流入

 

天使との交流流出

求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない(マタイ5・42)

 

 

 

1.流入

2.主の祈りにおける流入

3.聖いものは聖言を聖いものとして尊んでいる者たちのもとへ流れ入っている

4.相応によって連なること

5.主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれる

6.神が人間に感謝を要求される理由

7.原因が絶えず流入しないなら、結果はたちまち死滅する

8.悪の流入

9.間接的流入、直接的流入

10.主の導き

11.財産、快楽について考えていると天使たちとの交わりから遠ざけられる

12.流入を受ける能力

13.悪人も主から生きている

14.流入によって認識が発生する

15.主が身をめぐらす

16.神的なものは善へ流入し、善から真理へ流入する

17.悪は神的なものの流入を妨げる

18.凡ゆるものは流れ入ると言われると極度に憤激する

19.流入は流出によって調節されている

20.流入はそれ自身を単に人間の情愛の状態の変化によって明らかに示すのみ

21.真理の中にいると同時に善の中にいる者たちのもとでは、その観念は開かれているように流入する

22.善と真理はすべて主から発している

23.人間各々はその霊魂または霊の方面では天使の社会か、または悪魔の社会か、その何れかの社会の中にいる

24.流入がない限り、人間は全く考えることはできない

25.主から人間のもとへ絶えず流れ入っている善は、悪と誤謬により寸断される・・・閉じられる

26.流出が抑制されるなら、流入も抑制される

27.単に奈落の愛のみしか持たないにしても、依然かれの生命の最も内なるものは天界の愛から発している

28.真理と善を受ける能力は善から、すなわち、主から善を通して来ている

29.何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ

30.理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入

31.天使たちは流れ入るときは、また情愛を接合させる

32.遺伝的な自然的な善を受けていても天界へ受け入れられない

33.流れ入ってくる善はそこで悪に変わり、真理は誤謬に変わり

34.地獄との交流がそのとき人間に開かれ

35.聖体拝領における流入

36.モーセが祈願したことは実際モーセの口から発してはいたものの、主から発していた

37.天界を経て光から認めることが流入により意味されている

38.誰でも知っている

39.神を人間として考えることが植えつけられている

40.死後の生命があること

41.主御自身が流入されるのは人間の額の中へ、額からその顔全体へ流入される

42.人間が考え、欲することはことごとく地獄か、天界か、その何れかから発している

43.もし彼がこの関連性を奪われるなら、一瞬も生きはしない

44.主が導かれる

45.人間のもとにいる天使と霊とを通して行われている

46.主は霊たちにより人類を支配される

47.霊は凡て、地獄へ投げ込まれるか、または天界へ挙げられるかする前には、先ず霊たちの世界におり、その際世に生きている人間のもとにおり、悪霊は悪い者と共に、善い霊は善い者と共にいるのである。これらの者を通して人間は地獄か、それとも天界か、その何れかと交流し、連結する

48.人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間と共になっていることを知ってはいない

49.現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある

50.天界からの光から認める〔見る〕ことが流入により意味されているもの、神がおられ、神は一人であることの認識

51.人間の霊魂に対し、神は存在し、その神は一人であるとの意味を伝える神からの普遍的な流入がある

52.取り憑き

53.才能

54.サンダー・シング

 

 

 

 

 

 

 

1.流入

 

 

流入について、また霊魂と身体との交流について

天界の秘義6053−6058

 

 

続、流入、霊魂と身体の交流について

天界の秘義6189−6215

 

 

 

天界の秘義641

 

 霊と天使との理解のいくたの物は頭または頭脳の左の部分に流れ入っており、意志のいくたの物はその右の部分に流れ入っていて、それは顔の方面でも同じようになっているのである。天使的な霊たちが流れ入るときは、かれらはこの上もなく柔かく空気がそよ吹くようにも流れ入ってくるが、悪い霊らが流れ入る時は、それは頭脳の左の部分に恐るべき幻想と信念をもって、また右の部分には欲念をもって洪水のように氾濫して流れ入るのであり、その流入は恰も幻想と欲念とが洪水のように氾濫するのに似ているのである。

 

 

 

天界の秘義1270

 

 間もなく幾人かの者がその地獄からつれ出されたが、しかし主は彼らが私に何の危害も加えることが出来ないように、霊たちと天使たちとを間におかれていた。彼らはかの深淵から前の方へ出てきたが、彼ら自身には、いわばその岩の中の洞窟を通って、そこから上の方へと前の方へ向ってその道を切り開いて行くように思えたのである。遂に彼らは上の方から左の方へと現れたが、それは彼らがそこから、それで遠方から私へ流れ込むためであった。私は以下のように告げられたのである、即ち、彼らは頭の右側へ流れ入ることは許されてはいるが、しかしその左側へ流れ入ることは許されてはいない、そして頭の右側から胸の左側へ流れ入ることは許されてはいるが、決して頭の左側へは流れ入ることは許されていない、なぜならもしそうしたことが起るなら、彼らはそのときは恐るべき、致死的な彼らの信念をもって流れ入ってくるため、私は破壊されてしまうからである、それに反し、もし彼らが頭の右へ流れ入って、そこから左の胸へ流れ入るなら、それは欲念により流れ入ることになるのである、と。これが流入の実態である。

 

 

天界の秘義2888

 

 真理は各々の者の生命は、即ち、人間のみでなく、霊の、また天使の生命は、生命それ自体であられる主から専ら流れ入っていて、それがそれ自身を全天界を経て、また地獄を経て

 

 

 

 

 

天界の秘義3120

 

「かれはその慈悲を棄て去られなかった」。これは愛の流入を認識することを意味していることは、『慈悲』の意義が愛であることから明白である(1735、3063、3073番を参照)。『かれはその慈悲を棄て去られなかった』は、愛の流入を認識することを意味しているのは、この言葉は承認と告白[讃美]であり、承認と告白[讃美]とは流入を認識することから発しているからである。

 

 

 

天界の秘義3122[3]

 

ホゼア書には―

 

 エホバは、真も、慈悲も、神を知る知識もないため、その地に住む人々と争われる(ホゼア4・1)。

 

『真[真実、真理]がない』は仁慈の流入を受けないことを、『慈悲がない』は愛の流入を受けないことを、『神を知らない』は信仰の真理の流入を受けないことを意味している。

 

 

 

 

天界の秘義6205

 

悪霊・・欲念を着け、その人間を専制的に支配する、下僕とする。

 

天使・・情愛に順応して起り、その情愛をおだやかに導き善へたわめ、決して折ってしまわない。流入そのものも無音であって認識されない。絶えず自由を手段として働く。

 

 

天界の秘義6320〜

 

 

 

 

 

天界の秘義8694  

 

「啓示」は何かが真理であることに内部から同意し、またそれに好感をもつこと。

 

もしそれが真理でないなら好感をもたない。好感がもたれると心は休まって、穏やかになり、この状態の中では信仰に属する承認があるのである。それの原因は主から発している天界の流入から来ているのである。なぜなら主から天界を通して光が発しており、それが内なる視覚の目である知性を取り巻き、それを明るくしているからである。そのときその光の中で見られるものは真理である。なぜならこの光そのものは主から発している神的真理であるからである。この神的真理は天界の光である。

 

 

 

 

2.主の祈りにおける流入

 

 

天界の秘義6476

 

 わたしは主の祈りを読んでいる時は常に主に向かって高揚されるのを明らかに認め、それは引きつけられるようなものであったが、それと同時にわたしの観念は開かれ、そこから天界の若干の社会と交流することができたのである。またわたしはその祈りの細目の各々の中へ、かくてその祈りの中の事柄の意味から生まれてくるわたしの凡ゆる観念の中へ主から注がれる流入があることに気づいたのである。その流入は表現を絶した変化をもって行なわれ、すなわち、時により、それは同一ではなかったのであり、そこからまたその祈りに含まれているものはいかに無限なものであるかが、また主はそれらのものの各々のものの中に現存されていることも明らかにされたのである。

 

 

 

 

3.聖いものは聖言を聖いものとして尊んでいる者たちのもとへ流れ入っている

 

 

新エルサレム259

 

それと同じ方法で聖いものは聖言を聖いものとして尊んでいる者たちのもとへ流れ入っている(6789)。

 

 

 

 

4.相応によって連なること

 

 

天界と地獄207

 

高い天界は、相応によらなくては、低い天界と連なっておらず(前の100参照)、そして相応によって連なることは流入と呼ばれるものである。

 

 

 

 

5.主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれる

 

 

天界の秘義10227

 

主に凡てを帰している者たちは他の者よりも賢明であるが、それは知恵を構成している真理と善との凡ゆるものは天界から、すなわち、天界の主から流入しているためである。主に凡ゆるものを帰することにより人間の内部は天界に向かって開かれるのである、なぜなら真理と善とは一つとして人間自身からは発していないことがそのことにより承認され、このことが承認されるに比例して、自己への愛が去り、自己への愛とともに誤謬と悪から発した暗闇も去ってしまうからである。またそれに比例してその人間は無垢へ、主に対する愛と信仰へ入り、そこから神的なものとの連結が生まれ、神的なものとの連結から流入と照示[明るくされること]が生まれてくるのである。

 

 

 

 

6.神が人間に感謝を要求される理由

 

 

天界の秘義3539[]

 

 神的なものがその中へ流入することのできるものは人間のもとにある謙虚[卑下]であり、それはこの状態の中では自己を求め、世を求める愛は遠ざけられ、従って対立している奈落的なものは遠ざけられているという理由によっているということもまた理解には明らかに現われるであろうが、しかしそれでも意志が新しくなく、理解がそれに結合していない限り、その人間は心の謙虚[卑下]を持つことはできない、否、人間は悪の生命の中にいる限り、すなわちその事柄は彼には漠然としていて、彼はそれを否定さえもするのである。ここからまた人間の謙虚[卑下]は主が栄光を求められる愛のためではなく、主の神的な愛のためであり、主がそのことによって善と真理とをもって流入され、その人間を祝福し、幸福にされることができるためであることをその理解の中に認めることはできるのであるが、それにも拘らず、そのことを意志に諮るに応じ、益々そのことは漠然としてくるのである。他の非常に多くの場合も同じである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・9・2−3

 

 わたしはいっさいを与えた。ゆえにいっさいがわたしに帰することを望む。そしてそれに対してきわめてきびしく感謝を要求する。

これこそ真理であって、これによってすべての虚栄は駆逐される。

 もし天からの恩恵と、ほんとうの愛とが心に宿るなら、嫉妬も、悩みも、自我の愛もはいる余地がない。

 

 

 

 

7.原因が絶えず流入しないなら、結果はたちまち死滅する

 

 

天界の秘義5116[2]

 

神的なものが絶えず流入されないかぎり、このような努力は植物界の凡ゆる物の中には決して存在することはできなかったであろう。なぜなら流入から努力が生まれ、努力から精力が生まれ、精力から結果が生まれるからである。

 

 

天界の秘義5116[3]

 

結果は原因の連続であり、原因が停止するとき、結果もまた停止し、従って原因が絶えず流入しないなら、結果はことごとくたちまち死滅することを考えもしない。また後在的なものが存在するためには先在的なものは絶えず後在的なものの中に存在しなくてはならないため、凡ゆる物の最初のものに関連していないものは、従って神的なものに関連していないものはたちまち絶滅してしまう。

 

 

 

天界の秘義5173

 

自然とその三つの物界における一切の物の中には霊界から発している内的な能動的な力が存在している。もしそれがそうでないかぎり、自然界の物は何一つ原因と結果として活動することはできないのであり、従って何ものも生み出されることはできないのである。霊界から発して自然的な物の中にあるものは最初の創造から植えつけられている力と呼ばれているが、反ってそれは努力であって、それが停止すると活動または運動は停止してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義6056

 

凡ゆる物は流入によって存続している。

 

 

 

 

8.悪の流入

 

 

天界の秘義6203

 

最初は同意から

次に意図から

最後に情愛の歓喜から

自分自身を悪に投げこむ

地獄が開かれ、流入が起る

密着、ついにはかれを遍く支配

悪でないと確認させるものを探し求め

姦淫、窃盗、傲慢、ほこり、他の者に対する軽蔑、罵り

を許されること、悧巧なこととし、最後には似つかわしい、尊いことにさえする

窃盗に似ている

それが二、三度確乎として意図から行われると、そこから遠ざかることはできないものとなるのである。

 

 

 

天界の秘義6204

 

