与えよ

          

すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される(ルカ12・48)証し

 

 

1.聖書

2.スウェーデンボルグ

3.マリア・ワルトルタ

4.サンダー・シング

5.トマス・ア・ケンピス

6.マザー・テレサ

7.ヴァスーラ

8.デボラ

 

 

 

 

1.聖書

 

 

箴言21・26

 

欲望は絶えることなく欲し続ける。

神に従う人は与え、惜しむことはない。

 

 

 

イザヤ55・1

 

渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。

銀を持たない者も来るがよい。

穀物を求めて、食べよ。

来て、銀を払うことなく穀物を求めよ

価を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

 

 

 

マタイ10・8

 

 ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 

 

 

ルカ6・38

 

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

 

 

 

ルカ12・48

 

すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。

 

 

 

ヨハネ6・5−13

 

イエスは目を上げ、大勢の群衆が御自分の方へ来るのを見て、フィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われたが、こう言ったのはフィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられたのである。フィリポは、「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と答えた。

弟子の一人で、シモン・ペトロの兄弟アンデレが、イエスに言った。「ここに大麦のパン五つと魚二匹とを持っている少年がいます。けれども、こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう。」イエスは、「人々を座らせなさい」と言われた。そこには草がたくさん生えていた。男たちはそこに座ったが、その数はおよそさて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた。五千人であった。人々が満腹したとき、イエスは弟子たちに、「少しも無駄にならないように、残ったパンの屑を集めなさい」と言われた。集めると、人々が五つの大麦パンを食べて、なお残ったパンの屑で、十二の籠がいっぱいになった。

 

 

 

ヨハネ15・27

 

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

 

 

使徒言行録20・35 

 

 あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われたことばを思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。

 

 

 

黙示録21・6

 

渇いている者には、命の水の泉から価なしに飲ませよう。

 

 

 

黙示録22・17

 

渇いている者は来るがよい。命の水が欲しい者は、価なしに飲むがよい。

 

 

 

 

2.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義6478

 

 天使はたれかに善を為す時は、またその者に天使自身の善を、幸運を、祝福を伝達し、しかもそれはその他の者に凡ゆる物を与えて、何物をも自分には保留はしまいとする願いをもって行われているのである。彼がそのようにして己がものを伝達していると、その時は善が彼の与える以上の幸運と祝福とをもって彼に流れ入り、しかもこれは絶えず増大して行くのである。しかし彼がこの幸運と祝福との流入を自分自身の中に得ようとする目的から自分の持っているものを伝達しようと願う思いが起こるとすぐに、その流入は消滅してしまい、ましてや彼がその善を伝えて相手から報いを得ようとする思いが何か入ってくるなら、更に消滅してしまうのである。このことは私が多くの経験から知ることが出来たところであり、このことからまた主は個々の凡ゆる事柄の中にもおられることを認めることが出来よう。なぜなら主は凡ゆる者に主御自身を与えようと願われておられるような方であって、そこから幸運と祝福とは主の映像であり、主に似た形である者たちのもとに増大するからである。

 

 

 

天界の秘義3742

 

主はたれにでも御自身をさえ、御自身のものである一切のものをさえ与えようと欲しられ、事実、彼らが受け入れるに応じて、即ち、主に似た形、主の映像として、善の生命の中におり、真理の生命の中にいるに応じて、それらを与えられているという全人類に対する愛と慈悲から発しているのである。このような神的努力が絶えず主から発しているため、前に言ったように、主の生命は人間のものとして所有されるのである。

 

 

 

真の基督教277

 

天使たちのいるある家の中に、私は多量の銀の入っている幾千かの袋を眺めた。袋は開いており、誰でもその銀を盗むことが出来るように見えたが、近くに、二人の若者が警備として坐っていた。(中略)銀の一杯入っている袋は非常に豊富な真理に関する知識を意味し、それが開いていて、しかも若い人々によって警戒されていることは、何人でもそこから真理に関する知識を獲得することが出来るが、純粋な真理から成り立つその霊的な意義に暴行を加えてはならないことを意味した。

 

 

 

スウェーデンボルグ/主の聖言1/(静思社「仁慈の教義」に併録)

 

