真珠
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない(マタイ7・6)/
1.高価な真珠・・・主を承認すること
2.主と神的なものとにかかわる知識
3.仁慈または信仰の善
4.神的三一性
5.ほんとうの天来の知恵
6.ことばの裏にひそんでいる象徴
7.豚に真珠
8.清浄な霊魂
9.痛みと苦しみ
10.マリア
11.神の言葉
12.ルイザ・ピッカレータ
13.聖母から司祭へ
14.外套膜
15.グリニョン・ド・モンフォール
16.半円真珠
17.また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた
18.マリア・ワルトルタ
19.割れた真珠
聖書
箴言8・11
知恵は真珠にまさり
どのような財宝も比べることはできない。
箴言31・10
有能な妻を見いだすのは誰か。
真珠よりはるかに貴い妻を。
マタイ13・46
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
黙示録21・21
また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた。都の大通りは、透き通ったガラスのような純金であった。
1.高価な真珠・・・主を承認すること
マタイ13・46
また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。
黙示録講解840[9]
『真珠』は知識を、また真理そのものを意味しており、『大いなる価の真珠』は主を承認することを意味しており、『持っている凡てのものを売ること』は、自分自身の愛に属している凡ゆるものをわきにおくことを意味し、『それを買うこと』は、自分自身にかの神的真理を獲得することを意味している。
黙示録講解840[10]
同じようなことが以下によっても意味されている―
畠にかくれている財宝、それを或る人間が見出し、喜びのあまり行って、何であれその持っているものをことごとく売り、その畠を買った(マタイ13・44)。
その『財宝』は聖言の中にある神的真理を意味し、『畠』は教会とその教義を意味し、『何であれその持っていた物をことごとく売ってその畠を買う』ことは、ここでも前のように、自分自身のものであるものを傍にとりよけて、主の教会の中にある神的真理を自分自身のために取得することを意味している。
黙示録講解863イ
マタイ13・44−46
『畠にかくれていた宝物』と『真珠』とは天界と教会との真理を意味し、『一つの貴い真珠』は主を承認することを意味している。真理をそれが真理であるために愛する情愛は『喜びの中に行って、その持っている凡てのものを売り、その宝物がかくれている畑を買った人間』により意味され、また『行って、そのもっている凡てのものを売って、その貴い真珠を買った商人』により意味されている。
天界の秘義5886[4]
霊的な意義では『買うこと』は自己のために得ることであり、『売ること』は遠ざけることであるため、それでマタイ伝には、天界の王国は主により売り買いする者にたとえられている―
天国は畑にかくれた宝に似ている、人がそれを見つけると、かくしておき、喜んで去り、その持っているものを凡て売って、その畑を買うのである。さらに、天国は美しい真珠を探し求めている商人に似ている。かれは貴重な真珠を見つけると、去り、その持っているものを凡て売って、それを買ったのである(12・44−46)。
『天国』は人間のもとにある善と真理とを意味し、かくてそのもとにある天界を意味し、『畑』は善を意味し、『真珠』は真理を意味し、『買うこと』は善と真理を自分自身に得て、自分自身のものとすることを意味し、『その持っているものを凡て売る』は、かれが以前持っていたかれ自身のものを遠ざけることを、かくて悪と誤謬を遠ざけることを意味している、なぜならこれらは自分自身のものであるからである。
天界の秘義5886[5]
ルカ伝には―
イエスはその若いプリンスに言われた、あなたは尚一つの事を欠いている、あなたが持っているものをことごとく売って、貧しい者に分け与えなさい、さすればあなたは天に宝を得るでしょう。そして来て、わたしについてきなさい(18・22)。
内意ではこれらの言葉により、悪と誤謬以外のなにものでもないところの、かれ自身のものである凡てのものは遠ざけられねばならない、そしてそれが遠ざけられたときかれは『天の宝』である善と真理とを受けるにちがいないことが意味されているのである。
