メモ
カリスマを受けた人々の一致によって、人類が長い間待ち受けた
善い果実を与えることになるでしょう。アヴェ、マリア!
(デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻上P124)
イザヤ55・1
渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
銀を持たない者も来るがよい。穀物を求めて、食べよ。
来て、銀を払うことなく穀物を求めよ
価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。
1.みことばを引用し、類似するものをあげなさい
2.教会が再び設立されつつある時には、善と真理との教義的なものは一つに集められねばならない
3.公に証しすべきとき
4.全力を尽くして、あなたの出来るだけのことをせよ
5.役に立たないことば
6.葡萄畑で忠実に働け
7.主から発していない真理は真理ではない
8.何人も真理については一瞬にして説得されてはならない
9.真理そのものは心の中に自ずから輝き出る
10.蜂蜜
11.マナ
12.真珠
13.貯水槽
14.たゆまず書きなさい
15.ヒマラヤ杉
16.聖言を研究する者
17.一人の者の言葉に立ってはならない
18.兵器庫
19.与えよ
20.何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれる
21.サンダー・シング・・・神を知らない人々に神の言葉を伝えるべき
1.みことばを引用し 類似するものをあげなさい、
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/7巻P136
94・7・4
―ああ! 我がメッセージの類似が書かれはじめたなら どんなに嬉しいか! 今日与えているみことばを尊び 私に仕えるであろう者は祝福されている。 私が彼を手助けしよう その行為をすべて考慮していると(・・・)に伝えなさい(*)。
*主のお計らいで、その方の名前を書かない許しをいただきました。
「我が息子よ、ほかの務め(*)をたくさん 引き受けないように。
ふえていくばかりで あなたは時間の不足に苦しもう! できるだけ急ぎなさい、だが:<主よ、何を必要とされていますか?>と尋ねるなら 決してたどりつかない。 教えよう:<私のメッセージは 救う、そして時は短い、あなたの始めたことを 私は祝福した。 この世代に理解のパンと知恵の飲みものを与えなさい。 我がメッセージは栄養を与え 渇きを癒す。 この世代は食物がないために どんどん死に絶えている。あなたの労苦の実は 多くの人を救おう。 急いで今 私のメッセージ(*)を食べなさい。(そうです!)
*「神のうちの真のいのち」一連の本。(そうです!)
我が聖心の富をそこから引き出し、次にこれらの富に光を当てなさい。 教会の健康が回復するよう あなたには健全さを与えた。 我が司祭たちと信者の心を照らすに必要な光を メッセージから引き出しなさい。 その中に 一致という宝を与えた、我がメッセージに照らされて 一致を推し進めなさい。 みことばを引用し 類似するものをあげなさい。 この作品の麗しさに 国ぐには群れをなして啓発されよう。」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P38
‘87・11・10
「人類の上に私の種を蒔く時が来た、私のメッセージを推し進めなさい、あなたの引き受ける全てを助ける、みことばを知らせ、我が被造物にこの大きな愛を、限りない慈しみを 知らせなさい、 ♡ 私の支配は平和、愛と一致によるものとなろう、私は 無力でみじめな者、役立たずで言葉も出せないようなヴァッスーラを選んだ、 ♡ これも書くように(*)、
* 次の分を仰しゃるのを聞いて、当惑と躊躇の思いで主のほうを見つめました。
そう、我が教会にたいする基本的な知識をなんら持たないため、白紙のカンバスのように、主である私が私だけのもので埋め尽くすことが自由にできた、書かれたものが全て私の口から出ていることが明らかとなるために、全てのわざは私によって成される、彼女を通して、私は彼女を通して話し、彼女を通して行動する ♡ 私は彼女を形造り、このメッセージを担うことができるように 私の全てのわざを注いだ、そしてそれはいずれ知られよう ♡ 私のメッセージを推し進めてくれるか? 私のためにそうしてくれるか? 思い出すように、私イエス、神の愛する子、全人類の救い主、そしてみことばが あなたを祝福している、あなたの仕事を祝福する ♡ 喜びに出会おうと 悲しみに出会おうと安心しているように、賛意を与える、いつも前を進み 導きながら ♡ 我が教会の一致は 私の栄光となろう! 血を流している私のからだの内奥にまであなたを導く、棘を指し示し、あなたはそれらを見分けるであろう ♡♡ 私の栄光のほかは関心を持たないように、私のわざを決して疑ってはならない、愛があなたの上に輝いている 愛する者よ、私を喜ばせるように努力しなさい、さあ、あなたの横に私はいる(I Am)」 ♡♡
