証し

 

神の存在証明

だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は(マタイ10・32)

友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない(ヨハネ15・13)

わたしがあなたがたを選んだ(ヨハネ15・16)

再生している者以外には何人も知ることはできない

自分が先か、人が先か

口を閉ざさない与えよ

 

 

 

 

 

1.聖書

2.サンダー・シング

3.主について証しすること

4.主を見出した者は黙してはいられない

5.生き方を通して主を証しする

6.主によって救われた者だけが証人となれる

7.ヴァッスーラ

8.血を流すほどの証

9.最高のあかし

10.愛は苦しみによって証明されます

11.証を立てることは真理を語ることを意味し、証は真理それ自身を意味している

12.ドレックス教授

13.マーリン・キャロザース

14.イエス・キリストの証し

15.メジュゴリエの聖母・・・私がいることを証しして下さい

 

 

 

 

1.聖書

 

 

マタイ5・14−16

 

あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

 

 

 

マタイ5・48

 

だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい。

 

 

 

マタイ10・18−20

 

また、わたしのために総督や王の前に引き出されて、彼らや異邦人に証しをすることになる。 引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。

 

 

 

マタイ10・32−33

 

だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す。しかし、人々の前でわたしを知らないと言う者は、わたしも天の父の前で、その人を知らないと言う。

 

 

 

マルコ13・9−11

 

あなたがたは自分のことに気をつけていなさい。あなたがたは地方法院に引き渡され、会堂で打ちたたかれる。また、わたしのために総督や王の前に立たされて、証しをすることになる。しかし、まず、福音があらゆる民に宣べ伝えられねばならない。引き渡され、連れて行かれるとき、何を言おうかと取り越し苦労をしてはならない。そのときには、教えられることを話せばよい。実は、話すのはあなたがたではなく、聖霊なのだ。

 

 

 

マタイ10・8

 

 ただで受けたのだから、ただで与えなさい。

 

 

 

ルカ6・38

 

与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。

 

 

 

ルカ12・48

 

すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。

 

 

 

ヨハネ1・11−12

 

言は、自分の民のところへ来たが、民は受け入れなかった。しかし、言は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

 

 

 

ヨハネ1・15

 

ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。

 

 

 

ヨハネ1・19

 

さて、ヨハネの証しはこうである。

 

 

 

ヨハネ1・32

 

そしてヨハネは証しした。

 

 

 

ヨハネ1・34

 

わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。

 

 

 

ヨハネ4・28−30

 

ちょうどそのとき、弟子たちが帰って来て、イエスが女の人と話をしておられるのに驚いた。しかし、「何か御用ですか」とか、「何をこの人と話しておられるのですか」と言う者はいなかった。 女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。

「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」人々は町を出て、イエスのもとへやって来た。

 

 

ヨハネ5・39−47

 

あなたたちは聖書の中に永遠の命があると考えて、聖書を研究している。ところが、聖書はわたしについて証しをするものだ。それなのに、あなたたちは、命を得るためにわたしのところへ来ようとしない。

わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。

 

 

 

ヨハネ15・11−15

 

 これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互に愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行なうならば、あなたがたはわたしの友である。もはや、わたしはあなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしがあなたがたを友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなたがたに知らせたからである。

 

 

 

ヨハネ15・16−17

 

あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。あなたがたが出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなたがたを任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

 

 

 

ヨハネ15・18−19

 

世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。『僕は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。

 

 

 

ヨハネ15・27

 

あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。

 

 

 

ペトロ1・2・12

 

また、異教徒の間で立派に生活しなさい。そうすれば、彼らはあなたがたを悪人呼ばわりしてはいても、あなたがたの立派な行いをよく見て、訪れの日に神をあがめるようになります。

 

 

 

ぺトロ1・3・1−4

 

同じように、妻たちよ、自分の夫に従いなさい。夫が御言葉を信じない人であっても、妻の無言の行いによって信仰に導かれるようになるためです。 神を畏れるあなたがたの純真な生活を見るからです。 あなたがたの装いは、編んだ髪や金の飾り、あるいは派手な衣服といった外面的なものであってはなりません。 むしろそれは、柔和でしとやかな気立てという朽ちないもので飾られた、内面的な人柄であるべきです。このような装いこそ、神の御前でまことに価値があるのです。

 

 

 

 

黙示録1・2

 

ヨハネは、神の言葉とイエス・キリストの証し、すなわち、自分の見たすべてのことを証しした。

 

 

 

 

2.サンダー・シング

 

 

東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シングP241

 

すべてのキリスト教徒は、男でも女でも、少年でも少女でも、富める者も貧しき者も、労働者も農夫も、著作家も祭司も、裁判官も官吏も、医者も法律家も、教師も生徒も、政府の官吏でも宣教師でも、かれが主のための証をなすという事を条件としてのみかれはキリスト教徒である。主の証を立てんがためには、必ずしも我々が公開の席で説教をせねばならぬとか、説教壇から説教をせねばならぬとか聖書のクラスや日曜学校やキリスト教同盟やを指導せねばならぬとかいうのではない。否、これらは、それによってわれわれが証をすることの出来るいくつかの方法にすぎない。しかしすべてのキリスト教徒は、かれらがどこにあろうとも、主のために証をなすことの機会を持つのである。かれらはこの証を、かれらの正直な生活によって、欠点なき品性によって、行為の完全なることによって、言語による真面目さによって、おのが宗教に対する熱心と主に対する愛とによって、イエス・キリストに関して他人に語ることの出来るあらゆる機会を用いてなすことが出来る。