天界の秘義5886[6]
同書に以下のように言われていることも同様である―
あなたたちの財産を売り、施しなさい。古くならない財布を、つきない天の宝を作りなさい(ルカ12・33)。
たれでもこれらの言葉には他の意義が在ることを認めるのである。なぜならたれでもその財産を売ることは現在では自分自身を乞食にして、仁慈を行う能力をことごとく、それを売った後では、自分自身から剥奪してしまうからであり、また天界には貧しい者のみでなく、富んだ者もいるということは確立された真理であるからである。
啓示による黙示録解説727
天国は美しい真珠を求めている商人に似ている、彼は一つの貴重な真珠を見出したとき、行って、その持っていた物を凡て売って、それを買った(マタイ13・45、46)。
これにより主にかかわる知識が意味されている。
またあなたらの真珠を豚の前に投げるな、豚はその真珠をその足下にふみにじって、あなたらを引き裂くであろう(マタイ7・6)。
『豚』によりただ世の財宝を愛するのみで、聖言から発している善と真理とにかかわる知識であるところの霊的な財宝を愛さない者らが意味されている。『バビロン』により聖言から由来している善と真理との知識をことごとく斥けてしまったところのかの宗教的な信念が意味されているため、これについて以下のように言われている―
地の商人らはバビロンのために嘆き、悲しむであろう、たれ一人彼らの商品を、金銀の、宝石と真珠の商品を買わないからである(黙示録18・11、12)。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・8・2
イエズスを見出す者は、よい宝、しかり、あらゆるよいものにまさる善いものを見出すのである。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P192
幻滅を起させるはかない富を持つよりも、何でも乏しい方がよい。おまえたちも知恵深い宝石商のようにしなさい。彼らはあるところで非常にまれな真珠が見つかったので、自分たちの金庫にそれぞれ小さな宝物を保存するよりも、その不思議な真珠を手にするためにすべてを売ってしまう。
2.主と神的なものとにかかわる知識
啓示による黙示録解説 黙示録17・4
『真珠』は、彼らのもとに在る、聖言に属した善と真理との知識を意味している(727番)。
スウェーデンボルグ/黙示録講解/1044
「真珠」は善と真理とにかかわる知識を意味。「一つの貴重な真珠」(マタイ13・45、46)は主と主の神的なものとにかかわる知識を意味。
黙示録講解444イ(10)
聖言である神的真理は真理に対する霊的情愛の中にいる者たちのもとにのみ在り得るためである。
真理に対する霊的情愛は真理そのものを愛し、それを世の凡ゆる善にもまさって尊重することに在るのは、それを通して人間は永遠の生命を得るためであり、人間の中に永遠の生命が植えつけられる唯一の手段は真理であり、従って聖言である、なぜなら聖言を通して主は真理を教えられるからである。
真理に対する霊的情愛は ― それは世の凡ゆる善にもまさって真理を愛することであるが ― 主によりマタイ伝に以下のように記されている ―
天国は美しい真珠を尋ね求めている商人である人間に似ている。彼は非常に高価な真珠を見出したとき、その持っている凡ゆるものを売り払って、それを買ったのである(13・45,46)。
『真珠』は真理を意味している。(人間は善から発している諸真理 ― それは主から発しているが、その諸真理 ― 以外のいかような源泉からも永遠の生命を得ないことについては「新しいエルサレムの教義」24番の終わりを参照されたい。)
3.仁慈または信仰の善
天界の秘義2967[7]
『商人』は真理と善にかかわる知識を自分自身のために取得し、そこから理知と知恵を得る者であることはマタイ伝の主の御言葉から明白である―
天国は良い真珠を求めている商人のようなものである、かれは高価な真珠を一つ見出したとき、行って、その持っていたものをことごとく売って、それを買ったのである(13・45,46)。
『立派な真珠』とは仁慈であり、または信仰の善である。
天界の秘義2967[9]
この凡てから『商いをすること[取引きをすること]、すなわち買ったり売ったりすることにより意味されていることを今や認めることができよう、即ち、それは自分のために善と真理にかかわる知識を得て、その知識により善そのものを得ることである。これは主のみから発していることは同予言者に教えられている―