天界の秘義4197[7]
真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならないという表象的な教会に与えられている命令は一つの真理は善を確認しないが、多くの真理がそれを確認するという神の律法に基礎付けられているのである。なぜなら他の真理との関連性を持っていない一つの真理は確認を与えはしないが、幾多のものが共になると、一つのものから他のものが認められることが出来るため、確認を与えることが出来るからである。一つのものはいかような形も生み出しはしないし、かくていかような性質も見出しはしないが、連続して関連付けられている幾多のもののみがそれを生み出すのである。なぜなら一つの調子ではいかような旋律も生まれないし、ましてやハーモニーは生まれはしないように、一つの真理でもまた生まれはしないからである。
天界の秘義3436
彼が途方に暮れる所では、他の記事から理解を与えられる。
天界の秘義6222
一つの記事を他の記事と入念に比較する時、何を為さねばならないかを認識する。
2.教会が再び設立されつつある時には、善と真理との教義的なものは一つに集められねばならない
天界の秘義3786
「家畜が共に集められる時ではありません」(創世記29・7)
これは教会の、また教義的なものの幾多の善と真理とが未だ一つに集められることが出来なかったことを意味している。
天界の秘義3786[2]
このことは教会が再び設立されつつある時には、全般的に教会にも言われるのである、即ち善と真理との教義的なものは一つに集められねばならないのである、なぜならそれらのものの上に教会は建てられるからである。更に教義的なものは互いに関連し、また互いに相互的な関係を持っており、それでそれらのものが先ず一つに集められない限り、欠陥があり、欠けているものは人間の合理的なものにより補われねばならないのである。そしてこの人間の合理的なものは、霊的な神的な事柄においては、その合理的なものの結論がそれ自身から発している時は、いかに盲目であり、またいかに誤ったものであるかは前に充分に示したところである。こうした理由から、善と真理との教義的なものをすべて含んでいる聖言が教会に与えられているのである。この点では、再生しつつある人間の場合では、全般的な教会の場合も個別的な教会の場合も同一である、なぜならこのような人間は個別的な教会であるからである。教会に属している善と真理との教義的な事柄は、人間が再生する以前にその人間の中に先ず共に存在しなければならないことは前に示したところである。それでこのことが『見なさい、日はまだ大分あります、家畜が共に集められる時ではありません』によりその内意に示されているところである。
天界の秘義3773
「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。
創世記6・21−22
「更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。
天界の秘義679
それ故『自分自身のもとに集めること』(創世記6・21)が諸真理を意味していることは明らかである、なぜなら『集めること』は幾多の物が集められている記憶の中の幾多の物について述べられているからである。そしてこの表現はさらに諸善と諸真理は人間が再生する以前に人間の中に集められなくてはならないことを意味しているのである、なぜなら主は諸善と諸真理とを手段としてそれらを通して働き給うのであり、その諸善と諸真理とが共に集められなくては、すでに述べたように人間は決して再生することが出来ないからである。それでこのことから『それをあなたと彼らの食物としなくてはならない』が諸善と諸真理を意味していることが生まれて来る。
啓示による黙示録解説下P393
黙示録21・21
『十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠で作られ』は、主を承認し、知ることにより、聖言から来ている真理と善との知識はことごとく一つに結合され、教会へ導き入れられる、を意味する(916番)。 『都の街路は純金であり、透明なガラスのようであった』は、かの教会とその教義との真理はことごとく、主から天界を経て発する光と共に流れ入って来る愛の善の形である、を意味する(917番)。
天界の秘義9167[3]
『二人の主人』は善と悪とを意味している、なぜなら人間は善か、または悪か、その何れかの中にいて、その二つの中に同時にいることは出来ないからである。人間はもし多くの真理が一つの善の下に秩序づけられていさえすれば、その真理の中にいることが出来るのである、なぜなら善が人間のもとに天界を作るが、しかし悪は地獄を作り、人間は天界か、地獄か、その何れかの中にいなくてはならないのであり、その両方の中にいることは出来ないし、またその両方の間にもいることは出来ないからである。それでこのことから聖言で『主[主人]』により意味されていることが明白である。」
