を愛するようにである」これを見れば、イエズスは友だちの愛と慰めとを望み、ゲッセマニの園で天使からの慰めを喜んだのと同じように評価したと分かる。

 

 

 

天界の秘義9104

 

(土星の霊の記事)

連結は他の者と話そうとする願望の状態により行われるからである。ここから世で愛か、または友情か、または非常な尊敬かにより多少連結していた者たちは、他生で、共に会いたいと願うときは、会いはするが、しかしかれらはその生命の状態が似ていないことに応じて引きはなされるのである。

 

 

 

主の聖言11

 

自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。すなわち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間とともになっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、かれらは絶えず共になっているのである。

なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいないかぎり一瞬間も生きることはできないし、霊もまた天使も人間とともにいないかぎり一瞬間も生きることはできないからである。

その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。

天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続はありえないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。

 

 

 

 

2.    契約

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義663

 

 「しかしわたしはあなたと契約を立てよう、あなたは箱舟の中へ入らなくてはならない、あなたとあなたの息子たちとあなたの妻とあなたの息子たちの妻らとはあなたとともに箱舟の中へ入らなくてはならない。」

「契約を立てる」ことはかれが再生するであろうということを意味し、「かれとかれの息子とかれの息子たちの妻が箱舟に入らねばならない」ことはかれが救われるであろうということを意味している。「息子たち」は諸真理であり、「妻ら」は諸善である。

 

 

 

スウェーデンボルグ/天界の秘義665

 

 「契約を立てる」ことはかれが再生するであろうということを意味していることは、主と人間との間には愛と信仰による連結以外の如何ような契約もあり得ないのであり、それ故契約は連結を意味しているという事実から極めて明白である。なぜなら真の契約そのものであるものは天界的結婚であり、天界的結婚または天界的契約は再生しつつある者以外の何人のもとにも存在しておらず、それで最も広い意味では再生それ自身が「契約」により意味されているのである。主は人間を再生させたもうとき、人間と契約を結ばれるのであって、それで古代人の間には契約はそれ以外のものを表象しなかったのである。アブラハムとイサクとヤコブと結ばれた契約は、また何度もかれらの子孫との間に結ばれた契約はかれらに個人的に関連したものであったという以外には何事も文字の意義からは推測することはできないが、かれらは再生することができない底のものであったのである。なぜならかれらは礼拝を外なる物から成立させ、礼拝の外なるものが聖いものであると考えて、内なるものが何らそれには接合されてはいなかったのである。それ故かれらとの契約は単に再生を表象するものに過ぎなかったのである。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7P160

 

 ああ・・・ヴァッスーラ、どれほどこの時代を深くうれえているか。 荒野にいる彼らに手を伸ばし、そのしおれた霊魂を生き返らせようと やって来た、だが私の救いの手が 全く見えないようだ・・・来なさい、心やさしい娘よ、私の名によって預言し 新しい契約について私の民に伝えなさい、私ども二つの心が槍でつらぬかれる日が再び来ると。 敵は我が聖所、祭壇と聖櫃を荒らし 彼らの死にいたる忌むべきものを打ち立てよう。 国ぐにが存在しはじめて以来 比類ないほど大きな悲嘆の時代が来る。 彼らは力と陰謀によって我が家を襲う。 反逆はすでに進行しているが、おもて立ってはいない、そして反逆者が おおやけに我が聖所を冒涜するには、それを抑えている人をまず取り除くしかない。 ああ 反逆者のおだてに乗って なんと多くの人が倒れよう!しかし私自身の者たちは足場をゆずらず、むしろ、私のためにいのちを投げ出す。目に涙して、言っておく:「あなた方は、我が民よ、火によってこの侵入者に試されよう・・・」彼の包囲網はすでに世界を包囲しかかっている。

 

 ライオンはねぐらを離れた・・・このたびは聴いて理解しなさい:侵入者は学者、この学者たちは野獣につき従い 私の神性、復活と我が伝統を否定する。 彼らは聖書でこう言われている者たち:「お前の心は高慢になり、そして言った。<私は神だ。私は海のまん中にある神々の住み家に住まう>と。しかし、お前は人であって神ではない。ただ自分が神の心のようだ、と思い込んでいるだけだ・・・」(エゼキエル書28・1−2)今日、娘よ、私は封印されていたこれらの秘密を 書きおろすことのできる心、二心ない心を見いだした、その秘密は今や必ず成就するがゆえ。

 

 

 

 

3.『離れないこと』は愛と慈悲

 

 

天界の秘義3875

 

『離れないこと』は仁慈であることは、仁慈は、またはそれと同一のことではあるが、相互愛は霊的な連結であるという事実から明白である、なぜならそれは意志の情愛の連結であり、またそこから生まれてくるところの理解の幾多の思考の一致であり、かくてそれは心が両方の部分の方面で連結することであるからである。その最高の意義では『離れないこと』は愛と慈悲であることはそこから明らかである、なぜなら仁慈または霊的な愛について述べられるところの無限で永遠のものは慈悲であり、それはかくも大いなる悲惨の中に沈められている人類に対する神的愛[神の愛]であるからである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・7

 

[1」エズスにおすがりしている人は、永久にしっかりと立っているだろう。

 かれを愛しかれをあなたの友とせよ。なんとなればすべての者があなたをはなれても、かれはあなたをおはなれにならず、終りにあなたの滅びるのをそのままにはなさらないからである。

 

 

 

[2」生きるにも死ぬにもイエズスにおすがりして、その真実にわが身をお任せせよ。他のものにはできなくても、主だけはあなたを助け

てくださることができる。

 あなたの愛するお方のご性質は、あなたの心を他のだれにも許さず独り占めにし、そこに王のごとく玉座に即いて支配なさろうというのである。

 あなたがもしあらゆる被造物からはなれることを学ぶならば、イエズスは喜んであなたとともにお住みになるだろう。

 

