流出
求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない(マタイ5・42)/
すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される(ルカ12・48)/
1.流出が抑制されるなら、流入も抑制される
2.サンダー・シング
3.聖母から司祭へ
4.マリア・ワルトルタ
5.与えなさい(教えなさい)
1.流出が抑制されるなら、流入も抑制される
天界の秘義5828[3]
流入は流出に従って調節され、もし流出が抑制されるなら、流入も抑制されるということが普遍的な法則である。内なる人を通して主から善と真理とが流入し、外なる人を通して流出しなくてはならない、すなわち、生命の中へ、すなわち、仁慈の実践の中に流出しなくてはならないのである。この流出が在ると、そのときは天界から、すなわち、天界を通して、主から不断の流入が在るが、それに反し、流出がなくて、外なる、または自然的な人の中に抵抗が在るなら(すなわち流れ入ってくる善を寸断して、消滅させる悪と誤謬とが在るなら)、今し方述べた普遍的な法則から以下のことが生まれてくるのである、すなわち、流入は流出に応じて調節され、従って善の流入は後退し、それによって内なるものは―それを通って善が流入するのであるが、その内なるものは―閉じられてしまい、こうして閉じられてしまうことを通して霊的な事柄における愚鈍が生まれ、ついにはそうしたものであるその人間は永遠の生命については何ごとも知らず、また知ろうとも欲しないで、最後には発狂し、かくて彼は真理に誤謬を対立させて、誤謬を真理と呼び、真理を誤謬と呼び、また善に悪を対立させて、悪を善とし、善を悪としてしまいさえもするのである。このように彼は善を完全に寸断してしまうのである。
天界の秘義6478
天使はたれかに善を為すときは、またその者に天使自身の善を、幸運を、祝福を伝達し、しかもそれはその他の者に凡ゆる物を与えて、何物をも自分には保留はしまいとする願いをもって行われているのである。彼がそのようにして己がものを伝達していると、その時は善が彼の与える以上の幸運と祝福とをもって彼に流れ入り、しかもこれは絶えず増大して行くのである。しかし彼がこの幸運と祝福との流入を自分自身の中に得ようとする目的から自分の持っているものを伝達しようと願う思いが起こるとすぐに、その流入は消滅してしまい、ましてや彼がその善を伝えて相手から報いを得ようとする思いが何か入ってくるなら、さらに消滅してしまうのである。このことは私が多くの経験から知ることが出来たところであり、このことからまた主は個々の凡ゆる事柄の中にもおられることを認めることが出来よう。なぜなら主は凡ゆる者に主御自身を与えようと願われておられるような方であって、そこから幸運と祝福とは、主の映像であり、主に似た形である者たちのもとに増大するからである。
天界の秘義9174〔3〕
なぜならこうした伝達については、事実は天使が仁慈の情愛から他の者に与えるに応じて益々その者のもとに天界から、即ち、主から全般的な善が流れ入ってくるということである(6478番)。かくて『求める者に与えること』により、天使は財産を剥奪はされないで、それを豊かにされるのである。それは人間が仁慈の情愛から他の者に善を行う場合と同じであるが、しかし仁慈は善良な者に与えることに在り、悪い者らにその者らの求め、願うものを与えることは仁慈ではないのである(8120番)、
2.サンダー・シング
サンダー・シング/イエス・キリスト封印の聖書/P355
先月、わたしはパレスチナでヨルダン河の岸辺に立っていたときに、こう思いました。「この瑞々しい河の水は絶えず死海に注いでいるが、死海は死んだままだ。それは、この海が流れを作らないからである」。同じように、死んだ状態の教会やキリスト教徒がいます。イエス・キリストから流れ出る瑞々しい水は、絶えず教会に流れ込んでいるのに、彼らは死んだままです。それは、彼らが流れを作らないからです。「自分は小さく、他の人に与えるほどの余裕はない」と考えてはなりません。ヨルダン河はたえず流れ、止まることはありません。パレスチナにいたときにわたしが学んだのは、このことです。あなた方は死海のようであってはなりません。すすんで流れを作らなくてはなりません。学問、教育、キリストへの愛、お金を、人助けのために使わなくてはなりません。あなた方は、キリストからいっそうの恵みを受け、祝福されることでしょう。
最後に、次の言葉をもって証を終えたいと思います。わたしは、キリスト信者になったときに、兄弟姉妹と別れ、家を去らなければなりませんでした。一人の兄、一人の姉と別れました。しかし、キリストにある千人の兄弟姉妹を見つけました。わたしは、この世的な快楽を捨てましたが、前には夢にも思わなかった霊的な歓びを発見しました。キリストのために何かをすれば、千倍以上のものを受けることを、わたしは身をもって経験しています。わたしたちは、キリストのために働く人を助けることを、常に心がけなくてはなりません。
わたしたちを救うために天から下ってこられた主を知ることができるよう、わたしたちが救われたときに、死海のようにならず、人々に与えることができるよう、神がわたしたちを助けてくださいますように。
3.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1979.3.9
あなたがたが、そのかくれ場から抜け出て、全世界を照らしに行くべきときがきました。わたしが、いつも、いっしょにいてあげますから、さあ、すべての人に、私の子であると、宣言なさい。
私は、信仰が、この暗闇の日々にも、あなたがたを照らすあかりとなるように願ってやみません。
ただ、私のおん子イエズスの名誉と光栄を願う奮発心だけが、あなたがたの心を占領しますように。
光の子らよ、あなたがたの数は、まだ少ない、しかし、大いに戦いなさい。そうすれば、たくさんの人々が、あなたのあとに従って、私の軍団に入ってくるでしょう。なぜなら、私の戦いの時は、すでに来ているからです。
4.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/第3巻上/P150/
172・5−7