デボラ/生ける神よりあかされた英知/世のひかり社/2巻上P124
1994年9月16日
私が祈りをしていますと、突然、非常に苦しんでおり、ほとんど死にかけている一人の女性の姿を見ます。一位の天使が現れて私に言います。
天使:「娘よ、祈りなさい。霊魂たちと苦しみの交わりをしなさい!」
デボラ:「神様の天使よ、私はあの女性の名前を知りたいです」。(遠くからでは、それが誰なのか区別できません・・・)
天使:「神のしもべ、Natuzzaです」。
デボラ:「でもとても具合が悪そうです!」
天使:「まもなく彼女は、天においてその報賞を受けるでしょう! 今あなたが見たことは心の中に留めておきなさい。祈り、慰めを与えなさい。カリスマを受けた人々の一致によって、人類が長い間待ち受けた善い果実を与えることになるでしょう。アヴェ、マリア!」
このように天使は私に挨拶をして、消えました。
霊界日記4775
次いで私はそこから右の方へ導かれたが、そこでまた人々が啓示を話し、期待しているのを聞いた。これらの者たちと、天使たちは話して、主について教え、また以下のことを教えもした、即ち、あなたらは天界から教会の汚れのない[欠点のない]教義をまさに受けようとされており、また、主から新しい聖書を受けられるでしょう、と。
天界と地獄405
一つの物は凡て多くの物が調和をもって共に働いていることから形作られており、
3.公に証しすべきとき
聖母から司祭へ/1988.2.2
あなたたちが、公に証すべき時が来ました。あなたたちは、わたしに奉献された小さな子どもであることと、この最後のときに、あなたたちの天の母の偉大な使徒であることとを、すべての人に示さなければなりません。
4.全力を尽くして、あなたのできるだけのことをせよ
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・7・1
全力を尽くして、あなたのできるだけのことをせよ、そうすれば神はあなたのよい志しを助けてくださるだろう。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P63
1995年3月22日から23日にかけての夜
イエズス:「誰も、全てのカリスマを同時に所有することはない。各自に(まことに私の者である人々に)一つの使命が与えられ、各自が自分の悲惨を保ちつつ私の教会の完成のために招かれるのである!
」
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P346
ヴァッスーラ、心配しないように、どの人間も私を讃え讃美する自分のやり方がある。 あなたにはこの方法(著者注:書くこと)を与えた。
第一コリント12・4−22
賜物にはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ霊です。
務めにはいろいろありますが、それをお与えになるのは同じ主です。 働きにはいろいろありますが、すべての場合にすべてのことをなさるのは同じ神です。 一人一人に““霊””の働きが現れるのは、全体の益となるためです。
ある人には““霊””によって知恵の言葉、ある人には同じ““霊””によって知識の言葉が与えられ、 ある人にはその同じ““霊””によって信仰、ある人にはこの唯一の““霊””によって病気をいやす力、
ある人には奇跡を行う力、ある人には預言する力、ある人には霊を見分ける力、ある人には種々の異言を語る力、ある人には異言を解釈する力が与えられています。 これらすべてのことは、同じ唯一の““霊””の働きであって、““霊””は望むままに、それを一人一人に分け与えてくださるのです。
体は一つでも、多くの部分から成り、体のすべての部分の数は多くても、体は一つであるように、キリストの場合も同様である。
つまり、一つの霊によって、わたしたちは、ユダヤ人であろうとギリシア人であろうと、奴隷であろうと自由な身分の者であろうと、皆一つの体となるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです。
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。 足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。 耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。
もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。 そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。
すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。 だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。 目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。
それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。
5.役に立たないことば
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P328
役に立たないことばとは、自分では何も助けられないのに、他人の欠点を話す場合です。その場合それぞれ本当であっても、愛に背くことです。同じように強く他人を叱責しながら、助言をしてやらないのも愛に背くことです。
6.葡萄畑で忠実に働け
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・47
しばらく待つがよい、そうすれば、あなたの不幸はみなサッサと終わってしまうだろう。
もうすべての苦労も心配もなくなる時がくるだろう。
時とともに過ぎ去るものは、みなささいで、短いのである。
自分の仕事を大事にして、わたしの葡萄畑で忠実に働け。そうすればわたしはあなたの報償(むくい)となるだろう。
書き、読み、歌い、嘆き、沈黙し、祈り、雄々しく辛いことを忍べ。永遠の生命はこれらのすべての戦闘(たたかい)、いな、いっそう大なる戦闘をもする価値があるのである。
7.主から発していない真理は真理ではない
天界の秘義2904
教会には主の真理である真理以外の真理は存在しない。
主から発していない真理は真理ではない。そのことはまた聖言から、聖言から由来している信仰の教義からも明白である。それはヨハネ伝における聖言から明白である―
人間は天から与えられなくては、何ものも受けることはできない(ヨハネ3・27)
また他の所には―
わたしとともにいないかぎり、あなたたちは何ごとも為すことはできない(ヨハネ15・5)。
そのことは信仰の教義からも明白である。すなわち、信仰の凡ゆるものは、すなわち、真理はことごとく主から発しているということから明白である。
8.何人も真理については一瞬にして説得されてはならない
天界の秘義7298
何人も真理については一瞬にして説得されてはならない。すなわち、真理は、それについてはいかような疑念も残さぬほどに一瞬にして確認されてはならないということが秩序の法則に順応しているのである。なぜならそのように印象づけられた真理は説得された真理となって、拡がることに欠け、また柔軟性を全く持たないからである。こうした真理は他生では固いものとして表象され、善をその中に取り入れてそれが応用出来るものとはならないといったものとして表象されているのである。そこから他生では何らかの真理が善良な霊たちの前に明白な経験により示されると直ぐに、その後には疑いを生み出すところの対立したものが示されるのである。このようにして彼らはそのことについて考え、それがそうであるか否かと考察し、理論を集め、そのようにしてその真理を彼らの心の中へ合理的に取り入れることが出来るのである。そのことによりその真理については霊的な視覚が、その対立したものにまで拡がることが出来、そこからその視覚は理解の中でその真理の性質をことごとく見、また認め、またそこからその対象の状態に応じて天界から流入を許容することが出来るのである。なぜなら諸真理はその実情に応じて色々な形を受けるからである。これが魔法使いらがアロンの行ったように行うことを許された理由である。なぜならそのことによりイスラエルの子孫の間に奇跡についてそれが神的なものであるか、否かとの疑念が掻き立てられ、かくてそれが神的なものであるか、否かと考え、考察し、最後にそれが神的なものであることを自分自身に確認する機会が彼らに与えられたからである。
9.真理そのものは心の中におのずから輝き出る
天界の秘義4741
真理のいくたの外に現れたもの[外観]を消散させ、消滅させることは、真理そのものが斥けられた後に起こるのである。
なぜなら真理そのものは心の中におのずから輝き出るのであり、それがいかほど消滅されようとも、依然として現れるのであり、とくに善の中にいる者たちの中に現れるからである。
10.蜂蜜
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226
4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。
11.マナ
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226
5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。
