天使との交流

 

流入被術者

天使たちは各々の人間のもとにその情愛の中に住んでいる

 

 

 

天界の秘義1088

 

 「そして彼らの顔は後向きになっていて、彼らはその父の裸かを見なかった」。これは、そのようにそれが為されねばならないことを、また理論から生まれた過誤や過失のようなものに留意してはならないことを意味していることはそれが繰返されていることから明白である。なぜならここにはすぐ前に言われたことと殆ど同じことが言われており、それでこれらの言葉は同時に結論となっているからである。なぜならこの親教会は、またはこの教会の人間は悪意からこのように振舞ったのではなくて、単純な心からそのように振舞ったといった性格をもっていたからであって、このことは間もなく後に記されていることから明白であり、そこには『ノアはそのぶどう酒からさめた』、すなわちさらに良く教えを受けたと言われているからである。ここにとり扱われている事柄については、わたしたちは以下のように言ってよいであろう、すなわち、仁慈にいない者は隣人の悪のみしか考えないし、また悪のみしか言わないのであり、もし何か良いことを言うにしても、それは自分自身のためであり、またはその者らが友情の仮面の下でちやほや言う者のためであるが、それに反して仁慈の中にいる者は隣人の善いことのみを考えて、ただかれを善いように言うのみであり、しかもこれもかれら自身のためではなく、またその者たちが良く言う他の者から恩恵をうけるためでもなく、主が仁慈の中にそのように働かれていることから発しているのである。前の者は悪霊のようなものであり、後の者は天使のようなものであって、悪霊も天使も人間とともにいるのである。悪霊はその人間の中にある悪い誤ったもののみをかきたて、その人間を罪に定めるが、天使は善い真のもののみを刺激して、悪い誤ったものをゆるしている。このことから仁慈の中にいない者は悪霊に支配され、悪霊を通してその人間は地獄と交流し[連なり]、仁慈の中にいる者は天使たちから支配されて、天使たちを通してその人間は天界と交流している[連なっている]ことが明白である。

 

 

 

天界の秘義2354〔3〕

 

 (幾度も前に述べたように)人間の実相はその人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいるということである。悪霊を通して彼は地獄と交流しており、天使を通して天界と交流しているのである(687、697番)。それでその者の生命〔生活〕が悪いものに接近するに比例して、益々地獄が流れ入ってくるが、その生命が善いものに接近するに比例して、益々天界が流れ入り、それで主が流れ入ってこられるのである。このことから、悪の生命の中にいる者らは主を承認することは出来ないで、主に反抗した無数のものを自分自身で形作るが、それは地獄の幾多の幻想が流れ入ってきて、その者らにより受け入れられるためである。しかし善い生命〔生活〕の中にいる者たちは主を承認するが、それは愛と仁慈がその中では主要なものとなっている天界が流れ入ってくるためであり、また天界は主のものであって、主から愛と仁慈の凡ゆるものが発生してくるためである(537、540、547、548、551、553、685、2130番を参照)。

 

 

 

天界の秘義2886

 

 人間の情愛と思考とについては実態は以下のようになっている、すなわち、たれ一人、その者はいかような者であれ、人間であれ、霊であれ、天使であれ、自分自身からは意志し[欲し]、また考えることはできないのであり、他の者から意志し[欲し]、考えるのであり、またこの他の者もその者自身から意志し、考えることはできないで、さらにすべての者も他の者から意志し[欲し]、考えているという風になっており、かくて各々の者は主であられる生命の最初のものから意志し[欲し]、考えているのである。関連していないものは存在しない。悪と誤謬とは地獄に関連しており、地獄から悪と誤謬の中にいる者らの欲することと考えることとが発しており、またその者らの愛と情愛と歓喜が、従ってその者らの自由が発している。しかし善と真理とは天界に関連しており、その中にいる者たちの欲することと考えることとは天界から発し、同じくまたかれらの愛と情愛と歓喜も、それ故彼らの自由も天界から発している。このことから私たちはその一方の自由は何処から発しているか、また他方の自由は何処から発しているかを認めることができよう。実態は実にそのようになっていることは他生では極めて充分に知られているが、現今では世では全く知られていないのである。

 

 

 

天界の秘義2887

 

 人間のもとには絶えず悪霊がつきそっており、また天使もつきそっている。霊どもにより彼は地獄と交流し、天使たちにより天界と交流している。もしこれらの霊と天使とが彼から万が一にも取り去られるなら、彼は一瞬にして意志すること[欲すること]と考えることを喪失し、かくて生命を喪失するであろう。そのことは背理のように思われるが、それでも極めて真実である。しかし人間のもとにいる霊どもと天使たちについては、主の神的慈悲の下に他の所で述べよう。

 

 

 

天界の秘義2890

 