さあ、すべて渇く者よ、水に来なさい、銀を持たない者よ、来て、買い、食べなさい、しかり、来て、銀なしに、価なしに、ぶどう酒と乳とを買いなさい(イザヤ55・1、2)。
ここでは『買うこと』は自分のために得ることを意味し、『ぶどう酒』は霊的な真理を意味し(1071、1798番)、『乳』は霊的な善を意味している(2184番)。たれでもここの『水に来ること』は水に来ることではなく、『買うこと』は買うことではなく、『銀』は銀でなく、『ぶどう酒と乳』とはぶどう酒と乳ではなくて、内意でそれらのものに相応していると言われているものであることを認めることが出来よう、なぜなら聖言は神的なものであり、自然界と人間の感覚的な物から発しているその幾多の表現に神的な霊的なものと天的なものとが相応しているからである。こうした方法によってのみ聖言は神的なものを吹き込まれているのである。
4.神的三一性
真の基督教184
神的三一性は非常に高価な真珠のようなものである。しかし、それが三人格に分割されるときは、三部分に分かたれた真珠のようなものとなり、そのため回復しがたいまでに破壊されるのである。
5.本当の天来の知恵
キリストに倣いて/3・32・3
あなたにはまだ捨てるべきものがたくさんある。それをわたしのためにまったく棄て去らなければ、あなたはとうてい望むところに達しないだろう。
「わたしはあなたにすすめる、火で験(ため)された金を、富むために、わたしから買え。」(黙示録3・18)これこそすなわち地上の物事をことごとく足の下にふみにじる天来の知恵である。
世間の知恵や他人および自分を喜ばすことは、あとまわしにせよ。
[4]わたしはあなたに、「人々の間でとうとく価高いとされているものを投げうって、価少ないとされているものを買え」と言ったのである。
なんとなれば、ほんとうの天来の知恵はきわめてつまらない小さいものと思われ、ほとんど忘れられているように見えるからである。この知恵は自分を高しとせず、地上でほめられることを求めない。で、多くの人はこれを口先ではほめるが、その生活においては遠くこれから隔たっているのである。しかしこれこそは多くの人に隠されている「価の高い真珠」(マタイ13・46)なのである。
6.ことばの裏にひそんでいる象徴
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩上P293
イエズス「はい、ラビ。私は書いてあることばと、そのことばにひそんでいることばも読めます」
「と言うと?何を言いたいのか」
イエズス「私は、比喩と、ことばの裏にひそんでいる象徴も分る、という意味です。ちょうど、閉じている醜い貝の中に隠れている真珠を探るのと同じように」
7.豚に真珠
マタイ7・6
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P21
キリストの徳の貴重な真珠を見せるに価しなかったからだ。せっかくの見事な真珠を見せても、その値打ちは分からず、ただの石としか見なかっただろう。(中略)聞く人の理解力と霊的な純潔さと正義に応じて、言葉を用いるのが賢明である。いかがわしい人々に真理を告げても、相手には分からず、ただ、あざ笑うばかりだろう。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P135
勝利を得る者に、わたしは隠れたマンナを与えよう(黙示録2・17)
’43年8月19日
イエズスは言われる。
「いつものようにわたしの眼で最愛の弟子の言葉を見つめれば、『隠れたマンナ』もわたしの言葉であることが理解される。なぜなら、マンナは霊魂の父、兄、花婿であり、最も崇高な三つの愛である、あなたたちを愛するわたしたち三位一体の愛のすべての甘美さを集めているからだ。
さてわたしは、あなたたち皆にこのマンナを降らせそれで皆を養いたい。しかし『豚に真珠を、聖なるものを犬に投げてはならない』と言われている。ところがわたしの洗礼によって洗われ、わたしの血によって贖われた人々の多くは、豚よりも卑しく犬よりも劣る。
貴女は、それを得るに値しない古代ユダヤ人たちに、砂漠でマンナが腐ったいきさつを読んだ。彼らがそれに値しなかったのは、信仰に欠け、人間的な気遣いに明け暮れていたからだ。胃袋を満たすために与えられたマンナには配慮しても霊を養うために与えられるわたしの言葉には配慮しないということが、わたしに出来るだろうか?