 

 

 

.無垢は連結の手段   

 

 

天界の秘義6765

 

 人間が再生しつつある時は、彼は誤謬との争闘へ入れられ、そのとき主により真理の中に留めおかれるが、しかしそれは彼が真理であると自分自身に説きつけた真理の中に留め置かれるのであり、この真理から彼は誤謬と戦うのである。彼はまた純正なものではない真理からも―もしその真理が何らかの方法で善と連結されることの出来るようなものでありさえするなら―戦うことが出来るのであり、それは無垢により善と連結するのである。なぜなら無垢は連結の手段であるからである。ここから人間は何らかの教義から教会の中で再生することが出来るが、しかし純正な真理の中にいる者たちは特に顕著に再生することが出来るのである。

 

 

 

 

5.善と真理の連結

 

 

天界の秘義2269[3]

 

 善と真理との連結については、それは普通の理解で把握されることが出来るように述べることは出来ないアルカナである。それは僅かな言葉で述べておかねばならない。真理が純真なものであり、純粋なものであればあるほど益々、主から発している善はその真理にそれを(その善を)受ける器として適用されることが出来るが、しかし真理が純真なものでなくまた純粋でなければないほど益々、主から発している善はそれに適合されることが出来なくなるのである、なぜならその二つのものは相互に相応しなくてはならないからであって、その二つのものの連結はその相応に応じて行われるのである。善は誤謬の中へ、また悪も真理の中へ、それを受け入れる器として注ぎ入れられることは出来ないのである、なぜならそれらは相反した性格と性質とを持っていて、その一方のものは他方のものをその敵として追放してしまい、いな、もしそれらのものが仮にも共に連結しようと試みるならば、その一方のものはその他方のものを吐き出してしまい、即ち、善は悪をそれが毒ででもあるかのように、悪は善を、それがへどでも吐かすものであるかのように吐き出してしまうからである。善と悪との間にはこうした敵意が善と悪が混合することが出来ないように主により供えられているのである、なぜならもしそれらが混合するならば、その人間は滅んでしまうからである。詐欺漢と偽善者の中にはそれらのものは共に連結する恐れがあるが、それでもそれらのものがそのように連結しないように、主はあらかじめ警戒されておられるのである。これが他生で詐欺漢と偽善者とが他の者が受ける以上の凄惨なものを受ける理由となっている。

 

 

 

天界の秘義2272

 

「かれは言った、恐らく四十人がそこに見出されるかもしれません」。これは試練の中におかれた者たちを意味していることは四十という数字の意義から明白であり、それは試練である(そのことは第一部730番に説明した)。これらの事柄はいかように連続しているかは試練から認めることが出来よう。試練は人間が真理を確認するためのみでなく、真理が善に更に密接に連結するために起きるのである、なぜなら人間はそのとき誤謬に反抗して真理のために戦っており、彼はそのとき内的に苦しめられ、責められるため、欲念の生命の歓喜とそこから派生してくる快楽とは、止んでしまい、そしてそのとき善が主から流れ入り、その結果、それと同時に悪は嫌忌すべきものとして認められ、その結果前に持っていた思いに反した性質の新しい思いが生まれ、そうした思いにその後彼は向けられ、かくて悪から善へ向けられ、そしてこの善は真理に連結することが出来るからである。そして善と真理との連結は試練により遂行されるため、また前の節には、そのもとで善が真理に連結されることの出来る者が救われるであろうと言われているため、それでここに言われていることが続いて言われており、実に善と真理とは試練により連結されることが出来ることを意味しているといった言葉を用いて言われているのである。このように内意の中にいる者たちのために主題の内容が関連づけられているのである。

 

 

 

天界の秘義3091

 

力から受容器官を服従させることは、(受容器官であるところの、3068、3079番)教義的なものが、知識が、記憶知が、それ自らを適応させる[適用させる]ことに在るのである。生命の最初のもの、すなわち、主から一つの連続した従属があり、かくて適合[適応]があり、従って服従が発している。低い所に在るものは高いものに仕えねばならぬため、それは服従しなくてはならない、なぜなら服従がないなら連結はないからである。

 

 

 

天界の秘義3108

 

善へ真理が導き入れられる実情は以下のようになっている、すなわち真理が導き入れられて、正しく連結されない中は、真理は実際人間のもとに在るにはあるが、しかしそれはいわばかれのものとなってはおらず、またはかれ自らのものとしては存在していないのであるが、しかしそれがかれの善の中へ導き入れられつつあるとすぐに、それはかれに所有されるのであり[かれのものとされるのであり]、そおときはそれはかれの外なる記憶から消え去って、内なる記憶へ入り込むのであり、またはそれと同一のことではあるが、それはその自然的なまたは外なる人から消え去って、合理的なまたは内なる人へ入り込んで、その人間そのものを着け、かれの人間的なものを、すなわち、人間的なものの方面のかれの性質を形作るのである。人間の善に連結されつつある凡ゆる真理の実情はこのようになっており、また人間から善と呼ばれている悪と連結されつつある誤謬の実情もそのようになっているが、しかし以下の相違があるのである、すなわち、前のものは合理的なものを開いて、かくてその人間を合理的なものにするに反し、後のものは合理的なものを閉じてしまって、その人間を非合理的なものにしてしまうのである、たとえその者はそのときその中におかれている暗黒の中で、その者自身にはひときわ合理的なものであるように見えはするものの。

 

 

 

天界の秘義3806

 

