ジャングル・ジム
善が僅かしか存在していないところには真理も僅かしか存在していない/
1.聖言の中に在る真理を認める
2.真理は絶えず真理を真理に連結させている
3.一つの真理は他の真理を認め、真理は容易に共につらなる
4.霊的な真理の凡ては互に関連している
5.真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならない
6.再生した人間のもとでは善から発した諸真理は継続的に派生していわば星座を形作り、絶えずそれ自身を周囲に増大させている
7.それは真理の各々は無限の広がりをもって、他の色々なものと連結しているからである
8.信仰は系統的に排列された真理によって高められ、完成される
9.諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖
10.天使たちの話す事柄の各々には、人間の科学も決して到達できない知恵の無数のアルカナが絶えず関連づけられて存在している
11.人間は天界の光の流入によって明るくされるに応じて益々諸真理の関連性を、引いてはその形を見るのであり、彼がそれらをそのように見るに応じて益々内的にその合理的な心は開かれる
12.天界の幾多の社会の形に順応して連結されていない現実の事柄は、または幾多の真理はまだ生命に到達してはいない
1.聖言の中に在る真理を認める
天界の秘義3798
聖言が明らかにされるのは善から発していることは極めて明らかである、なぜなら人各々はその抱いている愛から、その愛に属している幾多の事柄を認め、その認める事柄を真理と呼ぶからである、なぜならそれがその愛と一致しているからである。人間各々の愛の中にその者の生命の光が存在している、なぜなら愛は光が発生する源泉である焔のようなものであり、それで愛または焔のあるがままにその人間の真理の光もあるからである。善の愛の中にいる者たちはこの愛に属しているものを認め、従って聖言の中に在る真理を認めることが出来るのであり、しかもそれはその者たちの善の愛の量と質とに順応しているのである、なぜならその場合光または理知は天界から、即ち、天界を通して主から流れ入って来るからである。こうした理由から、前に言ったように、たれ一人生命[生活]の方面で善の中にいない限り聖言の内部を認めまた承認することは出来ないのである。
天界の秘義8694
「啓示」は何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感を持つこと。
もしそれが真理でないなら好感を持たない。好感が持たれると心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属する承認があるのである。
それの原因は主から発している天界の流入から来ているのである。なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。その時その光の中で見られるものは真理である。なぜならこの光そのものは主から発している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光である。
2.真理は絶えず真理を真理に連結させている
天界の秘義5478
かくて善の中にいる者たちの側では真理は絶えず真理を真理に連結させているが、善の中にいない者の側では真理は非常に多くの迷妄を、また誤謬を真理に連結させているのである。そのことの理由は善の中にいる者たちのもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向って拡げているが、他方善の中にいない者のもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向って拡げはしないということである。ここから善にいる者たちのもとでは真理は満ち溢れているが、善の中にいない者たちのもとでは真理は殆ど虚無に近いのである。この充満とこの虚無とは人間には、人間が世に生きている限りは、明らかではないが、しかし天使たちには明らかである。善に連結した諸真理の中にはいかに多くの天界が在るかを人は知りさえするなら、彼は信仰については非常に異なったことを感じるであろう。
3.一つの真理は他の真理を認め、真理は容易に共につらなる