だからわたしは、不信仰や、官能や、けちで自分本位の配慮への傾向と共に自分のより劣勢な部分に対して勝つ者たちにマンナを与えるのだ。わたしはあなたたちの霊魂を優しさと光で満たすわたしの言葉のマンナを与える。わたしは『その上には新しい名が刻まれている白い小石』、すなわちふさわしくない人々には黙して語られない一つの真理が啓示された白い小石を与える。それはあなたたちに永遠の生命の門を開き、鍵をあなたたちに与え、わたしの天の都の門に至る道へとあなたたちを伴う真理である。
わたしは道、真理、生命である。わたしを措いてその他には道も、真理も、生命もない。わたしに従うために、すべての障害に勝つ人はわたしの神殿の柱になるだろうし、人間を滅びに導く誘惑の恐ろしい時から救われたのちに、守護し実行した言葉によって、わたし自身の玉座に、父と子と聖霊と共に席を得るだろう」。
8.清浄な霊魂
聖ヴィアンネの精神P41
清浄な霊魂は美しい真珠のようなものです。真珠が海底の貝の中に隠れている間は、誰もそれを鑑賞しようなどと思いません。しかし、その真珠を明るみに取り出してごらんなさい。まばゆいばかりの輝き、人々の眼をみはらせるでしょう。清浄な霊魂も丁度この真珠のように、人々の眼をさけて隠れています。しかし、いつかは永遠の陽光の下に光り輝くでしょう。
マリア・ワルトルタ/復活/P111
その中心には砂の一粒がある。非常に細かいけれども地上的である。三位一体の海に生まれた真珠であるマリアには、罪の一粒もなく、また罪の邪欲の元もない。この世に第二の位格を運ぶためであるその真珠は、地上的な邪欲の種ではなく、永遠の愛の炎で煌き、その貝に深く一つに固まり集まっている。煌きはその真珠に万能を見つけたので、神的な流星の渦巻を生んだ。その渦巻は今、神の子らを自分に呼び寄せる。明星であるマリアの汚れなきその清さを模範にするように。
9.痛みと苦しみ
デボラ/生ける神よりあかされた英知/3巻上P144
そうだ、我が娘よ、泣くことはない。間もなくあなたの涙は、破壊することのできない貴重な真珠となり、私の手の中で宝石となるだろう。なぜならあなたは、多くの霊魂を救ったこととなり、それは私の父に捧げるために果たされた犠牲としての証拠となるからである。
我が被造物よ、あなたの創造主である私が迫害されたように、あなたも迫害を受ける。あなたが唾を吐きかけられ軽蔑されるとき、嘲笑を受け、鞭打たれるのは私である。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/2巻下P60
イエズス:「あなたの失敗にもかかわらず、あなたは私にとって非常に愛すべき者であることを覚えていなさい! あなたの苦しみは、私の目にとっては真珠である。それらは私の黄金の宮殿の門をあなたに開くのである!」
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻上P123
聖母:子どもたちよ、あなた方の小さな苦しみを私に捧げて下さい。私はそれを貴重な真珠へと変化させましょう。
デボラ/生ける神よりあかされた英知/1巻下P119
私はあなたたちを愛しており、あなたたちの悲惨を、貴重な真珠へと変容させる者である。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P277
真珠が形成される以前に、真珠貝は大きな苦しみを経なくてはならない。母貝は、苛立たしい寄生動物や虫、小魚、あるいは砂粒などの無機物の侵入によって内壁を痛みつけられ、他に逃れる術がないために、やむをえずこれら刺激物を中和して美しい珠となす。つまり、真珠は痛み苦しみの産物なのだが、それでもいい加減に扱っていると光沢が失われてしまう。表面の特殊な光効果によりその魅力も、油やインク等が混入すればこわされてしまう。
古代の墓には、真珠が遺骸と一緒に埋葬されていることがよくあるが、死体と同じく崩れて灰と化している。霊的生命もまた、真珠と同じく痛みと苦しみがなければ美しいものとならない。また、そのような美しい状態に達してさえ謙虚さと感謝の気持ちとともに愛の中で絶えず神とつながっていなければ、転落して輝きを失う危険がある。そこで、わたしたちは常に目を覚まして祈ることが必要である。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P193
その代わりに、その使命を従順に受け入れ、義務を喜び、全くのいけにえにするならば、それは非常にまれな真珠になる。“使命を、どんな留保もなく果すならば、それは燔祭、殉教、光栄である”それは涙、汗、血がしたたる王制の冠となる
10.マリア
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/上P55