「かれは走って行ってかれに会い」。これは一致を意味していることは、『走って行って会うこと』の意義から明白であり、それは一致である、なぜならそれは連結を目指しているからである。そのことについては下記を参照されたい。一致または類似は連結することは良く知られている。

 

 

 

天界の秘義3809

 

ここにはその内意の中に『ヤコブ』である自然的な善が『ラバン』である傍系的な善と連結する過程が充分に記されているのである。以下の五つの事柄がこの過程を構成しているのである、すなわち、相互の承認、一致、情愛、導入、連結である。

 

 

 

天界の秘義3812

 

「ラバンは彼に言った、まことにあなたは私の骨、私の肉である」。これは、真理と善の方面で連結していることを意味していることは『あなたは私の骨、私の肉である』という言葉の意義から明白であり、それは連結である。古代人は一つの家のものであり、または一つの氏族のものであり、または何らかの親類関係にあった者たちについて『私の骨、私の肉』というそうした形の言い方をしたのであり(157番を参照)、そこからこれらの言葉により連結が意味されているのである。それが、真理の方面で、また善の方面で、を意味している理由は霊的な連結はことごとくこれらのものにより行われ、自然的な連結もことごとくその同じものに関わりを持っているということである。更に『骨と肉』により人間自身のものであるものが意味されており、『骨』により彼の理解の自分自身のものが意味され、『肉』により彼の意志の自分自身のものが意味されており、かくて『骨』により真理の方面の人間自身のものであるものが意味され―なぜなら真理は理解のものであるからである―『肉』により善の方面の人間自身のものであるものが意味されているのである、なぜなら善は意志のものであるからである(148、149番)。

 

 

 

 

新しいエルサレムの教義23

 

さらに人間は真理により善に導かれ、真理がないならそこへ導かれない(10124、10367番)。もし人間は真理を学ばないなら、または受け入れないなら、善は流れ入ることはできず、かくて人間は霊的なものとなることはできない(3387番)。善と真理との連結は知識の増大に応じて生まれる(3141番)。真理は各人にその才能に応じて受け入れられる(3385番)。

 

 

 

 

6.外なる人の善と霊的な人の真理との間の連結が結婚を作るものである

 

天界の秘義3952

 

前に示されたように、天界的結婚は善が真理と、真理が善と結婚することではあるが、それでもそれは同一の度の善と真理との間の結婚ではなくて、低い度の、また高い度の善と真理との間の結婚であり、すなわち、外なる人の善と同じく外なる人の真理との間の結婚ではなくて、外なる人の善と内なる人の真理との間の結婚であり、またはそれと同一のことではあるが、自然的な人の善と自然的な人の真理との間の結婚ではなくて、外なる人の善と霊的な人の真理との間の結婚である。この連結が結婚を作るものである。

 

 

天界の秘義3952[2]

 

 内なるまたは霊的な人においても同一である、そこの天界的な結婚はその人における善と真理との間に存在しないで、霊的な人の善と天的な人の真理との間に存在するのである、なぜなら天的な人は対照すると高い度に在るからである。また天的な人における善と真理との間にも結婚は存在しないで、天的な人の善と主から発出している神的な真理との間に存在しているのである。

 

 

天界の秘義3952[3]

 

まして天界的な結婚とは何であるかを知らない限り、知ることはできないのである、なぜならそのことがとり扱われているものであり、すなわち、それは外なる人における善が内なる人における真理の情愛と連結することであることがとり扱われているものであるからである。

 

 

天界の秘義3952[4]

 

 しかしこのアルカナをさらによく理解するため、わたしはさらにそれを説明しよう。外なる人のいくたの真理はその人間が先ず両親から、また教師から、次に書物から、最後に自分自身の勉学から学んだ記憶知と教義的な事柄である。外なる人の善はかれがこれらの事柄の中に認める楽しさと歓び[歓喜]である。真理であるところの記憶知と善であるところの歓びとは共に連結してはいるが、しかしそれらは天界的な結婚を作りはしないのである、なぜなら自己を求め、世を求める愛の中にいて、そこから悪と誤謬との中にいる者のもとでは、記憶知は、教義的な事柄さえもが歓びと連結しているが、しかしそれはそれらの愛の[自己への愛と世への愛]の歓びと連結しているのである、なぜならその歓び[歓喜]とは真理すらも連結されることができるからである。それでもそのような人物は天界的な結婚の中にはいないのである。しかし外なるまたは自然的な人の善であるところの楽しさまたは歓びが霊的な愛から発していると、すなわち、隣人に対する、国または国家に対する、教会と主の王国に対する愛から発していると、ましてそれが主に対する愛であるところの天的な愛から発していると、そしてこれらのものが内なるまたは霊的な人から外なるまたは自然的な人の歓びの中へ流れ入って、それを作ると、そのときは外なる、または自然的な人の記憶知と教義的な事柄とのこの連結がかれのもとで天界的な結婚を構成するのである。このことは悪い者のもとにはありえないで、ただ善良な者のもとにのみ在りうるのであり、すなわち、これらの事柄をその目的としている者たちのもとにのみ在りうるのである。(しかし内なるまたは霊的な人が外なるまたは自然的な人の中へ流入する実情のいかようなものであるかについては、3286、3288、3314、3321番を参照されたい)。

 

 

7.連結はすべて情愛により行われる

 

天界の秘義3915[2]

 

 内意ではこれらの言葉により、情愛から発しているところの第二の度の肯定または承認が意味されているのである、なぜならその連結が生まれるためには、その承認または肯定の中に情愛が存在しなくてはならないからである、なぜなら情愛がないなら真理には生命はないため、連結はすべて情愛により行われるからである。

 

 

天界の秘義3951

 

