人間は死後、天使たちから教わる
1.異教徒は、神は人間となられて、御自身を世に示されたことを聞くと、すぐにそれを承認して、主を崇め
2.天使たちは各々の者を愛して、親切に務めを果し、教え、天界に入れることを何ものにもまさって願い
3.そのように生活する者は教えられることを愛し、そして教えられることを愛するため、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受ける
4.善良な生活を送り、神を信じた者は凡て死後天使により教えられるように定められており
5.虚偽を確信した者達は、真理を認めることは出来ず、また之を認めようとも欲しない
6.偶像崇拝者の無垢
7.彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される
8.彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいない
9.スウェーデンボルグは天使に教えられた
1.異教徒は、神は人間となられて、御自身を世に示されたことを聞くと、すぐにそれを承認して、主を崇め
私は多くの方法で以下のことを知ったのである、すなわち、服従し、従属して道徳的な生活を送り、己が宗教に従って相互的な仁慈に生き、かくして多少なりと良心を受けた異教徒たちは、他生では受け入れられ、そこで天使たちから細心の注意をもって信仰の善と真理とを教えられる、彼らは教えを受けているときは、慎ましく理知的に、また賢明に振舞い、容易に真理を受け入れて、これを用いるのである。彼らは、信仰の諸真理に反していて、払い落としてしまわねばならない、誤った主義を自ら形作ってはおらず、まして、主を普通の人間としてしか考えていない多くの基督教徒のように、主に対し恥ずべき考えは持っていない。それどころか異教徒は、神は人間となられて、御自身を世に示されたことを聞くと、すぐにそれを承認して、主を崇め、神は天と地との神であられるから、また人類は神のものであるから、神は御自身を完全に示されたのであると言うのである。
天界の秘義2284[5]
仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることが出来よう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれと願った異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入って来る者に教えることに優って歓ばしい、また祝福されたものは一つとして無いからである。
天界の秘義2590
私は多くの方法で以下のことを教えられた、すなわち、異邦人でも道徳的な生活を送って従順であり、相互愛に生き、その宗教に応じて何らかの種類の良心を受け入れた者は他生で受け入れられ、そこで天使たちから入念な配慮の下に信仰の幾多の善と真理とを教えられるのである。彼らは教えを受けている間、慎ましく、理知的に、賢明に振舞い、容易に教えを受け、またそれに滲み込むようになるのである。なぜなら彼らは、悪い生活を送った多くの基督教徒とは異なって、取り払ってしまわなくてはならない信仰の諸真理に反した原理を自ら形作ってはいないし、ましてや主に対し彼らを躓かせるものは何一つ形作ってはいないからである。更にこのような者たちは他の者を憎まないし、危害を加えられても復讐もしないし、また術策や詐欺を企みもしない。否、彼らは基督教徒に善意は抱いているが、これに反し基督教徒は彼らを軽蔑し、為し得る限り暴行を彼らに加えるが、しかし彼らは主により彼らの無慈悲から遠ざけられて、守られているのである。
2.天使たちは各々の者を愛して、親切に務めを果し、教え、天界に入れることを何ものにもまさって願い
天界と地獄450
天的な天使たちは復活する者と共になると、各々の者を愛しているため、その者から離れないが、しかしその霊が天的天使たちと長く交わっていることが出来ないようなものであると、彼は彼らから離れようと欲する、そうしたことが起ると、主の霊的王国から天使たちが来てその者たちにより光を用いることが出来るようになる、なぜならそれ以前は彼は何物も見ず、ただ考えるに過ぎなかったからである。これがどのようにして為されるかもまた示されたのである。天使たちは、眼が開かれて、見ることが出来るように、左の目の膜を鼻梁の方へいわば巻いて取るように見えた。その霊には実際そのように為されるように見えるが、しかしそれは外観である。その膜が巻かれて取り去られたように見えると、光が多少見えるが、しかし、それは人間が初めて目を覚まし、まぶた越しに光を見る時のように、かすんで見えるのである。このかすんだ光は私には空の色のように見えたが、しかしそれは多少変化して見られると後で私は言われた。それから何かが顔から柔かに巻き取られるように感じられ、それが為されると、霊的な考えが生まれてくるのである。顔から何かを巻き取ることもまた外観である。