12.真珠
真珠/
マリア・ワルトルタ/天使館第3巻下P26
貧しい者たちは、神の言葉という真珠を心に蓄えます。彼らの唯一の宝です。
啓示による黙示録解説下P393
黙示録21・21
『十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠で作られ』は、主を承認し、知ることにより、聖言から来ている真理と善との知識はことごとく一つに結合され、教会へ導き入れられる、を意味する(916番)。 『都の街路は純金であり、透明なガラスのようであった』は、かの教会とその教義との真理はことごとく、主から天界を経て発する光と共に流れ入って来る愛の善の形である、を意味する(917番)。
啓示による黙示録解説916
黙示録21章21節。「十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠から出来ていた」は、主を承認し、主を知ることは、聖言から発して、教会へ導き入れるところの、真理と善とに関わる凡ゆる知識を一つに連結していることを意味している。『十二の門』により、人間を教会へ導き入れるところの、真理と善に関わる知識の概括的なものが意味されている(899、900番)。『十二の真珠』によってもまた真理と善とに関わる知識の概括的なものが意味され(727番)、ここから『門は真珠であった』のであり、『門の各々が一つの真珠で出来ていた』理由は、『門』により、また『真珠』により意味されている真理と善とに関わる知識は凡て、それらの知識の容器である一つの知識に関連しているためであって、その一つの知識とは主に関わる知識[主を知ること]である。それは多くのものがその一つの知識を構成してはいるけれど、一つの知識と呼ばれている、なぜなら主に関わる知識は教義の凡ゆる物の、引いては教会の凡ゆる物の普遍的なものであり、そこから礼拝は凡てその生命と霊魂とを得ているからである、なぜなら主は天界と教会との凡てのものにおける、引いては礼拝の凡てのものにおける凡てのものであられるからである。主を承認し、主を知ることが聖言から発している真理と善とに関わる知識を一つに連結している理由は、霊的な真理の凡ては互に関連しているためであり、もし諸君がそれを信じようとされるなら、その諸真理の関連性は身体の凡ゆる部分、内臓、器官の関連性に似ているのであり、それで霊魂がこれらの凡ての物を内に含んでそれらが秩序づけられ、関連づけられているため、それらは一つのものとしてしか感じられないように、主も人間のもとで霊的な諸真理をことごとく、共に結合されておられるのである。主は、人間がそれによって教会へ入り、そこから天界へ入ることのできる門そのものであられることを、御自らヨハネ伝で教えられている―
わたしは戸である。もしたれでもわたしにより入るなら、その者は救われるであろう(ヨハネ10・9)。
主を承認し、主を知ることは真珠そのものであることが、マタイ伝の主の以下のお言葉により意味されている
天国は美しい真珠を求めている商人に似ている、彼は一つの貴い真珠を見つけたとき、行って、その持っているものを凡て売り、それを買った(マタイ13・45、46)。
『一つの貴い真珠』とは主を承認し、知ることである。
13.貯水槽
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P79
マリアよ、しかし、神を垣間見るために目覚めさせられ、導かれる必要のある人びとに、その様々な顕示によって、わたしの神性を広める役割のために貴女を選んだのだから、貴女が見ていることを繰り返すに当っては、極度に用意周到であることを思い出しなさい。どんなくだらない一句にも或る価値があるし、しかも貴女の一句ではなく、わたしの一句なのだ。だからそれをあなたが押さえておくのは正当ではない。不誠実であり利己的だといえよう。貴女は、皆がその水を汲みに来るためにそこに流れ込む神聖な水の貯水槽だということを思い出しなさい。
14.たゆまず書きなさい
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P84
‘87・3・1
今日は、一日に何回かイエスがおっしゃいました。(そばに主がおられると識別できた折りに)、「書くのが嫌にならないように、たゆまず書きなさい」と。
ヴァッスーラ 私の言葉が多くの人に知られることを 望んでいる、それらの言葉は私の口から直接発した言葉です、私によって あなたの中に吹き込まれたすべての啓示は 私からのものだからです。 このような仕方によっても私は働いているのです。 時折り すでに与えてあるすべての教えを生き生きとさせようと 私は訪れる。 私はあなたの救い主 いつもそばにいて、悪から引き離そうと構えている、私は我が言葉が人びとの心に染み通り とどまることを願いながら やって来た。 ヴァッスーラ ほかの人びとに代わって償いをしてくれるか?