大きな財布を見ることを許された、それは大袋のように見え、その中には銀が非常におびただしく隠されていた、この大袋は開いていたからには、たれでもその中に置かれている銀を取ってもよい、実にそれを盗んでもよいかのように見えたが、しかしその大袋の近くには二人の天使が坐っており、彼らは警備の者であった。その大袋が在った所は馬屋の中の飼い葉桶のように見えた。次の室には慎ましい処女たちが一人の貞淑な妻と共にいるのが見られ、またその室の近くには二人の幼児がいたが、その者たちを子供をからかうようにからかってはならない、賢明に応接しなくてはならない、と言われた。後になって一人の娼婦が現れ、続いて一頭の馬が死んで横になっているのが見えた。その時、霊的な意義を含んでいる聖言の文字の意義がこのように表象されていることが認められた。銀が一杯つめ込まれているその大きな財布は、非常におびただしい真理を含んでいる幾多の知識を意味したのである。その財布が開いてはいたものの、それでも天使たちにより守られていたことは、たれでもそこから真理の幾多の知識を取り出してもよいが、その内的な意義が ― その中には真実なもの以外には何ものも存在してはいないが、その内的な意義が ― 誤謬化されないように注意が払われねばならないことを意味したのである。

 

 

 

持っているものを凡て各々の者に分け与え、また各々の者はその持っているものを凡てこの交わりから得ている

 

天界と地獄73

 

それがそうであるのは、天界は一つの交わりの団体であり、即ち、その持っているものを凡て各々の者に分け与え、また各々の者はその持っているものを凡てこの交わりから得ているためである。天使は受容体であり、かくて前のそのことを取り扱った章で示したように、最小の形の天界である。人間もまた、天界を受けるに応じて、益々受容体となり、天界となり、また天使となっている(前の57参照)。

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P39

 

おまえたちは何だろう? どういうものになるべきか? おまえたちは地の塩である。塩は肉とか他の食物とかを腐敗から守る。しかし、塩自身、塩気がなければ塩漬けができるだろうか。私は、天の味を受けるように、おまえたちをもって、この世を塩漬けしたいのである。しかし、自分にあるべき味を失うならば、おまえたちは、どうして他人を塩漬けできるだろうか。

 

 おまえたちにあるべき天の味を失わせるものは何か。“あまりにも人間的であると言うこと”である。真の海の水はあまり塩辛くて飲めない。それでも海の水のコップ一杯を甘い水(真水)の樽に注ぐならば、それを飲めるようになる。それはなぜかというと、海の水は薄められてその辛さを失ったからである。人間性は、おまえたちの天の辛さに混ざる甘い水のようである。そしてまた、海の水の一筋をこの湖の水に入れるとすれば、のちに塩辛い海の水の一筋を識別することができようか。いいや。これほどの甘い水の中にとけこんでしまうからである。おまえたちが、自分の人間性を自分に与えられる使命に入れる時に同じようなことが起る。おまえたちは、人間であるのを私はよく知っている。しかし私はだれか? 私はすべての力を持っている者である。そして私はどうするか?

おまえたちを選んだ以上、おまえたちの中に、この力を注ごうとする。しかし私が注ぐこの力をおまえたちは、あまりに人間的な感情、肉体的な邪欲の中に散らしてしまうならば何の役に立つだろうか。

 

 おまえたちは、この世の光であって、そうであるべきである。人間の中の神の光である私は、おまえたちを選んだ。これは私が父のもとに戻ってからおまえたちが、この世を続けて照らすためである。しかし、おまえたちが、消えた、それとも煙ばかり出している灯りであるならば、光を与えることができるだろうか。否、消えつつある小さい灯が、その煙りでもってするように、おまえたちは人の心にまだ残っている、そのかすかな光さえも暗くするだろう。神を知ろうとして使徒たちを求め、そして光の代りに煙しか見つからない人々は何とあわれなことか。そこにはつまずきと死しかない。しかし、ふさわしくない使徒は呪いと罰に値する。おまえたちの使命は偉大である。しかし同時に偉大な恐るべき任務(つとめ)、責任でもある! 多く与えられた人は、多く与える務めがあるのをよくよく心得よ。おまえたちには、知識と賜との最高のものが与えられている。おまえたちは、神のみ言葉である私に教えられ、そして“弟子”すなわち、神の子の継続者であるという賜を神から受ける。

 