 

 

 

東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シングP530

 

「われわれインド人は教理を、宗教的教理をさえ欲しない。われわれはその種のものは十分かつ十分以上に持っている。われわれは教理に疲れている。われわれは活けるキリストを必要とするのである。インドは只に説教をしたり教えたりするところの人々のみでなく、またその全生活と性質とがイエス・キリストの啓示であるところの働き人を要求する。」

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P295

 

神は、人が限られた知識による程度の低い議論によって、神の存在を証明しようなどと考えぬよう望んでおられる。そんなことを望んでいたとすれば、沈黙していたりはなさらなかったであろう。人間には想いも及ばぬ納得のゆく証拠を与えることは、いつでもできたからである。しかし、神の聖旨は、その甘美なる、生命を分かち与える臨在を楽しんだ者たちが証人となることにある。個人的体験こそが、理屈によるどんな証拠よりも納得できる証明となるからだ。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P353

 

わたしが旅する第一の目的はあなたとは違い、わが魂に平和を与えてくださった生けるキリストを証しすることにあります。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P363

 

 

シカゴにおいて、別な聖職者から「どのような礼拝と働きが最善か」との質問を受け、わたしはこう答えた。

「どんな形をとるにせよ、中心となるのは霊と真実において神を礼拝するということです。東洋では、礼拝の場所に入るときには靴を脱ぎますが、西洋では帽子を脱ぎます。しかし、霊と真実は、帽子にも靴にも、足にも頭にも頼るものではなく、心に頼るものです。働きについていえば、人間のとりきめではなく、神の呼びかけに頼るのが一番よい。各教派は他の派の欠点ばかりあげつらうのに時間を費やすあまり、肝心かなめの生けるキリストを置き去りにしています。一番大事なことは、この生きたキリストの真実の証人になり、自分の実体験から人に証しするということです。神は偽りの証しも『悪霊の教え』も求めてはいない。こんな証しをする人は、自分を益するより害しているのです。キリストについて知っているというだけで、キリストそのものを知らない人間が、異言を話すようなこともあるでしょう。しかし、キリストを個人体験した者にしか、真実の証しはできません。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P422

 

砂糖の甘味は砂糖のためにあるのではなく、甘味のわかる人間のためにある。同じように、神は神のためばかりか、神との交わりを願う人のために存在する。多くの宗教的、哲学的作品に「実在(リアリティー)」についての記述がみえるが、神との交わりを楽しむ道は人間自身の中にある。神は神と交わりを保てるよう人を造られ、そのために、実在感と神を楽しむ能力をも人に与えているからである。

 

 このような霊的感覚が人間に与えられているという事実は、人間が神との交わりを楽しむことを意図されている証拠である。真偽、正邪の弁別をする試金石が人の中にあるのもそのためである。この良心は、人生の中で真偽を識別するために神がお与えになった試金石だが、罪によって感覚を奪われ働かなくなる場合もある。

 

 だが、神の御恵みよって覚醒すれば、決して欺かれることはない。そして、人が自分の中に実在の現存を実感するとき、その人が生きた力であることは日々の経験が証明する。彼が実在を経験しているという証拠をわたしたち自身が内に確かめていれば、何千という本が彼の霊的経験に反論し、この世の哲学とロジックの最たるものをもって攻撃してこようとも、その証拠を崩すことはできない。実在の知識はわれわれ自身の内的自己の中にあり、哲学的議論の中にはないからである。砂糖の甘味を識別する力は本の中にはなく、人間自身の舌の中にある。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P319

  

 主がわたしにご出現になったときのことを、ふたたび申し上げます。わたしは、この国に説教をしにきたのではありません。証しをしにきたにすぎません。人々は、説教は十分にきかされ、イエス・キリストについてはたっぷり知っています。しかし、それだけでは十分ではないのです。彼らは主ご自身を知らなければなりません。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P360

 

 主が胸の中に宿るときに、胸は内に燃え上がります。聖霊の炎を、この世の水によっては打ち消すことができません。主を見出した人は、黙してはいられず、イエス・キリストについて話し始めるに違いありません。黙っていることは不可能です。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P367

 

霊的な恩恵を受けている人々は、福音を伝える宣教師を送り出すことに熱心です。それは、主を見れば、人は黙してはいられなくなり、出て行って主を証しするからです。その証は、サマリアの女に対する村人の言葉と同じです。「今や、わたしたちはあなたの話によって信じているのではありません。主をこの目で見たからです」

 

 

 

イエス・キリスト封印の聖書/P382

 

キリスト教国と称する国々には、主を愛する忠実なクリスチャンも多くいますが、クリスチャンといいながら、サタンの代理人にすぎない人々も多数います。キリストの神性を否定し、主とともに生きたことのない人々がそれです。彼らは、われわれに何のメッセージも持ってはいません。語るべきものを何一つ持ち合わせません。イエス・キリストを通して文明を受け、教育を受け、物質的恩恵を受けていながら、彼らは主を否定しているのです。「わたしとともにパンを食べた者が、わたしに向かって踵を上げる」とキリストが言われた通りであります。主に向かって踵を上げた結果、彼らは、知識の木に自分を吊すことになるでしょう。

 主に対し忠実で、主とともに生き、イエス・キリストが誰かを知る人々、彼らだけが、行って、イエス・キリストの真実を人々に告げることができるのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P393

 

合理主義者や神学者がキリストの神性を信じないと語っても、わが信仰を揺るがすことはできません。わたしは証をするためにここにいるのです。わたしを霊的にも肉体的にも救ってくださったのは、キリストの力です。そして今、主は世界のあらゆる場所でわたしを導いてくださっています。キリストを迫害し聖書を焼き捨てていたことは、わたしにとって肉に刺さったトゲのようなものです。あなた方には、そのような経験はありません。しかし、あなた方は知的指導者に欺かれるという危機に直面しています。合理主義を奉じる人々や空しい神学論を交わす人々の元に行かず、神の御言葉に向かうことです。あなた方は主の御足下で力を見出すことでしょう。われわれが主を知り、主の御力を実感できるよう、神が助けてくださいますように。わたしたちが救われたときに、他の人々をも救えるために!