なぜならそのことにより霊は自然的な思いから霊的な思いへ移ることが表象されるからである。天使たちは、その甦りつつある者から愛に関係した考え以外の考えが起らないように極度に注意して、それからあなたは霊であると彼に告げる。霊的な天使たちは、光が用いられてからは、その新しい霊がその状態において望むことの出来る一切の務めをその霊の為に行ってやり、他生の事柄についてその霊に教えるが、しかしただその霊が把握することの出来ることしか教えない。しかしもしその霊が進んで教えを受けようとしないなら、その時はその霊は天使たちの交わりから離れようとする。天使たちは実際彼のもとを離れるのではなく、彼が自ら彼らから離れるのである。なぜなら天使たちは各々の者を愛して、親切に務めを果し、教え、天界に入れることを何ものにもまさって願い、そのことが彼らには最高の喜びであるからである。そのようにしてその霊が自分自身を引き離すと、彼は善良な霊たちに迎えられ、またその交わりに加わると、凡ゆる親切な務めが彼のために為される。しかしもし世にいた時の彼の生活が善良な者と交わることが出来ない底のものであったなら、彼は彼らからもまた離れようと願い、こうしたことが、世にいた時の彼の生命に全く一致している者と交わるようになるまでも続き、その一致した者と共になると、[初めて]彼は自分自身の生命を見出すのであり、その時、驚くべきことではあるが、世で送った生活に似た生活を送るのである。
天界の秘義2284[5]
仁慈の生命は他の人のことを親切に考えて、その者に良かれと願うことに在り、また他の人もまた救われるという事実から自分の中に喜びを認めることに在るのである。しかし自分が信じているように信じる者以外にはたれ一人救われないことを欲する者らは仁慈の生命を持ってはいないのであって、特にそれがそうではないことに激怒する者らは仁慈の生命は持ってはいないのである。このことは、基督教徒よりも異邦人が多く救われているという事実のみからでも認めることができよう、なぜなら自分の隣人のことを親切に考えて、これに善かれとねがった異邦人は、他生では基督教徒と呼ばれる者よりも良く信仰の諸真理を受け入れて、主を基督教徒よりも良く承認するからである。なぜなら天使たちには地上から他生に入ってくる者に教えることにまさって歓ばしい、また祝福されたものは一つとしてないからである。
3.そのように生活する者は教えられることを愛し、そして教えられることを愛するため、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受ける
神の摂理253
今までは我々は、単に自然的な人間に神的摂理に対する不信仰を確認させるところの、237番に前述した事柄のみを説明した。今や我々は238番に記された物を説明しなくてはならない、それは種々の民族の宗教体系に関係していて、単に自然的な人間にはまた神的摂理に対する反証として役立っているものである、なぜなら彼は『もし神の摂理が人類から発する天界を目的とするなら、どうして全世界に一つの真の宗教がなく、かくも多くの異なった宗教があり得るのであろう』と心に語るから(27−45)。しかし考えられよ、一度生まれた人類は凡て、如何ほどその数は多く、また如何ような宗教を奉じていても、もし、殺人、姦淫、盗み、偽証は宗教に反し、それゆえ神に反するため、これらの犯罪を禁じている十誡の教えに従って神を承認し、生活するならば救われることが出来るのであって、そのような人間は神を恐れて、隣人を愛しているのである。彼らはそうした事を為すのは神に対する反抗であると信じているため、神を恐れており、また人を殺し、姦淫を犯し、盗み、偽証を立て、他人の家または妻を貪ることは隣人を傷つけることであるため、隣人を愛している。こうした人間はその生涯に神を敬い、隣人には悪を為さないため、主に導かれ、そしてこのように導かれる者は凡てその宗教により神と隣人につき教えられる、なぜならそのような生活をしない者は教えられようとはしないが、そのように生活する者は教えられることを愛し、そして教えられることを愛するため、死後霊になると、天使から教えられ、喜んで聖言の真理を受けるのである。こうした性格の人間について若干の記事が「新エルサレムの聖書の教義」に見ることができよう(91−97、104−113)。
神の摂理254
神を全然知らない者は僅かしかいない、これらの者は、もし道徳的な生活を送ったならば、死後天使たちから教えられ、その道徳的な生活へ霊的要素を受け入れることは「新エルサレムの聖書の教義」(116)に見ることが出来よう。
天界の秘義2839