悪は地獄から絶えず注ぎ入れられており、またそれは絶えず天使たちによりはね返されているため、思考に入ってくる悪は人間に何ら害を与えはしないことを知られたい。しかし悪が意志へ入るとそのときはそれは害を与えるのである。なぜならそのときはそれは外なる束縛により抑えられないときは常に行為へと進むからである。悪はそれが思考の中に留めおかれることにより、同意によりとくに行為とそこから生まれてくる歓喜により意志の中へ入るのである。

 

 

 

天界の秘義6206

 

 さらに悪は凡て地獄から流れ入り、善は凡て主から天界を通して流れ入っていることを知られたい。しかし悪が人間のものとされる理由は彼は彼自身からその悪を考え、為していると彼は考えもし、また彼自身に説きつけもし、そのようにしてそれを彼自身のものとしているということである。もし彼が事実のあるがままに信じるなら、そのときは悪は彼のものとされはしないで、主から発している善が彼のものとされるのである。なぜなら悪が流れ入るや否や、彼はそれが自分のもとにいる霊共から来ていることを反省するであろうし、そしてかれがそのことを考えるや否や、天使たちはそれを外らせて、斥けてしまうからである。なぜなら天使たちの流入は人間が知り、また信じもしているものに入ってくるが、人間が知りもしないし、信じもしないものには入らないからである。なぜなら彼らの流入はその人間のものである何かが存在している所を除いては何処にも固定はしないからである。

 

 

 

天界の秘義6206[2]

 

 人間がこのようにして悪をかれ自身のものとすると、かれはその悪のスフィアを自らのために得、そのスフィアに、地獄から来ていて、それと同じような悪のスフィアの中にいる霊どもがその者ら自身を接合させるのである。なぜなら似たものは似たものに連結するからである。人間または霊のもとに在る霊的なスフィアはその者の愛の生命から流れ出て発散しているものであり、そこからかれの性質は遠方でも知られるのである。他生の凡ての者はスフィアに順応して共に連結しており、社会もまた相互にそのように連結しているが、またそのスフィアに従ってそれらは分離しているのである、なぜなら対立したスフィアは衝突し、互に他に反撥し合うからである。それで悪の愛のスフィアは凡て地獄に存在し、善の愛のスフィアは凡て天界に存在している。すなわち、そのスフィアの中にいる者たちがそこにいるのである。

 

 

 

 

9.間接的流入、直接的流入

 

 

天界の秘義6056

 

そして天界もそれ自身から存続することはできないで、ただ主によってのみ存続することができるのであり、主のみが主御自身から存続されるのである。流入は存在と存続とに応じている、なぜなら凡ゆる物は流入によって存続しているからである。しかし凡ゆる物は全般的にも個別的にも、主から発している流入により存続しており、その流入は霊界を通して間接的に行われているのみでなく、媒介的なものの中には直接に行われていることは以下に示すことにしよう。

 

 

 

天界の秘義6058

 

 しかし流入は、主の神的なものから各々の天使に、各々の霊に、各々の人間に注がれている流入が在り、この方法によって主は人間各々を、その全般的なもののみでなく、また個別的なものそのものにおいてさえも支配されており、しかもそれは主から直接に行われるとともに、また霊界を通して間接的にも行われているといった性質を持っているのである。

 

 

 

天界の秘義6472[2]

 

 主は御自身から流れ入るものを受けるように人間に強いられはしないで、自由に導かれており、人間が許すに応じ、自由を通して、善へ導かれている。このように主は人間をその歓喜に従って、また妄想とそこから受け入れられた主義に従って導かれているが、しかし徐々に彼をそれらのものから導き出されるのであり、しかもそのことはその人間には恰も自分自身から発しているかのように見えるのである。このようにして主はこれらのものを破壊されはしないのである。なぜならそのようなことは自由に暴行を加えることであって、人間は改良されるためには自由は必ず存在しなくてはならないからである(1837,1947、2875、2876、2881、3145、3146、3158、4031)。主は人間のもとへこのようにして、すなわち、人間の中の内的なものの中へも、外的なものの中へも、天界を通して間接的に流入されるのみでなく、御自身から直接にも流入されていることはこれまでに知られなかった秘義である。

 

 

 

天界の秘義6495

 

主から発している流入は天界的な愛の善であり、かくて隣人に対する愛の善である。この愛の中に主は現存されている。なぜなら主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである。そしてこの愛の善は主御自身から発しているため、主御自身がその中におられ、かくて主はこの愛の善の中にいる人間のもとに現存されているのである。

 

 

 

天界の秘義7004〔3〕

 

 私は、主の直接的な流入が在るところにはまた間接的な流入が在り、かくて秩序の最初のものの中に在ると同じく秩序の最後のものの中にも在ることを天界から話されたが、またそれを生き生きと認めることも出来たのであり、また間接的な流入により、即ち、天界とそこにいる天使たちを通して遂行されるものは相対的には極めて僅少であることも、更に、主は間接的な流入によって天界を導かれると同時にその流入によってそこの凡ゆる物を関連づけられ、秩序づけられておられることも話され、認めることも出来たのである。

 

 

天界と地獄26

 

これらの天使たちは神的諸真理をその生命の中に直ぐに受け入れたものであり、また現在も受け入れているため、他の者にまさって知恵と栄光とを得ている、なぜなら彼らはそれを聞くとすぐに、それを欲して、実践はするが、それを記憶の中に貯えて、後になって、それ真であるか、否かとは考えはしないからである。こうした天使はその聞く真理は真理であるか、否かを主から発する真理によって直ぐに知るのである。なぜなら主は人間の意志[欲すること]の中へ直接流れ入られ、人間の意志[欲すること]を通して間接にその人間の思考[考えること]の中へ流れ入られるからである。またはそれと同一のことではあるが、主は直接に善の中へ流れ入られ、善を通して間接に真理の中へ流れ入られるからである。意志に属し、そこから行為に属するものは善であると言われるが、しかし記憶に属し、そこから思考に属するものは真であると言われている。さらに、真理は凡て、それが先ず意志に入る時、善に変わり、愛の中に植えつけられるが、しかし真理が記憶の中にあり、それで思考の中に在る限り、善とはならず、また生きもせず、また人間のものともなされない。なぜなら人間は意志とその理解から人間であって、意志から分離した理解から人間ではないからである。

 

 

 

天界と地獄37

 

 しかも、諸天界は明確に区別されて、一つの天界の天使たちは他の天界の天使たちと交わることはできないものの、主は全天界を、直接的な流入と間接的な流入によりー御自身から全天界に注ぐ直接的な流入と、一つの天界から他の天界へ注ぐ間接的な流入とによりー連結され、かくしてその三天界を一つのものとされ、凡ゆる物を「最初の者」主から最後のものまでも関連づけられ、かくして関連づけられていない物は何一つ存在していない。媒介物を通して最初の者に関連づけられていないものは存続しないで、消滅し、無となってしまう。

 

 

 

 

天界と地獄297

 

主のこの流入は直接的な流入と呼ばれるが、霊たちを通して起る他の流入は間接的な流入と呼ばれ、前の流入により維持されている。

 

 

 

 

10.主の導き

 

 

天界の秘義6492

 

主は御自身から流れ入るものを受けるように人間に強いられはしないで自由に導かれており、人間が許すに応じ、自由を通して善へ導かれている。

 

 

 

 

11.財産、快楽について考えていると天使たちとの交わりから遠ざけられる

 

 

天界の秘義6210

 

ときどき起ったことではあるが、私は世の事柄について、大半の人間の大きな関心を引くような事柄について、すなわち、財産、富の獲得について、快楽といったものについて熱心に考えていた。そうした時、わたしは感覚的なものに落ちこんで、思いがそうした物に浸されてしまうに応じて、わたしが天使たちとの交わりから遠ざけられてしまうことに気づいたのである。このことよりまた、こうした心づかいに深く浸されている者は他生にいる者たちと交わることができないこともわたしに明らかにされたのである。なぜならこうした思いに全心がとらわれると、その思いは低い心を下に連れ去り、またそれを曳きずり下ろす重しのようなものになり、その思いが目的として認められると、それは人間を天界から遠ざけてしまい天界へは彼は愛と信仰との善によらなくては挙げられることはできなくなるからである。このことは以下の事実からさらに私に明らかにされたのである、すなわち、かつて私が天界の住居の間を導かれて行かれると同時に、霊的な考えの中にいたとき、たまたま、不意に世的な物を考える思いに沈み込み始めると、その霊的な観念は凡て消散して、全く存在しないようになったのである。

 

 

 

 

12.流入を受ける能力

 

 

天界の秘義6148

 

受ける能力は善から、すなわち主から善を通して来ている。

 

受ける能力が自然的なものの中に得られるとき、そのとき流入が起るのである。なぜならそのとき受け入れることが起るからである。(5828)

 

 

 

 

13.悪人も主から生きている

 

 

天界の秘義6135

 

たとえ人間は天界の愛を持たないでたんに奈落の愛のみしか持たないにしても、依然かれの生命の最も内なるものは天界の愛から発しているのである。なぜならこの愛は絶えず主から流れ入ってかれの中に生命の熱の初めのものを生み出しているが、しかしそれはそれが進んで行く中にその人間により歪められ、そこから奈落の愛が発し、そこから不潔な熱が発してくるからである。

 

 

 

 

14.流入によって認識が発生する

 

 

天界の秘義1954

 

「神よ、あなたは見られます」。これは流入を意味していることは今し方言われたことから明白である。高いものから低いものを、またはそれと同じく、内的なものから外的なものを心で観察することは流入と名づけられている、なぜならそれは流入により起るからである、それは丁度人間の内的な視覚に絶えず流入していないかぎり、この後のものはいかような対象も決して把握して識別することはできないのである、なぜなら眼が眺めるものを眼を通して把握しているものは内的な視覚であって、それは、たとえその目がそれを把握しているように見えても、決してその目ではないからである。このすべてから私たちはまた、眼が見えるのであると信じている人間はいかに感覚の迷妄[妄想]の中にあるかを認めることが出来るのであり、事実は、眼を通して眺めるものは、内的な視覚であるところの彼の霊の視覚なのである。

 

 

 

天界の秘義6063

 

「ヨセフが来てパロに告げて言った」

記憶知が存在している自然的なものの中に内なる天的なものが現存し、その結果生まれて来た流入と認識とが意味されている。内なるものから発した流入によりパロにより表象されている外なるものまたは自然的なものの中に認識が発生するのである。なぜなら流入と認識とは相互に相応しているからである(5743)。

 

 

 

黙示録講解55

 

「わたしの後に」は、明らかに、を意味していることは、天界から人間の情愛の中へ流れ入る事柄は後頭部の領域へ流れ入って、人間に明らかに認識されるためである。なぜなら何であれ情愛の中へ入ってくるものはことごとく明らかに認められる[認識される]からである。なぜなら認識の生命はことごとく情愛から発しているが、何であれ天界から直接に思考へ流れ出るものはことごとく額の上方の領域の中へ流れ入るからである。(天界と地獄251)

 

 

 

天界の秘義8128

 

神的な真理は流入により認識されもし、考えられもするからである。認識から考えることは内なる言葉であり、それに外なる言葉は相応している。

 

 

 

 

15.主が身をめぐらす

 

 

天界の秘義5479

 

多少の後退。

 

主はたれからも御自身を決してめぐらせはしないで、その人間または天使の状態に従って善の流入を加減されるからである。「後退すること」により意味されているものはこの加減である。

 

 

 

 

16.神的なものは善へ流入し、善から真理へ流入する

 

 

天界の秘義5461

 

再生した人間のもとで主から神的なものが流入するのは善へ流入し、善から真理へ流入するのであり、同一のことではあるが、意志へ流入し意志から理解へ流入するのである。それで信仰の諸真理の中にいる人間が主から善を受けるに応じて、主はかれらの知的な部分の中に新しい意志を形作られるのであり、またそれに応じて主は流れ入られて、善いことを為す情愛を、すなわち隣人に仁慈を実践する情愛を生み出されるのである。

 

 

 

天界の秘義5482

 

なぜならヨセフにより表象されている、神的なものから発した真理は、媒介的なものを通して信仰の善の中へ流れ入り、その善を通してその真理の中へ流れ入り、またはそれと同じことではあるが、真理を意志すること[欲すること]へ流れ入り、その意志することを通して真理を理解することへ流れ入り、または、さらにそれと同じことではあるが、隣人に対する仁慈の中へ流れ入り、その仁慈を通して信仰へ流れ入るからである。再生した人間のもとではそれ以外の流入はありえないのである、また天使たちのもとでもそれ以外の流入の方法はありえないのである。

