天使の喜び

人間は死後、天使たちから教わる

 

 

1.聖書

 

 

 

 

1.聖書

 

ルカ15・7

 

言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。

 

 

 

ルカ15・10

 

言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。

 

 

 

天界の秘義2077〔2〕

 

主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じ難いものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何ら顧みはしない。否、出来ることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦も厭いはしないのである。ここから死んだ者たちから甦りつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。

 

 

天界の秘義2704

 

「その子供に飲ませた」。これは霊的な諸真理を教えることであり、『子供』の意義は真理の方面の霊的なものである(2697番参照)。この節にとり扱われているところの、教えられる状態であるこの状態は、剥奪されまた荒れすさんだ状態から出て来つつある者たちの第三の状態である。なぜならかれらは(前の18節にとり扱われているところの、2699番を参照)明るくされる状態または天界の光の状態の中へ入ってくると、そのときかれらは諸真理を知り、また学ぼうとする情愛の中におり、かれらがこの情愛の中にいるときは、容易にまたいわば自発的に諸真理に浸透するからであり、すなわち地上にいる者たちは主の聖言からまたは教義から諸真理に浸透し、天界にいる者たちは天使たちからそれに浸透するのであって、天使たちは新たに霊界に来た兄弟たちに天界の秩序に属している諸真理と諸善とを教えて、それらを彼らに浸透させかくして彼らを主に導くことにまさっていかようなことをも祝福された、幸福なこととは認めていないのである。

 

 

天界の秘義5249[2]

 

こうしたことが、この物語りが人間に読まれているとき天的な天使たちが考える事柄であり、さらにこうしたことを考えることが彼らには極めて楽しいのである、なぜなら彼らは主の神的なスフィアの中におり、かくていわば主の中におり、主のことを考え、また主が御自身の中に人間的なものを神的なものにされたことによって人類を救われたことを考えているとき、最も深い喜びを認めるのである、それで天使たちはこの最も天界的な喜びの中にとどめおかれると同時に、知恵の中にも留めおかれるために、その神的な経過が聖言の内意に充分に記されると同時にその中には人間の再生の経過も記されているのである、なぜなら人間の再生は主の栄化の映像であるからである(3138、3212、3296、3490、4402番)。天使たちが何について共に話し合うであろうか、引いては天使となる人間は死後何について話し合うであろうかと不思議に思われる方もおられようが、しかしその方たちは、それは聖言の内意に含まれているような事柄について、すなわち、主の栄化、その王国、教会、愛の善と信仰の真理による人間の再生について話し合われているのであるが、しかし彼らはこれらの事柄については、その大部分は表現を絶した秘められた事柄により話していることを知らなくてはならない。

 

 

天界の秘義5511

 

天使たちが抱いている喜びは主に対する愛と隣人に対する仁慈から発している、すなわち、彼らが愛と仁慈との事柄を遂行する用の中にいるとき(そこから発しており)、その中には全く表現できないほどにも大きな喜びと幸福とが在ると言われるなら、このこともただ自己と世への愛のみから発している喜びの中にいて、自己のためでなくては隣人に対する愛から発する喜びの中には何らいない者には刺々しいことであるが、それでも天界と天界の喜びは人間の中に、人間がその遂行する用の中に自己を顧慮する思いが死滅するとき、初めて始まるのである。

 

 

天界の秘義6391

 

「彼は休息の良いことを見」。これは報酬のない善の業は幸福に満ちていることを意味していることは以下から明白である、すなわち、『休息』の意義は天界に属しているものであり、かくて報酬なしに仁慈の善の中に、または善の業の中に在るものであり(そのことについては以下を参照)、『それは善いこと』の意義はそれが幸福に満ちているということである。

 

 

 

天界の秘義6391[2]

 