 人間のもとにいる悪霊どもは―その者らを通して人間は地獄と交流しているのであるが、その悪霊どもは―人間を卑賤な奴隷以外のものとしては認めていないのである、なぜなら彼らは彼に彼らの幾多の欲念と信念とを注ぎ入れ、かくして彼を彼らの欲する所へ何処でも導いて行くからである。しかし天使たちは―その者たちを通して人間は天界と交流しているが、その天使たちは―彼を兄弟として認め、彼の中へ善と真理との幾多の情愛を秘かに注ぎ入れ、かくして彼を自由により、彼らが欲している所へではなく、主が悦ばれる所へ、導いて行くのである。このことから私たちはその一方の自由はいかような種類のものであり、他方の自由はいかような種類のものであるかを認め、また悪魔により導かれることは奴隷であるが、主により導かれることは自由であることを認めることが出来るのである。

 

 

 

天界の秘義4067[2]

 

 人間における諸善と諸真理についてその実情はいかようになっているかが把握されるために、殆どたれにも知られていないことを明らかにしなければならない。凡ゆる善と凡ゆる真理とは主から発していることが実際知られまた承認されており、また流入が在ることもまたある者たちから承認されてはいるが、しかしそれは人間はそれを知らないといった性質のものである。それでも人間の周りには霊たちと天使たちとがおり、人間の内なる人は彼らの真中に在り、かくて主により支配されていることが知られてはいないし、少なくともそのことが心では承認されてはいないため、それは、たとえ口に言われてはいるものの、殆ど信じられてはいないのである。他生には善と真理との凡ゆる種属に従って主により配置され、秩序づけられている無数の社会が存在しており、また悪と誤謬との凡ゆる種族に従って配置されているところの対立した社会も存在しており、かくて善と真理とのいかような種属も、またその種属の中のいかような種類も、また実にいかような特殊な変種のものも必ずこうした天使の社会をもっており、また必ずそれに相応している天使の社会が存在しているのである。また他方悪と誤謬とのいかような種属も、またその種属の中のいかような種類も、また実にいかような特殊な変種のものも必ずそれに相応した悪魔的な社会をもっている。こうした者の社会の中に人間はことごとくその内部の方面では(即ち、その思考と情愛との方面では)、たとえ人間はそのことは知らないにしても、いるのである。人間が考えもし、欲しもするものはことごとくこの源泉から発しており、それで人間がその中にいるところのその霊たちと天使たちとの社会が取り去られるなら、たちまち人間は何らの思考も、何らの意志も持たなくなって、全く死んでしまって倒れ伏してさえしまうのである。こうしたものが、たとえ人間は自分は凡ゆるものを自分自身から得ている、地獄も天界も在りはしないと信じてはいるものの、また地獄は自分からは遠く隔たっており、天界もまた同じく隔たっていると信じてはいるものの、人間の状態なのである。

 

 

 

天界の秘義4067[3]

 

 さらに人間の中の善は人間には単純なものまたは一つのものとして見えはするが、それでもそれには種々のものがあって、その人間がその善の全般的なものをさえも到底探求することが出来ない程にも多様なものから成っているのである。人間の悪も同じである。人間の善のいかんに、その人間のもとに存在している天使たちの社会が応じており、人間の悪のいかんにその人間のもとに存在している悪霊らの社会も応じているのである。その人間が自分自身へこれらの社会を招き寄せるのである、即ち、彼はこのような霊たちの社会に自分自身を置くのである、なぜなら似た者は似た者と共になるからである。例えば、貪欲な人間はそれと同じ欲念の中にいるところの類似の霊どもの社会を自分自身に招き寄せるのである。自分自身を他の者にまさって愛し、他の者を軽蔑する人間はその人間自身に似た者らを招き寄せるのである。復讐を歓ぶ者は同じような歓びの中にいる者を招き寄せるのであり、このことは他の凡ゆる場合にも言われるのである。これらの霊は地獄と交流していて、その人間はその真中におり、全く彼らにより支配されていて、たとえ彼はその経験する歓喜とそこから生まれてくる自由から、自分は自分自身を左右していると考えはするものの、彼は彼自身から左右されてはいないで、彼らから左右されているのである。しかし貪欲ではない人間は、または自分自身を他の者にまさって愛しはしないし、他の者を軽蔑もしないし、復讐を歓びもしない人間は、その者に類似した天使たちの社会の中におり、主により彼らを手段として、実にその者の自由を手段として、凡ゆる善と真理へ―その善と真理へ彼は彼自身が導かれるのに甘んじるのであるが、その善と真理へ―導かれるのであり、彼は彼自身がさらに内な、またさらに完全な善へ導かれることに甘んじるに正比例して、さらに内的な完全な天使たちの社会へ連れて来られるのである。彼の状態の変化は幾多の社会の幾多の変化以外の何ものでもないのである。それが事実であることは多年にわたって続いた経験から私には明白であって、その経験によりその事実は私には人間にその人間の幼少の頃から親しくなっているもののようにも親しくなっているのである。

 

 

 

天界の秘義4067[4]

 