天界の秘義2863[3]
今日でも同じである、基督教徒よりも更に良く振舞っている異教徒が地球の凡ゆる地方から来ているが、彼らは基督教徒よりも善く、このような問題については語っており、彼らは更に良いことを語っているのみでなく、それに従って生きもしているのである。これらの、また他の多くの真理が異教徒たちの間に存在していて、彼らが主から得ている善にその真理自身を連結させており、その連結から彼らは更に多くの真理を受ける状態の中にいるのである、それは一つの真理は他の真理を認め、真理は容易に共に連なるためである、なぜならそれらの真理は互に他に関連し、また関係しているからである。ここから世で善の中にいた者たちは他生では容易に信仰の諸真理を受けるのである。彼らのもとに在る誤謬は彼らの善に連結しないで、その善から分離することが出来るような方法で単にその善にそれ自らを適用させるに過ぎないのである。連結した誤謬は存続するが、しかし単に適用されたものは分離するのであり、それはその人たちが信仰の諸真理を学び自分自身にそれを浸透させる時、分離するのである。信仰の真理はことごとく誤ったものを取り除き、分離し、かくて遂にはその人間はそれに反感を持って、それを避けてしまうのである。このすべてから私たちは、ミルカがアブラハムの兄弟ナホルに生んだ息子たちによりいかような種類の人間が意味されているかが、即ち、教会の外にいるが、善から兄弟関係にある者たちが意味されていることを認めることが出来るのである。
4.霊的な真理の凡ては互に関連している
啓示による黙示録解説916
主を承認し、主を知ることが聖言から発している真理と善とに関わる知識を一つに連結している理由は、霊的な真理の凡ては互に関連しているためであり、もし諸君がそれを信じようとされるなら、その諸真理の関連性は身体の凡ゆる部分、内臓、器官の関連性に似ているのであり、それで霊魂がこれらの凡ての物を内に含んでそれらが秩序づけられ、関連づけられているため、それらは一つのものとしてしか感じられないように、主も人間のもとで霊的な諸真理をことごとく、共に結合されておられるのである。主は、人間がそれによって教会へ入り、そこから天界へ入ることの出来る門そのものであられることを、御自らヨハネ伝で教えられている―
天界の秘義7153
それでこうしたことがこれらの節の内意に含まれている事柄であるが、それは人間には恐らく殆ど無価値なもので、また互に関連もしていないものに見えるかもしれないが、それでもその各々は取扱われている主題には本質的なものであり、極めて美しく互に密着しているのである。それがそうであることは天使たちにより認められているのである、なぜなら彼らは互に連続し、関連している事柄が、内的な諸真理から形作られている無数の秘められた事柄と共になって、極めて美しい、しかも快い形を生み出しているのを、天界の光の中に認めるからであるが、そうしたことは到底人間によっては認められることは出来ないのである、なぜなら内的な諸真理は人間から隠れており、従って彼らはそれらを共に関連づけることは出来ないのであり、それらは彼には関連の無いものに見え、それで、今言ったように、殆ど無価値なものに見えるからである。
5.真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならない
スウェーデンボルグ/天界の秘義4197[7]
真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならないという表象的な教会に与えられている命令は一つの真理は善を確認しないが、多くの真理がそれを確認するという神の律法に基礎づけられているのである。なぜなら他の真理との関連性をもっていない一つの真理は確認を与えはしないが、幾多のものが共になると、一つのものから他のものが認められることが出来るため、確認を与えることが出来るからである。一つのものはいかような形も生み出しはしないし、かくていかような性質も見出しはしないが、連続して関連づけられている幾多のもののみがそれを生み出すのである。なぜなら一つの調子ではいかような旋律も生まれないし、ましてやハーモニーは生まれはしないように、一つの真理でもまた生まれはしないからである。
