善が僅かしか存在していないところには

真理も僅かしか存在していない

 

 

愛の如何に知恵は応じている

真理を受ける能力ジャングル・ジム冒涜

 

 

 

1.善が僅かしか存在していないところには真理も僅かしか存在していない

2.人間は仁慈を持っているだけ、信仰を持っているに過ぎない

3.愛それ自身の中には知恵と理知があって、これらは愛の如何に応じている

4.善にいる者たちのもとでは真理は満ち溢れている

5.主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれる

6.仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認める

7.ヴァッスーラ

8.何人も善にいない限り、真理を受け入れない

9.悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されない

 

 

 

 

1.善が僅かしか存在していないところには真理も僅かしか存在していない

 

 

天界の秘義2429[]

 

真理の情愛の中にいる者たちは善の情愛の中にいる者たちに比べると僅少な真理しか持っていないということについては、このことは、彼らが真理を顧慮するのは、彼らに属している貧弱なまた明確でない善から発しているという事実から明白である。人間の中にある真理はその者の内にある善に正確に順応している。善が僅かしか存在していないところには真理も僅かしか存在していない。両者は同じ釣合の中に、また同じ度の中にあり、または私たちの言うように、足並みを揃えて進んで行くのである。このことは実際逆説[背理]のように見えるかもしれないが、それでも実情はそうである。善は真理の本質そのものであって、真理はその本質が無いなら、それは真理であるかのように見えても、真理ではなく、単に音をたてるトロンボーンであり、空になった器のようなものである。

 

 

 

天界の秘義2429[]

 

人間は自分自身の中に真理を持つためには、それを知るのみでなく、それを承認し、それを信じなくてはならないのであって、そのとき初めて彼は真理を持つのである。なぜならそのときそれが彼に感動を与え、また残って留まるからである。彼が単に真理を知るのみで、それを承認はしないし、またそれを信じもしない時はそうではない。なぜならこの場合には、彼は彼自身の中に真理を持たないからである。悪の中にいる多くの者たちの場合がそれであって、彼らは真理を知ることが出来、ときには他の人間以上にも知ることが出来るが、それでも真理を持たないのであり、否、彼らは心ではそれを否定しているため、それだけそれを持ちはしないのである。

 

 

 

天界の秘義2429[]

 

たれ一人善を受ける以上に真理を持たないように、すなわち、それを承認し、また信じないように主により配慮されている。

 

 

 

天界の秘義6628

 

彼らは真理を互に教え合ったのであり、そのことが彼らの仁慈の業の一つとなっていて、例え一方は他方の意見に従わないにしても、人間性は各々善の中にいるに比例して真理の中にいることを知っていたため、怒りもしなかったのである。

 

 

 

生命52

 

こうした前提から以下の結論が生まれてくる―即ち、たれ一人自分の中に真理の穀粒を善以上にい持ちはしない、かくて彼は信仰の穀粒を生命[生活]以上に持ちはしないということである。理解の中には実にこれこれのものは真であるとの考えが在り得るであろうが、意志の中にその考えに対する同意がないかぎり、信仰である承認は存在しないのである。かくて信仰と生命とは歩調を合わせて歩いて行くのである。この凡てから人はたれでも罪を悪として避けるに比例して、信仰を持ち、霊的なものになることが今や明白である。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P134

 

 あなたたちはわたしを愛していない。それがすべてだ。愛するということは、時々上辺だけの社交的表敬訪問を行うことではない。愛するということは、もう一つの霊魂を養う、唯一の火と一致し、解け合い、点火した霊魂と共に生きることだ。その時、この融合のなかに理解も生まれる。

 

 

 

 

2.人間は仁慈を持っているだけ、信仰を持っているに過ぎない

 

 

天界の秘義2435 []

 

このことが聖言に記されているところの長子の権にかかわる凡ゆる論争とまた凡ゆる律法の源泉であったのである。このような論争があった原因は、人間は仁慈を持っているだけ、信仰を持っているに過ぎないことが知られていなかったということであり、またそれが同じく現今ですらも知られていないということであり、人間が再生しつつあるときは、仁慈がそれ自身を信仰に提示しており[差し出しており]、またはそれと同一のことではあるが、善がそれ自身を真理に提示して、真理の中へそれ自身を入り込ませ、凡ゆる微細な事項においても、真理にそれ自身を適用して、信仰を信仰であるようにさせており、かくて仁慈はたとえ人間にはそのように思われはしないものの、教会の長子そのものであることが知られていないということである(352、367番もまた参照)。しかしこれらの事柄は今後再三取扱われるため、主の神的慈悲の下に私たちはこの主題については折にふれてさらに多くのことを言うことにしよう。

 

 

 

天界の秘義3324[3]

 

善は善に一致するもの以外のものはいかようなものも真理としては認めないため、善が連結されることが出来る真理を善自身のために作る(3161)。

 

信仰は信仰の生命、すなわち愛と仁慈の中に存在しない限り存在することは不可能である(379,389,654,724,1608,2343,2349)。

 

