愛の如何に知恵は応じている

 

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P215

 

 真理を見つけるためには理性を、愛に合わせて、そして物ごとを知恵者の目をもってだけではなく、よい目をもって見るべきである。なぜなら、善良さは知恵に勝るからである。愛する人は、いつでも真理への小道を見つける。

 

 

神の愛と知恵368[5]

 

 「愛の如何に知恵が応じ、従って人間が応じている」。何故なら前述したように、意志は愛の容器であり、理解は知恵の容器であり、この二つは人間とその性格を形作っているため、愛と知恵の如何に、意志と理解が応じているからである。地上と天界の人類から見ることができるように、愛は多様であり、実にその変化は無限であるほどにも多様である。如何なる人間であれ、または如何なる天使であれ、何の相違もないほどに他に似ている者は一人としてない。愛が区別するものである。なぜなら人各々その人自身の愛であるから。知恵が区別するものと考えられているが、しかし知恵は愛から発し、愛の形である。愛は生命のエッセであり、知恵はそのエッセから発した生命のエキジステレである。世では理解が人間を作ると信じられているが、しかしそのように信じられているのは、前述したように、理解が天界の光の中へ上げられることができて、人間は賢明になるように見えるためである。しかし理解の中で、愛を超えた部分は、即ち、愛にぞくしていない部分は、それが人間のものであって、それ故人間の性格を決定しているように見えるけれども、外観にすぎないのである。何故なら愛を超えた部分は、実際知って賢くなろうとする愛から発してはいるが、しかしそれは同時に、人間が知って、賢くなったものを生活に適用しようとする愛からは発していないからである。従って世ではそれは時とともに消滅するか、または記憶の辺境の中に、その記憶されている物の外側に、将に脱落しそうになって浮動するかし、そのため死後分離してしまって、その霊自身の愛に一致したもの以外には何ものも残らない。愛は人間の生命を形作り、かくて人間自身を形作っているため、天界の凡ての社会と社会の中の凡ての天使は、愛に属する情愛に応じて排列され、如何なる社会も、また社会の中の如何なる天使も愛から分離した理解の何ものにも応じては排列されていない。このことは地獄とその社会にも言われるが、しかしそれは天界の愛に反した愛に一致して排列されているのである。この凡てから愛の如何に知恵が応じ、従って人間が応じていることを認めることができよう。

 

 

天界の秘義5096(続き)

 

しかし確認された誤謬の中にいない者たちは、即ち、誤謬を確信していない者たちは容易に真理を容認し、それを認め、選び、それに感動し、後には誤謬を謂わば彼ら自身の下に認め、また誤謬を確信している者らがいかに縛られているかを認めるのである。これらの者は観察と思考とにおいて謂わば全天界を跋渉して無数の真理にまでも達することが出来る程の自由の中にいるが、しかし何人も善の中にいない限り、この自由の中にいることは出来ないのである。なぜなら善から人間は天界におり、天界では真理は善から現れるからである。

 

 

天界の秘儀10201

 

自己愛にいる世の学者連は誤謬を確認する才知を他よりも多く持ってはいるものの、単純な者たちよりは更に盲目になっている。人間における真理の光は全くそのものの愛に順応しており、すなわち愛が点火されるに比例して、真理は輝くためである。なぜなら愛の善は生命の火のものであり、信仰の真理は理知と知恵である知的な光のものであるからである。この二つのものは歩みを等しくして前進しているのである。