それが先見から発していることは、人間における真理の善との連結は、また善と真理との連結は先見から、すなわち、主の摂理[主が供えられること]から行われるためである。なぜならここにとり扱われている主題は善が真理と連結することであり、かくて人間のものとされる善であるからである。なぜなら善はそれが真理に連結しない中は人間の中に善とはならないからである。そして善はことごとく、主から来ているため、すなわち、善を己がものとすることは善が真理と連結することを通して来ているため、ここに『先見から』と言われているのである。主の摂理[供えられること]はとくにこの連結に関わっている。そのことにより人間は人間になり、獣から区別され、かれはそれを[連結を]受けるに比例し、すなわち、かれは主がそれを遂行されるの許すに比例して、人間となるのである。それでこれが人間のもとに在る善であり霊的なものであって、永遠に存続する善はそれ以外にはありえないのである。 

 

 

天界の秘義4211[2]

 

人間が主と連結することは主の神的なものそれ自身と連結することではなくて、主の神的な人間的なものと連結することである、なぜなら人間は主の至高の神的なものについては何であれいかような考えももつことができないからである、なぜならそれらは人間の観念をそれが死滅してしまった無となるほどにも超越しているからであるが、しかし人間は主の神的な人間的なものは考えることができるのである。なぜなら人間はたれでもその者について多少なりと考えることのできる者とは思考と情愛により連結はするが、その者について多少なりと考えることのできる者とは思考と情愛により連結はするが、その者について全く考えることのできない者とは連結しないからである。

 

 

天界の秘義4352[2]

 

善の中に在り、また善とともにいる愛そのものが連結するものである。愛が内部に存在し、また現存していないかぎり、いかような連結もありえないのである、なぜなら霊的な連結は愛により行なわれるため、愛は霊的な連結以外のものではないからである。愛は主以外のいかような源泉からも発していない、なぜなら主は凡ゆる天的なまた霊的な愛の源泉と起原であり、従ってそこから派生している凡ゆる善の源泉と起原であるからである。

 

 

8.『愛すること』の意義は連結することである

 

天界の秘義4675

 

『愛すること』の意義は連結することである、なぜなら愛は霊的な連結であるからである。

 

 

9.『兄弟』の意義は善を通して連結していること。諸真理が連結するためには、善が遍く支配しなければならない

 

天界の秘義5440

 

「かれらは言った、わたしたち、あなたの僕らは十二人の兄弟であります」。これは信仰の凡ゆるものであり、それがここのようにヤコブの息子たちについて述べられ、またはかれらにちなんで名づけられた種族について、また使徒たちについて述べられているときは、信仰の凡ゆるものの一つの統合体であり(577、2089、2129、2130、2553、3272、3488、3858、3862、3913、3926、3939、4060番を参照)、『兄弟』の意義は善を通して連結していることである、なぜなら諸真理が善により連結するときは、その諸真理はそれら自身の間にいわば兄弟関係のようなものをおびるからである。もしそれらが善がないのに連結しているように見えるなら、たとえ連結しているように見えても連結はしていないのである、なぜなら悪の誤謬が常にそれらのものに入って、それらのものを分離するからである。そのことの理由はそれらのものが派生する源泉である一つの起原をもってはおらず、またそれらのものがそれに向って向けられる一つの目的をもってもいないということである。なぜなら連結が存在するためには最初のものと最後のものとは連結しなくてはならないのであり、最初のものはそれらのものが発生してくる源泉である善でなくてはならず、最後のものもそれらのものがそれに向ってすすむ善でなくてはならないからである。さらに諸真理が連結するためには、善が遍く支配しなければならないのである、なぜなら遍く支配するものが連結させるからである。(『兄弟』が善の情愛[善に対する情愛]を意味していることは前の2360、2524、3303、3459、3803、3815、4121番に見ることができよう)。

 

 

天界の秘義5809

 

「かれをわたしのもとへ下らせなさい」。これはその新しい真理は内なる善に服従しなくてはならないことを意味していることは『下らせること』の意義から明白である、なぜなら連結するために内なるものへ来ることはそれに服従することであるからである、なぜなら連結が生まれるためには、下にあるものは、または外的なものであるものは凡て高いもの、または内的なものに従属し、または服従しなくてはならないからである、またここにかれらが下らせなくてはならない者であるベニヤミンの表象は新しい真理であり(そのことについては前の5804、5806番を参照)、かれが下ってそのもとへ行かねばならないヨセフの表象は、前に示したように、内なる善である。

 

 

10.連結そのものが教会が存在する源泉である善を存在させる

 

天界の秘義5841

 

「わたしは凡ゆる日の間わたしの父に罪を犯すでしょう」。これは離れ去ることを、かくて教会の善が何ら存在しないであろう、を意味していることは『罪を犯すこと』の意義から明白であり、それは分離であり(5229、5474番を参照)、かくて離れ去ることであり、もしユダが表象している外なる教会の善が、イスラエルにより表象されている内なる教会の善からそれ自身を離反させるなら、もはや教会の善は全く存在しなくなるのである。連結そのものが教会が存在する源泉である善を存在させるのである。内なる教会と外なる教会のこの二つの善の実情は以下のごとくである。内なる教会の善は、または内なる善は、外なる教会の善を、または外なる善を、流入により生み出しており、それがそうであるため、内なる善はそれ自身に外なる善を高揚させ、かくして外なる善は内なる善を凝視し、内なる善を通して主を見上げることができるのである。このことは連結が在るとき起るが、しかし分離があるなら、外なる善はそれ自身を離反させて、下を眺め、かくて死滅してしまうのである。『わたしはわたしの父に凡ゆる日の間罪を犯すでしょう』により意味されているものはこの離反である。

 

 

11.似たものは似たものに連結する

 

天界の秘義6206[2]

 