この主題そのものについては、報酬を唯一の目的として善を為す者は、報酬なしに善を為すことの中に天界の幸福そのものであるほどにも偉大な幸福が在ることを到底知ることはできないのである。その無知の理由は、彼らは自己への愛の歓喜の中に幸福を認めており、彼らがこの愛の中に歓喜を認めるに比例して、天界的愛[天界の愛]の中に歓喜を認めはしないということである、なぜならそれらは対立したものであるからである。自己への愛から流れ出る歓喜は天界的愛から発している歓喜を全く消滅させるため、天界的歓喜のいかようなものであるかは絶対に知られないし、もしその性質が告げられても、それは信じられはしないし、否、否定されてしまうほどにもなっている。

 

 

天界の秘義6391[3]

 

その歓喜が死滅した時に天界の歓喜が始まると告げられるなら、その聞いたことに驚き、この天界的歓喜は人間の内部を通して流れ入って、彼の内部に表現を絶した幸福感を与えることを聞くと、さらに驚き、自分たちはそれを把握することはできない、否、自分たちはそれを把握したくはないと言うのである、なぜなら彼らは、もし自分たちが万一自己への愛の歓喜を失うとするなら、そのときは生命の凡ゆる喜びを剥奪されてしまうため、非常に悲惨なものになる、と信じているからであり、また彼らは自分らとは異なった状態の中にいる者たちを単純な者と呼んでいるのである。

 

 

天界の秘義6392

 

更に報酬のない善の業の中の幸福に関係していることについては、現今では極めて僅かな者しか、報酬の目的なしに善を為すことに天界の幸福が在ることを知ってはいないことを知られたい、なぜなら彼らは名誉を与えられること、他から仕えられること、富に溢れること、快楽の中に生きること以外に何らかの幸福が在ることを知らないからである。これらのものの上方に、人間の内部を感動させる幸福が在り、かくて天界的幸福が在り、この幸福は純粋な仁慈の幸福であることを彼らは全く知らないのである。現今の賢人たちにこれが天界の幸福であることを知っておられるか、否かと尋ねてみられよ。ここからまた多くの者は、たれ一人良い業を自己功績を顧みることなしには行う筈はないと信じて、それを斥けているのである、なぜなら彼らは主によって導かれる者は、善い業ほどに為そうと願う物はなく、またその業による功績ほどに考えない物はないことを知らないからである。これは再生しつつある者に主から与えられる新しい意志の中に存在しているのである、なぜならこの意志はその人間の中にある主の意志であるからである。

 

 

真の基督教694

 

彼らは言った「永遠の休息は怠惰ではありません。何故なら、怠惰は心と身体に無気力と眠気とを生ぜしめるからです。これらは死であって、生命でなく、まして天使たちの楽しむ永遠の生命ではありません。永遠の休息は無気力と眠気を追い払い、人間の心を高め、その心に興味を感じさせることによって人間を生かします。而して、このことは或る快適な有用な業に携わることによってのみ為されます。全天界は主から諸々の用の劇場と見做され、各人はその用に応じて天使であります。用への愛は、流れが船を運んで行くように、彼を運び、彼に永遠の平和と静寂とを受けさせます。これが勤労からの永遠の休息の意味です。天使は心を有用に用いることによって活力を与えられることは、人は凡てその用への愛に従って気力、精力、結婚の歓喜を持ち得るという事実によって明白であります。」

 

 

真の基督教734

 

彼らは尋ねた「天界の喜びとは何ですか」。天使は答えた「それは自己と他の者とに有用な業を為す歓びであり、その本質を愛から得、その顕れを智慧から得ております。愛と智慧から生ずる用の歓びは、凡ゆる天界の喜びの生命であり、魂であります。諸々の天界には、天使たちの心を楽しませ、その身体を爽快にする社交的な集会がありますが、これらは或る有用な業を遂行した後の休養であります。これが彼らの幸福の凡ての生命であり、霊魂であります。これが取り去られるならば、その従属的な快楽はその魅力を失い、先ず冷淡を、次に嫌忌を、最後に悲哀と心労を生ぜしめることでしょう。」

 

 

 

天界と地獄71

 

