神聖なものを犬に与えてはならず、
また、真珠を豚に投げてはならない
マタイ7・6
1.聖書
2.スウェーデンボルグ
3.マリア・ワルトルタ
1.聖書
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
2.スウェーデンボルグ
天界の秘義7784
「犬」は凡ての者の中で最低の者を、または教会の中で価値の乏しい者を意味しており、同様に、教会の外側にいる者を、また教会の事柄について大いにまくしたてて話しはするが、ほとんどその事柄を理解はしていない者を意味し、その対立した意義では全く教会の外側にいて信仰の事柄を軽蔑している者らを意味している。
イエスはスロフェニキア人の、そのギリシャの女に言われた、子供のパンをとって、犬に投げてやることは良くない。しかし彼女は言った、もっともせす、主よ、でも子犬でさえその主人の食卓から落ちるパンくずを食べます。するとイエスは答えて、彼女に言われた、ああ、女よ、あなたの信仰は、偉大である、あなたの願っているように、あなたになりなさい。彼女の娘は癒された(マタイ15・26−28、マルコ7・27−28)。
ここでは『子供』により教会の中にいる者たちが意味され、『犬』によりその外にいる者たちが意味されているのである。『ラザロの腫れ物をなめた犬』によっても同じことが意味されているのである(ルカ16・21)。なぜならそこの『富んだ人間』により、その内意では、教会の中におり、従って真理と善との知識である霊的な富に満ち溢れている者が意味されているからである。『犬』は以下の記事では、教会の事柄については大いにまくしたてて話しはするが、殆ど(何事も)理解していないところの、、教会の内で最低の位置にいる者らを意味し、その対立した意義では、信仰の事柄を軽蔑している者らを意味しているのである―
その物見は凡て盲目であり、知りはしない、彼らは凡て唖の犬であって、吠えることは出来ない、眺め、臥し、眠ることを愛している(イザヤ56・10).
彼らは犬のように騒がしく、都の中を歩きまわっている、彼らはその口から吐き出し、その唇には剣がある(詩篇59・6、7、14)。
あなたの足で血を踏み、犬の舌が・・・(詩篇68・23)。
聖いものを犬に与えてはならない、真珠を豚の前に投げてはならない、恐らく彼らはそれを足で踏みにじって、向きかえり、あなたらを引き裂きもするであろう(マタイ7・6)。
こうした理由から、凡ゆる物の中でも最も卑しいものであって、投げ棄てられねばならなかったものは、『死んだ犬』により意味されているのである(サムエル前24・14、サムエル後9・8、16・9)。
啓示による黙示録解説727
またあなたらの真珠を豚の前に投げるな、豚はその真珠をその足下にふみにじって、あなたらを引き裂くであろう(マタイ7・6)。
『豚』によりただ世の財宝を愛するのみで、聖言から発している善と真理とにかかわる知識であるところの霊的な財宝を愛さない者らが意味されている。『バビロン』により聖言から由来している善と真理との知識をことごとく斥けてしまったところのかの宗教的な信念が意味されているため、これについて以下のように言われている―
地の商人らはバビロンのために嘆き、悲しむであろう、たれ一人彼らの商品を、金銀の、宝石と真珠の商品を買わないからである(黙示録18・11、12)。
3.マリア・ワルトルタ
マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6卷上P191/376・10
「真珠をイスラエルの豚には与えません。謙虚な人びとのところへ持って行きます。彼らは山の中や、川辺の貧しい村のあばらやに住んでいるとしても、誰かに教えてもらいさえすれば、信じること、愛することを学べます。粗悪な服の下に、魂があります。ところがここでは、聖職者の衣やエフォドや胸当てが汚い腐肉を覆い、殺人の武器を隠しています。彼らに言いなさい、私が真の神の名において彼らを糾弾し、新たなミカエルとして、彼らを楽園から追放すると。永遠に。彼らは神々になりたがったが、じつは悪魔です。彼らは裁かれるために死ぬ必要はありません。もうすでに裁かれています。容赦されません」。
マリア・ワルトルタ/受難の前日/P21
キリストの徳の貴重な真珠を見せるに価しなかったからだ。せっかくの見事な真珠を見せても、その値打ちは分からず、ただの石としか見なかっただろう。(中略)聞く人の理解力と霊的な純潔さと正義に応じて、言葉を用いるのが賢明である。いかがわしい人々に真理を告げても、相手には分からず、ただ、あざ笑うばかりだろう。
マリア・ヴァルトルタ/「手記」抜粋/天使館/P135
勝利を得る者に、わたしは隠れたマンナを与えよう(黙示録2・17)
’43年8月19日
イエズスは言われる。
「いつものようにわたしの眼で最愛の弟子の言葉を見つめれば、『隠れたマンナ』もわたしの言葉であることが理解される。なぜなら、マンナは霊魂の父、兄、花婿であり、最も崇高な三つの愛である、あなたたちを愛するわたしたち三位一体の愛のすべての甘美さを集めているからだ。
さてわたしは、あなたたち皆にこのマンナを降らせそれで皆を養いたい。しかし『豚に真珠を、聖なるものを犬に投げてはならない』と言われている。ところがわたしの洗礼によって洗われ、わたしの血によって贖われた人々の多くは、豚よりも卑しく犬よりも劣る。
貴女は、それを得るに値しない古代ユダヤ人たちに、砂漠でマンナが腐ったいきさつを読んだ。彼らがそれに値しなかったのは、信仰に欠け、人間的な気遣いに明け暮れていたからだ。胃袋を満たすために与えられたマンナには配慮しても霊を養うために与えられるわたしの言葉には配慮しないということが、わたしに出来るだろうか?
だからわたしは、不信仰や、官能や、けちで自分本位の配慮への傾向と共に自分のより劣勢な部分に対して勝つ者たちにマンナを与えるのだ。わたしはあなたたちの霊魂を優しさと光で満たすわたしの言葉のマンナを与える。わたしは『その上には新しい名が刻まれている白い小石』、すなわちふさわしくない人々には黙して語られない一つの真理が啓示された白い小石を与える。それはあなたたちに永遠の生命の門を開き、鍵をあなたたちに与え、わたしの天の都の門に至る道へとあなたたちを伴う真理である。
わたしは道、真理、生命である。わたしを措いてその他には道も、真理も、生命もない。わたしに従うために、すべての障害に勝つ人はわたしの神殿の柱になるだろうし、人間を滅びに導く誘惑の恐ろしい時から救われたのちに、守護し実行した言葉によって、わたし自身の玉座に、父と子と聖霊と共に席を得るだろう」。