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/1巻P104
覚えておきなさい、私は今でも苦しんでいる。 ヴァッスーラ なんと辛く苦々しいか、どうして、どうして私の羊たちがこんなに多く散ってしまったのか。 彼らを見なさい、私の十字架は無駄だったか。娘よ、私は、なんとがっかりしていることか、私の霊魂はなんと徹底的に打ちのめされてしまったであろう、私は苦しむ。 私の羊たちを養いなさい。 書くことに疲れてしまわないように。
霊界日記6066
勤勉な者たちは首の領域を構成していることはヘイガルト博士から明らかにされた、彼は色々な事を書き写すことで忙しかったのである、さらに、勤勉により身体と頭との交流が起こっているのである。
15.ヒマラヤ杉
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P121
信頼しなさい 私はあなたの神であるから、我が利益となるようにあなたを見守り助言を与える。ヴァッスーラ、みことばは杉の木のように高くそびえ、その枝は開いた手のように広がり、多くのくに民に届いて、貧しい者を養い、あなた方の傷も 病人も癒す。 染みを取り除き 惨めさを癒し、慰め、我が胸に引き上げ、あなた方を愛して どうやったら再び互に愛し合い私をも愛せるかを教える。 我が腕であなた方を悪から救う、皆私のものだから、愛しい者たちよ。見なさい! 見上げなさい、私の創ったものを、すべての被造物は我が意思に従っている。小さな者よ、あなたを見通すようだ! 恐れないで、私にすがっていなさい。 被造物を飾るこの燦然とした輝きが見えるか? これは我が多くの神秘の一つに過ぎない、まだ多くは隠されたままです。 選ばれた娘よ、あなたに我が心の宝を現わし あなたは英知によって豊かとなる。 小さな者よ、あなたを悦んでいる。 さあ、学びなさい:
サタンの攻撃にもかかわらず、私が望んでいる全てを あなたは書くことができよう、それが私の意思だからです。 私が誰であるかを思い出し、讃美を覚えなさい。 私が英知を与えた。英知があなたの信仰を大きくするのだと知るように。 我が霊のうちで完全な者に育ってほしい。 ヒマラヤ杉や糸杉のように高く成長しなさい あなたのうちに多くの啓示を吹き込む。 聞きなさい、あなたの枝はどれも開花し、平和と愛の実を結ぶ。 あなたの倉を我が産物で満たすつもりです。あなたの懇願を聞いた、そこで皆に歓びを与える用意がある。 今度はあなたを私の贈り物として 皆の間に留まっているようにと送る。 あなたを全人類に与える。 あなたの上に学識と思慮分別の恵みを注ぐ。 我がメッセージをすべてのくに民に運んでもらう。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P140
ダニエルの役目はあなたを私どものもとに連れ帰ることだった。 呼んだのは私です。 愛と慈しみであなたの健康を回復させた。 我が美しさであなたを魅了し、実り豊かな木、となるように 癒した。 あなたに知識と識別の雨を降らせ メッセージを書き下ろさせた。 私はあなた方皆に我が顔を現している。 英知はその富を正しい者にだけでなく 不正な者にも届けている。 あなた方皆を愛しているのです。 そこでこう言う: 我が霊のうちに成長し、ヒマラヤ杉のように枝を大きく広げなさい。 邪悪で愚かな人生を送っているすべての人を私のもとに連れ戻すために 私を運ぶ者としてあなたを育てた。我が翼に乗せ 地球の周りを連れて行く。 地上を霞のように包み、高みから深みへと、海を越えて運んで行く。 私とあなたは地球全体を我がメッセージで覆うであろう。 ヴァッスーラ、書かれてあることを悟るように努めなさい。 私はあなたの力、恐れることはない。 与えているすべての啓示は明るみに出されよう。 あなたを支え 愛している。 私の教えを受け入れなさい、弟子となるように教え導いている ♡
16.聖言を研究する者
啓示による黙示録解説255
が、真理をそれが真理であるためか、またそれが人間の自己のみでなく、その隣人に対しても、霊的生命の用に役立つために、知ろうとする情愛から聖言を研究した者たちは異なっていた。これらの者が天界へ上げられ、かくて光の中へ―神的真理はそこではその光の中に在るのであるが―入れられるのをわたしは見たのであり、同時にかれらはそのとき、永遠の生命である天使の知恵とその浄福の中へ挙げられたのである。
17.一人の者の言葉に立ってはならない
スウェーデンボルグ/天界の秘義4197〔7〕