 

 

 

天界の秘義6366

 

善は真理の中へ流入することを通して、その諸真理を秩序づける。

天的な王国から発した流入は隣人に対する愛により行われている。なぜならこの愛は天的な王国の外なるものであって、霊的な王国の内なるものであり、そこからその両方の王国の連結が発しているからである。

 

 

 

 

17.悪は神的なものの流入を妨げる

 

 

天界の秘義4078

 

何ものも神的なものに悪を為すことはできないが、しかし、神的なものの流入は妨げられることができるからである。悪はすべてこのことを行う。

 

 

 

 

18.凡ゆるものは流れ入ると言われると極度に憤激する

 

 

天界の秘義3812[2]

 

 全般的に人間自身のものについては、それには二種類のものがあり、一つは奈落的なものであり、他は天界的なものである、奈落的なものであるものは人間により地獄から受け入れられ、天界的なものであるものは天界から、即ち、天界を通して主から受け入れられている、なぜなら悪はすべて、そこから派生している誤謬のすべてと同じく、地獄から流れ入っており、善はすべて、またそこから派生している真理も主から流れ入っているからである。これは信仰の教義から人間に知られてはいるが、しかし、一万人の中一人もほとんどそれを信じてはいないのである。こうした理由から人間は地獄から流れ入っている悪を自分自身に所有し、または自分自身のものとしており、主から流れ入ってくる善も彼を感動させはしないし、従ってそれは彼に帰せられてはいない。人間が悪は地獄から流れ入っており、善は主から流れ入っていることを信じていない理由は、彼は自己への愛の中にいて、その愛がその愛のもとにそのことを携えており、凡ゆるものは流れ入ると言われると極度に憤激するほどにもなっているということである。それでこのことが人間自身のものであるものはことごとく悪以外の何ものでもない理由となっている(210、215、694、731、874−876、987、1023、1044、1047番を参照)。しかし人間が悪は地獄から、善は主から発していることを信じるということは彼が自己への愛の中にいないで隣人に対する愛と主への愛の中にいるという事実から来ている、なぜならこの愛はこのような信念を伴っているからである。かくて人間は主から天界的な自分自身のものを受けるのである(このことについては前の155、164、731、1023、1044、1937、1947、2882、2883、2891番を参照されたい)。

 

 

 

 

19.流入は流出によって調節されている

 

天界の秘義5828

 

流入は流出に従って調節され、もし流出が抑制されるなら、流入も抑制されるということが普遍的な法則である。内なる人を通して主から善と真理とが流入し、外なる人を通して流出しなくてはならない。すなわち生命の中へ、すなわち、仁慈の実践の中に流出しなくてはならないのである。この流出が在ると、そのときは天界から、すなわち、天界を通して主から不断の流入があるが、それに反し、流出がなくて、外なるまたは自然的な人の中に抵抗が在るなら(すなわち流れ入ってくる善を寸断して消滅させる悪と誤謬が在るなら)善の流入は後退し、閉じられてしまう。

 

 

 

天界の秘義9174〔3〕

 

なぜならこうした伝達については、事実は天使が仁慈の情愛から他の者に与えるに応じて益々その者のもとに天界から、即ち、主から全般的な善が流れ入ってくるということである(6478番)。かくて『求める者に与えること』により、天使は財産を剥奪はされないで、それを豊かにされるのである。それは人間が仁慈の情愛から他の者に善を行う場合と同じであるが、しかし仁慈は善良な者に与えることに在り、悪い者らにその者らの求め、願うものを与えることは仁慈ではないのである(8120番)、

 

 

 

 

20.流入はそれ自身をたんに人間の情愛の状態の変化によって明らかに示すのみ

 

 

天界の秘義2692

 

「神の天使は天からハガルに呼びかけた」。これは慰安を意味していることは、『天から呼びかけること』の、また『ハガル』のみでなく、『神の天使』の意義からも明白である。『天から呼びかける』ことは流入を意味し、『神の天使』は主を意味し(1925.2319番)、『ハガル』は真理のいくたの知識の情愛を意味している(2691番)。真理の情愛が剥奪の理由から最も深い悲哀の中にいるとき、その情愛へ注がれる主の流入は慰安である。主から人間のもとへ流れ入ってくるものは、天界を通ってきており、天界で明らかに認められているため、『天から呼び出される』と言われる。しかし人間の認識と思考の中ではそれは明確なものではなくなって、それ自身をたんに人間の情愛の状態の変化によって明らかに示すのみであり、例えばここではそれが慰安を受けることにより示されているのである。

 

 

 

 

21.真理の中にいると同時に善の中にいる者たちのもとでは、その観念は開かれているように流入する

 

 

天界の秘義3607[2]

 

 このことは他生にいる者たちから明らかである。真理のみの中にいる者たちにあっては観念は閉じられているように見え、そのため天界にぞくしているものは、その流入が天界から発していることが殆ど知られないほどにも全般的な方法によってのみ流入することを除いては流入することができないに反し、真理の中にいると同時に善の中にいる者たちのもとでは、その観念は開かれているように流入するのである、なぜならそれはその中に在る善により真理を通して流入するからである(1869、2425番を参照)。真理が善が先在的な位置に立ち、または主権をもちはじめるとき自己由来の生命を剥奪されることは、最初は真理が外観的に先在していることについて、その後善が先在することについて言われもし、示されもしたことから認めることができよう、真理が自己由来の生命を剥奪されるこのことがここに意味されていることである。こうした事柄が『父のために嘆くこと』により意味されている理由は、嘆く日が状態の逆転を意味しているということであり、その状態の逆転は前にイサクが震えたその非常に激しい震えにより意味されたのであり(33節、3593番)、また、エソウの叫んだその大きな激しい痛々しい叫び声によっても意味されたのである(34節、3597番)。

 

 

 

天界の秘義3679[4]

 

 思考における実情は以下のようになっている、すなわち、人間は身体の内に生きている限り、合理的なものから自然的なものの中に考えているが、しかし自然的なものが合理的なものに相応しているか、またはそのように相応していないかに応じてその考えは異なるのである。自然的なものが相応している時は、その人間は合理的なものであって、霊的に考えているが、しかし自然的なものが相応していないときは、その人間は合理的ではないし、またかれは霊的に考えることもできないのである。なぜならその自然的なものがその合理的なものに相応している人間のもとでは伝達[交流]が開かれ、かくて天界の光が主から合理的なものを通して自然的なものの中へ流れ入って、自然的なものを理知と知恵をもって明るくすることができ、そこからその人間は合理的なものになって、霊的に考えることができるからである。しかしその自然的なものが合理的なものに相応していない人間のもとではその伝達[交流]は閉じられてしまい、周りに多少の光が全般的に流れ入って、すき間越しに合理的なものを通して自然的なものの中へ流れ入るのみであり、その結果その人間は合理的なものではなくなり、また霊的にも考えはしないのである。なぜなら人間はその享受する天界の光の流入に応じて考えるからである。このことは人間各々は自然的なものの善と真理とが合理的なものと相応している状態に応じて考えていることを示している。

 

 

 

 

22.善と真理はすべて主から発している

 

 

天界の秘義2904

 

 教会には主の真理である真理以外の真理は存在しない。

主から発していない真理は真理ではない。そのことはまた聖言から、聖言から由来している信仰の教義からも明白である。それはヨハネ伝における聖言から明白である―

 

 人間は天から与えられなくては、何ものも受けることはできない(ヨハネ3・27)

 

また他の所には―

 わたしとともにいないかぎり、あなたたちは何ごとも為すことはできない(ヨハネ15・5)。

 

そのことは信仰の教義からも明白である。すなわち、信仰の凡ゆるものは、すなわち、真理はことごとく主から発しているということから明白である。

 

 

 

天界の秘義4067[2]

 

 人間における諸善と諸真理についてその実情はいかようになっているかが把握されるために、殆どたれにも知られていないことを明らかにしなければならない。凡ゆる善と凡ゆる真理とは主から発していることが実際知られまた承認されており、また流入が在ることもまたある者たちから承認されてはいるが、しかしそれは人間はそれを知らないといった性質のものである。

 

 

 

天界の秘義4151[3]

 

 全般的に言って、実情は以下のようになっている、即ち、たれ一人自分自身のものである善と真理とは決して持ってはいなくて、善と真理とはすべて主から直接的にも、また天使たちの社会を通して間接的にも流れ入ってはいるものの、それでもその善と真理とはその人間のものであるかのように見えるのであるが、そのことはその人間が、その善と真理とはその人間のものではなくて、主のものであることを知り、次に承認し、最後に信じる状態へ入ってくるまで、その人間のものとされるという意図の下に行われているのである。さらに、善と真理とはすべて主から発しており、善は一つとして人間からは発していないことは聖言から知られ、またそのことにより基督教世界に知られており、否、聖言から発している教会の教義的なものも以下のことを宣言しているのである、即ち、人間は人間自身では善を追い求めることすら出来ない―なぜなら善を行なうことは善を意志することから発しているからであるが、信仰もまたすべて主から発しており、かくて人間は信仰をそれが主から流れ入ってこない限り些かも持つことは出来ないのである。

 

 

 

 

23.人間各々はその霊魂または霊の方面では天使の社会か、または悪魔の社会か、その何れかの社会の中にいる

 

 

天界の秘義4674[2]

 

 これらの事柄の実情は以下のごとくである、すなわち、教会(すなわち、教会の中にいる者たち)の誤謬と悪とはその中にいる者には現れていないのである、なぜなら誤謬の原理のもやが真理を完全に隠蔽し、悪の生命が真理を消滅させてしまうため、誤謬は誤謬からは見られはしないし、悪も悪から見られはしないからである。誤謬の原理も悪の生命も、誤謬が真理であり、真理が誤謬であり、善が悪であり、悪が善であるという外観を生み出すのである。それがそうであることは色々な経験から明白である。しかし教会は、または教会の中にいる者たちは、天界ではそれとは全く異なって現れている、なぜなら、天界では主から発している神的真理が在り、天界の神的真理は光であって、この光の中にはかれらの性質が明白になるからである。なぜなら人間各々はその霊魂または霊の方面では天使の社会か、または悪魔の社会か、その何れかの社会の中にいるからである。人間の思考はそこに存在しているが、しかしその者の言葉と行為とは人間の間に在って人間と種々に交わっているのである。

 

 

24.流入がない限り、人間は全く考えることは出来ない

 

天界の秘義5288

 

自然的な心の中に一切の物を秩序づけるものは実に善と真理である、なぜならそれらは内から流れ入って、その一切のものを排列するからである。人間の知的な能力の実情はいかようになっているか、人間はいかようにして事物を精神的に[心の中で]観察し、それを認識し、分析的に考え、そこから結論を引き出し、最後にそれを意志に送り、意志を通して、行為へ送るかを知らない者は、こうした事柄の中に何ら驚嘆すべきものをみとめない、かれは凡ゆる物は自然的にこのように流れ入ってくると想像して、その一切のものは主から天界を通して流入から発しており、こうした流入がない限り、人間は全く考えることは出来ないのであり、その流入が停止すると、思考の凡ゆる物も停止することを全く知らないのである。同じくまた彼は、主から天界を経て流れ入ってくる善は凡ゆる物を秩序づけ、その人間が許すに応じて、その凡ゆる物を天界の映像に従って形づくり、そこからその天界の形に一致した思考が流れ出ることも知らないのである。

 

 

天界の秘義7218

 

思考の一切のものは流れ入ってくるのであるが、

 

 

 

 

25.主から人間のもとへ絶えず流れ入っている善は、悪と誤謬により寸断される・・・閉じられる

 

天界の秘義5828[2]

 

 主から人間のもとへ絶えず流れ入っている善は、悪とそこから派生してくる誤謬によらなくては、また誤謬とそこから派生してくる悪とによらなくては死滅しないのである。なぜならこの善は、内なる人を通って途切れもしないで、外なるまたは自然的な人へ来るや否や、それに悪と誤謬とが会い、その悪と誤謬とにより善は野獣により寸断されるように色々な方法で寸断され、消滅してしまうからである。このため内なる人を通って流れ入ってくる善は抑えつけられ、止められてしまい、従って内的な心は―その心を通して善が流れ入るのであるが、その内的な心は―閉じられてしまい、ただその自然的な人に論じさせ、語らせることのできるだけの霊的なもののみが内的な心を経て入ることを許されるのであるが、しかしその論じ、語ることもただ地的な、身体的な、世的な物のみから論じ、語るのであって、実に善と真理とに反して論じ、語り、または見せかけ、或は詐欺から善と真理とに順応して論じ、語るにすぎないのである。