 私はおまえたちに、自分の選択を絶えず黙想し自分自身を知るように自分の心の中を探ってもらいたい。そしてもしだれかが、自分はただ一人の信仰者としてはふさわしいものであるが、しかし自分の中に使徒の真髄を感じないならば、その人は退くべきである。世間はそれを好きな人にとって広く、美しく、いろどりで心を満たすかのように見える。世間は腹と感覚とにふさわしいすべての花と、すべての実をささげる。それに対して私は一つのことしか与えない。“聖徳”を。これはこの世で最も狭い、貧しい、けわしい、とげだらけの虐げられるものである。天では、その狭さは普遍性に変わり、その貧しさは富に、そのけわしさはゆるやかな楽な道に変わり、その荒いとげは花咲く絨毯、その虐げは平和と至福に変わる。しかし、この世では聖であることは英雄の苦労である。そして私はこれしか約束しない。

 

 おまえたちは、私と一緒に残りたいか。それはできない、と感じるか。おお、驚きと苦しさで自分を省みるな。私の口から、今後もまた何回もこういうふうな質問を聞くだろう。そして、これを聞く度ごとにこの質問をする私の心が泣いていると考えよ。なぜなら召し出しに対してのおまえたちの鈍さに傷つけられているからである。その時に自分を調べよ。そして真実に正直に判断してどちらか決めよ。亡びるものとならないようにはっきりと決めよう。『先生、友だち、仲間たちよ、私はこの道を歩くのにふさわしいものではないと分かった。あなたたちに別れの挨拶を送り、私のために祈ってくれと頼む』と言え。裏切るよりもこの方がよい。・・・この方がよい。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻中/P110

 

 より多く与えた者たちは、より多く自分を忘れた者たちです。

 自分自身を忘れることは骨の折れることです。人は記憶の積み重ねであり、一番声高なのは自我そのものの記憶です。この自我とこの自我とを区別しなければなりません。を記憶し、自分はから来たという自らの起源を記憶する霊魂によって与えられる霊的自我があり、自分自身と、情念を専ら包含する無数の要求を記憶する肉の劣等な自我があります。またこの数々の情念は―一つの合唱になるほど多くの声であるから―またもし霊魂がよほど強靭でないと、の子というその卓越性を記憶する霊魂の孤高の声を制圧してしまいます。それゆえ― 一層刺激を与え、生き生きと力強く保持していなければならないこの聖なる記憶によらなければ―弟子として完全であるために、ありとある記憶、要求、人間的自我の小心翼々たる思慮において、自分自身を忘れることが出来なければならないのです。

この最初の試みにおいて、わたしの十二人の使徒の中で一番成果を上げたのは、自分を忘れていた者たちです。彼らの過去を忘れていただけでなく、彼らの限界にある人格までも忘れてしまいました。彼らは、自分がどうであったかを最早思い出さず、何も恐れないほどと融け合う者たちです。他の何者でもありません。

 誰かはなぜよそよそしく、打ち解けないのですか? なぜなら彼らの習わしとなった疑念、彼らの習わしとなって考察、彼らの習わしとなった偏見を思い出すからです。他の人たちのあの寡黙さをなぜですか? なぜなら彼らの教えの無力さを思い出し、恥じをかくのを、あるいはわたしに恥をかかせるのを恐れるからです。更に、他の者たちのあの自己顕示欲はなぜですか? なぜならこの者たちは、彼らの習わしとなった傲慢、目立ちたい、世の喝采を浴びたい、頭角を現わしたい、『ひとかどの人物』でありたいという願望を思い出すからです。最後に、ある者たちが確実で、説得力をもち、勝ち誇る律法学者のような雄弁で、他人に即座に自分を明らかにするのはなぜでしょうか? なぜなら、この者たち、そしてこの者たちだけが―その時までは謙遜で、人目を避けて生きることを願い、適時とみるや途端に自分に授けられた首位の威厳を発揮することを知り、決してうぬぼれることのない者たち―神を思い出すことを知っているからです。最初の三つの部類は、劣る自我を思い出している。別の、四番目のそれは最高の自我であり、恐れなかった。神を自分と共に、自分のうちに神を感じているので恐れることがなかった。おお! 神と共に在ることから来る聖なる大胆さよ!