 人間がこのようにして悪をかれ自身のものとすると、かれはその悪のスフィアを自らのために得、そのスフィアに、地獄から来ていて、それと同じような悪のスフィアの中にいる霊どもがその者ら自身を接合させるのである。なぜなら似たものは似たものに連結するからである。人間または霊のもとに在る霊的なスフィアはその者の愛の生命から流れ出て発散しているものであり、そこからかれの性質は遠方でも知られるのである。他生の凡ての者はスフィアに順応して共に連結しており、社会もまた相互にそのように連結しているが、またそのスフィアに従ってそれらは分離しているのである、なぜなら対立したスフィアは衝突し、互に他に反撥し合うからである。それで悪の愛のスフィアは凡て地獄に存在し、善の愛のスフィアは凡て天界に存在している。すなわち、そのスフィアの中にいる者たちがそこにいるのである。

 

 

 

 

12.何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ

 

 

天界の秘義6196

 

 霊たちは人間とはその人間の愛に従って共になることは、種々な経験により私に明かされたのである、なぜなら私は何事かを熱烈に愛し始めるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ、その愛が止むまでは遠ざかりはしなかったからである。

 

 

 

 

13.主の教えに従って生きることが主との連結・結合を生む

 

 

結婚愛341

 

(8)「マホメット教徒は主イエス・キリストを父なるエホバと一つの方であることを承認しないため、それで主を天と地との神として承認しないため、彼らは現在一人以上の妻と結婚することが許され、それで真の結婚愛を受けることは出来ない。」(中略)

主を承認し、主に天地の神として近づくとき、彼の教えに従って生きる者のもとに、それが開かれる理由は、それ以外の方法では、連結はなく、連結がなくては受容もないということである。人間のもとに主は現存され、また主と連結することも出来る。主のもとへ行くことは現存をもたらしはするが、主の教えに従って生きることが主との連結を生むのである。そして主の現存のみは、主のものを受容しなくても存在はするが、しかし現存と同時に連結は受容とともに存在するのである。それらの事柄について私は霊界から得た以下の新しい事柄を述べよう。そこでは、たれか他の人を考えると、その考えられた人は凡て眼の前に現れてくるが、しかし一人として愛の情愛によらなくては他の者と連結しないのであり、そして愛の情愛はその他の者の言葉とその好むところを行うことによってもたらされるのである。この事実は、霊界では熟知されていて、その起原は主にあるのである。すなわち主もその方法で現存され、その方法で連結されるのである。

 

 

 

神の摂理33

 

我々は今、如何にして人間は主と更に密接に結合することが出来るか、また如何にしてこの結合が益々密接になって行くように見えるかを簡単に説明しよう。

「人間が主と益々密接に結合する」のは単に知識のみによるのでなく、また理知にのみよるのでもなく、知恵のみによるのでもなく、それに一致した生命によるのである。人間の生命はその愛であり、愛には多くの種類がある。一般的には悪の愛と善の愛とが在る。悪の愛は姦淫、復讐、詐欺、瀆神、他人の所有物を剥奪しようとする愛であり、これを考えて愉悦を感じる。この愛から生まれる幾多の愛はその愛の目的とする幾多の悪と同数であり、この愛の認識と思考は、この幾多の悪を支持して、それらを確認する幾多の誤謬と同数である。誤謬は理解が意志と結合するように悪と結合している。二つは離れて存在することは出来ない。なぜならそれらは不可分離なものであるから。

 

さて、上述したように、主は流入により、各人間の生命の愛に入り、その情愛を経て、彼の認識と思考へ入られて、その反対は行われない故、主は御自身を何人とも密接に結合させることが出来、かくて悪の愛はその情愛或は欲念とともに除かれることが推論される。

 

そしてこれらの欲念は自然的な人に宿っているゆえ、また人間はその自然的な人から為すものを凡て自分自身から為すように感じるゆえ、彼はその愛の悪を恰も自分の力により除くように除かなくてはならない。かくて彼がそれを除くに応じ、主は更に近づき、御自らを彼に結合させられるのである。人間自身がその扉を閉じて、片側からおさえ、おしつけて開かせまいとしている間は、欲念はその快楽とともに道をふさぎ、主に対し扉を閉じ、かくて主により追放されることは出来ないことは何人でも理性から理解することが出来よう。人間は人間自身その扉を開かねばならないことは黙示録の主の言葉により明白である、「見よ、私は戸口の外に立って叩く、人がもし私の声を聞いて、戸を開くなら、私は入ってその許に行き、彼と共に食べ、彼は私と共に食べるであろう」(3・20)。それゆえ以下のことが推論される、即ち人は悪を悪魔的なものとして、主の入られるのを妨害するものとして避けるならば、主に益々密接に結合し、それを凶暴な暗黒の悪魔として嫌忌する者は最も密接に主に結合するのである。

 

なぜなら悪と悪魔は同一のものであり、同じく悪の誤謬と悪鬼も同一のものであるから。なぜなら主の流入は善の愛とその諸情愛に注ぎ、この諸情愛を経て認識と思考に注ぎ、認識と思考とは凡てその真理を、人間の中に宿っている善から得るが、悪魔または地獄の流入は悪の愛とその諸情愛の欲念に注ぎ、これらを経て認識と思考に注ぎ、その認識と思考は凡てその誤謬を、人間の中に宿っている悪から得ているからである。

 