「おお、父さま、いつ私を神殿に連れて行くの?」
「私の真珠よ、近いうちに。しかし、お前はお父さんから離れるのが辛くないのか?」
「ああ、辛いです! でも父さまは時々いらっしゃるでしょう・・・。それに痛まないなら、何の犠牲でしょう?」
「それなら、私たちのことを思い出してくれるだろうか」
「いつも。エンマヌエルのための祈りの次に、あなた方のために祈るつもりです。神さまが、あなたがたに喜びと長い長い命を与えて後、救い主となるお方が、あなたがたを天のエルサレムへ運んでくださるまで」
小さなマリアが、父親の腕の中に抱かれたままヴィジョンが終わる。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩下P270
主が弟子達に:
「マリアは天と創造の世界の花、天国の真珠、神の平和です。・・・そう、平和。私が平和の君なのは、御父の子、無限の平和と甘美な平和のマリアの子だからです。」
11.神の言葉
マリア・ヴァルトルタ『私に啓示された福音』3巻下P26/206・10
貧しい者たちは、神の言葉という真珠を心に蓄えます。彼らの唯一の宝です。
サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P226
4.ちょうど蜜蜂が花の甘い蜜を集め、その色も香りも損なわずに蜂蜜を作るように、祈りの人もまた、神の被造物のすべてから幸せと益のみを集め、しかも何一つそれを損なうことがない。蜜蜂があらゆる場所に咲く花から蜜をかき集め巣に貯えるように、神の人もまた被造物のあらゆる場所から善き思想と感覚を集めとり、創造主との聖交の中で真理の蜜を心に貯え、どのようなときも、どのような場所でも主とともに平和に与ることによって、神の甘い蜜を歓び味わう。
5.今は、五人の賢い乙女たちがしたように、聖霊という油を心の中に貯えるときである。でなければ、五人の愚かな乙女たちのように、悲しみと失望しかみないであろう。また、真の安息日のためにマナをかき集めるときである。そうしなければ、あなた方がみるものは悲しみと災いのみである。「そのように、あなた方の逃げるのが冬にならぬよう祈れ」とわたしはいった。これは逃げるのが、悩みの時または終わりの時にならぬように、という意味である。「安息日でないように」ともいった。これは永遠の安息の千年期のことである。このような機会はふたたび訪れることはないからだ。
12.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/2巻P132
霊魂の存在の空しさと愛。
1899年9月9日
イエズスは続けてやって来て、いつもまったく新たな様子でした。そのみ心からは三本に別れた根をもち私の心臓を横切る、一つの木の株が出ているように思えた。その木の株には私の心臓から出て、多くの花、果実、真珠、またはピカピカと光る宝石をいっぱいつけた多くの枝があった。我が愛するイエズスは、その木陰にいて、すっかり憩い楽しんでいた。またその木からは、多くの真珠が降ってきて、主の聖なる姿を美しく飾ってくれた。主はそんな状態で、私に話した。
「愛する娘よ、この木がもっている三本の根は、信仰、希望、そして愛です。この木の株は私から出て、あなたの心へと導かれている。それは霊魂が所有している善はみな私から来ているのを意味しています。
信仰、希望、愛のつぎの、この株の営みは、神から来る全ての善を知らせることです。霊魂は自分の存在の空しさだけを持ち、この空しさは私が望むように働くために、霊魂の中に入る自由を私に与える働きをするだけです。また別の空しい存在もあります。つまり、自分の自由意志で反抗する他の霊魂たちです。それはこうした知識もなく、株は枝も、果実も、他のよいものも生産することがない。花や果実、真珠や宝石などですっかり飾られたこの木の枝は、霊魂が所有するさまざまな徳を示す。このように美しい木にいのちを与えたのは誰でしょう。信仰、希望、愛を意味するその根は、全てを抱き、全ての徳を含有しています。だからそれは木の根もとにおかれて、それなしでは、他のどんな徳も生み出すことはできないのです。」
私は、花は徳を、果実は苦しみを、宝石と真珠は特別な神への愛のための苦しみを意味していることを理解した。それだからこそ、下に落ちる真珠は私たちの主のための、美しい装飾となっていくのです。
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/3巻P96
そのとき私は、イエスのおん胸に小さな真珠が光っているのを見ました。それは主のご人性の非常に輝く光を放っていました。私はその意味を分かりたいと思い、その真珠は何でしょうかとイエスにお尋ねしました。それは非常に小さいにもかかわらず、たくさんの光を放っていました。イエスはおっしゃいました。