信仰の諸真理は善の中にいる者たちによってのみ受けられることが出来る(2343,2349)。

 

仁慈の中にいない者らは主を承認することは出来ない、かくて信仰のいかような真理も承認することは出来ない、もし彼らがそのような承認を告白するなら、それは内なるものを持たない外なるものであるか、または偽善から発している(2354)。

仁慈が存在しない所には信仰は存在しない(654,1162,1176,2429)

 

人間は善の中にいない限り、真理の承認も、信仰も不可能である(2261)。

 

 

 

 

3.愛それ自身の中には知恵と理知があって、これらは愛の如何に応じている

 

 

天界の秘義2500[3]

 

愛それ自身の中には知恵と理知があって、これらは愛の如何に応じていることは、未だ殆どたれにも知られていないアルカナである。知恵と理知は愛の中に在るということは、流入はことごとく愛に向って起っており、または、それと同一のことではあるが、善に向って起っており、かくて人間の生命そのものに向って起っているという事実から来ている。これが表現を絶した天使たちの知恵と理知の源泉である。それはまた主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる人間の知恵と理知の源泉であり、たとえ彼らは身体の中に生きている間は彼ら自身の中にそれを何ら認識はしていないものの、それがこの愛と仁慈そのものの中に存在しているという理由のため、死後その中へ入って来るのである(2494参照)。

 

 

 

 

4.善にいる者たちのもとでは真理は満ち溢れている

 

 

天界の秘義5478

 

かくて善の中にいる者たちの側では真理は絶えず真理を真理に連結させているが、善の中にいない者の側では真理は非常に多くの迷妄を、また誤謬を真理に連結させているのである。そのことの理由は善の中にいる者たちのもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向って拡げているが、他方善の中にいない者のもとでは諸真理はそれら自身を天界へ向って拡げはしないということである。ここから善にいる者たちのもとでは真理は満ち溢れているが、善の中にいない者たちのもとでは真理はほとんど虚無に近いのである。この充満とこの虚無とは人間には、人間が世に生きている限りは、明らかではないが、しかし天使たちには明らかである。善に連結した諸真理の中にはいかに多くの天界が在るかを人は知りさえするなら、彼は信仰については非常に異なったことを感じるであろう。

 

 

 

天界の秘義5949

 

「なぜならエジプトの全地の善いもの、これがあなたたちのためにあるからです」。これは彼らが自然的な心における主要なものを得ることを意味していることは、『エジプトの地』の意義から明白であり、それは自然的な心であり(5276、5278、5280、5288、5301番)、『この全地の善いもの』により主要なものが意味されているのである。これらの言葉によりまた、もし本質的なものが顧みられて、手段的なものが顧みられないなら、本質的なものは手段的なものを豊かに得ることが意味されているのである。例えば、もし真理が顧みられるなら、それは『エジプトの地の善いもの』である記憶知を豊かに得るのである。同様にもし善が顧みられるなら、善は真理を豊かに得るのである。記憶知も、また真理も顧みられねばならないが、しかし人間は善を目的として認めなくてはならない。もし善を目的として善に目が注がれるなら、その時はその人間はその善から生まれてくる物を充分に観察するのであり、またはその善から由来してくる物を認識するが、そうした認識は善が目的とならない限り、すなわち、善が一切の各々の物を遍く支配していない限り、決して在り得ないのである。

 

 

 

 

5.主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれる

 

 

天界の秘義5952

 

『快いものとして』と言われているのは、『エジプトの車』により意味されている教義的なものは聖言の文字の意義から来ており(5945番)、その文字の意義は内意が無いなら何であれ如何ような善にも適用されることが出来るからである。なぜなら主は何人にも真理を明らかには教えられはしないで、善を通して真のものを考えるように導かれるからであり、またそうした事柄は聖言がそのように明言しているため、またそれは聖言に一致しているため、真理であるという認識を、その人間に知られぬままに、その人間に吹き込まれ、従ってそれを選ばせられるのである。このようにして主は善が各人により受け入れられるに応じて、それに諸真理を適応させられるのであり、このことは各人の情愛に従って起こり、かくて自由の中に起るため、ここに『快いものとして』と言われているのである。

 

 

 

 

6.仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認める

 

 

霊界日記5945

 

信仰と言うも、真理と言うも、それは同じことであり、善と言うも、仁慈と言うもそれも同じことであり、さらに、それは人間の思考と情愛との場合と同じである。情愛を離れて考えることは不可能である、なぜなら思考の本質そのものは情愛であるからである。人間は、実に、何であれ、その知っていることを考えることが出来るが、しかしそれは、栄誉、名声、名誉に対する情愛である自然的な情愛から発しているのである。しかしながら、この情愛は思考を霊的なものとはしないのであり、仁慈と呼ばれる霊的な情愛が存在しなくてはならない。さらに、人間は、仁慈の中にいるに応じて、明るくされて、信仰のものである諸真理を認めるのである。

 

 

 

天界の秘義3798

 