6.再生した人間のもとでは善から発した諸真理は継続的に派生していわば星座を形作り、絶えずそれ自身を周囲に増大させている
新エルサレムの教義186
再生した人間のもとでは善から発した諸真理は継続的に派生していわば星座を形作り、絶えずそれ自身を周囲に増大させている(5912番)。
7.それは真理の各々は無限の広がりをもって、他の色々なものと連結しているからである
天界と地獄270
真理そのものにいる者はそうではない。かれらの者は何ものにも妨げられないで前進し、また無限に進歩して行く、なぜなら彼らは何処に行こうと、その見る真理が彼らを導き、広々とした野へ連れて行くからである、それは真理の各々は無限の広がりをもって、他の色々なものと連結しているからである。
8.信仰は系統的に排列された真理によって高められ、完成される
〔W〕「信仰は系統的に排列された真理によって高められ、完成される」
真の基督教349
現今流布されている信仰の考え方からすれば、信仰の範囲は諸真理の集合体であるということは勿論、人間は信仰を己がために獲得する上に、何ごとかを貢献することが出来るということも知ることが出来ない。しかしながら、信仰はその本質に於て真理である。何故なら、信仰は真理自身の光に於ける真理であり、かかる真理は獲得することが出来るように、信仰もまた獲得することが出来るからである。誰か、若し主に近づくことを望むならばこれに近づくことが出来ないだろうか。更に誰か若し聖言から真理を集めることを欲するならば、これを集めることが出来ないだろうか。聖言の中の、また聖言から発する真理は凡て光を与え、而して光の中の真理は信仰である。光そのものである主は、流入によって各人間に入り、而して聖言から発する真理の存在する各人間の中に、主は真理を輝かせ、かくして、それを信仰の真理とならしめ給うのである。これは主がヨハネ伝に彼らは主の中に宿り、主の言葉が彼らの中に宿らねばならぬと教え給うところである(ヨハネ15・7)。主の言は真理である。しかし秩序ある体系を以て排列された幾多の真理が如何にして信仰を高め、これを完全にするかを理解するために、私はその問題を下記の項目に従って取扱うであろう。(1)信仰の諸真理は無限に増大することが出来る。(2)それは連続的に排列され、組織づけることが出来る、(3)信仰はその諸真理の数と組織ある排列に従って完成される。(4)真理は、それが如何に数多く且つ種々あろうとも、聖言であり、天地の神であり、凡ゆる人間の神であり、葡萄園即ち教会の神であり、信仰の神であり、光そのもの、永遠の真理と生命である主により一つのものとして結合される。
真の基督教350
(1)「信仰の諸真理は無限に増大されることが出来る。」
これは永遠に増大する天使の智慧によって明白である。更に、智慧は主から発する光の流入によって、系統的に排列された神的真理から専ら取得され、人間の理知も、それが真に理知である限り、同一の源から発する故、知恵には終わりはなく、また制限も無いと天使は語っている。主は神的真理そのもの、または無限性を持った真理であり、且つ、凡ての者を御自らに引き寄せ給う故、神的真理は無限に増大されることが出来る。この吸引は永遠に不変であるが、天使と人間は有限であるから、単に、その受容力に応じてのみその吸引の流れに従い得るに過ぎない。主の聖言は、その霊的な意味と、天的な意味については少しも知るところのない人間には、単に、水差し一杯の水としか思われないにしても、凡ゆる天使的な智慧が取得されるところの底無き真理の大洋である。信仰の諸真理の永遠に続く増大は果てしなく子孫が繁殖する人間の種に、或は終わりの無い巨万の植物を産出する畠或は庭の種子に譬えることが出来よう。聖言では種子は真理を、畠は教義を、庭園は智慧を意味している。人間の心は霊的な、自然的な真理が、無限に増大することの出来る種子の如く植えられる庭園に似ている。人間はこれを絶えずその光と熱と出産力とをもって臨在し給う主の無限性から取得している。
真の基督教351
(2)「信仰の諸真理は連続的に排列され、かくして組織づけられる。」