 今、あなたたち、使徒、弟子たち、あなたたちよ、聞きなさい。あなたたち使徒はこの概念をすでに前にも聞きました。今はそれらをもっと深く理解するでしょう。あなたたち弟子は、まだこの概念は聞いたことがないか、断片的にしか聞いていません。それらを心に刻む必要があなたたちにもあります。キリストの群はますます増加するだろうから、わたしはますますあなたたちを使うでしょう。なぜなら、世は、その中心、牧者であるわたしに対して、またわたしの群に対して逆らう狼を増加させて、ますますあなたたちに襲いかかるだろうから、わたしは教義とわたしの群を防衛する武器をあなたたちに持たせたい。群は充分でも小さな羊飼いたちのあなたたちは充分ではありません。血を苦くするか、それとも欲望を錯乱させる草を食んで誤りを犯すことが羊たちに許されるとしても、あなたたちが同じ間違いを犯して多くの群に破滅をもたらすことは許されません。なぜなら、偶像的羊飼いがいる所では、羊たちは毒によって、また狼の襲来によって滅びると考えなさい。

 あなたたちはの塩であり、世の光です。しかしもしあなたたちの使命が欠如するなら、味気の無い、役に立たない塩になるでしょう。あなたたちはそれを贈物として頂戴しながら、それを人間性という気の抜けた汚れた水で塩抜きし、官能の腐敗した甘味料でそれを甘ったるくし、の生っ粋の塩に塵芥(ちりあくた)を、傲慢、貪欲、暴飲暴食、色欲、憤怒、怠惰、嫉妬という塵芥を塩の一粒が、それぞれ七つの悪徳を七倍するように混ぜ合わせたのだから、はそれを再びあなたたちに与えることは出来ないし、最早何ものもあなたたちに再び味をつけることは出来ないでしょう。その時、あなたたちの塩は方向を失った惨めな塩粒の石、歯の下で耳障りな音を立て、口中に土の味を残し、料理をまずくし、口から吐き出される石以外の何ものでもなくなります。食用外での使用にも適さないとすれば、人間的任務に対しても、七つの悪徳の中に振りかけられた一つの知識はどんな害を及ばすでしょう。その時、その塩は地上に振り撒かれ、民の無頓着な足で踏みつけられるしかありません。どれだけの、どれだけの民はこのようにしての人びとを踏みつけることでしょう!なぜならこの選ばれた人たちは、選ばれた者の、天的な者の味を持つからこそ受け入れられるのに、最早その実質が無い単なる屑となり、無頓着に踏みつけられることを民に許したのだから。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/受難の前日/P152

 

主:「あなたは、いつでも私の友人たちに対して寛大に屋根を貸してくれました。本当にありがたいと思っています・・・」

ラザロ:「これからもずっとそのようにしたいと思っています。けれども、あなたのおっしゃったことは少し違います。先生・・・私はあなたに寛大であったとは言えません・・・むしろあなたの方が私に対して限りなく寛大でした。負い目があるのは私の方です。あなたが私にくださった宝物に対して、私がお返しできるものは何もありません・・・。

 

 いつか、あなたは言われました。『与えよ、そうすれば与えられる。押し入れ、詰め込み、あふれるほどの物を懐に入れてもらえる』と、あなたは言われました。与えれば、与えた物の百倍を返してもらえると言われました。

 

 実際、私がまだ何一つ与えていなかった時に、すでにあなたは、百倍の百倍ものものを寛大にお与えくださいました。

 セラフィムさえも近づけないあなた、ああ私の主よ、神よ、悲しみと孤独の中にいた私に、あなたは訪れてくださいました・・・(後略)」

 

 

 

マリア・ワルトルタ22・11/天使館1巻P181

 

聖母がマリア・ワルトルタに:

 

神の賜物はわたしたちをますます善人にするはずです。神から最高に受けるなら、わたしたちは最高に与えなければなりません。最高に受けるのは、彼がわたしたちの内にわたしたちと共におられるしるしだからです。彼は最高にわたしたちの内にわたしたちと共におられるから、わたしたちはその完全さに到達するように努力しなければなりません。

わたしが自分の仕事を後回しにしてエリザベツのために働くわけはそこにあります。わたしは時間がないという恐れに身を任せません。神は時間の主人です。普通のことでも彼に希望する者に対策を講じてくださいます。エゴイズムは急がず、遅れる。愛徳は遅れず、急ぐ。いつもこれを忘れずにいなさい。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/復活/P104