霊的な者は仁慈により救われるが、仁慈から分離した信仰によっては救われはしないことは、聖言の多くの記事から明白である。仁慈の、また信仰の実情は以下のごとくである、信仰のない仁慈は純粋な仁慈ではなく、仁慈の無い信仰は信仰ではない。仁慈が存在するためには、信仰が存在しなくてはならず、信仰が存在するためには、仁慈が存在しなくてはならない、しかし本質的なものそのものは仁慈である、なぜなら信仰である種子は仁慈以外の土地には植え付けられることは出来ないからである。その二つのものが相互的にまた交互的に連結するとき、そこから天界の結婚が、即ち、主の王国が生まれるのである。信仰が仁慈の中に植え付けられない限り、それは記憶知に過ぎない、なぜならそれは記憶より先には進まないし、それを受ける心の情愛は存在していないが、しかしそれが仁慈の中に、即ち、その生命に植え付けられる時、それは理知と知恵になるからである。子供たちや、正しい異邦人のもとに在るような、信仰のない仁慈は信仰がその中に植え付けられる土地にすぎないのであり、もしそれが身体の生命の中で植え付けられないにしても、それでもそれは他生で植え付けられるのである(1802、2280、2290−2309、2419、2589−2604番参照)。
4.善良な生活を送り、神を信じた者は凡て死後天使により教えられるように定められており
神の摂理328(ニ)
「にも拘らず主は凡ての者が救われるように配慮されている」。
凡ゆる所に何らかの宗教が存在し、宗教は凡て救いの二つの本質的なものを、すなわち、神に対する信仰と悪を神に背くものとして避けることを教えるように主により配慮されている。理解に属し、従って思考に属し、信仰と呼ばれている他の凡ての物が凡ての者にその生活に応じて提供されている。何故なら信仰は生活の事柄であるから。信仰が生活の事柄とならない中は、例えそれがその前に得られたとしても、それは真に生きたものとはならない。また善良な生活を送り、神を信じた者は凡て死後天使により教えられるように定められており、世で宗教のこの二つの本質的なものに従って生きた者は聖言に含まれた教会の真理をその時受け入れ、主を天界と教会の神として承認する、彼らは主の人間性はその神性から分離しているという考えを世から抱いて行った基督教徒よりも容易にそのことを信じる。
天界の秘義2861
13節からこの節までの前の記事には、霊的な者が主の神的な人間的なものによる救われたことが取り扱われ、実に教会の中で善の中にいる者たちがとり扱われている。これらの者は、聖言を持ち、かくて信仰の諸真理を持っているため、真に霊的なものになることが出来る者たちである。教義の真理が生命の善に連結することにより人間は霊的なものとなるのである。霊的な性質はことごとくここから発している。しかし教会の外にいる諸国民は、聖言を持っておらず、かくて信仰の諸真理を持っていないため、彼らは世に生きている限り、たとえ仁慈の善の中に生きてはいるものの、信仰の諸真理を教えられない中は、依然真に霊的なものではない。そしてこれらの国民の中の大半の者はこの世では教えられることが出来ないため、相互愛と服従の中に生きた者たちは主の摂理と慈悲の下に他生で教えられ、そのときは信仰の諸真理を容易に受け入れて、霊的なものになるのである。(これらの国民の状態と運命とは他生ではこのようなものであることは、前の2589−2604番に見ることができよう)。
5.虚偽を確信した者達は、真理を認めることは出来ず、また之を認めようとも欲しない
真の基督教255
霊界で私は数年前生き、その宗教の虚偽を確認した或る者たちと話を交え、彼らは尚もその虚偽を信じていることを知った。私はまた、彼らと同じ宗教に属し、同じ考えを抱いてはいたが、その虚偽を確認はしなかった他の人々とも語り、彼らは天使たちに教えられると虚偽を棄て、真理を受け入れるのを見たのである。彼らは救われたが、前者は救われなかった。人間は各々死後天使達に教えられ、真理を認め、対照により虚偽を認める者達は、天界に迎え入れられるが、虚偽を確信した者達は、真理を認めることは出来ず、また之を認めようとも欲しない。彼らは若し真理に面接するならば、之に背を向け、之を嘲笑するか、或は之を虚偽化するのである。その理由は、確認が意志に入り、而して意志はその人自身である故、理解を支配するに反し、確認されない知識は単に理解のみに入るが、理解は意志を支配しないからである。このような知識はその人の中には存在しない。それは、謂わば外側の庭或は門口に在って、未だ家の中には宿らないのである。
6.偶像崇拝者の無垢
(異邦人の教会/参照)
天界の秘義2598
私がミカについて、ダンの息子たちがいかようにして彼の彫像を、テラピムとレビ人を取り去ったことについて、士師記の第17章と第18章とを読んだとき、異邦人の中から来ている一人の霊がそこにいたが、彼は身体の生命の中では彫像を拝していたのである。彼はミカに為されたことや、またミカがダンの息子たちにより奪い去られた彫像のために如何程の悲哀に陥ったかを注意深く聞いているうちに、彼もまた悲しみにうちひしがれて内なる悲哀のあまり何を考えてよいかわからなくなるほどにも心を動かされたのである。私は彼の悲哀を認めると同時にその情愛の各々の中に無垢を認めもしたのである。基督教徒の霊たちもまたその場にいて、それを認めたが、彫像を拝していた者がかくも強い慈悲と無垢の情愛のために心を動かされることに驚いたのである。その後で善良な霊たちが彼に話しかけて、彫像を拝してはなりません、あなたは人間であるから、このことは理解出来るでしょう。あなたは彫像を超えて全天地の創造者で、支配者であられる神のことを考えなくてはなりません。その神は主であります、と言った。こうしたことが言われると、私は彼の内的な崇拝の情緒を認めることを許され、それが私に伝えられたが、それは基督教徒におけるものよりは遥かに聖いものであったのである。このことから(ルカ伝13・29,30における主の御言葉に従って)。異教徒はそれほどに感動を覚えない現今の基督教徒よりは容易に天界に入ることが出来ることが認められることが出来たのである。