「如何にしてこの結合は益々密接になるように見えるか」。自然的な人の悪を避け、それから遠ざかることにより、その悪が徹底的に除かれるに応じ、人間は益々密接に主に結合する。そして主御自身である愛と知恵は空間には存在しないゆえ―なぜなら愛と知恵から生まれる情愛と思考は空間とは何ものをも共有しないから―この愛と知恵による結合に応じて主は更に近くおられるように見えるが、反対に愛と知恵が斥けられるに従って、益々遠くなられるように見える。空間は霊界に存在しない。そこの距離と近接は情愛の類似または相違に応じた外観である。なぜなら前述したように、情愛と思考は愛と知恵から由来して、霊的なものであり、空間の中に存在しないからである。この主題については「神の愛と知恵」に関わる著作を参照されよ(7−10。69−72その他)。悪を除かれた人間と主との結合は主の以下の語に意味されている。「心の清い者は神を見る」(マタイ5・8)。更に「人が私の戒めを守ることは戒めを守って、これを行うならば私たちはその許に来て、共に住むであろう」(ヨハネ14・21、23)。戒めを守ることは戒めを知ることであり、これを行うことは主を愛することである。なぜなら「私の戒めを行う者は私を愛する者である」とまたそこに言われているからである。

 

 

 

 

 

 

 

14、諸天界における神的な人間的なもの〔神の人間性〕との連結を通して救いが生まれる   

 

天界の秘義7211

 

神的な人間的なもの〔神の人間性〕が天界の凡てのものである理由は、そこではたれ一人、最内部の、または第三の天界の天使でさえも、ヨハネ伝の『これまでにたれ一人神を見た者はない』(ヨハネ1・18)、『あなたらはいかような時にも父の御声を聞いたこともなく、またその御形を見たこともない』(ヨハネ5・37)という主の御言葉に従って、神的なものそれ自身についてはいかような考えも抱くことが出来ないということである。なぜなら天使たちは有限なものであり、有限なものは無限なものを考えることは出来ないからであり、それで天界では彼らは神については人間の形を考えない限り、何の考えも持たないか、または不当な考えを抱くかし、かくて信仰によっても、愛によっても神的なもの〔神〕と連結することは出来ず、それが実相であるため、天界では彼らは人間の形を取られた神的なものを認めているのである、そこから諸天界における神的な人間的なもの〔神の人間性〕が彼らの注視する凡てのものであり、かくて彼らの信仰と愛との凡てのものとなっており、そこから連結が生まれ、連結を通して救いが生まれているのである(6700番)。

 

 

 

 

15.情愛が大きいに応じて、連結も益々強くなる

 

 

天界の秘義4018[2]

 

 記憶に入ってくる事柄の実情は以下のようになっている、即ち、情愛無しに入ってくるものはその記憶の陰の中へ落ち込んでくるが、しかし情愛と共に入ってくるものはその光の中へ入ってくるのであり、そこの光の中に在るものは類似した主題が呼び出される時には絶えず明らかにまた生き生きと見られもし、現われもするが、しかし周囲の蔭の中に隠れているものはそのように見られはしないし、また現れもしないのである。こうしたものが愛の情愛の結果である。このことから、真理を植付けることはすべて、またそれが善と連結することは情愛により行なわれ、情愛が大きいに応じて、連結も益々強くなることを認めることが出来よう。『熱烈な情愛[情愛の灼熱]』はここでは最も内なる情愛である。

 

 

 

 

16.真の祝福は主から愛と信仰とを受けることであり、そのことにより主と連結すること

 

 

天界と地獄364*6

 

真の祝福は主から愛と信仰とを受けることであり、そのことにより主と連結することである、なぜならそこから永遠の幸福が生まれるからである、1420、1422、2846、3017、3406、3504、3514、3530、3565、3584、4216、4981、8939、10495。

 

 

 

天界と地獄376

 

諸真理に連結している善は凡て主から発しているため、何人も主と主の神的なものを承認しない限り、真の結婚愛にいることは出来ないことが推論される、なぜならそのことを承認しないならば、主は人間の中の諸真理へ流れ入って、それと連結されることは出来ないからである。

 

 

 

 

天界の秘義10495

 

「彼が今日あなたらに祝福を与えられるためです。」これは聖言から神的な真理を受け入れて、それにより主と連結することを意味していることは、『祝福』の意義から明白であり、それは全般的には主により人間に与えられるものであり、主の与えられるものは凡て愛の善と信仰の真理とに関連しているため、このものが、またこのもとから発した凡ゆるものが『祝福』により意味されているものであり、それでここでは聖言から神的な真理を受け入れて、そのことにより主と連結することが意味されているのである(1096、2846、3017、3406、4216、4981、6298、8674、8939番を参照、『祝福』は主との連結を意味している、3504、3514、3530、3565、3584、6091、6099番)。この間の実情のいかようなものであるかは前の記事で示したところである、聖言を通して主は人間と連結され、天界は世と連結することについては、10452番を参照されたい。

 

 

 

 

17.人間のもとに真理が善に連結するに応じて、人間は主と天界に連結する

 

 

天界と地獄371

 

 主から発出している神的なものは第一次的には結婚愛に流れ入るのは、結婚愛は善と真理との連結から下降しているためである、なぜなら、前に述べたように、理解と意志の連結と言うも、善と真理との連結と言うも、それは同じことであるから。善と真理との連結は、天界と地上にいる凡ての者に対する主の神的愛からその起原を得ている。神的愛から神的善が発出して、神的善は天使と人間により神的真理の中に受け入れられており、善を受けるものはただ真理である。それゆえ真理にいない者は、主から、また天界からは何一つ受け入れることは出来ない、それ故人間のもとに真理が善に連結するに応じて、人間は主と天界に連結する。それ故それが結婚愛の起原そのものであって、その理由からその愛は神的なものが流れ入ってくる面そのものである。従って天界における善と真理との連結は天界の結婚と呼ばれ、聖言で天界は結婚に譬えられ、また結婚と呼ばれ、主は花婿、夫と呼ばれ、天界は教会と共に、花嫁、妻と呼ばれている。