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P394

 

神について議論したり疑ってはなりません。そのようなことをすれば、主を辱めることになります。主を信頼し、従わなければなりません。わたしたちは主の力を見、主を証することでしょう。わたしにしてくださった大いなることを、主はあなた方にもしてくださることを、わたしは証言します。

 

 

 

 

 

 

3.主について証しすること

 

 

天界の秘義9818〔26〕

 

『主について証しをすること』はその霊的な意義では主について教えることを意味している。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P434

 

 キリストに従う者は自我を退け、キリストを証言するために苦しみの十字架を負う。自分の利益ではなく、人のためになることを求めるときに、われわれの人生は百倍も豊かになる。

 

 

 

 

4.主を見出した者は黙してはいられない

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P360

 

 主が胸の中に宿るときに、胸は内に燃え上がります。聖霊の炎を、この世の水によっては打ち消すことができません。

主を見出した人は、黙してはいられず、イエス・キリストについて話し始めるに違いありません。黙っていることは不可能です。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P367

 

霊的な恩恵を受けている人々は、福音を伝える宣教師を送り出すことに熱心です。その証は、サマリアの女に対する村人の言葉と同じです。「今や、わたしたちはあなたの話によって信じているのではありません。主をこの目で見たからです。」

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P373

 

人々は、このような平和を得ようとあらゆる努力をしますが、胸を神に譲り渡すだけで平和を見出すことができるのです。世界が与えることも取り去ることもできない、神の国と平和がそこにあります。平和を得た人は黙ってはいません。「わたしはキリストを、キリストの中にある天の王国を知った」と証言します。

 

 

 

第二の聖霊降臨とは

(ランプのあぶら1・『花むこから花嫁への呼びかけ・ヴァッスーラの証の記録』P12〜14から抜粋)

 

「一つ、預言について話しましょう。神が預言をお与えになるとき、特に聖書的なことばで預言をお与えになるとき、それが霊的な意味あいか物質的なことを言っておられるかを識別するのは大変難しいのです。ですから、理解する光を主がお与え下さり、はっきり教えられるまでは、そのことばを決して断定したり、説明しようとはしません。

 

もう長年にわたってずっと、イエスは第二の聖霊降臨について話しておられたのです。教会を刷新するために、これまでの歴史上かつてなかったほど人類全体に聖霊がふり注がれると。黙示録21章も読むようにおっしゃり、その中のみことばを説明して下さいました。新しい天、新しい地、新しい町エルサレムについて書かれた個所です。

 

イエスはこの聖書の個所を説明なさる前に、「ヴァッスーラ、来て書きなさい」とは言わないで「町よ、来て書きなさい」とおっしゃいました。

さて、なぜ私ではなく町なのかと自問しましたが、すぐに分らせて下さいました。主は私たちのうちに住まわれるので、私たち自身が町と呼ばれても不思議はないからです。私たちは、旧約時代のような幕屋でもありうるわけです。一つの庭園、そして主の住まわれる天国にも変容することもできるのです。イエスとご一緒に黙示録21章を読みながら、そのことを理解させていただきました。

 

その時は書くのが待ちきれないほど、心が興奮し、急いで書き下ろそうとしましたら、可笑しそうに、イエスは「なぜそんなに急ぐのか?まだあなたから離れるつもりはない」とおっしゃいました。そして、主はみことばを下さり、こうおっしゃっています。これは第二の聖霊降臨についてですが、新しい天は私たちのうちにある、と。

 

どういう意味かをひと言で説明しましょう。

主が言われます、「今日のあなた方の心はやみ夜のようです、しかし、ひとたび聖霊が注がれるなら、聖霊はあなたのうちで何千ものまばゆい星座のように輝こう。」そして新しい地上も、私たちのうちにあるのです。今日の私たちは乾いた砂漠のようで、霊魂は飢饉に遭っているかのようだと主は言われますが、聖霊が降って来られると、天来の種を蒔いていかれ、この砂漠はエデンの園に変えられます。それが霊によって刷新された私たちのうちなる新しい天となるのです。そして町とは私たち自身であり、私たちは新しいエルサレムなのです。すべては私たちのうちで新しくなるからです。このように聖霊は私たちを新たにし、変容させる準備をしておられます。

 

第二の聖霊降臨は、聖霊が突然来られて私たちを変えられるか、あるいは少しずつ変えていかれるのか、私はまだ理解していませんでした。ところがある日、主はこう教えて下さいました、「第二の聖霊降臨はすでに個人個人に個別に始まっている」と。何が個別的に起きているかは、まだ分りませんでした。しかしある日ビデオの作成中に、ある話をしている中で主は理解の光を下さいました。その時、第二の聖霊降臨は個別的に訪れることが分りました。ある日、突然大勢の人びとの上に起こるのではなく、個人個人に起こるのだと。ある人が第二の聖霊降臨を受けたかどうかを、どう見分けたらよいのでしょう?そこには違いがあるのです。