7.彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される
天界の秘義9256
教会の外にいて「異邦人」と呼ばれている者たちについては、彼らは実際教義の誤謬の中にはいるが、しかし聖言を持たないため、無知からその中にいるのであって、それでも教えられると、人間のもとにある天界の生活については、基督教徒よりもさらに明白に認識し、従ってさらに内的に認識しているのである。その理由は彼らは、非常に多くの基督教徒のように信仰の諸真理に反したことを確認していないということであり、それでその内なる人は閉じられていないで、小さな子供たちのように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。こうした人物の内なるものはもしこの世でないなら他生で上方へ開かれる。
これが己が宗教に順応して善に生きた凡ての者の運命であり、それで主の教会は全世界に遍く拡がっているのである。しかし地上の主の教会そのものは諸天界の巨大人に似ており、その心臓と肺臓から生きているところのその肢体と内臓の爾余の部分は聖言が存在していない所に存在しているのである。こうした理由から教会はユダヤ民族から異邦人へ移されたのであり、また現代の教会もまた今や異邦人のもとへ移されつつあるのである(2986、4747)。驚くべきことには異邦人たちは唯一の神を人間の形の下に拝するのである。それで彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される。マタイ伝の主の御言葉から明白である。
あなたたちは建てる者らが斥けた石が隅の親石となったことを聖書に読みませんでしたか。それでわたしはあなたらに言う、神の王国はあなたらから取り去られて実を結ぶ国民に与えられるでしょう。(21・42,43)
「石」は主。(6426)
「建てる者たち」は教会に属した者たち。これらの者は最後の者となり、異邦人が最初の者となることはルカ13・29、30に
かれらは東と西から、北と南から来て、神の王国の食卓にもたれるであろう。見よ、最初の者となる最後の者があり、最後の者となる最初の者がいるであろう。
8.彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいない
天界の秘義3778[2]
それでこのことが、ナホル、その息子のベトエル、ベトエルの息子のラバンにより根幹が共通した傍系的な善が表象され、すなわち、異邦人たちの間の主の教会に属している者たちがその中にいるところの善が表象されている理由である。この善は直線的に下降している根幹の共通した善とは以下の点で異なっているのである、すなわち、彼らの善に連結しているその諸真理は純粋なものではなく、その大半は感覚の迷妄[妄想]と呼ばれている外なる外観である、なぜならこれらの異邦人は彼らが明るくされる手段となる聖言を持ってはいないからである。善は実にその本質では唯一つのものではあるが、しかしそれはその中に植え付けられる諸真理からその性質を受けて、そのことによって多様なものとなっているのである。異邦人たちに真理として現れている真理は全般的には、彼らは何らかの神を拝しなければならないということであり―この神から彼らは彼らの善を求め、またこの神にその善を帰しているが、彼らは世に生きている限り、この神が主であることを知ってはいないのである―また彼らは彼らの神を彼らが聖いものとして考えている像の下に崇めなくてはならないということであり、その他さらに多くのものがある。にも拘らず、これらのものは、彼らがその神に対する愛と隣人に対する愛の中に生きさえするなら、彼らも基督教徒と等しく救われることに対して妨害とはならないのである、なぜなら彼らはこのように生きることによって他生で内的な諸真理を受ける能力を得るからである(932、1032、1059、2049、2051、2284、2589−2604、2861、2863、3263番)。
神の愛と知恵394
しかしこの研究によっては、真の真理を見ようと切望する者の納得できる物が何一つ明らかにされていないため、私は天使たちと語って、その主題につき彼らの知恵により明るく示されることを許されたのである。