これは、霊的諸真理が認められることが出来なかった故、今まで知られなかった所である。何故なら、現今の神学の神秘的な、不可解な信仰がその霊的諸真理を、謂わば地下の倉庫に左遷してしまったからである。以下の説明は、組織的連続の意味する所を示すであろう。創造者なる神を取扱う本書の第一章は連続的に分類され、その最初は、神の単一性を、第二は、神或はエホバの存在を、第三は、神の無限を、第四は神的愛と智慧なる神の本質を、第五は神の全能を、第六は創造を取り扱っており、各々の主題が更に小分けされて連続し、組織づけられて組となっている。これらの連続は全般的にまた個別的に、或は全体としてまた部分として、諸真理を含有し、その諸真理はその数と相互関係に従って信仰を高め、且つ完全にする。人間の心は自然的な有機体を以て終結する霊的な有機体であり、その自然的な有機体の中にあってまたそれに応じて、その観念を産み出し、或は考えるのである。この事が知られない限り、認識、思考、観念は、単に頭に流れ入ってそこに人間が理論、論議として見また認める形を取る所の光の放射と変化とに過ぎないと想像されるに相違ない。しかしこれは愚かな考えである。何故なら頭には脳髄が在り、脳髄は有機的に組織され、心はその脳髄の中に宿り、その諸観念はそこに固定され、それらが受け入れられ、確信されるとき永遠的なものとなることが普遍的に認められているからである。
それではこの有機体の性質は何であるか。それは組織ある連続をなして、凡ゆる物が排列されているものであって、信仰の諸真理は人間の心にこのように排列されているのである。この主題は以下の如く説明することが出来よう。頭脳は二つの原質から成り、その一つは腺状であって、外皮的、灰質的原質と呼ばれ、他は小繊維状であり、髄質的原質と呼ばれる。腺状原質は葡萄の実の如く、一聯の房をなして排列され、髄質的原質は前者の原質の腺から発する一聯の繊維から成っている。頭脳から発して、種々の働きを果すために身体に向って下降する神経の凡ては繊維の群であり、束である。凡ゆる筋肉も同様であり、全般的には身体の内臓も、器官の凡ても同様である。凡てこれらは、心的有機体が排列されている連続に相応し、その排列をその事実に負うているのである。更に自然の凡ゆる物はこのような組織ある連続へ向って形作られており、凡ゆる木、潅木、草木、植物、否穀物の凡ゆる葉は、全体的に個別的に、このように作られているのである。何故なら、凡ゆる物は聖言即ち神的真理によって創造され、この世界もこれによって作られた(ヨハネ1・1以下)と録されているからである。それ故人間の心にかかる原質の排列が無い限り、何人も分析的に推理する力を持たないことが明らかである。この力を各人は多くの真理が、組織的に排列されるに応じて享有し、而してこの排列は人間が己が思考の自由を用いる用い方に順応するのである。
真の基督教352
(3)「信仰は、諸真理の数とその組織ある排列に応じて完全にされる。」
これは上述したところから推論され、また、その主題を合理的に考え、而して幾多の連続が組織的に排列されるときに、如何なる働きをするかを観察する者各々に明らかであるに相違ない。何故ならその時一つの連続は他の連続を強め、確実にし、全体は一つのものとして活動する形を以て排列されるからである。信仰はその本質に於て真理である故に、真理の数と関連性に応じて益々霊的に完全となり、従って益々非感覚的、非自然的なものとなる。何故なら、それはかくして心の更に高い領域へ高められ、そこからその下なる自然界の中に自らを確認する幾多の事実を見るからである。真の信仰はこのような組織的に排列された幾多の真理により益々透明に、合理的に、分明になり、また仁慈の善と結合し、悪を駆逐することが更に可能となり、かくして眼の誘惑と肉の欲から益々遠ざかり、それ故に益々幸福になる。特にそれは悪と虚偽とに対して更に力強いものとなり、かくして益々生ける、救の信仰となる。
真の基督教353
凡ゆる真理は天界に輝き、それ故、透明な真理はその本質に於て信仰であることが上に述べられた。それ故、多くの真理から成る透明な信仰の美と優雅とは、種々な物体、形、絵の美しい色彩企画に、またアロンの胸板の色も種々な貴重な宝石に、新しいエルサレムの石垣の基の宝石に(黙示録21章)、王冠の色も種々な宝石に(宝石は信仰の真理を意味する)虹に、花咲く牧地に、或は庭園の春の開花に譬えることが出来よう。調和した諸真理から成る信仰の光と栄光とは数多くの大燭台による神殿の、シャンデアリアによる家の、ランプによる街路の照明に譬えることが出来よう。数多くの真理による信仰の高揚は一つのメロディが大きなオーケストラによって演奏される際の高められた効果に、または夥しい香り芳しい一群の花から発散する芳香などに譬えることが出来よう。虚偽と悪とに対し整然と排列された多数の真理より成る信仰の力は、充分にセメントで結合した石で建てられ、卍字模様の屋根を円柱で支えている神殿の堅固さに、或は方陣形を作った一大隊の兵士に、或は、その数が極めて多く且つ広く分布されているけれど、その力を一つの行為の中に集中することの出来る全身体に亘る筋肉に譬えることが出来よう。