 

第二の聖霊降臨のような聖霊をいただくと、その人には明らかなしるしが現われます。その人は大きく変容し、サマリアの女のように出て行って真理を宣言しようと熱烈に燃え立ち、自分の足で駆けて行き皆に伝えるのです。こうやって、本当に変容された人を見分けることができるのです。その上、この人びとは心に熱い炎が燃え立つあまり、皆とそれを分かち合いたいと望みます。イエスが譬え話でおっしゃっているように、真珠を発見したかのようです。そしてこの真珠を手放したくないばかりに、自分の持ち物すべてを売り払うことも辞さない。神のみ国を発見したのです。

 

こういったことが今の時代には起きています。そして私はそれを目の当たりにしているのです。私はたくさん旅をしますが、霊によって触れていただいたこのような熱意ある人びとと世界中で出会います。そしてゆっくりとですが、教会は確実に刷新されているのです。これが第二の聖霊降臨です。」

 

 

 

5.生き方を通して主を証しする

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P302

 

同じように、天の父とのつながりに感化された人の生活は、周囲の人たちの生活にも静かに影響を与える。生活の中に天の父の美徳と栄光を表わすことは、わたしたちにとってどれほど必要なことであろう。

 

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P361

 

人の霊魂は、思いと言葉と行動を仲介する脳のような微妙な器を通してしか表現できないほど、微細な実存である。同じように、聖霊は洗い清められた生活を自らの表現手段に使い、神の栄光は下僕たちの生活を通して世に神を知らしめる。

 キリストの下僕たちは、太陽から光を借りて間接的に世界を照らす月のようなものだ。月がしばしば太陽と地球との間に入り日食を起こすように、下僕たちの価値なき生活もまた、キリストと世との間に入り、神の御顔を人々から隠すことたびたびである。

 

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P421

 

 真のキリスト教徒がどこからみても静寂で歓喜に溢れ、ついには勝利するという事実は、その人生に聖霊と神の現存が満ち満ちている結果であり、それが真のものである確たる証拠である。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P386

 

「あなた方はわたしの証人になる」。主は「わたしの説教師になれ」とはいわず、「わたしの証人」といわれました。キリストの証人にならずに、大説教師、雄弁な話し手になることは可能です。また、説教師や弁論家にならずとも、偉大な生きたキリストの証人になることも可能です。真のキリスト者は、かりに説教師になることができなくとも、誰もがキリストの証人になることができます。口先だけの証人ではなく、生き方を通しての証人です。

 

 

 

『東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シング』

 

かれらの一人一人が、ただに彼の唇をもってのみならず、また彼の全生活によってキリストへの証人たることができる。

 

 

                                                                                                

『東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シング』

 

すべてのキリスト教徒は、男でも女でも、少年でも少女でも、富める者も貧しき者も、労働者も農夫も、著作家も祭司も、裁判官も官吏も、医者も法律家も、教師も生徒も、政府の官吏でも宣教師でも、彼が主のための証をなすという事を条件としてのみ彼はキリスト教徒である。主の証を立てんがためには、必ずしも我々が公開の席で説教をせねばならぬとか、説教壇から説教をせねばならぬとか聖書のクラスや日曜学校やキリスト教同盟やを指導せねばならぬとかいうのではない。否、これらは、それによって我々が証をすることの出来るいくつかの方法にすぎない。

 

しかしすべてのキリスト教徒は、彼らがどこにあろうとも、主のために証をなすことの機会を持つのである。彼らはこの証を、彼らの正直な生活によって、欠点なき品性によって、行為の完全なることによって、言語による真面目さによって、己が宗教に対する熱心と主に対する愛とによって、イエス・キリストに関して他人に語ることの出来るあらゆる機会を用いてなすことが出来る。

 

 

 

『東洋及び西洋の使徒 聖サンダー・シング』

 

われわれインド人は教理を、宗教的教理をさえ欲しない。われわれはその種のものは十分かつ十分以上に持っている。われわれは教理に疲れている。われわれは活けるキリストを必要とするのである。インドは只に説教をしたり教えたりするところの人々のみでなく、またその全生活と性質とがイエス・キリストの啓示であるところの働き人を要求する。

 

 

 

アヴィラのテレサ自叙伝27・15

 

「どうか神がキリストやその使徒らによって忍ばれた苦しみの写しを示してくれる聖者をお与えくださいますように!今日では、かつてなかったほどそれが必要です。」

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P366

 

東洋が救い主を実感し、世界各所に多くの使徒を送り出すときが到来しつつあります。そのときに、「先の者が後になり、後の者が先になる」という神の御言葉の実現を、わたしたちは知ることでしょう。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P368

 

主への奉仕に多くの時間をさいてきたクリスチャンの婦人が病に倒れ、十八年間ベッドに縛りつけられる身となった。肉親は、彼女が負わなければならない重い十字架を知って深く憐れみ、愛と忍耐をもって彼女を看護した。主にお仕えする機会をもてなくなったというのが、彼女の主な悩みで、健康であればどれほどできたであろうという思いと、他への重荷となったわが身をしきりに嘆いた。しかし、自分では気づかなくとも、彼女はその生き方と祈りによって、他に大きな影響を与えていたのである。それは、健康であったとき以上のものだった。彼女は、美しく、香り高い花のようにベッドに横たわり、見舞いに訪れた人は逆に慰めを受け、彼女の優しさによって人生に安らぎをみた。