 

そして私があなたに贈る様々の宝石を寛大に喜びをもって、待っている人々に与えなさい。私はあなたの小さな手を宝石でいつまでも満たすでしょう。恐れる事はない。与えなさい。与えなさい。あなたは小さい人々のために尽きる事のない宝石箱をもっている。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々/1巻P313

 

老ヨハネ(マリア・ワルトルタのそばにいた神父様のこと)に、たくさんの平和と豊漁とを与えると伝えなさい。あなた(マリア・ワルトルタのこと)には漁がない。私が与える糸で網を作るという女性的な業だけをあなたに与える。働きなさい、働きなさい・・・他のことができないという考えを捨てなさい。この仕事にはすべてがある。そしてまた“あなたに平和”と言いに来ないからと言って気にするな。人にあいさつをするのは、到着したときと出発するときであって、いつも一緒にいるときにはしない。一緒にいることは、もはや平和である。そして、あなたは私の客ではない。あなたはすっかり私の腕の中にいて、片時もあなたから離れたりしない。この世にいたときの私について、言いたいことがたくさんある! しかし、きょうはあなたを喜ばせたいので“あなたに平和”と言おう。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P45

反キリストの軍隊はすでに行動を開始している。

‘44年8月5日

 

 わたしのことを怖がってはならない。わたしがあなたたちに姿をあらわすのは、あなたたちを高めるためであって、あなたたちを灰に帰するためではない。立ち上がりなさい。恩恵を受けるよろこびがあなたたちに生きる力を与えるように。わたしがあなたたちに天を示したからといって、もうそれで救われたと思いこみ、無気力な麻痺状態に沈みこんではならない。人々のあいだに共に立ち交じろう。わたしはあなたたちが、わたしにとってより大きな助けとなるように、超人的なヴィジョンと教えとを用いて、あなたたちを超人的なわざにいざなったのだ。わたしはあなたたちを、わたしのわざに参与させるのだ。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6卷下P4/411.1

 

(主が刈り入れをしている農夫たちに)

「主に感謝なさい。そして感謝は言葉だけでなく、行動で示さなければならないことは、分かっていますね。収穫のとき、憐れみの心を忘れないでください。憐れみ深いいと高き方が、あなたがたの畑に露と日光を送ってくださったから、十分な収穫がありました。申命記の教え(*)を思い出しなさい。から贈られた富を収穫するときは、何も持たない人のっことを考えて、一部を残しておきなさい。それは聖なる放棄で、それ自体、隣人愛の行為ですが、はそれをご覧になります。欲張って収穫するのではなく、進んで与えなさい。は気前のよい人を祝福されます。受けることより、与えることのほうが幸いです(**)。なぜなら、正しい方であるは、思い遣りのある人にますます豊かな報いをお与えになるからです」。

 

*教え。申命記24・19

**受けるよりも与えるほうが幸いです。この言葉は福音書には書かれていないが、使徒言行録20・35で言及されている。547・2と596・17でも語られる。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P79

‘44.1.25

 

マリアよ、しかし、を垣間見るために目覚めさせられ、導かれる必要のある人びとに、その様々な顕示によって、わたしの神性を広める役割のために貴女を選んだのだから、貴女が見ていることを繰り返すに当っては、極度に用意周到であることを思い出しなさい。どんなくだらない一句にも或る価値があるし、しかも貴女の一句ではなく、わたしの一句なのだ。だからそれをあなたが押さえておくのは正当ではない。不誠実であり利己的だといえよう。貴女は、皆がその水を汲みに来るためにそこに流れ込む神聖な水の貯水槽だということを思い出しなさい。

 

 

 

マルコ12・41

 

イエスは賽銭箱の向かいに座って、群集がそれに金を入れる様子を見ておられた。大勢の金持ちがたくさん入れていた。ところが、一人の貧しいやもめが来て、レプトン銅貨二枚、すなわち一クァドランスを入れた。イエスは、弟子たちを呼び寄せて言われた。「はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。皆は有り余る中から入れたが、この人は、乏しい中から自分の持っている物をすべて、生活費を全部入れたからである。」

 

 

 

ルカ21・1−4

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難/P106

 

 

 

 

4.サンダー・シング

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書236

 