9.諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖
真の基督教508
然し新しき教会ではそれは全く相違している、そこにはその凡ゆる秘義に透徹し、それらを明白に理解し、かつそれらを聖言によって確認することが許されている。その理由は、その諸々の教義は主によって聖言から啓示された諸々の真理の連鎖であり、それらのものに対する合理的な証明は理解を益々発展させ、これを高揚して天界の光の中へ入れるからである。
10.天使たちの話す事柄の各々には、人間の科学も決して到達できない知恵の無数のアルカナが絶えず関連づけられて存在している
天界と地獄269
天使たちの知恵のいかようなものであるかは言葉では説明することはできない、ただ、若干の全般的な事柄によってのみ説明することができよう。天使たちは人間が一千語を費やしても表現できないものを一語で表現することができ、さらに天使の一つの語の中にも人間の言語では表現することのできない無数の物が存在している。なぜなら天使たちの話す事柄の各々には、人間の科学も決して到達できない知恵の無数のアルカナが絶えず関連づけられて存在しているからである。
11.人間は天界の光の流入によって明るくされるに応じて益々諸真理の関連性を、引いてはその形を見るのであり、彼がそれらをそのように見るに応じて益々内的にその合理的な心は開かれる
啓示による黙示録解説911
それが透明になっている理由は、文字の意義における神的真理は自然的な光の中に在り、霊的な意義における神的真理は霊的な光の中に在り、それで霊的な光が聖言を読んでいる人間のもとで自然的な光の中へ流れ入るとき、その者は明るくされて、そこに真理を見るためである、なぜなら霊的な光の対象は真理であるから。聖言はまた文字の意義では以下のような性質を持っている、即ち、人間は天界の光の流入によって明るくされるに応じて益々諸真理の関連性を、引いてはその形を見るのであり、彼がそれらをそのように見るに応じて益々内的にその合理的な心は開かれるのである、なぜなら合理的なものは天界の光の容器そのものであるからである。
12.天界の幾多の社会の形に順応して連結されていない現実の事柄は、または幾多の真理はまだ生命に到達してはいない
天界の秘義1928
「シルに行く道の泉のそばに」(創世記16・7)。これはその真理が記憶知から発出するそれらのものから発していたことを意味していることは、『泉』の、また『道』の意義から、同じく『シル』の意義からも明白である。『道』は(前の627番に示したように)真理に導き、また真理から発出しているものを意味している。しかし『シル』は依然荒野の中にあるような、すなわち、まだ生命に到達してはいないところの記憶知を意味している。記憶知から来ている真理は、愛の天的なものが流れ入っている真理に、それ自身を[その真理自身を]結びつける、提携させるとき、生命に到達すると言われている、なぜなら真理の生命そのものはそこから来ているからである。現実の幾多の事柄は、引いては幾多の真理は連結していて、その連結は天界の幾多の社会の連結に似ており、またそれに相応しているのである、なぜなら人間はその内部の方面では一種の小さな天界であるからである。天界の幾多の社会の形に順応して連結されていない現実の事柄は、または幾多の真理はまだ生命に到達してはいないのである、なぜならそのようにならないうちは主から愛の天的なものがそれに流れ入って、適応させることが出来ないからである。それらのものは、その形が両方の側で類似したとき、またはその人間の小さな天界が巨大な天界に相応した形となるとき、始めて生命を受けるのであって、それ以前では、たれ一人天界的な人間とは呼ばれることは出来ないのである。