聖言が明らかにされるのは善から発していることは極めて明らかである、なぜなら人各々はその抱いている愛から、その愛に属している幾多の事柄を認め、その認める事柄を真理と呼ぶからである、なぜならそれがその愛と一致しているからである。人間各々の愛の中にその者の生命の光が存在している、なぜなら愛は光が発生する源泉である焔のようなものであり、それで愛または焔のあるがままにその人間の真理の光もあるからである。善の愛の中にいる者たちはこの愛に属しているものを認め、従って聖言の中に在る真理を認めることが出来るのであり、しかもそれはその者たちの善の愛の量と質とに順応しているのである、なぜならその場合光または理知は天界から、すなわち、天界を通して主から流れ入って来るからである。こうした理由から、前に言ったように、たれ一人生命[生活]の方面で善の中にいない限り聖言の内部を認めまた承認することは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘儀10201

 

自己愛にいる世の学者連は誤謬を確認する才知を他よりも多く持ってはいるものの、単純な者たちよりは更に盲目になっている。人間における真理の光は全くそのものの愛に順応しており、すなわち愛が点火されるに比例して、真理は輝くためである。なぜなら愛の善は生命の火のものであり、信仰の真理は理知と知恵である知的な光のものであるからである。この二つのものは歩みを等しくして前進しているのである。

 

 

 

 

7.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/天使館/ランプのあぶら/花むこから花嫁への呼びかけ/P49

 

知りませんでしたか、愛の賜物が大きければ大きいほど、神にたいする知識も増して完成されていくことを。

 

 

 

 

8.何人も善にいない限り、真理を受け入れない

 

 

天界と地獄153

 

悪霊らが時折天界の方位の方へ向いているのが見られ、そうした時彼らは理知を得、また真理も認識するが、しかし善に対する情愛を何ら持っておらず、彼ら自身の方位に向きを変えるや否や、理知にいないで、真理を認識せず、かくして自分らの聞き、また認めた真理は真理ではなくて、誤謬であり、自分たちは誤謬が真理であることを望んでいると言う。私はこの向きについては、以下のように告げられている、すなわち、悪い者にあっては心の知的部分はそのように向けられることも出来るが、しかし意志部分は向けられることは出来ない、これは各々の者が真理を認め、承認することが出来るようにとの目的から主からそのように配慮されているからであるが、しかし真理を受け入れるものは善であって、決して悪ではないため、何人も善にいない限り、真理を受け入れない、人間の場合も、真理により匡正されるためにそれと同じようになってはいるが、それでもその者が善にいない限り、匡正されることは出来ないのである。そうした理由から人間も同じように主に向けられることは出来るが、もし彼が生活の点で悪にいるなら、彼はたちまち自分自身をもとの方に向けて、前にも理解もし、また認めもした諸真理に反した彼の悪の誤謬を確認するのであり、このことは彼がその内的な状態から自分自身の中に考えるときに起るのである。

 

 

 

最後の審判とバビロンの滅亡P51

 

人間は仁慈から後退するに従って、知恵から後退する(6630)。仁慈にいない者は、自らをいかほど賢い者と考えようと、神的真理を知らない(2417、2435)。

 

 

 

 

9.悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されない

 

冒涜

 

 

天界の秘義2357

 

「彼の後で戸を閉じた」。これは、彼らが仁慈の善に暴行を加えないように、また主の神的な人間的なものと発出している聖いものとを否定しないように、を意味していることはすでに言ったことから明白である。現在の場合『その戸を閉じる』ことは、彼らが『家』により意味されている善に入らないように、それで主の神的なものと聖いものとに入らないように、を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義2357[2]

 

 これらの事柄にはさらに深いアルカナが含まれていて、そのアルカナの意義と観念の中へ、天使たちはこれらの言葉が読まれている時、入って来るのである、すなわち悪い生命の中にいる者は善を、また主を知ることのみしか許されないで、善を、また主を承認し、信じることは許されはしないのであり、それは彼らが悪の中にいる限り、それと同時に善の中に入ることが出来ないという理由によっている。たれ一人二人の主人に兼ね仕えることは出来ない。一度承認して、信じる者が悪の生命に帰ると、その者は善い、聖いものを冒涜するが、しかし承認はしないし、信じもしない者は冒涜することは出来ないのである。それで人間は心情の承認と信仰そのものの中へは、その者が後で留め置かれていることが出来る辺りより先へは入れられないように、主の神的な摂理により配慮が払われているが、そのことは冒涜の刑罰のためであって、その刑罰は地獄における最も痛ましいものである。

 

 

 

天界の秘義2357[3]

 

 これが現今愛と仁慈との善は人間における天界であり、神的なものはすべて主の中にあることを心から信じることが極めて僅かな者にしか与えられていない理由となっている、なぜなら現今人間は悪の生命の中にいるからである。それでこのことがロトが彼の後で戸を閉じたことによりさらに内的に意味されていることである。なぜならこの戸は内側の戸であってそこを通って天使たちがいた家そのものに、すなわち、主がその中におられる善の中へ入ることが出来たからである。