六.多くの者に救いをもたらす偉大な奉仕がなされるときに、わたしはこの世界からはほとんど評価されない者たちを、自分の目的のために選びとることがある。それは、彼らが自らの力と知恵を誇ることなく、わたしに全託し、自分のもつささいな能力がどれほど無価値なものであるかを知って、自分のもつすべてを、人々に向けられたわたしの仕事に注ぎ込むためである。

例えば、荒野で五つのパンと二匹の魚で五千人に給食したとき、わたしが弟子たちの手を借りずにこの奇蹟を行ったことをあなたは覚えているだろう。弟子たちは疑いと当惑でいっぱいになり、群集を飢えたまま帰そうとしていたからである。

あのとき、わたしに仕えたのは、中風から癒された一人の少年だった。わたしの話をききたい一心で、彼はわたしに付いてゆく決心をしたのだ。貧しかった少年の母は、二、三日分の食糧にと、何枚かの大麦パンと乾し魚二匹を布にくるんでもたせた。群集に食べさせる食糧探しが始まったときに、この少年は自分のもっているものすべてをすぐさま差し出し、弟子たちの足元にこれを広げたのである。小麦パンのようなはるかに質のよい食物を携える裕福な者たちもいたが、彼らは自分の食糧を放棄しようとはしなかった。そこで、この少年の大麦パンとわたし自身の祝福によって、五千人の群集は最善の食糧を得たのである。

 

 

七.感謝の気持ちに欠けるあまり、どのような祝福が与えられようと、たとえ彼らのために奇蹟を行っても満ち足りない恩知らずな者たちがいる。このような人々は奉仕と祝福の道具には決して使うことができない。彼らは、三十八年間不治の病を患った後でわたしに癒された男と同じである。彼はわたしに感謝することも、わたしを信頼することもなく、わたしの名を覚える労すらとらなかったからだ。このような人からは、世界は何の祝福も期待できない。あの貧しいやもめのように、自分のもっているものすべてをすすんで投げ出す者からしか、祝福はこないのである。

 

 

 

 

5.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・7・2

 

主は凡ゆる良きものを与え、その上になお御自身をさえ与えたいと望んでおいでになるのである。

 

 

 

 

6.マザー・テレサ

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P30

 

 いやいやながらとか義務とかと感じながらではなく、ひとりひとり、自分自身で決心した時のように、喜んで与えなくてはなりません。神は喜んで与える人を愛しておられるからです。神は、喜んで与える人に多くの恵みをお与えになります。あなたの奉仕の場で、ほほえみながら喜んで貧しい人たちを受け入れることが難しいと感じるなら、いつでも、こう思いなさい。神と人々にあなたが感謝を表す最善の方法は、すべてのことを喜んで受け入れるということなのだ、と。

 

 

 

マザー・テレサ/日々のことば/女子パウロ会/P47

 

ある時、物乞いをしている人が私のところへ来てこう言いました。「みんな、あなたに何か差し上げています。私も何か差し上げたいんです」そして彼は10パイサのコインを差し出しました。もし私がこのコインを受け取ったら、彼は飢えることになるでしょう。けれど、もし受け取らなければ、彼はきっと悲しむでしょう。

私は受け取りました。その時私は、彼からのこの贈り物はノーベル賞よりもずっとすばらしい、と感じたのです。なぜなら彼は、彼の持っているすべてを私に差し出してくれたのです。私は彼の顔にはっきりと与える喜びを見ることができました。

 

 

 

 

7.ヴァスーラ

 

 

ヴァッスーラ/私の天使ダニエルPLIII

 

私は(霊的に)あなたを養っている、食物を与えに来た。どうか他の人たちにもこの食物を与え 助けてあげるように。彼らを生き返らせ 私のもとに導いてもらいたい。私はあなたを養い 生き返らせ 芳しい香りで覆った。他の者たちも養いなさい。助けてあげ 私のもとに連れて来なさい。あなたを慈しむ、私に従ってほしい。この食物を与えて 特別の好意をあなたに示した。他の人たちもそれを喜ぶことができるよう、同じものを与えなさい。

 

 

 

 

8.デボラ

 

 

世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P76

 

イエズス:「私の愛は、あなたのそれよりももっと大きい。それをあなたの心に取り入れなくてはならない。それから、あなたがそれを無償で受けたように、無償でそれを兄弟たちに与えなければならない。これが私の教えである。」