 

 

26.流出が抑制されるなら、流入も抑制される

 

流出/参照

 

 

27.たんに奈落の愛のみしか持たないにしても、依然かれの生命の最も内なるものは天界の愛から発している

 

天界の秘義6135[2]

 

そしてたとえ人間は天界の愛を持たないで、たんに奈落の愛のみしか持たないにしても、依然かれの生命の最も内なるものは天界の愛から発しているのである。なぜならこの愛は絶えず主から流れ入って、かれの中に生命の熱の初めのものを生み出しているが、しかしそれはそれが進んで行く中にその人間により歪められ、そこから奈落の愛が発し、そこから不潔な熱が発してくるからである。

 

 

28.真理と善を受ける能力は善から、すなわち、主から善を通して来ている

 

天界の秘義6148

『土地』の意義は真理の容器であり(そのことについてもまた前の6135−6137番を参照)、ここでは善を受ける能力である。なぜなら能力は受けることができることであって、容器が容器となるためには、この受けることができることがその中になくてはならないからである。この能力は善から、すなわち、主から善を通して来ているのである。なぜなら愛の善が主から流れ入らないかぎり、何人も真理も善も受ける能力を持たないからである。人間の中の凡ゆるものを配置して(真理と善とを)受けさせるものは主から注がれている愛の善の流入である。

 

 

 

 

29. 何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ

 

 

天界の秘義6195

 

 あまり善良でもないが、またあまり悪くもない霊たちが、長い間私と共に頭の少し上の方にいた。彼らは情愛の中へ深く流れ入る力を持っていた。彼らはその願いのままに、しばらくして(私の中へ)入り、その時殆ど分離できないように見える方法で、私に彼ら自身を結び付けたのである。私はこのことについて彼らと語り、あなたらは自分自身を分離しなくてはならないと言った。が、彼らは出来なかった。彼らがそれを試み、少しく彼ら自身を引き離したとき、彼らは、私が混乱した、とりとめもないことしか考えることができないほどにも私の思考を鈍くしてしまい、失神状態に陥る者の場合のように、苦痛が私の頭の中に感じられた。 このことにより如何ようにして愛は連結するか、またそのことによって他生の凡ゆる者が連結することも明らかにされたのである。それで愛そのものに入り込む霊たちは、世でも人間が他の者の愛を支持する場合のように、他の者を己がものとしてしまうのである。 このことから人間は如何にして天界か、地獄か、その何れかに連結するかが私に明白になったのである。すなわち、その者の愛により連結し、地獄とは自己と世への愛により連結するが、天界とは隣人と神への愛により連結するかが明白になったのである。 地獄に縛り付けられた人間はそこからは主によって神的方法を通して解き放たれない限り決して解き放たれはしないこともまた明白であった、そのこともまた単に微かな情愛によってのみしか私と結ばれはしなかった者たちからも示されたところであるが、その場合でも私は彼らからは媒介的な幾多の愛によらなくては解き放たれはしなかったのであり、その媒介的な幾多の愛により彼らは徐々に他の者たちと連結したのである。 そして彼らは分離するにつれ、私から遠く離れた前面の左手に移されるように見え、その分離は情愛の状態の変化により認められたのである。 なぜなら情愛が変化するにつれ、彼らは後退したからである。このことからまた他生の距離の外観はどこから生まれるかが明白である

 

 

 

天界の秘義6196

 

 霊たちは人間とはその人間の愛に従って共になることは、種々な経験によりわたしに明かされたのである、なぜなら私は何事かを熱烈に愛し始めるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ、その愛が止むまでは遠ざかりはしなかったからである。

 

 

 

 

30.理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入

 

 

天界の秘義6202

 

 他の流入もまた認められているが、それは人間のもとにいる霊たちを通して行われるものではなく、或る奈落の社会からその人間の生命のスフィアの中へ送り出される他の者らを通して行われている。 これらの者はその人間に不利な事柄について共に語り、そこから普通厄介な、不愉快な、悲しい、または不安な事柄が、多くの変化をもって流れ入ってくる。 こうした霊たちがしばしば私と共にいたことがあり、不安を注ぎ入れた者らは胃の領域に感じられたが、私はこうした不安がどこから起こってくるかを知らなかったのである。 しかし彼らは常に摘発されたのであり、私はその時彼らが彼ら自身の間で語り合ったことを ― それは私の情愛とは容れないものであったが ― 聞いたのである。貪欲な者が時々その同じ領域の中に、しかし少しもっと高い辺りに現われ、将来に対する心遣いから不安を注ぎ入れたが、私は彼らを譴責して、あなたらは胃の中の消化されない、悪臭を発し、反吐を催させるような物に関係しているとその者らに言うことができたのである。私はまた、彼らが追い払われると、その不安が全く止んでしまうのを見たが、しかもそのことが繰返されたため、私はそれが彼らから発していることを確実に知ることができたのである。 理由もないのに憂鬱な不安に悩まされる者における流入はこうしたものであり、また同じく霊的な試練を受けている者における流入もこうしたものである。 しかしこの後の場合ではこうした霊は全般的に流れ入るのみでなく、個別的にも奈落の霊どもはその人間が行った悪を呼び覚まし、善を歪め、それを悪く解釈するのである。 それで天使たちはこれらの者どもと争闘するのである。 再生しつつある人間はこうした状態へ入り、そのことにより彼は彼自身のものの中へ引き下ろされるが、これは彼が彼自身を世と身体の物に余りに深く浸し、そのため霊的なものへ上げられねばならない時に起こるのである。

 

 

 

 

1.天使たちは流れ入るときは、また情愛を接合させる

 

天界の秘義6320

 

 天使たちは流れ入るときは、また情愛を接合させるのであり、その情愛そのものはその中に無数の事柄を含んでいるが、しかしこの無数の物の中では僅かなものしか人間によっては受け入れられはしないのであり、事実その人間の記憶の中にすでに存在している事柄に適用されることができるもののみが受け入れられるのである。その天使の流入に他のすべてのものはそれを包囲し、それをいわばその胸の中に抱いているのである。

 

 

32.遺伝的な自然的な善を受けていても天界へ受け入れられない

 

天界の秘義6208

 

 遺伝的な自然的な善を受け、それによって他の者に善を為すことに歓喜を感じてはいるが、聖言、教会の教義から、または、宗教から、その何れからも善を為す原理には染み込んではいない多くの者がいるのである。かくて彼らは何ら良心を与えられることはできなかったのである、なぜなら良心は自然的な、または遺伝的な善からは発しないで、真理と善との教義とそれに順応した生活から発するからである。こうした人物は他生へ入ってくると自分たちが天界へ受け入れられないことを怪しんで、自分たちは善良な生活を送ったと言うのである。しかし彼らは以下のように話されるのである。すなわち、自然的な、または遺伝的なものから発している善良な生活は善良な生活ではなく、善良な生活は善と真理との教義に属しているものとそこから生まれる生活から発するのである、なぜならこうしたものにより人間は真で善いものに関わる原理を自分に印刻されて、良心を受け、それがその中へ天界が流れ入る面となるのである、と。こうした人物は、それが事実であることを知るために、色々な社会へ送られるが、そのとき、悪は善であり、善は悪であるという単なる理論とそこから生まれてくる信念とによって、凡ゆる種類の悪へ迷い込むままになり、凡ゆる方面でそのように説きつけられ、風の前のもみがらのように吹きまくられて行くのである。なぜなら彼らは原理を持っておらず、また天使たちに働きかけられて、自分が悪から引き出される面を持っていないからである。

 

 

 

33.流れ入ってくる善はそこで悪に変わり、真理は誤謬に変わり

 

 

神の摂理288

 

 天界の天使たちは凡て、自己からは思考は一つとして発することは出来ない、思考は凡て主から発すると告白するが、これに反し地獄の霊は凡て、思考はすべて自己から発生すると主張している。しかしこれらの霊は一人として自分自身から考えないし、また考えることは出来ないことが彼らに時々証明されたのであるが、しかし凡ては徒労に帰したのである。なぜなら彼らは納得しようとは欲しなかったからである。しかしながら、地獄の霊においてすら、凡ゆる思考と情愛とは天界から流れ入ってくるが、その流れ入ってくる善はそこで悪に変わり、真理は誤謬に変わり、かくて凡ての物はその反対のものに変わることが経験から示されるであろう。

 

 

 

神の愛と知恵348

 

用は凡て、善、悪を問わず霊的な起源から発し、かくて主のおられる太陽から発することは以下の経験により説明することが出来よう。諸々の善と真理とは主により諸天界を通して諸々の地獄へ送られるが、これらは最低の深淵に至るまで、度により受け入れられ、その深淵では送られた善と真理とに相反した悪と誤謬とに変えられることを私は聞いたのである。これはちょうど太陽の白い光線が、その光線を消滅させるような形を内に持っている原質の物体の中では醜い色または黒い色に変わるように、また水のよどんだ池、糞の山、死体が太陽の熱を悪臭に変えるように、受容する物が流れ入る物を凡てそれ自身の形に一致した物に変えるからである。この凡てから悪い用ですら霊的な太陽から発しているが、しかし善い用は地獄で悪い用に変えられていることを認めることが出来よう。それ故、主は善い用以外には何物も創造されなかったし、また創造されないが、しかし地獄が悪い用を生み出すことが明白である。

 

 

34.地獄との交流がそのとき人間に開かれ

 

天界の秘義920[3]

 

しかしその子孫におけるように、その教会が衰微し、かの認識が、または天界との交流[連なり]が失われ始めた時、他の状態の事柄が始まったのである。そのとき人間は以前のように、感覚の対象の中に天界的なものを最早何ら認めなくなって、単に世的なもののみを認め、そしてそれは彼らの認識が失われるに比例して増大し、遂には丁度洪水以前に存在した最後の子孫のもとでは、彼らは対象の中に世的な、形体的な地的な物以外には何ものをも認めなくなったのである。かくて天界は人間から分離し、彼らもまた極めて微かにしか交流しなくなり、地獄との交流がそのとき人間に開かれ、そこから彼の全般的な観念が発したのであり、その全般的な観念から、すでに示したように、凡て個別的な物の観念が流れ出ているのである。かくて天界的な何らかの観念[考え]が示されると、それは彼には全く無意義なものとなり、そのため遂には彼らは霊的な天的な物が存在することを承認しようとさえ欲しなくなったのである。このように人間の状態は変化し、転倒したのである。

 

 

35.聖体拝領における流入

 

天界の秘義10521

 

 この意義では主の『身体』、または『肉』は、『パン』と同様に愛の善を意味し、主の『血』は『ぶどう酒』と同様に信仰の善を意味し、『食べること』は己がものとすることと連結することとを意味しているのである。人間と共にいる天使たちはその人間が聖餐の礼典に列る時、その事柄をそれ以外のものとしては認めていない。なぜなら彼らは凡ゆる事柄を霊的に把握しているからである。ここからその際その人間のもとへその天使たちから、かくて主から天界を通して愛と信仰との聖い感情が流れ入って来るのである。そこから連結が生まれているのである。

 

 

36.モーセが祈願したことは実際モーセの口から発してはいたものの、主から発していた

 

天界の秘義7406

 

 モーセが祈願したことは実際モーセの口から発してはいたものの、主から発していたのである。なぜなら何であれ人間が考えてそれから話すことは、また何であれ人間が欲してそれから為すことは凡て流れ入っており、その人間は単に受容器官にすぎず(6189−6215、6307−6327、6466−6495、6598−6606、6613−6626)、モーセが話しもし、行いもしたことも全くそれと同じであったからである。

 

 

 

 

37.天界を経て光から認めることが流入により意味されている

 

 

人間の霊の考え〔思考〕であるところの人間の内的な考えは、地獄か、天界か、その何れかから発しているのである。この考えが地獄から発している時は、人間は、自然が神であり、自然の最も内なるものが神的なものと呼ばれているものである、としか認めないのである。こうした人間が死後霊となると、彼は特に力を持った者をたれでも神と呼んで、自分自身がまた、神と呼ばれたいために、権力を求めるのである。悪い者らは凡てその霊の中にこうした狂気を潜ませているのである。しかし人間が天界から考える時は―彼は悪が遠ざけられた時、そのように天界から考えるのであるが―神がおられ、神は一人であられることを天界の光から認めるのである。天界を経て光から認めることが流入により意味されているものである(黙示録講解954番)。

 