「それはあなたの苦しみの純粋性である。これは小さくても、あなたが私の愛のためにのみ苦しみ、もし私が許したなら、あなたはもっと苦しむ用意があるので、それがこの豊かな光の原因となっている。我が娘よ、人が行動するときに抱く意向の純粋性とは非常に偉大なものなので、ただ私を喜ばせるためにだけ行動する人は、その人の働きすべてに光を送る以外のことをしない。正しい意向をもって働かない人は、たとえそれが善であろうとも、闇を広げるだけである。」
13.聖母から司祭へ
聖母から司祭へ1987.2.24
あなたたちの天の母と共に深い内的な生活をおくるこの個人的な召し出しの貴重な真珠を、大切に心の中にしまっていなさい。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P152
00・1・20 教会一致週間
私を知り理解するという宝は いつの日も地上を天国にする。 それは地上で 親切、義、誠実をもって治めること。 聖霊による恵みによってこの宝を得たなら あなたのうちに働く私の意思が分かるようになる。 私どもはかつてこう言った、「もし誰かが自慢したいなら こう自慢するがよい、 私を理解し 知っていると・・・」この宝は 真珠の値打ちを上回るもの。 ああ、次の宝は 親密さ、神なる私との親密さ。 燃え立つ愛によって 心から発する炎の火花が、私との親密さの最初の印となる、絶え間なく私を探し求める渇きの長い期間は 私がすべての霊魂に切に望む あの親密な一致へと近づく予兆となろう、こうして彼らは 私の甘美を味わいに訪れ そして、全霊を込めて、天国の悦びに入り あなた方にたいして注いだ私の慈悲を称えて 天国の我が天使たちの調べを歌う。
14.外套膜
天界の秘義8344
『モーセはイスラエルをスフ海から出発させた』は、彼らが地獄の領域を過ぎた後真理の神的なものの秩序に従って継続しているもの、を意味し『彼らはシュルの荒野へ行った』は、彼らが次に入れられた試練の状態を意味し、『彼は三日荒野の中を行ったが、水を見つけなかった』は、真理が枯渇し、遂には全く枯渇したことを意味し、『彼らはマラーに来た』は試練の状態を意味し、『その水は苦いために飲むことが出来なかった、それは苦かったからである』は、善の情愛が欠けていたため、真理は彼らには、不快なものに思われた、を意味し、『それで彼らはその名をマラーと呼んだ』は、この試練の状態と性質とを意味し、『民はモーセに向かってつぶやいて』は試練の苛烈さから来る悲哀を意味し、『言った、何を私らは飲もうか』は、真理はその真理に対して情愛が無いため、不快なものであったため、彼らはその真理に堪えることが出来なかった、を意味し、『それで彼はエホバに叫んだ』は悲哀から主に懇願することを意味し、『エホバは彼に一片の木を示された』は、主が善を吹き込まれた、を意味し、『で、彼はそれを水の中へ投げ入れた』は、その善をもって主は真理を感動された、そこから真理は快いものになった、を意味し、『そこにかれ〔エホバ〕はかれのために教令と審きとを定められた』は、その時啓示された秩序の真理を意味し、『そこにかれは彼らを試みられた』は、全般的に試練の方面で、を意味し、『かれは言われた』は教え諭すことを意味し、『もしあなたがあなたの神エホバの声を聞いて聞こうとするなら』は、主の戒めに対する信仰を意味し、『その目に正しいことを為そうとする』は、それに従った生活を意味し、『その戒めを聞こうとする』は、服従と教会の内的なものである信仰の善に従った生活とを意味し、『その教令をすべて守ろうとする』は教会の外的なものである信仰の真理に従った生活を意味し、『わたしがエジプト人に加えた病いは凡て、あなたには加えないであろう』は、分離した信仰と悪の生命の中にいる者らに属している悪から彼らは遠ざからなくてはならない、を意味し、『わたしはあなたを癒す者であるからである』は、主のみが悪から遠ざけられることを意味している。
天界の秘義8349
「が、彼らはその水は苦いために飲むことは出来なかった、それが苦かったためである」。これは、真理が彼らには、善の情愛が欠けていたため、不快なものに思われたことを意味していることは以下から明白である、即ち、『水を飲むこと』の意義は真理を受けて、これを善の下で適用する〔用いる〕ことであり(そのことについては、3069、5709番を参照)、『水』の意義は真理であり(そのことについては、すぐ前の8347番を参照)、『苦い』の意義は不快なものである(7854番)。ここから『彼らはその水は苦いために飲むことが出来なかった、それは苦かったためである』により、真理は彼らには不快なものに思われたことが意味されているのである。それが、善の情愛が欠けているために、を意味していることは、真理の歓喜はすべて善から発しているからである。真理の情愛はその起原を善から得ていることは、善は真理を愛し、真理は善を愛するためである、なぜならこの二つのものは結婚におけるように連結しているからである。たれでもその愛しており、目的としているものを教えられようと願っていることは知られている。善を愛する者、即ち、神を拝し、隣人に益を与えようと心から望んでいる者は、そこに導いて行くものを教えられることを、従って真理を教えられることを愛しており、このことから真理の情愛は善から来ていることを認めることが出来よう。
