天使たちは各々の人間のもとにその情愛の中に住んでいる

 

 

 

 

天界の秘義2268

 

「あなたは五人のために都をことごとく滅ぼされますか」。これは、人間が僅かなものが欠けているために滅びるでしょうか、を意味していることは以下から明白である、すなわち『五』の意義は(今し方述べたように)僅かなものであり、『都』の意義は真理であって、そのこともまた前に説明したところである。人間の心はその中に存在している真理については、聖言では『都』にたとえられており、またそのようにも呼ばれており、諸真理の中に存在している諸善については都に住む者にたとえられて、善もまたそのように呼ばれている、なぜならこれらのものは全く同一であるからである。もし人間の記憶の中に存在しその心の思考の中に存在している真理に善が欠けているならば、それは住む者もいない都のようなものであり、同じく空虚で空ろなものであるからである。いな、天使たちについてすら、人間が主に対する愛と隣人に対する仁慈の中に生きるなら、天使たちはその人間の諸真理の中にいわば住んでいて、主から善のいくたの情愛を注ぎ入れていると、述べることができよう、なぜなら天使たちはこのように住むことを、すなわち、こうした人間のもとに生きることを歓ぶからである。多少の真理の中にはいるが、仁慈の善の中には何らいない者らにあってはそれは大変異なっている。

 

 

 

天界の秘義2354〔3〕

 

 (幾度も前に述べたように)人間の実相はその人間のもとに悪霊がいると同時に天使もそのもとにいるということである。悪霊を通して彼は地獄と交流しており、天使を通して天界と交流しているのである(687、697番)。それでその者の生命〔生活〕が悪いものに接近するに比例して、益々地獄が流れ入ってくるが、その生命が善いものに接近するに比例して、益々天界が流れ入り、それで主が流れ入ってこられるのである。このことから、悪の生命の中にいる者らは主を承認することは出来ないで、主に反抗した無数のものを自分自身で形作るが、それは地獄の幾多の幻想が流れ入ってきて、その者らにより受け入れられるためである。しかし善い生命〔生活〕の中にいる者たちは主を承認するが、それは愛と仁慈がその中では主要なものとなっている天界が流れ入ってくるためであり、また天界は主のものであって、主から愛と仁慈の凡ゆるものが発生してくるためである(537、540、547、548、551、553、685、2130番を参照)。

 

 

 

天界の秘義3464[]

 

聖言の文字の意義から発している教義的な事柄については実情は以下のようになっている、すなわち、人間はその教義的な事柄の中にいると同時にそれに従った生命[生活]の中にいるとき、かれはかれ自身の中にそれに相応したものを得るのである、なぜならかれとともにいる天使たちは内的な諸真理の中にいるが、かれは外的な真理の中におり、かくて教義的な事柄を通して天界と交流するが、しかしそれはかれの生命の善に順応しているのである。例えば、聖さんにおいてかれはその時用いられる言葉―『これはわたしの身体であり、これはわたしの血である』―から単純に主を考えるとき、かれとともにいる天使たちは主に対する愛と隣人に対する仁慈とを考えるのである、なぜなら主に対する愛は主の身体にまたパンに相応し、隣人に対する仁慈は血にまたぶどう酒に相応しているからである(1798、2165、2177、2187番)、そしてこのような相応が在るため、天界からその天使たちを通して、その時その人間がおかれているその聖い状態の中へ情愛が流れ入り、この情愛を、かれはかれの生命の善に順応して受けるのである。

 

 

 

天界の秘義3464[]

 

なぜなら天使たちは各々の人間のもとにその生命の情愛の中に住んでおり、かくてその者がそれに従って生きている教義的な事柄の情愛の中に住んでいるが、しかしもしその人間の生命がその教義的な事柄と一致していないなら、決してその中には住みはしないのである、なぜならもしその生命が一致していないならば、例えば、もし彼らが教義的な事柄により名誉と富とを得ることを求める情愛の中にいるなら、そのときその天使たちは退いてしまって、奈落の者らがその情愛の中に住んで、彼の中へ自己と世とのために教義的な事柄を確認することを注ぎ入れ、かくて説得的な信仰を注ぎ入れるか―この信仰はそれが他の者の心を捕らえさえするなら、事の真偽を問わないといった底のものであるが―または信仰をことごとく取り去ってしまうかして、そのときは彼の唇の教義はこれらの愛の火により焚き付けられ、また加減される音声に過ぎないのである。

 

 

 

天界の秘義4077[3]

 

 霊たちは人間がこのことを知らないし、また霊たちがかれとともにいることさえも知らないことを非常に嘆いており、まして多くの者が天使たちがその場にいることのみでなく、地獄と天界が在ることをも否定していることを嘆いているのである。しかしながらかれらはこれを人間の愚鈍に帰しているが、事実は人間には主から流入により霊たちを通して来てはいない思考の最小のものさえなく、また意志の最小のものさえもないということであり、主が人類を治められ、個別的に人間各々を治められているのは霊たちを手段として行なわれているのである。