 

 

 

38.誰でも知っている

 

 

生命31

 

何人も自分自身からは真に善いことを為すことが出来ないことは真理である。しかし悪を罪として避けている人間により為される仁慈の善をすべて無視するためにこの真理を用いることは大きな邪悪である、なぜならそれは人間は為さなくてはならないと命じている聖言に真向から反するからである。それは法と予言者たちがかかっている神に対する愛と隣人に対する愛の戒めに反しており、宗教の凡ゆる物を愚弄し、それをくつがえすことである。なぜならたれでも宗教は善いことを為すことであり、人はすべてその行為に従って審かれることを知っているからである。人は各々もし切に求めるならば、主の力によって悪を自分自身から避けるものとして避けることが出来るように作られており、その後彼の行うものは主から発している善である。

 

 

 

 

39.神を人間として考えることが植えつけられている

 

黙示録講解1118[2](神・摂理・創造22)

 

人間であるか、または人間として自分らに現れていた神々を多くの民と国民とが拝したのは、各々の者の中に神を人間として考えることが植えつけられているためである。

 

(中略)

神を人間として考えることは―それは天界から流れ入っているが―

 

 

 

黙示録講解954〔2〕

 

神は一人であられることを人間は流入のみから知っており、謂わば、そのことを認めることは凡ゆる国民の共通の告白から明白であり、多くの神々がいると考えることに対する反感から明白である。人間の霊の思考である人間の内的な思考は、地獄からか、または天界からか、その何れかから発しており、幾多の悪が遠ざけられないときはそれは地獄から発しているが、幾多の悪が除かれているときは天界から発している。この思考が地獄から発しているときは、人間は自然が神であり、自然の最も内なるものは神的なものであるとしか認めないのである。そうした人間は死後霊となるとき、特に権力のある者をたれであれ神と呼び、またその者自身が神と呼ばれるために権力を求めて努力するのである。悪い者らはことごとくその霊の中の内部にそうした狂気を潜ませて居るのである。しかし人間は天界から考えるときは―幾多の悪が遠ざけられるとき、人間は天界から考えるのであるが―天界の光から、一人の神がおられ、その方は一人で在られることを認める〔見る〕のである。天界からの光から認める〔見る〕ことが流入により意味されているものである。

 

 

 

天界と地獄74

 

再三また私は彼らに以下のように告げたのである。即ち、基督教世界の人々は天使と霊たちとについては全く無知で盲目であるため、彼ら[天使と霊]は生命を若干宿したエーテルのようなものであるとしか考えられないところの、形のない心、純粋な思考であると信じており、彼らはこのように天使と霊には、人間のものは、考える力以外には何一つ与えていないため、天使と霊は目がないから、見はしない、耳がないから、聞きはしない、口も舌もないから、話はしないと信じている、と。これに対し天使たちは世の多くの者のもとにはこうした信念があり、それは学者たちの間にひろまり、また、驚いたことには、祭司たちの間にもひろまっていると言った。彼らはまたその理由も話した、すなわち、指導者であるものの、天使と霊たちについてこうした考えを最初に持ち出した学者らは天使と霊を外なる人間の感覚的な考えから考えたのである。そしてこうした考えから考えはするが、内的な光から、また各人に植え付けられている普通の考えから考えない者らは、こうした考えを考案せざるを得ないのである、それは外なる人の感覚的な考えは自然の内に在るもの以外のものは何一つ、すなわち、上に在るものは何一つ、引いては霊界のものは何一つ考えないという理由によっている。これらの指導者に導かれて、そこからこうした天使についての誤った考えが、自分自身から考えないで、自分を指導してくれる者から考えるところの他の者たちへひろがったのであり、先ず他の者から導かれて考えて、その考えを自分の信念とし、後には自分自身の理解をもってその信念を観察する者は容易にそこから後退することはできず、それで大半の者はそれに黙従してその信念を確認している。彼らは更に、信仰と心の単純な者は、天界からその者の中に植え付けられているものを博識によって消滅させてはおらず、また形のない物を何ら考えていないため、天使たちをそのようなものとは考えてはいないと言った。こうした理由から教会では天使たちは、それが彫刻であれ、絵画であれ、人間以外のものとしては表されてはいないのである。天界から植え付けられているものについては、彼らは、それは信仰と生命との善にいる者たちのもとへ流れ入っている神的なものであると言った。

 

 

 

 

天界と地獄79

 

 諸天界の天使たちは凡て主を人間形以外の形の下では認めておらず、注目すべきことは、高い諸天界にいる者たちは神的なものをそれ以外のものとしては考えることが出来ないのである。彼らは、流れ入ってくる神的なものそれ自身から、また天界の形からーその形に応じて彼らの思考はそれ自身をひろげるのであるがーそのように必然的に考えざるをえないのである。

 

 

 

 

天界と地獄82

 

諸天界には神的なものについてはこうした認識があるため、天界から何らかの流入を受けている人間各々の中にも神を人間の形の下に考えることが植え付けられている。古代の人間たちはそのように考えたのである。教会の内外を問わず、現今の人間もそのように考えている。単純な者は思考の中で神を輝く光の中におられる故老として見ている。しかしこの植え付けられている原理は、自分自身の理知により、また悪い生活によって天界からの流入を斥けてしまった者凡てにより消滅している。自分自身の理知によりそれを消滅させてしまった者らは目に見えない神を持とうとするが、悪い生活によりそれを消滅させた者らは、何ら神を持とうとはしない。前の部類の者も、後の部類の者も、こうした思考の原理が自分たちのもとにないため、それが何人にも植え付けられていることを知っていないが、しかもそれは天界から人間のもとへ流れ入る神的な天界の原理そのものである。なぜなら人間は天界のために生まれていて、何人もその神的存在を考えなくては天界には入らないからである。

 

 

 

天界と地獄83

 

 ここから天界を考えない者は、すなわち、天界を存在させている神的なもの[神]を考えない者は、天界の最初の入口へも挙げられることは出来ない。彼は初めそこへ来ると、抵抗とまた強い反撥を感じる。その理由は、天界を受けなくてはならない彼の内部は、天界の形を持たず、閉じられているということであり、実に、彼は天界に近づいて行くに応じて益々その内部はきつく閉じられるのである。これが教会内で主を否定する者と、ソツニウス派の者のように、主の神性を否定する者との運命である。しかし教会の外に生まれて、聖言を持っていないため、主を知っていない者たちの運命はいかようになるかは、後に述べよう。

 

 

 

天界と地獄86

 

 天使たちは、神を考えるときに、見えないものを、すなわち、いかような形の下にも把握出来ないものを考える人間が自分自身を理知的なものと信じており、そのように考えない者を―その反対が真理であるのに―非理知的で、単純な者と呼んでいることを不思議がったのである。彼らはそれに付け加えて[以下のように]言っている、「このようにして自分自身を理知的なものと信じている者らに自分自身に向って、自分たちは自然を神として見てはいないか、どうかと訊ねさせなさい。その中のある者は自分の目の前に在るものを、ある者は自分の目の前にないものを神として見てはいないか、どうか。また自分たちは、神とは何であるか、天使とは何か、霊とは何か、死後生きるに違いない彼らの霊魂とは何か、人間における天界の生命とは何か、その他理知に属した多くの物を知らないほどにも盲目ではないかどうか[訊ねさせなさい]。が、彼らが単純な者と呼ばれている者たちは、彼らなりに、凡てこれらの事柄を知っていて、神については、神は人間の形を持った神的なものであり、天使については、天使は天界の人間であり、死後生きるに違いない彼らの霊魂については、それは天使であり、人間のもとにある天使の生活については、それは神の教えに従って生きることであると考えているのである」。それゆえ、これらの者を、天使たちは理知的な、天界に適わしい者と呼んでいるが、これに反し、他の者を理知的でない者と呼んでいる。

 

 

 

天界の秘義9256

 

教会の外にいて「異邦人」と呼ばれている者たちについては、彼らは実際教義の誤謬の中にはいるが、しかし聖言を持たないため、無知からその中にいるのであって、それでも教えられると、人間のもとにある天界の生活については、基督教徒よりもさらに明白に認識し、従ってさらに内的に認識しているのである。その理由は彼らは、非常に多くの基督教徒のように信仰の諸真理に反したことを確認していないということであり、それでその内なる人は閉じられていないで、小さな子供たちのように、それは即座に開かれて、真理を受け入れるのである。こうした人物の内なるものはもしこの世でないなら他生で上方へ開かれる。これが己が宗教に順応して善に生きた凡ての者の運命であり、それで主の教会は全世界に遍く広がっているのである。しかし地上の主の教会そのものは諸天界の巨大人に似ており、その心臓と肺臓から生きているところのその肢体と内臓の爾余の部分は聖言が存在していない所に存在しているのである。こうした理由から教会はユダヤ民族から異邦人へ移されたのであり、また現代の教会もまた今や異邦人のもとへ移されつつあるのである(2986、4747)。

 

驚くべきことには異邦人たちは唯一の神を人間の形の下に拝するのである。それで彼らは主について聞くと主を受け入れ、承認するのであり、その教会はこうした者たちのもとに再び設立される。マタイ伝の主の御言葉から明白である。

 

あなたたちは建てる者らが斥けた石が隅の親石となったことを聖書に読みませんでしたか。それでわたしはあなたらに言う、神の王国はあなたらから取り去られて実を結ぶ国民に与えられるでしょう。(21・42、43)

 

「石」は主。(6426)

 

「建てる者たち」は教会に属した者たち。これらの者は最後の者となり、異邦人が最初の者となることはルカ13・29、30に

 

彼らは東と西から、北と南から来て、神の王国の食卓にもたれるであろう。見よ、最初の者となる最後の者があり、最後の者となる最初の者がいるであろう。

 

 

 

 

 

40.死後の生命があること

 

 

天界と地獄602

 

最後に、人間へ注がれている天界の流入から発しているところの、死後の人間の生命についての人間に先天的な抱かれている先入観念について若干述べておかなくてはならない。世では信仰の善に生きたところの、単純な、普通の人々の幾人かがいた。彼らは世にいたときおかれていたと同じ状態へ入れられ―こうしたことは何人にでも主が良しとされるなら、行われるのである―彼らは死後の人間の状態についていかような考えを抱いていたかをそのとき示されたのである。彼らは言った、理知的なある者たちが世で自分たちに向って、世の生命の後の自分たちの魂について、どう考えているかとたずねたが、自分たちは魂とは何であるかはわからないと答えたのである、と。彼らはさらに死後の状態について何を信じているかとたずねられたが、彼らは霊として生きることを信じている、と言った。次に彼らは霊についていかような信念を抱いているかとたずねられたが、霊は人間である、と言った。どうしてあなたらはそのことを知っておられるかと、またたずねられると、それがそうだから知っているのであると言った。彼らに質問をしたその理知的な人たちは、単純な者たちがそうした信仰を持っているのに、自分たち自身はそれを持っていなかったことを不思議がったのである。このことから、天界と連結している人間各々には死後の自分の生命については先天的な先入観念があることが明らかにされたのである。この先天的な先入観念は天界からの流入以外の源泉から発しているものではない、即ち、主から天界を通し、霊たちの世界から人間に接合している霊たちにより与えられるものである、こうした先入観念は、人間の霊魂について色々と論じられている議論から取り入れられ、また確認された主義によって、考える自由を消滅されていない者たちは持っているのである―人間の霊魂は純粋な思考か、または何か生命の原理であるかと言われて、それは身体の何処かに宿っていると探求されているが、事実は、霊魂は人間の生命以外のものではなく、その霊は人間そのものであり、人間が世で持ち回っている地的な身体は、単に代行者であって、この代行者により、その人間そのものである霊は自然界で適切に行動することが出来るのである。

 

 

 

天界と地獄603

 

 本書で天界、霊たちの世界、地獄について述べたことは、霊的な真理を知ることを喜ばない者たちには明確ではないであろうが、それを喜ばれる方々には、特に、真理のために真理を愛される方々、即ち、真理を、それが真理であるために愛される方々には明白であろう、なぜならすべて愛されるものは光をもって、特に真理はそれが愛される時は、光をもって、心の観念〔考え〕の中へ入って来るからである、それは真理はすべて光の中に存在するからである。

 

 

 

 

41.主御自身が流入されるのは人間の額の中へ、額からその顔全体へ流入される

 

 

天界と地獄251

 

 