真理はことごとく二人または三人の証人の言葉の上に立って、一人の者の言葉に立ってはならないという表象的な教会に与えられている命令は(民数記35・30、申命記17・6、7、19・15、マタイ18・16)、一つの真理は善を確認しないが、多くの真理がそれを確認するという神の律法に基礎づけられているのである。なぜなら他の真理との関連性を持っていない一つの真理は確認を与えはしないが、幾多のものが共になると、一つのものから他のものが認められることが出来るため、確認を与えることが出来るからである。一つのものはいかような形も生み出しはしないし、かくていかような性質も見出しはしないが、連続して関連づけられている幾多のもののみがそれを生み出すのである。なぜなら一つの調子ではいかような旋律も生まれないし、ましてやハーモニーは生まれはしないように、一つの真理でもまた生まれはしないからである。
天界と地獄56
天界はまた、主が承認され、信じられ、愛されている所に在る。種々の社会内の善の変化から生まれている主礼拝の変化は害をもたらさないで、益をもたらしている。なぜならそこから天界の完全さが発しているから。それがそうであるのことは、哲学者の用語を用いて、その用語によりいかにして完全なものは種々な部分から作られているかを示さなくては、理解できるように容易に説明することは出来ない。全体は各々種々の部分から存在している。なぜなら種々の部分から存在していない一つの全体は無意味なものであり、形を持たず、それ故性質も持たないから。しかし一つの全体が種々の部分から存在し、その種々の部分が完全な形をもって存在し、その中で凡ゆる物はそれ自身を他のものに、調和のある一致性をもって、連続させ、結合させているとき、それは完全なものとなっている。天界もまた極めて完全な形に排列された種々の部分からなった一つの全体である。なぜなら天界の形は凡ゆる形の中でも最も完全なものであるから。これが凡ゆる完全の源泉であることは、感覚と心とに訴える凡ゆる美、魅力、歓喜から明らかである。なぜならそれらは、秩序を以て共に存在しているか、または秩序を以て、互いに他のものの後に続いているかしているところの、多くの調和した、また一致した個々の物の一致、調和という源泉のみから存在し、流れ出ていて、ただ一つのものからは存在してはいないからである。ここから変化の中に歓びがあると言われ、その歓びはその変化に従っていることが知られている。これらの事から、天界においてすら、完全は変化から存在していることが鏡中におけるように認めることができよう、なぜなら霊界の物は自然界に存在する物を鏡としてその中に見られることが出来るからである。
啓示による黙示録解説17
約言すると、真理が先ず善から生み出すものが、かくて理解が意志から生み出すものが主要なものである。なぜならそれは爾余のものが発出してくる源泉となる種子として存在するからである。主については、主は死んだ者らから最初に生まれた方である。なぜなら主は、その人間的な方面では、神的善に結合した真理そのものであられ、主から凡ての人間は―彼らは彼ら自身では死んでいるのであるが―生きるからである。そのことがダビデの書に意味されている―
わたしは彼を、その最初に生まれた者を[長子を]、地の王たちよりも高くしよう(詩篇89・27)。
これは主の人間的なものにかかわっている。ここからイスラエルは長子と呼ばれている(出エジプト4・22、23)。
「イスラエル」により行為における真理が意味され、「ヤコブ」により教義における真理が意味されており、後のもののみではそこから教会は生まれないため、それでヤコブはイスラエルと名づけられたのである。しかし「イスラエル」によってはその最高の意義では主が意味されている。
18.兵器庫
天界の秘義6661〔2〕
原語で『倉庫』を表現している言葉はまた『兵器庫』を意味し、また同じく『宝庫』を意味されているが、それらも、その内意では、意味は殆ど同一である。なぜなら倉庫は生産された物が集められる所であって、『生産された物〔作物〕』により真理が意味され(5276、5280、5292、5402番)、その対立した意義では誤謬が意味され、兵器庫は武器が貯えられる所であって、武器により誤謬に対して戦う真理に属したものが意味され、その対立した意義では真理に対して戦う誤謬に属したものが意味されるからである(1788、2685番)。宝庫は富が貯えられる所であり、『富』と『財宝』により善と真理との知識が意味され(4508番を参照)、その対立した意義では悪と誤謬との知識が意味され、かくて『倉庫の』、または『兵器庫の』、または『宝庫の都』により、誤謬化された諸真理から発した教義が、全般的に、意味されているのである。