 この凡てから人間の再生の実情はいかようになっているかが、また人間が主によりその古い人の状態からその新しい人の状態へ連れて来られる手段となるところの間接的な歓喜と善との実情はいかようになっているかが今や明白であり、即ち、それは天使の幾多の社会により、その社会の幾多の変化により行なわれることが明白である。間接的な[媒介的な]諸善と諸真理とはこのような社会以外の何ものでもなく、それらはそれらを手段として人間が霊的なまたは天的な諸善と諸真理とへ導き入れられるために、主により人間へ適用されるのであり、人間がこれらの霊的なまた天的な諸善と諸真理へ連れて来られると、その社会は分離して、さらに内的な、さらに完全な社会が彼に接合されるのである。『ラバン』により意味されている間接的な[媒介的な]善により、またその善の分離により―それが本章に取り扱われている主題であるが―それ以外のものは何ら意味されてはいないのである。

 

 

 

天界の秘義4077[3]

 

 霊たちは人間がこのことを知らないし、また霊たちが彼と共にいることさえも知らないことを非常に嘆いており、まして多くの者が天使たちがその場にいることのみでなく、地獄と天界が在ることをも否定していることを嘆いているのである。しかしながら彼らはこれを人間の愚鈍に帰しているが、事実は人間には主から流入により霊たちを通して来てはいない思考の最小のものさえなく、また意志の最小のものさえもないということであり、主が人類を治められ、個別的に人間各々を治められているのは霊たちを手段として行なわれているのである。

 

 

 

天界の秘義4110[2]

 

悪い霊らもまた実に自由の中に遠ざけられるが、しかし彼らには自由として見えるにすぎない自由の中に遠ざけられるのである。彼らはその人間が真理と善とを確認しはじめると、彼らは止まっていることに不快を、分離することに喜びを感じ、このようにして彼らの歓びから生まれてくる自由の中に分離するのである。こうしたものが、人間が再生しつつあるとき、その者から霊たちが分離する実情であり、従って善と真理との方面のその者の状態の変化の実情である

 

 

 

天界の秘義4122

 

なぜなら再生しつつあるところの、またそのもとに天使たちが仕える者として現存しているところのその人間の中に、その天使たちはこのように彼の状態の変化を見ており、また認めており、その変化に応じ、またその変化を手段として主から彼を善へ、その人間が自分自身が導かれることに甘んじている限り、導くからであり、その経過は天界ではこのように非常に有益なものであるためそれがここに詳細に取り扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義6196

 

霊たちは人間とはその人間の愛に従って共になることは、種々な経験により私に明らかにされたのである、なぜなら私は何ごとかを熱烈に愛しはじめるや否や、そうした愛の中にいる霊たちがその場に現れ、その愛が止むまでは遠ざかりはしなかったからである。

 

 

 

主の聖言11

 

自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。即ち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間と共になっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、彼らは絶えず共になっているのである。なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいない限り一瞬間も生きることは出来ないし、霊もまた天使も人間と共にいない限り一瞬間も生きることは出来ないからである。その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続はあり得ないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。

 

 

 

天界の秘義5849

 

 人間に接合している、その二人の霊は彼を地獄と交流させ、二人の天使は彼を天界と交流させるのである。

 

 

 

真の基督教607

 

凡ゆる人間は天界の天使たちか、あるいは地獄の霊たちかその何れかと交わっている。

(中略)

それ故、再生した人間は天界の天使たちと交わり、更生しない人間は地獄の霊と交わっている。

 

 

 

天界と地獄438

 

人間は各々、身体内で生きている間でさえも、その霊は霊たちとともに何らかの社会の中におり―人間はそのことを知らないが―善い人間は霊たちを通して天使たちの社会の中におり、悪い人間は奈落の社会におり、その社会へ人間は死後入って行くのである。

 

 

 

天界と地獄599

 

 人間は自由を与えられて、改良されるために、その霊は天界と地獄とに連結している。なぜなら人間各々のもとには地獄から来ている霊と、天界から来ている天使とがいるから。人間は地獄から来ている霊によりその人間自身の悪にいるが、しかし天界から来ている天使により主から発している善におり、かくて彼は霊的均衡を、即ち、自由を与えられている。人間各々には天界から来ている天使たちと地獄から来ている霊たちとが接合していることは天界と人類との連結を扱った章に見ることが出来よう(291−302)。

 

 

 

天界と地獄600

 

 人間は天界と地獄とに直接連結しているのではなく、霊たちの世界にいる霊たちを通して間接に連結していることを知らなくてはならない。これらの霊は人間と共にいるが、地獄そのものから、また天界そのものから来ている者は一人として人間と共にはいない。霊たちの世界にいる悪霊を通して人間は地獄に連結し、そこの善い霊たちを通して天界に連結しているのである。そのため、霊たちの世界は天界と地獄との真中に在って、その世界に均衡そのものが在る。霊たちの世界は天界と地獄との中間に在ることは霊たちの世界を扱った章に(421−431)、天界と地獄との間の均衡そのものはそこにあることは前章に見ることが出来よう(589−596)。これらの事から人間は何処から自由を得ているかが今や明白となるであろう。

 

 

 

天界と地獄246

 

しかし現在の人間の状態は異なっていて、そのため最早天使たちとのこうした連結は無く、ただ天界にいない霊との連結のみがある、と。