 主御自身が流入されるのは人間の額の中へ、額からその顔全体へ流入されるのである、なぜなら人間の額は愛に相応し、顔は人間の内部の凡てに相応しているからである。霊的天使が人間に流入するのはその頭の凡ゆるところであり、[即ち]大脳が宿っているところの、額とこめかみから凡ゆる部分にいたるところであるが―なぜなら頭のその領域は理知に相応しているから―天的天使が流入するのは、小脳が宿っていて、後頭部と呼ばれている頭の部分であり、[即ち]耳から首までにいたる周り全体である、なぜならその領域が知恵に相応しているからである。人間と話す天使たちの言葉は凡てこの道から人間の思考へ入っており、この方法により私は私と話した天使たちはいかような天使たちであったかを認めたのである。

 

 

 

 

42.人間が考え、欲することはことごとく地獄か、天界か、その何れかから発している

 

 

天界の秘義1707[3]

 

人間各々における内なる人は主にのみ属している、なぜならそこに主は人間に幼児の頃から与えられる諸善と諸真理とを貯えておかれるからである。そこからこれらのものを通して主は内的なまたは合理的な人の中へ流れ入られ、この内的な、または合理的な人を通して外的な人へ流れ入られ、このようにしてその人間に考えて、人間になることが与えられているのである。しかし内なる人から内的なまたは中間の人へ注がれ、かくして外的な人へ注がれる流入は二重性を持っていて、それは天的なものか、または霊的なものか、その何れかによって行われており、またはそれと同一のことではあるが、善かまたは良心かその何れかを与えられている再生した者にのみ流れ入っており、かくてそれは認識かまたは良心により流れ入っているのであり、そうした理由から天的なものによる流入は主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいる者のもとにのみ存在しているのである。しかし霊的なものまたは真理によっては、主は人間各々のもとに流入されており、この流入がない限り、人間は考えることが出来なくなり、それで語ることも出来なくなるのである。人間が諸善と諸真理とを歪めてしまうといった者になると、また天的な霊的なものを何ら心にかけないときは、その時は天的なものまたは善の流入はなくなってしまって、それらのものに対する道は閉ざされてしまうが、それでも霊的なものまたは真理の流入は存在しているのである、なぜならそうしたものに対する道は絶えず開かれているからである。ここから内的なまたは中間的なものの性質はすなわち合理的な人の性質はいかようなものであるかを認めることができよう。

 

 

 

天界の秘義2886

 

 人間の情愛と思考とについては実態は以下のようになっている、即ち、たれ一人、その者はいかような者であれ、人間であれ、霊であれ、天使であれ、自分自身からは意志し[欲し]、また考えることは出来ないのであり、他の者から意志し[欲し]、考えるのであり、またこの他の者もその者自身から意志し、考えることは出来ないで、さらにすべての者も他の者から意志し[欲し]、考えているという風になっており、かくて各々の者は主であられる生命の最初のものから意志し[欲し]、考えているのである。関連していないものは存在しない。悪と誤謬とは地獄に関連しており、地獄から悪と誤謬の中にいる者らの欲することと考えることとが発しており、またその者らの愛と情愛と歓喜が、従ってその者らの自由が発している。しかし善と真理とは天界に関連しており、その中にいる者たちの欲することと考えることとは天界から発し、同じくまた彼らの愛と情愛と歓喜も、それ故彼らの自由も天界から発している。このことから私たちはその一方の自由は何処から発しているか、また他方の自由は何処から発しているかを認めることが出来よう。実態は実にそのようになっていることは他生では極めて充分に知られているが、現今では世では全く知られていないのである。

 

 

 

天界の秘義2887

 

 人間のもとには絶えず悪霊がつきそっており、また天使もつきそっている。霊どもにより彼は地獄と交流し、天使たちにより天界と交流している。もしこれらの霊と天使とが彼から万が一にも取り去られるなら、彼は一瞬にして意志すること[欲すること]と考えることを喪失し、かくて生命を喪失するであろう。そのことは背理のように思われるが、それでも極めて真実である。しかし人間のもとにいる霊どもと天使たちについては、主の神的慈悲の下に他の所で述べよう。

 

 

 

天界と地獄2888

 

 真理は各々の者の生命は、即ち、人間のみでなく、霊の、また天使の生命は、生命それ自体であられる主から専ら流れ入っていて、それがそれ自身を全天界を経て、また地獄を経て拡げ、かくて各々の者の中へ入っており、しかもそれが把握することも出来ない秩序と連続をもって行なわれているが、その流れ入ってくる生命は各々の者によりその者の気質に応じて受け入れられているということである。善と真理とは善良な者によっては善と真理として受け入れられているが、しかし悪い者によっては善と真理とは悪と誤謬として受け入れられ、また彼らの中には悪と誤謬に変えられるのである。その実情はかなり太陽の光に似ている、即ち太陽の光は地の凡ゆる物体[対象]の中へそれ自身を広げているが、各々の物体の性質に応じて受け入れられており、美しい形の中では美し色を持ったものとなり、不愉快な形の中では不愉快な色を持ったものとなっている。世ではこのことはアルカナであるが、しかし他生ではこれほど良く知られているものはないのである。私は流入がこのような性質を持っていることを知るために、私は私と共にいた霊と天使と語り、また彼らの流入を感じもし、認めることも許されたが、しかもそれは私がその度数を数えることが出来ない程にも頻繁に行なわれたのである、しかし私は迷妄[妄想]が遍く支配することを知っている、即ち、人間は自分自身から欲するのであり、自分自身から考えるのであり、かくて自分自身から生命を持っているという迷妄[妄想]が遍く支配することを知っている、即ち人間は自分自身から欲するのであり、自分自身から考えるのであり、かくて自分自身から生命を持っているという迷妄[妄想]が遍く支配することを知っているが、何一つそれ以上に真理から遠いものはないのである。

 

 

 

 

天界の秘義4067[2]

 

 人間における諸善と諸真理についてその実情はいかようになっているかが把握されるために、殆どたれにも知られていないことを明らかにしなければならない。凡ゆる善と凡ゆる真理とは主から発していることが実際知られまた承認されており、また流入が在ることもまたある者たちから承認されてはいるが、しかしそれは人間はそれを知らないといった性質のものである。それでも人間の周りには霊たちと天使たちとがおり、人間の内なる人は彼らの真中に在り、かくて主により支配されていることが知られてはいないし、少なくともそのことが心では承認されてはいないため、それは、たとえ口に言われてはいるものの、殆ど信じられてはいないのである。他生には善と真理との凡ゆる種属に従って主により配置され、秩序づけられている無数の社会が存在しており、また悪と誤謬との凡ゆる種族に従って配置されているところの対立した社会も存在しており、かくて善と真理とのいかような種属も、またその種属の中のいかような種類も、また実にいかような特殊な変種のものも必ずこうした天使の社会を持っており、また必ずそれに相応している天使の社会が存在しているのである。また他方悪と誤謬とのいかような種属も、またその種属の中のいかような種類も、また実にいかような特殊な変種のものも必ずそれに相応した悪魔的な社会をもっている。こうした者の社会の中に人間はことごとくその内部の方面では(即ち、その思考と情愛との方面では)、たとえ人間はそのことは知らないにしても、いるのである。人間が考えもし、欲しもするものはことごとくこの源泉から発しており、それで人間がその中にいるところのその霊たちと天使たちとの社会が取り去られるなら、たちまち人間は何らの思考も、何らの意志も持たなくなって、全く死んでしまって倒れ伏してさえしまうのである。こうしたものが、たとえ人間は自分は凡ゆるものを自分自身から得ている、地獄も天界も在りはしないと信じてはいるものの、また地獄は自分からは遠く隔たっており、天界もまた同じく隔たっていると信じてはいるものの、人間の状態なのである。

 

 

 

天界の秘義4151[2]

 

 この間の実情のいかようなものであるかは他生に起きるものからでなくては認めることは出来ない、なぜならそこで人間の近くに事柄は恰も彼の中に在るかのように彼には見えるのであり、そのことは他生の霊たちの場合でも殆ど同一であるからである。媒介的な善の中にいる霊たちの社会が天使たちと交わっていると、その時は彼らには天使たちに属している諸真理と諸善とは正しく彼ら自身のものであるかのように見えるのであり、実際彼らはそれが事実でないことを認めるのであり、それで彼らはそれらが自分たちが交わっていた者たちにより取り去られたと信じるため、苦情を訴えるのである。このことがテラピムについて述べられていることにより内意にここに意味されている事柄である。

 

 

 

天界の秘義4151[3]

 

 全般的に言って、実情は以下のようになっている、即ち、たれ一人自分自身のものである善と真理とは決して持ってはいなくて、善と真理とはすべて主から直接的にも、また天使たちの社会を通して間接的にも流れ入ってはいるものの、それでもその善と真理とはその人間のものであるかのように見えるのであるが、そのことはその人間が、その善と真理とはその人間のものではなくて、主のものであることを知り、次に承認し、最後に信じる状態へ入ってくるまで、その人間のものとされるという意図の下に行われているのである。さらに、善と真理とはすべて主から発しており、善は一つとして人間からは発していないことは聖言から知られ、またそのことにより基督教世界に知られており、否、聖言から発している教会の教義的なものも以下のことを宣言しているのである、即ち、人間は人間自身では善を追い求めることすら出来ない―なぜなら善を行なうことは善を意志することから発しているからであるが、信仰もまたすべて主から発しており、かくて人間は信仰をそれが主から流れ入ってこない限り些かも持つことは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義4151[4]

 

 これらの事柄が教会の教義的なものにより宣べつたえられ、説教により教えられている。しかし僅かな者しか、否、極めて僅かな者しかな者しかそれが然うであることを信じてはいないことは、彼らは生命はすべて彼ら自身の中に在ると考え、殆どたれも生命が流れ入ってくることを考えていないという事実から認めることが出来よう。人間の生命はすべて考えることが出来、意志することが出来る能力から成っている、なぜなら考え、意志する能力が取り去られるなら、生命は何一つ残らないからである。そして生命そのものは善を考え、善を意志する能力から、また真理を考え、私たちが真のものであると考えることを意志することから成っている。これらのものは人間のものではなくて、主のものであり、主から天界を通して流れ入ってくることは聖言から来ている教会の教義的なものに順応していることをそこから結論することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義4151[5]

 

 悪と誤謬の場合も同じである。聖言から来ている教義に従うと、悪魔は人間をたぶらかそうと絶えず努めており、また絶えず悪を吹き込んでおり、それでたれかが大きな犯罪を犯すと、彼は悪魔により迷わされるのに甘んじたと言われている。そしてそのことがたとえそのことを信じる者がいてもそれは僅かではあるけれど真の事実なのである。なぜなら善と真理とはすべて流れ入っているように、悪と誤謬もすべて流れ入っており、従ってまた悪を考え、意志することもすべて流れ入っていることを認めることができるのである。これらのものもまた流れ入っているため、何らかの判断力をもって反省することのできる者はすべて、生命はすべて、それは恰も人間の中に在るかのように見えるはするものの、流れ入っていることを推論することが出来よう。

 

 

 

天界の秘義4151[6]

 

 これが実情であることは世から他生へ入って間もない霊たちにひんぱんに示されている。しかしその霊たちのある者はもし悪と誤謬もまたすべて流れ入ってくるなら、悪と誤謬とは一つとして彼らに帰せられることは出来ない、それらは他の源泉から来ているため、彼らは過ってはいないと言ったのである。しかし彼らは以下のように答えられた、即ち彼らは彼ら自身で考え、意志していると信じることにより悪と誤謬とを己がものとしてしまったのであり、それに反しもし彼らがまことに実情のあるがままに信じたなら、その時は彼らは悪と誤謬とを己がものとはしなかったであろう、なぜなら彼らは善と真理とはすべて主から発していることを信じたであろうし、もし彼らがそのことを信じたなら、彼らは彼ら自身が主により導かれるのに甘んじたであろうし、それで異なった状態の中にいたであろう、またその時は彼らの思いと意志とに入った悪は彼らを動かしはしなかったであろうから、なぜなら悪ではなくて善が彼らから発したであろうから、なぜなら私たちを動かすものは入ってくるものではなくて、発するものであるからであり、それはマルコ伝7・15の主からの御言葉に従っているのである。

 

 

 

天界の秘義4151[7]

 