 

 

 

 

18.主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来る

 

 

仁慈の教義206

 

主の前に己が罪を告白することにより、主と連結し、主から流入を受けることが出来るのである。その時主はその業を成就されるが、それでも人間に恰も人間自身で行動するように行動させられるのである。もしそうでないと人間は行動することは出来ないのである。主はその時人間の中に、その最も内なるものからその最も外なるものにすら至るまでも働かれて、罪の根元である欲念を遠ざけられるのである。

 

 

 

 

19.十戒の戒めを行うとき連結が遂行される

 

 

黙示録講解242イ(4)

 

さらに人間の生命のサークルは知ること、理解すること、欲すること、行うことである、なぜなら人間の霊的生命は知ることで始まり、次に理解へ移行し、次に意志することへ、最後には行うことへ移行することである。このことから、知識は記憶の中に在る限り、それは単に生命の入口に在るに過ぎないのであり、それが行為の中に存在しない中は人間の中には充分に存在しないのであり、それが充分に行為となって存在するに応じて益々充分に理解と意志との中に存在するのである。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P104

 

十の戒めは神的善の凡ゆるものと神的真理の凡ゆるものとを含んでおり、またその中にはこれらのものの連結したものが存在しているのである。しかしこの連結は隠れているのである。なぜならそれは主に対する愛と隣人に対する愛との連結に似ており、神的善は主に対する愛に属し、神的真理は隣人に対する愛に属しているからである。なぜなら人間は神的真理に従って生きる時、即ち、その隣人を愛する時、主は神的善をもって流れ入られて、御自身を連結させられるからである。(黙示録講解1026番)。

 

 

 

霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P104 (太字は当方による)

 

十戒の戒めによりいかようにして連結が遂行されるか、について今少しく述べよう。人間が主に自分自身を連結するのではなく、主のみが人間を御自身に連結されるのであり、そのことを主は人間がこれらの戒めを知り、理解し、欲し、行うことにより行われるのであり、人間がそれらを行う時、連結が生まれるが、しかしもし人間がそれらを行わないなら、彼はそれらを欲しなくなり、それらを欲しなくなる時、それらを理解し、知ることもまたなくなるのである。なぜなら人間が為すことが出来るのに為さないなら欲することに何の意義があろうか、それは理性の作り事ではないか。このことから人間が十戒の戒めを行うとき連結が遂行されることが生まれてくるのである。(黙示録講解1027番)。

 

 

 

 

20.天的なものとの連結は認識を与える、認識はことごとく連結から発している

 

 

天界の秘義1616[2]

 

『ヘブロンにあるマムレの樫の木の杜』がさらに内なる認識を意味していることについて、実状は以下のようである。

 

外なる人に属したものが内なる人の天的なものに連結するにつれ、認識は増大して、さらに内なるものとなるのである。

 

天的なものとの連結は認識を与えるのである、なぜならエホバに対する愛に属した天的なものの中には内なる人の生命そのものが存在しており、またはそれと同一のことではあるが、愛に属した天的なものの中には、即ち、天的な愛の中には、エホバが現存されており、その現存は連結が行われないうちは外なる人の中には認められないのであって、認識はことごとく連結から発しているからである。

 

 

 

 

21.働き返す能力がなくては連結はありえない

 

 

神の愛と知恵170

 

 宇宙的な目的、即ち、宇宙の凡ての物の目的は、創造者が創造された宇宙と永遠に連結することであり、そしてそのことは、その中に彼の神的なものがその神的なものそれ自身の中に在るように在ることが出来、かくして住み、宿ることが出来るところの主体が存在しない限り不可能である。この主体が神の住居、邸宅であるためには、それは神の愛と知恵とをそれ自身で受けるように受けなくてはならない、それゆえそれ自身を創造者にそれ自身により高揚するように高揚し、それ自身を神と連結させなくてはならない。この働き返す能力がなくては連結はありえない。この主体が人間であり、人間は自分自身を、自分自身により高揚し、連結するように、高揚し、連結させることが出来るのである。人間はこうした主体であり、神的なものを自分自身により受けるように受けるものであることは前に数度指摘したところである。この連結により主は主により創造された凡ての業の中に現存されている、なぜなら凡ての物はその目的として人間のために創造され、従って創造された物の用は(前の65−68に示されたように)最も外なる物から人間へ、また人間を通して[万物がよって以て発生している]創造者なる神へ度により上昇しているからである。

 

 

 

22.主との結合と再生とは同じ事柄である、なぜなら人間は主と結合するに応じ、再生するから

 

 

神の摂理92[6]

 