19.与えよ
メモ「与えよ」参照
20.何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれる
天界の秘義3773
「彼らは再びその石をその井戸の口の上のその所に置いた」(創世記29・3)。これはその間それが閉じられたことを意味していることは、その井戸の口の上の石について言われたことから明白である(3769、3771番)。聖言が教会に開かれ、後に閉じられることについては実情は以下のようになっている、即ち、何らかの教会が設立される初めには、聖言は最初その教会の人たちには閉じられているが、後に開かれるのであり、主はそのように配慮されているのである、かくて彼らは教義はことごとく以下の二つの戒めに、即ち主を何物にもまさって愛さなくてはならない、また隣人を自分自身のように愛さなくてはならないという戒めに基礎づけられていることを学ぶのである。この二つの戒めが目標とされるとき、聖言は開かれるのである、なぜなら律法と予言者の凡ては、即ち、聖言全体はこの戒めに依存しており、かくて凡ゆるものはそこから派生しており、それで凡てのものはそれに関わりを持っているからである。そして教会の人々はそのとき真理と善との原理の中にいるため、彼らは聖言に見られる凡ゆる事柄において明るくされるのである、なぜなら主はその時(彼らはそのことを知らないものの)天使たちにより彼らのもとに現存されて、彼らに教えられ、また彼らを真理と善の生命へ導き入れられるからである。
天界の秘義3773[2]
このことはまた凡ゆる教会の実情から認めることができよう、すなわち教会はその幼少期にはこのようなものであって、愛から主を愛し、心から隣人を愛したのである。しかし時が経過するにつれて、教会はこの二つの戒めから後退して、愛と仁慈の善から信仰の事柄と言われているものへ外れ、かくて生命から教義へと外れてしまい、彼らがそうしたことをするにつれ、聖言は益々閉じられてしまうのである。このことが以下の言葉の内意に意味されているところである、即ち、『見よ、野に井戸が在った、また見よ、そこには羊の群が三つその傍に伏していた、なぜならその井戸から彼らはその群に水を飲ませたからである、その井戸の口の上に大きな石が一つ置かれていた。そして群は凡てそこに共に集められた。彼らは石を井戸の口からころがし、羊の群に水を飲ませ、再び石をその井戸の口の上のその場所に置いた』。
21.サンダー・シング・・・神を知らない人々に神の言葉を伝えるべき
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P308
かつて丘の上で、わたしは一匹の蟻が食糧探しに奔走しているのをみた。蟻は種を一個みつけたが、触っただけでまた行ってしまった。種は質が悪かったかまずかったのだろうと思ったが、そうではなかった。しばらくすると、この蟻は仲間と一緒に戻ってきた。食糧を一人占めにすることなど考えもせず、皆と分かちたいと思ったのだ。
利己的な人間は、蟻に少しは学んだほうがいい。神と共に生きることからあらゆる種類の霊的祝福を受けた人は、神を知らない人々に神の言葉を伝えるべきである。その人たちもまた、神の祝福と永遠の歓喜に与れるために。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P423
わたしは、ヒマラヤ山中で、洞窟の中で裸で暮らしている野人と出会ったことがある。彼は砂糖をみたことも味わったこともなく、それを表現する言葉も知らなかった。わが友人が砂糖を手渡したところ、彼は初めのうち疑わしそうにこれを眺めていただ、一度味わうや喜びの表情を顔いっぱいに表した。食べる前には、砂糖があってもなくても彼には同じことだった。彼は実際、甘味について知り体験する前から、砂糖の甘みを味わう味覚をもっていたのだ。
同じように、人間は「実在」の感覚をもっている。実在は人間とは別個の存在ではあるが、それを感じとる力は人間の中にある。
人は罪のためにこの感覚が死に、神の存在まで否定する場合がある。それでも悔い改め、純真な心で神を求めれば、実在者は必ずや自らを現わし、人は祝福を受けることだろう。その甘美な体験を言葉に表わすことができずとも、人の生き方と行ないがその実在を証明し続ける。
このような実在を体験した人が、経験ある霊的人物の著作や話の中に自分の秘めてきた思いを発見するときには常に、「これこそ自分が人に伝えたかったことだ!」と喜びの声を上げる。こうして真理を愛する者はみな一つとなって、神と交わった個人的体験から世界にキリスト教を証言するのである。