 

 このように静かな影響力が、非常に強く感じられるようになったために、キリスト教の真理を否定していたある男性―彼はこの婦人が何年も平和と幸福に包まれているのをみてきた―は、彼女の人生の中に、何か深い真実があるに違いないと思い始めた。形だけの信仰や想像で、こうまで長いこと平和でいられるはずがないと思ったのである。こうして、彼は興味を新たにして福音書を読み返し、しばらくして真理を確信するまでになった。彼はこの婦人の元に来て言った。「あなたの生活の中にそれを見なかったなら、生けるキリストの救いの力とキリスト教の真理を信じることはできなかったと思います。美しい山上の垂訓も、神学者の納得のゆく説明も、わたしには効き目がありませんでした。しかし、あなたの奇跡的なクリスチャン生活はどんな議論にも優るものでした。それは、わたしの哲学的議論もかなわないほどの生きた証拠です。健康であったらもっと多くのことができたとお考えになるのは間違っています。それが本当なら、神様は、とうに健康を与えてくださっていたでしょう。あなたは、このような弱さの中で、他の方法では決してできないような奉仕をなさっておいでです。これを病と思わず、あなたに一番かなった奉仕の方法とお考えなさい。ここは死の床ではありません。永遠の生命がキリストにあることの証拠です。」

 

こうして、ラザロの死のように、自分の病が神を讃える手段になっていることを知ったとき、彼女の歓びはいっそう高まった。重い十字架は、彼女にとっても他の人々にとっても祝福であることが、証明されたのである。

 

何週間か前に、わたしはアルメニアの宣教師から手紙を受け取った。彼は、二、三年前にアルメニアで起きた大虐殺の場に居合わせた一人だった。彼はこう書いている。

 

「数千人のクリスチャンが目の前で殺害され、わたしも重傷を負い放置されました。それは恐ろしく、胸の裂かれるような光景でありましたが、同時に非常な歓びを伴うものでもありました。男も女も、老いも若きも、残酷極まりない方法で虐殺されました。しかし、生けるキリストの力がどの人にも現れていました。それを見て、殺す側も驚いたほどです。

 

 わたしたちは、必要に応じて力を与えられました。キリストと天使をくっきりと見、歓喜の中で魂を主の御手に託す人々もいました。事実それは虐殺の日ではなく、主との婚姻の日でありました。わたしはこの人々と一緒に命を奪われていれば、どんなによかったかと思います。しかし、わたしは神に感謝しています。今少しお仕えするために、主はわたしを虐殺から救い出し、ある場所に移してくださいました。そこで傷は癒され、ふたたび仕事に戻ることができたからです。」

 

 これ以外にも、類似の体験をしたアルメニアの友人たちがいるが、ここで引用するまでもないだろう。クリスチャン生活の真実を立証する奇蹟は、他にも数多くある。どの国、どの国民にも、キリストに生き、主から受け取る数知れぬ恵みによって、人生を実りあるものにしている人々がいる。神の民が、生命を与える主の現存を知り、「見よ、わたしはいつまでもあなた方とともにいる」といわれた主の尊い約束を、生きている内に体験できることは、何という慰めであろう。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P388

 

イエス・キリストに生きる人は主のようになることを思いました。彼らは主の血と肉に与ります。主は彼らの中に生き、彼らは主のようになります。人は神になるのではありません。しかし、主とともに生きるときには、主のようになります。いいかえれば、主の民は、天におられるイエス・キリストの小さな写しのようなものであり、彼らがイエス・キリストのようになるときに、その生活が人々への証となるのです。

 

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P390

 

まことのキリスト者は、世にあって花のような存在です。たとえ、罪に汚れた世界に生きていようとも、顔と胸とを義の太陽に向けていれば、主の栄光は彼らの胸の中に宿り、彼らは生けるキリストが内住していることを証できるのです。そのようなキリスト者は、苦しみの世にあっても甘い香りのようです。彼らの働きによって、多くの罪人が救われ、それによって彼らは報われます。

 

 

 

聖母から司祭へ1973.11.1

 

 またわが子イエズスのまことの弟子であるために、主の教えられたことを実践すること。

 このようにすれば、皆のよい模範となるでしょう。

 特別に次のようにして、よいお手本となるように。厳しい生活をすること。ますます扇情的に淫らになってゆく流行を嫌悪すること。不道徳な出版物や映画の普及、またすべてを呑み込む泥の海のこの絶え間ない広がりとあらゆる方法で戦うことによって。

 

 

 

聖母から司祭へ1977.4.8

 

 今日、とりわけ沈黙を守るように学んでください。その神的な言葉を聞くために、自分の内で、沈黙を守ってください。あなたがたの周囲の人々に、沈黙を守ってください。

 あなたがたを受け入れない人の非難とざん言に答えないでください。

 あなたがたを迫害する人の嘲りと、侮辱に答えないでください。だれも裁かないでください。

 おそってくる時期に、いっそう、沈黙を守るように呼ばれています。生き方によって話すように。

そして、十字架につけられたあなたがたの生活から、全ての人への愛とおん父のみ旨に、全く委ねる言葉が生まれるでしょう。

 

 

 

 

聖母から司祭へ1977.9.8

 

私が話したことを生きるようにしてください。あなたがたが聞くために、私は話しているのです。

 私の言葉を聞いたということは、それを全面的に、実行した時にいえることです。

 私の言葉に疑問と不安を吹き込む人に対して、あなたがたは、私の言葉を心にとめてください。

 私の言葉が、真実であることを、自分にも他人にも証明したいなら、それを実践して下さい。

 