「主の人間との結合と人間の主との相互的な結合はこの二つの能力により行われる」。主との結合と再生とは同じ事柄である、なぜなら人間は主と結合するに応じ、再生するから。それゆえ再生につき前述したことは凡てまた結合についても語ることが出来よう。またここに結合について語られることはまた再生についても語ることが出来よう。主の人間との結合と人間の主との相互的な結合のあることを主御自身ヨハネ伝で教えられている、『私の内に宿りなさい、さすれば私はあなたたちの中に宿るであろう、人がもし私の中に宿り、私もまたその中に宿るならば多くの果を結ぶであろう』(ヨハネ15・4、5)。『その日あなたたちは私の中におり、私があなたたちの中に居るのを知るであろう』(ヨハネ14・20)。心の結合はもしそれが相互的なものでないなら不可能であり、相互の関係が結合の原因であることを人は理性の光によってのみ認めることが出来よう。一人が他の一人を愛しているのに、その一方からは愛されていないならば、前者が後者に近づくと、後者は後退りするが、もし彼がその一方からも愛されておれば、彼が近づくと他方もまた近づき、ここに結合が生まれる。さらに愛は愛されようと欲していて、そのことはその愛の中に植え付けられており、それが愛の返礼を受けるとき、その完全な生命と幸福とを楽しむのである。これらの考察から、もし主が人間を愛されるが、代って人間から愛されないなら、主は近づかれるが、人間は退き、かくて主は人間に来て、人間に入ろうと絶えず望まれるが、人間は後退りして離れてしまうことが明らかである。これは地獄にいる者の場合であるが、天界にいる者とは相互的な結合がある。それ故主は人間との結合をその救いのために欲せられるため、人間がこれに応答する能力を持つように定められている。その応答は以下の点から成っている、即ち、それは人間が自由から欲し、為す善と、人間がその欲することから、理性に従って考え、語る真理とが人間自身から発しているように見え、その意志の中のこの善とその理解の中のこの真理とが彼のものであるように見えるということである。実にそれらは仁慈っさい人間自身のものであるかのように、人間自身の中に発し、人間自身のものであるように人間には見えるのであり、如何ような相違もない、誰かがそうでないように感じるか否かを考えてみられよ。(それらは人間自身から発しているというこの外観については前の74−77を参照されよ。またそれらを自分自身のものとして持つことについては、78−81を参照されよ)。ただ人間は自分自身では善を為さないし、真理も考えないし、主から発する力によって善を為し、真理を考えるのであり、それ故その為す善とその考える真理は彼自身のものでないことを人間は承認しなくてはならないことのみが異なっているのである。意志の中の多少の愛に動かされてこのことを、それが真であるため、信じることが結合を生むのである、なぜならこうして人間は主を見上げ、主も人間を見られるからである。

 

 

 

 

23.人間は主に密接に結合するに応じ益々賢明になる

 

 

神の摂理34[3]

 

人間は主に密接に結合するに応じ益々賢明になる」。創造により、それ故生来、人間には生命の三つの度が在るため(前の32を参照)、人間には特に知恵の三つの度がある。これらは、その結合に従って人間の中に開かれる度である。それらは人間の愛に応じて開かれる。なぜなら愛は結合それ自身であるっから。しかし人間は度による愛の上昇については漠然とした認識しか持たない。しかし知恵の上昇は、知恵とは何であるかを知り、理解している者に明らかに認められている。知恵の度は認識される、なぜなら愛は情愛を経て認識と思考に入り、認識と思考は、身体の外なる視覚に相応した人間の内なる視覚の視野の中に入るからである。知恵は見られるが、それを生む愛の情愛は見られないのはこのためである。これは人間により実際為される凡てのものにも言われる。即ち、それを為すには身体はいかように活動するかは人間に注意されるが、霊魂はいかように活動するかは注意されないのである。同様に、人間が思いをこらし、識別し、または考える方法は認識されるが、しかしその行為の霊魂である善と真理の情愛がいかようにそれを生み出すかは認識されていない。知恵には自然的な度と、霊的な度と、天的な度との三つの度が在る。人間は世に生きる限り自然的な知恵にいる。この度はその期間内に最高度まで彼の内に完成することが出来るが、霊的度に入ることは出来ない。なぜならその度は自然的な度とは連続的に関係しておらず、相応によりそれと結合しているからである。死後人間は霊的な度の知恵におり、その度もまた最高度に完成することが出来るが、しかも天的な度の知恵に入ることは出来ない。なぜなら天的な度は霊的度に連続的に関係しないで、相応によりこれと結合しているからである。死後人間は霊的な度の知恵におり、その度もまた最高度に完成することが出来るがしかも天的な度の知恵に入ることは出来ない。なぜなら天的な度は霊的度に連続的に関係しないで、相応によりこれと結合しているからである。これにより知恵は三乗比で高められ、各度では一乗比で最高度まで完成され得ることが理解される。いかようにして、これらの度が高められ、完成されるかを理解する者は、天的知恵は表現を絶したものであるという言葉の意味を多少理解することが出来よう。それは表現を絶したものであり、天使の知恵から生まれる一千の観念も人間の思考内では単に一つ観念としてしか現れず、その中の九百九十九の観念は自然を超越しているので、人間の心に入ることは出来ない。私はそのことを再三経験により示されて、確信を与えられたのである。しかし上述したように、人間は主なる神と結合して、それに従って生活しない限り、かの天使の筆舌に表しがたい、知恵を得ることは出来ない。なぜなら主のみが霊的な度と天的な度とを開かれ、またこれを主なる神から知恵を得ている人々の中にのみ開かれ、そして悪魔または悪を己が中から斥ける者が知恵を主から受けるからである。

 

 

 

 

24.主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言による

 

 

聖書78

 

 さらに、主が人間のもとに現存されて、人間に連結されるのは、聖言によるのである。なぜなら主は聖言であられ、その中でその人間といわば話されるからである。主はまた、聖言も同じく神的真理そのものであるように、神的真理そのものであられる。このことから、人間が聖言を理解するのに従って、主はその人間のもとに現存されると同時に、その人間と連結されることが明白である。なぜならその人間は理解に従って真理とそこから派生する信仰とを得、また愛とそこから派生する生命とを得るからである。主は実に人間のもとに聖言を読むことを通して現存されてはいるが、しかし聖言から真理を理解することを通して、またその理解に従って人間と連結されるのであり、そして主が人間と連結されるに比例して、教会はその人間の中に存在するのである。

教会は人間の中に在るのであって、人間の外にある教会は己が中に教会をもった幾多の人間のもとにある教会である。このことが神の国は何時来ましょうかとたずねたパリサイ人に答えられた主の御言葉の意味である―

神の国はあなたたちの中にある(ルカ17・21)

ここでは「神の国」は主を意味し、主から教会を意味している。