 多くの者はそのことを知ることが出来るが、しかし僅かな者しかそれを信じないのである。悪い者らですらそれを知ることが出来るが、しかし依然信じることは出来ない、なぜなら彼らは彼ら自身のものであるものの中にいることを願って、そのことを、凡ゆるものが流れ入っていることを示されると、不安になって、自分自身のものであるものの中に生きることを許されるようにと切に願い、もし自分自身のものが彼らから仮にも取り去られでもするなら、自分たちはもはや生きることは出来ないと主張するほどにも、愛しているからである。そうしたものが知っている者たちの信念である。こうした事柄を言ったのは、媒介的な善の中にいる霊たちの社会の実情がいかようなものであるかを、即ち、彼らが他の者たちと連結している時の、また他の者たちから分離している時の実情がいかようなものであるかを明らかにするためであり、即ち、彼らは連結している時は、彼らはその諸善と諸真理とは彼らのものではないけれど、彼ら自身のものであるとのみしか知っていないのである。

 

 

 

天界の秘義4259

 

殆ど凡ての者は自分の考える真理はすべて、自分が意志し、行う善はことごとく自分自身から発していると信じている。

しかし実情は違う。何であれその意志するものはことごとく(すなわち、かれの思考と情愛のことごとくは)地獄かまたは天界かその何れかから発生している。

 

 

 

天界の秘義5846

 

善と真理とは主から天界を通してかくて人間のもとにいる天使たちを通して流れ入っている。悪と誤謬とは地獄を通してかくて人間のもとにいる悪霊を通して流れ入っている。

 

 

 

天界の秘義6191

 

今や多年にわたって、わたしの思考の凡てと情愛の凡てとは霊と天使を通して流れ入っているからである。

 

 

 

天界の秘義7147

 

人間と霊とはその者自身から考えないで、凡ゆるものは流れ入るためである、そうしたことは私たちには全く感じられはしないのであり、それで信じられることは出来ないように見えはするものの、それでも全く真のことである(そのことについては経験からすでに引用し、示したことを参照されたい、2886、4151、4249、5846、5854、6189−6215、6307−6327、6466−6495、6598−6626番)。この凡てから、取り憑いて悩ますことは注ぎ入れられる誤謬により行われて、それは絶望に至るまでさえも増大するということはいかように理解されなくてはならないかを知ることが出来よう。

 

 

 

黙示録講解86

 

何であれ人間が考え、欲することはことごとく地獄か、天界か、その何れかから発している。もし人間が悪を考え、それを欲するなら、それは地獄から発しているが、しかし善を考えて、それを欲するならそれは天界から発しているのである。人間の中には他の何らかの源泉から発している思考と意志とは一つとして存在してはいないのである。自分は自分自身から考え、欲していると考えている人間はこのことを知ってはいないのである。こうした理由から、悪を考え、欲している人間は事実[現実に]地獄にいるのであり、世に生きている間に現実にいる所へ死後その者はやってくるのである。人間の霊はその者が考え、欲している事柄から構成されているため、人間は他のいかような所へも来ることはできないのである。

 

 

 

霊界日記1910

 

霊界日記1911

 

ついに私は、私が私自身からではいかような事も考えることが出来ないという事実に慣れてしまったとき、私はそのことに一種の楽しさを憶えたのである。

 

 

 

43.もし彼がこの関連性を奪われるなら、一瞬も生きはしない

 

 

天界の秘義697

 

 人各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使が居る。悪霊を通してその人間は地獄と交流し、天使を通して、天界と交流している。人間はその両方の者と交流していないなら、一瞬も生きることはできない。かくて人間は各々そのことに気づいてはいないが、何処からの奈落の者の社会の中にいるのである。しかし彼は永遠の生命に対する準備の状態にいるため、彼らの拷問は彼には伝えられていない。人間がその中にいた社会が他生で時折彼に示される、なぜなら彼はそこへ帰り、かくて彼が世で送っていた生活に帰り、そこから地獄へ向うか、または天界へ挙げられるか、するからである。かくて仁慈の善に生きないで、自らが主により導かれることを許さない人間は奈落の輩の一人となり、死後また悪魔になるのである。

 

 

 

天界の秘義2556

 

真に合理的なものである、即ち、再生している人間のもとでは、凡ゆるものは天界に存在しているような秩序をもって排列されており、しかもそれは流入から発しているのである。そこから、単なる人間の知識と知恵の凡てのものにもまさり、また人間が勤勉にこれらの源から引き出してきた分析にさえも無限にまさっているほどにも驚くべき、考え、結論し、判断し、反省する能力が人間に与えられているのである。これらの事柄が今に至るまでも知られてこなかった理由は、情愛の、認識の、思考の凡ゆるものは流入しており(悪いものは地獄から、善いものは天界から流入しており)かくてこれらのものはそれらのものの外側に在る物と関連していることが信じられてこなかったということであるが、しかしそれでも真理は人間はその人間の外にいる者たちと、その霊の方面では連結していて、もし彼がこの関連性を奪われるなら、一瞬も生きはしないということであり、このことはまた、凡て連結していないものは不可能であり[在りえないのであり]、連結していない物は一瞬にして死滅してしまうという事実からも知ることができよう。

 

 

 

44.主が導かれる

 

 

天界の秘義6472

 

 主は御自身から流れ入るものを受けるように人間に強いられはしないで、自由に導かれており、人間が許すに応じ、自由を通して、善へ導かれている。このように主は人間をその歓喜に従って、また妄想とそこから受け入れられた主義に従って導かれているが、しかし徐々に彼をそれらのものから導き出されるのであり、しかもそのことはその人間には恰も自分自身から発しているかのように見えるのである。このようにして主はこれらのものを破壊されはしないのである。なぜならそのようなことは自由に暴行を加えることであって、人間は改良されるためには自由は必ず存在しなくてはならないからである(1837,1947、2875、2876、2881、3145、3146、3158、4031)。主は人間のもとへこのようにして、即ち、人間の中の内的なものの中へも、外的なものの中へも、天界を通して間接的に流入されるのみでなく、御自身から直接にも流入されていることはこれまでに知られなかった秘義である。

 

 

 

天界の秘義6473

 

 凡ゆる思考はいかようにして主により支配されているかが、経験により一時間の間にわたってわたしに示された。非常におだやかな、ほとんど認知することもできない流れのような流入があったが、その流れは現れはしないものの、導き、引きよせるのである。

 

 

 

天界の秘義6495

 

主から発している流入は天界的な愛の善であり、かくて隣人に対する愛の善である。この愛の中に主は現存されている。なぜなら主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである。そしてこの愛の善は主御自身から発しているため、主御自身がその中におられ、かくて主はこの愛の善の中にいる人間のもとに現存されているのである。

 

 

 

 

45.人間のもとにいる天使と霊とを通して行われている

 

 

天界の秘義904

 

「神はノアに語られた。」これはこの教会の人間のもとに主が現在[臨在]されたことを意味していることは聖言の内意から明らかである。主は人間各々のものと話されている、なぜなら人間が意志し[欲し]考える善い真のものはことごとく主から発しているからである。人間各々のもとには少なくとも二人の悪霊と二人の天使がいる。悪霊どもは彼の幾多の悪を刺激するが、天使たちは善い、真のものを吹き入れる。天使達により吹き込まれる善い、真のものはことごとく主のものであり、かくて主は絶えず人間のもとに語られているが、しかしそれは人間各々により全く異なっている。自分自身が悪霊どもにより導き去られるのに甘んじる者らのもとでは、主は恰も在したまわないかのように、または遠くから、語られるため、それで主は語られつつあるとは殆ど言われることは出来ないが、しかし主によって導かれつつある者たちのもとでは、さらに近く現存されているものとして語られるのであり、このことは何人も主から善い真のことを考えない限り、善い真のことは一つとして決して考えることは出来ないという事実から充分に明らかとなるであろう。

 

 

 

[2]主の臨在はその人間がその中におかれている隣人に対する愛と信仰の状態に応じてその人間について述べられる。主は善の凡ての中におられるため、隣人に対する愛の中に主は現存[臨在]されているが、しかし主は、愛のない、信仰と言われているものの中にはそれ程現存されてはいない。愛と仁慈のない信仰は分離した、または結合していないものである。連結の在る所には凡て連結させる媒介物がなくてはならないのであって、それは愛と仁慈以外の何ものでもない、このことは主はたれにも慈悲深くあられ、たれをも愛され、たれをも永遠に幸福にしようと欲しておられるという事実から凡ての者に明白であるにちがいない。それ故他の者に慈悲深くあり、その者を愛し、その者を幸福にしようと欲するといった愛を持っていない者は、主に似ていないし、また些かも主の映像を宿していないため、主に連結することはできない。かれらが言っているように、主を見上げて、しかもそれと同時に隣人を憎むことは単に遥か彼方に立つことであるのみでなく、自分自身と主との間に地獄の深淵を持つことであって、もしかれらが万が一にもさらに近づきでもするなら、その深淵に落込んでしまうであろう。なぜなら隣人に対する憎悪は間に介在する奈落の深淵であるからである。

 

 

 

[3]人間が隣人を愛する時始めてその者の許に主の現存[臨在]が可能となる。主は愛の中におられ、人間が愛の中にいるに比例して、主は現存[臨在]され、主が臨在されるに比例して主は人間のもとに語られるのである。人間は自分は自分自身から考えているとしか考えてはいないが、事実は人間は人間自身からは只一つの観念[考え]さえも得ておらず、一つの観念の最小のかけらさえも得ていないのであって、悪い誤ったものは地獄から悪霊等を通して得ており、主からは天使たちを通して善い、真のものを得ているのである。かくのごときが人間における流入であり、その流入から彼の生命が発し、彼の霊魂と身体との交流が発しているのである。これらの事から『神はノアに話された』という言葉の意義が明らかである。かれがたれかに『言われること』の意味と(例えば創世記1・29,3・13、14、17、4・6、9、15、6・13、7・1)かれが『話されること』との意義は異なっている。ここでは、かれがノアに話されたことは現存[臨在]を意味している、なぜなら仁慈を与えられた再生した人間が今主題となっているからである。

 

 

 

天界の秘義6600

 

人間と霊と天使との思考と情愛とは周囲の幾多の社会へそれ自身を注ぎ入れ、そこから理解と認識とが生まれてくると言ったが、しかしそれは外観に従ってそのように言ったものであることを知られたい。なぜなら思考と情愛とは社会の中へ流入するのではなく、社会から流入するのであり、それは人間のもとにいる天使と霊とを通して行われているからである。

 

 

 

天界と地獄246

 

しかし現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある、と。

 

 

 

天界と地獄247

 

 天使たちと霊たちとは人間の物は一切自分たちのものであるとしか考えないほどにも密接に自分自身をその人間に連結させている他の理由は、人間のもとに霊界と自然界とは恰も一つのものであるかのように連結しているが、人間は天界から自分自身を引き離してしまったため、各々の者のもとに天使と霊とがいて、人間は彼らを通して主により支配されるように主に定められたということであり、そうした理由からそのように密接な連結があるのである。もし人間が[天界から]自分自身を引き離さなかったなら、事態は異なっていたであろう、なぜならそのときは彼は主により天界から注がれる全般的な流入により支配されて、霊と天使も彼に接合することはなかったであろう。しかしこの主題は以下に特に、天界の人間との連結を取扱うとき述べよう。

 

 

 

 

46.主は霊たちにより人類を支配される

 

 

天界の秘義2034[8]

 

主の中に、人間的なものが神的なものになされ、神的なものが人間的なものになされたとき、その結果人間のもとへ無限なるものが、または至高の神的なものが流入したのであり―そうしたことはそれがなかったならば決してありえなかったのである―さらにその結果、霊たちの世界に満ち溢れていたところの、またその世界に世からやってくる霊魂のために絶えず満ち溢れていたところの、またその正解に世からやってくる霊魂のために絶えず満ちていたところの恐るべき誤謬の信念と恐るべき悪の欲念とが消散させられ、その信念と欲念の中にいた者らは地獄に投げ込まれて、そのことにより分離されてしまったのである。このことが行われなかったならば、人類は滅亡してしまったであろう、なぜなら主は霊たちにより人類を支配されるからである。かれらはまた他のいかような方法によっても消散させられることは出来なかったであろう、なぜなら(そのときは)神的なものは人間の合理的なものを通して内なる感覚の事柄へ働きかけることは全く不可能であったからである、なぜなら内なる感覚の事柄は至高の神的なものがそのように結合していないときはその至高の神的なものの遥か下に存在しているからである。さらに深いアルカナは割愛しよう、それらはいかような人間にも把握できるようには説明することはできないのである。(前の1676、1990番に述べられたことを参照されたい、即ち、天的な天使たちの天界には主は太陽として現われ、霊的な天使たちの天界には主は月として現れたもうている、陽は主の愛の天的なものであり、月はその愛の霊的なものである、1053、1521、1529−1531番、あらゆるものは全般的にもまた個別的にも主の視野の下におかれている、1274、1277番)。