 

 

聖母から司祭へ1991.5.4

 

 わたしに奉献されていることを、すべての人に証しなさい。

 あなたたちの生活が、母としてのわたしの現存に照らされ、わたしの聖徳、わたしの純潔、わたしのあわれみ、わたしの愛徳、わたしの愛情のカリスマを、あなたたちのまわりに広めなさい。

 あなたたちを見る人は、わたしの光の能力を見なければなりません。

 あなたたちに出会う人は、わたしのあわれみの、かんばしいバルサムを見い出さねばなりません。

 

 

 

聖母から司祭へ1991.11.21

 

―わたしの汚れなき心の神殿の中で、ますます深い沈黙へと、あなたたちを養成します。

 これらの時に、わたしの敵は、ことばとさわがしい声と映像をもって、人類をまどわすのに成功し、世界を新しいバベルの塔にしています。でも、あなたたちは、かえって、深い沈黙の証をするように召されています。

 それは、神のみことばだけを受け入れるための沈黙、このみことばを心の中で思いめぐらし、愛をもって守るための沈黙、その完全な光のうちにこのみことばを生き、すべての人にこれを与えるための沈黙です。すなわち、あなたたちは生活をもって話しなさい。生活はあなたたちの言葉となります。渇いている人々の霊魂は、これほど無味乾燥な無限の砂漠に、光と命を与えるためにおりてくる天の露のように、このみ言葉を受け入れます。

 

 

 

 

.主によって救われた者だけが証人となれる

 

 

サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P387

 

しかし、罪人であり主の御恵みによって救われた人々、彼らのみが「今やわたしは救われました」と証言できるのです。盲目に生まれついた人が、「わたしは目が見えなかったが、今は見える」と証言するのと同じです。大いなる罪人であった人々、彼らこそが「自分は盲目だったが今は見える。わたしたちがこの世における主の証人である」と語れるのであります。イエス・キリストが胸の中に生きているときに、ただ唇を通してだけでなく、わたしたちの生き方が常に主を証言するのであります。

 

 

 

天界の秘義1717[3]

 

外なる人が幾多の試練の争闘なしに内なる人に相応するようになることが出来ると想像する者は誤っている、なぜなら試練は幾多の悪と誤謬とを消散させる方法であり、また同じく諸善と諸真理とを導き入れ、外なる人に属したものを服従に至らせる方法であり、かくてそれは[外なる人は]内的なまたは合理的な人に仕え、またそのことを通して内なる人に仕えることが出来るのであり、即ち、内なる人を通して働かれつつある主に仕えることが出来るからである。これらの事柄が試練により行われることは幾多の試練を通して再生している者以外には何人も知ることは出来いのである。しかしいかようにしてこれが為されるかは、最も全般的にさえも殆ど記すことは出来ない、なぜならそれは人間が何処からまたいかようにして為されるかを知ることなしに為されるからである、なぜならそれは主の神的な働きであるからである。

 

 

 

天界の秘義984

 

 『地に再び満ちる』ことは外なる人の中に、を意味していることは『地』の意義が外なる人であることから明白であって、その意義についてはすでに幾度も示しておいた。再生した人間の仁慈の諸善と信仰の諸真理とについてはそれらは良心の中に植えつけられるのであり、そしてそれらは信仰により、または聖言を聞くことにより植えつけられるため、それらは外なる人に属した記憶の中に最初存在していると言ってよいであろう。その人間が再生して、内なる人が活動する時、それと同じことが実を結ぶことと増えますことについても起り、即ち、仁慈の諸善は外なる人の諸情愛の中にそれ自身を現わし、信仰の諸真理はその外なる人の記憶の中にそれ自身を現わし、その何れの場合も増大し、増えますのである。この増えますことの性質は再生した人物の各々に知られることが出来よう、なぜなら確認させる事柄が絶えず聖言から、合理的な人から、知識から生まれて、そのことにより彼は益々確認することが出来るのであって、これは仁慈の結果であり、主のみが仁慈を通してその業を行われるからである。

 

 

 

7.ヴァッスーラ

 

 

私の天使ダニエルP118

‘87・1・1

 

あなたに平和。 私、イエスです、ヴァッスーラ。 あまりにも沢山の霊魂が失われていくのを見てどんなに苦しんでいるかを理解させよう。 苦しんで、 涙を流している・・・・

 

イエス、悪が存在しなくなればいいのに! 主にもっと幸せを感じてほしい。

 

あなたも悪がなくなることを願っているか?

 

はい!

 

愛する者よ、私の子たちの目を覚ましに行きなさい、悪が罠をしかけていることを理解させなさい。

 

(救い主が私に行って証しをするよう頼んでおられることに気がつきました。)助けて下さい! ほとんど何も分かっていませんので!