天界の秘義8349〔2〕
悪い生活を送りながらも、真理を教えられようと願っている者も実際いるが、しかしこうした者には真理の情愛は無く、単に自己の栄誉のために、即ち、名声、名誉、または利得のために、教会の教義的な事柄を確認する情愛があるに過ぎない。真理の純粋な情愛は世における生命のために、また永遠の生命のために真のものを知ろうと欲することである。これらの者が、その者のもとに真理が枯渇し始める時試練に入れられるのであり、その知っている真理が不快なものに思われる時は、更に試練に入れられるのである。この試練は、善との交流が妨害されるという事実からその起原を得ている。この交流はその人間がその人間自身のものの中へ入るや否や妨害されるのである、なぜなら彼はそのことにより自己への愛、または世への愛の悪の中へ沈むからである。彼がこの状態から抜け出ると、真理は快いものとなるのである。このことが以下にその苦い水がその中に投げ込まれた木によりいやされたことにより意味されているのである、なぜなら『木』により善が意味されているからである。
15.グリニョン・ド・モンフォール
グリニョン・ド・モンフォール/聖母マリアへのまことの信心/山下訳/P45
33.そればかりでなく、天上のものも、地上のものも、毎日、数えきれないほど、天使祝詞の中で、「また、ご胎の御子イエズスも祝されたもう」と、くり返しくり返し祈っています。イエズスは、いつの時代にもまして、特に今日、マリアのご胎の実、すなわちマリアの胎から生まれた御子なのです。だから、イエス・キリストは、すべての人にとって総括的にそうであるように、ご自分を所有している信者各自にとってはとりわけ、本当の意味で、マリアのご胎の実、マリアの作品なのです。
そんなわけで、もしも自分のたましいの中に形造られているイエズス・キリストを、所有している信者だったらだれでも、次のように大胆に言うことができるのです。「マリアさまに感謝いたします。わたしが所有しているイエズス・キリストは、マリアさまのご胎の実、マリアの作品です。マリアさまなしには、わたしはイエズス・キリストを、所有することができなかったはずです。」
さらに、聖パウロが、自分にあてはめて言った次のことばを、もっと真実な意味で、マリアにも、あてはめることができるのです。「わたしの子どもたちよ。あなたがたのうちにキリストが形造られるまで、わたしは再びあなたがたのために、産みの苦しみをしています。」ガラテヤ4・19)。すなわち、わたしはくる日もくる日も、神の子どもを産み続けています。わたしの子イエズス・キリストが、かれらのうちに形造られ、おとなの背たけに達するまで、産みの苦しみをしているのです(エペソ4・13)。
16.半円真珠
真の基督教151
主を信ずるとは単に彼を認識するのみではなく、彼の誡命を守ることである。何故なら、彼を単に認知することは、単に彼を部分的に理解することから生まれる思考の事柄であるが、しかし、彼の誡命を守ることは意志によって認識する事柄であるからである。人間の心は理解と意志から成り、理解は考え、意志は行動する。それ故、人間が単にその理解の思考によって主を認める時は、単にその心の半分を以て主に来るに過ぎない。しかし、主の誡命を守る時は、その全心を以て主に来るのであり、これが信ずることである。もしそうでないならば、人間はその心を分割し、皮相的に自らを強制して、上を凝視させ、他方その肉は下に傾き、かくて、彼は鷲のように天界と地獄の間を飛び交うのである。しかし、彼は上に向けられた凝視に従うのではなく、肉の快楽に従うが、これは彼が地獄に在るからである。それ故、彼は彼処に飛んで行き、彼処で己が肉欲に犠牲を捧げ、悪魔に神酒を注ぎ、その顔に愉悦をたたえ、その眼に火を閃かせ、光の天使の容姿を装うのである。主を認めはするが、その誡命を保たない者は死後このような悪鬼になる。
17.また、十二の門は十二の真珠であって、どの門もそれぞれ一個の真珠でできていた
啓示による黙示録解説下P393
黙示録21・21