 天界の一つの社会の中に多くの者がいるに応じて、そしてその者たちが一致して活動するに応じて、益々その社会の人間としての形は完全になることは注目に価する、なぜなら前に述べたように(56)、天界の形をもって配置された変化は完全を作り出し、そして多くの者がいるところには変化が生まれるからである。更に天界の社会各々は日毎にその構成員を増し加えられており、それが増し加わるに応じて、益々完全なものになっている。それで単にその社会のみが完全になるのみでなく、天界も全体として完全になっている、なぜならそれは諸々の社会から構成されているから。天界は構成員が増し加わることから完全に増して行く以上は、天界は満員になって閉じられるかもしれないと信じている者はいかに欺かれているかは明らかである、それどころか、天界は決して閉じられはしないで、充実するに応じて、益々完全になってゆくのである。従って、天使たちは、自分たちのもとへ新しい天使の客が来てくれることを何ものにもまさって望んでいる。

 

 

 

天界と地獄393

 

 世で名誉や利得のためではなくて、生命の用[益]のために、自分自身のためにも、他の者のためにも、聖言を愛して、その中の真理を熱心に求めた者たちは天界では教会の仕事に携っている。これらの者は用を愛し、用を求めるに応じて、そこに明るくされ、知恵の光の中におり、その光の中へまた天界の聖言から入って行くのである。天界の聖言は世のように自然的なものではなくて霊的なものである(前の259を参照)。これらの者は説教者の務めを果たし、そのことでも神の秩序に従って、明るくされているため、知恵で他の者に優っている者たちは高い地位にいる。世で国を愛し、その共同の善を自分自身の善よりも愛し、公正なものを愛して、公正なことを為した者たちは社会的な務めにたずさわっている。彼らは公正なものを愛の熱意から調べて、そのことにより理知的なものとなっているに応じて、天界で業務を施行する能力を持っており、その理知に一致した地位または度においてそれを施行しており、その理知は共同の善に対する用[益]を求める彼らの愛と同じ度のものである。更に、天界では余りにおびただしいため列挙することも出来ないほどにも数多い任務、行政、職業があり、世のものはそれに較べると僅かしかない。いかほど多くいようとも、凡ての者は、その仕事を楽しみ、用への愛から働き、誰一人自己または利得を求める愛からは働いていない。また誰一人生活のための利得を愛していない、なぜなら生活に必要なものは凡て彼らに無代価で与えられているからである、すなわち、彼らは無代価で家庭を持ち、無代価で着物を着、無代価で食事をとっている。従って用にまさって自分自身と世とを愛した者らは天界では全く何の分も持っていない、なぜなら各々の者自身の愛または情愛はその世における生命後も彼のもとに存続して、永遠に根絶されはしないからである(前の363参照)。

 

 

 

天界と地獄450

 

 天使たちは実際彼のもとを離れるのではなく、彼が自ら彼らから離れるのである。なぜなら天使たちは各々の者を愛して、親切に務めを果し、教え、天界に入れることを何ものにもまさって願い、そのことが彼らには最高の歓びであるからである。

 

 

 

新しいエルサレムの教義105

 

自己と世への愛を目的としている者らは決して仁慈の中にいることは出来ない。彼らは仁慈とは何であるかを知りさえもしない、彼らは報酬を目的としないで隣人に善を欲し、それを行うことが人間の中にある天界であり、その情愛の中には天界の天使の幸福のような大きな幸福があって、それは表現を絶したものであることを些かも理解することは出来ない、なぜなら彼らはもし栄誉と富から来る歓喜が奪われるならば、最早いかような歓喜も与えられることは出来ないと信じているからであるが、しかし他の喜びに無限にまさった天界的な歓喜が初めて始まるのは実にその時なのである。

 

 

 

霊界日記5790イ

 

こうした者(自己愛により他を支配しようとする者)でない者たちはその者たち自身の家で静かに暮らしている。彼らは彼ら自身の持っている物で満足し、彼らに課せられた義務を遂行している。これらの者は天界の喜びを享受している。なぜならそれが彼ら自身の中に在って、彼らの外側には存在しないからである。