 

そうする、娘よ。 満たされて、あなた方は多くなる(*)。

 

*この句はかなりの謎に聞こえましたが、主はその意味を把握するように光を注いで下さいました。その意味は:「あなたの霊に聖霊と知恵を注いで満たすと、あなたは出て行って証しをするであろう。証しによって多くの人は回心し、この回心した者たちは他の人々を回心させる。」

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P15

‘90・10・24

 

娘よ? まことに言う、あなたの神 私に仕えたいと願っている者よ、真理を証ししようと口を開くたびに、祝福を与えよう。 私について話すたびに うちなる火を点す、祈り求めるなら 求めた以上を与える。 みことばをくり返せるように たえず我が指示を思い出させよう、 あなたを離れることはない、 私は全き―忠実な者として知られている、 そう 私のヴァッスーラ、 あなたを訪ねて連れて行くまで 用いさせてもらいたい。 祝された者よ(*)! 私の形見! 花よ ふさわしい精神でやって来なさい そして私に信頼しなさい。 足に口づけしてくれるか? 来なさい、師の手を取って ついて来なさい ♡

 

 *頭に一つの思いがよぎったのです、私を連れて行かれたあと、どう用いられるのかしら? と馬鹿げた思いでした。ですからイエスは驚いて: 祝された者よ!とおっしゃたのです。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/5巻P218

‘91・10・7

 

あなたの使命は、我が子よ、愛を証し 愛と忠実さが欠けているさ中で私の至聖を示すこと。 恐れずに前へ進み 私の言霊となるように ♡ 歓びと、熱意をもって証しをし、愛のために 愛をこめて証しするように ♡ 敵があなたを突き刺すたびに、歓びなさい! あなたの傷をすべて捧げなさい 私が直ちに癒す。 私を求めて目を上げるたびに、慈しみ豊かな私の心は答えるであろう。 あなたは私がもらい受け、養い育てた子ども。 人を怖れることはない。 あなたを破滅させはできない。 まもなく自由にする。 それまで、我が一致の十字架を持って歩き、私に栄光を帰しなさい。 真理 そして私自身が設立した唯一の教会を

             擁護する者

となりなさい。 すべての国に行って、あなた自身を紹介しなさい ♡ 

 

 

 

ヴァッスーラ・神のうちの真のいのち・8巻P33

‘95・4・12

 

あなたを訪れたいきさつを通して 私どものことを知らせなさい、次にあなたの口を用いて この新しい歌(*)をうたわせてほしい。

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P214

‘02・1・18

 

― あなたの舌が 忙しい書記の筆のように 喜んで弁舌をふるい 決して証しするのに疲れてしまわないように、炎の渦中にいたとしても。

私、イエスが、あなたを祝福する。 Ic

 

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P276

‘03・1・6

 

先にも言った通り、行きなさい、我が王者の富に養われた者たちよ そして国たみに 我が王国を宣べ伝え すべての栄光住まう救い主は 私だと宣言しつづけなさい。 ほかの誰でもなく私が あなたの贖い主だと。 行って 灰たちに宣べ伝え それらを金に変えなさい こうして、彼らが 光である、私のうちに自由を見いだすように。 行って伝えなさい あなた自身がどう捕らえられ 鳩として檻に入れられたかを、そして私がいかに、手厚い慈悲をもって訪れ 檻を壊して自由の身にさせたかを。 あなたを悪霊から解き放って聖別し 額には我が口づけの油を注いで、我がものとして封印した・・・行って、私の名によって、民を慰め 励ましなさい、我が庭園を美しく整え、救いの真の知識を彼らに与えなさい。 我が聖櫃の心を美しく飾るように。

 

 

 

 

8.血を流すほどの証

 

 

聖母から司祭へ1973.7.16

 

 私は教皇と、教皇に一致している教会への深い愛へと彼らを養成し、福音の英雄的な証となるよう準備します。彼らの中の幾人かは、血を流すほどの証をたてるでしょう。

 

 

 

聖母から司祭へ1974.12.26

 

 なお彼らの―大部分は―最後の証に召し出されるでしょう。でも、彼らの血はこの世を洗い清めることでしょう。それは愛によって刷新され、神の勝利のために再び奉献された別の世界が誕生するためです。

 

 

 

聖母から司祭へ1976.5.28

 

 苦しみの道に於いて私にしたがいなさい。

 今や、あなたがたが屠られる時が来ています。あなたがたはますます苦しむために呼ばれています。

 あなたがたのこの苦しみを全部私にください。

 現代は、あなたがたの多くの兄弟たちの誤解やざんげんの時です。

 明日あなたがたは、神の敵、無神論者から迫害、捕虜、処刑にあわせられるでしょう。

 彼らは、あなたがたをどうしても消すべき邪魔者と見ているからです。

 

 

 

聖母から司祭へ1977.12.24

 

 イエズスをとりまく、数限りない侮辱、冷淡、酷い無関心のために、私といっしょに償いをささげてください。血を流す覚悟で、あなたがたの生涯をささげて、私とともにイエズスを守ってください。

 

 

 

 

9.最高のあかし

 

 

聖母から司祭へ1982.6.30

 

 私の始めたわざを完成してくださるのは、聖霊です。あなたがたの心を完全な愛に育てるのも、聖霊です。また、すべてのことを、あなたがたに理解させるのも、聖霊です。私は、母として、あなたがたを、最高のあかしのために育ててきました。でも実際に、あなたがたを強め、勇気を与えているのは、聖霊です。

 

 

 

聖母から司祭へ1988.11.12

 

 今は、勇気とあかしの時です。

 あなたたちの声は、日増しに強くなる方法をもって、福音の言葉とカトリック信仰のすべての真理を宣言しなければなりません。

 あなたたちは、どんな謬説でもあばき、腹黒い計略にもうち勝ち、いかなる世間の精神とも妥協せず、あなたたちの忠実さの手本をすべての人に示さねばなりません。

 

 

 

聖母から司祭へ1991.5.19

 

 神としての働きの強大な力をもって、聖霊は、使徒たちを真理全体の理解へと導き、血を流すまでに、イエズスの完全な証人にしてくださいました。

 