『十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠で作られ』は、主を承認し、知ることにより、聖言から来ている真理と善との知識はことごとく一つに結合され、教会へ導き入れられる、を意味する(916番)。 『都の街路は純金であり、透明なガラスのようであった』は、かの教会とその教義との真理はことごとく、主から天界を経て発する光と共に流れ入って来る愛の善の形である、を意味する(917番)。
啓示による黙示録解説899
「十二の門を持ち」(黙示録21・11)は、人間を教会へ導入するところの、そこの真理と善とに関わる凡ゆる知識を意味している。『門』により聖言から発した真理と善とに関わる知識が意味されているのは、その知識により人間は教会へ導き入れられるためである。なぜならすぐ前に説明したように(898番)、門が中に在る『壁』は聖言を意味し、以下の記事には、『その十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠であった』と言われ(21節)、『真珠』により真理と善にかかわる知識が意味されるからである(727番)。人間は、門を通って都の中に入れられるように、その知識により教会へ道びき入れられることは明らかである。『十二』は凡てを意味することは、前に見ることが出来よう(348番)。
啓示による黙示録解説916
黙示録21章21節。「十二の門は十二の真珠であり、門の各々は一つの真珠から出来ていた」は、主を承認し、主を知ることは、聖言から発して、教会へ導き入れるところの、真理と善とに関わる凡ゆる知識を一つに連結していることを意味している。『十二の門』により、人間を教会へ導き入れるところの、真理と善に関わる知識の概括的なものが意味されている(899、900番)。『十二の真珠』によってもまた真理と善とに関わる知識の概括的なものが意味され(727番)、ここから『門は真珠であった』のであり、『門の各々が一つの真珠で出来ていた』理由は、『門』により、また『真珠』により意味されている真理と善とに関わる知識は凡て、それらの知識の容器である一つの知識に関連しているためであって、その一つの知識とは主に関わる知識[主を知ること]である。それは多くのものがその一つの知識を構成してはいるけれど、一つの知識と呼ばれている、なぜなら主に関わる知識は教義の凡ゆる物の、引いては教会の凡ゆる物の普遍的なものであり、そこから礼拝は凡てその生命と霊魂とを得ているからである、なぜなら主は天界と教会との凡てのものにおける、引いては礼拝の凡てのものにおける凡てのものであられるからである。主を承認し、主を知ることが聖言から発している真理と善とに関わる知識を一つに連結している理由は、霊的な真理の凡ては互に関連しているためであり、もし諸君がそれを信じようとされるなら、その諸真理の関連性は身体の凡ゆる部分、内臓、器官の関連性に似ているのであり、それで霊魂がこれらの凡ての物を内に含んでそれらが秩序づけられ、関連づけられているため、それらは一つのものとしてしか感じられないように、主も人間のもとで霊的な諸真理をことごとく、共に結合されておられるのである。主は、人間がそれによって教会へ入り、そこから天界へ入ることのできる門そのものであられることを、御自らヨハネ伝で教えられている―
わたしは戸である。もしたれでもわたしにより入るなら、その者は救われるであろう(ヨハネ10・9)。
主を承認し、主を知ることは真珠そのものであることが、マタイ伝の主の以下のお言葉により意味されている
天国は美しい真珠を求めている商人に似ている、彼は一つの貴い真珠を見つけたとき、行って、その持っているものを凡て売り、それを買った(マタイ13・45、46)。
『一つの貴い真珠』とは主を承認し、知ることである。
18.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6卷上P191/376・10
「真珠をイスラエルの豚には与えません。謙虚な人びとのところへ持って行きます。彼らは山の中や、川辺の貧しい村のあばらやに住んでいるとしても、誰かに教えてもらいさえすれば、信じること、愛することを学べます。粗悪な服の下に、魂があります。ところがここでは、聖職者の衣やエフォドや胸当てが汚い腐肉を覆い、殺人の武器を隠しています。彼らに言いなさい、私が真の神の名において彼らを糾弾し、新たなミカエルとして、彼らを楽園から追放すると。永遠に。彼らは神々になりたがったが、じつは悪魔です。彼らは裁かれるために死ぬ必要はありません。もうすでに裁かれています。容赦されません」。
真の基督教522
そこには主、仁慈、信仰は生命と意志と理解のように一を為し、それらが分割されるならば、各々は粉末になった真珠のように滅び、主は人間の中に在る仁慈と信仰であり、人間は主の中にある仁慈と信仰であることが示されている。