 

 

 

天界の秘義4122

 

なぜなら再生しつつあるところの、またそのもとに天使たちが仕える者として現存しているところのその人間の中に、その天使たちはこのようにかれの状態の変化を見ており、また認めており、その変化に応じ、またその変化を手段として主からかれを善へ、その人間が自分自身が導かれることに甘んじている限り、導くからであり、その経過は天界ではこのように非常に有益なものであるためそれがここに詳細にとり扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義4307

 

人間のもとに霊が現存することはその人間の愛に従って決定されているのである。善良な霊と天使とは霊的な天界的な愛の中にいる者たちのもとにおり、悪霊はひとえに身体的な世的な愛の中にのみいる者らのもとにおり、しかもそのことはたれでも自分のもとにいるその霊の性質を単に自分の愛の性質を観察することのみで、またはそれと同じことではあるが、自分の目的の性質を観察するのみで知ることが出来る程にもなっているのである、なぜならたれでも自分が愛しているものを目的として持っているからである。

 

 

 

天界の秘義4311[2]

 

身体的な世的な愛の中にいるが、それと同時に霊的な天界的な愛の中にはいない人間は、聖い外なるものの中にいるときでさえも、自分のもとには悪霊以外には何者をも持ってはいないのである、なぜなら善良な霊はすぐさま人間がいかような種類の愛の中にいるかを認めるため、そのような人間のもとに決して現存することはできないからである。かれの内部から放出されているスフィア[霊気]が在り、それを霊たちは、人間が自分のまわりの空中にただよっている不快な、むかつくような蒸気をその嗅覚によって明らかに認めるように認めるのである。

 

 

 

天界の秘義4311[2]

 

しかし主は、教会の中にいて、霊的な愛の中におり、そこから信仰の中にいる者たちのもとには非常に異なった方法をもって臨在されているのである。これらの者のもとには、その外なる礼拝のみではなく、同時にその内なる礼拝の中にも善良な霊と天使たちとが存在しており、それでかれらのもとでは天界がかれら自身と交流しているのである、なぜなら主は天界を通して彼らの内なるものを通してその外なるものの中へと彼らの中へ流入されているからである。

 

 

 

天界の秘義5179

 

 私はかつて胃下部に不安な感情を認めたが、そのことからそのような霊が近くにいることが私に明白となった。 私は彼らと語って、あなた方のスフィアは不安を生み出し、私のもとにいる霊たちのスフィアとは一致しないから、あなた方は去らなくてはならないと言った。そのとき私は彼らとスフィアについて語って、以下のように言った、人間の周りには非常に多くの霊的なスフィアがあるが、人間は、凡て霊的なものと呼ばれているものを否定し、また或る者は、凡て目に見えず、触れないものはことごとくと否定しているため、それが事実であることを知らないし、また知ろうともしない、かくて霊界から発して、人間の生命に一致したスフィアが人間を包囲しており、そのスフィアにより人間は情愛の類似した霊たちと交わっている、またそのことによって多くの事柄が起るが、凡ゆる物を自然に帰している人間はそれを否定するか、またはさらに不可思議な自然に例えば運に帰しているのである、なぜなら或る人々はその経験によって、運と呼ばれるものが秘かに働いていることは充分納得はしてはいるが、その源泉の何であるかは知らないからである。この隠れたものは霊的なスフィアから発していて、摂理の究極的なものであることは、他の所に主の神的慈悲の下に経験により証明されたものから示すことにしよう。

 

 

 

真の基督教118

 

一方彼等はもし人間が彼等から引き離されるならば生存することが出来ないのである。

 

 

 

主の聖言11

 

「自然的なものと霊的なものと天的なものとは相応したものによらなくてはいささかも一致していないといったものであり、そのことがまた以下のことの理由ともなっているのである。すなわち、人間は自分たちが霊たちと共になっていることを知ってはいないし、霊も自分たちが人間とともになっていることを知ってはいないのである。が、それにもかかわらず、彼らは絶えず共になっているのである。なぜなら人間はその思考と情愛の方面では霊たちの真中にいない限り一瞬間も生きることは出来ないし、霊もまた天使も人間とともにいない限り一瞬間も生きることは出来ないからである。その理由は最初のものから究極のものに至るまでも、かくて主から人間に至るまでも不断の連結があり、創造から発している連結は相応したものにより遂行されていて、天使たちと霊たちとを通して流れ入っているためである。天的なものはことごとく霊的なものへ流れ入り、霊的なものは自然的なものへ流れ入って、形体的なものと物質的なものであるところのその自然的なものの究極的なものの中に終結して存続するのである。こうした究極的なものが―その中へ媒介的なもの[中間的にあるもの]が流れ入っているのであるが、そうした究極的なものが―なくては、空中に建てられた家のようなもの以外の存続はありえないのであり、それで諸天界の基底と土台とは人類である。」