 

 

 

天界の秘義2796

 

 ここに取り扱われているところの、主が色々な状態を着けられたことについては、それらは人間には不明なものでないわけにはいかない、なぜなら人間は自分の状態の変化を決して反省はしないからである。しかしその状態の変化は理解に属しているものまたは思考の方面のみでなく、意志に属しているものまたは情愛の方面でも絶えず行われているのである。かれがその状態の変化を反省しない理由は、かれがかれの中のあらゆるものは自然的な秩序をもって互いに続いていて、それを(ある方向へ)向けている更に高いものが存在してはいないと信じているということであるが、事実はそれに反しあらゆるものは人間のもとにいる霊たちと天使たちとにより処理されて、その人間のあらゆる状態と状態の変化とはそこから発しており、かくてそれらは主のみが先見されている目的に向って主により永遠に向けられて行くのである。真実はそのようなものであることが今やわたしには多年の経験から極めて充分に知られるようになったのである。またいかような霊と天使とが私と共におり、彼らはいかような状態を生み出したかも知り、また観察することができたのである。以下のことを私はおごそかに主張することができる。即ち、あらゆる状態は、その最小のものですらも、この源泉から発しており、そのことにより主により(主の目的へ)向けられているのである。また各々の状態の中には非常に多くの他の状態が在り、それらは明らかに現われてはいないで、共になって一つの全般的な状態として現われているが、これらの状態は、その後に連続して秩序をもって続いている幾多の状態に関連して処理されていることも知り、観察することができたのである。人間のもとではこれらのものは主により行われているが、しかし主御自身のもとでは、主が世におられた時は、それらは主御自身により行われたのである。なぜなら主は神的なものであられ、その生命の存在そのものはエホバであったからである。

 

 

 

天界の秘義4077[3]

 

 霊たちは人間がこのことを知らないし、また霊たちが彼と共にいることさえも知らないことを非常に嘆いており、まして多くの者が天使たちがその場にいることのみでなく、地獄と天界が在ることをも否定していることを嘆いているのである。しかしながら彼らはこれを人間の愚鈍に帰しているが、事実は人間には主から流入により霊たちを通して来てはいない思考の最小のものさえなく、また意志の最小のものさえもないということであり、主が人類を治められ、個別的に人間各々を治められているのは霊たちを手段として行なわれているのである。

 

 

 

 

47.霊は凡て、地獄へ投げ込まれるか、または天界へ挙げられるかする前には、先ず霊たちの世界におり、その際世に生きている人間のもとにおり、悪霊は悪い者と共に、善い霊は善い者と共にいるのである。これらの者を通して人間は地獄か、それとも天界か、その何れかと交流し、連結する

 

 

黙示録講解537イ(2)

 

 『深遠』が聖言の中で意味していることは下に話そう。『深遠の坑を開くこと』はそうした地獄との交流と連結とを意味しているのは、地獄は悪霊が入って来る時を除いては開かれはしないためであり、そのことは彼らが霊たちの世界の中で彼らの時を完全に過ごした時に起るのである、なぜならいかような悪霊にも、その者が一度び地獄へ投げ込まれた時は、そこから外へ出ることは許されはしないからであり、もし外へ出るにしても直ぐにその中へ後退してしまうのである。しかし人間は各々委く(こまかく?)、霊たちの世界の中にいて、その人間自身が得ている性質と同じような者である霊と連結しており、従って聖言を生命の幾多の悪に、その悪を確認する誤謬に聖言を適用することにより聖言を誤謬化してしまう人間はその人間に同じような霊どもと連結し、その霊どもにより同じような誤謬の中にいる幾多の地獄と連結してしまうのである。人間は各々ことごとく死後は霊となり、その時すぐにも奈落の社会か、天界の社会か、その何れかに、世に送ったその生命[生活]に応じて、密着してしまうのであり、霊は凡て、地獄へ投げ込まれるか、または天界へ挙げられるかする前には、先ず霊たちの世界におり、その際世に生きている人間のもとにおり、悪霊は悪い者と共に、善い霊は善い者と共にいるのである。これらの者を通して人間は地獄か、それとも天界か、その何れかと交流し、連結するのである。このことが『地獄を開くこと』は地獄を開くことを意味しないで、地獄と交流し、交流により連結を持つことを意味していることを明らかにしている。地獄の凡ゆる者から悪の誤謬が大量に放出され、そうした誤謬の中に霊たちの世界の中にいる霊たちがおり、同時に私たちの世の中で同じような誤謬の中にいる人間がいるのである。霊または人間は一人としてその生命の愛が在る所以外の何処にもいることは出来ない、なぜなら人間はその愛するものを意志する[欲する]のであり、考えるのであり、呼吸するからである。(霊たちの世界とは何であるか、については「天界と地獄」、421−431番以下を参照されたい)。

 

 

 

 

天界と地獄600

 

 人間は天界と地獄とに直接連結しているのではなく、霊たちの世界にいる霊たちを通して間接に連結していることを知らなくてはならない。これらの霊は人間と共にいるが、地獄そのものから、また天界そのものから来ている者は一人として人間と共にはいない。霊たちの世界にいる悪霊を通して人間は地獄に連結し、そこの善い霊たちを通して天界に連結しているのである。そのため、霊たちの世界は天界と地獄との真中に在って、その世界に均衡そのものが在る。霊たちの世界は天界と地獄との中間に在ることは霊たちの世界を扱った章に(421−431)、天界と地獄との間の均衡そのものはそこにあることは前章に見ることが出来よう(589−596)。これらの事から人間は何処から自由を得ているかが今や明白となるであろう。

 

 

 

 

48.人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間と共になっていることを知ってはいない

 

 

主の聖言11

 

自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。即ち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間と共になっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、彼らは絶えず共になっているのである。なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいない限り一瞬間も生きることは出来ないし、霊もまた天使も人間と共にいない限り一瞬間も生きることは出来ないからである。その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続はあり得ないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。

 

 

 

 

49.現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある

 

 

天界と地獄246

 

しかし現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある、と。

 

 

 

50.天界からの光から認める〔見る〕ことが流入によりされているもの、神がおられ、神は一人であることの認識

 

黙示録講解954〔2〕

 

人間が、支配することの単なる歓喜そのものから支配することを求める愛と、所有することの単なる歓喜そのものから世の財産を所有することを求める愛である人間自身の二つの愛に抵抗する限り、かくて人間が十戒に禁じられている幾多の悪を罪として避ける限り、それに応じて主から天界を通して以下の考えが流れ入って来る、即ち、宇宙の創造者、維持者であられる神がおられ、実にまた神は一人で在られるとの考えが流れ入ってくる。そのときこの考えは以下の理由のために流れ入ってくるのである、即ち、幾多の悪が遠ざけられると、天界は開かれるのであり、天界が開かれると、もはや自己からは考えないで、主から天界を通して考えるのである。神がおられ、神は一人であられることは、凡ゆる事柄を包含している天界の普遍的な原理である。神は一人であられることを人間は流入のみから知っており、謂わば、そのことを認めることは凡ゆる国民の共通の告白から明白であり、多くの神々がいると考えることに対する反感から明白である。人間の霊の思考である人間の内的な思考は、地獄からか、または天界からか、その何れかから発しており、幾多の悪が遠ざけられないときはそれは地獄から発しているが、幾多の悪が除かれているときは天界から発している。この思考が地獄から発しているときは、人間は自然が神であり、自然の最も内なるものは神的なものであるとしか認めないのである。そうした人間は死後霊となるとき、特に権力のある者をたれであれ神と呼び、またその者自身が神と呼ばれるために権力を求めて努力するのである。悪い者らはことごとくその霊の中の内部にそうした狂気を潜ませて居るのである。しかし人間は天界から考えるときは―幾多の悪が遠ざけられるとき、人間は天界から考えるのであるが―天界の光から、一人の神がおられ、その方は一人で在られることを認める〔見る〕のである。天界からの光から認める〔見る〕ことが流入により意味されているものである。

 

 

 

51.人間の霊魂に対し、神は存在し、その神は一人であるとの意味を伝える神からの普遍的な流入がある

 

 

真の基督教8(2)

 

人間の霊魂に対し、神は存在し、その神は一人であるとの意味を伝える神からの普遍的な流入がある。」

 人間へ神からの流入があることは、それ自身善であり、また、人間の中にあり、而して人間によって為される善は凡て、神から由来し、また凡ての仁慈と信仰とは神から来ていることが一般的に認められているということに含まれている。何故なら次の如く記されているからである。「人は天より与えられずば、何をも受くること能はず。」(ヨハネ3・27)。「而してイエス語り給う、汝ら我を離れては何ごとをも為し能はず。」(ヨハネ15・5) 即ち、仁慈あるいは信仰の何物をも為し得ないのである。人間の霊魂にこのような流入があるのは、霊魂は人間の最も深い且つ最も高い部分であり、神より来る流入はその中に入り、そこから下の物に入り、そしてこれをその霊魂が流入を受けるに応じて活かすからである。今後、信仰の主要問題となるそれらの真理は、実に聞くことによって入り来たり、心の中に植え付けられ、かくて霊魂の下に植え付けられる。しかし、人間はこれらの真理によって神からの流入を霊魂を通して受ける準備を為すに過ぎない。而してその受けることはその準備の如何に応じ、かくて単に自然的な信仰は霊的な信仰に変えられる。人間の霊魂に神は一人であるとの意味の流入があるのは凡て神的なものは、全体的にまた個別的に一人の神であり、而して神的なものは一つである故、それは人間に一人の神の観念を注ぎ込まざるを得ないからである。この観念は、人間が神により天界の光へ挙げられる時、日々確実にされる。何故なら、天使はその光の中に神々なる語を発することが不可能であることを知っており、それ故、彼らの凡ての言語はその言葉の終わりでは単一な調子を以て終わっている。これは彼らの霊魂に神は一人であるとの流入がある結果である。人間の魂に神は一人であるとの流入があるにも拘らず、極めて多くの人々が神の神性は同じ本質を持つ幾多の人格に分割されると考える理由は、下降して来る流入がそれに相応していない形に入り、而してその形が、自然界の至る所に行われるように、その流入を改変するということである。同一の神性が人間と獣に生命を与えるが、しかしそれを受け入れる形が獣を獣たらしめ、人間を人間たらしめる。人間もその心に獣の形を植え付ける時これと同様になる。太陽からの流入は凡ての木に同一であるが、しかし各々の形に応じて変化する。葡萄に入る流入は茨に入る流入と同一であるが、しかし茨が葡萄に接ぎ木されるなら、流入は他にその茨の形に応じて発する。更に鉱物界も同様に、石炭と金剛石の上に落ちる光は同一であるが、後者は透明であり、前者は不透明である。人間の心について言えば、それは内的には霊的なものであるその形に従って、神に対するその信仰と神から来るその生命とに従って変化する。この形は一人の神を信ずる信仰によって透明となり且つ天使的となるが、しかしその反対に全き無信仰と殆ど相違しない数人の神に対する信仰によって曇り、獣的になる。

 

 

 

52.取り憑き

 

 

天界の秘義2477

 

前の時代の取り憑きはそれ以外のものではなかったのであるが

 

 

 

 

53.才能

 

 

黙示録講解326イ

 

歌のハーモニーは、また色々な種類の情愛を表現し、またそれ自身をその主題に適合させる音楽の技術は霊界から発していて、(普通)信じられているように自然界からは発してはいないのである(このことについては、「天界と地獄」241番を参照されたい)。

 

 

 

 

 

54.サンダー・シング

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P364

 

われわれが新生を経験し神の子らに加えられるとき、神の聖霊はどのような言語も借りずに霊的な真理を教えてくれる。聖霊によって生まれるときには、聖霊の言語が母国語となり、子供が母国語を覚えるのと同じほど容易にそれを理解できる。われわれは、人間界の言語を介して意味を伝達するが、霊的な人間は、どんな言語も借りずに霊的真理を即座に理解する。例えば、英語を母国語とする子供に梵語の神という語を教えるとき、「イシュヴァラは神の意味だ」といってきかせるが、語る前から、神という言葉の含みは、言葉の仲介を経ずして子供の頭の中に入っている。こうした考えはどこからくるのか。三重苦のヘレン・ケラーは、神という言葉を知る以前から神を知っていた。このような知識は直接的な啓示によるものなのである。