心の衝動に駆られて、とわたしは言いました。これは第一のそして本質的な資質です。なぜならすべては心から生まれ、心がそうであるように理性がそうであり、言葉が、視線が、行為がそうであります。正しい人はその正しい心から善を外に引き出し、引き出せば引き出すほど善を見出します。なされた善は、ちょうど血液の循環において新しくなり、吸収された酸素から、また消化された食物の液から引き出した常に新鮮な要素で豊になった心臓に戻る血のように、新しい善を産むからです。それに反して、邪な行為と毒で一杯のその暗黒の心からは、正しい心のうちに積み重ねられる神の祝福とは逆に、積み重ねられる罪によって力づけられてますます増える邪な行為と毒しか引き出すことが出来ません。唇から溢れ出し、行為に示されるそれは、心の旺盛さでもあることを信じなさい。
マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/天使館/P45
反キリストの軍隊はすでに行動を開始している。
‘44年8月5日
イエズスは言われる。
「わたしは貴女がわたしの栄光について瞑想するように準備させた。教会は明日それを祝う。しかしわたしはわたしの小さなヨハネが、わたしの栄光の真の姿を見てそれをよりよく理解するように望む。わたしが貴女を選ぶのは、貴女の師の悲しみと苦しみを知らせるためだけではない。苦しみにおいてわたしと共に在ることを知る者は、わたしのよろこびにも参与しなければならない。わたしは貴女が、貴女にあらわれる貴女のイエズスの前で、わたしの使徒たちと同じ心情と謙虚さと悔い改めの気持ちとを持つことを望んでいる。
けっして傲慢になってはならない。そうなれば貴女は罰せられ、わたしを失うだろう。わたしがだれであり、貴女が何者であるかを絶えず思い起こすように。痛悔によって浄められた心を持つために、絶えず自分の至らなさとわたしの完全さとに思いを致すように。だがそれと同時に、『恐れるな。立ち上がりなさい。行きなさい。人々のあいだに行きなさい。なぜならわたしは彼らと共に在るために来たのだから。この来臨の時をよく憶えて、清らかに、剛く、忠実でありなさい』と言ったわたしに、大きな信頼を寄せなさい。わたしはこのことを貴女にだけではなく、人々のあいだからわたしが選んだすべての人たち、特別な形でわたしを所有している人々にも言うのだ。
わたしのことを怖がってはならない。わたしがあなたたちに姿をあらわすのは、あなたたちを高めるためであって、あなたたちを灰に帰するためではない。立ち上がりなさい。恩恵を受けるよろこびがあなたたちに生きる力を与えるように。わたしがあなたたちに天を示したからといって、もうそれで救われたと思いこみ、無気力な麻痺状態に沈みこんではならない。人々のあいだに共に立ち交じろう。わたしはあなたたちが、わたしにとってより大きな助けとなるように、超人的なヴィジョンと教えとを用いて、あなたたちを超人的なわざにいざなったのだ。わたしはあなたたちを、わたしのわざに参与させるのだ。
5.与えなさい(教えなさい)
ルカ6・38
与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。
ルカ12・35−48
「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい。主人が婚宴から帰って来て戸を叩くとき、すぐに開けようと待っている人のようにしていなさい。主人が帰って来たとき、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。はっきり言っておくが、主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。主人が真夜中に帰っても、夜明けに帰っても、目を覚ましているのを見られる僕たちは幸いだ。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒がいつやって来るかを知っていたら、自分の家に押し入らせはしないだろう。あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからである。」
そこでペトロが、「主よ、このたとえはわたしたちのためですか」と言うと、主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。主人が帰って来たとき、言われたとおりにしているのを見られる僕は幸いである。確かに言っておくが、主人は彼に全財産を管理させるにちがいない。しかし、もしその僕が、主人の帰りは遅れると思い、下男や女中を殴ったり、食べたり飲んだり、酔うようなことになるならば、その僕の主人は予想しない日、思いがけない時に帰って来て、彼を厳しく罰し、不忠実な者たちと同じ目に遭わせる。主人の思いを知りながら何も準備せず、あるいは主人の思いどおりにしなかった僕は、ひどく鞭打たれる。 しかし、知らずにいて鞭打たれるようなことをした者は、打たれても少しで済む。すべて多く与えられた者は、多く求められ、多く任された者は、更に多く要求される。」
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P40
おまえたちは、この世の光であって、そうであるべきである。人間の中の神の光である私は、おまえたちを選んだ。これは私が父のもとに戻ってからおまえたちが、この世を続けて照らすためである。しかし、おまえたちが、消えた、それとも煙ばかり出している灯りであるならば、光を与えることができるだろうか。否、消えつつある小さい灯が、その煙りでもってするように、おまえたちは人の心にまだ残っている、そのかすかな光さえも暗くするだろう。神を知ろうとして使徒たちを求め、そして光の代りに煙しか見つからない人々は何とあわれなことか。そこにはつまずきと死しかない。しかし、ふさわしくない使徒は呪いと罰に値する。おまえたちの使命は偉大である。しかし同時に偉大な恐るべき任務(つとめ)、責任でもある! 多く与えられた人は、多く与える務めがあるのをよくよく心得よ。おまえたちには、知識と賜との最高のものが与えられている。おまえたちは、神のみ言葉である私に教えられ、そして“弟子”すなわち、神の子の継続者であるという賜を神から受ける。
ルカ17・7−10
あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。