 

 

 

10.愛は苦しみによって証明されます

 

 

聖母から司祭へ1995.4.13

 

 これは苦しみの過越しです。

 愛は苦しみによって証明されます。

 

 

 

 

11.証を立てることは真理を語ることを意味し、証は真理それ自身を意味している

 

 

真の基督教323

 

「天的な意義では」偽りの証を立てることは、主と聖言を冒涜し、かくして真理を教会から追放することを意味する。なぜなら主は聖言にて在す如く、真理そのものにて在すからである。

 

他方、この意義では、証を立てることは真理を語ることを意味し、証は真理それ自身を意味している。それ故十戒はまた証と呼ばれている(出エジプト25・16、21、22、31・7、18、32・15、40・20、レビ16・13、民数記17・4、10、)。

 

主は真理そのものにて在し給う故、主は自らについては、自らが証をなし、自らが真理であると語り(ヨハネ14・6、黙示録3・7)、また自らが証をなし、自らが自らの証であると語り給うのである(ヨハネ3・11、8・13−19、15・26、18・37)。

 

 

 

 

12.ドレックス教授

 

 

天使館/天使のパン13号P50

ドレックス教授への救い主の御言葉 

1970年3月6日の早朝の救い主の御言葉

 

 厳しい試練がわが教会を襲っている。しかし私はローマのわが可視的代表者を強め、叡智と堅固さをもって司教たちへの予防策を講じるであろう。司祭たちばかりでなく、司教たちは彼らの義務に対する違反や怠惰によって時代の精神の影響下に入り、聖なるぺトロの後継者にのみ属している権威と同等のものを手に入れようとしている。それ故、男性も女性も、不屈かつ冷静に戦い、祈ることが必要である。信仰を守り、堅く保ち、犠牲を捧げ、信者たちの中で、また人々の中で、希望、信頼、そして確信を維持しなければならない。私は正義のために迫害を忍ぶ祝福された者たちを称讃しなかっただろうか? (マタイ5・10−11参照)。また、私は言わなかっただろうか? 『私の味方であると人々の前で宣言する者すべてを、私もまた天におられるわが父のみ前で、私の味方であると宣言する』(マタイ10・32参照)。

 今の時代は迫害に屈しない信仰告白者たちを必要とする時代! 今の時代は信仰の聖なる火で燃え盛る霊魂たち、世界中のいたるところで子羊に従う聖なる教会の教え子を必要とする時代である。多くの生ぬるさ、飽食、怠慢、臆病、腐敗、不毛、欺く者と欺かれる者などの存在にも関わらず、聖なる天使の導きの保護の下、“黙示録の婦人”(注:聖母マリア)の勝利を見んと馳せ参じる強くて純粋な霊魂たちを必要としている時代である」。

 

 

 

 

13.マーリン・キャロザース

 

 

マーリン・キャロザース/信仰その驚くべき力/P217

 

 神のご計画はいつも単純明快です。信じ、人に伝える。このことが自分自身の信仰を強くし、人々が信じるのを助けるのです。サタンの計画は私たちを沈黙させておくことです。神のご計画の内にある力を知っているからです! 「おまえたちには話す適正がないよ。」クリスチャンがこんな醜い声をいつも聞かされるのは、まさにこれが理由です。

 忘れてはなりません。神が人に宣べ伝えるため召し出されたのは、生まれつき話し上手な人たちだけではありませんでした。人に伝えるため神が召されたのは、すべてのクリスチャンでした。このことをしっかりと頭と心に入れておいてください。あなたの信仰を人々に語り、あなたの救いを人に確認させるのは、あなたの口であることを覚えておいてください。

 

 

 

14.イエス・キリストの証し

 

 

黙示録講解10

 

二節.「彼は神の聖言について、イエス・キリストの証しについて証した」は、神的な真理[神の真理]と主の人間的なものにおける主の神的なものとを心から承認する者たちに、を意味している。このことは以下から明白である、即ち、『証すること』の意義は心から承認することであり(「天界の秘義4692、5075、9987番」、『イエス・キリストの証』の意義は主の人間的なものにおける主の神的なものを承認することを意味しているのである。このことが『イエス・キリストの証』により意味されていることは、『証すること』は心から[心情において]承認することであり、心からイエス・キリストを承認することは主の人間的なものにおける主の神的なものを承認することである、なぜなら主を承認はするが、それと同時に主の人間的なものにおける主の神的なものを承認しない者は主を承認しないからである、なぜなら主の神的なものは主の人間的なものの中に在って、その人間的なものを離れては存在しないからである、なぜなら神的なものは、霊魂が身体の中に在るように、その人間的なものの中に在り、従って主の人間的なものを考えると同時に主の神的なものを考えはしない者は人間をその人間の霊魂または生命から抽象的に[引き離して]考えるようなものであり、それは人間のことを考えないことであるからである。

 

 

 

 

15.メジュゴリエの聖母・・・私がいることを証しして下さい

 

 

平和のマリアの会/メジュゴリエの聖母のメッセージ

2017年4月25日

 

愛する子供たち!

遠く離れている者たちのために、愛し、祈り、私がいることを証しして下さい
証しと模範によって、あなたがたは神と神の恵みから遠く離れている心を近くへ引き寄せることができます。

私はあなたがたと共にいて、一人ひとりのために取りなしています。
あなたがたが愛とゆるぎない意志をもって証しし、私の無原罪の心から遠い者たち皆を勇気づけることができるように。

私の呼びかけに応えてくれてありがとう。